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こはる行政書士見習帖 〜 昭和に転生して許認可に振り回されると試験知識が骨身にしみます 〜  作者: 条文小説
〈商法・会社法 配点20点/300点〉 株式会社の設立

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610/614

[会社法・発起設立の手続き]法理編 こはるノート

挿絵(By みてみん)

 会社には、誕生日があります。


 定款を作った日ではありません。


 七人の発起人が集まった日でもありません。


 社長になる男が、胸を張って宣言した日でもありません。


 株式会社が法律上の法人として生まれるのは。


 設立登記がなされた日です。


 でも。


 そこにたどり着くまでには、越えなければならない関門があります。


 昭和六十三年。


 夕方の片桐行政書士事務所。


 私は机に向かい、ノートを開いていました。


 表紙には、大きくこう書いてあります。


 ――こはるノート・商法編。


「……会社って、生まれる前から大変なんですね」


 私が呟くと、相馬先輩が新聞から顔を上げました。


「何だ、いきなり」


「だって、発起人を集めて、お金を出して、役員を決めて、調査して、登記して……」


「ああ」


「しかも昭和六十三年は、発起人が七人以上必要なんですよ!」


「そうだな」


「七人も集めて、ようやく会社を作る準備が始まるんです!」


「お前、まだそれを根に持ってるのか」


「持ってます!」


 私は即答しました。


 だって。


 現代なら、発起人一人でも株式会社を設立できます。


 取締役も、一人でよい場合があります。


 資本金も、一円から設定できます。


 それなのに。


 この昭和六十三年では、株式会社を作るために七人以上の発起人が必要なのです。


「一人で会社を作れないなんて、昔の商法は厳しすぎます!」


「文句なら商法を作った奴に言え」


「百年くらい遅れて文句を言うことになります!」


「何の話だよ」


 私は慌てて口を閉じました。


 危ない。


 未来人の発言が、また増えています。


 でも。


 昨日の野村精機株式会社の事件を思い出すと。


 会社設立の手続きが、ただ面倒なだけの制度ではないことも分かってきました。


 七人の職人。


 七百万円。


 そして。


「会社の金は俺のものだ!」


 と豪語した黒崎剛志。


 彼は、会社がまだ成立していないのに、自分を社長だと言い張りました。


 出資金のうち三百万円を、自分の商売の名義へ送金。


 そのうえ。


 設立手続の調査を十分にしないまま、問題なしという報告書にハンコを押させようとしたのです。


「先輩」


「何だ」


「今日は、あの事件を法律の順番で整理したいです」


「ほう」


 相馬先輩が新聞を畳みました。


「じゃあ、まず聞こうか」


「はい!」


「野村精機株式会社は、いつ会社になった?」


「設立登記がなされたときです!」


「よし」


「でも、そこまでの手続きが重要なんですよね」


「そうだ」


 私は鉛筆を握りました。


 今日のテーマ。


 発起設立。


 そして。


 会社が生まれるまでの、四つの関門です。


 まず、私はノートの真ん中に大きく書きました。


 ――株式会社の設立方法は、二種類。


「二種類?」


 相馬先輩が聞きました。


「はい。発起設立と募集設立です」


「ああ」


「今回の野村精機株式会社は、発起設立でした」


 私は七人の名前をノートに並べました。


 野村修一。


 黒崎剛志。


 そして、残り五人の職人仲間。


 全員が発起人として参加し、設立時に発行する株式を引き受ける計画でした。


「発起設立というのは、発起人だけで設立時の株式を全部引き受ける方法です」


「そうだな」


「それに対して、募集設立は?」


 私は自分で問いかけました。


 相馬先輩が答えます。


「発起人だけで全部引き受けるんじゃなく、ほかにも株式を引き受ける人を募集する方式だ」


「そうです!」


 私は二つの丸を描きました。


 発起設立。


 発起人が設立時の株式をすべて引き受ける。


 募集設立。


 発起人が一部を引き受け、残りについて株式を引き受ける人を募集する。


「つまり、違いは、設立時の株式を誰が引き受けるか、なんですね」


「そうだ」


「会社を作ったあとに株式を売るかどうか、という話ではありません」


「そのとおりだ」


 ここ、重要です。


 発起設立という名前を見て、


 発起人がいる設立方法。


 募集設立という名前を見て、


 一般の人からお金を集める会社。


 とだけ覚えると、間違えやすい。


 募集設立にも、発起人はいます。


 発起設立でも、成立後に新たな株式を発行することはあります。


 問題になるのは。


 設立時の株式を、発起人だけで全部引き受けるのかどうか。


 そこなのです。


「よし。じゃあ問題だ」


 相馬先輩が言いました。


「はい!」


「七人の発起人が、設立時の株式を全部引き受けた。発起設立か、募集設立か」


「発起設立です!」


「じゃあ、七人の発起人に加えて、外部の人にも株式を引き受けてもらうなら?」


「募集設立です!」


「よし」


 私は拳を握りました。


 簡単!


