[会社法・募集設立の手続き]法理編 こはるノート
会社を作るために、お金を集める。
それは、夢を集めることでもあります。
新しい工場を建てたい。
大きな会社と直接取引したい。
仲間と一緒に、今より豊かな暮らしを実現したい。
そんな夢を信じて、誰かがお金を出す。
でも。
お金を集めた人間が、そのお金を自由に使っていいとしたら。
夢を信じて出資した人たちは、どうなるのでしょうか。
昭和六十三年。
夕方の片桐行政書士事務所。
私は机に向かい、ノートを開いていました。
表紙には大きく、
――こはるノート・商法編。
と書いてあります。
「……募集設立って、思っていたより怖いですね」
私が呟くと、相馬先輩が新聞から顔を上げました。
「何が怖いんだ」
「手続きを一つ飛ばすだけで、会社設立が大問題になるところです」
「ああ」
「それに、五百万円ですよ!」
「何がだ」
「藤田さんの出資金です!」
私は先日の事件を思い出しました。
東海精密協同株式会社。
町工場の経営者たちが、お金を出し合って作ろうとした会社。
発起人は、大黒重蔵とその親戚たち七人。
さらに、外部から株式引受人を募集しました。
藤田修一さんは五百万円を出資。
ほかの町工場の経営者たちも資金を出し、出資予定額は合計二千万円に達していました。
ところが。
会社の設立を主導していた大黒社長は、
「金を出しただけの奴は黙ってろ」
と言い放ったのです。
しかも。
創立総会を開いていないのに、開催したことにした議事録まで作っていました。
さらに、自分の会社が所有する中古機械を、新会社に千二百万円で買わせようとしていた。
結果。
出資者たちの名義による内容証明郵便を送ったことで、大黒社長は不備を認めました。
創立総会を改めて開催。
問題のある機械購入も見直し。
役員を適法な手続きで選任。
最後には、設立登記も完了しました。
「でも先輩」
「何だ」
「受験勉強では、募集設立って五つの手順を覚えるだけだと思っていました」
「ほう」
「発起人の出資、募集と割当て、払込み、創立総会、設立登記」
「合ってるな」
「でも実際は、その一つ一つに意味があったんです」
相馬先輩が頷きました。
「そうだ」
片桐所長が奥から声をかけました。
「こはる」
「はい!」
「では、なぜその順番なのか説明してみろ」
……。
来ました。
所長の抜き打ち試験です。
「ええと……」
私は鉛筆を握りました。
「会社を作る人だけでなく、お金を出す人も守るためです!」
「それだけか」
「うっ……」
所長は静かに言いました。
「手続きには、それぞれ役割がある」
「はい」
「一つずつ確認しろ」
私は頷きました。
よし。
今日の勉強会。
募集設立を完全に理解してみせます。
「まず、募集設立とは何か、ですね!」
私はノートの真ん中に大きく書きました。
――株式会社の設立方法。
発起設立。
募集設立。
「この二つを区別することが基本です」
相馬先輩が言いました。
「説明してみろ」
「はい!」
私は鉛筆を立てました。
「発起設立は、発起人が設立時に発行する株式を全部引き受ける方法です」
「うん」
「募集設立は、発起人以外の人にも株式を引き受けてもらう方法です」
「そうだ」
私はノートに図を書きました。
発起設立。
発起人だけで株式を引き受ける。
募集設立。
発起人+募集に応じた引受人。
「今回の大黒社長は、発起人七人だけでは資金が足りなかったんですよね」
「ああ」
「だから藤田さんたちからも、お金を集めた」
「そうだ」
「つまり、募集設立です!」
私は大きく丸をつけました。
すると、相馬先輩が言いました。
「じゃあ、発起人って何だ?」
「会社の設立を企画して、定款を作り、設立手続きを進める人です」
「うん」
「ただし、単なる企画者という意味ではありません。定款に発起人として署名するなど、法律上の立場が重要です」
「そうだな」
そして。
発起人は、自分でも株式を引き受けます。
外部の人に全部お金を出させ、自分は何も引き受けない。
そんな形ではありません。
「所長、ここで一つ質問です」
「何だ」
「昭和六十三年の株式会社は、発起人が七人以上必要なんですよね?」
「そうだ」
「現代なら一人でいいのに……」
相馬先輩が顔を上げました。
「また一人会社か」
「あっ」
「昨日もそんなこと言ってたな」
「すみません!」
しまった。
現代知識。
また口から出ました。
昭和六十三年。
株式会社の発起人は七人以上。
取締役は三人以上。
監査役も一人以上必要。
現代のように、発起人一人、取締役一人という簡素な株式会社を作ることはできません。
「それに、合同会社という選択肢もありませんし……」
「何だ、その合同会社ってのは」
「何でもありません!」
相馬先輩がため息をつきました。
「お前、本当に妙な会社ばかり知ってるな」
未来の会社法です。
もちろん、言えません。
でも。
昭和の厳しい設立要件を見ていると、現代の会社法がどうして簡略化されたのか、少し分かる気がします。
「七人集めるために、名前だけ貸してもらう人もいたんですよね」
「そういう例はあっただろうな」
「本当に会社を作りたいのは一人なのに、七人必要だから親戚を集める」
「ああ」
「形式上の人数を揃えることが目的になってしまう」
私は首をかしげました。
「会社を守るための制度が、かえって名ばかりの人を増やすこともあるんですね」
片桐所長が頷きました。
「制度には、利点も欠点もある」
なるほど。
昔の法律は、単に古くて不便だったわけではありません。
会社という重要な組織を作るために、一定の慎重さを求めていた。
