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こはる行政書士見習帖 〜 昭和に転生して許認可に振り回されると試験知識が骨身にしみます 〜  作者: 条文小説
〈商法・会社法 配点20点/300点〉 株式会社の設立

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613/701

[会社法・設立無効、会社の不成立、設立取消し]現場編 「会社をなかったことにすれば借金も消える」の嘘。七人の発起人と偽りの創立総会、悪徳社長が知らなかった設立無効の本当の恐ろしさ

挿絵(By みてみん)

 会社を作るのは、人間です。


 けれど。


 会社をなかったことにできるかどうかは、人間の気分では決まりません。


 たとえば。


 社長が会社を作った。


 取引先から商品を仕入れた。


 従業員を雇った。


 銀行から融資を受けた。


 そして、都合が悪くなった途端。


「設立手続きに間違いがあった。だから会社は最初から存在しなかった。借金も払わなくていい」


 そう言い出したら。


 世の中は、どうなってしまうのでしょう。


 昭和六十三年。


 片桐行政書士事務所。


 その日、私は三つの言葉に振り回されることになります。


 設立無効。


 会社の不成立。


 設立取消し。


 どれも、会社が生まれるときの問題です。


 けれど。


 この三つを間違えると。


 悪徳社長の逃げ道を、法律家自身が作ってしまうことになるのです。


「うちの会社が、最初から存在しなかったことになるそうなんです」


 午前九時。


 事務所に飛び込んできた女性は、開口一番そう言いました。


「……存在しなかった?」


 私は聞き返しました。


 女性の名前は、村瀬千鶴さん。


 三十九歳。


 町工場を経営しています。


 工場の名前は、村瀬精密製作所。


 従業員は十二人。


 自動車部品の加工を請け負う、小さな工場です。


「取引先の社長が、そう言うんです」


「取引先?」


「東海新産業株式会社です」


 千鶴さんは膝の上から、一枚の紙を取り出しました。


「この会社から、工作機械の部品を注文されたんです」


 納品額。


 二百八十万円。


 納期を守るため、従業員は休日出勤までしたそうです。


 ところが。


 納品から一か月。


 代金が支払われません。


「催促したら、こんな通知が届いて……」


 私は紙を受け取りました。


 そこには、驚くべき文章が書かれていました。


 ――東海新産業株式会社は、設立手続きに重大な瑕疵が存在することが判明した。


 ――よって、当社の設立は無効である。


 ――当社は法律上、成立していなかったものとして取り扱われる。


 ――したがって、当社名義で締結された契約について、代金支払義務は存在しない。


 ……。


 私は三回読みました。


 それから。


「えええっ!?」


 事務所に声が響きました。


「うるせえ!」


 相馬先輩が怒鳴りました。


「だ、だって先輩!」


「何だ」


「これ、すごいこと書いてあります!」


「見せろ」


 先輩は通知書を読みました。


 そして、鼻で笑いました。


「なるほどな」


「なるほど、じゃないですよ!」


「なかなか面白い奴だ」


「面白いですか!?」


「ああ。会社を作るより、消すほうが簡単だと思ってやがる」


 そのとき。


 奥で帳簿を見ていた片桐所長が、静かに顔を上げました。


「こはる」


「はい!」


「登記は確認したか」


「……登記?」


「その会社は、本当に成立しているのか」


 私は通知書を見直しました。


 東海新産業株式会社。


 株式会社。


 取引先。


 社長。


 それだけで、私は会社が当然に存在するものだと思っていました。


「まず、登記簿だ」


 所長が言いました。


「会社が生まれたかどうか。そこから始めろ」


 なるほど。


 会社の誕生日。


 それを確認するわけですね。


 私は勢いよく立ち上がりました。


「分かりました! 法務局ですね!」


「そうだ」


「会社の設立登記を確認してきます!」


「相馬」


「はい」


「連れていけ」


「了解です」


 こうして。


 私たちは、悪徳社長が消そうとしている会社の存在を確かめるため、法務局へ向かったのでした。


 法務局で登記簿を確認した私は、思わず声を上げました。


「あった!」


 東海新産業株式会社。


 本店所在地。


 商号。


 目的。


 資本金。


 代表取締役。


 そして。


 設立年月日。


 昭和六十二年十一月二日。


「先輩!」


「何だ」


「ちゃんと登記されています!」


「ああ」


「つまり、会社は成立してますよね!」


「そうだ」


 私は大きく頷きました。


 株式会社は、設立登記によって成立する。


 これは現代の会社法でも基本になる考え方です。


 登記がなければ、原則として株式会社は成立していない。


 反対に。


 登記がされれば、いったん会社は成立する。


「じゃあ、通知書の『成立していなかった』は間違いですね!」


「そうだな」


「よし!」


 私は拳を握りました。


 これで勝てる。


 ……と思ったのですが。


「ただし」


 相馬先輩が言いました。


「はい?」


「登記があるから絶対に問題ない、ってわけでもねえ」


「え?」


「設立手続きに重大な欠陥があれば、設立無効が問題になる」


 私は固まりました。


 設立無効。


 そうです。


 会社が登記によって成立したとしても。


 その設立手続きに重大な問題があれば、法律上、設立無効が認められる場合があります。


「じゃあ、社長の言っていることにも、少しは根拠があるんですか?」


「瑕疵が本当にあるならな」


「……」


「だが、そこから先が違う」


 先輩は登記簿を指で叩きました。


「会社は生まれてるんだ」


「はい」


「一度生まれた会社を、社長の一存で『最初からなかった』ことにはできねえ」


 私は頷きました。


 会社の設立無効。


 単なる契約の無効とは違います。


 会社には。


 株主がいる。


 従業員がいる。


 取引先がいる。


 債権者がいる。


 その全員の法律関係が絡んでいる。


 だからこそ。


 設立無効は、社長が勝手に宣言すれば成立するものではないのです。


 事務所へ戻ると、千鶴さんが詳しい事情を話してくれました。


「東海新産業は、去年できたばかりの会社なんです」


