[行政手続法15条・聴聞の通知]法理編 こはるノート
夕方の片桐行政書士事務所は、昼間より少しだけ法律が似合います。
電話が減る。
来客が途切れる。
西日が書棚の背表紙を赤く染める。
そして机の上には、水野初江さんが置いていったサンドイッチの空き箱。
「……もうない」
「食った」
相馬先輩が言いました。
「全部ですか?」
「最後の一個だけ」
「最後の一個が一番重要なんですよ」
「知らん」
「私、昨日から狙ってたんですけど」
「食い物に予約制度はない」
「先輩の中では、占有した者が所有権を取得するんですか」
「何の話だ」
「悔しさを法律用語に変換してます」
私は空き箱を恨めしく睨んでから、ノートを開きました。
表紙をめくる。
昨日書いた題名。
――聴聞の通知。
その横には、私だけが分かる小さな注意書き。
※昭和六十三年現在、行政手続法はまだない。
ここ重要です。
未来の私は知っています。
行政手続法は平成五年に制定され、平成六年十月一日に施行される。
だから今、この昭和六十三年の事務所で、
「行政手続法十五条によればですね」
などと言い出したら完全におかしい。
未来人どころか、法令公布前予言者です。
たぶん資格試験より先に、別の意味で新聞に載ります。
「で」
相馬先輩が私のノートを覗き込みました。
「昨日から何をそんなに書きたがってる」
「昨日の呼出しです」
「水野さんの?」
「はい」
私はページの一番上に書きました。
聴聞。
「その言葉、昨日も頭の中でぐるぐるしてました」
「知ってるのか」
「未来では」
「また未来か」
「気にしないでください」
「無理だろ」
奥で帳簿を閉じた片桐所長が、こちらを見ました。
「何を整理したい」
「昨日の件です。水野さんに届いた最初の紙」
私は思い出します。
営業に関する重要な事項についてお話ししたいことがありますので、市役所へ来てください。
日時と場所。
それだけ。
結局、その裏では営業許可取消しまで検討されていました。
「未来の制度だと、ああいう重い不利益処分の前に聴聞をする場合、通知内容がかなり細かく決められるんです」
「どんなふうに」
「四つあります」
私はノートに番号を書きました。
一。
予定される不利益処分の内容と、根拠となる法令の条項。
二。
不利益処分の原因となる事実。
三。
聴聞の期日と場所。
四。
聴聞に関する事務を所掌する組織の名称と所在地。
相馬先輩が顔をしかめました。
「長い」
「四つです」
「十分長い」
「試験でそう言ったら落ちます」
「俺は受けん」
「強い」
私は一番目を指さしました。
「まず、何をされる予定なのか」
「水野さんなら、営業許可の取消しか」
「そうです。それと、何の法律や規定に基づくのか」
昨日。
最初の通知には、それが何一つ書いてありませんでした。
ただ、
営業に関する重要な事項。
それだけ。
これでは、
注意なのか。
指導なのか。
営業停止なのか。
許可取消しなのか。
呼ばれる側には分かりません。
「処分内容を書かせる理由は分かるな」
所長が言いました。
「準備のため、ですよね」
「それだけか」
「それだけ……?」
私は少し考えます。
相馬先輩が横から言いました。
「自分が何をされるか分からんのに、反論しようがねえだろ」
「あ」
そういうことです。
反論の対象そのものが見えない。
許可取消しに対する反論と、
一週間の営業停止に対する反論では、
重要性も準備も違います。
「それに根拠条文まで書く」
私は言いました。
「役所が何となく駄目だと言ってるんじゃなくて、“この法令のこの条項に基づいて処分を考えています”と特定する」
「根拠を明らかにするわけだな」
「はい」
私は二番目へ進みました。
「次が、処分の原因となる事実」
「昨日なら冷蔵庫の件だな」
相馬先輩が言います。
「そうです」
ただ、
冷蔵庫の管理に問題がありました。
だけでは弱い。
いつ。
どの状態で。
何が問題だったのか。
そこが具体的になって初めて、水野さんは、
その日は冷蔵庫が故障していた。
翌朝には修理した。
修理伝票がある。
その後の温度記録もある。
