[会社法・会社設立に関する責任]現場編 「会社ができなかったから責任もない」の大嘘。五百万円の機械は五十万円、逃げた発起人を追い詰める三つの責任
会社を作るのは、人間です。
けれど。
会社を作ろうとして失敗したとき。
その責任まで、消えてなくなるわけではありません。
まして。
五十万円の機械を、五百万円だと言い張ったら。
差額の四百五十万円は、いったい誰が負担するのでしょうか。
「株式会社になれば、個人には責任がない!」
そんな言葉を信じて、お金を出した人がいました。
「会社ができなかったんだから、返す義務もない!」
そう言って、逃げようとした男がいました。
しかし。
その男は、忘れていたのです。
株式会社を作るときには。
会社が成立した場合の責任だけでなく。
会社が成立しなかった場合の責任もあることを。
昭和六十三年。
片桐行政書士事務所。
今回、私が向き合うことになったのは。
会社設立に関する、三つの責任でした。
財産価額填補責任。
任務懈怠責任。
そして。
会社不成立の責任。
似ているようで、まったく違う。
しかも、私は最初に。
とんでもない間違いを犯しかけることになります。
「三百万円が、戻ってこないんです」
朝九時。
事務所を訪れた女性は、そう言いました。
「三百万円……?」
私は思わず聞き返しました。
女性の名前は、村瀬和子さん。
四十二歳。
駅前で、小さな仕出し弁当店を営んでいます。
夫を五年前に亡くし、女手一つで店を守ってきたそうです。
「主人が残してくれた保険金と、店の利益を少しずつ貯めたお金なんです」
和子さんは、膝の上の封筒を握りしめました。
「そのお金を、新しい会社に出したんです」
「新しい会社?」
「はい。東海食品流通株式会社という会社を作るから、株主にならないかって」
私は顔を上げました。
株式会社。
来ました。
商法・会社法です。
「誰に誘われたんですか?」
「黒田という人です」
和子さんが一枚の名刺を取り出しました。
――東海食品流通株式会社設立発起人代表。
――黒田栄一。
立派な肩書です。
金色の文字。
裏には、
――地域食品流通の未来を拓く。
と印刷されています。
……。
こういう名刺。
肩書が立派なほど、疑いたくなるのは私だけでしょうか。
「黒田さんは、どんな説明を?」
「新しい冷凍食品の流通会社を作るそうです。大きな冷凍設備があるから、県内の弁当屋や食堂に安く食材を届けられるって」
「なるほど」
「私の店にも、安く材料を卸してくれると言いました」
それは魅力的です。
小さな弁当店にとって、仕入価格は死活問題。
一円でも安く材料が手に入れば、店を続ける助けになります。
「それで、株式を引き受けたんですね」
「はい」
「お金は、どこに払い込みましたか?」
「黒田さんに案内された銀行です。株式申込証に署名して、指定された払込取扱銀行へ三百万円を払い込みました」
私は頷きました。
少なくとも、単に黒田個人へ現金を手渡した話ではなさそうです。
「会社の設立登記は?」
和子さんは首を横に振りました。
「それが……」
声が震えます。
「会社は、できなかったそうなんです」
「え?」
「設立をやめると決まったから、お金は返せないって」
私は固まりました。
「……どういうことですか?」
和子さんが封筒から手紙を取り出しました。
そこには、こう書かれていました。
――東海食品流通株式会社の設立計画は諸般の事情により中止となりました。
――会社は成立しておらず、法人としての返還義務は存在しません。
――設立準備に相当額の費用を要しているため、払込金の返還には応じかねます。
……。
私は、もう一度読みました。
会社ができていない。
だから返す義務がない。
設立準備で使った。
だから返せない。
「ちょっと待ってください」
私の声が大きくなりました。
「そんな理屈、通りませんよ!」
和子さんが顔を上げます。
「本当ですか?」
「はい! 株式会社の設立が失敗した場合、発起人が責任を負うんです!」
私は勢いよく立ち上がりました。
「会社法第五十六条です!」
「……何法?」
相馬先輩の声。
しまった。
私は固まりました。
「もう一回言ってみろ」
「……会社法です」
「どこにあるんだ、そんな法律」
「ええと……」
先輩が机を指で叩きました。
「昭和六十三年だぞ」
そうでした。
ここは現代ではありません。
昭和六十三年。
独立した会社法は、まだ存在しないのです。
会社のルールは、商法第二編などにあります。
「お前なあ」
相馬先輩が呆れた声を出しました。
「また未来の六法でも読んできたのか?」
「い、いえ!」
「会社法第五十六条なんて、どこの国の話だ」
「……遠い未来です」
「何?」
「何でもありません!」
危ない。
転生者。
またしても時代錯誤。
私は慌てて、昭和の商法を開きました。
相馬先輩は大きくため息をつきました。
「今ある法律で考えろ」
「はい……」
「で、こはる」
「はい」
「本当に、会社は成立してないのか?」
「え?」
「そこを確かめろ」
私は和子さんを見ました。
「設立登記は、まだされていないんですよね?」
「はい。黒田さんは、登記する前に設立をやめたと言っていました」
「なぜですか?」
「それが……」
和子さんは、別の紙を取り出しました。
「機械の値段をごまかしていたそうなんです」
私は目を瞬かせました。
「機械?」
「黒田さんが、五百万円の価値があると言っていた冷凍設備です」