けれど。
時代が変わり、小規模な会社にも適した仕組みが必要になった。
だから現代では、設立要件が大きく見直されたのです。
「ただし、こはる」
所長が言いました。
「今は昭和六十三年だ」
「はい!」
「今使える法律で考えろ」
「分かりました!」
私はノートの端に書きました。
――昭和六十三年の会社ルールは商法第二編。現代の会社法をそのまま持ち込まない。
これ。
転生者には、かなり重要です。
「次は、第一段階です!」
私はページをめくりました。
――発起人による出資。
「発起人は、自分が引き受けた株式について出資を履行します」
「そうだな」
「現代の会社法では、発起人が少なくとも一株を引き受け、出資を履行する仕組みです」
私は少し考えました。
「でも先輩、なぜ発起人自身がお金を出す必要があるんでしょうか」
「お前が会社を作るとして考えろ」
「はい」
「俺に百万円出せと言ったとする」
「はい」
「で、お前はいくら出す?」
「……ゼロ円?」
「信用できるか?」
「できません!」
「そういうことだ」
なるほど。
実に分かりやすい。
「自分では何も引き受けず、他人にだけ危険を負わせるのでは困るんですね」
「まあな」
もちろん。
実際の制度は、それだけのためにあるわけではありません。
発起人は会社設立の中心人物として、株式の引受けや設立手続きを担います。
そして。
発起人だからといって、出資金を自分の財布のように使ってよいわけではありません。
「今回の大黒社長は、そこを勘違いしていました」
「ああ」
「会社を作る人間だから、会社のお金も全部自分のものだと思っていた」
「そうだな」
私はノートに書きました。
――発起人は会社設立の中心人物。しかし、会社財産の私的な所有者ではない。
会社が成立すれば、会社は独立した法人になります。
会社の財産と、社長個人の財産は別。
ここを混同すると。
大黒社長のような事件が起こるのです。
「次は、募集と割当てです!」
私はノートをめくりました。
――第二段階。
株式引受人の募集。
株式の割当て。
「ここは、現代の会社法第五十七条から第六十二条あたりが中心ですね」
「……何条?」
相馬先輩がこちらを見ました。
「あっ」
またです。
私は慌てて口を押さえました。
「昭和では、商法の規定を確認します!」
「最初からそうしろ」
「はい……」
現代の会社法では。
発起人全員の同意により、募集することを決める。
さらに、募集する株式の数や払込金額、払込期日または期間などを定める。
募集に応じた人が申込みをする。
そして。
発起人が、申込人に株式を割り当てます。
「先輩、ここで重要なのが割当てです」
「ああ」
「株式の割当てって、何でしょう?」
相馬先輩が少し考えました。
「申し込んできた奴に、何株引き受けさせるか決めることだろ」
「正解です!」
「何でお前が採点するんだ」
「今日は私のノートですから!」
私は笑いました。
たとえば。
ある人が百株を引き受けたいと申し込んだとします。
でも。
発起人側は、その人に百株全部を割り当てる必要はありません。
五十株でも。
二十株でも。
場合によっては、割り当てないこともできます。
「つまり、申込みをしただけでは、希望した株式を全部引き受けられるとは限らないんですね」
「そうだ」
私は頷きました。
現代の会社法第六十条では、発起人は割り当てる人と株式数を決めることになっています。
原則として、申込株数より少なくすることもできます。
「じゃあ、先輩」
「何だ」
「百株申し込んだ人が、十株しか割り当てられなかったら?」
「引き受けるのは十株だ」
「そうです!」
ここ。
かなり大事です。
申込み。
割当て。
引受け。
似たような言葉ですが、同じではありません。
申込みは、株式を引き受けたいという意思を示すこと。
割当ては、何株を引き受けさせるかを決めること。
その結果、割り当てられた株式について引受人となる。
「つまり、申込書を出しただけで株主確定、ではないんですね」
「そうだ」
所長が静かに言いました。
「ただし、割当てにも手続きがある」
「はい」
「発起人が気分だけで、何も記録せずに済ませてよいわけではない」
私は頷きました。
なお、現代法では、設立時募集株式の総数を引き受ける契約を結ぶ場合など、申込みと割当てに関する特則もあります。
試験では、通常の申込み・割当ての流れを基本として押さえ、例外も区別する必要があります。
「今回の藤田さんは?」
相馬先輩が尋ねました。
「申込みをして、割当てを受け、払込みまで済ませていました」
「そうだ」
「だから、大黒社長が『金を出しただけだ』と言っても、その法律上の立場は消えません」
私は大きく丸をつけました。
――申込みと割当ては別。割当てられた株式について引受人になる。
よし。
これなら忘れません。
「さて、第三段階です!」
私は鉛筆を握り直しました。
――引受人による払込み。
「ここが、今回の藤田さんたちにとって一番切実な部分でした」
「ああ」
「実際に、お金を出しているんですから」
現代の会社法第六十三条。
募集に応じて株式を引き受けた人は、所定の払込期日または期間内に、払込金額の全額を払い込まなければなりません。
「ここで重要なのが、全額です!」
私は言いました。
相馬先輩が頷きます。
「一部だけじゃ駄目なんだな」
「はい!」
たとえば。
一株の払込金額が五万円。
十株を引き受けた。
必要な払込額は五十万円。
ところが。
三十万円しか払い込まなかった。
「これでも、とりあえず六株分の株主になれるんですか?」