そう説明できます。
「ここ、昨日すごく実感しました」
私はペンを止めました。
「何を問題にされてるのか分からなかったら、証拠を探せない」
「当たり前だ」
「テキストだと当たり前に見えないんです」
「お前の勉強法の問題じゃねえか」
「そうかもしれませんけど」
でも、本当にそうなんです。
教材で、
処分原因事実を通知する。
とだけ読めば、一行です。
覚える。
丸をつける。
次へ進む。
でも昨日、水野さんの修理伝票が出てきた瞬間、
その一行が急に立体になりました。
原因事実を知らされる。
だから、
反論材料を探せる。
説明できる。
認定が変わるかもしれない。
手続の言葉が、人の商売につながる。
「三番目」
私は書きます。
聴聞の期日と場所。
「これは普通ですね」
「昨日の紙にもあった」
「はい。ここだけはありました」
いつ行くのか。
どこへ行くのか。
それが分からなければ、そもそも聴聞に参加できません。
「で、四番目」
私は少し指を止めました。
聴聞に関する事務を所掌する組織の名称と所在地。
「地味ですよね」
「一番地味だな」
「でも必要」
「なぜ」
相馬先輩に聞かれて、私は昨日を思い返しました。
「問い合わせ先が分からないから」
「そうだな」
「書面で意見を出せるか聞きたい。資料を見たい。日程変更を相談したい。そういうとき、どこの部署が担当か分からないと困る」
私は書き加えます。
処分庁の名前だけではなく、聴聞事務を扱う組織の名称と所在地。
「試験だと、ここが抜かれたり別の言葉に置き換えられたりしそうです」
「試験の話になると急に元気だな」
「怖いからです」
「何が」
「選択肢が」
行政法の選択肢は、しれっと一語変えてきます。
期日だけ書けばよい。
場所だけでよい。
担当者氏名を書かなければならない。
電話番号を必ず記載する。
そうやって、ありそうな顔をした偽物が混ざる。
「所長」
「何だ」
「今の未来法だと、聴聞通知は口頭でもいいんでしたっけ」
所長は少し眉を上げました。
「未来法の話を俺に聞くな」
「そうでした」
危ない。
設定崩壊です。
私は自分で答えました。
「書面です」
そこも大事。
行政庁は、
聴聞を行うべき期日までに相当な期間をおいて、
不利益処分の名あて人となるべき者に対して、
書面で通知する。
相馬先輩が言いました。
「相当な期間って何日だ」
「固定されてません」
「一週間?」
「必ず一週間って決まりじゃないです」
「三日?」
「それも一律じゃないです」
「面倒だな」
「行政法なので」
「便利な言葉にするな」
相当な期間。
ここは数字暗記ではありません。
処分内容や事件の複雑さによって、反論準備に必要な期間は変わる。
「昨日の水野さんなら」
私は言いました。
「冷蔵庫の記録を探して、修理伝票を出して、場合によっては修理業者にも確認して。そういう準備時間が要ります」
「前日に通知されたら厳しいな」
「ですよね」
私はノートの余白に、
聴聞は「来させる手続」ではなく「準備させる手続」。
と書きました。
「まだあるんだろ」
相馬先輩が言います。
「あります」
「嫌そうな顔で言うな」
「二項です」
私はノートに線を引きました。
ここ。
教材でも、たぶん試験ではむしろこっちが大事です。
通知書における教示。
「教示?」
「教えることです」
「何を」
「二つ」
私は一本目の指を立てました。
「聴聞の期日に出頭して、意見を述べたり、証拠書類や証拠物を提出できること」
「それは普通だろ」
「さらに」
私は続けます。
「出頭しなくても、陳述書と証拠書類などを提出できる」
相馬先輩が少し考えました。
「昨日、水野さんに聞いたやつか」
「そうです」
当日来られなかったら終わりなのか。
書面で出せるのか。
昨日の市役所は、
別に禁止していません。
という反応でした。
未来の制度では、そこが一歩進む。
禁止してない、ではない。
できますよ、と知らせなければならない。
「これ、結構大きいですね」
「何が」
「権利って、知らないと使えないので」
私は言いました。
陳述書を出せる。
証拠を提出できる。
でも本人が知らない。