 ……と言いたいところですが。


 実際の事件では、これだけでは終わりませんでした。


 発起人が株式を引き受けた。


 それだけで、会社ができるわけではないからです。


 むしろ。


 そこからが、法律の本番なのです。


「では、第一の関門!」


 私はノートに書きました。


 ――出資の履行。


「野村さんたちの七百万円ですね」


「ああ」


「ここで、私が最初に勘違いしかけたことがあります」


「何だ」


「お金を集めたら、出資は完了したと思ってしまうことです」


 相馬先輩が頷きました。


「現実には、そう単純じゃねえな」


 私は昨日の銀行資料を思い出しました。


 確かに七百万円という数字はあった。


 でも。


 誰が。


 どの株式を。


 いくらで引き受け。


 どのように払い込んだのか。


 その確認が必要だったのです。


「まず、現代の会社法では、発起人全員の同意によって決める事項があります」


 私はノートに三つ書きました。


 一つ目。


 各発起人が割当てを受ける設立時発行株式の数。


 二つ目。


 その株式と引き換えに払い込む金銭の額。


 三つ目。


 成立後の株式会社の資本金及び資本準備金に関する事項。


「会社法第三十二条の内容ですね。ただし、定款に定めてある事項は、改めて同意で決める必要はありません」


 相馬先輩が眉をひそめました。


「……会社法?」


「あっ!」


 しまった。


 またです。


 私は慌てて咳払いしました。


「ええと、現代の教材で考えると、という仮定の話です!」


「何の仮定だよ」


「細かいことは気にしないでください!」


「気にするわ!」


 私は六法を抱え直しました。


 そうです。


 昭和六十三年に会社法第三十二条は存在しません。


 当時の株式会社設立は、商法第二編の規律に従います。


 現代の条文番号や制度を、そのまま昭和の事件に使ってはいけません。


 それに。


 設立時発行株式の数や払込金額について、現代の仕組みをそのまま昔の商法に当てはめることもできません。


 今回は、現代の教材で整理する順序と、昭和の事件で守るべき仕組みを比較しているのです。


「所長」


 私は奥に声をかけました。


「何だ」


「そもそも、なぜ発起人の引受株式数や払込金額を明確にする必要があるんですか?」


 片桐所長が帳簿から顔を上げました。


「誰が、いくら負担するのか分からなければ、設立の土台が決まらん」


「……なるほど」


 私は頷きました。


 野村さん。


 百万円。


 黒崎。


 百万円。


 ほかの五人も、それぞれ百万円。


 合計七百万円。


 これは単なる集金ではありません。


 発起人が会社の株式を引き受け、その対価を負担する。


 その約束です。


「株式を引き受けるというのは、会社ができたら株主になるための重要な行為なんですね」


「そうだ」


「だから、何株を、いくらで引き受けるのかが大事になる」


 私は赤線を引きました。


 そして。


 次の問題です。


「先輩。出資を約束した人が、お金を払わなかったらどうなります?」


「少なくとも、払ったことにはならねえな」


「ですよね」


 現代の発起設立では、発起人は株式を引き受けた後、遅滞なく、払い込むべき金銭の全額を払い込まなければなりません。


 会社法第三十四条第一項。


 ここで大事なのが。


 ――全額。


 という言葉です。


「たとえば、一人五百万円の出資を約束したとします」


「うん」


「でも、百万円しか払っていなかった」


「うん」


「これで、五百万円を払ったことにはなりません!」


「当たり前だろ」


「でも、問題になるんです!」


 私は真剣に言いました。


 出資を約束したこと。


 実際に履行したこと。


 この二つは違います。


 さらに。


 銀行の通帳に一度数字が載ったこと。


 それも、適法な払込みがあったことと常に同じではありません。


 名義だけの入金。


 実態のない資金移動。


 見せ金。


 そうした問題があるからです。


「昨日の黒崎は?」


 相馬先輩が聞きました。


「七百万円の入金記録があることを盾にしていました」


「そうだ」


「でも、私たちは、払込みの経緯と、その後の資金の移動を分けて調べました」


「うん」


「残高が減ったという事実だけで、払込みが最初から無かったと決めつけなかった」


「そこだ」


 相馬先輩が机を指で叩きました。


「金が減ったから払込み無効。そんな雑な判断をするな」


「はい」


「適法に払い込まれた後、正当な設立費用として支出された可能性もある」


「はい」


「逆に、最初から払込みの実体がない見せ金だった可能性だってある」


 私は頷きました。


 大事なのは。


 数字だけで判断しないこと。


 資金の実態を調べること。


 そして。


 会社設立のために預かった金を、発起人が自由に私物化できるわけではないこと。


「……あの三百万円ですね」


「ああ」


 黒崎商事への送金。


 それが正当な取引だったのか。


 発起人として許される行為だったのか。


 利益相反や設立手続上の問題はないか。


 調べなければ分かりませんでした。


 だから、最初の内容証明では断定しなかった。


 事実と資料の説明を求めたのです。


「法律って、勢いだけで悪者を決められないんですね」


「当たり前だ」


 相馬先輩が笑いました。


「だから、お前の原案には赤線が入るんだよ」


「そこは忘れてください!」


 私は頬を膨らませました。


「さて、次です」


 私はノートをめくりました。


 ――現物出資。


「現物出資って、金銭じゃなくて財産を出すことですよね」


「そうだ」


「たとえば、土地や機械です」


 野村精機株式会社の事件でも、工場の機械が登場しました。


 ただし。


 黒崎が自分の商売から機械を売ろうとしていたことと、発起人が現物出資として機械を給付することは、違います。


 私は、その点を大きく囲みました。


「先輩」


「何だ」


「もし野村さんが、現金百万円の代わりに、自分の工作機械を会社に出資するとしたら?」


「現物出資を考えることになるな」


「はい!」


 現代の会社法第三十四条第一項では、現物出資をする発起人は、引き受けた株式について、金銭以外の財産の全部を給付する必要があります。


 ここでも。


 ――全部。


 です。


 土地なら土地。


 機械なら機械。


 現物出資として約束した財産を、必要な手続きに従って給付します。


「ただし、現物出資は何でも好きな値段をつけていいわけではありませんよね」


 私が聞くと、所長が頷きました。


「そうだ」


 私は考えました。


 たとえば。


 本当は百万円の価値しかない機械を。


「これは一千万円の価値があります!」


 と発起人が言い張ったら。


 会社はどうなるでしょう。


 帳簿上は立派な財産があるように見える。


