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こはる行政書士見習帖 〜 昭和に転生して許認可に振り回されると試験知識が骨身にしみます 〜  作者: 条文小説
〈商法・会社法 配点20点/300点〉 株式会社の設立

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608/614

[会社法・株式会社の設立]法理編 こはるノート

挿絵(By みてみん)

 会社を作るために、一番大切な書類は何でしょうか。


 登記申請書?


 株式の申込書?


 それとも、社長の名前が書かれた書類?


 いいえ。


 まず覚えたいのは。


 ――定款。


 会社の基本的なルールを定めた書類です。


 でも。


 この定款には、三つの秘密があります。


 絶対に書かなければならないこと。


 書かなければ、その取決めの効力が認められないこと。


 そして。


 書いても書かなくてもいいけれど、書けば会社を縛ることになること。


 この三つを区別できなければ。


 会社の財産が、設立したばかりの社長に奪われてしまうかもしれません。


 昭和六十三年。


 夕方の片桐行政書士事務所。


 私は机の上に、一冊のノートを広げていました。


 表紙には大きく、


 ――こはるノート・商法編。


 と書いてあります。


「……会社を作るだけなのに、覚えることが多すぎません?」


 私が呟くと、相馬先輩が新聞から顔を上げました。


「また文句か」


「だって、定款ですよ?」


「ああ」


「会社のルールを書くだけかと思ったら、絶対的記載事項に相対的記載事項に任意的記載事項ですよ!」


「そうだな」


「しかも、変態設立事項!」


 私は鉛筆を机に置きました。


「名前が怪しすぎます!」


「法律用語に文句を言うな」


「だって変態ですよ!?」


「意味が違う!」


 相馬先輩が呆れました。


 ……ですよね。


 私も分かっています。


 ここでいう「変態」は、普通の設立とは異なる特別な取決めという意味です。


 人間の性格とは関係ありません。


 でも。


 一度聞いたら忘れない名前なのは、間違いありません。


「こはる」


 奥から片桐所長の声がしました。


「はい!」


「昨日の杉浦重蔵の件を思い出せ」


 私は手を止めました。


 杉浦重蔵。


 株式会社を設立しようとしていた男性。


 発起人を七人そろえるため、妹の美代子さんに署名を求めていました。


 ところが。


 会社ができたら、妻の持っている中古旋盤を八百万円で買わせる計画があった。


 中古機械商の査定額は、八十五万円。


 しかも。


 自分への設立企画指導料として、三百万円まで会社に負担させようとしていた。


「合計千百万円でしたね」


 私は言いました。


「そうだ」


「会社が生まれた途端に、社長一家へ大金が流れるところでした」


「うん」


「でも、その取決めは定款に書かれていなかった」


 所長が頷きました。


「そこが、昨日の急所だ」


 私はノートを開きました。


 よし。


 今日こそ。


 株式会社設立の基本と、定款の三種類の記載事項。


 完全に整理してみせます。


「まず、株式会社は何があれば成立するんですか?」


 私が尋ねると、相馬先輩が答えました。


「定款を作って、発起人や株式、出資、役員などの必要な手続を整える。それから設立登記だ」


「そうでした!」


 私はノートに書きました。


 会社を作るには、大きく分けて四つの要素を考える。


 一つ目。


 定款。


 会社の基本的なルールです。


 二つ目。


 株主。


 会社に出資し、株式を持つ人です。


 三つ目。


 出資財産。


 会社が事業を行うための財産です。


 四つ目。


 会社の機関。


 取締役など、会社を運営するための仕組みです。


「先輩!」


「何だ」


「教材では、株主のことを社員とも呼ぶんですよね?」


「そうだ」


「でも、会社で働く従業員とは違います!」


 ここ。


 初めて勉強したとき、私は混乱しました。


 一般的に社員と聞けば、会社に勤めている人を思い浮かべます。


 でも。


 会社法の世界でいう社員とは、会社の構成員という意味です。


 株式会社なら、株主。


 そのため。


 株式を一株も持っていない従業員は、日常会話では社員でも、会社法上の意味での社員とは限りません。


「つまり」


 私は言いました。


「会社で働いている人と、会社に出資している人は、法律上別の立場なんです」


「そうだな」


「だから、杉浦重蔵さんの会社でも、従業員だから当然に発起人になるわけじゃない」


「そのとおりだ」


 私は頷きました。


 そして、ノートに大きく書きました。


 ――会社の社員とは、法律上は出資者・構成員を意味する。従業員とは区別する。


 よし。


 これで一つ整理できました。


「次は、発起人です!」


 私はページをめくりました。


 ――発起人。


 株式会社を設立するため、定款を作成し、設立手続を進める人。


「杉浦さんの事件では、七人必要だったんですよね」


「そうだ」


「でも現代では、一人でいいんです!」


