[会社法・募集設立の手続き]現場編 「金を出しただけの奴は黙ってろ」の嘘。消えた五百万円と、創立総会を乗っ取ろうとした社長の誤算
会社を作るために、お金を集める。
それ自体は、悪いことではありません。
夢を語り。
仲間を募り。
出資をお願いする。
そうやって、新しい事業が生まれることもあります。
でも。
お金を集めた人間が、会社のすべてを好きにできるとしたら。
出資した人たちは、いったい何のためにお金を出したのでしょうか。
昭和六十三年。
片桐行政書士事務所。
その日の私は、一つの言葉に頭を抱えることになります。
――募集設立。
株式会社を作る方法の一つです。
現代の行政書士試験でも、勉強する重要な制度。
発起人による出資。
株式の募集と割当て。
引受人による払込み。
創立総会。
設立登記。
五つの手続き。
たった五つ。
なのに。
その順番を一つごまかしただけで。
社長になろうとした男の野望が、音を立てて崩れることになるのです。
「五百万円を出したんです」
朝一番。
事務所を訪れた男性は、そう言いました。
「それなのに、会社から追い出されそうなんです」
「……五百万円?」
私は思わず聞き返しました。
大金です。
昭和六十三年の五百万円。
もちろん、現代でも大金ですが。
当時の地方都市では、家族の将来を左右するほどの重みがあります。
男性の名前は、藤田修一さん。
三十八歳。
町工場で精密機械の部品を作っている職人さんです。
油の染み込んだ作業着。
節くれだった指。
その手が、膝の上で小さく震えていました。
「新しい会社を作る話だったんです」
藤田さんが言いました。
「町の小さな工場を集めて、共同で仕事を受ける会社を」
「共同で?」
「はい。大きなメーカーから直接注文を取って、町工場に仕事を回すんです」
なるほど。
下請けの、そのまた下請け。
そういう立場から抜け出すための会社。
地方の製造業には、切実な話です。
「誰が会社を作ろうとしているんですか?」
「大黒産業の社長です」
藤田さんの顔が曇りました。
「大黒重蔵という男です」
大黒重蔵。
五十二歳。
この町で金属加工業を営む経営者。
かなり強引な人物として知られているそうです。
「大黒さんが言ったんです。みんなで資金を出し合えば、大企業と対等に取引できる会社が作れるって」
「いい話ですね」
「そう思いました」
藤田さんは苦笑しました。
「だから、工場を抵当に入れてお金を用意したんです」
「えっ」
私は思わず身を乗り出しました。
「工場を?」
「はい」
「五百万円のために?」
「それだけの価値があると思ったんです」
藤田さんは、膝の上の封筒を握り締めました。
「私だけじゃありません」
封筒から書類が取り出されます。
株式申込書。
銀行の払込関係書類。
設立趣意書。
そして。
会社の定款。
「町工場の仲間が、みんな出資したんです」
私は書類を見ました。
設立予定の会社名。
――東海精密協同株式会社。
協同。
いい名前です。
しかし。
その名前に反して、藤田さんの表情は暗い。
「ところが昨日、大黒社長から言われました」
「何をですか?」
藤田さんは唇を噛みました。
「会社の経営には、お前たちは一切口を出すな、と」
「……え?」
「お前たちは金を出しただけだ。会社は俺が作る。俺が社長になる。役員も全部俺が決めるって」
……。
私は固まりました。
いやいや。
ちょっと待ってください。
お金を出しただけ?
株式を引き受けているんですよね?
だったら。
その人たちは、会社が成立すれば株主になる人たちです。
しかも今回は、まだ会社ができていない。
だったら。
「創立総会はどうなっているんですか?」
私が尋ねました。
藤田さんは首をかしげました。
「そうりつ……?」
「創立総会です」
「何ですか、それ」
私は嫌な予感がしました。
「会社を作るときに、出資した人たちが集まって、設立の経過などを確認する会議です」
「そんな話、聞いていません」
「……え?」
「大黒社長は、もう全部決まったと言っていました」
藤田さんが一枚の紙を出しました。
そこには。
――創立総会議事録。
と書かれていました。
私は目を通しました。
開催日。
昭和六十三年七月二十日。
出席者。
株式引受人全員。
決議事項。
取締役三名選任。
監査役一名選任。
代表取締役選定についての記載。
そして。
議長。
大黒重蔵。
……。
私は紙を見つめました。
「藤田さん」
「はい」
「この会議、出席しました?」
「いいえ」
「案内は?」
「ありません」
「ほかの出資者の方は?」
「誰も呼ばれていません」
……。
はい。
来ました。
法律トラブルです。
しかも。
かなり悪質なものです。
「それ、まずいですよ!」
私は勢いよく立ち上がりました。
「創立総会の決議を勝手に作ったことになります!」
藤田さんが顔を上げます。
「やっぱり、おかしいんですね?」
「おかしいです!」
私は六法を手に取りました。
「募集設立では、発起人以外から株式の引受人を募集します。その人たちにも、設立手続きに参加する権利があるんです!」
よし。
会社法。
得意分野です。
現代の行政書士試験では、会社法の設立手続きが出題されます。
発起設立。
募集設立。
この二つの違いも、ちゃんと覚えました。
「会社法第六十五条では、募集設立の場合、払込期日などの後、遅滞なく創立総会を招集することになっています!」
「……会社法?」
相馬先輩が新聞から顔を上げました。
あ。
しまった。
「今、何て言った?」
「会社法です」
「何だ、その法律は」
「え?」
「会社の法律なら商法だろ」
……。
私は固まりました。
またです。
またやってしまいました。
昭和六十三年。
会社法という独立した法律は、まだありません。
株式会社の基本的なルールは、商法第二編。
有限会社なら有限会社法。
現代のような独立した会社法の体系になるのは、ずっと後です。
「そ、そうでした!」
「何がそうでしただ」