 でも、実際の価値は十分の一。


 そんな会社を信用して取引した人が、損をするかもしれません。


「だから、現物出資には定款への記載や、財産の価額に関する規制などがあるんですね」


「そうだ」


「現代でも、原則として検査役による調査が問題になり、一定の例外が設けられています」


 私はノートに書きました。


 現物出資は、金銭出資と違って財産の評価が問題になる。


 そのため、単に「物を渡せば終わり」ではない。


 ここは、試験でも引っかかりやすいところです。


「それから、もう一つ!」


 私は指を立てました。


「土地で現物出資をする場合、登記の時期に例外があります」


「登記?」


「土地の所有権移転登記です」


 現代の会社法第三十四条第二項。


 発起人全員の同意があるときは、登記や登録など、第三者に権利の移転を対抗するために必要な行為を、株式会社の成立後に行うことができます。


「つまり」


 私は言いました。


「土地を現物出資する場合、条件を満たせば、所有権移転登記を会社成立後に行うことができるんです」


 相馬先輩が頷きました。


「会社がまだ存在してねえ段階では、会社名義への登記に問題があるからな」


「そうなんです!」


 私は大きく頷きました。


 会社が成立する前。


 まだ株式会社という法人は存在していません。


 それなのに。


 会社名義で土地の登記を先に済ませようとしても、相手となる法人がまだいない。


「だから、成立後でもよいという例外があるんですね」


「そうだな」


「ただし、これは出資財産の給付そのものを全部先延ばしにしていい、という意味ではありません」


 私は、そこに二重線を引きました。


 現物出資の履行。


 第三者に対抗するための登記や登録。


 この二つを区別すること。


 なるほど。


 昨日までは、出資と聞くと現金ばかり思い浮かべていました。


 でも。


 会社を作るために出せるものは、お金だけではない。


 職人が持つ機械。


 工場の土地。


 事業に必要な設備。


 そういう財産も、条件を満たせば出資の対象になる。


「野村さんたちらしい制度ですね」


 私は呟きました。


「何がだ」


「職人さんたちって、現金だけじゃなくて、仕事の道具も大切な財産ですから」


 相馬先輩が少し笑いました。


「まあな」


 私は、野村さんの図面を思い出しました。


 あの精密な歯車。


 長年使い込まれた工作機械。


 職人にとって、機械は単なる金属の塊ではありません。


 仕事を支える、大切な財産なのです。


 法律は。


 その財産を会社の資本に変える方法まで、用意しているのでした。


「では、第二の関門です!」


 私は、新しいページを開きました。


 ――設立時取締役等の選任。


「出資が終わったら、今度は人を決めるんですね」


「そうだ」


「会社の意思決定や業務執行などを担う機関を整えるわけです」


 私は、昨日の調査報告書を思い出しました。


 取締役になる予定の三人。


 監査役になる予定の一人。


 そして。


 自分が社長になると豪語していた黒崎。


「でも先輩」


「何だ」


「設立時取締役と、設立後の取締役って、同じじゃないんですよね」


「そこが大事だ」


 相馬先輩が頷きました。


 私は現代の教材を思い出しました。


 会社法第三十八条。


 発起人は、出資の履行が完了した後、遅滞なく設立時取締役を選任する。


 会社の機関設計によっては、ほかにも必要な設立時役員を選任する。


 ただし、定款で設立時取締役等を定めた場合には、出資の履行が完了した時に選任されたものとみなされる仕組みがあります。


「つまり、必ず出資が終わってから初めて名前を考え始める、ということではないんですね」


「そりゃそうだろ」


「でも、法的な選任の時期にはルールがある」


「そうだ」


 私は頷きました。


 それから。


 選任方法。


 現代の発起設立では、設立時取締役等の選任は、原則として発起人の議決権の過半数で決定します。


 会社法第四十条。


「……あれ?」


 私は首をかしげました。


「先輩」


「何だ」


「発起人の過半数って、七人なら四人ですよね?」


「何を数えてる?」


「人数です」


「そこを間違えるな」


 相馬先輩が言いました。


「人数と議決権は、同じとは限らねえ」


 ……!


 私は、はっとしました。


 そうです。


 現代の会社法第四十条で問題になるのは。


 発起人の人数の過半数ではありません。


 議決権の過半数です。


「たとえば」


 私はノートに書きました。


 発起人A。


 議決権六十個。


 発起人B。


 議決権四十個。


 合計百個。


「仮に一人が六十個の議決権を持っていたら、その人だけで過半数を持っていることになります」


「そうだ」


「二人のうち一人だから、人数では半分なのに!」


「議決権では過半数だな」


 私は目を見開きました。


「ここ、試験で間違えそうです!」


「お前なら間違えるな」


「断言しないでください!」


 でも。


 これは大切な違いです。


 発起人が何人いるか。


 その人たちがどれだけの議決権を持つか。


 同じではありません。


 もちろん、昭和六十三年の商法における設立時の役員選任手続と、現代の会社法の規定を同一視してはいけません。


 現代の条文番号も、当時はありません。


 それでも。


 誰が、どの権限で役員を決めたのか。


 その手続を確認することが重要なのは、変わらないのです。


「そういえば、黒崎さんは……」


 私は呟きました。


「俺が代表になるって、勝手に決めていましたよね」


「ああ」


「でも、本人が宣言しただけでは、適法に役員が選ばれたことにはなりません」


「そのとおりだ」


 私は大きく丸をつけました。


 肩書は、法律上の権限を自動的に生み出すものではない。


 そして。


 まだ会社ができていない段階では、なおさらです。


「さて」


 相馬先輩が椅子にもたれました。


「ここからが、昨日の事件の急所だ」


「え?」


「設立時取締役の仕事は何だ?」


 私は勢いよく答えました。


「会社の経営です!」


「違う!」


「……あっ!」


 しまった。


 引っかかりました。


 私は慌ててノートを見直しました。


 設立時取締役。


 名前に「取締役」と入っています。


 だから。


 会社の経営をする人。


 そう思ってしまいがちです。


 でも。


 まだ会社は成立していません。


 存在していない会社の通常の業務を、取締役として執行することはできないのです。


「先輩」


「何だ」


「設立時取締役は、設立の手続きを調査する立場なんですね」


「そうだ」


「会社が成立する前の設立事務を、何でも自由に執行する機関ではない」


「そのとおり」


 私は昨日の黒崎を思い出しました。


 ――俺が代表になるんだ!


