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こはる行政書士見習帖 〜 昭和に転生して許認可に振り回されると試験知識が骨身にしみます 〜  作者: 条文小説
〈行政法 配点112点/300点〉 行政手続法

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61/270

[行政手続法15条・聴聞の通知]現場編 「来週、市役所に来てください。理由はそのとき話します」の罠。処分の中身を伏せる役所と、反論の準備を奪われる店主

挿絵(By みてみん)

 呼び出すなら、せめて用件くらい書いてほしい。


 歯医者だって、「来週来てください。何をするかは当日のお楽しみです」とは言いません。


 言われたら怖い。


 とても怖い。


 まして、その呼び出しの先で、自分の商売を続けられるかどうかが決まるなら、なおさらです。


 昭和六十三年。


 片桐行政書士事務所の朝は、一本の電話から始まりました。


「はい、片桐行政書士事務所です」


『あの……市役所から紙が来たんですけど』


 受話器の向こうから聞こえたのは、細い女性の声でした。


「どのような紙でしょうか」


『来週の火曜日、午後二時に市役所へ来るようにって。それだけなんです』


「それだけ?」


『はい』


 嫌な予感がしました。


「何の件かは?」


『書いてありません』


「担当課は?」


『生活衛生課です』


「何か心当たりはありますか」


 電話の向こうで、少し間が空きました。


『……たぶん、店のことです』


 その声だけで、さっきまで眠っていた私の頭が一気に起きます。


 朝比奈こはる。


 現代で行政書士試験の勉強をしていたはずが、なぜか昭和六十三年の地方都市で行政書士事務所の見習いをしています。


 未だに理由は分かりません。


 ただ最近、一つだけ分かってきました。


 行政法というのは、テキストで読むと眠いくせに、

 人の商売や生活がかかると、ものすごく目が覚める。


「お名前を伺ってもいいですか」


『水野初江です。喫茶店をやってます。駅の裏の、“カトレア”って店です』


 その店なら知っています。


 クリームソーダが妙に緑色で、ナポリタンが鉄板で出てくる店です。


 昭和の喫茶店というより、令和の私から見れば“昭和の喫茶店の完成形”みたいなお店です。


「今日、その紙を持って来られますか」


『いいんですか』


「もちろんです」


 電話を切ると、すぐ横で帳簿をめくっていた相馬先輩が言いました。


「勝手に呼ぶな」


「相談なんだからいいじゃないですか」


「俺が聞いてるのはそこじゃない。お前が“もちろんです”とか言える立場かって話だ」


「見習いです」


「知ってる」


「では所長権限ということで」


「何でお前が所長の権限を使うんだ」


 奥から、片桐所長の声がしました。


「来てもらえ」


 ほら。


 私は勝ち誇った顔をしました。


 相馬先輩が眉をしかめます。


「その顔やめろ」


「所長権限、発動しました」


「調子に乗るな」


 一時間後。


 水野初江さんは、問題の紙を両手で握りしめて事務所へやって来ました。


 五十代くらいでしょうか。


 髪をきちんとまとめ、紺色のカーディガンを羽織っています。


 几帳面そうな人でした。


 けれど今日は、いつもの落ち着きが少し崩れていました。


「これです」


 差し出された紙を見る。


 市役所の封筒。


 中には一枚。


 生活衛生課からのお知らせ。


 水野初江殿。


 営業に関する重要な事項についてお話ししたいことがありますので、左記日時に市役所生活衛生課へお越しください。


 日時、七月十二日午後二時。


 場所、市役所第二会議室。


 以上。


「……本当にこれだけですね」


「そうなんです」


 私はもう一度読みました。


 営業に関する重要な事項。


 便利な日本語です。


 何も説明していないのに、ものすごく不安にはさせられる。


 行政文書界の「ちょっと話がある」です。


 だいたい良い話ではありません。


「最近、市役所と何かありましたか」


 片桐所長が聞きました。


 初江さんは膝の上で手を握りました。


「先月、店に職員さんが来ました」


「立入検査ですか」


「ええ。厨房を見ていきました」


「問題を指摘された?」


「冷蔵庫の温度記録を、毎日きちんと書くようにって。それと、裏口のところに段ボールを積まないようにって」


「他には?」


「ないです」


「営業停止とか、許可取消しとか、そういう話は」


 初江さんの顔が強張りました。


「……先週、近所の店の人から聞いたんです」


「何をです?」


「役所が、うちの営業許可を取り消すかもしれないって」


 部屋が静かになりました。


 相馬先輩が紙を取り上げます。


「誰から聞いた」


「商店会の人です。役所に知り合いがいるらしくて」


「噂か」


「分かりません。でも……」


 初江さんは俯きました。


「夫が亡くなってから、店は私一人で守ってきたんです。二十七年です。もし許可を取り消されたら……」


 声が途切れました。


 私は何も言えませんでした。


 喫茶店。


 許可。


 取消し。


 呼出し。


 頭の中で、令和の行政手続法が勝手にページをめくります。


 不利益処分。


 聴聞。


 通知。


 予定される処分の内容。


 根拠法令。


 原因となる事実。


 期日。


 場所。


 担当組織。


 それから――。


 あ。


 私は紙を見ました。


 本当に、何も書いてない。


「所長」


「何だ」


「これ、もし営業許可の取消しを考えてるなら……」


 言いかけて、止まりました。


 危ない。


 行政手続法。


 まだない。


 今は昭和六十三年。


 平成五年制定、平成六年施行。


 私だけが知っている未来の法律を、ここで「十五条によれば」とか言い出したら、完全に予言者です。


 行政書士見習いから、行政法のノストラダムスへ転職してしまいます。


「何だ」


 相馬先輩が睨みます。


「続けろ」


「……いえ」


 私は少し言葉を選びました。


「仮に、店を続けられなくなるような重い処分を考えているなら、何の話なのか知らせないまま来い、では困りませんか」


 初江さんが顔を上げます。


「何が問題なの?」


「だって、何を言われるか分からないじゃないですか」


「それはそうだけど」


「たとえば、冷蔵庫の管理が問題なのか。段ボールが問題なのか。別の衛生事故を疑われているのか。それとも許可の条件そのものの話なのか。何が問題なのか分からなければ、資料も持っていけないし、反論の準備もできません」