「商法です! 商法第二編!」
相馬先輩は呆れた顔をしました。
「お前、会社の法律を勉強してるんじゃなかったのか」
「勉強してます!」
「じゃあ、今の法律で話せ」
「はい……」
危ない。
未来の条文番号。
また口走るところでした。
私は慌てて昭和の六法を開きました。
商法。
会社編。
株式会社。
設立。
おお。
あります。
当然ですが。
ただし、現代の会社法とは条文の並びも用語の置き方も違います。
「でも、先輩」
「何だ」
「根本は同じですよね」
「何がだ」
「発起人だけで全部を決めていいわけじゃない、ということです」
相馬先輩が頷きました。
「そこだ」
私は少し安心しました。
法律の名前は変わっても。
出資した人間を守るという考え方まで消えているわけではありません。
「ところで藤田さん」
私は尋ねました。
「発起人は何人いらっしゃるんですか?」
「大黒社長と、その親戚や知人が七人です」
「七人……」
私は頷きました。
現代なら、株式会社の発起人は一人でも構いません。
でも。
昭和六十三年。
株式会社を設立するには、発起人が七人以上必要でした。
「大黒社長が、七人分の名前を集めたと言っていました」
藤田さんが続けました。
「親戚に頼んだそうです」
……。
頭数合わせ。
来ました。
昭和の会社設立で生じやすかった問題の一つです。
私は思わず言いました。
「もう、大黒さん一人で会社を作ればいいのに……」
相馬先輩がこちらを見ました。
「一人で?」
「あっ」
「発起人は七人必要だぞ」
「そうでした!」
「取締役も三人以上。監査役も一人以上だ」
「はい……」
「お前、一体どんな会社を想像してるんだ?」
現代の株式会社です。
発起人一人。
取締役一人。
条件を満たせば資本金一円でも設立可能。
合同会社という選択肢だってあります。
でも。
この時代には使えません。
「何なら合同会社に……」
「何だそれ」
「何でもありません!」
危なかった。
未来人の正体。
また会社法でばれるところでした。
しかし。
今回の問題は、それどころではありません。
七人の発起人。
外部から集めた出資者。
銀行に払い込まれたお金。
そして。
開かれていない創立総会。
これは。
かなり危険な臭いがします。
「藤田さん」
片桐所長が静かに口を開きました。
「出資したお金は、どこへ払い込みましたか」
「銀行です」
「どこの銀行です」
「東海信用銀行です」
「大黒社長個人の口座ではありませんね」
「違います。銀行から指定された払込先です」
所長が頷きました。
「その証拠はありますか」
「はい」
藤田さんは領収関係の書類を差し出しました。
所長が目を通します。
五百万円。
銀行への払込みを示す資料。
さらに、他の出資者の分も確認できる一覧がありました。
「合計は?」
所長が尋ねます。
「二千万円です」
「発起人の引受分を含めてですか」
「はい」
私は思わず声を上げました。
「二千万円!」
町工場の人たちが集めた、二千万円。
これはもう、個人の小さな約束ではありません。
多くの人が、会社の未来を信じて出したお金です。
「大黒社長は、その金をどうすると言っていましたか」
所長が尋ねました。
「新しい設備を買うと」
「設備?」
「はい。工作機械を購入して、大手メーカーから直接仕事を受けるために使うと」
「購入先は?」
「大黒産業です」
……。
私は首をかしげました。
「大黒産業?」
「はい」
「それって、大黒社長が今経営している会社ですよね?」
「そうです」
待ってください。
つまり。
これから作る会社が。
大黒社長の古い会社から。
機械を買う?
「いくらで?」
相馬先輩が尋ねました。
「千二百万円です」
「その機械の評価は?」
「私たちが見る限り、中古で六百万円くらいだと思います」
……。
倍です。
私は書類を見つめました。
しかも。
設立趣意書には、こんなことが書かれています。
――最新設備を導入し、地域工業の発展に寄与する。
最新設備。
中古機械。
価格は相場の倍。
そして売主は、設立を主導している大黒社長の会社。
……嫌な予感しかしません。
「片桐さん」
藤田さんが不安そうに尋ねました。
「私たちのお金は、もう大黒社長のものなんでしょうか」
所長は首を横に振りました。
「まだ、そう決まったわけではありません」
「でも、社長は――」
「社長になろうとしている人間と、会社そのものは違います」
私は顔を上げました。
所長は続けました。
「そして、会社を設立する前のお金は、発起人が好き勝手に使っていい金ではありません」
なるほど。
ここです。
大黒社長は、自分が会社を作るのだから、集めた金も自分のものだと思っている。
でも。
会社設立のために集めた資金は、個人の財布ではありません。
「相馬」
「はい」
「定款を見ろ」
相馬先輩が書類を開きました。
「こはる」
「はい!」
「お前は、募集設立の手順を並べろ」
「任せてください!」
私は紙を取りました。
そして、大きく書きました。
第一。
発起人による株式の引受けと出資。
第二。
外部からの株式引受人の募集と割当て。
第三。
引受人による払込み。
第四。
創立総会。
第五。
設立登記。
「これです!」
私は机に紙を置きました。
「募集設立の流れです!」
「そうだ」
相馬先輩が頷きます。
「では、今回どこまで進んでいる」
「株式の募集と割当てが行われて、払込みもされています」
「うん」
「でも、創立総会は開かれていません」
「そのとおり」
「なのに、創立総会議事録が存在する」
私は紙を指差しました。
「……あれ?」
そうです。
順番が、おかしい。
実際に開催していない会議。
それなのに、その会議で役員を選んだことになっている。
これは。
「所長!」
「何だ」
「会社の設立手続きそのものが、ごまかされています!」
片桐所長は静かに頷きました。
「そこを調べる」
そして。
定款の一か所を指差しました。
「もう一つある」
「え?」
「この機械だ」
