[会社法・会社設立に関する責任]法理編 こはるノート
会社ができなかったから、責任も消える。
そんな都合のよい法律はありません。
むしろ。
会社を作ろうとして失敗したからこそ、責任を負う人がいます。
そして。
会社が無事に成立したとしても。
五十万円の機械を五百万円の財産として出資したなら、その四百五十万円の不足を誰が負担するのか。
会社を作るとき、仕事を怠った人は、誰に損害賠償をするのか。
そこには、会社設立に関する三つの重要な責任が隠れています。
昭和六十三年。
夕方の片桐行政書士事務所。
私は机に向かい、ノートを開いていました。
表紙には、大きく、
――こはるノート・商法編。
と書いてあります。
「……責任って、三つも必要なんですかね」
私が呟くと、相馬先輩が新聞から顔を上げました。
「何だ、いきなり」
「財産価額填補責任、任務懈怠責任、会社不成立の責任です」
「ああ」
「全部、会社設立に関する責任じゃないですか」
「そうだな」
「似すぎです!」
「法律に文句を言うな」
「だって、試験問題で並べられたら、絶対に混乱しますよ!」
相馬先輩は煙草をくわえました。
「じゃあ、黒田の事件を思い出せ」
私は手を止めました。
黒田栄一。
東海食品流通株式会社を作ろうとした男。
七人の発起人を集め、冷凍設備を現物出資しようとした。
定款に記載された財産価額は、五百万円。
ところが。
実際の価値は、五十万円程度。
差額、四百五十万円。
しかも。
会社は設立登記まで到達せず、不成立。
株式引受人だった村瀬和子さんの三百万円は、返還されずにいた。
黒田は言いました。
「会社ができなかったんだから、俺に責任はない!」
でも。
昭和の商法にも、会社が成立しなかった場合の発起人の責任が定められていた。
私たちは和子さん本人名義の内容証明郵便を作成し、送付しました。
その結果。
黒田は弁護士にも相談したうえで、返還に応じた。
三百万円は、無事に戻ってきました。
「……あの事件ですね」
「ああ」
相馬先輩が頷きました。
「黒田の事件には、三つの責任を区別するための材料が揃ってる」
「確かに!」
私は鉛筆を握りました。
「今日は、その三つを完全に整理します!」
「毎回それを言ってるな」
「毎回、新しい法律が出てくるんです!」
「まあな」
そこへ。
奥から片桐所長が声をかけました。
「相馬」
「はい」
「付き合ってやれ」
「……またですか」
よし。
今日も強制勉強会、開催です。
◇
「まず、財産価額填補責任です!」
私はノートの一番上に、大きく書きました。
――財産価額填補責任。
「読んで字のごとく、財産の価額が足りないときに、その不足を埋める責任ですね」
「そうだな」
「黒田さんの冷凍設備が、まさにこれです!」
私は数字を書きました。
定款記載額。
五百万円。
実際の価値。
五十万円。
不足額。
四百五十万円。
「ここで重要なのが、現物出資です」
相馬先輩が頷きました。
「説明してみろ」
「はい!」
株式会社を設立するとき、出資する財産は現金だけとは限りません。
土地。
建物。
機械。
車両。
こうした金銭以外の財産を出資することを、現物出資といいます。
「今回なら、冷凍設備ですね」
「ああ」
「そして、もう一つあります」
私は書き足しました。
――財産引受。
「これは、会社が成立することを条件に、成立後の会社が特定の財産を譲り受けることを、設立段階で約束するものです」
「現物出資とは違うんだな」
「はい」
私は例を考えました。
黒田が自分の冷凍設備を、株式を取得するための出資として会社へ入れる。
これが現物出資。
一方。
会社が成立したら、黒田から冷凍設備を五百万円で買い取ると、設立段階で約束する。
これが財産引受の例です。
「現物出資は、出資の対価として株式を受け取る」
「うん」
「財産引受は、成立後の会社が財産を買い受けるなどの契約」
「なるほどな」
どちらも、設立段階で会社に入る財産の価額が問題になります。
なぜか。
答えは簡単です。
「先輩、五十万円の機械を五百万円として扱ったら、何が起きます?」
「会社の財産が、予定より四百五十万円も少なくなる」
「そうです!」
私は机を叩きました。
「会社に五百万円の価値がある財産が入ったと思っていたのに、実際には五十万円しかなかった!」
「そうだな」
「それでは会社の財産的な基礎が、最初から崩れてしまいます!」
会社にお金を貸す銀行。
商品を納入する取引先。
会社の株式を引き受けた株主。
そうした人々にとって、会社にどれだけの財産があるのかは、重要です。