 相馬先輩が腕を組みました。


「当日聞いて答えろってことだろ」


「それで人生の商売を左右されたら困りますよ」


「まあな」


 私は紙を指で叩きました。


「せめて、“何について処分を検討しているのか”と、“どういう事実を問題にしているのか”くらい分からないと、呼ばれた側が丸腰です」


 片桐所長が初江さんに聞きました。


「これまで、口頭でも説明はなかったんですね」


「はい」


「役所へ問い合わせましたか」


「電話しました。でも、“当日説明します”と言われました」


「誰が?」


「若い男の人です」


 相馬先輩が立ち上がりました。


「行くか」


「早いですね」


「店潰されるかもしれんって人間に、“一週間待って当日聞け”は雑すぎる」


 片桐所長も立ちました。


「こはる」


「はい」


「その紙、持て」


「私もですか」


「今の話を役所でも言え」


 昭和の職場、思いつきを口にすると現場へ連行されます。


 最近、学びました。


 市役所の生活衛生課は、一階の奥にありました。


 窓口には、消毒液と古い紙の匂いが混じっています。


 倉田係長が、私たちの顔を見るなりため息をつきました。


「今日は何です」


「最近、私たちの顔見て最初にため息つきますよね」


 私が言うと、倉田係長は眉間を揉みました。


「朝比奈さん。あなたが来ると話が長くなるんです」


「失礼な。論点が多いだけです」


「それを長いって言うんです」


 相馬先輩が紙を窓口に置きました。


「これ」


 倉田係長が目を落とす。


「ああ。水野さんの件ですね」


「やっぱり知ってるんですね」


 私が言うと、倉田係長は少し警戒しました。


「何を聞きたいんです」


「何のための呼出しですか」


「営業上の問題について事情を聞くためです」


「何の問題ですか」


「それは当日、担当から説明します」


 出ました。


 当日説明します。


 便利な言葉です。


 役所版の福袋。


 開けるまで中身が分からない。


 ただし中身が営業取消しだったら笑えません。


 相馬先輩が低い声で聞きました。


「許可取消しを考えてるのか」


 倉田係長は答えませんでした。


 その沈黙で、かなり分かります。


「係長」


 片桐所長が言いました。


「相手方が準備できない」


「ですが、まだ処分を決めたわけではありません」


「決めた後で話を聞くなら、それこそ意味がないでしょう」


 所長の声は静かでした。


 でも刺さる。


 倉田係長は口を閉じました。


 私は横から言います。


「問題にしてる事実だけでも教えてください」


「朝比奈さん」


「はい」


「役所の調査には順序があります」


「順序があるのは分かります。でも、何を問題にされてるか分からないまま、“来週来い”では、水野さんは何を持ってくればいいんですか」


「必要なものがあれば、こちらで確認します」


「役所が持ってない資料だったら?」


「それは……」


「たとえば、冷蔵庫の点検記録。仕入先の伝票。修理業者とのやり取り。保健所から以前受けた指導内容。店側にしかないものだってあります」


 倉田係長の表情が少し変わりました。


 私は続けます。


「当日になって、“こういう事実があるので処分を考えています”って初めて言われたら、その場で全部答えられません」


「それは後日でも――」


「後日、出せるんですか」


 倉田係長が止まりました。


「意見書とか資料とか」


「……場合によります」


「場合による?」