「はい」


「社長は、黒田源蔵という人です」


 五十二歳。


 地元では少し名の知れた事業家。


 土地の売買。


 機械の仲介。


 資材の卸売り。


 いろいろな商売に手を出している人物だそうです。


「最初は、立派な人だと思ったんです」


 千鶴さんが言いました。


「新しい会社を作って、地元の工場に仕事を回したいって」


「それで注文を受けたんですね」


「はい」


 ところが。


 資金繰りが悪化すると、黒田は態度を変えました。


「実は、設立手続きに問題があった」


「会社を無効にする」


「だから代金は払えない」


 そう言い始めたのです。


「うちは、従業員の給料も払わないといけないんです」


 千鶴さんの声が震えました。


「二百八十万円が入らなかったら、来月の支払いが……」


 私は唇を噛みました。


 ひどい。


 仕事をさせて。


 品物を受け取って。


 代金だけ払わない。


 しかも。


 その理由が、会社の設立無効?


「そんなの、通るわけないです!」


 私は言いました。


「相手は会社なんですから、きちんと責任を――」


「こはる」


 片桐所長が遮りました。


「はい」


「何が無効だというんだ」


「……え?」


「相手は、設立手続きのどこに瑕疵があると言っている」


 私は通知書を確認しました。


 重大な瑕疵。


 設立無効。


 でも。


 具体的な理由がありません。


「……書いてありません」


「なら、そこを調べろ」


「はい!」


 所長は短く言いました。


「無効という言葉だけでは、何も決まらん」


 その一言で。


 私の頭の中の霧が、少し晴れた気がしました。


 翌日。


 千鶴さんから、新たな資料が届きました。


 東海新産業の設立に関係した人物から、写しを譲り受けたというのです。


 設立時の定款。


 発起人の氏名。


 創立総会議事録。


 そして。


 一通の手紙。


 差出人は、藤田正一さん。


 東海新産業の株主でした。


 私は発起人の一覧を見ました。


 一人。


 二人。


 三人。


 四人。


 五人。


 六人。


 七人。


「……七人?」


 私は首をかしげました。


「何で、こんなに?」


 現代なら。


 発起人一人。


 取締役一人。


 資本金一円。


 株式会社は、それでも設立できます。


 だったら。


 こんな零細企業に、発起人を七人も集める必要はないはずです。


「先輩」


「何だ」


「これ、発起人が七人もいます」


「当たり前だろ」


「……当たり前?」


「株式会社なんだからな」


 私は嫌な予感がしました。


「先輩。株式会社って、発起人一人でも作れますよね?」


 相馬先輩の動きが止まりました。


「……は?」


「え?」


「お前、何言ってんだ」


「ですから、一人会社です!」


「何だそりゃ」


 しまった。


 またです。


 現代の会社法の知識。


 昭和六十三年には、そのまま使えません。


「発起人は七人以上だ」


 相馬先輩が言いました。


「な、七人……」


「株式会社ならな」


「じゃあ、取締役は?」


「三人以上」


「監査役は?」


「一人以上必要だ」


「ええええっ!」


 私は頭を抱えました。


 昭和の株式会社。


 重い。


 とにかく重い。


 現代なら、個人が一人で株式会社を作れるのに。


 昭和六十三年は、発起人を七人集めるところから始まるのです。


「じゃあ合同会社なら――」


「何だ、その会社」


「……ですよね」


 ありません。


 合同会社なんて、まだ存在しません。


 この時代。


 会社のルールは、商法第二編の会社に関する規定や有限会社法などに分かれています。


 現代の独立した会社法は、まだ生まれていないのです。


「だから、名前だけ借りる奴が出てくる」


 相馬先輩が言いました。


「頭数を揃えるために、親戚や知り合いを発起人にするんだ」


「それって、危なくないですか?」


「危ねえよ」


 先輩は発起人名簿を見ました。


「本当に設立に参加したのか。出資したのか。そこが怪しくなる」


 私は七人の名前を見つめました。


 黒田源蔵。


 黒田の妻。


 黒田の弟。


 黒田の知人。


 黒田の知人。


 藤田正一。


 そして。


 黒田の従業員。


 ……。


 何でしょう。


 この。


 無理やり七人集めました、という顔ぶれは。


 私は最後の手紙を開きました。


 そこには、こう書かれていました。


 ――私は、創立総会に出席していません。


 ――ところが、議事録には私が出席したことになっています。


 ――黒田社長は、設立が無効になると聞かされ、会社の借金を払う必要がなくなったと言っています。


 ――本当に、そんなことができるのでしょうか。


 私は息を呑みました。


「先輩!」


「ああ」


「創立総会です!」


 相馬先輩の目が細くなりました。


「そこか」


 そうです。


 今回の事件。


 会社の設立手続きに、本当に重大な問題がある可能性が出てきました。


 三日後。


 藤田正一さんが事務所を訪れました。


 四十六歳。


 地元で鉄工所を営む男性です。


「私も、まさかこんなことになるとは……」


 藤田さんは、深く頭を下げました。


 話によると。


 黒田は株式会社を設立するため、藤田さんに協力を頼んだそうです。


「地元の工場に仕事を回す会社を作る。協力してくれないか、と」


「それで株式を引き受けたんですね」


「はい」


 藤田さんは、実際に出資もしていました。


 ところが。


 設立の途中で、不審なことが起きました。


「創立総会の通知が来なかったんです」


「来なかった?」


「はい。あとから聞いたら、もう終わったと言われまして」


 私は議事録を見ました。


 昭和六十二年十月十五日。


 創立総会開催。


 出席者。


 藤田正一。


 ……。


「ここに名前がありますよね」


「ええ」


「でも、出席していない?」


「はい」


「委任状は?」


「出していません」


 私は顔を上げました。


 これは。


 かなり怪しい。


「それに」


 藤田さんは、もう一枚の紙を取り出しました。


「これは、黒田社長から渡された書類です」


 そこには。


 ――創立総会は開催せず、関係者の了承をもって議決に代える。


 という走り書きがありました。


「……え?」


 私は固まりました。


 創立総会を開催せず?