「だから、出資財産の価額をごまかしてはいけないんですね」
「そのとおりだ」
私は頷きました。
ここで、現代の会社法を思い出します。
会社法第五十二条。
現物出資財産等の価額が、株式会社成立時に定款記載額を著しく下回る場合。
発起人及び設立時取締役は、原則として会社に対し、連帯して不足額を支払う義務を負います。
「つまり、黒田さんが五百万円の価値があると記載した機械が、実際には五十万円しかなかったら……」
私は計算しました。
「不足額は四百五十万円!」
「そうだ」
「ただし、先輩。ここに注意点があります」
「何だ」
「今回は、会社が成立していません」
相馬先輩が、にやりとしました。
「分かってるじゃねえか」
私は胸を張りました。
財産価額填補責任は、会社が成立した場合に、その会社に生じた財産価額の不足を問題にするものです。
黒田の事件では、設立登記まで到達していない。
だから、現代の会社法第五十二条をそのまま当てはめて、成立していない会社に四百五十万円を支払え、という話にはできません。
「会社が成立した場合と、しなかった場合を分ける!」
「そうだ」
「ここ、最初の引っかけですね!」
私は赤鉛筆で囲みました。
すると。
片桐所長が言いました。
「こはる」
「はい」
「誰が不足額を支払うのか。そこを整理しろ」
「はい!」
私はノートに三人の名前を書きました。
A。
現物出資した発起人。
B。
現物出資していない発起人。
C。
設立時取締役。
「現代の会社法で考えます!」
私は言いました。
「まず、Aはどうなるか」
黒田のように、現物出資した本人です。
「原則として、不足額について責任を負います!」
「そうだ」
「しかも、自分では注意を尽くしたつもりだった、と言えば簡単に免責されるわけではありません」
「当然だな」
現物出資した本人や、財産引受の対象財産を譲渡した本人は、価額不足について特に重い立場に置かれています。
自分が会社へ入れた財産について、責任を持たなければならないからです。
「では、BとCは?」
相馬先輩が聞きました。
「こちらも、原則として責任を負います」
「うん」
「ただし、例外があります!」
私は二本の線を引きました。
一つ目。
検査役の調査。
二つ目。
職務について注意を怠らなかったことの証明。
「ここで、検査役って何ですか?」
私は尋ねました。
相馬先輩が答えます。
「設立段階で、現物出資などの内容を調べるために裁判所が選任する者だ」
「そうです」
私は頷きました。
現物出資や財産引受では、財産の価額を不当に高く見積もる危険があります。
そのため、法律は必要な場合に検査役の調査を要求します。
現代の会社法第五十二条第二項では、所定の検査役の調査を経た場合、現物出資者本人や財産の譲渡人ではない発起人、設立時取締役には、価額不足について免責が認められます。
「それから、注意を怠らなかったことを証明した場合も、原則として免責の余地があります」
「ただし?」
先輩が聞きました。
「設立方法によって違います!」
私は大きく書きました。
発起設立。
募集設立。
「発起設立では、現物出資者本人などではない発起人や設立時取締役について、検査役の調査か、注意を怠らなかったことの証明による免責が認められます」
「うん」
「でも、募集設立では違います!」
会社法第百三条第一項。
募集設立の場合、第五十二条第二項の免責事由は、検査役の調査を経た場合に限られます。
つまり。
現物出資者本人などではない発起人や設立時取締役が、
「私は十分に注意しました!」
と言っても。
募集設立では、その証明だけを理由に財産価額填補責任を免れることはできません。
「ええっ!」
私は、自分で書いた文章を見て驚きました。
「募集設立、厳しくないですか?」
相馬先輩が笑いました。
「外部から株式を引き受ける奴がいるからな」
「あ……」
そうです。
発起設立は、発起人が設立時の株式を全部引き受ける方法。
募集設立は、発起人以外の人にも株式を引き受けてもらう方法。
黒田の事件では、村瀬和子さんが外部から株式を引き受けていました。
「つまり、募集設立では、外部の株式引受人の保護も重要なんですね」
「そういうことだ」
私は大きく頷きました。
ここ、試験で狙われそうです。
「先輩!」
「何だ」
「ひっかけ問題を思いつきました!」
「言ってみろ」
「募集設立において、現物出資していない発起人は、注意を怠らなかったことを証明すれば、当然に財産価額填補責任を免れる!」
「……どうだ?」
「バツです!」
「そうだな」
