[会社法・設立無効、会社の不成立、設立取消し]法理編 こはるノート
会社がなくなれば、借金もなくなる。
もし、そんな法律があったなら。
世の中の悪徳社長は、きっと大喜びするでしょう。
会社を作る。
商品を仕入れる。
従業員を働かせる。
お金を借りる。
そして、支払いが嫌になったら。
「会社の設立に問題があったので、全部なかったことにします!」
……。
そんなことが許されたら、商売なんて成り立ちません。
でも。
会社の設立に重大な問題があった場合、本当に会社が無効になる制度は存在します。
そして。
会社が一度も成立しなかった場合もあります。
さらに。
会社の種類によっては、設立を取り消す制度まであるのです。
設立無効。
会社の不成立。
設立取消し。
名前は似ています。
でも、意味はまったく違います。
昭和六十三年。
夕方の片桐行政書士事務所。
私は机に向かい、ノートを開いていました。
表紙には大きく、
――こはるノート・商法編。
と書いてあります。
「……先輩」
「何だ」
「会社って、死に方が三種類もあるんですね」
新聞を読んでいた相馬先輩が、顔を上げました。
「お前、いきなり物騒だな」
「だって、設立無効、不成立、設立取消しですよ?」
「ああ」
「全部、会社がなくなる話じゃないですか」
「違う」
「え?」
「不成立は、そもそも生まれてねえ」
……。
私は鉛筆を止めました。
「あっ」
「何が、あっ、だ」
「そうでした!」
相馬先輩が、にやりと笑いました。
「昨日の事件、もう忘れたのか?」
「忘れてません!」
「じゃあ説明してみろ」
私は昨日の相談票を取り出しました。
東海新産業株式会社。
悪徳社長、黒田源蔵。
設立手続きに問題があることを理由に、村瀬精密製作所への売買代金二百八十万円を踏み倒そうとした男。
しかも。
「設立無効だから、会社は最初から存在しなかった」
と堂々と主張していたのです。
けれど。
東海新産業は、すでに設立登記を終えていました。
昭和六十二年十一月二日。
その日に、株式会社として成立していた。
だからこそ。
黒田が勝手に設立無効を宣言しても、会社の存在は消えなかった。
さらに。
仮に設立無効の判決が確定したとしても、効力は将来に向かって生じる。
過去の売買代金まで、当然に消えるわけではない。
「……なるほど」
私は呟きました。
「何だ」
「今回の事件、最初から答えが出ていたんですね」
「どういう意味だ」
「登記です!」
私はノートを開きました。
そして、真ん中に大きく書きました。
――株式会社は、設立登記によって成立する。
「まず、ここなんですね!」
相馬先輩が頷きました。
「そうだ」
私は嬉しくなりました。
よし。
今日こそ。
設立無効。
会社の不成立。
設立取消し。
この三つを、完全に理解してみせます!
「まず、設立無効です!」
私はノートに大きく書きました。
――設立無効。
株式会社が設立登記によって成立したあと、その設立手続きに重大な瑕疵があった場合、法律で定められた訴えによって設立の効力を争う制度。
「つまり」
私は言いました。
「会社はいったん生まれているんですよね」
「ああ」
「でも、生まれるまでの手続きに重大な問題があった」
「そうだ」
「それが設立無効!」
私は丸をつけました。
ここで大切なのは。
会社が一度は成立していることです。
東海新産業も、そうでした。
設立登記は完了していました。
取引先と売買契約を結びました。
部品を納入してもらいました。
従業員も雇っていました。
だから。
黒田社長が、
「設立手続きに問題があった!」
と言い出しても。
それだけで会社が消えるわけではありません。
「でも先輩」
「何だ」
「普通の民法だったら、無効って最初から効力がないって意味ですよね?」
「そうだな」
「じゃあ、会社の設立無効も最初から無効じゃないんですか?」
相馬先輩が新聞を畳みました。
「そこが会社の特殊なところだ」
私は身を乗り出しました。
「お願いします!」
「普通の契約なら、無効を主張するために必ず専用の訴訟を起こさなきゃならねえ、ってわけじゃない」
「はい」
「だが、会社の設立は違う」
先輩は机を指で叩きました。
「会社は、何人もの人間を巻き込んで動いてるんだよ」
株主。
取締役。
従業員。
取引先。
債権者。
銀行。
会社が成立すれば、たくさんの人が、その存在を前提に行動します。
「そこへ社長が突然、『最初から会社はなかった』なんて言い出したら?」
「大混乱です!」
「そうだろ」
相馬先輩が頷きました。
「だから設立無効は、法律で定められた訴訟手続きによって争わせるんだ」
なるほど。
会社の設立は、ただの私人同士の契約とは違う。
社会に対する影響が大きい。
だから。
無効を主張できる人。
無効を主張できる期間。
無効とするための手続き。
そして、判決の効力。
それらが特別に定められているのです。
「所長!」
私は奥へ声をかけました。
「何だ」
「会社の設立無効は、社長の一言では決まらないんですね!」
「そうだ」
「裁判で決まる!」
「正確には、設立無効の訴えによる認容判決が確定して、設立無効の効果が生じる」
「はい!」
私はノートに書きました。