なら実際には、
出頭できない人は、
何も言えないと思ってしまう。
法律上可能であることと、
本人が実際に使えることは違います。
だから教示する。
「昨日の水野さんが、もし入院してたら」
私は想像しました。
呼出しの日に行けない。
でも、
陳述書。
温度記録。
修理伝票。
それを出せると知っていれば、
反論の機会は残ります。
「出頭しないとアウト、じゃないんですね」
「未来の制度では、な」
相馬先輩が言います。
「はい」
私は二本目の指を立てました。
「そして、もう一つ」
聴聞が終結するまでの間。
不利益処分の原因となる事実を証する資料の閲覧を求めることができる。
相馬先輩が口をへの字にしました。
「長い」
「内容は大事です」
「つまり?」
「役所が、“あなたはこういう違反をした”って言ってるなら、その判断の材料になってる資料を見せてください、と求められる」
「昨日の検査記録みたいなものか」
「そうです」
ここも昨日、そのままでした。
役所は、
検査記録を持っている。
本人は、
役所が何を見て問題としたか分からない。
それでは反論が難しい。
「でも」
私は少し慎重になりました。
「閲覧できるのは何でも全部、って意味じゃないです」
「だろうな」
「処分原因となる事実を証する資料」
そこがポイントです。
役所にある全資料を無制限に見られる。
ではありません。
「それと時期」
「終結まで?」
「はい。聴聞が終結する時までの間」
私は丸で囲みました。
ここ、数字じゃないけど試験に出しやすい。
聴聞開始前だけ。
ではない。
処分後までいつでも。
でもない。
終結するまで。
「試験問題って、こういう時期をずらしてきますからね」
「敵みたいに言うな」
「敵です」
「資格試験だろ」
「受験生の気持ちを知らない人はそう言います」
所長が新聞を畳みました。
「こはる」
「はい」
「今の二つは、最初の四つと何が違う」
問われて、私は少し考えました。
「最初の四つは、通知する中身」
「うん」
「今の二つは、本人が手続の中で何ができるかを教える」
「そうだ」
なるほど。
私は見出しを分けました。
通知事項。
処分内容。
根拠条項。
原因事実。
期日・場所。
担当組織。
教示事項。
出頭しなくても陳述書・証拠を出せる。
処分原因事実を証する資料の閲覧を求められる。
「ここ、混ぜて出されると嫌ですね」
「じゃあ混ぜられても分かるようにしろ」
所長。
正論が冷たい。
でも、その通りです。
私は昨日の出来事に置き換えてみました。
水野さんへ知らせるべきだったこと。
営業許可取消しを予定している。
根拠となる法令条項。
検査で認められた具体的な問題事実。
聴聞をする日時、場所。
聴聞事務を扱う部署。
そして、
当日出られなくても、陳述書や証拠資料を出せる。
処分原因事実を裏づける資料の閲覧を求められる。
「昨日の役所が最終的に作った紙、かなり近かったんですね」
「お前がそうさせたんだろ」
「未来の条文をうっかり輸入しました」
「何だそれ」
「独り言です」
でも、本当にそうです。
法律がまだない時代に、
未来の制度の考え方を一部だけ先取りした。
不思議な気分です。
「で」
相馬先輩がノートを指で叩きました。
「教材にはまだあるんだろ」
「あります」
私は少し表情を変えました。
「所在不明の場合」
「本人がどこにいるか分からない?」
「はい」
たとえば。
処分しようとしている相手に通知したい。
でも住所が分からない。
転居先も不明。
書面を送れない。
「その場合はどうする」
「掲示です」
「役所に貼る?」
「はい」
私はノートに書きました。
不利益処分の名あて人となるべき者の所在が判明しない場合。
行政庁は、
その者の氏名。
聴聞の期日と場所。
聴聞事務を所掌する組織の名称と所在地。
そして、
必要な通知事項を記載した書面をいつでも本人に交付する旨。
それを行政庁の事務所の掲示場に掲示する。
相馬先輩が眉を寄せました。
「本人いないのに役所に貼るのか」
「そうです」
「見るのか、それ」
「見ない可能性も高いです」
「じゃあ意味ないじゃねえか」