そこに。
今回の事件の核心が、隠れていました。
「五百万円の機械が、実際には五十万円?」
私は思わず声を上げました。
和子さんが頷きます。
「そうなんです」
話を整理すると、こうでした。
黒田は、七人の発起人を集めて、東海食品流通株式会社の設立を進めていました。
黒田自身も、発起人として株式を引き受けています。
ただし。
黒田が出すのは現金ではありません。
冷凍設備。
工場で使われていた中古の冷凍機械です。
その価額。
五百万円。
定款にも、そう記載されていたそうです。
「でも、機械屋さんに見てもらったら……」
和子さんは声を落としました。
「古くて故障も多いから、五十万円程度の価値しかないって」
五百万円。
五十万円。
差額。
四百五十万円。
「……十倍じゃないですか」
私は呟きました。
相馬先輩が腕を組みます。
「派手にやったな」
「派手どころじゃありません!」
私は定款の写しを読みました。
――現物出資をなす者の氏名。
――黒田栄一。
――現物出資の目的たる財産。
――業務用冷凍設備一式。
――その価格。
――金五百万円。
……。
間違いありません。
現物出資です。
現金の代わりに、機械や土地などの財産を出資すること。
「これ、会社が成立していたら大問題ですよね」
私が言うと、相馬先輩が頷きました。
「そうだ」
「だって、五百万円の財産が入るはずなのに、五十万円の価値しかないんですよ?」
「ああ」
「会社の財産が、最初から四百五十万円も足りない!」
「そのとおりだ」
私は拳を握りました。
「だったら、財産価額填補責任です!」
相馬先輩がこちらを見ました。
「ほう」
よし。
今度こそ。
私の現代知識が役に立つ。
「現物出資した財産の価額が定款の記載額に著しく不足していれば、発起人や設立時取締役が不足額について責任を負うんです!」
「考え方は合ってる」
「ですよね!」
「ただし」
先輩が言いました。
「今、何て言った?」
「財産価額填補責任です」
「その前」
「設立時取締役……」
「また現代の用語を混ぜたな」
「あっ」
そうでした。
昭和の商法にも、会社成立前の取締役や監査役を選任する仕組みはあります。
でも。
現代の会社法の条文を、そのまま昭和へ持ち込むことはできません。
相馬先輩は六法を開きました。
「それに、もっと大きな問題がある」
「何でしょう」
「その会社は、成立したのか?」
「……してません」
「じゃあ、今すぐ成立した会社に対する不足額の填補請求をするのか?」
私は止まりました。
あ。
そうです。
会社が成立した場合。
現物出資財産が定款の価額に著しく不足していれば、その不足を誰が負担するかが問題になります。
でも。
会社そのものが成立していなければ。
成立した会社に対する不足額の填補責任を、そのまま請求する話にはならない。
「つまり……」
私は言いました。
「今、和子さんを救うために使う責任は、別のもの?」
「そうだ」
相馬先輩が頷きました。
「設立に失敗した責任だ」
片桐所長が、ようやく口を開きました。
「まず、登記の有無を確認しろ」
「はい」
「次に、設立中止の経緯だ」
「はい」
「発起人の全員を確認しろ」
「はい!」
「それから」
所長は定款を指差しました。
「この五百万円が、なぜ五百万円になったのかを調べろ」
私は頷きました。
会社の設立。
それは、定款を作ってハンコを押せば終わりではありません。
現物出資。
財産の価額。
発起人。
設立中の役員。
株式引受人。
そして。
会社が成立しなかった場合の責任。
全部が、つながっているのです。
翌日。
私と相馬先輩は、東海食品流通株式会社の設立準備事務所を訪れました。
駅から車で十五分。
工業団地の一角。
倉庫の隣に、プレハブの事務所がありました。
入口には、大きな看板。
――東海食品流通株式会社。
……。
会社ができていないのに。
看板だけは立派です。
「先輩」
「何だ」
「株式会社って書いてありますよ」
「書くのは勝手だ」
「でも、成立していないんですよね?」
「ああ」
「じゃあ、看板の名前だけで会社が生まれるわけじゃない」
「当然だろ」
私は頷きました。
現代でも昭和でも。
株式会社は、設立登記によって成立します。
名前を決めただけでは駄目。
定款を作っただけでも駄目。
株式を引き受けてもらっただけでも駄目。
登記まで到達しなければ、株式会社という法人は成立しません。
「おい」
事務所の奥から声がしました。
「何だ、あんたら」
現れたのは、五十歳前後の男。
白い開襟シャツ。
金色の腕時計。
濃い色のサングラス。
黒田栄一。
設立発起人代表です。
「片桐行政書士事務所の相馬です」
「行政書士?」
黒田は鼻で笑いました。
「弁護士でもない奴が、何の用だ」
……。
出ました。
この手の人。
どうして毎回、行政書士を舐めるのでしょうか。
相馬先輩は落ち着いて言いました。
「会社設立関係書類について、事実確認をお願いしたい」
「何だ。村瀬の婆さんに頼まれたのか」
私は眉をひそめました。
婆さん。
四十二歳の女性に対して、失礼にもほどがあります。
「村瀬さんは、株式引受けのため三百万円を払い込んでいます」
「ああ」
「会社が不成立になったと伺いました」
「そうだ」
「設立登記はしていない?」
「してねえよ」
「払込金の返還について、どのようにお考えですか」
黒田は笑いました。
「返せねえものは返せねえ」
「理由は?」
「会社を作るのに金がかかったんだよ」