――設立無効は、勝手に宣言できない。法律で定められた訴えによって争う。
よし。
最初の関門、突破です。
「じゃあ、どんな場合に設立無効になるんですか?」
私は質問しました。
「昨日の黒田の件を思い出せ」
相馬先輩が言いました。
「創立総会ですね!」
「ああ」
東海新産業は、募集設立によって設立された会社でした。
発起人が株式を引き受けるだけでなく、ほかの出資者も募集する方式です。
ところが。
創立総会に出席していない藤田さんが、出席したことになっていました。
委任状もない。
議事録には、出席したと記載されている。
しかも。
黒田社長自身が、議事録どおりには総会を開催していないと認めていた。
「つまり、設立手続きに重大な瑕疵がある可能性があったんですね」
「そうだ」
「でも、欠席した人の名前が議事録に書かれていたら、必ず設立無効になるんですか?」
「必ずとは言えねえ」
相馬先輩が答えました。
「え?」
「その人の出席がどう扱われたか。実際の決議はどうだったか。総会自体が適法に成立していたか。全部調べる必要がある」
私は頷きました。
そうです。
形式的なミスが一つあるだけで、何でも設立無効になるわけではありません。
問題は、設立手続きの根幹に関わる重大な瑕疵かどうか。
「ほかには、定款の問題もありますね」
私はノートをめくりました。
定款。
会社の基本的なルールを定めた書類です。
株式会社では、法律上、必ず記載しなければならない事項があります。
いわゆる絶対的記載事項。
商号。
目的。
本店の所在地。
そのほか、設立時に必要とされる事項。
「これが欠けていたら?」
私が聞くと、相馬先輩が言いました。
「重大な問題だな」
「はい」
会社の基本事項が定められていなければ、適法な定款としての効力が問題になります。
また。
定款には、公証人による認証が必要になる場合があります。
株式会社の設立時定款には、まさにその認証が必要です。
「公証人の認証がないまま設立した場合も、重大な瑕疵が問題になりますね」
「ああ」
私はノートに書きました。
定款の重大な不備。
定款認証の欠缺。
募集設立における創立総会の重大な手続違反。
そのほか、設立の基本を欠く重大な違法。
「ただし」
私は自分で言いました。
相馬先輩が顔を上げます。
「何だ」
「これは代表的な例であって、何か一つ見つかれば必ず無効、という意味ではないんですよね」
「そうだ」
「事実と法的な重大性を確認する!」
「よし」
私は少し嬉しくなりました。
以前の私なら。
議事録が怪しい!
設立無効!
勝った!
……と短絡していたかもしれません。
でも。
今は違います。
法律の要件に当てはまるか。
どんな資料で証明できるか。
そこまで考える。
片桐事務所で働くうちに、私も少しは成長したのでしょうか。
「こはる」
「はい!」
「顔がにやけてるぞ」
「成長を実感してたんです!」
「そうか。じゃあ次の問題だ」
「えっ」
……。
成長の余韻。
三秒で終了しました。
「設立無効の訴えは、いつまでに起こせる?」
相馬先輩が聞きました。
「会社成立の日から二年以内です!」
「よし」
私はノートに書きました。
――設立無効の訴え。提訴期間は会社成立の日から二年以内。
「東海新産業は、昭和六十二年十一月二日に成立しました」
「ああ」
「だから、まだ二年は経っていませんでした」
「そうだ」
「設立無効の訴えを検討できる期間内だったわけですね」
所長が頷きました。
「期間を過ぎれば、原則として設立無効の訴えは提起できなくなる」
「はい」
私は少し考えました。
「でも、何で二年なんですか?」
相馬先輩が言いました。
「いつまでも設立がひっくり返る可能性を残してたら、困るだろ」
「あっ」
そうでした。
会社は、営業を続けていきます。
一年目。
二年目。
三年目。
十年目。
取引先も増えます。
従業員も増えます。
資産も負債も増えます。
それなのに。
十年も二十年も経ってから、いつでも設立無効を訴えられるとしたら。
会社を信じて取引する人たちの立場は不安定になります。
「だから、争える期間を制限しているんですね」
「そういうことだ」
私は納得しました。
設立手続きの適法性を守る。
でも、会社をめぐる法律関係の安定も守る。
その両方が必要なのです。
「先輩」
「何だ」
「二年以内って、覚えやすいですね」
「そうか?」
「はい。会社が生まれてから二年間は、設立について重大な問題があれば訴えを起こせる」
「ただし、誰でも起こせるわけじゃねえぞ」
……。
来ました。
次の論点です。
「設立無効の訴えを起こせる人は?」
相馬先輩が聞きました。
私は勢いよく答えました。
「株主! 取締役! 監査役!」
「ほう」
「そして、法律で定められたその他の役員等です!」
相馬先輩が頷きました。
株式会社の設立無効は、誰でも争えるわけではありません。
会社の内部に一定の法的な利害関係を持つ人たちに、提訴する資格が限定されています。
「じゃあ、村瀬精密はどうだった?」
「債権者です!」
「設立無効の訴えを起こせるか?」
「債権者であるというだけでは、起こせません!」
「正解」
私は拳を握りました。