「そこで、みなしです」
「嫌な予感するな」
私は数字を書きました。
二週間。
「掲示を始めた日から二週間を経過したとき、通知が本人に到達したものとみなされます」
「本人見てなくても?」
「見てなくても」
「強いな」
「強いです」
ここ。
法律の怖さと必要性が両方出ます。
行政も、本人がどこにいるか永遠に分からないから何もできません、では困る。
だから一定の手続を踏めば、
実際に読んだかどうかに関係なく、
到達したものとして扱う。
「みなす、ですか」
「そうです」
「推定じゃないのか」
相馬先輩が聞きました。
私はちょっと驚きました。
「先輩、急に試験っぽい」
「言葉くらい知ってる」
「みなす、です」
「じゃあ本人が、“見てませんでした”って言っても?」
「原則として、そこをひっくり返すための話にはならない」
「なるほど」
私は二週間を大きく囲みました。
「ここ、数字で出しやすいですね」
「一週間じゃない」
「はい」
「十日でもない」
「はい」
「二週間」
「そうです」
「お前今、俺に覚えさせようとしてるだろ」
「人に説明すると自分が覚えるので」
「利用するな」
でも、ありがたい。
こうやって口にすると、頭に残ります。
「ただし」
私は言いました。
「所在不明だからって、いきなり雑に掲示で済ませていい、という感覚ではないと思うんです」
「どういう意味だ」
「前提は、所在が判明しない場合です」
住所が普通に分かっている。
連絡先も分かっている。
それなのに面倒だから掲示場に貼った。
では駄目でしょう。
「本人がどこにいるか分からないから、例外的に掲示で代える」
「そういう位置づけか」
「はい」
私は少し考えてから書きました。
所在不明 → 掲示。
掲示開始から二週間 → 到達擬制。
相馬先輩が覗き込みます。
「擬制?」
「“みなす”です」
「最初からそう書け」
「試験勉強っぽくしたかったんです」
「読みにくい」
私は素直に、
到達したものとみなす。
と書き直しました。
所長が言いました。
「で、昨日の件に戻せ」
「はい」
そうでした。
法理編は教科書を読む時間ではない。
昨日の事件を理解する時間です。
水野さんは所在不明ではありません。
店も住所も分かっている。
だから掲示による通知の問題ではない。
問題だったのは、
本人に書面は届いた。
でも内容が足りなかった。
という点です。
「未来法で考えると」
私は言いました。
「最初の呼出状はかなり問題がある」
「何が抜けていた」
所長が聞きます。
「処分内容」
「うん」
「根拠条項」
「うん」
「原因事実」
「うん」
「担当組織は一応、生活衛生課とは書いてあった。でも所在地までは不十分」
「期日と場所は」
「ありました」
「教示は」
「ほぼゼロです」
出頭に代えて陳述書や証拠を出せる。
資料閲覧を求められる。
それを知らせていない。
「だから、水野さんは最初」
私は思い出します。
何をされるか分からない。
何を準備すればいいか分からない。
ただ怖い。
「全部、つながってますね」
私は言いました。
「通知事項と教示って、暗記リストじゃない」
「今さらか」
「今さらです」
でも、そこが大事です。
処分内容を知らせる。
何をされるか分かる。
根拠条項を知らせる。
何に基づいているか分かる。
原因事実を知らせる。
何を否定・説明すればいいか分かる。
期日・場所を知らせる。
参加できる。
担当組織を知らせる。
問い合わせられる。
陳述書や証拠を出せると教える。
出頭できなくても防御できる。
資料閲覧を教える。
役所側の認定材料を確認して反論できる。
「全部、反論準備の部品なんですね」
所長が頷きました。
「そう考えれば忘れにくい」
「もっと早くそう教えてほしかったです」
「誰に言ってる」
「未来の教材です」
「知らん」
相馬先輩が笑いました。
「お前、本当に未来だ何だとうるさいな」
「だって今、すごく変な位置にいるんですよ」
「何が」
「制度ができる前の問題を見ながら、制度ができた後の答えを知ってる」
昨日まで、
行政手続法十五条。
そう書かれたページを見ていました。
今は違います。