黒田は椅子に腰を下ろしました。
「事務所代。印刷代。看板代。人件費。機械の運搬費。全部で相当な金が消えた」
「それで?」
「それで終わりだ」
黒田は机を叩きました。
「会社はできなかった。だから会社には返還義務がない。そういうことだろ?」
私は口を開きかけました。
ですが。
相馬先輩が、私の肩を軽く叩きました。
黙れ。
という合図です。
「発起人は何人ですか」
「七人だ」
「全員が正式に発起人として定款に署名していますか」
「ああ」
「その七人のうち、実際に設立事務を担当したのは?」
「俺と経理の男だ」
「ほかの五人は?」
「名前を貸してもらっただけだ」
……。
来ました。
名前貸し。
「株式会社を作るには人数が必要だろ」
黒田は笑いました。
「俺一人で作れるなら、面倒なことはしねえよ」
私は思いました。
現代なら。
一人でも株式会社は作れます。
発起人一人。
取締役一人。
資本金一円からでも設立可能。
合同会社という選択肢だってあります。
でも。
昭和六十三年には。
株式会社の発起人は七人以上必要。
取締役も三人以上。
監査役も一人以上。
簡単には作れません。
だから。
頭数合わせ。
名義だけの発起人。
名前だけの役員。
そういう歪んだ設立計画が生まれやすかったのです。
「先輩」
私は小声で言いました。
「こういうとき、合同会社なら……」
「何だそれ」
「あっ」
「また訳の分からねえ会社を持ち出すな」
「……はい」
現代知識。
また封印です。
黒田は、こちらのやり取りを見て笑いました。
「何だ。お嬢ちゃん、法律も知らねえのか」
ぐっ。
腹が立ちます。
でも。
その黒田が、次に言った言葉で。
私は別の意味で息を呑みました。
「とにかく、金はもうない。文句があるなら、できなかった会社に請求しろ」
……。
できなかった会社に請求?
存在しない法人に?
私は思わず聞き返しました。
「黒田さん」
「あ?」
「会社が成立しなかった場合、発起人の責任はどうなるんですか?」
黒田は鼻で笑いました。
「知らねえよ」
「知らない?」
「ああ。会社ができなかったんだから、俺はただの個人だろ」
私は、相馬先輩を見ました。
先輩は静かに言いました。
「黒田さん」
「何だ」
「今の話は、確認できました」
「だから何だよ」
「今後の連絡は、書面でお願いします」
黒田が眉をひそめました。
「は?」
「必要な事実は確認しましたので」
相馬先輩は名刺を置きました。
そして、立ち上がりました。
「失礼します」
私は慌てて後を追いました。
「先輩!」
外へ出るなり、私は声を上げました。
「何で何も言わないんですか!」
「何をだ」
「発起人の責任ですよ!」
「分かってる」
「だったら、あそこで言い返せば……」
「こはる」
先輩は足を止めました。
「俺たちは何屋だ」
「行政書士です」
「そうだ」
「書類の専門家です」
「うん」
「だからこそ、法律を説明して……」
「相手との争いを、依頼人の代理人として交渉する仕事じゃねえ」
私は口を閉じました。
「相手が返還を拒否してる。そこを口で押し切って示談するのは、俺たちの仕事じゃない」
「……はい」
「だが」
先輩は、事務所の看板を振り返りました。
「本人が通知するための書面を、事実に基づいて作ることはできる」
「はい」
「それに、相手の主張が書面で残れば、弁護士に引き継ぐときにも役立つ」
私は頷きました。
「つまり、黒田さんの逃げ道を、書類で整理するんですね」
「そういうことだ」
先輩は煙草を取り出しました。
「しかし、あいつは面白いな」
「面白い?」
「ああ」
「どこがですか?」
「会社ができなかったから責任がない、だとさ」
相馬先輩は笑いました。
「逆だよ」
そして。
低い声で言いました。
「会社ができなかったからこそ、発起人が責任を負うんだ」
私は、その言葉を胸に刻みました。
事務所へ戻ると。
片桐所長が、別の書類を机に並べていました。
発起人の一覧。
定款の写し。
株式申込証。
払込金保管証明に関する資料。
設立費用の明細。
それから。
中古冷凍設備の査定書。
「こはる」
「はい」
「この事件には、二つの道がある」
「二つ?」
「会社が成立していた場合と、成立しなかった場合だ」
所長は、一枚の紙を机の左側に置きました。
「まず、成立していた場合」
そこには、五百万円と書かれていました。
「黒田が、五百万円の価額で現物出資した冷凍設備」
「はい」
「実際の価値は、五十万円程度」
「はい」
「差額は?」
「四百五十万円です」
「そうだ」
所長は頷きました。
「もし会社が成立し、出資された財産の価額が定款記載額に著しく不足していれば、その不足を誰が負担するかが問題になる」
私は言いました。
「現物出資した発起人!」
「それだけか」
「……ほかの発起人や、設立時の取締役にも、法律上の責任が問題になります」
「そうだ」
所長は頷きました。
「ただし、具体的に誰が責任を負うか、検査役の調査や必要な注意の有無がどう影響するかは、適用される制度と設立方法を見て判断する」
「はい」
「現物出資者と、それ以外の者とを同じように扱ってはいけない」
なるほど。
ここは、細かい。
でも。
私は一つだけ、はっきり分かりました。
会社に入るはずだった財産が、最初から大きく不足している。
それを放置すれば。
株主も。
債権者も。
会社そのものも。
損害を受ける可能性があります。
「じゃあ所長」
「何だ」