 ――だから、会社の金は俺が使う!


 あの発言。


 今なら、どこがおかしいのか分かります。


「黒崎さんは、未来の社長という肩書を、現在の権限だと思い込んでいたんですね」


「そういうことだ」


 相馬先輩が頷きました。


「設立時取締役は、設立後の取締役とは役割が違う。そこを混同するな」


「はい!」


 私はノートに大きく書きました。


 ――設立時取締役は、会社成立前の通常の業務執行機関ではない。


 そして。


 ここから、第三の関門へ進みます。


 ――設立事項の調査。


 私は、その文字を赤鉛筆で囲みました。


「先輩、これが今回の事件で一番怖かったところですよね」


「ああ」


 黒崎は、取締役になる予定の人たちに、調査報告書への署名押印を求めていました。


 しかも。


 その報告書には、こう書かれていました。


 ――出資の履行及び設立手続に問題がないことを確認した。


 でも。


 実際には、資金の使途について疑問が残っていた。


 三百万円が黒崎自身の商売の名義に送金されていた。


 取引の根拠資料も、十分には示されていなかった。


「調査してないのに、調査済みだと書かせようとしたんですよね」


「そうだ」


「それって、かなり危険ですよね」


「危険だな」


 私は現代の会社法を思い出しました。


 会社法第四十六条。


 設立時取締役は、その選任後遅滞なく、設立に関する事項を調査しなければなりません。


「具体的には、何を調べるんですか?」


 私が聞くと、相馬先輩が言いました。


「まず、出資がきちんと履行されているかどうかだ」


「はい」


「それから、設立手続が法令や定款に違反していないか。不当な事項がないか」


「そうですね」


 私はノートに書きました。


 出資の履行。


 法令違反の有無。


 定款違反の有無。


 設立手続に関する不当な事項の有無。


 ただし、現物出資など特別な事項については、別の調査制度も関係します。


 設立時取締役が何もかも一人で判断すれば終わり、というわけではありません。


「所長」


 私は奥へ声をかけました。


「何だ」


「設立時取締役が調査して、問題を発見したらどうするんですか?」


「報告する」


「誰にですか?」


「発起人だ」


 私は頷きました。


 現代の会社法第四十六条第二項。


 設立時取締役は、調査によって法令違反や定款違反、不当な事項を認めた場合、発起人に通知しなければなりません。


「つまり、問題を見つけたら黙っていてはいけないんですね」


「そうだ」


「社長になる人が怒るから、見なかったことにする……なんて許されない」


「当然だ」


 私は、あの報告書を思い出しました。


 もし野村さんが。


 黒崎に言われるまま。


 何も確認せずに押印していたら。


 どうなっていたでしょう。


 後になって、会社設立の手続きに問題が見つかる。


 そのとき。


「自分は何も知らなかった」


 と言えば、それですべて済むのでしょうか。


「先輩」


「何だ」


「設立時取締役にも、責任が問題になることがあるんですよね」


「ああ」


「だから、調査を軽く考えちゃいけない」


「そうだ」


 相馬先輩が煙草を灰皿に押しつけました。


「こはる。ハンコってのはな」


「はい」


「押した瞬間に、紙に書いてある事実まで本当になる道具じゃねえ」


「……!」


 私は顔を上げました。


「調べてねえものは、調べてねえ。分からねえものは、分からねえ」


「はい」


「それを正直に記録することだって、大事な仕事なんだよ」


 私は、しばらく黙りました。


 野村さんは、黒崎に逆らいました。


 調査報告書に押印しなかった。


 その理由を、書面に残した。


 結果として、黒崎は資金の使い道を説明せざるを得なくなった。


 あの場面。


 私は、法律の条文で相手を打ち負かしたのだと思っていました。


 でも。


 本当は、もっと基本的なことだったのです。


 確認していないことを、確認したとは書かない。


 事実と違う書面には、ハンコを押さない。


 たったそれだけのことが。


 七百万円を守る、大きな力になったのでした。


「じゃあ、もう一つ問題だ」


 相馬先輩が言いました。


「はい!」


「設立時取締役が、調査で問題を見つけたとする」


「はい」


「その場合、設立時取締役が発起人に代わって勝手に定款を変更していいか?」


「いいえ!」


「理由は?」


「調査する権限と、設立事項を決める権限は別だからです!」


 相馬先輩が頷きました。


「そうだ」


 私は得意になって続けました。


「設立時取締役は、問題を発見したら発起人に通知します。でも、そのことによって設立手続のすべてを自由に決定できるわけではありません」


「うん」


「発起人が行うべき手続きは、発起人が適法に行う必要があります」


「よし」


 やった。


 今回は、正解です。


 でも。


 私はここで、一つの疑問を抱きました。


「先輩」


「何だ」


「設立時取締役って、あんまり偉くないんですか?」


 相馬先輩が眉をひそめました。


「偉いか偉くないかで考えるな」


「え?」


「役割が違うんだ」


 ……。


 役割。


 そうでした。


 発起人。


 設立時取締役。


 成立後の取締役。


 それぞれ、違う立場です。


 発起人は、会社を設立するための主体となる。


 設立時取締役は、会社の設立手続を調査する。


 成立後の取締役は、会社法や定款に従い、会社の業務に関わる。


 似たような名前でも。


 法律上の役割は同じではありません。


「なるほど……」


 私は大きく頷きました。


「会社設立って、登場人物が多いですね」


「昭和六十三年の株式会社なら、なおさらだな」


「発起人七人、取締役三人、監査役一人……」


「全員が別人である必要があるわけじゃねえぞ」


「あっ!」


 そうです。


 同じ人が、発起人であり、設立後の取締役になることもあります。


 発起人と役員は、必ずしも別々の人間ではありません。


「人数を全部足して十一人必要、というわけではないんですね」


「そうだ」


「危ない。試験で十一人って書くところでした」


「どんな問題だよ」


 私は苦笑しました。


 でも、こういう混同こそ、受験生の敵なのです。


 法律上の地位と、必要な人数。


 それぞれ、きちんと区別しなければなりません。


「さて、第四の関門です!」


 私は最後のページを開きました。


