[会社法・発起設立の手続き]現場編 「ハンコが七つあれば会社はできる」の嘘。消えた七百万円と、社長になれなかった男の誤算
会社は、ハンコを集めただけでは生まれません。
七人の名前。
七つの実印。
立派な定款。
そして、社長になるという夢。
全部そろっていても。
肝心のお金がなければ。
その会社は、まだ生まれてはいけないのです。
昭和六十三年。
片桐行政書士事務所。
その日、私は一つの疑問を抱くことになります。
会社は、いつから会社になるのか。
定款を作ったとき?
出資金を集めたとき?
取締役を決めたとき?
それとも。
社長が「今日から俺の会社だ!」と宣言したとき?
答えは、もちろん最後ではありません。
ところが。
本当に最後だと思っている男が、現れたのです。
「私の百万円が、消えたんです」
朝九時。
事務所を訪れた男性は、両手で茶碗を握りしめていました。
名前は、野村修一さん。
三十八歳。
町工場で二十年間、精密機械の部品を作ってきた職人です。
「百万円……ですか?」
私は思わず聞き返しました。
「はい。会社を作るために出したお金です」
「会社?」
「仲間七人で、株式会社を設立する予定だったんです」
私は顔を上げました。
株式会社。
来ました。
商法・会社法の大本命。
会社の設立です!
「どんな会社ですか?」
「野村精機株式会社。小さな工場ですが、自分たちの技術で仕事を受けようと思って」
野村さんは鞄から一枚の図面を取り出しました。
金属部品。
複雑な歯車。
精密な寸法が書き込まれています。
「大手の下請けばかりでは、いつまでたっても自分たちの仕事ができません。だから、仲間と独立することにしたんです」
私は頷きました。
夢のある話です。
職人たちが力を合わせ、自分たちの会社を作る。
ところが。
「代表になるはずだった男が、金を返してくれないんです」
「……え?」
「会社はまだできていないのに、俺が社長だから金は俺のものだと言い出して」
……。
嫌な予感がしました。
「その方のお名前は?」
「黒崎剛志です」
四十五歳。
地元の機械商社で営業部長をしていた男。
口がうまく、取引先も多い。
七人の発起人を集めたのも、この黒崎でした。
「黒崎さんは、一人百万円ずつ集めました」
「七人ですから……七百万円?」
「はい」
私は計算しました。
七人。
一人百万円。
合計七百万円。
「それで、その七百万円は?」
「黒崎が、機械の購入や取引先への手付金に使ったと言うんです」
「えっ!」
私は椅子から浮き上がりました。
「もう使っちゃったんですか!?」
「はい」
「でも、会社はまだ設立していないんですよね?」
「そうなんです」
野村さんは唇を噛みました。
「私は、会社のためなら百万円くらい出せると思いました。妻とも相談して、貯金を崩したんです」
「……はい」
「でも、会社ができる前から金がなくなっているなんて」
その声が震えました。
「こんなことで、本当に株式会社なんて作れるんでしょうか」
私は言いました。
「大丈夫です。会社設立には、きちんと手続きがあります!」
よし。
今回こそ。
現代の会社法の知識が役立ちます!