ここ。
かなり重要です。
村瀬千鶴さん。
東海新産業に、二百八十万円の代金債権を持っていました。
でも。
会社の債権者だからといって、株式会社の設立無効の訴えを起こす資格があるわけではありません。
一方。
藤田正一さんは、株主でした。
だから、設立無効の訴えを提起できる立場にありました。
「つまり」
私は言いました。
「同じ会社に困らされていても、株主と債権者では、使える制度が違うんですね」
「そうだ」
相馬先輩が頷きました。
「村瀬さんが求めてたのは何だ?」
「売買代金二百八十万円です」
「藤田さんが確認したかったのは?」
「会社の設立手続きが適法だったかどうかです」
「そうだ」
だから。
二人に同じ内容証明を送らせるわけにはいかなかった。
村瀬さんには、売買代金の支払請求通知書。
藤田さんには、創立総会の議事録と設立関係書類についての確認通知書。
目的が違う。
法的な立場が違う。
だから、書面も違う。
「これが、行政書士の仕事なんですね」
私は言いました。
所長が頷きました。
「事実と立場を整理する」
「はい」
「そのうえで、必要な書類を作る」
「はい!」
「訴訟が必要なら、弁護士に引き継ぐ」
私は大きく頷きました。
行政書士は、訴訟代理人ではありません。
法律紛争の示談交渉を、弁護士のように引き受けることもできません。
でも。
事実を整理する。
定款や議事録を確認する。
依頼人の意思を文書にする。
内容証明郵便を作成する。
その一つ一つが、後の法的手続きを支えるのです。
「さて」
相馬先輩が言いました。
「一番大事なところだ」
「はい!」
「設立無効の判決が確定すると、どうなる?」
私は待っていましたとばかりに答えました。
「将来に向かって効力が生じます!」
「正解」
私はノートに大きく書きました。
――設立無効判決の効力は、過去にさかのぼらない。
ここです。
今回の黒田事件。
最大の争点。
そして。
悪徳社長が、根本から間違えていたところです。
「黒田社長は、何て言ってましたっけ」
私は少し声を低くしました。
「会社の設立が無効なら、最初から存在しなかったんだ! だから借金も払わん!」
相馬先輩が顔をしかめました。
「似てねえ」
「物真似の感想は求めてません!」
でも。
あの主張。
法律上は、致命的に間違っていました。
なぜなら。
設立無効の判決は、過去にさかのぼって会社の存在を消すものではないからです。
「仮に、東海新産業の設立無効判決が確定したとしても」
私は言いました。
「それまでに会社が行った取引が、全部なくなるわけではありません」
「そうだ」
「だから、村瀬精密への二百八十万円の支払義務も、設立無効だけでは消えない」
「ああ」
私は頷きました。
仮に。
昭和六十二年十一月二日。
東海新産業が成立した。
昭和六十三年。
村瀬精密から部品を購入した。
そして、その後。
設立無効の判決が確定した。
そうなったとしても。
会社が成立してから判決確定までの法律関係は、当然に全部消滅するわけではない。
「これ、すごく大事ですね」
「そうだな」
「設立無効なのに、過去にはさかのぼらない」
「そこが普通の無効との違いだ」
私はノートに赤線を引きました。
――設立無効の判決は、将来効。
「所長!」
「何だ」
「これって、どうしてなんですか?」
片桐所長が言いました。
「取引の安全だ」
たった一言。
でも。
私はすぐに理解できました。
会社が成立した。
取引先が信用して商品を納めた。
従業員が働いた。
銀行がお金を貸した。
そのあとで。
設立手続きに問題があったから、全部最初から無効です。
そんなことになったら。
取引先も。
従業員も。
銀行も。
大変なことになります。
「だから、過去の法律関係を保護する必要があるんですね」
「そうだ」
私は静かに頷きました。
会社法の設立無効。
その特殊な仕組みは、会社だけを守るためのものではありません。
会社と関わった人たちを守るためのものでもあるのです。
「じゃあ、もう一つ」
私は質問しました。
「設立無効の判決が確定したら、その会社はすぐ消滅するんですか?」
「いや」
相馬先輩が答えました。
「清算が必要になる」
「清算!」
そうでした。
昨日も出てきた言葉です。
清算。
会社が解散した場合などに、残った法律関係を整理する手続き。
「たとえば」
私は言いました。
「会社に現金が五百万円あったとします」
「うん」
「でも、借金が三百万円あります」
「うん」
「設立無効になったから、五百万円を全部株主に配っていいんですか?」
「そんなわけねえだろ」
相馬先輩が即答しました。
「ですよね!」
会社の財産。
会社の負債。
これらをきちんと整理しなければなりません。
会社が解散した場合などには、清算人がその役割を担います。
「つまり、清算人は後片付けをする人なんですね」
「そうだ」
「会社の財産を調べる」
「ああ」
「債務を弁済する」
「そうだ」
「残った財産があれば、法律に従って株主に分配する」
「そのとおり」
私は頷きました。
ここで重要なのは。
会社の設立無効判決が確定したからといって、その瞬間に会社の財産も負債も消滅するわけではないことです。