 ――設立登記。


「やっと来ましたね!」


「ああ」


「ここで、会社が生まれるんです!」


 私は、野村さんが持ってきた登記事項を確認できる書類を思い出しました。


 野村精機株式会社。


 あの名前。


 あの文字。


 そして、野村さんの嬉しそうな顔。


「現代の会社法第四十九条ですね」


 私は言いました。


「株式会社は、その本店の所在地において設立の登記をすることによって成立する」


 相馬先輩が頷きました。


「考え方は今の商法でも同じだ。登記が成立の決め手になる」


 そうです。


 ここが重要です。


 定款を作成した。


 出資金を払い込んだ。


 役員を選んだ。


 設立事項も調査した。


 それでも。


 設立登記がなされるまでは、株式会社として成立していません。


「つまり、会社の誕生日は、設立登記の日なんですね」


「そうだ」


「黒崎さんが『今日から俺の会社だ!』と言っても?」


「生まれねえな」


「立派な看板を掲げても?」


「生まれねえ」


「社員に名刺を配っても?」


「生まれねえ」


「社長室に大きな椅子を置いても?」


「椅子が増えるだけだ」


「……!」


 私は吹き出しました。


「先輩、それ面白いです!」


「笑い話じゃねえぞ」


「はい!」


 確かに。


 笑い話ではありません。


 設立登記は、会社が法律上の法人として成立するための重要な手続きです。


 登記によって。


 会社が、権利義務の主体となる。


 会社名義で財産を持つ。


 契約を締結する。


 事業活動を行う。


 そうした法人としての活動が可能になるのです。


 もっとも、登記すれば設立過程のあらゆる不備が自動的に消えるわけではありません。


 設立手続に重大な問題があれば、別途法律上の責任や会社の設立の効力が問題になることもあります。


「所長」


 私は聞きました。


「何だ」


「登記すれば、過去の問題が全部帳消しになるわけじゃないんですね」


「そうだ」


「だから、登記前の調査が大切なんですね」


 所長が頷きました。


「最後の登記まで、事実を確かめろ」


 私は赤鉛筆で、四つの関門をつなぎました。


 出資の履行。


 役員の選任。


 設立事項の調査。


 設立登記。


 会社は、この過程を経て生まれる。


 なるほど。


 単なる暗記項目だと思っていた四つの手続きが。


 一本の線でつながりました。


「ところで、先輩」


「何だ」


「会社が成立したら、発起人はどうなるんですか?」


「どうなるって?」


「株式を引き受けて、出資した人たちです」


「ああ」


 私は現代の会社法を思い出しました。


 会社法第五十条第一項。


 発起人は、株式会社の成立の時に、出資の履行に対応する設立時発行株式の株主となります。


「つまり!」


 私は言いました。


「発起人は、会社が成立したときに株主になるんです!」


「そうだな」


「設立前と設立後では、立場が変わるんですね」


「そうだ」


 野村さんたちは、会社を作るために株式を引き受け、出資しました。


 そして。


 設立登記によって会社が成立したとき。


 その株式について、株主となる。


「だから、発起人が出資したからといって、最初から存在しない会社の株主になっているわけではないんですね」


「そこだ」


 私は頷きました。


 会社がまだ存在しない。


 その段階と。


 会社が法人として成立した後。


 それぞれ、法律関係が違います。


「先輩、これって野村さんの事件にもつながりますね」


「どういうことだ?」


「黒崎さんは、発起人を集めた自分が一番偉いと思っていました」


「ああ」


「でも、会社ができたら、会社の財産は社長個人の財産じゃありません」


「そうだ」


「株主になったからといって、会社のお金を自由に引き出していいわけでもない」


「当然だ」


 私は大きく頷きました。


 発起人。


 株主。


 取締役。


 代表取締役。


 どれも会社に関係する人です。


 でも。


 それぞれ、法律上の権限と責任が違う。


 出資した人だから偉い。


 社長だから偉い。


 会社を作った人だから偉い。


 そんな単純な話ではありません。


「会社って、本当に役割分担が大事なんですね」


 私が言うと、片桐所長が静かに答えました。


「会社は、一人の人間ではない」


「……はい」


「人が集まり、法律に従って動く仕組みだ」


 私は、その言葉をノートに書きました。


「そういえば」


 私は、もう一つ思い出しました。


「設立登記の前に、定款で決めておかなければならないこともありますよね」


 相馬先輩がこちらを見ました。


「何だ?」


「発行可能株式総数です!」


 私はノートに書きました。


 ――発行可能株式総数。


「これは、会社が発行することのできる株式数の上限ですね」


「そうだ」


「現代の会社法では、原始定款に定めていない場合、一定の設立手続を経て、会社成立までに定める必要があります」


 私は説明を続けました。


 現代の発起設立では。


 原始定款に発行可能株式総数を記載していない場合、株式会社の成立までに、発起人全員の同意によって定款を変更し、これを定めなければなりません。


 つまり。


 設立登記の段階で、必要な事項を欠いたままにしてよいわけではありません。


「ただし!」


 私は、自分で声を上げました。


 相馬先輩が驚きます。


「何だよ」


「会社法の規定を昭和六十三年の商法にそのまま当てはめてはいけません!」


「……お前、今、自分で自分に注意してるのか?」


「はい!」


 私は真剣でした。


 会社法という独立した法律ができたのは、平成十七年の制定によるものです。


 施行は平成十八年。


 つまり、二〇〇六年。


 昭和六十三年から見れば、十八年も先の話です。


 その間に、会社の設立制度は変化します。


 用語も。


 手続きも。


 必要な機関も。


 そして、定款の規律も。


 だから。


 現代の会社法で学ぶ発起設立の流れを、昭和の事件にそのまま持ち込むわけにはいかない。


「先輩」


「何だ」


「私、これからは条文番号を見る前に、年代を確認します」


「当然だ」


「昭和六十三年なら商法第二編!」


「そうだ」


「現代なら会社法!」


「そうだな」


「未来の条文を昭和で使わない!」


「それを最初からやれ!」


 ……。


 ごもっともです。