「まず、発起設立ですね!」
「ほっき……?」
「発起設立です。発起人が設立時に発行する株式を全部引き受ける方法です!」
野村さんが頷きました。
「ええ。その予定です」
「では、発起人が出資をして、設立時取締役を選任して、その人たちが設立手続きを調査して、最後に設立登記です!」
私は指を折って数えました。
一。
出資の履行。
二。
設立時取締役等の選任。
三。
設立事項の調査。
四。
設立登記。
「この順序を確認すれば、問題点が見えてくるはずです!」
「本当ですか!」
「はい!」
私は勢いよく続けました。
「それに、現代なら発起人一人、取締役一人でも株式会社を作れるんですから、七人も集めなくても――」
「待て」
相馬先輩の声が飛びました。
……あ。
私は固まりました。
「こはる」
「はい」
「今、何て言った?」
「発起人一人でも……」
「株式会社を?」
「……」
相馬先輩は机の上の六法を叩きました。
「昭和六十三年だぞ」
「ですよね!」
「何が『ですよね』だ!」
しまった。
またやりました。
現代の会社法。
未来の法律。
ここは昭和六十三年。
まだ、会社法という独立した法律はありません。
株式会社のルールは、商法第二編。
有限会社は、有限会社法。
そして。
「株式会社の発起人は七人以上必要だ」
相馬先輩が言いました。
「はい……」
「取締役も三人以上。監査役も必要だ」
「はい……」
「お前の言う一人会社は、どこの国の話だ?」
「……遠い未来の日本です」
「は?」
「いえ、何でもありません!」
危ない。
未来人の正体がばれるところでした。
私は慌てて話を戻しました。
「それにしても、七人必要なんですね」
「そうだ」
「現代なら一人でできるのに……」
「だから、何度言わせる!」
相馬先輩が額を押さえました。
「しかも、今回の七人は名義だけの頭数合わせじゃねえ。自分の金を出して会社を作ろうとした連中だ」
「……そうですね」
私は野村さんを見ました。
確かに。
七人という数は同じでも。
名前だけ貸した七人と。
本当に百万円ずつ出した七人では。
まったく意味が違います。
片桐所長が、ようやく口を開きました。
「野村さん」
「はい」
「定款はありますか」
「あります」
「払込みを証明する書類は?」
「それも……」
野村さんは鞄から封筒を取り出しました。
所長が受け取ります。
中には。
定款の写し。
発起人の氏名一覧。
株式引受関係の書類。
役員の選任に関する書類。
そして。
銀行の預金残高を示す紙が一枚。
私は目を見開きました。
「……七百万円?」
「そうです」
「ちゃんと入っているじゃないですか!」
ところが。
片桐所長は、その紙を見ても表情を変えませんでした。
「いつの残高ですか」
「先月です」
「今は?」
「……分かりません」
所長は静かに言いました。
「では、まだ確認できていません」
……。
なるほど。
昔、一度お金があったこと。
今も、設立に必要な払込みが適法に履行されていること。
それは、同じではありません。
そして。
所長は、もう一枚の紙を取り上げました。
「これは誰が作りましたか」
「黒崎です」
それは、設立手続の調査報告書の原案でした。
取締役となる予定の三人。
そして監査役となる予定の一人。
氏名が印字されています。
その下には。
――出資の履行及び設立手続に問題がないことを確認した。
と書かれていました。
「……え?」
私は首をかしげました。
「まだ調査していないのに、確認したことになってる?」
野村さんが頷きました。
「黒崎は、これにハンコを押せと言っています」
「誰にですか?」
「取締役になる三人と、監査役になる一人にです」
「野村さんも?」
「はい。私は取締役になる予定ですから」
私は紙を見つめました。
つまり。
七百万円がどうなったのか分からない。
それなのに。
問題なしと書かれた調査報告書に、ハンコを押せと言われている。
……これは。
かなり危険なのでは?
「所長」
私は言いました。
「これ、会社を作る前に止めないとまずいですよね」
片桐所長が頷きました。
「そうだ」
そして、一言。
「この会社は、まだ生まれていない」
私は、その意味を考えました。
まだ生まれていない。
けれど。
七人の財産だけが、先に消えようとしている。
これは。
会社設立という名前を借りた、別の事件かもしれません。
翌日。
黒崎剛志が事務所に現れました。
灰色のダブルスーツ。
金色の腕時計。
磨き上げられた革靴。
いかにも景気のいい実業家です。
「おう。ここが片桐事務所か」
黒崎は、断りもなく応接椅子に腰を下ろしました。
「野村の奴が、余計な相談をしたそうじゃないか」
私はお茶を運びながら、顔をしかめました。
……余計な相談?
自分の百万円が消えたかもしれないんですけど。
「黒崎さん」
片桐所長が言いました。
「何のご用でしょう」
「会社設立の書類を、さっさと完成させてほしくてな」
黒崎は分厚い封筒を机に置きました。
「定款もある。ハンコもそろえた。役員も決めた。あとは登記するだけだろ?」
「払込みについて確認が必要です」
「したよ」
「どのように?」
「銀行に七百万円を入れた」
「現在、その金銭は?」
黒崎は笑いました。
「使った」
……。
あっさり言いました。
「使ったんですか!?」
私が聞くと、黒崎は肩をすくめました。
「会社を作るのには金がいるんだよ、お嬢ちゃん」
「でも、そのお金は発起人が株式を引き受けるために出したものでしょう?」
「だから何だ」
「会社設立のための出資金ですよね?」
黒崎は机を指で叩きました。
「いいか。七人を集めたのは俺だ」
「はい」
「仕事を取ってきたのも俺だ」
「はい」
「会社の代表になるのも俺だ」
「……はい」
そして。
黒崎は、にやりと笑いました。
「つまり、会社の金は俺の金だ」
……。
出ました。
悪徳社長の決まり文句。
会社の金は俺のもの。
いや。
まだ社長ですらありませんけど!