そこには、設立に際して会社が取得する財産に関する記載がありました。
――大黒産業所有の工作機械一式。
――取得予定価格、金一千二百万円。
私は息を呑みました。
発起人と関係の深い会社から、設立する会社が高額の財産を取得する。
これは、単なる買い物の話ではありません。
設立段階の財産引受。
特別な調査が問題になる事項です。
「先輩」
「何だ」
「検査役……」
「気づいたか」
相馬先輩の目が細くなりました。
「会社を作る側が、自分の持ち物を高く売りつけて、出資者の金を抜く」
先輩が定款を指で叩きました。
「昔からある手口だ」
私は唾を飲み込みました。
募集設立。
ただの手続きの暗記だと思っていました。
でも。
その一つ一つが。
誰かにお金を奪われないための、鍵になっているのです。
翌日。
大黒産業の応接室。
私は藤田さんに付き添う形で、相馬先輩と一緒に訪れていました。
目的は、関係資料と事実経過の確認です。
もちろん。
私たちが藤田さんの代理人となって、紛争の示談交渉をするわけではありません。
行政書士に、そんな権限はありません。
相手の説明を聞き、書類と事実の食い違いを確認する。
必要な通知書を、ご本人の意思に基づいて作る。
それが私たちの仕事です。
「何だ、行政書士か」
応接室に現れた大黒重蔵は、開口一番そう言いました。
大柄な男。
金色の腕時計。
太い指には、大きな指輪。
いかにも昭和のワンマン社長です。
「弁護士でも連れてきたのかと思ったぞ」
大黒は鼻で笑いました。
「まさか代書屋とはな」
……。
出ました。
代書屋を馬鹿にする人。
この町、本当に多いですね。
「藤田」
大黒が言いました。
「お前、まだ文句があるのか」
藤田さんは緊張した声で答えました。
「会社の経営には、私たちも関われると聞いていました」
「関われる?」
大黒が笑いました。
「誰がそんなことを言った」
「設立の説明会で――」
「お前たちは金を出しただけだろうが」
大黒は椅子に深く座りました。
「会社を作ったのは俺だ。仕事を持ってくるのも俺だ。経営するのも俺だ」
そして。
机を指で叩きました。
「俺が法律だ」
……。
言いました。
この人。
本当に言いました。
私は思わず六法を握り締めました。
いや。
法律は、あなたではありません。
「社長」
藤田さんが言いました。
「創立総会というのは、どうなっているんでしょうか」
大黒の眉が動きました。
「何だ、それ」
「会社を作るときの会議だと聞きました」
「ああ」
大黒が笑いました。
「もう終わった」
「でも、私は呼ばれていません」
「呼ぶ必要がない」
「……え?」
「役員は俺が決めた。面倒な会議をいちいち開く必要があるか」
私は耳を疑いました。
必要があるか?
あります。
ものすごくあります。
「議事録もあるぞ」
大黒は引き出しから一枚の書類を取り出しました。
例の創立総会議事録です。
「ほら」
私は見ました。
出席者欄。
株式引受人全員出席。
決議事項。
役員選任。
全員賛成。
……。
嘘です。
少なくとも藤田さんは出席していません。
「藤田さんは、当日ここにいらっしゃらなかったそうですが」
私は尋ねました。
「だから何だ」
大黒は平然と答えました。
「紙の上では出席したことになっている」
……!
私は思わず息を呑みました。
「それは……」
「何だ?」
「事実と違いますよね」
「細かいことを言うな」
大黒が笑います。
「会社を作るには、書類が必要なんだろ。だったら書類を作ればいい」
……。
違います。
完全に違います。
書類は、存在しなかった事実を作り出す魔法ではありません。
「それに」
大黒は藤田さんを見ました。
「お前、五百万円を出したからって、偉そうにするなよ」
「偉そうになんて……」
「金はもう会社のものだ。返せと言われても返せん」
そして。
「会社ができたら、俺の指示に従ってもらう。それが嫌なら、株主になんぞならなくていい」
私は口を開きかけました。
でも。
「こはる」
相馬先輩が小さく呼びました。
「はい」
「記録しろ」
「……はい」
そうでした。
ここで口論しても、仕方がありません。
大切なのは。
何を言ったか。
どんな書類があるか。
実際に何が行われたか。
それを確かめることです。
相馬先輩が静かに尋ねました。
「一つ、確認させてください」
「何だ」
「創立総会は、実際には開催していないということですね」
「そうだ」
「株式引受人の出席も確認していない」
「してない」
「なのに、全員出席と記載した」
「だから何だ!」
大黒が机を叩きました。
「役員は俺が決めると言ってるだろう!」
相馬先輩は顔色一つ変えません。
「分かりました」
「……は?」
「確認できました」
先輩は手帳を閉じました。
「藤田さん、必要なことはお聞きになれましたね」
「は、はい」
「では、戻りましょう」
私は立ち上がりました。
大黒が笑います。
「何だ。もう帰るのか」
「はい」
相馬先輩が答えました。
「会社の設立に関する書類を整理します」
「好きにしろ」
大黒は鼻で笑いました。
「どうせ、紙切れ一枚だ」
……。
この人。
言ってはいけないことを言いました。
紙切れ一枚。
片桐事務所で、それを言うのは危険です。
だって。
片桐所長は。
その紙切れ一枚から。
人間の欲望を見抜く人なのですから。
事務所へ戻ると、相馬先輩は定款と議事録を机に並べました。
「こはる」
「はい!」
「募集設立の手続きを、もう一回言ってみろ」
「はい!」
私は指を折りました。
「まず、発起人が株式を引き受けます」
「うん」
「次に、外部から株式を引き受ける人を募集します」
「うん」
「申込者に株式を割り当てます」
「そうだ」
「引受人が払込みをします」
「うん」
「それから創立総会!」
「そうだ」
「最後に設立登記です!」
相馬先輩が頷きました。
「で、大黒は何をした?」
「創立総会を開かずに、議事録だけ作りました」
「それだけか?」
私は考えました。
……それだけ?