私が聞くと、相馬先輩が首を横に振りました。
「勝手に六株分へ変更できるわけじゃねえだろ」
「そうです!」
現代の会社法では、引受人が所定の払込みをしない場合、払込みによって株主となる権利を失います。
足りない分だけ権利を失うという単純な話ではありません。
割り当てられた株式について、必要な全額を払い込むことが原則なのです。
「ただし、先輩」
「何だ」
「ここも昭和と現代で、仕組みが違います」
「またか」
「大事なんです!」
昭和六十三年の旧商法でも、株金の全額払込みが重要でした。
ただし。
払込みを怠ったときの失権については、旧商法上の催告などの手続きを踏まえて考える必要があります。
現代の会社法第六十三条第三項を、そのまま昭和に当てはめるわけにはいきません。
「つまり」
私は書きました。
現代。
所定の払込みをしなければ、株主となる権利を失う。
昭和。
旧商法の全額払込みと失権手続きに従う。
「考え方は似ていても、適用する条文と手続きが違うんですね」
「そうだ」
片桐所長が頷きました。
「法律を扱う者は、結論だけでなく、そこへ至る手続きも確認しなければならん」
「はい!」
私はノートに赤線を引きました。
そして。
もう一つ気になることがありました。
「先輩、もし誰かが払込みをしなかったら、会社はどうなるんですか?」
「場合によるな」
「ですよね」
現代の募集設立で、引受人が権利を失えば、当初予定していた資金が集まらなくなる可能性があります。
けれど。
そのことだけで、会社が必ず設立できなくなるとは限りません。
「現代の会社法では、定款に設立に際して出資される財産の価額またはその最低額を記載するんですよね」
「……最低額?」
相馬先輩が首をかしげました。
「あっ、現代の話です!」
私は慌てて続けました。
たとえば。
予定していた払込総額が二千万円。
けれど、一部の引受人が払込みをせず、実際には千八百万円しか集まらなかった。
その場合。
有効な株式引受けと払込みの状況、定款に定めた最低額などを確認することになります。
最低額を満たし、その他の設立要件も備えていれば、当初の予定額に届かなかったという理由だけで、当然に設立不能とはなりません。
一方。
最低額に届かなければ、適法に設立を進めることはできません。
「ここ、重要です!」
私は言いました。
「最低額を下回ったら、すぐ自動的に『設立無効』と考えるのは危険です」
「どういうことだ?」
「会社がまだ成立していない段階と、成立した会社の設立無効を争う段階では、問題が違うんです」
私はノートに線を引きました。
設立要件が満たされていない。
だから、まだ設立を進められない。
それと。
会社が登記によって成立した後、設立無効の訴えによって効力を争う。
これは同じではありません。
「試験では、こういう言葉の違いが怖いんですよね」
「お前、試験のことになると妙に細かいな」
「細かいところが出るんです!」
相馬先輩が苦笑しました。
私はもう一度、藤田さんのことを思い出しました。
五百万円。
工場を抵当に入れて用意したお金。
その重みを考えれば。
払込みが適正に行われたかどうかは、単なる形式ではありません。
誰が。
いくら。
どの株式について。
いつ。
どこへ払い込んだのか。
それを確認することが、出資者を守る第一歩なのです。
「さて、ここで銀行が登場します!」
私はノートの真ん中に大きく書きました。
――払込金保管証明書。
「これも、先日の事件で出てきましたね」
「ああ」
「大黒社長は、銀行の証明書さえ取れば、お金を自由に動かせると思っていたようです」
相馬先輩が鼻で笑いました。
「そんな都合のいい紙じゃねえよ」
「ですよね!」
払込金保管証明書。
銀行などの払込取扱機関が、設立のために払い込まれた金銭の保管について証明する書類です。
現代の会社法第六十四条。
募集設立の場合、発起人は払込取扱銀行等に対して、保管証明書の交付を請求することができます。
「ここで先輩に問題です!」
「またか」
「銀行が証明書を出しました」
「うん」
「でも実際には、証明書の記載が事実と違いました」
「……まずいな」
「さらに、銀行が出資者との間で、お金を返すことに関する特別な約束をしていたとします」
「うん」
「銀行は会社成立後に、『実は証明書が間違っていました』と主張して責任を免れられるでしょうか?」
相馬先輩が腕を組みました。
「そんなことができたら、証明書の意味がねえだろ」
「正解です!」
私は頷きました。
現代の会社法第六十四条第二項。
保管証明書を交付した銀行等は、証明書の記載が事実と異なることや、払込金の返還に関する制限があることを、成立後の株式会社に対抗できません。
つまり。
銀行が正式に証明した以上、後から都合よく証明内容を否定して、会社に対する責任を逃れることはできない。
「これ、かなり強い規定ですね」
「ああ」
「どうして、ここまで銀行に責任を負わせるんでしょうか」
片桐所長が答えました。
「払込みが仮装されれば、会社の信用が壊れる」
「……あ」
「帳簿の上では金がある。だが、実際にはない」
「はい」
「それでは、誰が困る」
私は答えました。
「会社と取引する人たちです」
「そうだ」
なるほど。
出資金は、設立する会社の財産的基礎になります。
もし。
実際には存在しないお金を、存在することにして会社を作ったら。
会社に商品を売る業者。
お金を貸す銀行。
仕事を請け負う下請企業。
そうした人たちが、危険にさらされます。