 相馬先輩が顔をしかめました。


「また未来か」


「重要なんです!」


 私は説明を続けました。


 昭和六十三年。


 株式会社の発起人は、七人以上必要でした。


 ところが。


 現代の会社法では、発起人一人でも株式会社を設立できます。


 ここに、大きな違いがあります。


「先輩、昔はどうして七人も必要だったんでしょう?」


「株式会社は、多くの人が資本を持ち寄る仕組みだと考えられていたからな」


「なるほど……」


 私は頷きました。


 複数の人が出資する。


 大きな資金を集める。


 会社という組織で事業を行う。


 そうした会社像が、制度の背景にあったわけです。


 でも。


 現実には、会社を作りたい人が七人も集まるとは限りません。


「だから、名前だけ貸す人が出てくるんですね」


「そうだ」


「杉浦美代子さんも、まさにそうでした」


 美代子さんは。


 兄の事業を応援したかった。


 でも。


 八百万円の機械購入や三百万円の報酬について、十分な説明を受けていませんでした。


 それなのに。


 七人目の発起人として署名するよう求められていた。


「人数をそろえることが目的になったら、本末転倒ですよね」


「まあな」


 相馬先輩が言いました。


「人数だけ七人いても、中身を理解していない人間ばかりじゃ意味がねえ」


「ですよね!」


 私は書きました。


 昭和六十三年。


 発起人七人以上。


 現代。


 発起人一人以上。


 さらに。


 現代の会社法第二十五条第二項では、各発起人は設立時発行株式を一株以上引き受けなければならないとされています。


「つまり、現代でも名前だけ書けばいいわけじゃないんですね」


「当然だろ」


「はい!」


 私は続けました。


 発起人は、会社を作る責任を負う立場です。


 単なる飾りではありません。


 まして。


 他人の氏名を勝手に発起人として使ってよいはずもありません。


「杉浦さんは、妹さんの名前を人数合わせの道具だと思っていたんでしょうね」


「だろうな」


 相馬先輩は新聞を畳みました。


「だが、会社設立は人集めの競争じゃねえ」


 私は頷きました。


 会社の設立に必要なのは。


 ただ人数をそろえることではない。


 何を約束し、どんな会社を作るのか。


 それを理解して、参加することなのです。


「では、いよいよ定款です!」


 私はノートに大きく書きました。


 ――定款。


 会社の目的や組織、運営などについて定めた基本的なルール。


「先輩、定款って会社の憲法とも呼ばれますよね」


「ああ」


「国の憲法みたいに、会社の基本ルールになるからですね」


「そうだ」


「でも、誰が作るんですか?」


「設立時なら発起人だ」


 なるほど。


 会社がまだ存在していない段階で、発起人が定款を作る。


 そして。


 株式会社の原始定款は、公証人の認証を受ける必要があります。


「公証人って、何をする人なんですか?」


 私が尋ねると、相馬先輩が答えました。


「公正証書を作ったり、定款の認証をしたりする法律の専門家だ」


「公証役場にいる人ですね」


「そうだ」


 公証人は、法務大臣によって任命されます。


 裁判官や検察官、弁護士など、長年法律実務に携わってきた人が任命される制度です。


 株式会社の原始定款は、この公証人による認証を受けます。


 ただし。


 ここで重要なことがあります。


「先輩」


「何だ」


「公証人が定款を認証したら、会社はもう成立するんですか?」


「しねえよ」


「そうですよね!」


 私は頷きました。


 定款の認証。


 出資の履行。


 役員の選任など。


 必要な手続を進めたうえで。


 設立登記をする。


 株式会社は、その本店所在地における設立登記によって成立します。


「つまり、定款認証と会社成立は、同じじゃないんですね」


「そうだ」


 私はノートに書きました。


 ――定款認証は設立手続の途中。株式会社は設立登記によって成立する。


 これも、試験で混同しやすいところです。


 そして。


 もう一つ。


「所長」


「何だ」


「公証人が認証してくれたら、定款に書いた内容が全部適法になるんですか?」


「ならん」


 即答でした。


「ですよね!」


「公証人の認証があっても、法令に反する内容が当然に有効になるわけではない」


「はい」


 たとえば。


 現物出資する財産の価額を、不当に高く評価する。


 財産引受の名目で会社の財産を流出させる。


 そんな問題は。


 認証を受ければ何でも許される、という話ではありません。


「なるほど……」


 私は呟きました。


「定款を作るだけじゃ駄目。認証だけでも駄目。設立登記まで必要。そして、内容も法律に適合していなければならない」


 相馬先輩が頷きました。


「そういうことだ」


 よし。


 ここまでは完璧です。


「では、定款の中身です!」


 私はノートに三つの言葉を書きました。


 絶対的記載事項。


 相対的記載事項。


 任意的記載事項。


「先輩!」


「何だ」


「この三つ、どうして分けるんですか?」


「書かなかったときの法律上の扱いが違うからだ」