 私はノートを見直しました。


 発起設立。


 募集設立。


 出資の履行。


 現物出資。


 設立時取締役。


 設立事項の調査。


 設立登記。


 そして、株主となる時期。


 ここまで整理して、ふと思いました。


「所長」


「何だ」


「昔の株式会社って、どうしてこんなに作るのが大変だったんでしょう」


 所長は、しばらく考えていました。


「株式会社という仕組みは、大きな力を持つからだ」


「大きな力?」


「人から資金を集め、事業を営む。株主は原則として、会社の債務について出資額を超える責任を負わない」


 私は頷きました。


 株主有限責任。


 株式会社の大きな特徴です。


 株主は、会社の借金を当然に自分の全財産で返すわけではありません。


 だからこそ。


 会社の取引相手にとって、会社の財産や信用が重要になる。


「なるほど……」


 私は呟きました。


「会社が作りやすいことと、債権者を守ること。その両方を考えないといけないんですね」


「そうだ」


 所長が頷きました。


 昔の株式会社制度には、設立や運営について、厳格な仕組みがありました。


 発起人七人以上。


 取締役三人以上。


 監査役一人以上。


 しかし。


 その厳格さが、必ずしも実態に合っていたわけではありません。


 少人数で小さな事業を始めたい人もいる。


 家族だけで会社を経営したい人もいる。


 それなのに、人数をそろえるためだけに名前を借りなければならない。


 実際には経営に関わらない人が、形式上の役員になる。


 そうした問題も起こり得たのです。


「……今回の七人とは逆ですね」


 私が言うと、相馬先輩が頷きました。


「ああ」


 野村さんたちは、本当に七人で会社を作ろうとしていました。


 でも、もし。


 一人の優秀な職人が。


 自分の技術を使って、小さな工場を会社にしたいと思ったら。


 昭和六十三年の株式会社制度では、そのために七人の発起人をそろえなければならない。


「やっぱり大変です」


 私は言いました。


「そうだな」


「でも、それが未来では変わるんですよね」


 相馬先輩が怪訝な顔をしました。


「未来?」


「あ、いえ……」


 私は慌てて笑いました。


「制度は、時代に合わせて変わっていくものなんだなって!」


 そうです。


 その後、日本の会社制度は大きく変わります。


 最低資本金制度の導入と見直し。


 設立時の発起人数に関する規制の緩和。


 そして。


 二〇〇五年の会社法制定、二〇〇六年の施行。


 それまで商法などに分かれていた会社に関する規律が、会社法として再編されます。


 有限会社制度も変わり、新たに合同会社という会社形態が登場します。


 株式会社も、取締役一人で設立できる場合が認められるようになります。


 ただし、会社法の制定によって初めて、すべての簡略化が一度に始まったわけではありません。


 発起人数や最低資本金などについては、会社法制定以前にも段階的な制度変更が行われていました。


 私はノートに書きました。


 ――会社制度は、取引の安全を守りながら、事業を始める自由にも対応してきた。


 そして。


「所長」


「何だ」


「今の会社法って、昔の商法を全部否定したわけじゃないんですね」


「そうだ」


「会社の財産と個人の財産を分けることも、設立手続きを正しく行うことも、大切な考え方として残っている」


 所長が頷きました。


「形が変わっても、守るべきものはある」


 私は、その言葉をしばらく眺めていました。


 窓の外は、もう夕暮れでした。


 私は、今日の内容をまとめ直しました。


 第一の関門。


 出資の履行。


 発起人が、引き受けた株式について、必要な出資を履行する。


 第二の関門。


 設立時取締役等の選任。


 会社の設立に必要な役員を、適法に選ぶ。


 第三の関門。


 設立事項の調査。


 出資や設立手続に問題がないか確認し、問題があれば発起人へ通知する。


 第四の関門。


 設立登記。


 本店所在地における登記によって、株式会社が成立する。


「……できた!」


 私はノートを掲げました。


「先輩!」


「何だ」


「確認問題を出してください!」


「またかよ」


「お願いします!」


 相馬先輩は、仕方なさそうに新聞を置きました。


「じゃあ、いくぞ」


「はい!」


「発起設立と募集設立の違いは?」


「発起設立は発起人が設立時の株式を全部引き受ける方法。募集設立は発起人以外にも引受人を募集する方法です!」


「よし」


「次!」


「現代の発起設立では、発起人は株式を引き受けた後、金銭出資についてどうする?」


「遅滞なく、払込金額の全額を払い込みます!」


「現物出資なら?」


「約束した金銭以外の財産の全部を給付します!」


「土地を現物出資する場合、所有権移転登記を会社成立後にすることはできるか?」


「現代の会社法では、発起人全員の同意があれば、第三者への対抗要件を備えるための登記などを成立後に行うことができます!」


「よし」


 私は拳を握りました。


 相馬先輩が続けます。


「設立時取締役等は、いつ選ぶ?」


「原則として、出資の履行が完了した後、遅滞なく選任します! ただし、定款で定めた場合の特則があります!」


「その選任は?」


「現代の会社法では、原則として発起人の議決権の過半数です!」


「人数か?」


「議決権です!」


「よし」


 私は笑いました。


「次!」


「設立時取締役の役割は?」


「設立に関する事項の調査です!」


「会社成立前に、普通の会社の取締役として自由に業務を執行できるか?」


「できません!」


「調査で問題を見つけたら?」


「発起人に通知します!」


「よし」


 相馬先輩は頷きました。


「じゃあ最後だ」


「はい!」


「株式会社は、いつ成立する?」


 私は大きく息を吸いました。


 そして。


「本店所在地で設立登記がなされたときです!」


 相馬先輩が笑いました。


「正解だ」


 やった!


 私は両手を上げました。


「完璧です!」


「まだ一問あるぞ」


「え?」


 片桐所長が、奥から言いました。


「こはる」


「はい!」


「会社が成立したら、発起人はどうなる?」


「出資の履行に対応する設立時発行株式について、会社成立時に株主になります!」


 所長が頷きました。


「よし」


 私は思わず椅子から立ち上がりました。


 発起設立。


 完全攻略!