清算の目的の範囲で、法人としての法律関係を整理していく必要があります。
「所長、清算人って誰がなるんですか?」
「定款の定めや株主総会による選任など、法律の規定による」
「はい」
現代の会社法では、定款で定められた人や、株主総会で選任された人が清算人となります。
そうした人がいない場合には、原則として清算開始時の取締役が清算人となる仕組みもあります。
必要に応じて、裁判所が選任する場合もある。
もっとも、昭和六十三年の実務では、現在の会社法ではなく当時の商法の規定に従って処理する必要があります。
「つまり、黒田社長が勝手に『会社は無効だ、借金も消えた』と言っても……」
私は笑いました。
「清算の仕組みがある以上、それで終わりにはならないんですね」
「そうだ」
相馬先輩も笑いました。
「しかも、自分の不正が原因なら、個人としての責任まで問題になる可能性がある」
「はい!」
ただし。
会社の借金が、当然に社長個人の借金になるわけではありません。
株式会社には、法人格があります。
会社と社長は、法律上、別の存在です。
個人責任を追及するには、それぞれ法律上の要件を満たす必要があります。
黒田社長の場合は。
虚偽の議事録作成への関与。
設立手続きの問題の認識。
取引先への支払いを避けようとした行為。
そうした具体的な事情が、問題になる可能性がありました。
「会社が有限責任だからって、社長が何をしてもいいわけじゃないんですね」
「当たり前だ」
相馬先輩が言いました。
「社長が一番偉いんじゃねえ」
私は顔を上げました。
「……はい」
「商法を守った奴が勝つんだよ」
出ました。
相馬先輩の決め台詞。
今日も、なかなか格好いいです。
「でも先輩」
「何だ」
「設立無効の判決って、訴えた株主だけに効くんですか?」
「いや」
「ですよね!」
私はノートに書きました。
――設立無効の認容判決が確定すると、その効力は第三者にも及ぶ。
たとえば。
東海新産業に、株主が十人いたとします。
そのうち一人の藤田さんが、設立無効の訴えを起こした。
そして。
裁判所が設立無効を認める判決を出し、その判決が確定した。
「この場合」
私は言いました。
「藤田さんにとってだけ会社が無効になる、なんてことはありません」
「そうだ」
「ほかの株主にとっては有効で、藤田さんにとってだけ無効、なんておかしいですもんね」
「ああ」
会社という法人は、一つです。
同じ会社について。
ある株主から見れば存在している。
別の株主から見れば存在していない。
そんな状態では、法律関係が成り立ちません。
だから。
設立無効の認容判決が確定すれば、その効力は第三者にも及ぶのです。
「これを対世効というんですよね」
私は言いました。
「難しい言葉を使いやがって」
相馬先輩が笑いました。
「試験に出ますから!」
私は大きく丸をつけました。
対世効。
そして。
将来効。
「先輩!」
「何だ」
「この二つ、セットで覚えます!」
「どう違う?」
「対世効は、誰に効くか!」
「うん」
「将来効は、いつから効くか!」
相馬先輩が頷きました。
「よし」
私は拳を握りました。
やった!
今の説明。
自分でも、かなり分かりやすいと思います。
対世効。
誰に効くか。
将来効。
いつから効くか。
同じ「効」でも、見ている方向が違うのです。
「さて」
相馬先輩が煙草を取り出しました。
「次は、会社の不成立だ」
「はい!」
私はノートをめくりました。
――会社の不成立。
設立手続きは進められたものの、設立登記に至らず、会社が成立しなかったこと。
「これは、さっきの電話相談ですね!」
「ああ」
発起人七人。
株式の募集。
出資金の払込み。
ところが。
創立総会で、会社の設立をやめることになった。
結局。
設立登記はしなかった。
「つまり、会社は一度も成立していない」
私は言いました。
「そうだ」
「設立無効とは違いますね」
「ああ」
私は二つを並べて書きました。
設立無効。
登記あり。
会社はいったん成立。
会社の不成立。
登記なし。
会社は一度も成立していない。
「なるほど……」
私は鉛筆を止めました。
「本当に、登記が分かれ道なんですね」
「そうだ」
相馬先輩が頷きました。
ここで私は、さっきの相談者の言葉を思い出しました。
「会社ができなかったんだから、出資金を返さなくてもいいんじゃないか」
……。
いや。
そんなわけありません。
「先輩」
「何だ」
「会社ができなかった場合、発起人はどうなるんですか?」
「責任を負う」
「ですよね!」
会社が成立しなかった場合。
発起人は、設立に関してした行為について、連帯して責任を負います。
また、設立に関して支出した費用も負担します。
「ここ、すごく大事ですね」
「そうだ」
「発起人が一人だけ責任を負うんじゃない」
「ああ」
「複数の発起人が、連帯して責任を負う」
「そうだ」
私はノートに赤線を引きました。
――会社不成立の場合、発起人は設立に関する行為について連帯責任を負う。
「たとえば」
私は言いました。
「発起人が七人いて、会社設立のために印刷会社へ十万円分の書類を発注したとします」
「うん」
「でも、会社が成立しなかった」
「そうだ」