「今回の黒田が、実際には五十万円の機械しか出していないのに、五百万円の出資をしたことにして会社を作っていたら……」
「成立した会社の財産を害する重大な問題だ」
「ですよね!」
私は拳を握りました。
でも。
所長は首を横に振りました。
「今回は、そこだけを追っても村瀬さんの三百万円は戻らん」
私は止まりました。
そうでした。
会社は、不成立。
まだ存在していません。
所長は、もう一枚の紙を置きました。
「では、会社が成立しなかった場合」
私は読みました。
商法第百九十四条。
会社不成立の場合の発起人の責任。
「……これです!」
昭和六十三年。
会社設立に失敗した場合について、商法は既に責任を定めています。
現代の会社法第五十六条とは条文番号が違う。
でも。
株式会社を作ろうとした発起人に、設立不成立の責任を負わせるという考え方は、昭和にもあるのです。
「発起人は、会社の設立に関してした行為について、責任を負う」
私は声に出しました。
「そして、設立に関して支出した費用も……」
「発起人側が負担する」
相馬先輩が言いました。
「そうです!」
私は和子さんの手紙を思い出しました。
会社ができなかった。
準備費用で金を使った。
だから返さない。
……。
違う。
まったく違う。
「先輩!」
「何だ」
「黒田さん、準備費用で使ったことを言い訳にしていましたよね!」
「ああ」
「でも、会社が不成立になったとき、その費用を当然に株式引受人へ押しつけられるわけじゃない!」
「そのとおりだ」
私は思わず立ち上がりました。
「しかも、発起人は七人!」
「そうだ」
「名前を貸しただけの人も、正式に発起人になっているなら、その地位から生じる責任が問題になる!」
「そのとおり」
相馬先輩が、にやりとしました。
「黒田は、自分で逃げ道を塞いでるんだよ」
七人必要だから。
名前を借りた。
それなのに。
会社が成立しなかったら。
「名前を貸しただけだから知らない」
そう言えば、当然に責任を免れると考えていた。
しかし。
法的に発起人となっている以上。
設立不成立の責任から、簡単には逃げられません。
「ただし」
所長が言いました。
「署名の真偽は確かめろ」
「え?」
「無断で名前を使われた者まで、発起人だと決めつけるな」
「あ……」
「実際に定款へ署名したのか。本人の意思があったのか。そこが先だ」
私は頷きました。
名義貸し。
そう一言で片付けてはいけない。
自分の意思で発起人になったのか。
勝手に名前を使われたのか。
その違いは、大きいのです。
「ところで」
相馬先輩が、冷凍設備の査定書を手に取りました。
「もう一つ、気になることがある」
「何ですか?」
「これだ」
先輩が指差したのは、査定書の日付でした。
昭和六十三年六月十日。
「この日付がどうかしました?」
「設立廃止の決定は、いつだ」
「六月二十日です」
「十日前だな」
「はい」
「なのに黒田は、六月二十日まで機械は五百万円だと説明していた」
私は目を見開きました。
「……知っていた?」
「可能性がある」
相馬先輩は、別の紙を取りました。
それは、機械の修理見積書。
日付。
五月二十八日。
内容。
――冷凍圧縮機交換を要する。
――修理費概算百八十万円。
――経年劣化著しく、継続使用は推奨しない。
私は息を呑みました。
「……もっと前から分かっていたんですね」
「少なくとも、故障は把握できたはずだ」
「それなのに、五百万円?」
「ああ」
先輩は紙を置きました。
「これは、単なる見積違いじゃ済まねえ可能性がある」
私は頷きました。
発起人には、会社の設立に関して、適切に職務を遂行する責任があります。
設立時の取締役や監査役にも、それぞれの職務があります。
その任務を怠って損害を与えれば。
任務懈怠による責任が問題になります。
特に。
故意や重大な不注意によって第三者に損害を与えた場合には、第三者に対する責任も問題になり得る。
ただし。
「所長」
「何だ」
「今回、任務懈怠責任も請求できるんですか?」
所長は首を横に振りました。
「まだ断定するな」
「え?」
「会社は成立していない。設立に関する責任のうち、成立を前提とするものをそのまま当てはめるな」
「……はい」
「それに、誰が何を知り、どんな任務に違反し、誰にどんな損害を与えたか。証拠を分けて考えろ」
私は頷きました。
なるほど。
財産価額填補責任。
任務懈怠責任。
会社不成立の責任。
どれも、会社設立に関係しています。
でも。
同じものではありません。
成立した会社に財産不足があれば、財産価額填補の問題。
設立の職務を怠って損害を生じさせれば、任務懈怠の問題。
会社が成立しなかったら、発起人の不成立責任の問題。
そして。
今回、和子さんの三百万円を取り戻すために、まず正面から向き合うのは。
会社不成立の責任でした。
「こはる」
片桐所長が言いました。
「村瀬さんの書面を作れ」
「はい!」
「感情を書くな」
「はい」
「確かめた事実と、適用される法律を書け」
「はい!」
「それから」
所長は、私を見ました。
「四百五十万円と三百万円を混同するな」
「……え?」
「現物出資の不足額と、村瀬さんの払込金だ」
「あっ」
私は慌ててノートに書きました。
四百五十万円。
冷凍設備の価額の差額。
三百万円。
和子さんの払込金。
数字が違う。
責任の性質も違う。
請求する主体も、相手方も、法的根拠も、必ずしも同じではありません。
「いいか」