「払込金保管証明書は、単なる領収書じゃないんですね」
「ああ」
「会社の資金が本当に払い込まれたことを裏付ける重要な書類なんです」
私は赤線を引きました。
ただし。
この証明制度は、会社に対する銀行の責任を定めたものであり、どんな不正な払込みでも会社設立を有効にする魔法ではありません。
払込みの仮装そのものについては、別途法律上の責任が問題になります。
「ところで先輩」
「何だ」
「現代の発起設立では、通常、募集設立のような払込金保管証明書は要求されませんよね」
「また未来か」
「違いが重要なんです!」
現代では、発起設立と募集設立で払込みを証明する方法が異なります。
発起設立では、一般に払込みを証する書面や通帳の写しなどを用いる。
一方、募集設立では、払込金保管証明書が登記手続き上の重要な書類となります。
「それだけ募集設立は、外部の出資者を巻き込むから慎重なんですね」
私は頷きました。
会社を作る人。
お金を出す人。
これから会社と取引する人。
募集設立は、さまざまな立場の人が関係する制度なのです。
「さて」
相馬先輩が新聞を畳みました。
「いよいよ、あの事件の本丸だな」
「はい!」
私はノートをめくりました。
――第四段階。
創立総会。
「大黒社長が、一番嫌がった手続きです!」
「ああ」
「外部から出資した人たちに、会社の設立について発言されるのが嫌だったんですよね」
「そうだろうな」
私は鉛筆を握りました。
創立総会。
募集設立において、設立時株主が集まり、設立に関する事項について決議をする会議です。
現代の会社法第六十五条では、所定の払込期日または期間の末日などを経た後、発起人は遅滞なく創立総会を招集することになっています。
「発起設立では、原則として創立総会はありません」
「うん」
「でも募集設立では必要です」
「なぜだ?」
私は答えました。
「発起人以外にも、会社を作るためにお金を出した人がいるからです」
「そうだ」
発起人だけで株式を引き受けるなら、発起人を中心として設立を進められます。
でも。
募集設立は違います。
外部から株式を引き受ける人がいる。
その人たちの利益も、設立手続きに反映しなければなりません。
だから。
創立総会という仕組みがあるのです。
「今回、大黒社長は……」
私はノートを見ました。
創立総会を招集していない。
出資者に通知していない。
会議を開いていない。
それなのに。
全員出席。
全員賛成。
という議事録を作った。
「……改めて考えても、ひどいですね」
「ひどいな」
相馬先輩が頷きました。
「でもな、こはる」
「はい」
「創立総会を開けば、何でも自由に決められると思うなよ」
「え?」
「創立総会にも、決められる範囲がある」
私は目を見開きました。
そうでした。
現代の会社法第六十六条。
創立総会は、会社の設立に関する事項など、法律上認められた範囲で決議する機関です。
会社が成立した後の株主総会と、まったく同じものではありません。
「創立総会は、これから生まれる会社のための会議なんですね」
「そうだ」
「会社が成立した後の、通常の株主総会とは区別する必要があります」
私は大きく書きました。
――創立総会は設立段階。株主総会は成立後。
これも重要です。
「じゃあ、創立総会で何をするのか整理します!」
私は三つの項目を書きました。
一つ目。
設立経過の報告。
二つ目。
設立時取締役等の選任。
三つ目。
設立に関する必要な決議。
「まず、設立経過の報告です」
私は言いました。
「発起人は、会社設立がどのように進んだか、創立総会で報告する必要があります」
現代の会社法第八十七条。
発起人は、創立総会において設立に関する事項を報告しなければなりません。
たとえば。
株式の募集。
引受け。
出資の履行。
設立に関する特別な事項。
そうした経過です。
「今回の大黒社長は、ここが嫌だったんでしょうね」
「ああ」
「機械の購入を説明しなければならなくなるから」
私は思い出しました。
中古工作機械。
評価額は、おおむね六百万円程度。
しかし。
新会社が購入する予定価格は、千二百万円。
しかも売主は、大黒社長自身が経営する大黒産業。
「先輩、これって典型的な利益相反の危険がありますよね」
「ああ」
「設立する会社に、自分の関係会社の財産を高く買わせようとしているんですから」
もちろん。
発起人やその関係者から財産を買うことが、すべて禁止されているわけではありません。
問題は。
適正な価格か。
法律上必要な手続きを踏んでいるか。
会社や出資者に不当な損害を与えないか。
そういう点です。
「そこで登場するのが、検査役ですね!」
私はノートに書きました。
――検査役。
会社設立に関する一定の特別な事項を調査するため、裁判所によって選任される者。
「ここ、現代の会社法では第三十三条が重要ですね」
「お前、また条文番号を間違えるなよ」
「はい! 昭和の書類には使いません!」
私は慌てて付け加えました。
現代の会社法第二十八条には、いわゆる変態設立事項が定められています。
名前は強烈ですが、変な会社を作るという意味ではありません。
通常の金銭出資だけでは処理できない、特別な設立事項を指す言葉です。
現物出資。
財産引受。
発起人が受ける特別利益。
設立費用に関する事項。
「この中に、今回の事件と関係するものがあります」
私は言いました。
「財産引受です!」
相馬先輩が頷きます。
「説明してみろ」
「会社が成立することを条件として、設立しようとする会社が特定の財産を譲り受ける契約です」
「そうだ」