「担当者の判断もありますので」


 嫌な言葉が出ました。


 担当者の判断。


 制度の入口が、人によって開いたり閉じたりするやつです。


 私の脳内では、未来の行政手続法が派手に赤ペンを入れています。


 聴聞期日に出頭しなくても、陳述書や証拠書類を提出できる。


 処分原因となる事実を証する資料について閲覧を求めることができる。


 ――将来、それをわざわざ法律に書かなければならなくなる。


 つまり今、この時代には、


 何を問題にされているか分からない。


 何を出せるか分からない。


 役所が何を根拠にしているかも分からない。


 そんな状態が、現実にあるということです。


 私は不思議な感覚になりました。


 未来の条文が、まだ存在しない問題の上に、薄く重なって見える。


 法律は突然生まれるわけじゃない。


 こういう「それは困る」が積み重なって、後から形になるんだ。


「係長」


 私は言いました。


「水野さんに、“何について”“どういう理由で”重大な不利益を受ける可能性があるのか、そのくらい書面で知らせてもらえませんか」


「書面?」


「はい」


「そこまでの決まりはありません」


 来た。


 決まりはない。


 行政法でかなり怖い言葉です。


 禁止されていない、ではなく。


 守らなくていい、でもなく。


 単に整理されていないだけかもしれない。


「決まりがないなら、書かなくていいんですか」


「そういう意味では……」


「水野さん側には、準備が必要です」


 倉田係長は黙りました。


 そのとき、奥から別の男性が出てきました。


 五十代くらい。


 名札には「生活衛生課長 藤木」とあります。


「何の騒ぎだ」


 倉田係長が小声で事情を説明しました。


 藤木課長は私たちを一通り見たあと、言いました。


「これは、処分通知ではありません」


「分かってます」


 相馬先輩が答えます。


「呼出しだ」


「であれば、問題はないでしょう」


 課長は断言しました。


「来てもらって、こちらから説明する。それから本人の話も聞く。何がいけないんですか」


 一瞬、空気が固まりました。


 理屈としては、一見もっともです。


 呼出しは呼出し。


 処分はまだしていない。


 だから何も問題ない。


 でも。


 私は初江さんの顔を思い出しました。


 来週、市役所へ来てください。


 用件はそのとき話します。


 その裏で、自分の営業許可の取消しが検討されているかもしれない。


 これで本当に、

「話を聞く機会を与えた」

 と言えるんでしょうか。


「課長」


 私は言いました。


「本人の話を聞くためなんですよね」


「そうだ」


「なら、本人がちゃんと話せるようにしないと意味がないんじゃないですか」


「だから当日――」


「何について話すか知らないのに?」


 課長がこちらを見ました。


「君は?」


「片桐行政書士事務所の見習い、朝比奈こはるです」


「見習いが口を挟む話か」


 相馬先輩が一歩出ました。


 私はその袖をそっと引きました。


 先輩、圧力装置を起動しないでください。


 まだ論点でいけます。


「見習いだからこそ分からないんです」


 私は言いました。


「何の話か知らせず呼んで、“ちゃんと意見を聞きました”になる理屈が」


 藤木課長の眉が動きました。


「水野さんが当日、反論したいとします。でも処分の原因として何を見ているか知らない。役所がどんな資料を持ってるかも知らない。証拠を持っていく機会もない。それで、対等に話せますか」