「違います!」
私は思わず言いました。
「え?」
「会社の財産と、社長個人の財産は別です!」
黒崎の眉が動きました。
「何を言ってる」
「それ以前に、まだ会社が成立していません!」
「だから?」
「会社の設立には、ちゃんと順序があるんです!」
私は六法を開こうとしました。
……会社法三十四条。
出資の履行。
会社法三十八条。
設立時取締役の選任。
会社法四十六条。
設立事項の調査。
会社法四十九条。
設立登記。
頭の中には、条文番号まで浮かんできます。
でも。
ここは昭和六十三年。
この会社法の条文は、まだ存在しません。
「うう……!」
私は六法の前で固まりました。
「どうした、お嬢ちゃん」
「い、いえ……」
相馬先輩が横から言いました。
「こはる」
「はい」
「未来の条文を探してる暇があったら、今の商法を開け」
「はい!」
私は慌てて商法の会社編を開きました。
黒崎は鼻で笑いました。
「何だよ。法律も分かってねえのか」
くっ。
悔しい。
でも。
相馬先輩は、まったく動じませんでした。
「黒崎さん」
「あ?」
「あなたは、今、野村精機株式会社の社長ですか」
「そうだ」
「登記は?」
「これからだ」
「つまり、まだ会社は成立していませんね」
「だから、書類を持ってきてるんだろ!」
「では、その七百万円は、誰の判断で使ったんです?」
「俺だよ!」
黒崎が胸を張りました。
「代表になる俺が決めたんだ!」
相馬先輩は、静かに言いました。
「会社がまだ成立してねえのに、会社の社長として金を使ったって?」
「……何?」
「おかしな話ですねえ」
黒崎の笑顔が、少し消えました。
「会社ができる前の設立事務は、発起人の仕事です」
「俺も発起人だ!」
「ええ。だから、発起人として何をしたのか聞いてるんですよ」
相馬先輩は書類を一枚持ち上げました。
「会社が成立した後の取締役と、成立前の発起人は、同じ立場じゃありません」
私は、はっとしました。
そうです。
ここが大事。
設立時の取締役に選ばれたからといって。
まだ存在しない会社の通常の業務を、何でも自由に執行できるわけではない。
会社成立前の設立手続。
会社成立後の経営。
この二つは区別しなければなりません。
「それに」
相馬先輩が続けました。
「七百万円を何に使ったのか、証拠はありますか」
「機械の手付金だ」
「契約書は?」
「……ある」
「領収書は?」
「……探せばある」
「取引先は?」
「それは企業秘密だ!」
相馬先輩が笑いました。
「企業秘密ねえ」
そして。
笑顔を消しました。
「会社の金だと言うなら、その会社がいつ成立したか示してもらいましょうか」
黒崎が黙りました。
「発起人の金だと言うなら、誰のために、何の権限で支出したか説明してください」
「……」
「どちらにしても、『俺が社長になるから俺の金だ』では通りませんよ」
黒崎の頬が、ぴくりと動きました。
でも。
「ふん」
男は再び笑いました。
「お前ら、行政書士だろ?」
「そうですが」
「弁護士じゃねえなら、俺と裁判もできねえだろ」
「そのとおりです」
相馬先輩は、あっさり認めました。
「じゃあ黙ってろ!」
「ただし」
相馬先輩が、調査報告書の原案を指差しました。
「この書類に問題があることは、指摘できます」
「……何?」
「しかも、かなり重大な問題です」
黒崎の目が細くなりました。
「何が問題だ」
相馬先輩は、報告書の一行を指で叩きました。
――出資の履行及び設立手続に問題がないことを確認した。
「まだ確認してねえでしょう」
「……」
「確認してねえことを、確認したと書く」
「……」
「しかも、取締役と監査役になる人間に、調査済みとしてハンコを押させようとしている」
黒崎の額に、汗が浮かびました。
「それがどうした」
「調査した事実がないなら、そんな報告はできません」
相馬先輩の声が低くなりました。
「社長が一番偉いんじゃねえ」
そして。
「商法を守った奴が、会社を作れるんだよ」
事務所が静まり返りました。
黒崎は、しばらく黙っていました。
やがて。
「……まあ、いい」
そう言って立ち上がりました。
「役員は俺の言うことを聞く。設立の書類も、いずれ全部そろう」
「そうですか」
「お前らが協力しなくても、ほかに頼むさ」
黒崎は笑いました。
「何せ、実印は七つあるんだからな」
……。
七つの実印。
それが、彼の自信の根拠でした。
「それにな」
黒崎は最後に言いました。
「出資した金は、もう俺の管理下にある。返してほしけりゃ、勝手に裁判でも起こせ」