今回の工作機械が、まさに問題となったところです。
まだ会社が成立していないのに。
成立後の会社に、特定の中古機械を千二百万円で買わせようとする。
そのような設立段階の財産引受については、定款への適切な記載と、法律が求める調査などが重要になります。
「なぜ、そんなに厳しいんでしょうか?」
私が尋ねると、片桐所長が答えました。
「会社に金を入れた直後、その金を抜かれる危険があるからだ」
……。
私は息を呑みました。
なるほど。
せっかく出資者が二千万円を集めても。
価値の低い機械を不当に高く買わされれば、会社の財産が減ってしまう。
「つまり、会社の設立時から、財産的な基礎を守るためなんですね」
「そうだ」
もっとも。
現代の会社法では、すべての現物出資や財産引受について、必ず検査役が必要になるわけではありません。
一定の価額以下の場合や、所定の専門家による証明がある場合など、検査役調査の例外があります。
そして、昭和六十三年には、また当時の商法上の制度と要件に従って判断する必要があります。
「こはる」
所長が言いました。
「検査役が必要かどうかは、具体的な取引の内容と適用法を見て判断するんだ」
「はい!」
「高額だから何でも無効、と決めつけるな」
「分かりました!」
私はノートに書きました。
――財産引受は、定款の記載と必要な調査を確認。検査役には法定の例外もある。
よし。
これで整理できました。
「さて、次は役員の選任です」
私はノートをめくりました。
現代の会社法第八十八条。
募集設立では、創立総会の決議によって設立時取締役等を選任します。
「先輩、ここで大黒社長は失敗しましたね」
「ああ」
「発起人だから、当然に取締役になれると思っていた」
「そうだな」
「でも、募集設立では、創立総会で選任されるんです」
私は大きく丸をつけました。
発起人。
会社を設立する人。
取締役。
会社の業務執行や経営を担う役員。
この二つは、同じではありません。
「大黒さんは、会社を作ると言い出したのは自分だから、社長になれると思っていたんですよね」
「そうだろうな」
「でも、会社を作った功労者だからといって、必ず役員になるわけじゃない」
「そうだ」
先日の創立総会。
大黒社長は、取締役に選ばれませんでした。
あのときの顔。
私は忘れられません。
最初は、
「俺が法律だ」
とまで言っていた人が。
創立総会では、議決の結果を受け入れるしかなかった。
「すごいですよね」
「何がだ」
「会社を作る人にも、絶対的な権力はないんです」
相馬先輩が頷きました。
「そりゃそうだ」
さらに。
昭和六十三年の株式会社では、取締役三人以上と監査役一人以上が必要でした。
そのため。
大黒社長のように、自分の親戚や知人を形式的に役員に据えようとする例もあり得ます。
「でも、先輩」
「何だ」
「名前だけ取締役になった人も、責任がなくなるわけじゃありませんよね」
「そうだ」
取締役には、会社に対する善管注意義務などが問題になります。
名ばかりだから。
経営は知らなかったから。
社長に任せていたから。
そう言えば、いつでも責任を免れるわけではありません。
「発起人の頭数合わせも、名ばかり取締役も、怖いですね」
「ああ」
「名前を貸すだけのつもりでも、法律上の立場が生じるんですから」
私は頷きました。
会社を作るというのは。
名前だけで参加するような、軽い仕事ではないのです。
「では、いよいよ決議要件です!」
私は鉛筆を握り直しました。
「ここ、行政書士試験で数字を間違えやすいところです!」
相馬先輩が顔をしかめました。
「数字か」
「はい!」
現代の会社法第七十三条。
創立総会の原則的な決議要件です。
私はノートに大きく書きました。
――議決権を行使できる設立時株主の議決権の過半数。
――かつ、出席した設立時株主の議決権の三分の二以上。
「この二つを、両方満たす必要があります!」
私は言いました。
相馬先輩が眉をひそめました。
「過半数と三分の二?」
「そうです」
「面倒だな」
「面倒です!」
私は紙に例を書きました。
議決権の総数。
百個。
そのうち、出席した人が持つ議決権。
九十個。
「この場合、賛成はいくつ必要でしょう?」
相馬先輩が考えました。
「全体の過半数なら五十一個以上だろ」
「はい」
「出席した九十個の三分の二なら六十個だ」
「そうです!」
私は頷きました。
つまり。
この例では、六十個以上の賛成が必要です。
「じゃあ先輩、次です!」
「まだあるのか」
「あります!」
議決権総数。
百個。
出席議決権。
六十個。
「今度は?」
「出席分の三分の二なら四十個か」
「はい」
「でも、全体の過半数は五十一個以上だから……」
「そうです!」
私は勢いよく頷きました。
「五十一個以上の賛成が必要です!」
両方の条件を満たさなければなりません。
出席者の三分の二だけ見ればいいわけでもない。
全体の過半数だけ見ればいいわけでもない。
「なるほどな」
相馬先輩が頷きました。
「二つを同時に満たせってことか」
「そのとおりです!」
私は大きく丸をつけました。
もちろん、これは現代の会社法における原則的な決議要件です。
一定の定款変更などには、特別な決議要件もあります。
また、昭和六十三年の創立総会には旧商法の決議規定が適用されるため、現代の会社法第七十三条の数字をそのまま当時の書類に書いてはいけません。
「先輩」
「何だ」
「やっぱり、会社設立って数字が多いですね」
「そうだな」
「発起人七人」
「うん」
「取締役三人」
「うん」
「監査役一人」
「うん」