 でも。


 議事録には、開催したと書いてある。


「藤田さん」


「はい」


「これは、誰が作ったんですか?」


「黒田社長です」


「議事録も?」


「社長のところで作ったと聞いています」


 相馬先輩が低い声で言いました。


「なるほどな」


 その声。


 怖い。


 ものすごく怖い。


「相馬」


 片桐所長が口を開きました。


「はい」


「原本を確認する必要がある」


「そうですね」


「藤田さん」


 所長が言いました。


「あなたは、株主として現在の状況を確認したいのですね」


「はい」


「では、会社に対して、設立関係書類と議事録の確認を求める書面を作りましょう」


 藤田さんが頷きました。


「お願いします」


 私は所長を見ました。


「所長!」


「何だ」


「もし創立総会が適法に開かれていなければ、設立無効ですよね!」


「可能性はある」


「じゃあ、会社は――」


「待て」


 所長が静かに言いました。


「無効になることと、最初から存在しなかったことは違う」


 ……。


 私は言葉を止めました。


 そうでした。


 今日のテーマ。


 ここが、一番大事なところなのです。


 その翌日。


 黒田源蔵が、事務所へやって来ました。


 黒い高級車。


 派手な背広。


 金色の腕時計。


 そして。


 人を見下すような笑い方。


「ここが片桐行政書士事務所か」


 黒田は、事務所を見回しました。


「ずいぶん古臭いところだな」


 ……。


 出ました。


 悪徳社長の第一声。


 なぜか皆さん、事務所の古さを指摘するところから始めるんですよね。


「黒田さんですね」


 片桐所長が言いました。


「ああ」


「ご用件は」


「うちの会社のことで、いろいろ調べているそうじゃないか」


 黒田は椅子に座りました。


 断りもなく。


「村瀬精密の件か?」


「私は依頼人の代理人として交渉しているわけではありません」


 所長は落ち着いて答えました。


「関係者から依頼を受け、書類の確認と作成を行っています」


「ふん」


 黒田は鼻を鳴らしました。


「だったら、教えてやるよ」


 そう言って、書類を取り出しました。


「うちの会社は設立無効だ」


 私は黙って聞きました。


「創立総会の手続きに問題があった。株主にも通知していなかった」


 黒田は笑いました。


「だから会社は最初からなかったことになる」


 ……。


「会社がなかったんだから、契約もない。借金もない」


 ……。


「村瀬精密への二百八十万円も払う必要がない」


 私は思わず口を開きました。


「そんな――」


「こはる」


 相馬先輩が止めました。


「はい……」


 黒田は得意そうに続けます。


「設立を取り消せばいいんだよ」


 その瞬間。


 私は顔を上げました。


 設立を取り消す?