私は、
なぜその条文が必要なのか、
その前の景色を見ている。
役所による。
担当者による。
慣例による。
書くかどうかもばらばら。
教えるかどうかもばらばら。
資料を見せるかどうかもばらばら。
水野さんのような人が、
何の話か分からないまま呼ばれる。
そこに、
最低限これだけは知らせなさい。
こういうことができますと教えなさい。
所在不明なら、この方法で通知したものと扱います。
そうやって全国共通の手続を置く。
「法律になるって」
私は呟きました。
「人による部分を減らすことでもあるんですね」
所長がこちらを見ました。
「そういう面はある」
短い返事でした。
でも、それで十分です。
制度は冷たい。
一律です。
個々の事情を全部くみ取ってくれるわけじゃない。
でも一律だからこそ、
担当者が親切なら教えてもらえる。
担当者が面倒なら教えてもらえない。
そんな差を減らせる。
私は少しだけ、このシリーズの核みたいなものを感じました。
制度の冷たさが、人を救う。
昨日の水野さんは、
役所の親切を求めていたわけではありません。
何をされるか。
何が問題なのか。
どう反論できるのか。
それが分かればよかった。
「試験での引っかけ、やります?」
私が言うと、相馬先輩が嫌そうな顔をしました。
「俺を巻き込むな」
「復習になります」
「お前のだろ」
「では第一問」
「始めるな」
「聴聞通知は、口頭でも足りる」
「×」
即答。
「やりますね」
「昨日から聞いてるからな」
「書面です」
私は丸をつけました。
「第二問。通知事項には、予定される不利益処分の内容と根拠法令の条項が含まれる」
「○」
「第三問。不利益処分の原因事実は、聴聞当日に初めて説明すればよい」
「×」
「いいですね」
「腹立つな、この授業」
「第四問。通知書では、出頭しなくても陳述書や証拠書類を提出できる旨を教示する」
「○」
「第五問。資料閲覧を求められるのは、聴聞開始前まで」
相馬先輩が少し止まりました。
「……×。終わるまで」
「正解。聴聞が終結するまでです」
「何か賞品ないのか」
「サンドイッチ食べたでしょう」
「あれは報酬じゃない」
「十分です」
「次」
「乗ってきましたね」
「早く終われ」
「第六問。所在不明の場合、掲示開始から一週間で通知到達とみなされる」
「×。二週間」
「完璧」
私は拍手しました。
相馬先輩がものすごく嫌そうな顔をしました。
「俺、何でこんなこと覚えてるんだ」
「行政書士試験、受けます?」
「受けねえ」
「受かりそうなのに」
「お前が先に受かれ」
痛いところを。
私は咳払いしました。
「最後。所在不明の場合、役所の掲示場に通知内容そのものを全部貼り出さなければならない」
相馬先輩が眉をひそめます。
「違うのか」
「ここ、細かいです」
私は条文の形を思い出しました。
掲示するのは、
本人の氏名。
聴聞の期日と場所。
聴聞事務を所掌する組織の名称と所在地。
そして、
行政庁が必要な通知事項を記載した書面をいつでも本人に交付する旨。
「つまり」
私は言いました。
「処分原因事実の細かい中身まで掲示板に全部さらす、という形ではない」
「ああ」
「“必要事項を書いた書面を、いつでもあなたに渡します”と掲示する」
「なるほど」
「プライバシー的にもその方が自然ですよね」
私はノートに補足しました。
ここは細かいけれど、条文問題では狙われてもおかしくありません。
「もう一つ大事なのは」
私は言いました。
「聴聞通知の相手は、“不利益処分の名あて人となるべき者”です」
「まだ処分前だからか」
「そうです」
処分済みの人ではない。
これから不利益処分の名あて人になる予定の人。
水野さんなら、
営業許可取消しの名あて人となるべき本人。
「“名あて人となるべき者”って、読みにくいですけどね」
「役所の文章だな」
「未来でもそのままです」
「進歩してねえな」
「そこは否定しづらいです」
私はノートを一度閉じかけて、また開きました。
「所長」
「何だ」
「聴聞の通知さえ完璧なら、その後の処分は適法なんですか」
「そんなわけないだろ」
相馬先輩が先に答えました。