「現代の創立総会は全体の議決権の過半数、かつ出席議決権の三分の二以上!」
「分かったから落ち着け!」
私は笑いました。
でも。
数字を覚えるだけでは駄目です。
なぜ、その決議要件が必要なのか。
そこまで理解してこそ、法律が使える知識になります。
「今回の大黒社長は、そもそも会議を開いていませんでした」
「ああ」
「だから、賛成が何個あったか以前の問題だったんです」
「そうだ」
実際には開かれていない会議。
存在しない決議。
それを、全員賛成と書いた議事録。
そんな書類では、実体を伴った決議を証明できません。
「議事録って、書けば会議が成立するんじゃないんですね」
「当たり前だろ」
「会議で何が行われたかを記録するものなんです」
片桐所長が頷きました。
「そうだ」
そして、一言。
「事実のない議事録は、証拠ではなく問題の種になる」
私は、その言葉をノートに書きました。
「さて、最後の段階です!」
私はページをめくりました。
――第五段階。
設立登記。
「ここまで来ました!」
相馬先輩が頷きました。
「ようやく終わりか」
「まだです!」
「まだあるのかよ」
「大事なところです!」
私は言いました。
現代の会社法第四十九条。
株式会社は、本店所在地において設立の登記をすることによって成立します。
「ここが重要です」
私は赤鉛筆を取りました。
定款を作った。
出資をした。
創立総会を開いた。
役員を選んだ。
それだけで、株式会社が成立したことにはなりません。
最後に。
設立登記が必要なのです。
「つまり、先日の大黒さんの会社も、創立総会を開き直しただけでは完成していなかったんですね」
「ああ」
「設立登記が完了して、初めて株式会社として成立したんです」
私は頷きました。
そして。
現代の募集設立では、もう一つ重要な数字があります。
会社法第九百十一条第二項。
募集設立の場合、原則として創立総会の終結の日から二週間以内に、本店所在地で設立登記をすることになっています。
「二週間です!」
私は言いました。
「覚えやすいですね!」
相馬先輩が眉を上げました。
「そうか?」
「はい!」
私はノートに書きました。
――現代の募集設立。創立総会の終結から原則二週間以内に設立登記。
「ただし、特殊な場合には起算点に例外があります」
「また例外か」
「法律は例外が好きですから!」
私は笑いました。
でも。
期限と、会社が成立する時点は別の話です。
二週間というのは、登記をすべき期間。
会社が成立するのは、設立登記によってです。
「先輩、ここは混同しやすいですよね」
「ああ」
「創立総会が終わった瞬間に会社ができるわけではない」
「そうだ」
「二週間経ったら自動的に会社ができるわけでもない」
「もちろんだ」
「登記によって成立する!」
私は大きく丸をつけました。
これで。
募集設立の五段階。
全部つながりました。
「でも、所長」
私は少し考えました。
「一つ気になることがあります」
「何だ」
「なぜ昔の商法は、こんなに会社を作るのが大変だったんでしょうか」
片桐所長が顔を上げました。
「どう思う」
「会社を作ることに、慎重だったからでしょうか」
「そうだな」
私は続けました。
「株式会社では、株主は原則として出資額の範囲でリスクを負うだけです」
「うん」
「でも、会社が借金を返せなくなった場合、債権者が困ります」
「そうだ」
株式会社。
株主有限責任。
株主は、会社の債務について当然に個人財産から無制限に弁済するわけではありません。
これは、事業への投資を促すための重要な仕組みです。
でも。
その一方で。
会社の財産が不当に減らされれば、債権者に大きな影響が及びます。
「だから、会社設立の段階で、出資の履行や財産の評価を厳しく確認する必要があったんですね」
「そうだ」
所長が頷きました。
「会社は、一人の商売人の財布とは違う」
「はい」
「外部の人間が、会社という存在を信用して取引する」
「はい」
「だから、その信用を支える手続きが必要なんだ」
私は静かに頷きました。
会社設立の手続き。
面倒。
堅苦しい。
難しい。
最初は、そう思っていました。
でも。
資金を出す人。
会社にお金を貸す人。
会社へ商品を納める人。
そこで働く人。
そんな人たちのことを考えれば。
設立手続きの意味が、少しずつ見えてきます。
「ただし」
相馬先輩が言いました。
「法律を厳しくすりゃ、それで全部解決ってわけでもねえ」
「……あ」
私は顔を上げました。
そうです。
今回、大黒社長は発起人を七人集めていました。
でも。
親戚や知人の名前を揃えただけでは、会社の設立が適正に行われる保証にはなりません。
取締役を三人置いても。
監査役を一人置いても。
実際に責任を果たさなければ、意味が薄れてしまいます。
「形式だけ厳しくても、駄目なんですね」
「そういうことだ」
私は頷きました。
会社制度には。
取引の安全を守ること。
出資者や債権者を保護すること。
そして。
事業を始めやすくすること。
その両方が求められます。
だから、時代とともに制度も変わっていく。
現代の会社法は、平成十七年に制定され、平成十八年に施行されました。
それまで商法第二編や有限会社法などに分かれていた会社のルールが、大きく整理されたのです。
株式会社の設立要件も、以前とは大きく変わりました。
発起人一人。
取締役一人という構成も可能。
法律上、最低資本金額を一律に求める制度もなくなり、一円の資本金で株式会社を設立することも可能。
さらに。
合同会社という会社形態も設けられました。