「現代の会社法では、募集設立について、その免責事由は認められません!」
私は大きく丸を描きました。
……ただし。
ここで、もう一つ疑問が出てきます。
「所長」
「何だ」
「昭和六十三年でも、全部同じなんですか?」
所長は首を横に振りました。
「条文の構成も、制度の細部も違う」
「ですよね」
「今、お前が説明しているのは、現在の会社法の整理だ」
「はい」
「昭和の事件には、昭和の商法を使う」
私は頷きました。
昭和六十三年の株式会社設立は、商法第二編によるもの。
現物出資財産の価額不足についても、旧商法上の規定を確認しなければなりません。
会社成立当時の取締役という言い方など、条文上の表現にも違いがあります。
私はノートに書きました。
――昔の商法と現代の会社法は、趣旨が似ていても、条文番号や免責要件を混同しない。
「これ、転生者にとって一番危険ですよね」
「何がだ」
「知っている法律が、微妙に違うんです」
「だから六法を開け」
「はい……」
相馬先輩は、容赦がありません。
◇
「それから、もう一つ重要なことがあります!」
私はノートをめくりました。
「設立時監査役です!」
相馬先輩が頷きました。
「ほう」
「財産価額填補責任の基本的な対象者には、設立時監査役は入っていません!」
「そうだ」
私は書きました。
発起人。
設立時取締役。
そして。
設立時監査役。
「この三つ、全部まとめて同じ責任だと思うと危険なんです」
「そうだな」
現代の会社法第五十二条第一項が財産価額填補責任の基本的な対象としているのは、発起人及び設立時取締役。
設立時監査役は、そこに列挙されていません。
「じゃあ、監査役は何をしても責任がないんですか?」
私は尋ねました。
相馬先輩は、首を横に振りました。
「そんなわけねえだろ」
「ですよね!」
そうです。
財産価額填補責任を負わないことと、任務懈怠による損害賠償責任を負わないことは、まったく別。
設立時監査役にも、法律上の職務があります。
それを怠って損害を発生させれば、別の責任が問題になります。
「つまり!」
私はノートに赤い線を引きました。
「設立時監査役は、価額填補の基本的な対象者ではない。しかし、任務懈怠責任の対象にはなる!」
「正解」
私は嬉しくなりました。
この違い。
試験に出たら、今度こそ間違えません。
「そして、財産価額填補責任の免除にも注意が必要です」
私は続けました。
現代の会社法第五十五条。
財産価額填補責任など、一定の設立関係責任は、総株主の同意がなければ免除できません。
「総株主、ですか?」
「ああ」
「過半数じゃ駄目なんですね」
「全員の同意が必要だ」
私は頷きました。
会社に生じた不足額を、責任者から請求しなくてもよいことにする。
これは、会社の財産に関わる重大な問題。
だから、単なる多数決で自由に免除できるものではありません。
「黒田さんが社長になったとしても、自分一人で『俺の責任は免除だ!』なんて決められないわけですね」
「そういうことだ」
私は少し笑いました。
もし黒田が会社を成立させていたら。
五百万円の機械。
実際は五十万円。
四百五十万円の不足。
その問題から、簡単には逃げられなかったでしょう。
会社が成立しても責任。
成立しなくても、別の責任。
「先輩」
「何だ」
「黒田さん、どっちに転んでも大変ですね」
「最初からまともに機械の価額を調べてりゃ、こんなことにはならなかったんだ」
……確かに。
法律は、真面目に仕事をした人を困らせるためにあるわけではありません。
いい加減なことをして、他人に損害を押しつけないためにあるのです。
◇
「さて、二つ目です!」
私はノートに書きました。
――任務懈怠責任。
「これは、仕事を怠った責任ですね」
「そうだ」
「ただし、仕事を怠っただけで、無条件にお金を払うわけではありません」
相馬先輩が頷きます。
「説明してみろ」
「はい!」
任務懈怠。
つまり、法律上果たすべき職務を怠ること。
会社設立に関係する発起人や設立時取締役、設立時監査役が、それぞれの任務に違反する場合です。
たとえば。
会社に入る財産を、必要な調査もせずに高額評価した。
設立に必要な手続を、いい加減に進めた。
確認すべき事項を、故意に見逃した。
そのような場合です。
「黒田さんの事件なら、故障を知りながら冷凍設備を五百万円としていた問題ですね」
「ああ」
「ただし、あれだけで直ちに誰がどの責任を負うかは決まりません」
「そうだ」
私は頷きました。
誰に、どんな職務があったのか。
その人が、何を怠ったのか。