所長が言いました。
「四百五十万円を村瀬さん個人に払え、とは書くな」
「はい」
「会社が成立していないのに、成立した会社の財産価額填補責任を行使するとも書くな」
「はい!」
「では、今回の通知の中心は?」
私は答えました。
「会社不成立に伴う、三百万円の払込金返還です!」
「そうだ」
相馬先輩が笑いました。
「ようやく分かったか」
「はい!」
「じゃあ書け」
「任せてください!」
「勢いだけで書くなよ」
「分かってます!」
こうして。
私たちの、書面による反撃が始まりました。
三時間後。
机の上に、内容証明郵便の原案が置かれました。
宛先。
黒田栄一。
差出人。
村瀬和子。
表題。
――東海食品流通株式会社の設立不成立に伴う払込金返還に関する通知書。
私は、ゆっくり読み上げました。
「第一。通知人は、東海食品流通株式会社の設立に際して募集された株式を引き受け、指定された払込取扱銀行に対し、金三百万円を払い込んだ」
相馬先輩が頷きました。
「続けろ」
「第二。同株式会社は、設立手続の途中で設立を廃止し、設立登記が行われていないことを確認した」
「うん」
「第三。株式会社が成立しなかった場合には、商法第百九十四条に基づき、発起人は設立に関してした行為につき責任を負い、設立費用を負担する」
「よし」
「第四。会社が成立しなかったこと、または設立準備費用を支出したことのみを理由として、通知人の払込金の返還を拒絶することはできない」
私は、一度息を吸いました。
「第五。通知人は、払込金三百万円の返還を求める。貴殿において返還に応じない場合は、その具体的な法的根拠及び払込金の管理状況を書面で明らかにされたい」
相馬先輩が頷きました。
「最後」
「はい」
「第六。返還がなされない場合には、弁護士への相談のうえ、関係発起人に対する法的措置を検討する」
読み終わりました。
……。
私は、書面を見つめました。
罵倒の言葉はありません。
脅迫もありません。
ただ。
事実と法律が並んでいます。
でも。
黒田が反論するには。
三百万円をどの口座に払い込ませたのか。
払込金が今どこにあるのか。
誰が設立準備費用を支出したのか。
誰が正式な発起人だったのか。
なぜ会社が成立しなかったのか。
それらを、説明しなければなりません。
「所長」
「何だ」
「これ、すごく怖い書面ですね」
「そうか」
「はい。黒田さん、自分が発起人だったことを認めているんです」
「そうだな」
「しかも、会社が成立しなかったことも認めています」
「ああ」
「なのに、会社ができなかったから責任がないって……」
所長は静かに言いました。
「法律は、都合のいい半分だけを使うものじゃない」
私は黙りました。
そうです。
株式会社になれば、株主は原則として出資額を超える責任を負わない。
その仕組みだけを知っていても。
設立に関与する発起人が、別の責任を負うことを知らなければ。
会社制度の本当の意味は分からない。
「それと」
相馬先輩が一枚の紙を置きました。
「こっちは別件の事実資料だ」
冷凍設備の査定書。
修理見積書。
定款の現物出資に関する記載。
そして。
設立に関与した七人の発起人の一覧です。
「これも一緒に送るんですか?」
「いや。まずは証拠として整理しておく」
「どうしてですか?」
「三百万円の返還問題と、機械の価額水増しの問題は分けておくんだ」
なるほど。
訴訟になったとき。
発起人の設立行為。
不実の価額説明。
第三者に与えた損害。
そうした事情を検討するための資料になります。
ただし、何でも一枚の内容証明に詰め込めばよいわけではありません。
今、誰に。
何を。
どんな根拠で求めるのか。
そこを絞る。
それが、実務の書面なのです。
片桐所長が最後に言いました。
「内容を村瀬さんに確認してもらえ」
「はい」
「本人の意思で通知する書面だ」
「はい!」
「そして、送っただけで金が戻ると思うな」
私は頷きました。
内容証明郵便には、強制執行の力はありません。
相手が応じなければ、裁判など別の手続が必要になります。
だからこそ。
法律上の根拠を明確にし、証拠を保存しておく。
それが大切なのです。
三日後。
内容証明郵便が、黒田のもとへ届きました。
そして。
その翌日。
事務所に一本の電話が入りました。
「……片桐先生はいるか」
低い声。
私はすぐに分かりました。
黒田です。
「少々お待ちください」
所長に代わります。
「片桐です」
『……あんたのところから、妙な書面が届いた』
「村瀬さんご本人が通知されたものですね」
『ああ』
「内容はご確認いただけましたか」
『……した』
黒田は黙りました。
しばらくして。
『あれは、本当なのか』
「何についてでしょう」
『会社ができなかったら、発起人が責任を負うって話だ』
所長は落ち着いて答えました。
「通知書に記載した商法の規定をご確認ください」
『……確認した』
声が小さくなっています。
『知り合いの弁護士にも聞いた』
「そうですか」
『会社ができなかったからって、株式引受人の払込金を設立費用に勝手に回していいわけじゃないって……』
私は受話器の向こうの声を、思わず聞き取ろうとしました。
『それに……』
黒田が、さらに声を落とします。
『七人の発起人にも、責任が及ぶ可能性があるって言われた』
所長は黙って聞いていました。
『俺は、あいつらに名前を借りただけなんだ』
「その方々が、どのような意思で発起人となったかは、個別に確認すべきことです」