「対等かどうかの問題ではない」


「じゃあ何のために本人を呼ぶんです?」


 沈黙。


 ここだ。


 私は一気に言いました。


「結論を伝えるためなら、“呼出し”でいいと思います。でも、処分する前に本人の言い分を聞くためなら、準備できる形にしないと意味が違ってきます」


 藤木課長はすぐには答えませんでした。


 横で倉田係長が、ほんの少し私を見ました。


 また面倒なこと言い始めたな、という顔ではありません。


 考えている顔でした。


 片桐所長が静かに続けます。


「処分を検討しているなら、少なくとも、予定している処分の種類、問題としている事実、根拠。それから、いつどこで話を聞くのか。そこは事前に知らせるべきでしょう」


「法的義務があると?」


 藤木課長が聞きました。


 所長は少し間を置きました。


「私は、今ここで条文番号の話をしているんじゃありません」


 その言い方に、私は胸の内で少し驚きました。


「相手に重大な不利益を与える行政作用なら、本人の言い分を聞く機会が形だけになってはいけない、と言っているんです」


 昭和六十三年。


 行政手続法は、まだない。


 でも。


 手続を公正にしろ。


 重大な不利益を与える前に、本人に防御の機会を与えろ。


 何を問題にしているのか、分からせろ。


 そういう考え方まで存在しないわけじゃない。


 法律ができる前にも、問題はある。


 理屈もある。


 ただ、それが全国一律の手続として、まだ整えられていない。


 私はようやく、今回の事件の姿が見えた気がしました。


 藤木課長が言いました。


「そこまで詳細に事前通知する慣例はありません」


 相馬先輩が鼻で笑いました。


「慣例は法律じゃないだろ」


「相馬さん」


 倉田係長が顔をしかめます。


「あなたはすぐそういう言い方をする」


「じゃあ優しく言うか。慣例だから説明しない、は理由になってねえ」


「優しくなってません」


 思わず私が言うと、倉田係長の口元が一瞬だけ緩みました。


 藤木課長は腕を組みました。


「では、何を書けと言うんです」


 お。


 これは。


 追い返す段階から、内容の話に変わりました。


 少しだけ前進です。


 私は頭の中にある未来の十五条を、そのまま口にしないよう慎重に分解しました。


「まず、どういう処分を検討しているのか」


「……営業許可の取消しです」


 初めて、はっきり出ました。


 胃がきゅっとしました。


 噂じゃなかった。


「根拠は?」


「食品衛生関係の規定です」


 所長が言いました。


「条項まで特定してください」


 藤木課長が倉田係長を見ます。


 倉田係長が奥のファイルを取りに行きました。


「次に」


 私は続けます。


「何が原因なのか」


 課長が少し渋りました。


「昨月の検査で、食品管理について問題が認められました」


「それだけでは準備できません」


「……冷蔵設備の温度管理と、食材の保存方法です」


「具体的な日付や、問題とした事実も」


「そこまで?」


「そこまで分からないと、“そんな事実はない”のか、“改善済みです”なのか、“記録があります”なのか、本人が説明できません」


 藤木課長が黙ります。


 所長が一言。


「聞くなら、答えられる形にする」


 重い。


 短い。


 ずるい。


 私が五分かけて言ったことを一行でまとめました。


 こういう人が所長です。


「あと」


 私は言いました。


「当日の日時と場所は書いてあります。でも、どこの誰が担当するのかも、もう少し分かるようにしてください」


「生活衛生課では不足ですか」


「問い合わせたいときに、誰に聞けばいいか分からないので」


 倉田係長がファイルを持って戻ってきました。


「根拠条項、確認できました」


 所長が受け取ります。


 少し目を走らせてから、課長に返しました。


「これも含めて通知してください」


「通知……」


 藤木課長が呟きました。


「それから」


 私は少し迷いました。


 未来の条文の次の部分。


 出頭しなくても、陳述書と証拠書類を出せる。


 原因事実を証する資料の閲覧を求められる。


 ここ。


 まだ法律はない。


 だから、

「十五条二項で教示義務があります」

 とは言えません。


 でも、問題の本質は今ここにあります。


「水野さんが当日、病気とかで来られなかったらどうなるんですか」


「日程変更を相談してもらえば」


「書面で意見を出すことは?」