私は思わず拳を握りました。
でも。
相馬先輩が私の肩を押さえました。
「こはる」
「……はい」
「追うな」
「でも!」
「相手の言い分は聞いた」
黒崎が帰っていきます。
私は悔しくてたまりませんでした。
「先輩!」
「何だ」
「あの人、完全に開き直ってますよ!」
「そうだな」
「どうするんですか!」
相馬先輩は煙草を一本取り出しました。
「書類にする」
「……書類?」
「そうだ」
片桐所長が、静かに口を開きました。
「こはる」
「はい」
「設立の順序を、書いてみろ」
私は頷きました。
そして、紙に四つの項目を書きました。
一、出資の履行。
二、役員の選任。
三、設立事項の調査。
四、設立登記。
「これです!」
所長は頷きました。
「では、今回、どこで止まっている」
私は紙を見ました。
最初。
出資の履行。
「……一番目です」
「そうだ」
「実際の払込みがどう処理されたのか、確認できていません」
「うん」
「それなのに、役員の調査報告書には問題なしと書こうとしている」
「そうだ」
所長が言いました。
「順序には理由がある」
私は顔を上げました。
「出資が確かに履行されたか。役員が適法に選ばれたか。設立の手続に問題がないか」
「はい」
「それを確認してから、会社として成立させる」
なるほど。
ただの面倒な手続ではありません。
会社を作るということは。
第三者と取引する、新しい法人を世の中に誕生させることです。
その会社が、最初から嘘だらけだったら。
信用して取引する人が困ってしまう。
「所長」
「何だ」
「これって、未来の取引先を守るための仕組みでもあるんですね」
所長が頷きました。
「そうだ」
私は、少し胸が熱くなりました。
七人の職人。
七百万円。
独立の夢。
その全部を。
たった一人の男の欲望で、壊させてはいけません。
その日の午後。
私たちは、野村さんから追加の資料を預かりました。
七人の発起人が、いつ、いくら出したのか。
誰が払込先を指定したのか。
銀行への入金は、どのように行われたのか。
そして。
黒崎から受け取った、資金の使用明細。
「……あれ?」
私は、ある項目で手を止めました。
――営業準備費 三百万円。
「先輩」
「何だ」
「この三百万円、内訳がありません」
「ああ」
「機械の手付金とも書いていないですね」
「そうだな」
「なのに、支払先が……」
私は目を凝らしました。
――黒崎商事。
「……黒崎商事?」
相馬先輩の目が細くなりました。
「黒崎が個人でやってる商売の屋号だ」
「えっ!」
私は思わず立ち上がりました。
「自分の商売に三百万円!?」
「まだ断定するな」
「あ……」
「送金先が黒崎商事だったことと、私的に流用したことは、同じじゃねえ」
「はい……」
危ない。
また勢いで決めつけるところでした。
「ただし」
相馬先輩は明細を指差しました。
「説明を求めるには十分な事実だ」
そして、もう一枚。
野村さんが持参した手書きのメモ。
そこには、こう記されていました。
――黒崎より、設立手続終了まで資金を預かるとの説明あり。
――発起人全員が一時預託に同意。
――会社設立以外の目的に使用しないとの約束あり。
「……!」
私は息を呑みました。
約束があった。
しかも。
七人全員の前で。
資金の使用目的を限定していた。
それなのに。
黒崎は、自分の商売の名義へ三百万円を送っていた。
「先輩」
「何だ」
「これは、かなり重要な証拠ですね」
「ああ」
「でも、設立の払込みそのものと、黒崎への預託は、分けて調べる必要がありますよね」
相馬先輩が、こちらを見ました。
「ほう」
「会社設立の払込みが適法に完了したかどうかと、預かったお金を不当に使ったかどうかは、別の問題です」
「そうだ」
「一度銀行に入金したからといって、後で何をしてもいいわけじゃない。でも、残高が減っただけで、最初の払込みまで当然に無かったことになるとは限らない」
先輩は、にやりとしました。
「やっと分かってきたじゃねえか」
「褒めました?」
「まだだ」
「またそれですか!」
でも。
今回の問題は、明らかになってきました。
発起人から集めた七百万円。
そのうち三百万円の送金先は、黒崎自身の商売。
支出の根拠となる契約書も、領収書も、まだ示されていない。
さらに。
調査前の段階で、問題なしと記載された報告書。
これらを。
一つずつ、書面にします。
「こはる」
片桐所長が言いました。