「ですよね」
所長も頷きます。
「通知が適切でも、処分の根拠がなければ駄目だ。事実認定が誤っていても駄目だ」
「手続と中身は別」
「そうだ」
ここも大事です。
昨日、水野さんの件では、
通知が雑だった。
でも、
役所の衛生上の指摘が全部間違いだったわけではない。
水野さん側にも改善すべき点はあった。
逆に、
通知が丁寧だからといって、
処分内容まで自動的に正しいことにはならない。
「手続を守れば、役所が勝つわけでもない」
「本人が勝つわけでもない」
「はい」
手続は勝敗を決めるものではない。
正しく争える状態を作るもの。
昨日、自分でそう言った気がします。
私はノートの最後に線を引きました。
そして、一行の覚え書きを書きます。
聴聞の通知は、「来てください」の紙ではない。反論するための地図を渡す紙。
相馬先輩が横から読みました。
「今日はまともだな」
「毎回それ言いません?」
「毎回、普段がまともじゃないからな」
「ひどい」
所長が、私のノートをちらりと見ました。
「もう一行足せ」
「何をですか」
「昨日の水野さんの言葉だ」
私は少し考えました。
最初は、
ただ怖かった。
何が怖いか分からなかった。
後になって、
何も書いてなかったから怖かったんだね。
そう言っていました。
私はその下に書きました。
何をされるか分かれば、人は準備できる。準備できれば、黙って座るしかない人ではなくなる。
所長が頷きました。
「それでいい」
窓の外は、もう暗くなっていました。
昭和六十三年の町。
まだ行政手続法はありません。
聴聞通知の四項目も、
陳述書の教示も、
資料閲覧の教示も、
所在不明者への二週間のみなし到達も、
今の私たちの目の前には法律として並んでいない。
でも。
その法律が後に必要になる理由は、
もう町のあちこちにあります。
何の話か分からない呼出し。
理由は当日説明します。
資料を出せるかどうかは担当次第。
役所が持つ資料を見られるかどうかも曖昧。
そういう小さな不便。
小さな不安。
小さな不公平。
その一つ一つが積み重なって、
いつか条文になる。
昨日まで私は、
行政手続法十五条を、
四つ覚えて、
二つ覚えて、
二週間。
そんな暗記単元だと思っていました。
今は違います。
四つは、
反論の対象を見せるため。
二つは、
反論の方法を知らせるため。
二週間は、
所在不明でも行政手続を止めないため。
数字や文言の後ろに、人がいる。
人がいるから、条文になる。
私はノートを閉じました。
「帰りますか」
相馬先輩が立ち上がります。
「おう」
「先輩」
「何だ」
「明日カトレア行きません?」
「何しに」
「サンドイッチ」
「また食うのか」
「今日は最後の一個を奪われたので」
「奪ってない。先に取った」
「では、その取得行為について聴聞を実施します」
「嫌だ」
「出頭しなくても陳述書を提出できますよ」
「出さねえ」
「証拠書類も」
「ねえよ」
「私には空箱があります」
「それ何の証拠だ」
「被害です」
所長が事務所の電気を消しました。
「閉めるぞ」
「所長、聴聞の期日は?」
「今終結した」
「早い!」
「資料閲覧は?」
「空箱を見ろ」
「もう見ました!」
相馬先輩が笑っています。
救済されない。
まったく救済されない。
でも今日の私は、
少なくとも知っています。
何をされるのか。
根拠は何か。
何が原因なのか。
いつ、どこで話すのか。
そして、
自分にどんな反論の方法があるのか。
それを知らされることは、
形式ではありません。
人が制度の前で、
黙ったまま座らされないための最低限の準備です。
制度の言葉は冷たい。
けれど、
冷たいからこそ、
誰にでも同じ項目を渡せる。
親切な担当者に当たった人だけが得をするのではなく、
誰であっても、
反論の地図を持って席につける。
行政手続法十五条。
未来の法律。
でも、その必要性だけは、
もう昭和六十三年のこの町で、
ちゃんと始まっていました。
以下に私の作品へのリンク貼ってます。是非、手に取って頂ければと思います。また、ついでに評価ブックマーク頂ければ幸いです。