 課長が少し考えます。


「別に禁止はしていません」


「なら、それも伝えてください」


「なぜです」


「知らなかったら、“出られないから反論できない”と思うからです」


 倉田係長が小さく息を吐きました。


「確かに」


 藤木課長が見る。


「倉田君」


「いえ。出頭できなければ終わり、と思われる書き方ではあります」


 おお。


 倉田係長。


 こちら側に来いとは言いません。


 でも制度側から制度の雑さを見てくれると、一気に話が進みます。


「それと」


 私はさらに言いました。


「役所が判断に使っている資料を、水野さん側が確認することはできますか」


 藤木課長の表情が硬くなりました。


「内部資料もあります」


「全部見せろとは言ってません」


「では何を」


「処分の原因だと言っている事実を裏付ける資料です」


 たとえば、検査記録。


 写真。


 測定記録。


 担当者の確認内容。


 それを役所だけが握ったまま、

「こちらではこう認定しています」

 と言われても、反論しづらい。


「閲覧を当然の権利として認める制度にはなっていません」


 課長は言いました。


 それは、たぶんこの時代ではそうでしょう。


 私は頷きました。


「分かっています。でも、見せられるものは検討してもらえませんか」


 未来では。


 私は心の中で続けました。


 未来では、それを法律に書くんです。


 聴聞が終結するまでの間、処分原因事実を証する資料の閲覧を求められる、と。


 今はまだ、お願いに近い。


 担当者の判断に左右される。


 だからこそ、


 後世の行政手続法は、ここを「仕組み」にするんだ。


 なんだか背筋がぞくっとしました。


 昨日まで私は、


 聴聞の通知事項。


 処分内容。


 根拠法令。


 原因事実。


 期日場所。


 担当組織。


 陳述書。


 証拠書類。


 資料閲覧。


 そんなものを暗記カードみたいに眺めていました。


 覚えにくい。


 数字が出たら嫌だ。


 十五条、地味。


 そのくらいにしか思っていなかった。


 でも今、


 目の前には二十七年続けてきた店を失うかもしれない人がいます。


 何を問題にされているか知らされない。


 何を持って行けばいいか分からない。


 役所が何を根拠にしているか見えない。


 それでも、


「来週来てください」


 だけは届く。


 なるほど。


 通知事項って、

 受験生をいじめるために四つ並んでいるんじゃない。


 反論する人間を、丸腰で席に座らせないためなんだ。


 藤木課長は、しばらく考えていました。


 そして言いました。


「分かりました」


 初江さんが顔を上げます。


「呼出状は差し替えます」


「本当ですか」


「処分を決めたわけではありません」


 課長は念を押しました。


「営業許可取消しを検討していること。根拠となる規定。問題としている事実。日時、場所、担当部署。そこまでは文書で知らせます」


 私は聞きました。


「書面で意見や資料を出せることも?」


 課長は私を見ました。


「……その旨も書きます」


「資料は?」


「検査記録については、本人から求めがあれば確認できるようにします。ただし内部文書すべてという話ではありません」


「十分です」


 相馬先輩が横から言いました。


「最初からそうしろよ」


「相馬さん」


 倉田係長が本気で嫌そうな顔をしました。


「最後の一言で全部感じ悪くするの、才能ですね」


「褒めるな」


「褒めてません」


 事務所へ戻る途中。


 初江さんは、しばらく何も話しませんでした。


 商店街の入口まで来たところで、ようやく立ち止まります。


「こはるちゃん」


「はい」


「許可、取り消されるのかね」


 私は簡単には答えられませんでした。


 今日、勝ったわけではない。


 営業許可取消しの話そのものは残っています。


 衛生管理に本当に問題があったなら、処分の可能性だってある。


 手続が整えば、結果まで都合よくなるわけじゃない。


「分かりません」


 私は言いました。


「そこは、これからです」


「そうかい」


「でも」


 私は続けました。


「今度は、何を言われるか分からないまま椅子に座る必要はありません」


 初江さんがこちらを見る。


「何を問題にされてるか分かります。役所が何を根拠にしてるか確認できます。こっちから資料も出せます」


「それで違うものかね」