 ……と、思ったのですが。


「じゃあ、俺から最後の最後に一問」


 相馬先輩が言いました。


「まだあるんですか!?」


「昭和六十三年の株式会社設立に、会社法第四十六条を使えるか?」


「使えません!」


「なぜだ?」


「まだ会社法が存在しないからです!」


「じゃあ、何を見る?」


「当時の商法第二編です!」


「よし」


 相馬先輩が満足そうに頷きました。


 私は胸を張りました。


「どうですか!」


「まあ、少しは成長したな」


「褒めましたね!」


「少しだけだ」


「十分です!」


 私は笑いました。


 でも。


 今日の勉強で、一番大きかったのは。


 条文番号を覚えたことではありません。


 四つの関門が、それぞれ何を守っているのか。


 その意味が分かったことでした。


 出資の履行は、会社の財産的な土台を確認する。


 役員の選任は、必要な役割を担う人を適法に決める。


 設立事項の調査は、会社が生まれる前に問題を見つける。


 設立登記は、法律上の法人を誕生させる。


 全部。


 つながっているのです。


「そういえば」


 私は、昨日の黒崎の顔を思い出しました。


「先輩」


「何だ」


「あの人、最後はずいぶん小さくなっていましたね」


「ああ」


「最初は『俺が社長だ!』って、あんなに偉そうだったのに」


 相馬先輩が苦笑しました。


「肩書で押し切ろうとする奴ほど、書面を嫌がることがあるからな」


「そうなんですか?」


「書面には、何をしたか残るだろ」


 私は頷きました。


 誰が出資したか。


 誰が払込みを受けたか。


 誰が役員を選んだか。


 誰が調査したか。


 誰が何を承認したか。


 全部。


 書類に残ります。


「だから黒崎さんは、調査報告書にハンコを押させたかったんですね」


「そうだろうな」


「問題なしと書いてしまえば、後から責任を曖昧にできると思ったのかもしれません」


「だが、そうはいかなかった」


 相馬先輩が言いました。


「野村さんが、押さなかったからな」


 私は微笑みました。


 あの百万円。


 野村さんが、二十年間働いて貯めたお金。


 そのお金は、ただの数字ではありません。


 家族との相談。


 独立への決意。


 職人としての誇り。


 そうしたものが詰まっていました。


「先輩」


「何だ」


「法律って、会社を守るだけじゃないんですね」


「どういうことだ?」


「会社を作ろうとしている人の夢も、守っているんだと思います」


 相馬先輩は、少し黙りました。


 それから。


「……まあな」


 短く答えました。


 片桐所長が帳簿を閉じました。


「こはる」


「はい」


「書類は、人のためにある」


 私は顔を上げました。


「人が書類のためにいるんじゃない」


 その言葉が、胸に残りました。


 会社設立の書類。


 定款。


 発起人の同意を示す書類。


 役員選任に関する書類。


 調査報告書。


 登記に必要な資料。


 どれも、ただの紙です。


 でも。


 その紙があるからこそ。


 誰が、どんな意思で、何を決めたのか。


 後から確かめることができる。


 誰かが権限を超えて勝手なことをしても。


 記録をたどれば、問題点が見えてくる。


 法律は。


 その記録に、意味を与えているのです。


 私は、ノートの最後のページを開きました。


 今日の一行。


 何を書こう。


 少し考えました。


 出資。


 選任。


 調査。


 登記。


 四つの言葉を眺めます。


 そして。


 ゆっくり、鉛筆を動かしました。


 ――発起設立は「出して、選んで、調べて、登記」。会社が生まれるのは最後の登記。


「……できた!」


 私はノートを掲げました。


「先輩!」


「何だ」


「今日の覚え書きです!」


 相馬先輩が覗き込みました。


「出して、選んで、調べて、登記……か」


「はい!」


「まあ、分かりやすいな」


「褒めましたね!」


「気のせいだ」


「絶対褒めました!」


 私は笑いました。


 でも。


 この一行は、きっと忘れません。


 七百万円の事件。


 黒崎の大きな態度。


 調査していない報告書。


 そして、野村さんたちが守った新しい会社。


 全部が、この四つの言葉につながっているからです。


 法律の勉強は、不思議です。


 昨日まで暗記していた言葉が。


 誰かの人生に結びついた瞬間。


 急に、忘れられなくなる。


 そんなことがあるのです。


「ところで、こはる」


 相馬先輩が言いました。


「はい?」


「今日の勉強は終わりか?」


「はい!」


「じゃあ、そこの書類を整理しろ」


「え?」


「定款の控えと、議事録の控えを分けておけ」


「……また仕事ですか」


「見習いだろ」


 私は腕を組みました。


「先輩」


「何だ」


「私、今日、会社の設立手続きを全部覚えたんですよ」


「ああ」


「もう会社を作れる気がします!」


「ほう」


「発起人さえ七人集まれば!」


「うん」


「取締役三人と監査役一人も見つければ!」


「そうだな」


「出資金も集めて!」