「黒田さん」


「何だ、小娘」


「株式会社の設立取消し、ですか?」


「ああ」


「……誰が教えたんですか?」


「知り合いの社長だよ。会社を取り消せば、借金から逃げられるってな」


 私は目を見開きました。


 ……。


 いや。


 いやいやいや。


 それ。


 いろいろ間違っています。


 まず。


 株式会社に、設立取消しという制度はありません。


 そして。


 設立無効の問題があったとしても、社長が勝手に会社を消せるわけではありません。


 さらに。


 仮に設立無効の判決が確定しても。


 それまで会社が行ってきた取引が、全部なかったことになるわけではないのです。


「先輩」


 私は小さく言いました。


「何だ」


「この人、三つ全部混同してません?」


「ああ」


「無効と、不成立と、取消し」


「全部ごちゃ混ぜだな」


 黒田が机を叩きました。


「何をこそこそ話してる!」


 そのとき。


 片桐所長が一枚の紙を取り出しました。


「黒田さん」


「何だ」


「会社の設立登記は、されていますね」


「ああ」


「昭和六十二年十一月二日」


「そうだ」


「では、会社はその日に成立しています」


「だから、それを無効にするんだろうが!」


 所長は表情を変えませんでした。


「設立無効を主張するには、法律で定められた訴えによる必要があります」


「何?」


「あなたが無効だと宣言しただけでは、会社は消えません」


 黒田の笑みが、少し薄れました。


「それにな」


 相馬先輩が口を開きました。


「仮に設立無効が認められても、判決の効力は将来に向かうんだ」


「……将来?」


「そうだ」


 先輩は机を指で叩きました。


「去年、会社が成立した」


「ああ」


「今年、取引先から品物を買った」


「ああ」


「それから設立無効になったとしても、去年から今年までの会社の取引が、全部消えるわけじゃねえ」


 黒田の顔から、笑みが消えました。


「……何だと?」


「会社を消せば借金も消える?」


 相馬先輩が冷たく笑いました。


「そんな便利な法律があったら、商売人は誰も借金を払わなくなるだろうが」


 ……。


 私は、心の中で拍手しました。


 出ました。


 相馬先輩の商法の刃。


 そして。


 今回の事件の、決定的な急所です。


「ふざけるな!」


 黒田が立ち上がりました。


「だったら、設立そのものがなかったことにすればいい!」


 ……。


 またです。


 設立そのものがなかったこと。


 それは、別の話。


「黒田さん」


 私は思わず言いました。


「会社の不成立と、設立無効は違います」


「同じだろうが!」


「違います!」


 私は机の上の登記簿を指差しました。


「会社の不成立というのは、設立登記まで至らず、会社が一度も成立しなかった場合です」


「だから、うちも――」


「御社は登記されています!」


 黒田が黙りました。


「ちゃんと会社が成立しているんです!」


「……」


「その会社の設立手続きに問題があったからといって、勝手に不成立へ戻せるわけではありません!」


 相馬先輩が頷きました。


「そういうことだ」


 私は息を吸いました。


「それに、会社が本当に不成立だった場合でも、設立のために行った行為の責任を、発起人が負うことがあります」


 黒田の眉が動きました。


「……発起人?」


「はい」


 昭和の商法。


 株式会社が成立しなかった場合、発起人は設立に関する行為について連帯して責任を負う仕組みがあります。


 設立のために使った費用。


 設立に関して生じた責任。


 会社が生まれなかったからといって、全部を宙に浮かせていいわけではありません。


「つまり」


 相馬先輩が言いました。


「不成立だとしても、発起人が『会社がないから俺も知らねえ』で逃げ切れるとは限らねえ」


 黒田の顔色が変わりました。


「何だと……」


「お前さん、発起人だったな」


「あ、ああ……」


「七人集めて、会社を作ったんだろ」


「そうだ!」


「だったら、頭数だけ揃えれば終わりじゃねえんだよ」


 私は思いました。


 なるほど。


 この時代の株式会社。


 発起人七人という厳しい要件。


 そのために、名前だけ借りる。


 適当に書類を作る。


 形式だけ整える。


 でも。


 形式だけ整えたつもりでも、責任まで消えるわけではない。


 ここが。


 昭和の商法の、恐ろしいところなのです。


「まあ、いい!」


 黒田は強がりました。


「どうせ会社のことだ! 俺個人には関係ない!」


 ……。


 来ました。


 悪徳社長の第二の必殺技。


 会社と個人は別だから、俺は無関係。


 確かに。


 株式会社と、その株主や取締役は別の法主体です。


 会社の借金が、当然に社長個人の借金になるわけではありません。


 でも。


 だからといって。


 取締役が何をしても責任を負わないわけではない。


「黒田さん」


 片桐所長が言いました。


「設立手続きの問題を知っていたのは、いつですか」


「……何?」


「いつ、創立総会の議事録に問題があると知りましたか」


「そ、それは……」


「設立登記の前ですか。それとも後ですか」


 黒田は黙りました。


 所長は続けました。


「問題があると知りながら、登記を進めたのですか」


「……」


「その後、会社名義で取引を続けたのですか」


「……」


「さらに、債権者への支払いを避けるために、その設立手続きの問題を利用しようとしているのですか」


 黒田の額に、汗が浮かびました。


 所長は、静かに言いました。


「もしそうなら、設立無効とは別に、あなた自身の任務懈怠や第三者に対する責任が問題となる可能性があります」


「……!」


 私は息を呑みました。


 そうです。


 会社の設立無効と。


 社長個人の責任は。


 別問題。


 さらに、取締役が会社に損害を与えた場合には、会社に対する責任も問題になります。


 悪意や重大な過失によって第三者に損害を与えた場合には、第三者に対する責任が問われる場面もある。


 ただし。


 当然に社長個人が全額払うと決まるわけではありません。


 具体的な行為。


 故意や過失。


 損害との因果関係。


 それらを検討する必要があります。


 けれど。


 黒田のように、自分で設立手続きを進め、自分で取引を行い、自分で問題を利用して支払いから逃げようとする人物には。


 会社という看板だけで、すべてを隠し通せる保証などないのです。


「くそっ……!」


 黒田は書類を掴みました。


「こんな事務所に何が分かる!」