いえ。
まだあります。
「設立前の会社の役員も、勝手に決めています」
「そうだ」
「しかも、機械を高く売りつける話まである」
「そうだ」
「それに……」
私は銀行の払込関係書類を見ました。
「このお金、本当に全部払い込まれているんでしょうか」
相馬先輩が、にやりとしました。
「そこだ」
「え?」
「大黒が、やけに機械の購入を急いでいる理由を考えろ」
私は書類をめくりました。
発起人の出資予定額。
外部引受人の出資予定額。
払込記録。
そして。
設立予定の会社が購入する機械。
千二百万円。
「……まさか」
私は顔を上げました。
「出資金を使って、先に自分の会社へお金を移すつもりなんじゃ……」
相馬先輩が頷きました。
「その可能性がある」
すると。
片桐所長が静かに言いました。
「断定するな」
「あっ」
「まだ金の移動は確認できていない」
「はい……」
「疑いと事実は分けろ」
そうでした。
法律の書類は、推理小説ではありません。
疑わしい。
だから犯人。
そんな書き方では駄目です。
証拠が必要。
確認できた事実が必要。
「ただし」
所長は定款を指差しました。
「この財産引受の扱いは、確かめる必要がある」
「はい」
「検査役の調査は、どうなっている」
私は関係資料をめくりました。
検査役。
調査報告。
その記載が見当たりません。
「……ありません」
「裁判所の関係書類は?」
「提出されていません」
「では、確認が必要だ」
私は頷きました。
設立時に、特定の財産を会社が取得する約束。
しかも、その売主は発起人の関係会社。
価格は高額。
こうした取引は、出資者や将来の会社の財産を害する危険があります。
だからこそ。
商法は、定款への記載や調査などの手続きを用意している。
「所長」
「何だ」
「これ、会社を作るための法律なのに、会社を作ろうとしている人を疑う仕組みがあるんですね」
「そうだ」
「どうしてですか?」
所長は短く答えました。
「会社ができる前が、一番危ないからだ」
私は目を見開きました。
「……あ」
「まだ取締役も、監査役も、正式に会社の機関として動いていない」
「はい」
「それでも金は集まる」
「はい」
「その金を、誰が守る」
……。
なるほど。
そういうことですか。
会社が完成してからでは、遅いことがある。
だから。
募集。
割当て。
払込み。
創立総会。
その一つ一つで、手続きの適正を確かめる。
「こはる」
所長が言いました。
「金を集める仕組みには、金を守る仕組みが必要だ」
私は、その言葉をノートに書きました。
翌朝。
事務所に、さらに三人の町工場の経営者が訪れました。
藤田さんから事情を聞いた、ほかの出資者たちです。
「私も二百万円出しました」
「うちは三百万円です」
「大黒さんから、会議には来るなと言われました」
私は驚きました。
どうやら。
創立総会を開かないことは、最初から計画されていたようです。
「大黒社長は何と言っていましたか?」
私が尋ねると、一人が答えました。
「会社を作るのは発起人の仕事だ。外から金を出した奴に決定権はないって」
……。
私は思わず額を押さえました。
この人。
募集設立の意味を、根本から勘違いしています。
いや。
分かっていて無視しているのかもしれません。
「発起人だけで会社を作るなら、発起設立という方法があります」
私は言いました。
「でも、今回は違います」
机に紙を置きました。
発起設立。
発起人が設立時発行株式を全部引き受ける。
募集設立。
発起人以外からも、株式の引受人を募集する。
「皆さんは、募集に応じて株式を引き受けたんです」
私は説明しました。
「もちろん、申込書を出しただけで、希望した株式が全部手に入るとは限りません。発起人側が割当てを決める手続きがあります」
「割当て?」
「何株を引き受けてもらうか、ということです」
藤田さんが尋ねました。
「では、私の五百万円は?」
「申込みに対する割当てが行われ、その株式について払込みもされていますね」
「はい」
「だから、その事実を無視して、単なる寄付のように扱うことはできません」
藤田さんの目が潤みました。
「……よかった」
私は続けました。
「それに、募集設立には創立総会があります」
そこへ相馬先輩が口を挟みました。
「こはる。話を急ぐな」
「え?」
「払込みがちゃんと済んでいるか、そこも確認しろ」
「あっ」
そうでした。
募集設立では、申込みと割当てだけでは終わりません。
実際に、払い込む必要があります。
「先輩、全額払込みですね」
「ああ」
私は頷きました。
現代の会社法では、割当てを受けた引受人が、定められた払込期日や期間内に全額を払い込まなければ、株主となる権利を失います。
昭和の商法でも、株金の全額払込みが必要とされ、払込みを怠った場合には、当時の規定に沿った失権手続きが問題になります。
つまり。
申込書に名前を書いただけ。
一部だけお金を払っただけ。
それで、いつでも当然に株主の地位を取得できるわけではない。
でも。
今回の藤田さんたちは違います。
割当てがあり。
払込みの記録があり。
実際にお金を出している。
「皆さんの権利を確認するために、銀行関係の記録と株式引受関係の書類を整理します」
私が言うと、藤田さんたちは頷きました。
そこで。
一人の男性が、気になることを口にしました。
「そういえば……」
「はい?」
「大黒社長が、銀行の証明書さえ取れば金は自由に動かせると言っていました」
……。
私は手を止めました。
「銀行の証明書?」
「払込金保管証明書とかいう……」
来ました。
今回の事件。
もう一つの重要な書類です。
払込金保管証明書。