「違います」


 私は即答しました。


「ものすごく」


 裁判だって、試験だって、問題文を見せずに答えろとは言いません。


 少なくとも、


 何を疑われているのか。


 何を説明すればいいのか。


 そこが分かれば、人は準備できます。


 準備できれば、声を出せます。


 声を出せれば、相手の認定が間違っているなら間違っていると言える。


 正しいなら正しいで、改善した事情や別の見方を伝えられる。


 手続というのは、


 勝たせるためのものじゃない。


 話せる状態にするためのものなんだ。


 私は今日、それを初めて身体で知りました。


 三日後。


 初江さんが事務所に新しい通知書を持ってきました。


「これ、届いたよ」


 前より厚い。


 ずいぶん違います。


 営業許可の取消しを検討していること。


 根拠となる規定。


 問題とされている検査時の事実。


 話を聞く日時。


 場所。


 担当課。


 そして末尾には、


 当日出席できない場合には、事前に意見書および関係資料を提出することができる。


 検査記録等の確認を希望する場合は、担当課まで申し出ること。


 と書かれていました。


「未来だ……」


 思わず呟きました。


「何が?」


 相馬先輩が聞きます。


「いえ、何でもないです」


 未来の行政手続法十五条そのものではありません。


 もちろん、そんな条文はまだない。


 全国共通の聴聞制度でもない。


 ここで役所が、今回のために少し丁寧な手続を用意しただけです。


 でも、


 ものすごく似ています。


 未来では、この種のことが担当者の善意や交渉力に左右されないよう、法律として整理されていく。


 私はその“法律になる前の不便”を見ている。


 転生って、こういう景色も見えるんですね。


 もっと株価とか競馬の結果とか覚えて来たかったですけど。


「こはるちゃん」


 初江さんが一枚のノートを取り出しました。


「これも見てくれる?」


「何ですか」


「冷蔵庫の記録」


 開く。


 日付。


 温度。


 朝と夕方。


 びっしり書かれています。


「毎日つけてたんですか」


「指導された翌日からね」


「すごい」


「それと、冷蔵庫、一度調子が悪くなった日があるんだよ」


「いつです?」


「六月十六日」


 問題とされている検査日は、六月十七日。


 私は顔を上げました。


「修理しました?」


「したよ」


「伝票は?」


「ある」


 相馬先輩が横からノートを見ます。


「翌日に検査か」


「はい」


「そのときの温度異常だけ拾われた可能性あるな」


 初江さんが頷きました。


「あの日、朝一番で修理屋さんが来てくれて。部品を替えて、昼には戻ったんだよ」


「その修理記録、持って行きましょう」


「役所は知ってるのかね」


「たぶん、まだ知りません」


 初江さんが少し笑いました。


「じゃあ、説明できるね」


「はい」


 それです。


 私は、その一言が妙に嬉しかった。


 説明できる。


 ただそれだけ。


 でも三日前には、それすらできるか分からなかった。


 何の話か伏せたまま呼ばれれば、

 この修理伝票が必要だなんて気づけなかったでしょう。


 温度記録も、持って行かなかったかもしれない。


 役所側の検査結果だけが机に載り、


「基準に問題がありました」


 で話が進んでいたかもしれない。


 手続の違いは、

 こういう小さな紙一枚を、判断の場に乗せられるかどうかなんだ。


 後日。


 初江さんの件は、許可取消しまでには至りませんでした。


 問題となった一日の温度異常には、冷蔵庫故障という事情があった。


 すぐに修理されていた。


 その後は毎日、温度管理記録をつけている。


 食材の保存方法にも改善が確認された。


 役所側は厳重注意と今後の改善確認を続けることにし、営業は継続できることになりました。


 完全な無傷ではありません。


 初江さん側にも、管理が甘かった部分はあった。


 役所の指摘すべてが理不尽だったわけでもありません。


 でも。


 あの最初の紙のままなら、結論は違ったかもしれない。


 夕方。


 初江さんが事務所へやって来ました。


「これ、みんなで食べて」


 紙袋の中には、サンドイッチがぎっしり入っています。


「カトレアのですか?」


「売り物だよ。今日は余ったから」


 相馬先輩が即座に紙袋へ手を伸ばしました。


「先輩」


「何だ」