「この場合、発起人は『会社ができなかったので払いません』とは言えないんですね」
「ああ」
会社設立のために行った行為。
その責任を、存在しない会社に押しつけることはできません。
だから、発起人が責任を負う。
「じゃあ、発起人の一人が『俺は悪くない』って言ったら?」
私が聞くと、相馬先輩が笑いました。
「それだけじゃ逃げられねえな」
「ですよね!」
会社不成立の場合の法定責任は、発起人に過失があったことを当然の前提とするものではありません。
つまり。
単に、
「自分は悪くなかった」
と説明するだけでは、責任を免れないのです。
ただし、具体的にどの債務が設立に関する行為から生じたものかは、確認する必要があります。
「所長」
私は奥へ声をかけました。
「何だ」
「これは、かなり厳しいですね」
「そうだな」
「会社ができなかったのに、発起人には責任が残る」
所長は頷きました。
「会社を作ろうとして、他人を法律関係に巻き込んだからだ」
……。
私は、その言葉を書き留めました。
会社ができなかった。
でも。
設立の準備で契約した人がいる。
出資した人がいる。
費用を立て替えた人がいる。
そうした人たちの権利を、放置するわけにはいきません。
「だから、発起人の責任があるんですね」
「そうだ」
私は、大きく頷きました。
なるほど。
会社の不成立。
それは、責任の不成立ではないのです。
「じゃあ、出資金はどうなるんですか?」
私は質問しました。
「設立が実現しなかった以上、引受人から受けた払込金については返還が問題になる」
相馬先輩が答えました。
「はい」
「出資金を集めておいて、会社ができなかったから全部自分のもの、なんて話にはならねえ」
私は頷きました。
たとえば。
株式会社を設立するため、外部の引受人から百万円の払込みを受けた。
ところが、設立計画が中止され、会社は成立しなかった。
その場合。
払込金の返還を含め、設立に関する法律関係を整理しなければなりません。
「そこで発起人の責任が問題になるんですね」
「そうだ」
「会社がないから、誰も責任を負わない、ではない」
「ああ」
私は書きました。
――不成立でも、設立に関する責任は残る。
……。
何でしょう。
この一行。
ものすごく覚えやすいです。
設立無効。
会社は成立していた。
過去の法律関係は当然には消えない。
会社の不成立。
会社は成立しなかった。
でも、発起人の責任は残る。
「先輩!」
「何だ」
「どっちにしても、責任は消えないんですね!」
「そのとおり」
相馬先輩が笑いました。
「悪党に都合よくはできてねえってことだ」
私は思わず笑いました。
確かに。
商法。
なかなか手強い法律です。
「さて、最後だ」
相馬先輩が言いました。
「設立取消しですね!」
「ああ」
私はノートに書きました。
――設立取消し。
「これ、株式会社にもありますよね!」
「ねえよ」
「ですよね!」
「……お前、わざと言ってるだろ」
「確認問題です!」
私は笑いました。
株式会社に、設立取消しという制度はありません。
これが重要です。
設立無効と、設立取消し。
言葉は似ています。
でも。
株式会社の設立を、単に「取り消す」という制度は存在しないのです。
「じゃあ、設立取消しがあるのは?」
相馬先輩が聞きました。
「合名会社や合資会社などです!」
「そうだ」
昭和六十三年。
会社のルールは、商法第二編に定められていました。
当時の会社には、株式会社のほか、有限会社、合名会社、合資会社などがありました。
そして。
現代の会社法では。
合名会社。
合資会社。
合同会社。
この三つを、持分会社と呼びます。
「ただし!」
私は自分で言いました。
「昭和六十三年には、合同会社がありません!」
相馬先輩が顔をしかめました。
「当たり前だろ。何だ、その合同会社ってのは」
「未来の会社形態です!」
「また未来か!」
「ここ、試験では大事なんです!」
私はノートに書き足しました。
昭和六十三年。
合名会社・合資会社。
合同会社は存在しない。
現代。
合名会社・合資会社・合同会社を持分会社として整理。
「現代の持分会社では、設立取消しの訴えが認められる場合があるんですよね」
私は言いました。
「そういう制度があるな」
設立取消しは、設立無効とは別の制度です。
とくに、持分会社の社員や、その債権者の保護が問題となる場面で登場します。
ただし。
持分会社の債権者なら、どんな理由でも自由に設立を取り消せるというわけではありません。
法律で定められた取消原因や提訴資格などの要件を満たす必要があります。
「先輩」
「何だ」
「これ、現代の会社法だと、設立取消しの訴えも成立の日から二年以内が基本なんですよ」
「ほう」
「そして、認容判決の効力も、将来に向かって生じる」
「設立無効と似てるな」
「はい!」
私は頷きました。
設立無効。
設立取消し。
どちらも、会社の存在に関わる重大な訴訟です。
だからこそ、判決の効力を過去に無制限にさかのぼらせない仕組みが採用されています。
「でも、提訴できる人や原因は違うんですね」
「そうだ」
私は鉛筆を動かしました。
株式会社の設立無効。
株主や一定の役員等が提訴できる。