それが原因で、どのような損害が発生したのか。
それらを確認する必要があります。
「そして、現代の会社法第五十三条では、責任を二つに分けています!」
私はノートの左右に書きました。
会社に対する責任。
第三者に対する責任。
「先輩、ここが重要なんです」
「何がだ」
「相手によって、要件が違うんです!」
まず。
会社に対する責任。
発起人、設立時取締役、設立時監査役が、株式会社の設立について任務を怠り、そのために会社へ損害を与えた場合。
会社に対し、損害賠償責任を負います。
「たとえば」
私は言いました。
「設立時取締役が必要な調査を怠り、会社に百万円の損害を生じさせた場合です」
「うん」
「職務違反と損害、その因果関係が問題になります」
「そうだな」
そこで、私は大きく書きました。
――会社に対する任務懈怠責任。
次に。
第三者に対する責任。
「ここは、もっと注意が必要です!」
私は声を大きくしました。
「第三者に損害が出たからといって、発起人などが常に賠償責任を負うわけではありません」
「そうだ」
「悪意または重大な過失が必要です!」
会社法第五十三条第二項。
発起人、設立時取締役、設立時監査役が、その職務を行うについて悪意または重大な過失があり、それによって第三者に損害を与えた場合。
その第三者に対しても、損害賠償責任を負います。
「悪意って、相手を嫌っていることですか?」
相馬先輩が聞きました。
「違います!」
私は即答しました。
法律でいう悪意は、通常、その事実を知っていること。
ここでは、職務違反に当たる事情などを認識していたことが問題になります。
そして。
重大な過失。
著しく注意を欠いていること。
「つまり」
私は言いました。
「ちょっとした不注意と、悪意・重過失を同じように扱ってはいけないんです」
「そうだ」
黒田の事件を思い出します。
冷凍設備が故障している。
修理には百八十万円かかる。
実際の価値は五十万円程度。
それなのに、五百万円の財産だと説明した。
「もし故意に嘘をついて、株式引受人に損害を与えたことが証明できれば、第三者に対する責任も問題になりますよね」
「そうだ。ただし、適用する条文と成立要件は、当時の商法で確認する必要がある」
「はい!」
私は頷きました。
ここでも。
昭和と現代。
制度の違いを混同してはいけません。
旧商法にも、設立に関する発起人の任務懈怠責任について、会社に対する責任と第三者に対する責任を区別する規定がありました。
ただし、昭和の設立関係者の責任と、現代の会社法第五十三条の対象者や条文構成を、何も確認せずに同じものとして扱ってはいけない。
「未来の法律を知ってるからこそ、昔の法律を読まないと駄目なんですね」
「当たり前だ」
相馬先輩は笑いました。
「お前が一番間違えそうなところだな」
「否定できません……」
私は肩を落としました。
でも。
法律の勉強としては、とても面白いところです。
似ている制度だからこそ。
何が同じで、何が違うのか。
それを見抜く必要があるのです。
◇
「それから、連帯責任です!」
私は書き足しました。
――会社法第五十四条。
複数の発起人や設立時取締役、設立時監査役が、同じ損害について責任を負う場合。
それらの者は、連帯債務者となります。
「先輩、連帯って怖いですよね」
「まあな」
「一人が百万円ずつ払えば終わり、とは限らないんです」
「そうだ」
私は例を考えました。
発起人A。
設立時取締役B。
設立時監査役C。
三人がそれぞれ任務を怠り、その結果、会社に三百万円の損害が生じた。
そして三人とも、その三百万円について法律上の賠償責任を負う場合。
「会社は、Aだけに三百万円を請求することもできるんですよね」
「そうだ」
「Bにも、Cにも、責任の範囲内で全額の請求が可能になる」
「うん」
「ただし、会社が合計九百万円を二重三重に受け取れるわけではありません」
「そのとおりだ」
私は頷きました。
連帯責任。
それは、各自が自分の頭数で単純に割った金額しか負わない、という意味ではありません。
被害を受けた会社や第三者に対して、責任者が共同で責任を果たすための仕組みです。
「黒田さんが七人の発起人を集めたことも、思い出しますね」
「ああ」
「名前を貸しただけだから、自分の負担は七分の一、とは当然には言えないんですね」
「そうだ」
私は大きく頷きました。
ただし。
任務懈怠責任については、単に名前が載っているというだけで全員の職務違反と損害賠償責任が確定するわけではありません。
それぞれに、責任を負うための要件が必要です。