 そう言い残し、出ていきました。


 扉が乱暴に閉まります。


 ……。


 私は、しばらく黙っていました。


「先輩」


「何だ」


「すごかったですね」


「何が」


「所長、全然怒らなかったのに」


「ああ」


「相手の顔色が、どんどん悪くなっていきました」


 相馬先輩は笑いました。


「悪党ってのはな」


「はい」


「大声には慣れてるんだよ」


「……」


「だが、自分が説明できない事実を一つずつ並べられるのには弱い」


 なるほど。


 今回も。


 勝負を決めるのは、声ではありません。


 書面と事実です。


 翌朝。


 片桐所長は、藤田さんから預かった資料を机に並べました。


「相馬」


「はい」


「藤田さんの意思を確認しておけ」


「分かりました」


「こはる」


「はい!」


「内容証明の原案を作れ」


「はい!」


 私は鉛筆を握りました。


 まず、依頼人。


 藤田正一さん。


 東海新産業の株主。


 そして、設立時の発起人の一人。


 目的。


 会社の設立手続きに関する事実確認。


 創立総会議事録の内容に対する異議の通知。


 必要な是正措置の要求。


 そして。


 設立無効を含む法的措置の検討。


 私は書き始めました。


 ――貴社の設立手続きには重大な瑕疵が存在するため、当該設立は無効である。


「待て」


 相馬先輩が言いました。


「はい?」


「いきなり断定するな」


「ええっ!」


「俺たちは裁判所じゃねえ」


「あ……」


 そうでした。


 設立無効の原因があるかどうか。


 その事実を調査し、必要なら訴訟で判断される問題です。


 行政書士が、内容証明一枚で会社の設立を無効にできるわけではありません。


「じゃあ……」


 私は書き直しました。


 ――貴社の設立時における創立総会の開催及び議事録の作成について、重大な疑義が存在する。


「うん」


「――通知人は、当該創立総会に出席しておらず、出席を委任した事実もない」


「うん」


「――それにもかかわらず、議事録には通知人が出席した旨の記載が存在する」


「よし」


 私は続けました。


 ――ついては、創立総会の招集通知、出席者の確認資料、委任状その他の関係資料を確認し、当該議事録の作成経緯及び設立手続きの適法性について、書面による説明を求める。


「いいな」


 相馬先輩が頷きました。


 でも。


「先輩」


「何だ」


「これだけで、黒田社長は折れますか?」


「まだだな」


「ですよね……」


 そのとき。


 片桐所長が言いました。


「こはる」


「はい」


「設立無効の訴えは、誰でも起こせるのか」


 私は考えました。


 現代の会社法。


 設立無効の訴え。


 提訴できる人には制限があります。


 株主。


 取締役。


 監査役など。


 ……。


「誰でも、ではありません」


「そうだ」


「藤田さんは株主ですから、提訴する資格が問題なく認められる立場ですね」


「うん」


「でも、村瀬精密は会社の債権者です」


「そうだ」


「債権者だからという理由だけで、株式会社の設立無効の訴えを起こせるわけではありません」


 所長が頷きました。


「そこを分けろ」


 なるほど。


 千鶴さん。


 会社に代金を請求する債権者。


 藤田さん。


 会社の設立を問題にできる株主。


 二人は、同じ黒田に困らされています。


 でも。


 法律上の立場が違う。


 取れる手段も違う。


「じゃあ、村瀬精密さんには……」


「別の書面が必要だ」


 所長が言いました。


「取引の事実を整理し、代金請求についての通知を作成する。争いが続くなら弁護士に引き継ぐ」


「はい!」


「藤田さんには、設立手続きに関する通知」


「はい!」


「二つを混同するな」


 私は頷きました。


 設立無効の問題を利用して、支払いを免れようとする黒田。


 それに対して。


 設立手続きの問題は、株主の立場から確認する。


 売買代金の問題は、債権者の立場から請求する。


 法律上の道を、きちんと分ける。


 これが、今回の戦い方なのです。


「所長、もう一つ質問です」


 私は手を上げました。


「何だ」


「設立無効の訴えって、いつでも起こせるんですか?」


「期間がある」


 所長は六法を開きました。


「株式会社の設立無効は、成立から二年以内に訴えを提起する必要がある」


 私は時計を見ました。


 いや。


 時計ではありません。


 カレンダーです。


 昭和六十三年。


 東海新産業の設立は、昭和六十二年十一月二日。


 まだ一年も経っていません。


「じゃあ、まだ期間内ですね!」


「そうだ」


「黒田社長、設立手続きを問題にされたくなかったら、今のうちに何とかしないといけないんですね」


 相馬先輩が頷きました。


「ただし、期間内だから必ず無効になるわけじゃねえ」


「はい」


「重大な無効原因が本当にあるのか。それが問題だ」


 私は頷きました。


 創立総会に不備がある。


 議事録がおかしい。


 でも。


 それだけで、直ちに設立無効が確定するわけではありません。


 手続き全体を調べる必要があります。


 ほかに適法な決議があったのか。


 どのような設立方式だったのか。


 法定の手続きが履践されていたのか。


 そして、その瑕疵が設立無効の原因となるほど重大なのか。


 これらを確認しなければならない。


「でも、所長」


「何だ」


「もし設立無効の判決が確定したら、会社はどうなるんですか?」


「清算だ」


「……清算?」


「そうだ」


 所長は言いました。


「会社が解散した場合と同じように、法律関係を整理することになる」


 私は目を見開きました。


 清算。


 つまり。


 会社の財産や負債を整理する。


 債権者への支払いを処理する。


 残余財産があれば、法律に従って分配する。


 そういう後始末です。


「じゃあ!」


 私は言いました。


「黒田社長の言う『設立無効になったから借金も消える』って、真逆じゃないですか!」


 相馬先輩が笑いました。


「ようやく分かったか」


「はい!」


 設立無効の判決は、過去の取引を全部消し去る魔法ではありません。


 むしろ。


 会社が積み重ねた法律関係を、きちんと整理しなければならなくなる。


 だから。


 債権者の存在を、勝手に消していいわけではない。


「清算人っていう人が、後始末をするんですよね」


「そうだ」


「借金も、取引も、財産も」


「ああ」


「全部なかったことになるわけじゃない」


 私はノートに、大きく書きました。