「先輩、未来の会社設立は、もっと柔軟になるんですよ」
「だから未来って何なんだ」
「あっ」
私は固まりました。
……しまった。
また口が滑りました。
「い、いえ! これから制度が変わる可能性の話です!」
「お前、予言者か?」
「違います!」
相馬先輩が怪訝な顔をしました。
危ない。
本当に危ない。
会社法の改正より先に、私の正体がばれてしまいます。
窓の外が、少し暗くなってきました。
私はノートを見直しました。
募集設立。
最初は五つの単語でした。
でも。
先日の事件を思い出すと、それぞれの意味がはっきり見えます。
発起人による出資。
大黒社長たちが、会社を作る側として株式を引き受ける。
募集と割当て。
藤田さんたちが申込みをし、株式を割り当てられる。
引受人による払込み。
藤田さんが五百万円を払い込む。
創立総会。
出資者たちが集まり、設立経過を確認し、役員を選ぶ。
設立登記。
法律上、株式会社が成立する。
「……なるほど」
私は呟きました。
「全部、つながっているんですね」
片桐所長が頷きました。
「そうだ」
「一つ一つの手続きに、ちゃんと意味がある」
「うん」
「そして、どれかを勝手に飛ばすと、誰かの権利が危険になる」
所長は短く言いました。
「それを忘れるな」
私は頷きました。
今回の事件で、一番印象に残ったのは。
大黒社長が青ざめたことでも。
取締役に選ばれなかったことでもありません。
藤田さんの言葉でした。
――私は、五百万円を出しただけの人間じゃなかったんですね。
あの言葉です。
お金を出しただけ。
そう言われた人が。
法律を知ったことで、自分の立場を取り戻した。
創立総会で意思を示し。
自分たちの会社を、自分たちの手で作ることができた。
私は、鉛筆を握り直しました。
そして。
ノートの最後に、一行を書きました。
――募集設立は「発起人が出す→外から募って割り当てる→引受人が払う→創立総会で決める→登記で会社誕生」。
「……できた!」
私はノートを掲げました。
「どうですか!」
相馬先輩が覗き込みました。
「まあ、覚えやすいな」
「褒めましたね!」
「気のせいだ」
「またそれですか!」
私は笑いました。
でも。
この一行は、もう忘れません。
試験で募集設立が出てきたら。
きっと、藤田さんの顔を思い出すでしょう。
五百万円を出した町工場の職人。
自分たちの会社を作るために、必死にお金を集めた人。
その人が。
「金を出しただけの奴は黙ってろ」
と言われた事件。
そして。
商法の手続きが、その理不尽を止める鍵になったことを。
「ところで、こはる」
相馬先輩が言いました。
「はい?」
「今日の勉強会は終わりか?」
「はい!」
「じゃあ、確認問題だ」
「えっ」
「募集設立と発起設立の違いは?」
「設立時発行株式の全部を発起人が引き受けるのが発起設立。発起人以外からも引受人を募集するのが募集設立です!」
「よし」
「次は?」
「株式を百株申し込んだら、必ず百株引き受けられるか?」
「いいえ! 通常の募集手続きでは、発起人が割当てを決めます!」
「よし」
「次!」
「払込金額の一部だけ払えば、その割合に応じて当然に株主になれるか?」
「いいえ! 現代の募集設立では、割り当てられた株式について全額の払込みが必要です!」
「よし」
「次!」
「払込金保管証明書を出した銀行は、後から記載が間違っていたと言って会社に対抗できるか?」
「原則として、できません!」
「よし」
「次!」
「創立総会は、発起設立でも必ず開くか?」
「いいえ! 募集設立で必要になる手続きです!」
「よし」
「次!」
「会社はいつ成立する?」
「設立登記によって成立します!」
「よし」
相馬先輩が頷きました。
「じゃあ、最後だ」
「はい!」
「昭和六十三年に、会社法第七十三条は使えるか?」
「使えません!」
「なぜだ?」
「まだ独立した会社法が存在しないからです!」
「よし!」
私は思わず拳を握りました。
完璧。
募集設立。
これなら試験でも間違えません。
すると。
片桐所長が静かに口を開きました。
「こはる」
「はい!」
「もう一問だ」
「どうぞ!」
「創立総会議事録に、全員出席と書いてある」
「はい」
「だが、実際には誰も出席していない」
「はい」
「その議事録を作ったことで、会議が開かれたことになるか」
私は即答しました。
「なりません!」
「なぜだ」
「議事録は、実際に行われた会議の経過と結果を記録するものだからです!」
所長が頷きました。
「それでいい」
私は少し嬉しくなりました。
法律。
条文。
決議要件。
登記期限。
もちろん大事です。
でも。
その前に。
事実を確認する。
本当に会議が開かれたのか。
本当に払込みがあったのか。
本当に株式の割当てが行われたのか。
そこが出発点なのです。
「さて」
相馬先輩が立ち上がりました。
「勉強会は終わりだ」
「はい!」
「じゃあ、机を片付けろ」
「分かりました!」
私はノートを閉じました。
そのとき。
ふと思いつきました。
「先輩」
「何だ」
「もし、この事務所を株式会社にするとしたら、どうなります?」
「は?」
「片桐行政書士株式会社です!」
相馬先輩が眉をひそめました。
「何だ、その名前は」
「いいじゃないですか!」
「行政書士事務所を株式会社にして業務をやるって発想からして、資格業の制度を調べ直せ」
「あっ……」
そうでした。
株式会社を作れることと、行政書士業務を株式会社で自由に営めることは別問題です。
私は慌てて話題を変えました。
「じゃあ、仮に普通の商売をする株式会社を作るとして!」