「先輩!」
「何だ」
「連帯責任だからといって、責任がない人まで無条件で巻き込むわけじゃない!」
「正解」
「でも、責任を負う人が複数いるなら、内部で勝手に人数割りして、被害者への責任を軽くできるわけでもない!」
「そうだ」
私は満足しました。
任務懈怠責任。
会社に対する責任。
第三者に対する責任。
悪意・重過失。
連帯責任。
ようやく、整理できてきました。
◇
「さて」
片桐所長が、帳簿を閉じました。
「三つ目だ」
「はい!」
私はノートの新しいページを開きました。
――会社不成立の責任。
「今回の事件の決定打ですね!」
「そうだ」
黒田の事件。
会社は、設立登記に至りませんでした。
つまり、株式会社は成立していない。
その状態で黒田は言いました。
「会社ができなかったんだから、責任なんてない!」
でも。
それは、間違いでした。
「所長」
「何だ」
「昭和六十三年の商法では、第百九十四条ですね」
「そうだ」
私は、昭和の六法を開きました。
旧商法第百九十四条。
会社が成立しなかった場合、発起人は、会社設立に関してした行為について連帯して責任を負い、設立に関して支出した費用を負担する。
「ここが、黒田さんの逃げ道を塞いだんですね」
「ああ」
私は頷きました。
会社が成立しなかった場合。
会社という法人は存在しません。
しかし。
設立準備のために行われた行為は、現実に存在しています。
事務所を借りた。
印刷物を作った。
設立のための契約をした。
株式引受人から払込みを受けた。
それらを、会社ができなかったからといって、すべてなかったことにはできません。
「だから発起人に責任を負わせるんですね」
「そうだ」
所長が頷きました。
「存在しない会社に、責任を押しつけることはできん」
私は、思わず笑いました。
確かに。
黒田は、
「できなかった会社に請求しろ」
と言いました。
でも。
存在しない会社に、どうやって請求するのでしょうか。
「だから法律は、設立を進めた発起人に責任を負わせる」
「そのとおりだ」
私は、大きく書きました。
――会社不成立なら、発起人が連帯して責任を負う。
そして。
もう一つ重要なのが、費用です。
「黒田さん、こう言ってましたよね」
私は少し声を低くしました。
「事務所代! 看板代! 印刷代! 全部使ったんだから、金は返せねえ!」
相馬先輩が顔をしかめました。
「似てねえな」
「物真似の評価は求めてません!」
でも。
あの主張には、決定的な問題がありました。
会社設立に関して支出した費用は、会社が不成立となった場合、発起人側が負担するものです。
それを当然に株式引受人へ転嫁できるわけではありません。
「つまり、設立準備費用でお金を使ったから、和子さんの三百万円を返さなくてよい、とはならないんですね」
「そうだ」
私は頷きました。
ただし。
実際に払込金を返還する場合には、払込取扱銀行における保管状況や返還手続も確認する必要があります。
発起人が責任を負うことと、発起人個人の財布から常にその全額を直接支払うことは、同じではありません。
黒田の事件でも。
払込金の管理状況を確認し、必要な手続を進めたうえで、三百万円が返還されたのでした。
「ここも、簡単に混同しちゃいけないんですね」
「ああ」
片桐所長が言いました。
「誰が責任を負うかと、どこに金が保管されているかは、別に確認しろ」
「はい!」
私は、その言葉をノートに書きました。
そして。
「所長、会社が成立しなかった場合、発起人に過失がなくても責任を負うんですか?」
所長が頷きました。
「会社不成立の責任は、任務懈怠責任とは性質が違う」
「……ということは」
「設立に失敗したのは自分の過失ではない、と言うだけでは、当然に免責されない」
私は息を呑みました。
「厳しいですね……」
相馬先輩が言いました。
「外部の人間を巻き込んで会社を作ろうとしたんだ。それだけの責任があるってことだ」
なるほど。
会社不成立責任では。
誰が悪かったかという話だけではなく。
会社を設立しようとした発起人の立場そのものが、重要になるのです。
「じゃあ先輩」
「何だ」
「七人の発起人がいて、そのうち一人が『俺は悪くない!』と言っても……」
「それだけでは責任を免れない」
「そうですよね!」
私はノートに書きました。
――会社不成立責任は、発起人の過失の有無だけで決まるものではない。
現代の会社法第五十六条も、基本的な考え方を受け継いでいます。
株式会社が成立しなかったときは、発起人が連帯して、設立に関してした行為について責任を負い、設立費用を負担する。