 ――会社が消えることと、会社の責任が消えることは違う。


 その一行が。


 妙に重く感じられました。


 二通の内容証明郵便が完成したのは、午後四時でした。


 一通目。


 藤田正一さん名義。


 設立手続き及び創立総会議事録に関する事実確認通知書。


 二通目。


 村瀬精密製作所、村瀬千鶴さん名義。


 売買代金支払請求通知書。


 私は二通目を読み上げました。


「――通知人は、昭和六十三年某月某日、貴社から注文を受け、所定の工作機械部品を納入した」


「うん」


「――貴社は本件部品を受領し、現在まで返還その他の異議を申し出ていない」


「うん」


「――売買代金二百八十万円は支払期限を経過している」


 相馬先輩が頷きました。


「続けろ」


「――貴社が主張する設立手続きの瑕疵は、それのみを理由として、既に成立した貴社の本件売買代金支払義務を当然に消滅させるものではない」


「よし」


 私は一度、息を吸いました。


「――貴社は既に設立登記を経て成立しており、設立無効の判決が確定した事実もない」


「うん」


「――また、仮に設立無効の判決が確定した場合であっても、その効力は将来に向かって生じるものであり、既存の法律関係を当然に遡及消滅させるものではない」


 ……。


 私は紙を見つめました。


 これです。


 黒田社長の逃げ道を塞ぐ、一番大切な一文。


「――よって、通知人は、貴社に対し、本件売買代金二百八十万円の支払いを求める」


 読み終わりました。


 相馬先輩が腕を組みました。


「悪くねえ」


「本当ですか!」


「ああ」


「やった!」


 ところが。


「一か所」


 片桐所長が言いました。


「はい?」


「最後に、今後の手続きを書いておけ」


「はい!」


 私は最後の一文を加えました。


 ――期限までに支払いがなされない場合、通知人は弁護士への相談のうえ、法的手続きを検討する。


 所長が頷きました。


「それでいい」


 私は完成した書面を見ました。


 二百八十万円。


 会社の設立無効。


 創立総会。


 株主。


 債権者。


 清算。


 それぞれ、違う問題です。


 でも。


 書面の上では、すべてつながっています。


 しかも。


 私たちは、相手と示談交渉をするわけではありません。


 依頼人の意思に基づく通知書を作成し、法的な問題を整理する。


 裁判が必要になれば、弁護士へ引き継ぐ。


 その立場を守ったうえで。


 相手に、自分がどんな法律上の問題を抱えているのか知らせるのです。


「所長」


「何だ」


「これ、怖いですね」


「何がだ」


「設立無効を持ち出して逃げようとした社長に、その設立無効の本当の意味を教える書面です」


 相馬先輩が笑いました。


「自分で振り回した法律に、自分で斬られるってわけだ」


 私は思わず笑いました。


 なるほど。


 まさに。


 商法の自爆装置です。


 内容証明郵便を発送してから、四日後。


 事務所の電話が鳴りました。


「はい、片桐行政書士事務所です!」


『……黒田だ』


 私は固まりました。


 黒田源蔵。


 あの悪徳社長です。


「所長に代わります!」


 受話器を渡します。


「片桐です」


『あの……書面を受け取った』


「はい」


『顧問の弁護士に見せたんだが……』


 黒田の声は、以前よりずっと小さくなっていました。


『設立無効になっても、借金は消えないって……本当なのか』


「通知書に記載したとおりです」


『清算ってのも、必要になるのか』


「設立無効の判決が確定した場合には、法律に従った清算が問題になります」


 電話の向こうで、長い沈黙がありました。


『……』


 それから。


『俺は、会社をなかったことにすれば、全部終わると思ってた』


 ……。


 私は胸の中で呟きました。


 そんなわけ、ないでしょう。


『それに……』


 黒田は言いました。


『議事録の件も、調べられたらまずい』


 所長は黙って聞いています。


『あの創立総会……実際には、議事録に書いたとおりにはやっていないんだ』


 私は目を見開きました。


 やっぱり。


『七人の発起人を揃えるだけでも大変だった。取締役も三人、監査役も一人必要だって言われて……』


 黒田の声が震えました。


『だから、書類だけ整えりゃいいと思ったんだよ』


 ……。


 私は唇を噛みました。


 昭和の株式会社。


 厳格な設立要件。


 それが、名義貸しや形式だけの役員を生みやすかった。


 でも。


 法律が厳しいからといって、嘘の書類を作っていいわけではありません。


『……村瀬精密の代金は払う』


 黒田が言いました。


 私は思わず顔を上げました。


『二百八十万円。会社の資金を確認して、支払う』


 所長は静かに言いました。


「その意思があるのであれば、村瀬さんへ直接、支払いの予定を書面でお伝えください」


『分かった』


「藤田さんの求めている設立関係資料についても、会社として適切に対応してください」


『……分かった』


 黒田は、か細い声で続けました。


『もう、設立無効だなんて言わないほうがいいんだな』


 所長は少し間を置いて答えました。


「設立手続きに問題があるなら、隠さず確認すべきです」


『……』


「ただし、その問題を利用して、取引先への支払いを免れようとするのは別の話です」


『……はい』


 黒田の声は、すっかり小さくなっていました。


 電話が切れました。


「所長!」


 私は叫びました。


「払うって言いましたよね!」


「ああ」


「やりましたね!」


「まだだ」


 相馬先輩が言いました。


「え?」


「金が入ってから喜べ」


 ……。


 そうでした。


 前にも言われました。


 電話で払うと言った。


 それだけでは、まだ終わりではありません。


 まして。


 設立手続きの問題そのものが、なくなったわけでもない。


 会社の負債の処理と。


 設立の適法性。


 それぞれ、最後まで確認しなければならないのです。


 一週間後。


 村瀬千鶴さんが事務所へ来ました。


 その顔には、以前のような疲れがありませんでした。


「入金されました!」


 私は立ち上がりました。


「本当ですか!」


「はい!」


 二百八十万円。


 全額。


 村瀬精密製作所の口座に、振り込まれたそうです。


「よかった……!」


 私が言うと、千鶴さんは目元を押さえました。


「これで、従業員に給料を払えます」


「はい!」


「材料屋さんへの支払いもできます」


 その言葉を聞いたとき。


 私は胸が熱くなりました。


 二百八十万円。