「内容証明の原案を作れ」
「はい!」
「ただし、相手が犯罪をしたと決めつけるな」
「はい」
「払込みが無効だったとも、現段階では断定するな」
「はい」
「確認できた事実と、求める回答を分けろ」
私は頷きました。
内容証明郵便。
行政書士の武器。
でも。
相手を脅すためのものではありません。
依頼人本人の意思に基づき、通知する事実や意思表示を、正確な文章にする。
そのための書類です。
「差出人は?」
所長が聞きました。
「野村修一さんです」
「そうだ」
「ほかの発起人の方々については?」
「本人の意思確認が済んでいる範囲で対応する。勝手に七人全員の名前を使うな」
「はい!」
私は、野村さんの署名した委任関係の書類と事実確認書を見直しました。
そして。
書き始めました。
三時間後。
机の上に、内容証明郵便の原案が完成しました。
宛先。
黒崎剛志。
差出人。
野村修一。
私は、ゆっくり読み上げました。
「第一。通知人は、野村精機株式会社の発起設立に際し、発起人として百万円を拠出し、貴殿の指定に従い、その金銭を設立手続のために預託した」
「うん」
「第二。貴殿は、預託を受けた資金につき、会社設立の目的以外には使用しない旨を説明していた」
「うん」
「第三。貴殿が提示した資金使用明細には、黒崎商事を支払先とする三百万円の支出が記載されているが、当該支出の目的、契約関係及び根拠資料は明らかにされていない」
相馬先輩が頷きました。
「続けろ」
「第四。本件会社は、現時点において設立登記がなされておらず、株式会社として成立していない」
「うん」
「第五。設立に際して必要となる株式の引受け及び払込みの履行状況、取締役及び監査役の選任並びに設立手続の調査について、確認を要する事項が残されている」
私は一度、息を吸いました。
「第六。通知人は、出資金の管理及び使用状況について、関係する銀行資料、契約書、領収書その他の根拠資料を示したうえで、書面による説明を求める」
相馬先輩が言いました。
「最後だ」
「はい」
私は読みました。
「第七。通知人は、事実確認を欠いた調査報告書への署名押印には応じない。また、説明がなされない場合には、弁護士への相談のうえ、預託金の返還請求その他の法的措置を検討する」
読み終わりました。
事務所は静かでした。
「どうでしょう」
私は聞きました。
片桐所長は、原案を受け取りました。
そして。
赤鉛筆を取りました。
……出た。
恐怖の赤鉛筆。
「ここだ」
「はい」
「『払込みが完了していない』とは書いていないな」
「はい」
「理由は?」
「銀行資料をすべて確認できていないからです」
「そうだ」
「それから、資金の支出が不適切だったとしても、払込みの履行に関する問題と、資金管理の責任は分けて考える必要があります」
所長が頷きました。
「よし」
……!
赤鉛筆が。
動きませんでした。
「所長!」
「何だ」
「今日は、赤線なしですか!?」
「まだある」
「あるんですか!」
所長が一か所を指差しました。
「説明を求める期限だ」
「あ」
「何日以内に回答を求めるのか、本人の希望を確認して明記しろ」
「はい!」
私は慌てて書き足しました。
そして。
相馬先輩が最後に、もう一枚の書面を差し出しました。
「これも必要だ」
「何ですか?」
「調査報告書に署名しない理由を、野村さん本人の意思で明らかにする書面だ」
私は目を見開きました。
「つまり……」
「そうだ」
相馬先輩が言いました。
「黒崎が勝手に『役員は全員了承した』と言えないようにする」
なるほど。
こちらが必要な調査を求めていたこと。
確認していない事項について、問題なしとは認めなかったこと。
その記録を残す。
会社設立の手続きでは。
ハンコを押した事実だけでなく。
なぜ押さなかったのかも、大切な証拠になるのです。
内容証明郵便が発送されて、三日後。
黒崎から、野村さんのもとへ電話が入りました。
『おい! あの書面は何だ!』
野村さんは、後でその電話の内容を教えてくれました。
「出資金の使い道を確認したいだけです」
『俺を信用できねえのか!』
「信用するためにも、資料を見せてください」
『会社ができなくなるぞ!』
「それなら、できるまで待ちます」
『何だと!?』
「お金がどこにあるか分からないまま、会社を作ることはできません」
野村さんの声は、震えていたそうです。
けれど。
最後まで言い切りました。
そして。
翌朝。
黒崎が、再び事務所に現れました。
今度は。