「昭和の商法と、現代の会社法」
私は呟きました。
「条文番号は違うのに、考え方はつながってるんですね」
「そうだな」
相馬先輩が頷きました。
法律が変わっても。
守ろうとするものまで、全部変わるわけではありません。
そこが、面白いところです。
◇
「さて、確認問題だ」
相馬先輩が言いました。
「はい!」
「黒田の会社は、成立したか?」
「いいえ。設立登記に至っていません!」
「じゃあ、現代の会社法第五十二条に基づいて、成立した会社に四百五十万円の不足額を填補する義務を追及できるか?」
「できません! 会社が成立していないからです!」
「よし」
「では、会社が成立していた場合は?」
「現物出資財産の価額が定款記載額に著しく不足すれば、財産価額填補責任が問題になります!」
「誰が負う?」
「現代の会社法では、発起人と設立時取締役が原則として連帯して責任を負います!」
「設立時監査役は?」
「財産価額填補責任の基本的な対象者には含まれません!」
「よし」
相馬先輩が続けます。
「じゃあ、設立時監査役が任務を怠って会社に損害を与えたら?」
「会社に対する任務懈怠責任が問題になります!」
「第三者に対する責任は?」
「職務について悪意または重大な過失があり、それによって第三者に損害を与えた場合です!」
「連帯責任は?」
「複数の者が同じ損害について責任を負う場合、連帯債務となります!」
「よし」
私は拳を握りました。
完璧。
今なら間違えません。
「じゃあ、次」
相馬先輩が、少し意地悪そうな顔をしました。
「発起設立で、現物出資をしていない発起人が、職務について注意を怠らなかったことを証明した場合は?」
「現代の会社法では、財産価額填補責任について免責が認められます!」
「募集設立では?」
「その証明だけでは免責されません!」
「検査役の調査を経ていた場合は?」
「所定の検査役調査を経た場合、現物出資者本人などではない発起人や設立時取締役には、免責が認められます!」
「現物出資した本人は?」
「その免責規定の対象外です!」
「よし」
私は得意になって続けました。
「さらに、現代の会社法では、財産価額填補責任など一定の責任を免除するには、原則として総株主の同意が必要です!」
「そうだ」
「社長の独断では免除できません!」
「当然だな」
私は思わず笑いました。
「先輩!」
「何だ」
「これ、もう過去問で間違えない気がします!」
「気がするだけじゃ駄目だぞ」
「厳しい!」
そこへ。
片桐所長が、静かに口を開きました。
「こはる」
「はい!」
「最後に一問だ」
「お願いします!」
「会社が成立しなかった。発起人に過失はない。設立に関してした行為について、責任を負わずに済むか」
私は即答しました。
「いいえ!」
「理由は?」
「会社不成立責任は、発起人が設立に関してした行為について負う法定の責任であり、過失がないことだけで当然に免責されるわけではないからです!」
所長が頷きました。
「よし」
私は、思わず立ち上がりました。
「やった!」
財産価額填補責任。
任務懈怠責任。
会社不成立責任。
三つの違いが。
ようやく、頭の中で整理できました。
◇
「でも、所長」
私は椅子に座り直しました。
「一つ、不思議なことがあります」
「何だ」
「どうして昔は、株式会社を作るのに七人もの発起人が必要だったんでしょう」
所長は、少し考えました。
「会社は、個人の商売とは違うからだ」
「はい」
「大勢の者が資本を出し合い、組織として事業を営む。その形を重視していた」
なるほど。
昭和六十三年。
株式会社の設立は、現代よりもずっと大がかりでした。
発起人七人以上。
取締役三人以上。
監査役一人以上。
現代のように、発起人一人、取締役一人で簡単に株式会社を作ることはできません。
「でも、その結果……」
私は、黒田の事件を思い出しました。
「名前だけの発起人が生まれることもあったんですね」
「そうだ」
相馬先輩が言いました。
「人数を揃えることが目的になっちまうんだよ」
「ですよね」
本来、発起人とは。
会社を設立するために必要な手続を進め、その責任を負う立場の人です。
ところが。
発起人を七人集めなければならない。
だから。
親戚に頼む。
友人に頼む。
取引先に頼む。
「名前だけ貸してくれ」
そうして人数を揃える。
「でも、名前だけのつもりでも、正式に発起人となれば法律上の責任が問題になる」
「そうだ」
相馬先輩が頷きました。
「黒田の知り合いも、それで慌ててたな」
「はい」
私は思いました。