『だけど、みんな定款に署名してる』
「その事情も確認が必要でしょう」
『……』
黒田は沈黙しました。
そして。
『一人、怒ってる奴がいるんだ』
「そうですか」
『昔からの知り合いで、俺に頼まれて発起人になった奴だ』
黒田は続けました。
『もし自分にまで請求が来たら、俺を許さないって……』
私は思いました。
当然でしょう。
名前を貸して。
ハンコを押して。
それで終わりだと思っていた。
ところが。
発起人という立場には、法律上の責任が伴う。
名前だけのつもりでも。
その名前が、正式な設立書類に記載されている。
そして本人が発起人になることを承諾していたなら。
話は、簡単ではありません。
『それから……』
黒田が言いました。
『例の機械も、弁護士に見せた』
私は、思わず顔を上げました。
『五百万円って定款に書いたのに、実際には五十万円しか価値がないって……』
所長は黙っています。
『もし会社が成立していたら、それも問題になったんだな』
「現物出資財産の価額が著しく不足する場合には、商法上、関係者の責任が問題になります」
『……』
『俺は、会社を作れば自分の責任はなくなると思ってた』
所長は短く答えました。
「会社を作るためにした行為の責任まで、当然になくなるわけではありません」
長い沈黙。
そして。
黒田が言いました。
『……村瀬さんには、返す』
私は息を呑みました。
『三百万円。全額だ』
所長は、落ち着いた声で言いました。
「そのご意向は、村瀬さんへ書面で直接お伝えください」
『分かった』
「返還の具体的な方法についても、記録を残されるとよいでしょう」
『……ああ』
黒田は、力のない声で答えました。
『最初から、こんなことになるなら……』
所長が言いました。
「黒田さん」
『何だ』
「会社は、責任から逃げるために作るものではありません」
黒田は何も答えませんでした。
電話が切れました。
私は所長を見ました。
「……返すって言いましたよね?」
「ああ」
「三百万円!」
「ああ」
「やりましたね!」
すると。
相馬先輩が、新聞から顔を上げました。
「まだだ」
「え?」
「前にも言っただろ」
「……実際に返ってくるまで、安心するな?」
「正解」
私は苦笑しました。
そうでした。
返還すると言った。
それだけでは、まだ終わりません。
でも。
黒田の態度は、明らかに変わっていました。
会社ができなかったから責任がない。
そう言っていた男が。
会社ができなかったからこそ発起人に責任があることを知った。
その瞬間。
あれほど強気だった声が。
すっかり小さくなっていたのです。
一週間後。
村瀬和子さんが、事務所を訪れました。
「お金が……」
和子さんは、通帳を握りしめていました。
「三百万円、戻ってきました」
「本当ですか!」
私は思わず立ち上がりました。
「はい」
和子さんは目を潤ませました。
「黒田さんから、返還についての書面が届いて……」
その後、払込金の管理状況が確認され、必要な返還手続が進められたそうです。
黒田が不足する分を手当てし、和子さんの口座には三百万円全額が戻っていました。
「よかった……!」
私は胸を撫で下ろしました。
和子さんは、通帳を抱きしめました。
「このお金、娘のためにも残しておきたかったんです」
「娘さん?」
「高校生なんです」
和子さんが笑いました。
「来年、進学したいって言っていて」
「あ……」
「でも、店の経営も大変だから。仕入れが安くなれば、少しでも余裕ができると思って……」
私は黙りました。
黒田は、会社を作ると言いました。
地域の食品流通を変えると言いました。
小さな店を助けると言いました。
その言葉を信じて。
和子さんは、三百万円を出した。
それなのに。
会社ができなかったから返せない。
そんな一言で、終わらせようとしたのです。
「私、株主になるっていうことが、よく分かっていなかったんです」
和子さんが言いました。
「会社が失敗したら、仕方ないのかなって」
私は首を横に振りました。
「会社が成立して株主になった後の出資リスクと、会社が成立しなかったときの払込金の扱いは、別の問題なんです」
「別……」
「はい」
私は、少し考えました。
「株式会社は、出資した人を無制限に責任追及する仕組みではありません」
「はい」
「でも、それは発起人が何をしても責任を負わないという意味ではないんです」
和子さんが頷きました。
「会社を作ろうとした人にも、守らなければならない約束があるんですね」
「そうです」
私は笑いました。
「それに、設立に失敗したからといって、その費用を何でも株式引受人に押しつけていいわけではありません」
和子さんは、しばらく通帳を見つめていました。
そして。
「……このお金で、娘に新しい靴を買ってやろうと思います」
私は目を瞬かせました。
「靴ですか?」
「はい」
和子さんが笑いました。
「今の靴、底がすり減ってるんです。でも、まだ履けるからって」
胸が、少し熱くなりました。
三百万円。
数字にすれば、ただの金額。
でも。
そのお金には。
毎朝早く起きて作った弁当があり。
暑い厨房で流した汗があり。
亡くなった夫が残した思いがあり。
娘の未来がありました。
法律が守っているのは。
数字だけではないのです。
和子さんが帰ったあと。
私は、机の上の定款を見つめました。
五百万円。
五十万円。
三百万円。
三つの数字が、頭の中をぐるぐる回ります。
「先輩」