顔色が悪い。
「……片桐さん」
最初の威勢は、ありませんでした。
「野村と話をした」
片桐所長は頷きました。
「そうですか」
「弁護士にも相談した」
「はい」
「……あの三百万円について、説明が必要だと言われた」
私は息を呑みました。
黒崎は、鞄から書類を取り出しました。
黒崎商事への送金記録。
契約書の写し。
そして、数枚の領収書。
「これは……?」
黒崎は、苦しそうに言いました。
「会社用の機械を買うためだった」
相馬先輩が資料を見ます。
「契約相手は黒崎商事になってますね」
「……ああ」
「野村精機株式会社じゃありませんね」
「まだ会社ができていなかったから……」
「では、その取引について発起人の皆さんには、どう説明していたんです?」
黒崎は黙りました。
沈黙。
長い沈黙。
そして。
「……説明していなかった」
私は、思わず息を止めました。
「黒崎商事が持っている中古機械を、新会社に買わせるつもりだった」
相馬先輩の目が細くなりました。
「なるほど」
「だが、値段は……」
「値段は?」
「……俺が決めた」
黒崎はうつむきました。
「発起人たちには、言っていなかった」
片桐所長が、静かに言いました。
「つまり、あなた自身が関係する取引だったわけですね」
「……はい」
「それを、ほかの発起人には十分に説明していなかった」
「はい」
「定款や設立手続における扱いも含め、確認が必要になります」
黒崎は、額の汗を拭いました。
「弁護士にも……言われました」
そして。
小さな声で続けました。
「このまま、何も問題がないように書類を作って登記を進めるのは、危険だと」
私は黒崎を見ました。
あの男が。
会社の金は俺のものだと笑っていた男が。
今は、机の上の書類を怖がっている。
「……それで」
黒崎は言いました。
「三百万円は、元の資金管理先へ戻した」
「……!」
私は目を見開きました。
「本当ですか?」
「銀行の記録も持ってきた」
黒崎は書類を差し出しました。
相馬先輩が確認します。
「入金記録はありますね。ただし、これで設立手続が全部適法になったとは限りません」
「分かってる」
黒崎は力なく頷きました。
「残りの支出についても、資料を整理する」
そして。
「……野村たちに、全部説明する」
所長は、短く言いました。
「それが先です」
黒崎が顔を上げました。
「片桐さん」
「はい」
「会社ってのは……」
男は、しばらく言葉を探していました。
「社長になる人間が、全部決められるもんじゃないんだな」
片桐所長は、静かに答えました。
「会社は、社長の財布ではありません」
その一言で。
黒崎は、何も言えなくなりました。
その後。
黒崎は、発起人七人に対し、資金の使用状況を書面で説明しました。
黒崎商事との取引についても、改めて資料が確認されました。
その結果。
発起人たちは、黒崎を設立後の代表者に据える計画を見直すことにしました。
ただし。
ここで、大事なことがあります。
黒崎が嫌な人物だからといって。
ほかの発起人が、勝手に名前を消せるわけではありません。
発起人としての地位。
株式の引受け。
出資の履行。
役員の選任。
それぞれ、必要な手続きを踏まなければならないのです。
「……面倒ですね」
私が呟くと、相馬先輩が言いました。
「面倒だから、意味があるんだよ」
「え?」
「誰か一人の気分で、会社の仕組みをひっくり返せたら困るだろ」
「……確かに」
「出資した奴にも、役員になる奴にも、守るべき手続きがある」
片桐所長も頷きました。
「最初から、間違った土台に会社を建てるな」
その言葉を聞いて。
私は、野村さんの図面を思い出しました。
精密な歯車。
寸法。
公差。
ほんの少しのずれが、大きな機械の故障につながる世界。
会社も、同じなのかもしれません。
一つの手続きを飛ばす。
一つの調査を省く。
一枚の書類に、事実と違うことを書く。
その小さなずれが。
いつか、大きな損害になる。
だから。
会社設立には、順序があるのです。
さらに数週間後。
野村さんが事務所に来ました。
今日は、以前とは違う顔でした。
明るい。
少し日焼けした顔に、笑みが浮かんでいます。
「先生。ようやく、設立の準備が整いました」
私は思わず立ち上がりました。
「本当ですか!」
「はい」
七人の発起人は、資金関係を整理し直しました。
役員についても、必要な選任手続きをやり直しました。
取締役となる三人。
監査役となる一人。
今度は、形だけのハンコではありません。