「うん」
「発起人は?」
「昭和六十三年だから七人以上だな」
「取締役は?」
「三人以上」
「監査役は?」
「一人以上」
「……多いですね」
「だから、そういう時代なんだよ」
私は腕を組みました。
「所長と先輩と私で、取締役三人にはなれますね」
「仮の話ならな」
「監査役は?」
「別に探せ」
「発起人も、あと四人必要です!」
「そうだな」
「大変ですね!」
相馬先輩が笑いました。
「だから会社を作るのは簡単じゃねえんだ」
「でも、現代なら一人で……」
「またそれか!」
私は思わず笑ってしまいました。
昭和六十三年。
会社法独立前夜。
株式会社は、まだまだ設立するだけでも大仕事です。
でも。
そんな時代だからこそ、学べることがある。
会社は誰のものなのか。
発起人には、どこまで権限があるのか。
出資した人の権利は、どう守られるのか。
お金を集めた人間が、そのお金を好き勝手に使っていいのか。
それらの答えが。
募集設立の手続きの中に、隠れているのです。
窓の外。
工場街の明かりが、一つずつ灯っていきます。
東海精密協同株式会社。
あの新しい会社も、今日から本格的に仕事を始めているのでしょう。
藤田さんたちは、きっと忙しいはずです。
新しい取引先。
新しい設備。
新しい仕事。
そして。
自分たちで選んだ役員たち。
もちろん。
会社を作ったからといって、必ず成功するわけではありません。
業績が悪くなることもある。
損失が出ることもある。
経営判断を誤ることもある。
株式を引き受けた以上、出資にはリスクがあります。
でも。
そのリスクを負うことと。
最初から騙されて、権利を奪われることは違います。
だからこそ。
募集設立の手続きがある。
発起人が出資する。
外部から株式を募集する。
申込みを受け、割り当てる。
引受人が払い込む。
創立総会で設立に関する事項を確認し、決議する。
最後に登記をする。
それは。
単なる事務作業の順番ではありません。
会社を作る過程で。
誰が何を決め。
誰がいくら出し。
誰にどんな権利があるのか。
それを明らかにするための仕組みなのです。
私は、ノートの最後の一行をもう一度読みました。
――募集設立は「発起人が出す→外から募って割り当てる→引受人が払う→創立総会で決める→登記で会社誕生」。
よし。
完璧。
「こはる!」
相馬先輩の声が飛びました。
「はい!」
「ノートばっかり見てねえで、机を片付けろ!」
「今、知識を定着させていたんです!」
「定着は後だ!」
「先輩!」
「何だ!」
「私も創立総会を開きたいです!」
「は?」
「議題は、事務所の掃除当番についてです!」
「何でだよ!」
「民主的に決めましょう!」
相馬先輩が呆れた顔をしました。
「お前、この事務所が株式会社だと思ってんのか?」
「……違いますね」
「そもそも創立総会ってのは、会社を作るときの会議だろうが」
「……そうでした」
私は固まりました。
せっかく覚えたのに。
いきなり間違えました。
「こはる」
片桐所長が静かに言いました。
「はい……」
「掃除当番を決めるために、創立総会は要らん」
「はい」
「それに」
「はい?」
「今日の掃除当番は、最初からお前だ」
「……!」
相馬先輩が吹き出しました。
「ほらな!」
「所長!」
「何だ」
「私にも議決権はありませんか!」
「創立総会ではない」
「ぐっ……!」
確かに。
創立総会の仕組みを覚えたからといって、日常のあらゆる決め事に持ち込めるわけではありません。
法律は。
使う場面を間違えてはいけないのです。
「分かりましたよ!」
私は箒を手に取りました。
「掃除します!」
「いい返事だ」
「でも先輩!」
「まだ何かあるのか!」
「明日は、募集設立と発起設立の違いを、もう一度確認問題にしてください!」
「何で俺が付き合うんだよ!」
「復習です!」
「一人でやれ!」
「先輩は取締役候補ですから!」
「何の会社だよ!」
私は笑いながら床を掃き始めました。
窓の外では、町工場の機械音が、まだかすかに響いています。
あの町のどこかで。
新しい会社が、一つ生まれた。
そして。
その会社を作った人たちは、ちゃんと自分たちの意思で、会社の未来を選ぶことができた。
募集設立。
面倒な手続き。
覚えにくい数字。
紛らわしい用語。
でも。
その一つ一つを知っていれば。
「金を出しただけの奴は黙ってろ」
そんな言葉に、怯える必要はありません。
出資した人にも、法律上守られる地位がある。
発起人にも、守らなければならないルールがある。
そして。
会社は、社長の一言だけで生まれるものではない。
私は箒を止め、ノートの表紙を見ました。
――こはるノート・商法編。
今日もまた。
試験の知識が、現場の知識になりました。
「こはる!」
「はい!」
「掃除、終わったのか!」
「まだです!」
「なら手を動かせ!」
「先輩!」
「何だ!」
「掃除についても、五段階の手続きがあります!」
「はあ?」
「まず、箒を用意する!」
「うん」
「次に、床を掃く!」
「うん」
「それから、ゴミを集める!」
「うん」
「ゴミを捨てる!」
「うん」
「最後に、掃除完了報告!」
「……で?」
私は胸を張りました。
「募集設立と似ています!」
「似てねえよ!」
……なるほど。
法律の知識を日常生活に結びつけるのも、ほどほどにした方がよさそうです。
残念ながら。
掃除については、創立総会を開いても免除されないのでした。
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