「何だ」
「今回、会社が成立していたら、どうなっていたんでしょう」
相馬先輩が顔を上げました。
「何の話だ」
「冷凍設備です」
「ああ」
「定款には五百万円。実際には五十万円」
「そうだな」
「もし、そのまま株式会社ができていたら……」
先輩は頷きました。
「財産の価額が著しく不足している。そこで、財産価額を填補する責任が問題になる」
「はい」
「しかも、現物出資した黒田だけを見ればいいとは限らねえ」
「ほかの発起人や設立時の役員ですね」
「そうだ」
私は思いました。
名義だけの発起人。
名前だけの取締役。
何も確認しない監査役。
もし、そういう人たちが会社設立に関与したら。
誰が、どの責任を負うのでしょうか。
「でも先輩」
「何だ」
「監査役まで、現物出資の不足額を当然に負担するんですか?」
相馬先輩は首を横に振りました。
「そこが違う」
「え?」
「価額不足を填補する責任と、任務を怠ったことによる損害賠償責任は別物だ」
私は目を見開きました。
「……別物」
「ああ」
「じゃあ、監査役については?」
「監査役だからというだけで、出資財産の不足額をそのまま払う立場になるわけじゃねえ。だが、自分の職務を怠って損害を生じさせたなら、その責任は別に考える必要がある」
なるほど。
財産価額填補責任。
任務懈怠責任。
似ているようで、違う。
「それに」
私は言いました。
「会社が成立しなければ、今度は発起人の会社不成立責任が問題になる」
「そうだ」
私は、ノートを開きました。
三つの責任。
それぞれ、法律が守ろうとしているものが違う。
会社に入るはずだった財産。
設立関係者が果たすべき職務。
会社が成立しなかったときの取引や払込金。
全部。
会社を作るという行為に、責任を持たせるための仕組みなのです。
「先輩」
「何だ」
「株式会社って、作る前から責任があるんですね」
相馬先輩が笑いました。
「当たり前だろ」
「でも、何だか不思議です」
「何が」
「まだ会社が存在していないのに、法律がその周りの人たちを守っているんです」
先輩は、少し黙りました。
それから。
「会社は、登記した瞬間に何もないところから金が湧くわけじゃねえからな」
そう言いました。
「作る前から、金を出す奴がいる」
「はい」
「契約を結ぶ奴がいる」
「はい」
「会社のために動く奴がいる」
「はい」
「だったら、失敗したときの責任も決めておかなきゃならねえ」
私は、大きく頷きました。
なるほど。
法律は。
会社が誕生する、その瞬間だけを見ているわけではない。
誕生するまでの過程も。
そこで動くお金も。
そこに関わる人間の欲望も。
ちゃんと見ているのです。
夕方。
片桐所長が、事件の書類をまとめました。
「こはる」
「はい」
「今日の件で、一番危なかったのは何だ」
私は少し考えました。
「黒田さんが、機械の価額をごまかしたことですか?」
「それもある」
「発起人が名前だけだったこと?」
「それもある」
「じゃあ……」
私は、しばらく考えました。
そして。
「会社が成立していないのに、会社が成立した場合の責任を、そのまま使おうとしたことです」
所長が頷きました。
「そうだ」
私は続けました。
「現物出資の価額不足は、会社が成立した場合の財産保護の問題」
「うん」
「任務懈怠は、職務違反と損害の問題」
「そうだ」
「そして、会社不成立は、発起人が設立に関する責任を負う問題」
所長が、静かに言いました。
「法律を使う前に、事実を見ろ」
「はい」
「会社は成立したのか」
「はい」
「誰が、どんな立場で行為をしたのか」
「はい」
「誰に、どんな損害が生じたのか」
「はい!」
「そこを間違えれば、正しい条文を知っていても、正しい答えにはならん」
私は頷きました。
行政書士試験では。
財産価額填補責任。
任務懈怠責任。
会社不成立の責任。
それぞれ、条文と要件を覚えます。
でも。
現場では。
その前に確かめることがあります。
会社は、できたのか。
できなかったのか。
誰が責任を負うのか。
そもそも、誰のために責任を負うのか。
それを間違えたら。
せっかく覚えた法律も、人を守るために使えません。
「ところで、こはる」
相馬先輩が言いました。
「はい?」
「お前、さっき変なこと言ってたな」
「変なこと?」
「株式会社は、一人で作れるとか何とか」
ぎくっ。
私は固まりました。
「……言いましたっけ?」
「言った」
「気のせいでは?」
「聞こえてたぞ」
先輩は、六法を机に置きました。
「昭和六十三年の株式会社は、発起人が何人必要だ?」
「七人以上です!」
「取締役は?」
「三人以上!」
「監査役は?」
「一人以上です!」
「じゃあ、一人で作れるか?」
「作れません!」
「だろ?」
「……はい」
私は肩を落としました。
令和の知識。
今回も、あまり役に立たないところがありました。
でも。
私は思いました。
なぜ、現代では一人でも株式会社を作れるようになったのでしょうか。
なぜ、合同会社という仕組みが生まれたのでしょうか。
なぜ、昔の商法に分かれていた会社のルールが、独立した会社法として整理されたのでしょうか。
そして。
現代の会社法第五十二条、第五十三条、第五十六条には。
なぜ、それぞれ違う責任が定められているのでしょうか。
昭和の商法と、現代の会社法。
違うところが多い。
けれど。
その根底には。
会社を作る人の責任と、会社に関わる人々の保護という、共通した考え方がある。