銀行などの払込取扱機関が、株式の払込金を保管していることを証明する書面。
ただの領収書ではありません。
会社の設立資金が、きちんと払い込まれたことを示す、重要な証明です。
私は六法を開きました。
そして言いました。
「先輩」
「何だ」
「これ、大黒社長は何か勘違いしていませんか?」
「何をだ」
「銀行の証明書が出たら、そのお金を自由に使えると思っているんじゃ……」
相馬先輩が頷きました。
「可能性はあるな」
さらに。
片桐所長が口を開きました。
「その証明書の内容も確認しろ」
「はい」
「銀行が証明する以上、ただの紙切れでは済まない」
私は頷きました。
払込みがあったように装う。
あるいは、いったん入れたお金を、裏の約束ですぐ返してしまう。
そんなことが自由にできたら。
会社には、実際の資金が残りません。
出資者も。
会社と取引する債権者も。
危険にさらされます。
「所長」
「何だ」
「銀行の証明書にも、ちゃんと意味があるんですね」
「ああ」
所長は静かに言いました。
「金があると書くだけでは、金は守れん」
私は、もう一度頷きました。
紙に数字を書く。
銀行が証明する。
そこには、責任が伴う。
そして。
その責任を無視しようとする人間ほど。
紙切れだと笑うのです。
その日の午後。
片桐所長は、集まった出資者たちの書類を一つずつ確認しました。
申込書。
割当てに関する通知。
払込関係資料。
定款。
そして、例の創立総会議事録。
書類を照合するうちに、さらに重大な事実が見つかりました。
「……これ、おかしくありませんか?」
私は一枚の一覧表を指差しました。
「何がだ」
相馬先輩が覗き込みます。
「藤田さんたちの払込みの合計が、かなり大きいんです」
「うん」
「それなのに、議事録では、全員賛成になっています」
「そうだな」
「でも、誰も会議に出ていません」
「うん」
「つまり……」
私は顔を上げました。
「実際に創立総会を開いたら、大黒社長の思いどおりに決議できるとは限らない!」
相馬先輩がにやりとしました。
「ようやく分かったか」
なるほど。
これです。
大黒社長が創立総会を嫌がった、本当の理由。
外部からお金を集めた。
でも、その出資者たちが、会社の運営方針に疑問を持つかもしれない。
大黒社長が指定した役員に、賛成しないかもしれない。
高額な機械購入について、説明を求めるかもしれない。
だから。
最初から会議を開かない。
全員賛成という議事録だけ作る。
そうすれば、誰も文句を言えない。
……というつもりだったのでしょう。
「先輩!」
「何だ」
「これ、会社設立じゃなくて、会社の乗っ取り計画じゃないですか!」
「乗っ取りというより、最初から自分の財布みたいに扱うつもりだったんだろうな」
相馬先輩は冷たく言いました。
「だが、そう簡単にはいかねえ」
片桐所長が、議事録を机に置きました。
「会議を開いていないなら、その会議で決議したという事実もない」
「はい」
「欠けているのは、ハンコではない」
「……はい」
「会議そのものだ」
私は息を呑みました。
そうです。
実際に開かれていない会議。
出席していない人間。
行われていない決議。
それを、書類だけで作り出すことはできません。
「相馬」
「はい」
「内容証明の原案を作れ」
「分かりました」
「こはる」
「はい!」
「創立総会議事録の問題点を整理しろ」
「任せてください!」
いよいよです。
昭和の商法。
募集設立。
創立総会。
そして。
大黒重蔵の野望。
紙の上で、真正面からぶつかります。
夕方。
事務所の机には、二種類の書面が並びました。
一つは。
出資者本人たちの名義で送る、内容証明郵便の通知書案。
もう一つは。
創立総会が適法に開かれた場合に、その実際の経過を記録するための議事録様式です。
「こはる」
相馬先輩が言いました。
「議事録は、まだ完成させるなよ」
「え?」
「会議が開かれてねえんだから、決議の内容なんか書けるわけねえだろ」
「あっ」
そのとおりです。
現実に行われていない会議の結果を、勝手に書いてはいけません。
まず。
適法に招集する。
実際に会議を開く。
出席と議決の状況を確認する。
そのうえで議事録を作る。
「書類の順番まで、募集設立の手順なんですね」
「そういうことだ」
私は頷きました。
そして。
内容証明の原案を読み上げました。
「第一。本通知人らは、東海精密協同株式会社の募集設立に際し、株式の引受けを申し込み、割当てを受け、所定の払込みを行った者である」
「うん」
「第二。貴殿作成の昭和六十三年七月二十日付創立総会議事録には、本通知人らが出席し、議案に賛成した旨の記載がある」
「うん」
「第三。しかし、本通知人らは、当該創立総会の招集通知を受けておらず、同日に出席した事実もなく、記載された決議に参加した事実もない」
相馬先輩が頷きました。
「続けろ」
「第四。よって、当該議事録の出席及び決議に関する記載は事実に反するものであり、同議事録を適法な創立総会の議事録として利用しないよう求める」
「よし」
「第五。会社設立に関する株式の募集、割当て、払込み、設立に際して取得する財産の内容、検査役による調査の有無その他の設立経過について、関係書類の開示及び説明を求める」
私は息を吸いました。
「第六。株式引受人の権利を無視したまま、事実に反する書類によって設立登記を進めることには異議がある」
相馬先輩が言いました。
「最後だ」
「はい」
私は読み上げました。
「本通知によっても適切な対応がなされず、虚偽の記録の使用その他の問題が継続する場合には、弁護士等の専門家に相談のうえ、必要な法的措置を検討する」
読み終わりました。
私は相馬先輩を見ました。