単なる会社債権者には、原則として提訴資格がない。
一方。
持分会社の設立取消し。
法律で定められた社員またはその債権者が、所定の原因に基づいて提訴する制度。
「なるほど……」
私は顔を上げました。
「名前が似ていても、会社の種類と制度の目的が違うんですね」
「そういうことだ」
相馬先輩が頷きました。
よし。
これで三つ。
全部出そろいました。
私はノートをめくり、今日の内容を整理しました。
「所長!」
「何だ」
「確認問題を出してもらっていいですか!」
「いいだろう」
片桐所長が帳簿を閉じました。
「株式会社の設立登記がまだ済んでいない。会社は成立しているか」
「していません!」
「設立手続きが中止され、登記に至らなかった場合は?」
「会社の不成立です!」
「発起人の責任は?」
「設立に関してした行為について連帯して責任を負い、設立費用を負担します!」
「よし」
私は拳を握りました。
所長が続けます。
「では、株式会社が設立登記を終えた。しかし、定款の根本的な不備など、重大な設立手続きの瑕疵がある場合は?」
「設立無効が問題になります!」
「誰が無効を決める」
「法律で定められた訴えにより、裁判所の判断を受けます!」
「提訴期間は?」
「成立の日から二年以内です!」
「会社の債権者なら、誰でも提訴できるか」
「できません!」
「無効判決の効力は?」
「第三者にも及びます!」
「過去にさかのぼるか」
「さかのぼりません!」
所長が頷きました。
「よし」
私は嬉しくなりました。
でも。
まだ終わりません。
「株式会社の設立取消しという制度は?」
「ありません!」
「では、現代の持分会社には?」
「法律で定められた場合に、設立取消しの訴えがあります!」
所長は、少しだけ口元を緩めました。
「よく整理できたな」
「ありがとうございます!」
やった。
片桐所長から。
褒められました。
これは、なかなか貴重です。
「じゃあ俺からも一問」
相馬先輩が言いました。
「はい!」
「黒田が、設立無効だから二百八十万円は払わねえと言った。どこが間違いだ?」
私は胸を張りました。
「まず、設立無効は社長が勝手に宣言できません!」
「うん」
「次に、仮に設立無効の判決が確定しても、効力は将来に向かって生じるので、過去の売買代金債務が当然に消えるわけではありません!」
「うん」
「さらに、会社の債務と社長個人の責任は別問題ですが、社長自身の行為に問題があれば、個人責任が発生する可能性もあります!」
「よし!」
相馬先輩が笑いました。
「これなら、あの悪党がもう一回来ても大丈夫だな」
「はい!」
私は頷きました。
もう、黒田社長のような理屈には騙されません。
設立無効。
会社の不成立。
設立取消し。
その違いを、きちんと説明できます。
「ところで」
私はノートを閉じかけて、手を止めました。
「先輩」
「何だ」
「昭和六十三年の会社って、どうしてこんなに設立が大変なんですか?」
相馬先輩が眉を上げました。
「何を今さら」
「だって、発起人七人ですよ?」
「ああ」
「取締役三人以上!」
「そうだ」
「監査役一人以上!」
「そうだな」
「一人で事業を始めたい人には、かなり大変じゃないですか!」
「だから株式会社以外の形もあるんだよ」
私は頷きました。
たとえば、当時には有限会社という制度がありました。
株式会社ほど大きな組織を前提にせず、中小企業に利用されていた会社形態です。
でも。
株式会社を設立したい人にとっては、やはり人数の壁が大きかった。
「それで、黒田社長みたいに、発起人を七人集めるために名前を借りる人が出てきたんですね」
「そうだな」
「取締役も、名前だけの人がいたり」
「ああ」
「監査役も、形式だけだったり」
相馬先輩が頷きました。
「制度が厳しいからって、適当に書類を作っていいわけじゃねえけどな」
「はい」
私は少し考えました。
昔の株式会社制度。
発起人を七人以上必要とする。
複数の取締役を置く。
監査役も置く。
それは、会社を慎重に設立し、組織的に管理するための制度でした。
けれど。
実際の社会では。
一人で事業を始めたい人もいる。
家族だけで会社を経営したい人もいる。
小さな事業を法人化したい人もいる。
そうした人たちにとって、重い設立要件は負担になります。
「だから、現代では会社法が独立して、制度が整理されたんですね」
私は呟きました。
「……会社法?」
相馬先輩が怪訝な顔をしました。
「あっ」
しまった。
昭和六十三年。
まだ単独の会社法はありません。
「ええと、将来の制度改正の話です!」
「またか!」
「でも、大事なんです!」
私は慌てて説明しました。
「将来、会社制度が整理されるんです!」
「ほう」
「会社の設立や運営について、商法から独立した会社法という法律ができるんです!」
相馬先輩は、しばらく黙りました。
そして。
「……お前、本当に未来から来たんじゃねえだろうな」
……。
私は固まりました。
「ま、まさか!」
「怪しいな」
「行政書士試験の勉強が好きなだけです!」
「それはそれで変な奴だな」
私は苦笑しました。
危ない。
未来人だとバレるところでした。
でも。
現代の会社法。