私は、そう感じ始めていました。
「所長!」
「何だ」
「今日、ひとつ分かりました!」
「言ってみろ」
私は胸を張りました。
「株式会社を作れば、何でも有限責任になるわけじゃありません!」
所長が頷きます。
「そうだ」
「株主の有限責任と、発起人が設立について負う責任は違います!」
「ああ」
「会社が成立しなくても、発起人が責任を負う場合があります!」
「そのとおりだ」
私は続けました。
「それから!」
「まだあるのか」
「機械の価値をごまかして、出資したことにするのは駄目です!」
相馬先輩が吹き出しました。
「そりゃ当たり前だろ!」
「でも、黒田さんはやったじゃないですか!」
「そうだな」
「だから、当たり前のことが大事なんです!」
先輩は笑いました。
「まあ、そうかもしれねえな」
私はノートを開きました。
そして、今日の覚え書きを書きました。
――会社を作る責任は、会社ができたかどうかで消えるものではない。
……よし。
これは、忘れません。
そのとき。
電話が鳴りました。
「はい、片桐行政書士事務所です!」
『あのう……』
男性の声。
少し困っている様子です。
『私、今度できる会社の取締役になる予定なんですが……』
「はい」
『社長から、書類にハンコを押してくれって言われまして』
私は、嫌な予感がしました。
「どんな書類でしょうか」
『それが、よく分からないんです』
「……はい?」
『何か、現物出資した機械が高く評価されすぎているらしいんですが』
私は固まりました。
また。
現物出資。
『でも社長は、会社ができてからのことは全部俺が責任を持つから、名前だけ貸してくれって』
……。
来ました。
名前だけ。
責任はない。
社長が全部引き受ける。
その三点セット。
私は、相馬先輩を見ました。
先輩も、こちらを見ました。
「先輩」
「何だ」
「また名前貸しです」
「聞こえてる」
「しかも取締役です」
「それも聞こえてる」
「現物出資まであります!」
「全部聞こえてる!」
私は受話器を握り直しました。
「すみません。まず、その会社は、もう設立登記されていますか?」
『いえ。これからです』
私は頷きました。
今度は、まだ間に合うかもしれません。
「では、署名押印する前に、定款や関係書類を確認させていただけますか」
『はい!』
電話を切ると、相馬先輩が言いました。
「こはる」
「はい!」
「今度は、何から確認する?」
私は答えました。
「会社がまだ成立していないこと!」
「うん」
「その人が、どんな立場で設立に関わるのか!」
「うん」
「現物出資の財産の価額が、ちゃんと調べられているか!」
「そうだ」
先輩が笑いました。
「少しは分かってきたじゃねえか」
私は思わず笑いました。
「はい!」
昭和六十三年。
会社を作るには、たくさんの人が必要でした。
発起人七人。
取締役三人以上。
監査役一人以上。
けれど。
人数を揃えれば、それで安全な会社になるわけではありません。
名前だけの発起人が七人いても。
何も確認しない取締役が三人いても。
形だけの監査役が一人いても。
その会社が、正しく作られるとは限らない。
大切なのは。
誰が、何を確かめ。
誰が、どんな責任を負うのか。
そこなのです。
「相馬先輩!」
「今度は何だ!」
「私、現物出資のある会社設立が、ちょっと怖くなりました!」
「正常な反応だ!」
「定款の金額が間違っていたら、大変ですもんね!」
「ああ!」
「でも!」
「まだあるのか!」
「だからこそ、ちゃんと調べてから書類を作るんですね!」
相馬先輩は、呆れたように笑いました。
「そういうことだ」
私はノートを閉じました。
窓の外。
夕暮れの町に、工場の明かりが灯っていました。
あのどこかで。
村瀬和子さんは、今日も弁当を作っているのでしょう。
そして。
返ってきた三百万円の中から。
娘さんの新しい靴を買っているのかもしれません。
財産価額填補責任。
任務懈怠責任。
会社不成立の責任。
難しい言葉です。
覚えることも多い。
でも。
その一つ一つには、意味があります。
価値のない財産を、高く見せかけないため。
会社を作る人が、職務をいい加減にしないため。
そして。
会社が生まれなかったからといって、そこに託されたお金や責任を消してしまわないため。
法律は。
会社ができる前から、人を守ろうとしているのです。
私は、最後にもう一度、今日の覚え書きを見ました。
――会社を作る責任は、会社ができたかどうかで消えるものではない。
よし。
次は、三つの責任をきちんと整理しよう。
誰が。
誰に対して。
何を負担するのか。
そして。
どんな場合に、責任を免れることができるのか。
そこまで分かれば。
今回の黒田のような男が、なぜ逃げられなかったのか。
もっと、はっきり見えてくるはずです。
「こはる!」
「はい!」
「何をにやにやしてる!」
「明日の勉強が楽しみで!」
「変な奴だな!」
「褒め言葉として受け取ります!」
「褒めてねえ!」
私は笑いました。
昭和六十三年。
商法の世界は、まだまだ奥が深い。
でも。
今日、ひとつだけ確信しました。
会社を作ろうとする人が、責任まで作らずに済むと思っているなら。
それは、大きな間違いです。
なぜなら。
株式会社は、責任から逃げるための魔法の箱ではないのです。
以下に私の作品へのリンク貼ってます。是非、手に取って頂ければと思います。また、ついでに評価ブックマーク頂ければ幸いです。