それぞれが、自分の役割を理解したうえで、必要な書類に署名しました。
そして。
設立に関する調査も行われました。
「出資の履行は?」
私が聞くと、野村さんが答えました。
「資料をそろえて確認しました」
「役員の選任は?」
「手続きを済ませました」
「設立事項の調査は?」
「問題点を整理して、必要な対応を済ませました」
私は頷きました。
「では、最後は……」
野村さんが笑いました。
「設立登記です」
そう。
最後。
設立登記。
株式会社は、本店所在地で設立の登記がなされることで成立します。
定款があるだけでも。
資金が集まっただけでも。
取締役が決まっただけでも。
まだ、会社は成立していません。
その全部を整え。
最後に登記する。
そこで初めて。
株式会社という法人が誕生するのです。
なお、登記申請そのものは、司法書士などの専門職が担当する分野です。
片桐事務所では、定款や議事録などの書類作成を支援し、登記手続きは司法書士へ引き継ぎました。
そして。
数日後。
一通の知らせが届きました。
――野村精機株式会社。
設立登記完了。
「……!」
私は、その文字を見つめました。
「所長!」
「何だ」
「会社ができました!」
「ああ」
「本当に、できたんですね!」
相馬先輩が笑いました。
「お前が作ったみてえな顔してるな」
「だって、嬉しいじゃないですか!」
私は野村さんを見ました。
野村さんは、登記事項を確認できる書類を両手で持っていました。
そして。
静かに頭を下げました。
「ありがとうございました」
私は慌てました。
「そんな! 私たちは書類を整えただけです!」
野村さんは、首を横に振りました。
「その書類がなかったら、私たちは何も分からないまま、ハンコを押していたと思います」
「……」
「自分たちで作る会社なのに、自分たちが何をしているのか、分かっていなかったんです」
その声には、もう迷いがありませんでした。
「今度は、ちゃんと分かります」
野村さんは微笑みました。
「この会社は、七人で作った会社なんです」
私は、胸が熱くなりました。
七人。
昭和六十三年の株式会社設立では、必要だった人数。
でも。
この七人は、単なる頭数ではありません。
それぞれが。
働き。
貯金し。
夢を持ち。
自分の意思で、会社を作ったのです。
その日の夕方。
私は、机の上に四つの言葉を書いていました。
出資の履行。
役員の選任。
設立事項の調査。
設立登記。
「相馬先輩」
「何だ」
「今日、会社の設立が少し好きになりました」
「また変なこと言い出したな」
「だって、最初は面倒なだけだと思ってたんです」
「何が」
「七人集めるとか、取締役三人とか、監査役とか」
「ああ」
「現代なら、もっと簡単なのにって」
相馬先輩は煙草をくわえました。
「まあ、昔の制度にも面倒なところはあるだろうな」
「はい」
私は頷きました。
この時代の株式会社は、設立のための人数も多い。
手続きも複雑。
名義だけ貸す人。
形だけ役員になる人。
そうした問題も生まれやすい。
現代では、その後の法改正によって、株式会社の設立はずっと柔軟になります。
発起人一人。
取締役一人。
資本金一円からでも設立できる。
もちろん、現実に事業を続けるには相応の資金が必要ですが。
少なくとも。
法律上、七人集めないと株式会社を作れない時代ではなくなるのです。
でも。
「先輩」
「何だ」
「手続きが簡単になることと、何をしてもいいことは違いますよね」
相馬先輩が、こちらを見ました。
「当たり前だろ」
「ですよね!」
私は笑いました。
どれほど会社を作りやすくなっても。
出資したお金をごまかしていいわけではない。
設立の手続きを調べなくていいわけでもない。
嘘の書類で、会社を誕生させていいわけでもない。
そこには。
時代が変わっても守るべきものがあるのです。
「所長」
私は言いました。
「会社って、登記するまでは本当に会社じゃないんですね」
「そうだ」
「定款を作っても?」
「ああ」
「お金を集めても?」
「ああ」
「社長が『俺が社長だ!』って叫んでも?」
片桐所長が、こちらを見ました。
「なおさらだ」
「ですよね!」
相馬先輩が吹き出しました。
「そりゃそうだ!」
私は笑いました。
でも。
その笑いの向こうで。
野村精機株式会社という新しい会社が、今日も準備を進めています。
七人の職人。
七百万円。
そして。
一度は、奪われかけた夢。
それを守ったのは。
大きな声でも。