「どうですか?」
「まあ、悪くねえ」
「本当ですか!」
「ただし」
「はい」
「銀行の金がもう引き出された、なんて書いてねえな?」
「書いてません!」
「よし」
「まだ確認できていませんから!」
片桐所長が頷きました。
「それでいい」
私は胸を撫で下ろしました。
事実。
資料。
商法上の問題。
そして、求める対応。
感情的な言葉は、一つもありません。
大黒社長を罵倒する文もありません。
でも。
これは。
相手にとって、かなり怖い書面です。
なぜなら。
反論するためには。
本当に創立総会を開いたのか。
本当に出資者が出席したのか。
本当に決議が成立したのか。
設立資金をどう扱っているのか。
財産引受について必要な手続きが行われているのか。
その一つ一つを、説明しなければならないからです。
「所長」
「何だ」
「この通知書、相手は嫌がりますよね」
「そうだろうな」
「でも、声を荒らげていません」
「必要ない」
「どうしてですか?」
所長は静かに答えました。
「嘘を説明するのは、嘘をついた本人だからだ」
私は、しばらく黙りました。
……なるほど。
書面で戦うというのは。
相手を大声で追い詰めることではありません。
事実を並べ。
法律上の問題を明らかにし。
相手が自分の行為を説明しなければならない状態にする。
それが。
片桐所長の、書面の刃なのです。
内容証明郵便を発送した三日後。
事務所に電話が鳴りました。
「はい、片桐行政書士事務所です!」
『……大黒だ』
私は一瞬、固まりました。
あの大黒重蔵です。
「少々お待ちください」
片桐所長に受話器を渡します。
「片桐です」
『あの、通知書なんだが……』
「はい」
『あれは、その……』
大黒の声が、小さい。
ものすごく小さい。
『弁護士に見せた』
「そうですか」
『会議を実際に開いていないなら、その議事録を本物として使うのは危険だと言われた』
所長は黙って聞いています。
『それから、機械の購入についても……』
「はい」
『財産引受の手続きが問題になると』
私は思わず拳を握りました。
来ました。
ようやく。
大黒社長が、法律の重みを理解したようです。
『あの議事録は使わん』
大黒が言いました。
『登記の手続きも、いったん止める』
「承知しました」
『創立総会も、きちんと開く』
私は相馬先輩を見ました。
先輩は、口元だけで笑っています。
『それと……』
大黒が言いにくそうに続けました。
『工作機械の購入も、白紙に戻す』
……!
私は目を見開きました。
『あの値段じゃ、まずいらしい』
まずい。
そうでしょうね。
町工場の人たちが集めた資金を、相場より高い価格で自分の会社へ移そうとしていたのですから。
『それに、弁護士から言われた』
「何と?」
『設立に関する手続きをごまかして会社に損害を与えれば、発起人としての責任を追及される可能性があると』
所長は静かに答えました。
「その点は、具体的な事実関係によります」
『……ああ』
「設立手続きを適法に進めることが先決でしょう」
『分かってる』
大黒は長く息を吐きました。
『藤田たちには、改めて説明する』
そして。
『……俺が悪かった』
小さな声でした。
でも。
確かに、そう聞こえました。
電話が切れます。
「所長!」
「何だ」
「折れましたね!」
「ああ」
「すごいです!」
相馬先輩が煙草を取り出しました。
「まだ終わってねえぞ」
「え?」
「会議を開くって言っただけだろ」
「あ……」
「ちゃんと招集して、実際に開いて、適法に決議する。その結果を正しく記録して、初めて次へ進める」
「はい!」
「電話で反省しただけじゃ、会社はできねえ」
そうでした。
法律の手続きは、約束しただけでは完成しません。
実際に行うこと。
それを、確かな書類で残すこと。
そして。
必要な登記まで進めること。
そこまでが、会社を作るという仕事なのです。
二週間後。
町の商工会館に、出資者たちが集まりました。
東海精密協同株式会社。
創立総会。
今度は。
本当に開かれる会議です。
私は、少し離れた席で資料を整理していました。
片桐事務所は、事前に議事録の様式や必要な書類の整備を手伝っています。
議事録には、実際の議事と決議結果を正確に記録することになっています。
出席者の確認。
議決権の確認。
設立経過の報告。
必要な役員の選任。
定款に関する事項。
一つずつ。
省略せずに進められました。
議場には、藤田さんたち町工場の経営者もいます。
油の染み込んだ手。
日焼けした顔。
仕事帰りの作業服。
この会社のために、本当にお金を出した人たちです。
「では、設立の経過について報告します」
大黒重蔵が立ち上がりました。
以前のような威圧的な態度ではありません。
少し緊張しているように見えます。
「当初予定していた工作機械の購入については、条件を見直すことにしました」
ざわめきが起こりました。
「設立に関する諸手続きについても、改めて確認しました」
大黒が続けました。
「不備のあった議事録は使用せず、本日の会議の経過を正しく記録します」
藤田さんが顔を上げました。
そして。
役員選任の議事に入りました。
大黒は、当然自分が社長になるつもりだったのでしょう。
しかし。
今回は違います。
出資者たちが、きちんと議決に参加しています。
議事は、必要な賛成を得られるかどうかを確認しながら進みました。
結果。
大黒重蔵は取締役候補として選任されませんでした。
私は息を呑みました。
……。
すごい。
あれほど偉そうだった人が。
会社を作ると言っていた人が。
創立総会で、役員に選ばれなかった。
もちろん。
会社の設立を主導したこと自体が、悪いわけではありません。