 数字だけ見れば、ただの売買代金です。


 でも。


 そのお金には。


 従業員の生活がかかっている。


 家族の暮らしがかかっている。


 町工場が、明日も機械を動かせるかどうかがかかっている。


「会社って、不思議ですね」


 私は呟きました。


「え?」


 千鶴さんが顔を上げます。


「会社って、法律で作られた存在じゃないですか」


「そうですね」


「でも、その向こうには、たくさんの人がいるんですね」


 千鶴さんは、ゆっくり頷きました。


「ええ」


 そして、少し笑いました。


「うちの従業員たちも、毎日必死で働いてくれていますから」


 私は、その笑顔を見つめました。


 よかった。


 本当に。


 よかった。


 ただ。


 事件には、もう一つの後始末が残っていました。


 藤田正一さんの件です。


 創立総会議事録。


 出席していないのに、出席したことになっていた株主。


 適法に開催されたか疑わしい創立総会。


 設立無効の可能性。


 これらは、代金が支払われたからといって消える問題ではありません。


 黒田は、関係資料の確認に応じる旨を藤田さんへ書面で回答しました。


 藤田さんは、弁護士に相談することを決めました。


「設立無効の訴えまで必要なのか、ちゃんと確認したいんです」


 藤田さんが言いました。


「私は、会社を潰したいわけじゃありません」


「はい」


「ただ、嘘の書類で作られた会社を、そのままにしていいとは思えない」


 私は頷きました。


 その気持ち。


 よく分かります。


 会社の設立無効を争うことは、単なる社長への仕返しではありません。


 会社という法人が、適法に作られたのか。


 そこに関係した人たちの権利を、どう扱うのか。


 その問題です。


「でも」


 藤田さんは少し考えてから言いました。


「もし本当に設立無効になったら、取引先の人たちはどうなるんでしょう」


 私は答えました。


「だからこそ、設立無効の判決は、過去の取引を全部なかったことにはしない仕組みになっているんです」


「……そうなんですか」


「はい」


 私は頷きました。


「会社が法律に従って清算される場合でも、債権者の権利を考えなければなりません」


 藤田さんは、ほっとしたように息を吐きました。


「それなら、少し安心しました」


 片桐所長が言いました。


「設立無効が認められるかは、これからの調査と判断次第です」


「はい」


「ただ、会社の手続きに問題があったからといって、関係者の生活を無視していいわけではありません」


 藤田さんは深く頭を下げました。


「ありがとうございます」


 こうして。


 村瀬精密の代金問題は、解決しました。


 一方。


 東海新産業の設立手続きについては、資料を整理し、弁護士による検討へ進むことになりました。


 会社の設立が有効なのか。


 重大な瑕疵があるのか。


 訴えを提起する必要があるのか。


 そこは、まだ結論が出ていません。


 でも。


 少なくとも。


 黒田社長が一方的に会社の存在を否定し、二百八十万円の支払いを踏み倒すという企みは。


 完全に失敗したのです。


 その日の夕方。


 私は事務所の机で、六法を開いていました。


「先輩」


「何だ」


「今回、設立無効と会社の不成立の違いが、すごくよく分かりました」


「ほう」


「登記された会社の設立に重大な問題があるなら、設立無効が問題になる」


「うん」


「でも、登記まで至っていなければ、そもそも会社は成立していない」


「そうだ」


「しかも、設立無効の判決が確定しても、効力は将来に向かって生じる」


「うん」


「だから、会社が過去に作った借金まで消えるわけじゃない!」


 相馬先輩が頷きました。


「そのとおり」


 私は嬉しくなりました。


 今日の事件。


 かなり勉強になりました。


 でも。


「先輩」


「今度は何だ」


「設立取消しって、結局どんな場合に使うんですか?」


「ああ」


 先輩は少し考えました。


「株式会社の話じゃねえな」


「はい」


「合名会社や合資会社のような会社では、設立の取消しが問題になる場合がある」


 私は頷きました。


 現代の会社法では、合名会社、合資会社、合同会社をまとめて持分会社と呼びます。


 でも。


 昭和六十三年には、合同会社はありません。


 ここでも、未来の制度を混ぜてはいけません。


「じゃあ、株式会社には?」


「設立取消しという制度はねえ」


「ですよね!」


「少なくとも、今回の黒田みたいに『借金が嫌だから設立を取り消す』なんて話にはならねえ」


 私は笑いました。


 本当に。


 黒田社長の理屈は、むちゃくちゃでした。


 会社を作る。


 取引する。


 商品を受け取る。


 支払いが嫌になる。


 だから設立を取り消す。


 ……。


 そんなものが通るなら。


 契約書も。


 請求書も。


 領収書も。


 全部、意味がなくなってしまいます。


「所長」


 私は奥へ声をかけました。


「何だ」


「会社って、どうして設立無効をそんなに厳しく扱うんですか?」


 所長は、しばらく考えました。


 そして。


「会社は、一人のものではないからだ」


 そう言いました。


「……一人のものではない?」


「社長が作った会社でも、取引するのは社長一人ではない」


「はい」


「株主がいる。従業員がいる。債権者がいる」


「はい」


「その人たちが、会社の存在を前提に動いている」


 私は頷きました。


「その会社を、社長の都合で最初からなかったことにできたら、どうなる」


「……困る人が、たくさん出ます」


「そうだ」


 所長は言いました。


「だから、無効の原因がある場合でも、決められた手続きで判断する」


 そして。


「過去まで勝手に消さない」


 私は、しばらく黙りました。


 なるほど。


 法律は、会社を守っているだけではありません。


 会社を信じて取引した人たちも、守ろうとしているのです。


「ところで、こはる」


 相馬先輩が言いました。


「はい?」


「お前、最初に何て言った?」


「最初?」


「発起人は一人でもいいとか言ってなかったか」


 ……。


 しまった。


「そ、それは……」


「株式会社を一人で作れるって?」


「ええと……」


「さらに、何とか会社って言ってたな」


「……合同会社です」


「何だ、その会社」


 私は頭を抱えました。


「未来の話です!」


「また未来か!」


「だって、現代ではあるんですよ!」


「何だと?」


「発起人一人! 取締役一人! 資本金一円でも株式会社を設立できるんです!」