立派なスーツでも。
社長という肩書でもありませんでした。
出資の履行を確かめること。
役員を適法に選ぶこと。
設立の手続きを調査すること。
そして、登記すること。
その一つ一つだったのです。
「ところで、こはる」
相馬先輩が言いました。
「はい?」
「もしお前が株式会社を作るなら、どうする?」
「私ですか?」
「ああ」
私は少し考えました。
「まず、発起人を七人集めます!」
「そうだな」
「取締役を三人、監査役を一人!」
「うん」
「そして、出資金をきちんと集めて、定款を整えて……」
「よし」
「最後に登記です!」
「まあ、細かい手続きはまだあるが、大筋はそうだ」
私は得意になりました。
「でも、先輩」
「何だ」
「一つ問題があります」
「何だよ」
「私、七人も集められません」
……。
相馬先輩が、煙草を落としかけました。
「お前なあ!」
「だって! そんなに知り合いがいません!」
「知らねえよ!」
「現代なら一人で作れるのに!」
「また未来の話か!」
私は両手を広げました。
「じゃあ、合同会社にします!」
「ごうどうがいしゃ?」
相馬先輩が首をかしげました。
「何だそれ」
……。
しまった。
またです。
合同会社。
これも、昭和六十三年には存在しない会社形態。
現代の会社法によって導入される、未来の制度です。
「……忘れてください」
「何をだよ!」
「今の発言を!」
相馬先輩が額を押さえました。
「お前、たまに本当に変なこと言うな」
「すみません……」
そこへ。
片桐所長が、奥から静かに言いました。
「こはる」
「はい!」
「会社を作りたいのか」
「え?」
「七人集める前に、考えることがある」
「何でしょう」
所長は、帳簿を閉じました。
「何のために会社を作る」
私は、黙りました。
何のために。
確かに。
株式会社を作ること自体が、目的ではありません。
野村さんたちも。
株式会社という名前が欲しかっただけではない。
自分たちの技術で仕事をしたかった。
自分たちの手で、製品を作りたかった。
そのために、会社という仕組みを選んだのです。
「……仕事をするためです」
私は答えました。
片桐所長が頷きました。
「なら、まず仕事を考えろ」
相馬先輩が笑いました。
「そういうことだ。お前が会社を作って何をするんだ?」
「それは……」
私は少し考えました。
そして。
「法律を使って、人を助ける会社です!」
相馬先輩が、ぽかんとしました。
「……行政書士事務所で働いてるだろ、お前」
「あ」
「今やってることじゃねえか!」
「本当ですね!」
事務所に笑い声が響きました。
窓の外。
昭和六十三年の町に、夕暮れが降りていきます。
どこかの工場では。
今日も機械が動いているのでしょう。
野村さんたちが作る、新しい部品。
その部品が、いつか誰かの暮らしを支える。
会社を作るということは。
ただ、法人を一つ増やすことではありません。
誰かの仕事を。
誰かの生活を。
誰かの未来を。
一つの仕組みにして、社会へ送り出すことなのです。
私は、机の上の書類を見つめました。
そこには。
七人の名前がありました。
七つの意思がありました。
そして。
ようやく生まれた、一つの会社がありました。
私は、そっとノートを閉じました。
今日の教訓。
会社は、名乗っただけでは生まれない。
出資し。
人を選び。
調べ。
登記する。
その順序を守って、初めて法人になる。
そして。
どれほど立派な社長でも。
まだ生まれていない会社の金を、自分の財布だと言い張ることはできないのです。
「相馬先輩!」
「今度は何だ!」
「株式会社って、赤ちゃんみたいですね!」
「は?」
「生まれるまでに、いろいろ準備が必要ですから!」
「例えが雑だな!」
「でも、生まれたら責任を持って育てないといけません!」
相馬先輩は、しばらく私を見ていました。
それから。
「……まあ、それはそうかもな」
小さく笑いました。
私は嬉しくなりました。
会社法。
いえ。
今は、商法第二編。
その古くて堅苦しい条文の中にも。
新しい事業を始めようとする人たちを守る、大切な仕組みがある。
私は今日。
それを、七百万円の事件から学んだのです。
ただし。
もし将来、私が株式会社を作るなら。
発起人七人は、やっぱり多すぎると思います。
……できれば。
一人で作れる時代まで、待ちたいところです。
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