平成十七年に成立し、平成十八年から施行された法律です。
それによって、従来の商法や有限会社法などに分かれていた会社制度が、大きく整理されました。
株式会社は、一人でも設立できる。
取締役一人の株式会社も可能。
最低資本金制度も廃止され、資本金一円での設立も法律上は可能になりました。
さらに。
合同会社という新しい会社形態も導入されました。
「ただし」
私は言いました。
「会社を作りやすくなったからといって、債権者保護が不要になったわけじゃありません」
相馬先輩が頷きました。
「そりゃそうだ」
会社を簡単に設立できること。
会社の責任を曖昧にしていいこと。
この二つは、まったく違います。
むしろ。
会社を作りやすくなったからこそ。
会社を利用して取引する人たちを守る仕組みは、引き続き重要になる。
会社の設立無効。
会社不成立の場合の発起人の責任。
設立取消し。
こうした制度が現代にも引き継がれているのは、会社という存在に関わる利害関係を守る必要があるからなのです。
私はもう一度、昨日の事件を思い出しました。
村瀬千鶴さん。
町工場の経営者。
従業員十二人。
二百八十万円の売買代金。
その支払いがなければ、従業員の給料にも影響が出るところでした。
一方。
黒田源蔵。
会社を作った社長。
発起人を七人集めた。
創立総会の議事録に問題を残した。
そして。
その不備を理由に、会社の借金を消そうとした。
でも。
法律は、そんな使い方を認めませんでした。
設立無効の制度は、設立手続きの重大な違法を正すためのもの。
会社の不成立に関する責任の制度は、会社が成立しなかった場合に、設立に関わった人たちの責任を明確にするもの。
設立取消しの制度は、特定の会社形態について、法律上の取消原因がある場合に設けられたもの。
どれも。
悪徳社長が、都合よく借金を踏み倒すための制度ではありません。
「所長」
私は顔を上げました。
「何だ」
「会社法って、会社を守る法律でもあるけど、会社の周りの人を守る法律でもあるんですね」
所長が頷きました。
「そうだ」
「株主も」
「ああ」
「従業員も」
「うん」
「債権者も」
「そうだ」
私は静かに言いました。
「会社を信じて働いた人が、社長の気分で切り捨てられないようにする」
所長は短く答えました。
「それが大事だ」
私は、その言葉をノートに書きました。
法律を覚えるだけなら。
設立無効は二年以内。
判決には対世効。
遡及効なし。
不成立なら発起人の連帯責任。
そんなふうに暗記すればいいのかもしれません。
でも。
昨日の事件を思い出せば。
その一つ一つの意味が分かります。
黒田社長が、設立無効を勝手に宣言できなかった理由。
二百八十万円の支払義務が、当然には消えなかった理由。
藤田さんと千鶴さんで、取るべき手段が違った理由。
そして。
会社が不成立だったとしても、発起人が責任を負う理由。
全部。
人を守るための仕組みだったのです。
窓の外は、もう薄暗くなっていました。
私はノートの最後のページを開きました。
「よし」
鉛筆を握ります。
今日の一行。
何を書こう。
設立無効。
不成立。
取消し。
全部を一行にまとめたい。
少し考えて。
ゆっくり。
私は書きました。
――登記前は「不成立」、登記後の重大な瑕疵は「設立無効」。株式会社に「設立取消し」はなく、無効でも過去の責任は消えない。
「……できた!」
私はノートを掲げました。
「どうですか!」
相馬先輩が覗き込みました。
「長えな」
「一行です!」
「一行に詰め込みすぎだろ」
「全部大事なんです!」
先輩は笑いました。
「まあ、覚えられるならいいんじゃねえか」
「褒めましたね!」
「気のせいだ」
「またそれですか!」
私は笑いました。
でも。
この一行は、きっと忘れません。
だって。
会社が生まれたかどうか。
それを確かめるだけで、法律上の結論が大きく変わる。
そして。
たとえ会社が無効になっても。
たとえ会社が成立しなくても。
そこに関わった人たちへの責任まで、勝手に消していいわけではないのです。
「ところで、こはる」
相馬先輩が言いました。
「はい?」
「今日の勉強会、もう終わりか?」
「はい!」
「じゃあ、机を片付けろ」
「え?」
「六法も戻せ」
「はい」
「それから、床も掃け」
……。
またです。
なぜ法律の勉強会は、最後に掃除へつながるのでしょう。
「先輩」
「何だ」
「私、今日すごく勉強したんですよ」
「そうだな」
「だったら、掃除は免除してもらえませんか?」
「何でだよ」
「勉強会の成立無効を主張します!」
相馬先輩が固まりました。
「……は?」
「この勉強会には、掃除をするという条件について、私の同意がありませんでした!」
私は胸を張りました。
「したがって、勉強会は無効です!」
相馬先輩は、しばらく私を見ました。
そして。
「こはる」
「はい!」
「勉強会は株式会社じゃねえ」
「……!」
「設立登記もしてねえ」
「ぐっ……」
「そもそも、会社の設立無効の話を持ち出す場面じゃねえだろ」
「……確かに」
私は頭を抱えました。
論点の使い方を間違えました。
「それなら!」
私は食い下がりました。
「この掃除当番制度は、不成立です!」