発起人として尽力したことまで、否定されるものでもありません。
でも。
発起人だからといって。
必ず取締役になれるわけではありません。
社長の椅子が、永久に保証されているわけでもありません。
まして。
出資者を無視してよい理由には、ならないのです。
「……そういうことか」
大黒が小さく呟きました。
その表情に、以前の余裕はありませんでした。
一方。
藤田さんは、静かに息を吐きました。
涙ぐんでいるように見えました。
自分たちの出したお金。
自分たちの作ろうとした会社。
その将来について。
初めて、きちんと意思を示すことができたのです。
会議は、その後も続きました。
取締役三名。
監査役一名。
当時の商法に従って、必要な役員が選ばれました。
新たな経営陣のもとで、会社の事業計画も見直されることになりました。
そして。
実際の議事に即した創立総会議事録が作成されたのです。
総会が終わったあと。
私は会館の廊下で、藤田さんに声をかけられました。
「朝比奈さん」
「はい」
「ありがとうございました」
「いえ、私はまだ見習いですから」
藤田さんは笑いました。
「でも、教えてもらいました」
「何をですか?」
「お金を出しただけじゃないんだって」
私は首をかしげました。
「……え?」
「私は、五百万円を出しただけの人間じゃなかったんですね」
その言葉に、私は胸が熱くなりました。
「そうです」
私は頷きました。
「藤田さんたちは、会社の設立に参加した人たちです」
「はい」
「ちゃんと株式を引き受けて、払い込んで、その会社を作る手続きに関わっているんです」
藤田さんが笑いました。
「大黒さんには、ずっと言われていたんです」
「何をですか?」
「お前たちは職人なんだから、経営のことなんか分からなくていいって」
……。
私は黙りました。
「でも、分からないなら勉強すればいいんですよね」
藤田さんが言いました。
「会社を作ることも。株主になることも」
「はい!」
「これからは、ちゃんと勉強します」
そう言って。
藤田さんは、ごつごつした手を差し出しました。
「自分たちの会社ですから」
私は、その手を握りました。
固い手でした。
毎日、機械を動かし。
鉄を削り。
油にまみれて働いてきた手。
その手が集めたお金で、会社が生まれようとしている。
だからこそ。
法律は、そのお金を簡単に奪わせない仕組みを用意しているのです。
数日後。
事務所に一枚の通知が届きました。
東海精密協同株式会社。
設立登記完了。
私は思わず声を上げました。
「所長!」
「何だ」
「会社ができました!」
「ああ」
「本当にできました!」
相馬先輩が新聞から顔を上げます。
「騒ぐな。登記が済んだって話だろ」
「でも!」
私は紙を掲げました。
「募集設立の最後の手続きですよ!」
そうです。
発起人による出資。
募集と割当て。
引受人による払込み。
創立総会。
設立登記。
あの五つの流れ。
ついに最後まで終わりました。
昭和の商法では、現代とは異なる条文体系や手続き上の決まりがあります。
でも。
設立登記によって株式会社が成立するという重要な仕組みは、時代を超えて引き継がれています。
「これで、本当に会社が生まれたんですね」
私が言うと、片桐所長が頷きました。
「そうだ」
「すごいですね……」
「何がだ」
「紙とお金と会議で、法律上の新しい人格が生まれるんです」
相馬先輩が笑いました。
「妙な言い方するな」
「だって、本当じゃないですか!」
株式会社。
法律上の法人。
個人とは別の権利義務の主体。
人間ではありません。
でも。
財産を持ち。
契約を結び。
事業を行う。
そんな存在が、法律によって生まれる。
ただし。
その誕生には、守るべき手続きがある。
そこを省略してはいけない。
出資者を騙してはいけない。
会社の財産を、自分の財布と混同してはいけない。
……。
私は、少し考えました。
「所長」
「何だ」
「大黒さんって、どうしてあんなことをしたんでしょうね」
所長は帳簿を閉じました。
「会社が欲しかったんだろう」
「はい」
「だが、会社を作ることと、会社を自分のものにすることを混同した」
私は頷きました。
確かに。
大黒社長は、会社を作れば何でも自由にできると思っていた。
お金も。
役員も。
機械の購入も。
全部、自分で決められると。
でも。
募集設立は、他人から資金を集めて会社を作る制度です。
だからこそ。
発起人だけでは終わらない。
外部の引受人が参加する。
払込みを確かめる。
創立総会を開く。
必要な役員を選ぶ。
そして、登記をする。
その手続きの一つ一つに意味がある。
「所長」
「何だ」
「募集設立って、面倒ですね」
「そうだな」
「発起設立より、ずっと大変です」
「ああ」
「でも……」
私は少し笑いました。
「面倒だからこそ、守られる人がいるんですね」
所長が頷きました。
「そうだ」
その一言が、妙に嬉しく感じられました。
「ところで、こはる」
相馬先輩が言いました。
「はい?」
「今回の募集設立で、一番大事なことは何だった?」
私は少し考えました。
株式の募集。
割当て。
払込み。
銀行の証明書。
創立総会。
検査役。
設立登記。
どれも大事です。
でも。
一つだけ選ぶなら。
「発起人だけで、勝手に全部決めてはいけないことです」
相馬先輩が頷きました。
「まあ、そうだな」
「外部から株式を引き受ける人がいる以上、その人たちの権利も守らないといけません」
「そうだ」
「だから、創立総会があるんです」
「うん」
私は続けました。
「しかも、単に書類を作ればいいわけじゃありません」
「ほう」
「本当に募集したか」
「うん」