昔の商法は、会社という組織の形を整えることを重視していた。
けれど。
形式だけを満たしても。
必ずしも、実質的に責任ある経営になるとは限らない。
「だから、現代では変わったんですね」
私は呟きました。
平成の改正を経て、発起人の最低人数に関する規制が緩和され、一人で株式会社を設立できるようになりました。
そして。
平成十七年に会社法が制定され、翌平成十八年から施行。
それまで商法第二編や有限会社法などに分かれていた会社に関する制度が、大きく再編・整理されました。
「現代では、株式会社の設立がずっと簡単になりました」
私は言いました。
「一人で会社を作ることもできます」
「……本当にそんな時代が来るのか?」
相馬先輩が、怪訝な顔をしました。
しまった。
私は咳払いしました。
「い、いえ! 仮に将来、そうなったとしたらです!」
「また妙なことを考えてるな」
「勉強熱心なんです!」
私は誤魔化しました。
でも。
現代では、設立時の資本金についても、かつての最低資本金規制が撤廃されています。
法律上は、資本金一円からの株式会社設立も可能。
また、合同会社という会社形態もあります。
現代の会社法では、取締役会を設置しない株式会社なら、取締役一人で運営できる場合もあります。
「昔のように、無理に人数を集めなくてもよい仕組みになったんですね」
私は言いました。
片桐所長が頷きました。
「組織の形だけでなく、実際の責任を明確にすることも大切だ」
「はい」
そして。
現代の会社法は、設立を簡単にする一方で。
現物出資の価額不足。
設立関係者の任務懈怠。
会社不成立の場合の責任。
こうした問題について、引き続き規定を置いています。
設立のハードルは下がった。
でも。
設立に関わる責任が、なくなったわけではない。
「先輩」
「何だ」
「会社を作りやすくすることと、いい加減に作っていいことは、別なんですね」
「当たり前だろ」
私は笑いました。
でも。
その当たり前が、今回の事件では一番大切だった気がします。
◇
窓の外は、もう薄暗くなっていました。
私はノートを見直しました。
財産価額填補責任。
任務懈怠責任。
会社不成立責任。
最初は、よく似た三つの言葉でした。
でも。
今は違います。
一つ目。
会社が成立した。
しかし、現物出資した財産の価額が、定款の記載額に著しく不足している。
だから、その不足を誰が補うのか。
二つ目。
会社設立に関わる者が、職務を怠った。
その結果、会社や第三者に損害が発生した。
だから、誰が賠償するのか。
三つ目。
そもそも、会社が成立しなかった。
だから、設立に関してした行為や費用の責任を誰が負うのか。
「……ああ」
私は、思わず声を漏らしました。
「分かりました」
相馬先輩が顔を上げます。
「何がだ」
「三つの責任って、全部違う問題を解決するためにあるんです」
「そうだ」
「会社に入る財産が足りなければ、価額を填補する」
「うん」
「職務を怠って損害を出せば、賠償する」
「うん」
「会社が成立しなければ、発起人が設立に関する責任を負う」
「そうだ」
私は頷きました。
やっと。
ただの暗記ではなくなった気がします。
五百万円の冷凍設備。
実際には五十万円。
不足額四百五十万円。
そして。
村瀬和子さんの三百万円。
同じ事件の中に出てきた数字でも。
誰の財産なのか。
誰に損害が生じたのか。
誰が責任を負うのか。
その意味は、まったく違う。
「所長」
「何だ」
「一つの事件に、いくつもの法律問題が隠れているんですね」
所長が頷きました。
「そうだ」
「だから、最初に事実を確認する」
「うん」
「会社が成立したのか、していないのか」
「そうだ」
「そして、責任の種類を間違えない」
所長は、短く言いました。
「それが実務だ」
私は笑いました。
たった一言。
でも。
今回の勉強で、一番大事なことかもしれません。
私は、最後のページを開きました。
ここに。
今日の一行を書きます。
鉛筆の先を整えて。
ゆっくり。
――財産が足りなければ「填補」、仕事を怠れば「賠償」、会社ができなければ「発起人が責任」。
「……できた!」
私はノートを掲げました。
「どうですか!」
相馬先輩が覗き込みました。
「まあ、覚えやすいんじゃねえか」
「褒めましたね!」
「気のせいだ」
「またそれですか!」
私は笑いました。
でも。
この一行は、きっと忘れません。
なぜなら。
黒田の事件を思い出せばいいからです。
五十万円の冷凍設備を、五百万円と記載した男。
名前だけの発起人を集めた男。