「何でだよ!」
「掃除当番設立総会が、開催されていません!」
「そんな総会あるか!」
相馬先輩が吹き出しました。
奥から、片桐所長の声が聞こえました。
「こはる」
「はい!」
「掃除を頼む」
「……はい」
……。
そうです。
会社の設立無効を理解したからといって。
掃除を免れる権利が発生するわけではありません。
法律は、便利な魔法ではないのです。
「分かりましたよ!」
私は箒を手に取りました。
「掃除します!」
「いい返事だ」
「でも先輩!」
「何だ!」
「今度、私が会社を作るとしたら、発起人七人集めないといけないんですよね!」
「昭和六十三年の株式会社ならな」
「取締役も三人!」
「そうだ」
「監査役も一人!」
「ああ」
「……大変すぎません?」
「嫌なら別の会社形態を考えろ」
私は少し考えました。
そして。
「じゃあ、合同会社にします!」
「だから何だ、その会社は!」
相馬先輩が怒鳴りました。
私は笑いながら、箒を動かしました。
昭和六十三年。
合同会社は、まだありません。
現代の会社法も、まだありません。
でも。
会社を作る人の欲望は、昔も今も変わりません。
会社を大きくしたい人。
人を雇いたい人。
新しい事業を始めたい人。
そして。
中には、会社を利用して責任から逃げようとする人もいる。
そんな人間の欲望を、法律がどう整理するのか。
それを考えることが、商法を学ぶ意味なのかもしれません。
私は箒を止め、ノートの最後の一行をもう一度読みました。
――登記前は「不成立」、登記後の重大な瑕疵は「設立無効」。株式会社に「設立取消し」はなく、無効でも過去の責任は消えない。
よし。
完璧。
そのとき。
電話が鳴りました。
「はい、片桐行政書士事務所です!」
『あのう……』
今度は、若い男性の声でした。
『会社を作ろうとしているんですけど……』
「はい!」
『知り合いに名前を貸してもらって、発起人を七人揃えたんです』
……。
私は嫌な予感がしました。
『でも、そのうち一人が、やっぱり名前を貸したくないって言い出しまして』
「はい……」
『書類には、もうハンコを押してもらっているんですけど』
……。
私は目を閉じました。
またです。
昭和の株式会社。
発起人七人。
この人数要件が、今日も新しい問題を生んでいます。
「先輩」
私は受話器を押さえて言いました。
「何だ」
「今度は、発起人の名義貸しです」
「ほう」
「しかも、本人が撤回したいそうです」
相馬先輩が、にやりと笑いました。
「なるほどな」
片桐所長が、静かに六法を開きました。
「こはる」
「はい!」
「定款と、発起人が署名押印した書類を確認しろ」
「はい!」
「その人が、何に同意したのか。そこからだ」
私は頷きました。
そうです。
名前を貸しただけ。
ハンコを押しただけ。
そんな言葉だけでは、何も決まりません。
どんな書類に。
どんな意思で。
いつ署名したのか。
そこを確かめる必要があります。
「分かりました!」
私は受話器を握り直しました。
「すみません。まず、発起人の方が署名押印した書類と、会社の設立登記が済んでいるかどうかを教えてください」
昭和六十三年。
商法の世界は、今日も一筋縄ではいきません。
設立無効。
会社の不成立。
設立取消し。
似ている三つの言葉。
けれど。
その違いを知るだけで、守れるものがあります。
会社を信じて商品を納めた人の代金。
会社を作るために出資した人のお金。
そして。
会社という仕組みを、誠実に利用しようとする人たちの信頼。
法律は。
会社を作るための説明書であると同時に。
会社を利用した無責任を許さないための、約束でもあるのです。
「相馬先輩!」
「今度は何だ!」
「やっぱり商法って面白いですね!」
「面白がってる暇があったら、相談票を取れ!」
「はいっ!」
私は笑いながら、鉛筆を握りました。
そして。
今日の最後に、もう一度だけ思いました。
会社は、登記によって生まれる。
けれど。
その会社に関わった人たちの努力や生活は。
社長の一言で、消していいものではない。
だからこそ。
設立無効の判決は、過去をむやみに消さない。
会社が不成立なら、発起人が設立に関する責任を負う。
設立取消しにも、法律で決められた要件と手続きがある。
それぞれの制度は違っても。
根底にある考え方は、つながっています。
会社という仕組みを利用するなら。
その責任からも、簡単には逃げられない。
――登記前は「不成立」、登記後の重大な瑕疵は「設立無効」。株式会社に「設立取消し」はなく、無効でも過去の責任は消えない。
今日の教訓。
これなら、もう忘れません。
たとえ悪徳社長が、
「会社は最初からなかった!」
と叫んだとしても。
私は、落ち着いて六法を開けるでしょう。
そして、きっと。
こう言うのです。
「社長さん。会社をなかったことにする前に、まだ払っていないお金のことを、忘れていませんか?」
会社の設立を無効にすることと。
人の働いた対価を無効にすることは。
まったく、別の話なのです。
以下に私の作品へのリンク貼ってます。是非、手に取って頂ければと思います。また、ついでに評価ブックマーク頂ければ幸いです。