「せめて相談者が帰るまで待てません?」


「冷める」


「サンドイッチです」


「パンが乾く」


「それっぽい理由を後から作らないでください」


 初江さんが笑いました。


「相馬さん、食べていいよ」


「ほら」


「勝ち誇らないでください」


 片桐所長は、一つだけ取って机に置きました。


「水野さん」


「はい」


「これからも記録は続けてください」


「ええ」


「役所を敵だと思わないことです」


 初江さんが少し驚いた顔をしました。


「今回、役所の指摘にも理由はあった。ただ、手続が雑だった」


「はい」


「雑な手続に腹を立てることと、指摘まで無視することは別です」


「分かりました」


 初江さんは深く頷きました。


 その顔は、最初に来た日とは全然違っていました。


 不安が全部消えたわけではない。


 でも、自分が何をすればいいのか分かっている顔です。


「こはるちゃん」


「はい」


「最初の紙ね」


「はい」


「今見ると、怖いねえ」


「今だからですか?」


「最初は、ただ怖かったんだよ。何が怖いか分からなかった」


 私は黙って聞きました。


「今なら分かる。何も書いてなかったから怖かったんだね」


 あ。


 その言葉が、すとんと落ちました。


 そうか。


 行政の処分が怖いだけじゃない。


 分からないことが怖い。


 何をされるのか。


 なぜされるのか。


 何を言えばいいのか。


 どこへ行けばいいのか。


 それが見えないと、人は何も準備できない。


 そして準備できない人は、

 制度の前で、必要以上に弱くなる。


「そうかもしれません」


 私は言いました。


 初江さんが帰ったあと。


 相馬先輩はサンドイッチを二つ目まで食べ終えていました。


「先輩」


「何だ」


「一人何個って決めました?」


「決めてない」


「では三つ目禁止です」


「何の根拠で」


「片桐事務所サンドイッチ保全法」


「さっきの相馬法よりひどいぞ」


「では意見を聞きます」


「食う」


「聞く意味ない!」


 所長が新聞を読みながら言いました。


「残り六つだ」


 私と相馬先輩が止まります。


「三人なら」


 私が言う。


「一人二つ」


 相馬先輩が言う。


「俺もう二つ食った」


「じゃあ終了です」


「嫌だ」


「不利益処分です」


「事前通知がねえぞ」


 私は固まりました。


 そして相馬先輩を指さします。


「今それ言います?」


「今日ずっと聞かされたからな」


「なら処分内容を通知します。相馬誠司に対し、サンドイッチ三個目の取得を禁止する」


「根拠は」


「残数と公平」


「条項は」


「そこまで整備されてません!」


 所長がぽつりと言いました。


「却下」


「どっちをですか」


「騒ぐな」


 結局、残りはきれいに分けました。


 行政処分より迅速です。


 不服申立てもありません。


 夜。


 事務所が静かになってから、私は机にノートを開きました。


 今日のページは、まだ真っ白です。


 ペンを持つ。


 でも、すぐには書きませんでした。


 未来の私は知っています。


 いつか行政手続法という法律ができる。


 その中で、重大な不利益処分をする前の聴聞について、


 何をしようとしているのか。


 何の法律に基づくのか。


 どんな事実を問題にしているのか。


 いつ、どこで話を聞くのか。


 どこの組織が担当するのか。


 それを事前に書面で知らせる仕組みが作られる。


 そして、


 出頭しなくても書面や証拠を出せること。


 役所が処分原因としている資料を確認できること。


 そんなことまで、わざわざ法律に書かれる。


 以前の私は思っていました。


 細かいなあ、と。


 試験に出るなら覚えるけど、そこまで必要なのかな、と。


 今日、その答えを見ました。


 必要なんです。


 だって。


 役所から、


「来週来てください」


 という紙一枚が届いたとき。


 そこに何も書いていなければ、


 人は、何もできない。


 何を調べればいいのか分からない。


 誰に相談すればいいのか分からない。


 どの資料を探せばいいのか分からない。


 そもそも自分の何が問題にされているかさえ分からない。


 法律の通知事項は、


 役所の文書を長くするための飾りじゃない。


 人に反論の準備をさせるための部品なんだ。


「何を書いてる」


 相馬先輩が帰り支度をしながら聞きました。