会社ができなかったから責任はないと言い張った男。
その男が。
商法の責任規定を知った瞬間、顔色を変えた。
あの出来事を思い出せば。
三つの責任が、全部つながります。
法律は。
会社を作ろうとする人間の自由を、ただ制限しているわけではありません。
会社に出資する人。
会社と取引する人。
そして、会社という組織そのもの。
それらを守るために、責任の所在を明らかにしているのです。
◇
「ところで、こはる」
相馬先輩が言いました。
「はい?」
「今日の勉強会は終わりか?」
「はい!」
「じゃあ、机を片付けろ」
「え?」
「六法も戻せ」
「はい」
「ついでに、床も掃け」
「……また掃除ですか?」
「見習いだろ」
私は腕を組みました。
「先輩」
「何だ」
「私にも、任務懈怠責任がありますか?」
相馬先輩が、煙草をくわえたまま止まりました。
「は?」
「私が掃除を怠ったら、任務懈怠責任ですか?」
「何を言ってるんだ、お前は」
「だって、任務を怠るってことですよね!」
「会社法の設立関係者の責任を、掃除に持ち込むな!」
「でも、任務ですよ!」
「お前は発起人でも設立時取締役でもねえだろ!」
私は、少し考えました。
「……確かに」
「確かに、じゃねえ!」
相馬先輩が呆れた顔をしました。
「法律用語が同じだからって、何でも同じ責任になると思うなよ」
「はい……」
なるほど。
ここでもまた。
法律の言葉を、正確に使わなければなりません。
任務を怠る。
日本語としては、掃除をサボることも含まれそうです。
でも。
会社法第五十三条の任務懈怠責任は、株式会社の設立に関する特定の法律上の責任。
私が掃除をサボったからといって、突然その条文が適用されるわけではありません。
「……分かりました」
私は箒を手に取りました。
「掃除します!」
「いい返事だ」
「でも先輩!」
「まだあるのか!」
「もし私が掃除をしなくて、事務所が汚くなったら……」
「何だ」
「財産価額填補責任ですか?」
「違う!」
「じゃあ、会社不成立責任?」
「会社を作ってねえだろ!」
「では、何の責任でしょう?」
相馬先輩が、にやりとしました。
「見習いとして怒られる責任だ」
「そんな責任、六法にありません!」
「所長!」
相馬先輩が奥へ声をかけました。
「こはるが掃除したくないそうです!」
「ちょっと!」
片桐所長は、帳簿から顔を上げませんでした。
そして。
「こはる」
「はい……」
「掃除を頼む」
「……はい」
相馬先輩が吹き出しました。
「ほらな」
「何ですか!」
「法律を覚えても、掃除から逃げられるわけじゃねえんだよ」
「ぐっ……!」
確かに。
財産価額填補責任を知っていても。
任務懈怠責任を説明できても。
会社不成立責任を暗記していても。
箒は勝手に動いてくれません。
残念ながら。
そこまで便利な法律は、存在しないようです。
私は、笑いながら床を掃き始めました。
窓の外。
昭和六十三年の町に、夕暮れが広がっています。
遠くの工場から、仕事を終えた人々が帰っていきます。
あのどこかで。
村瀬和子さんは、今日も弁当店の厨房に立っているのでしょう。
戻ってきた三百万円を、大切に守りながら。
そして。
娘さんの新しい靴を、選んでいるのかもしれません。
財産価額填補責任。
任務懈怠責任。
会社不成立責任。
言葉は硬い。
覚えることも多い。
けれど。
その三つを区別できるだけで、守れるものがあります。
会社に入るはずだった財産。
真面目に出資した人のお金。
職務違反によって損害を受けた人の利益。
そして。
会社ができなかったからといって、消えてよいはずのない責任。
私は箒を止め、ノートの最後の一行をもう一度読みました。
――財産が足りなければ「填補」、仕事を怠れば「賠償」、会社ができなければ「発起人が責任」。
よし。
完璧。
「こはる!」
相馬先輩の声が飛びました。
「はい!」
「ノートを見てねえで掃除しろ!」
「今、学習内容を確認してたんです!」
「確認は後だ!」
「先輩!」
「何だ!」
「私が掃除を終わらせなかった場合……」
「まだ言うか!」
「掃除不成立責任は、誰が負うんでしょう?」
相馬先輩は、しばらく黙りました。
それから。
「……お前だよ!」
私は笑いました。
なるほど。
どうやら。
会社不成立責任と違って。
掃除不成立責任には、連帯してくれる発起人がいないようです。
残念ながら。
こればかりは、私一人で責任を負うしかありませんでした。
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