「本当に割り当てたか」
「うん」
「本当に払い込まれたか」
「うん」
「本当に創立総会を開いたか」
「そうだ」
「そして、ちゃんと登記をしたか!」
相馬先輩が笑いました。
「ようやく分かってきたな」
「はい!」
私は胸を張りました。
すると。
片桐所長が静かに言いました。
「こはる」
「はい」
「もう一つ覚えておけ」
「何でしょう」
「会社を作るのは、人間だ」
「はい」
「だが、会社ができたら、その財産は社長個人のものではない」
私は頷きました。
「法人としての会社のものです」
「そうだ」
「社長が一番偉いからって、好き勝手に使えるわけじゃありません」
所長は頷きました。
「それでいい」
相馬先輩が、にやりと笑いました。
「社長が一番偉いんじゃねえ」
そして。
机の上の商法を指で叩きました。
「商法のルールを守った奴が、最後に残るんだよ」
私は思わず笑いました。
「先輩、今日も格好いいですね!」
「うるせえ」
「名言です!」
「仕事しろ」
「はい!」
その夕方。
私は事務所の窓から、町の工場街を眺めていました。
遠くから、機械の音が聞こえてきます。
金属を削る音。
トラックの走る音。
工場のシャッターが閉まる音。
あのどこかで。
藤田さんたちは、今日も働いているのでしょう。
そして。
新しくできた会社も。
きっと、少しずつ仕事を始めるのでしょう。
私はノートを開きました。
募集設立。
発起人だけでなく、外部から株式の引受人を募集する設立方法。
出資。
募集。
割当て。
払込み。
創立総会。
登記。
最初は、面倒な暗記事項でした。
でも。
今は違います。
五百万円を出した藤田さん。
家族の生活を懸けた町工場の人たち。
会社の未来を信じて集まった仲間たち。
その人たちが。
「金を出しただけの奴は黙ってろ」
と言われないために。
商法は、手続きを用意していたのです。
私は、ノートに小さく書きました。
――募集設立の手続きは、会社を作るためだけでなく、会社を作る人たちを守るためにもある。
「……よし!」
私は鉛筆を置きました。
「これなら、忘れません!」
そのとき。
「こはる!」
相馬先輩の声が飛びました。
「はい!」
「お前、何をしてる」
「募集設立の復習です!」
「そうか」
「はい!」
「じゃあ、ちょうどいい」
先輩が、一枚の書類を差し出しました。
「これ、確認しろ」
「何ですか?」
「新しい相談だ」
私は受け取りました。
そこには。
――株式会社設立に関する相談。
と書かれています。
「おおっ!」
私は目を輝かせました。
「また会社設立ですね!」
「ああ」
「今度は募集設立ですか?」
「いや」
「じゃあ、発起設立?」
「そうだ」
「発起人は?」
「一人」
……。
私は顔を上げました。
「一人?」
「ああ」
「一人で株式会社を?」
「そう言ってる」
……。
私は固まりました。
相馬先輩も、固まりました。
そして。
「おい、こはる」
「はい……」
「昭和六十三年に、発起人一人で株式会社を作れるか?」
私は、そっと目を逸らしました。
現代なら。
作れます。
でも。
今は昭和六十三年。
発起人は七人以上必要です。
「……作れません」
「そうだ」
「でも、相談者さんは?」
「一人で作りたいそうだ」
「じゃあ……」
私は少し考えました。
「有限会社という選択肢も検討できますよね」
「そうだな」
「ただし、株式会社とは制度も条件も違います」
「分かってるじゃねえか」
私は胸を張りました。
「今日、勉強しましたから!」
相馬先輩が頷きました。
「よし」
そして。
「じゃあ、その違いを調べておけ」
「……え?」
「昭和の商法と有限会社法だ」
「今からですか!?」
「当たり前だ」
「もう夕方ですよ!」
「相談は明日だ」
「えええっ!」
私は頭を抱えました。
昭和の会社設立。
発起人七人。
取締役三人。
監査役一人。
募集設立なら創立総会。
現代と違いすぎます。
私は思わず呟きました。
「もう、未来の会社法を持ってきたい……」
「何だって?」
「何でもありません!」
危ない。
未来人。
また正体を明かすところでした。
でも。
私は少し笑いました。
会社法という独立した法律が、まだ存在しない時代。
商法第二編と有限会社法が、会社のルールを支えている。
古くて。
堅苦しくて。
ときどき、不便。
けれど。
その中にも、人を守るための知恵が詰まっている。
そして。
その仕組みを理解すれば。
現代の会社法が、なぜ整理され、設立手続きが簡略化されてきたのかも、少しずつ見えてくる。
「相馬先輩!」
「今度は何だ!」
「私、昭和の商法も好きになってきました!」
「変な奴だな」
「でも、発起人七人は多すぎません?」
「俺に文句言うな!」
「取締役三人も多いです!」
「だから俺に言うな!」
「監査役まで必要なんですよ!」
「知ってるよ!」
私は笑いました。
先輩も、少しだけ笑っていました。
窓の外。
昭和六十三年の町工場に、夕暮れの光が差し込んでいます。
今日も、どこかで。
誰かが会社を作ろうとしている。
夢を持ち。
仲間を集め。
お金を出し合い。
新しい仕事を始めようとしている。
その夢を。
社長一人の欲望で壊してはいけない。
だから。
募集設立には、順番がある。
そして。
その順番を守ることには、意味がある。
私は六法を開きました。
明日の相談に備えて。
昭和の商法を、もう一度。
だって。
株式会社は。
「俺が作ったんだから、俺のものだ」
その一言で、全部が決まるほど。
簡単な仕組みではないのです。
以下に私の作品へのリンク貼ってます。是非、手に取って頂ければと思います。また、ついでに評価ブックマーク頂ければ幸いです。