「まだ題名だけです」


「何て?」


 私はノートの上に書きました。


 ――聴聞の通知。


 ただし。


 すぐ横に、小さく書き足します。


 ※今はまだ、行政手続法なし。


「何だそれ」


「未来の宿題です」


「また意味分からんこと言ってるな」


「先輩」


「何だ」


「今日みたいなのって、昔からよくあるんですか」


「何が」


「本人の話を聞くって言いながら、何の話か事前に教えないとか」


 相馬先輩は少し考えました。


「あるだろ」


「書面で細かく知らせない?」


「役所によるな。担当にもよる」


「やっぱり」


「何だよ」


「いえ」


 やっぱり。


 だから法律になるんだ。


 人による。


 役所による。


 担当による。


 それでは困るから。


 後になって、


 最低限ここまでは知らせなさい。


 こういうことも本人に教えなさい。


 そうやって手続を形にする。


 片桐所長が戸締まりをしながら言いました。


「こはる」


「はい」


「今日の件で、一番大事だったのは何だ」


 私は少し考えました。


「処分の内容を知らせること?」


「それもある」


「根拠を示す?」


「それもだ」


「原因となる事実」


「それも」


「全部じゃないですか」


「まとめろ」


 無茶振り。


 でも。


 私は今日の初江さんを思い出しました。


 最初は、

 何をされるか分からないから、ただ怯えていた。


 最後は、

 修理伝票を持って、

 温度記録を持って、

 自分の口で説明した。


 結果として、それが判断を変えた。


 私は言いました。


「反論する機会を、“あるだけ”にしないことですか」


 所長がこちらを見ます。


「どういう意味だ」


「来て話していいですよ、だけじゃ足りない。ちゃんと準備できるようにして、初めて意味がある」


 所長は一度だけ頷きました。


「それでいい」


 今日も短い。


 でも、たぶん忘れません。


 私はノートに一行だけ書きました。


 何をされるか知らされなければ、反論する権利はあっても、反論の準備はできない。


 ペンを置きます。


 まだ、この続きを書くには早い。


 聴聞の通知には、何を記載するのか。


 どんなことを本人に教えるのか。


 本人の所在が分からない場合はどうするのか。


 未来の私は知っている。


 でも今の私は、


 今日の事件を一度、自分の中で整理したい。


 法律になる前の問題を見たからこそ、


 条文がどうしてその形になったのか、


 今なら前よりずっと理解できる気がします。


 窓の外では、昭和六十三年の商店街が少しずつ店じまいを始めていました。


 カトレアの看板にも灯りがついています。


 たぶん初江さんは今日も、


 冷蔵庫の温度を確認して、


 ノートに数字を書いて、


 明日の仕込みをしているのでしょう。


 役所からの一枚の紙は、


 人の生活を簡単に不安にします。


 でも。


 その紙に、


 何をするのか。


 なぜするのか。


 何を問題にしているのか。


 どこで話を聞くのか。


 そういうことがきちんと書いてあれば、


 人は少なくとも、


 丸腰ではなくなります。


 制度の言葉は冷たいです。


 予定される処分。


 根拠。


 原因事実。


 期日。


 場所。


 担当組織。


 字面だけなら、温度のない言葉ばかり。


 でも、


 その冷たい言葉が一つずつ揃うことで、


 人は初めて、


「それは違います」


 と言う準備ができる。


 今日、私はそれを覚えました。


 そして帰り際。


 相馬先輩が最後に残ったサンドイッチを持ち上げました。


「これ、持って帰るぞ」


「待ってください」


「何だ」


「私も欲しいです」


「もう食っただろ」


「先輩より少ないです」


「知らん」


「では、不利益処分の前に私の意見を聞いてください」


「聞いた」


「まだ言ってません」


「却下」


「結論が先!」


 所長が電気を消しました。


「帰るぞ」


「所長、救済を」


「ない」


「理由は?」


「店を閉める時間だ」


「合理的!」


 どうやらこの事務所では、


 手続保障より営業時間のほうが強いようです。


 少なくとも、その理由だけは事前に分かりました。

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