「うん」


「定款も作って!」


「うん」


「設立手続きを調査して!」


「うん」


「最後に登記すれば!」


 私は勢いよく立ち上がりました。


「私だって、株式会社の社長になれます!」


 相馬先輩が、こちらを見ました。


 そして。


「で?」


「はい?」


「何の商売をするんだ?」


 ……。


 私は固まりました。


「……ええと」


「商品は?」


「……」


「取引先は?」


「……」


「売上げは?」


「……」


「利益は?」


「……」


 私は、ゆっくり椅子に座りました。


「……考えてませんでした」


 相馬先輩が吹き出しました。


「駄目じゃねえか!」


「だって、会社を作る勉強だったんです!」


「会社を作るだけで飯が食えるか!」


「うう……!」


 確かに。


 株式会社の設立登記が完了したからといって。


 自動的に利益が生まれるわけではありません。


 会社は、作って終わりではない。


 そこから事業が始まるのです。


「所長!」


 私は奥に声をかけました。


「何だ」


「私が株式会社を作るとしたら、何の商売が向いていると思いますか?」


 所長は、しばらく考えていました。


 そして。


「法律の勉強を教える仕事はどうだ」


「……!」


 私は目を輝かせました。


「いいですね!」


「ただし」


「はい!」


「まず、自分が試験に受かれ」


「……!」


 相馬先輩が大笑いしました。


「そりゃそうだ!」


「所長まで!」


 私は机に突っ伏しました。


 くっ。


 正論です。


 会社を作る前に。


 まずは行政書士試験。


 そして、見習いとしての仕事。


 まだまだ覚えることは、山ほどあります。


 私は、ゆっくり顔を上げました。


「分かりました!」


「おう」


「まずは行政書士になります!」


「そうしろ」


「それから、会社を作るか考えます!」


「そうだな」


「でも、先輩!」


「何だ!」


「その頃には、発起人一人で株式会社を作れる時代になっているかもしれませんよ!」


 相馬先輩は、しばらく私を見つめていました。


「……お前、そんなに七人集めるのが嫌なのか?」


「嫌です!」


「即答かよ!」


 私は笑いました。


 でも。


 もし本当に、そんな未来が来たら。


 一人の職人でも。


 一人の発明家でも。


 一人の若者でも。


 自分の夢を会社という形にしやすくなる。


 きっと、素敵なことだと思います。


 もちろん。


 その未来でも。


 出資をごまかしていいわけではありません。


 嘘の調査報告書を作っていいわけでもありません。


 会社のお金を、自分の財布のように扱っていいわけでもありません。


 時代が変わっても。


 会社を作る自由と、会社を作る責任は、切り離せないのです。


 私は、ノートの最後の一行をもう一度読みました。


 ――発起設立は「出して、選んで、調べて、登記」。会社が生まれるのは最後の登記。


 よし。


 これなら忘れません。


 窓の外。


 昭和六十三年の町に、工場の明かりが灯っていきます。


 その一つに。


 野村精機株式会社という、新しい名前が加わりました。


 七人の職人が。


 自分たちの手で。


 法律の手続きを守って、生み出した会社。


 その工場では、きっと明日も機械が動くのでしょう。


 誰かの仕事を支えるために。


 誰かの暮らしを支えるために。


 そして。


 自分たちの夢を、少しずつ形にするために。


「こはる!」


 相馬先輩の声が飛びました。


「はい!」


「ノート見てねえで書類を片付けろ!」


「今、学習内容を復習してたんです!」


「復習は後だ!」


「先輩!」


「何だ!」


「会社設立にも順序があるように、私の仕事にも順序があるんです!」


「ほう?」


「まず、勉強!」


「うん?」


「次に、お茶!」


「おう?」


「それから、お菓子!」


「……」


「最後に、書類整理です!」


 相馬先輩は、静かに立ち上がりました。


 そして。


「こはる」


「はい!」


「その順序は、誰が決めた?」


「……私です」


「所長は了承したか?」


「……してません」


「じゃあ、勝手に決めるな!」


「ひええっ!」


 私は慌てて書類の束を抱えました。


 なるほど。


 会社設立も、事務所の仕事も。


 自分一人の気分で、好き勝手に順序を決めていいわけではないようです。


 残念ながら。


 私の「お菓子優先決議」は、所長の承認を得られませんでした。


 もっとも。


 事務所の仕事の順番と、株式会社の設立手続きは、法律上まったく別の話ですけれど。


 ……とりあえず。


 今日の私は。


 会社を作る前に。


 目の前の書類を、きちんと片付けることにします。


 だって。


 七人の発起人が集めた七百万円ですら、手続きを飛ばして自由に扱うことはできなかったのです。


 見習いの私が。


 所長の仕事を飛ばしてお菓子を食べるのは。


 どうやら、もっと難しいようなのでした。

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