 相馬先輩が呆れた顔をしました。


「……お前、本気で言ってるのか」


「本気です!」


「そんな簡単に株式会社を作れるなら、町中株式会社だらけになるぞ」


「なります!」


「何?」


「いえ、何でもありません!」


 危ない。


 未来の会社法事情を、全部話してしまうところでした。


 でも。


 昭和六十三年の株式会社と、現代の株式会社。


 設立の仕組みは、驚くほど違います。


 昔は、発起人七人。


 取締役三人以上。


 監査役一人以上。


 会社を作るだけでも、大変でした。


 そして。


 その厳しい形式が、今回のような名義貸しや、形式だけの議事録を生む原因の一つにもなっていた。


 もちろん。


 だからといって、手続きを省略していいわけではありません。


 でも。


 会社の設立をもっと合理的にする。


 小さな事業でも、必要な形で法人化できるようにする。


 現代の会社法が生まれ、設立制度が簡略化されていく背景には。


 こうした時代の変化もあったのだと思います。


 窓の外。


 夕暮れの町に、工場の煙突が見えました。


 あの向こうに。


 村瀬精密製作所があります。


 従業員十二人。


 納期を守るために、休日も働いた人たち。


 その人たちの仕事が、きちんと代金につながった。


 私は、少し嬉しくなりました。


「先輩」


「何だ」


「今日、商法って優しいんだなって思いました」


「……は?」


「だって、会社が無効になったとしても、取引先の人たちを簡単に切り捨てないんですよ」


 相馬先輩は、しばらく私を見ました。


 それから。


「優しいっていうより」


「はい」


「無責任を許さねえんだろ」


 私は頷きました。


 そうかもしれません。


 会社を作った。


 人からお金を集めた。


 取引した。


 商品を受け取った。


 だったら。


 都合が悪くなったからといって、全部なかったことにはできない。


 会社の設立無効も。


 会社の不成立も。


 設立取消しも。


 それぞれ、違う制度です。


 でも。


 共通しているのは。


 会社という仕組みを利用した人間が、その責任から簡単に逃げられないようにするという考え方です。


「所長」


「何だ」


「今日、覚えたことがあります」


「言ってみろ」


 私はノートを開きました。


 そして。


 一行だけ書きました。


 ――登記前なら不成立、登記後の重大な瑕疵なら設立無効。だが、無効でも過去の借金は消えない。


「……どうですか!」


 所長が頷きました。


「悪くない」


「やった!」


 相馬先輩が横から言いました。


「ただし、設立無効になるかどうかは裁判で決まるんだぞ」


「はい!」


「勝手に無効だと決めつけるなよ」


「はい!」


「それから、株式会社に設立取消しはねえ」


「はい!」


「あと、昭和六十三年の株式会社は発起人七人以上だ!」


「……はい!」


 私は頭を下げました。


 今日もまた。


 未来の会社法を、昭和の商法に持ち込んでしまいました。


 でも。


 そのおかげで、少しだけ分かった気がします。


 法律が変わっても。


 変わらないものがある。


 会社を信じて働く人。


 会社を信じて商品を納める人。


 会社を信じてお金を貸す人。


 そうした人たちを、法律がどう守るのか。


 そこが大切なのです。


 そのとき。


 事務所の電話が鳴りました。


「はい、片桐行政書士事務所です!」


『あのう……』


 年配の男性の声でした。


『株式会社を作ろうとしていたんですが……』


「はい!」


『途中で計画がなくなりまして』


 私は顔を上げました。


「……計画が?」


『はい。発起人を七人集めて、株式を引き受けてもらったんですが、創立総会で設立をやめることになったんです』


 ……。


 私は固まりました。


『まだ登記はしていないんですけど……』


 来ました。


 今度こそ。


 本当の会社の不成立です。


「それで、どうされました?」


『出資してくれた人から、お金を返せって言われまして』


「はい」


『でも、会社ができなかったんだから、返さなくてもいいんじゃないかと……』


 ……。


 私は目を閉じました。


 またです。


 どうして皆さん。


 会社ができなかったら、お金の責任まで消えると思うのでしょう。


「先輩」


 私は受話器を押さえて言いました。


「何だ」


「今度は、本当に設立登記前です」


「ほう」


「会社が不成立になったそうです」


「それで?」


「発起人が、出資金を返したくないって言ってます」


 相馬先輩が、にやりと笑いました。


「……なるほどな」


 片桐所長が、静かに六法を開きました。


「こはる」


「はい!」


「発起人の責任を調べろ」


「はい!」


 私は、受話器を握り直しました。


「すみません。まず、出資を受けた経緯と、設立を中止するまでの手続きを詳しく教えてください」


 昭和六十三年。


 商法の世界は、今日も簡単ではありません。


 登記された会社。


 登記されなかった会社。


 設立手続きに重大な問題があった会社。


 どれも、似ているようで違います。


 でも。


 一つだけ、確かなことがあります。


 会社の設立に問題があった。


 その一言で。


 人の働いた対価まで、消し去ることはできないのです。


「相馬先輩!」


「今度は何だ!」


「私、会社の設立って、もっと簡単なものだと思ってました!」


「簡単なわけねえだろ!」


「でも、未来では簡単になるんです!」


「また未来の話か!」


「だって本当なんです!」


「今の商法で仕事しろ!」


「はいっ!」


 私は笑いながら、相談票を取り出しました。


 設立無効。


 会社の不成立。


 設立取消し。


 三つの言葉。


 三つの違い。


 そして。


 その向こうには、会社を信じてお金を出した人や、汗を流して働いた人たちがいる。


 法律の勉強は、まだまだ続きそうです。


 ただし。


 次からは。


「会社がなかったことになる」


 そんな言葉を聞いたら、まず一つだけ確認することにします。


 その会社は、本当に設立登記まで済ませたのか。


 だって。


 会社が生まれていたのかどうか。


 そこを確かめずに、会社の死を語ることなどできません。


 そして何より。


 会社を消せば借金まで消えるほど。


 昭和の商法は、悪徳社長に都合のよい法律ではないのです。

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