「それです!」


 私は大きく丸をつけました。


 まず。


 絶対的記載事項。


 これは。


 定款に必ず記載しなければならない事項です。


 記載が欠けると、定款そのものの有効性に関わります。


「現代の会社法第二十七条には、五つあります!」


 私は読み上げました。


 一つ。


 会社の目的。


 二つ。


 商号。


 三つ。


 本店の所在地。


 四つ。


 設立に際して出資される財産の価額、またはその最低額。


 五つ。


 発起人の氏名または名称及び住所。


 相馬先輩が首をかしげました。


「おい」


「はい?」


「また今の商法と違うことを言ってるな」


「そうなんです!」


 私は勢いよく答えました。


「ここが昭和と令和の大きな違いなんです!」


 昭和六十三年。


 株式会社の定款の必要的な記載事項は、当時の商法第百六十六条などで定められていました。


 目的。


 商号。


 本店及び支店に関する事項。


 会社が発行する株式の総数。


 設立に際して発行する株式の総数。


 公告方法。


 発起人の氏名及び住所。


 など、当時の商法が求める内容を確認する必要があります。


 一方。


 現代では。


 会社法第二十七条に五つの絶対的記載事項が整理されています。


「先輩」


「何だ」


「昭和の定款を、現代の様式で作ったら危ないですよね」


「当たり前だ」


「ですよね!」


 私はノートに赤字で書きました。


 ――定款の絶対的記載事項は、昭和の商法と現代の会社法で同じではない。


 特に。


 株式数と出資額の扱いは、時代による違いがあります。


 私は、そこに二重線を引きました。


「次に、会社の目的です」


 私は言いました。


「目的?」


 相馬先輩が聞き返します。


「どんな事業を行う会社なのか、ということです」


 たとえば。


 東海精機株式会社なら。


 工作機械の製造。


 機械修理。


 機械部品の販売。


 そうした事業内容が考えられます。


「じゃあ、商号は?」


「会社の名前です!」


「本店所在地は?」


「会社の本店を置く場所です!」


「発起人の氏名住所は?」


「誰が会社を設立するのかを明らかにするためです!」


 私は得意になって答えました。


 でも。


 ここで一つ。


 杉浦さんの事件を思い出しました。


 定款案には、発起人の名前が七人分ありました。


 その最後に。


 杉浦美代子さんの名前が書かれていたのです。


「所長」


「何だ」


「定款に名前が印刷されているだけで、発起人になったことになるんですか?」


「ならん」


 所長が答えました。


「本人の意思と、必要な方式が問題になる」


「ですよね」


 現代の会社法第二十六条では、発起人全員による定款への署名または記名押印が必要です。


 電子定款の場合には、所定の電子的な措置をとります。


 昭和六十三年には、当然ながら電子定款の制度はありません。


 紙の定款です。


 そして。


 本人が承諾していないのに、名前だけ勝手に使ってよいわけではない。


「だから、美代子さんの意思を確認した内容証明が重要だったんですね」


「そうだ」


 所長が頷きました。


「書類の名前欄には、必ず人間がいる」


 ……。


 私は、その言葉をノートの端に書きました。


 名前は、ただの文字ではない。


 そこには本人の意思がある。


 法律の書類を扱う以上。


 忘れてはいけないことです。


「次は、出資財産の価額です!」


 私はノートをめくりました。


「これ、現代の絶対的記載事項ですよね」


「ああ」


「設立に際して出資される財産の価額、またはその最低額です」


 たとえば。


 三人の発起人が、それぞれ五百万円ずつ出資する場合。


 合計。


 千五百万円。


 その価額を定款に記載することになります。


「でも先輩」


「何だ」


「出資額って、資本金と完全に同じ意味ではないんですよね」


「ほう」


 先輩が少し笑いました。


「いいところに気づいたな」


 ……!


 褒められました!


 私は嬉しくなりました。


 現代の会社法では、出資された財産の価額と、最終的に資本金として計上される額は、必ずしも一致しません。


 資本準備金に計上される部分などがあるからです。


 そして。


 最低額を定めた場合には、その最低額を満たす出資が必要になります。


「つまり」


 私は言いました。


「最低額だけ書いておいて、実際にはそれに足りなくても会社が作れる、ということではないんです」


「そうだ」


 ただし。


 最低額を下回ったから、成立した会社が当然に無効になる。


 そう単純に考えてはいけません。


 設立手続の段階で必要な出資が履行されていなければ、適法に設立を進められない問題になります。


 会社成立後の設立無効については、また別の法律上の手続があるのです。


「……なるほど」


 私は鉛筆を止めました。


「法律って、『無効』という言葉にも注意が必要なんですね」


「昨日も言っただろ」


「はい!」


 定款が無効なのか。


 特定の取決めの効力が認められないのか。


 会社の設立自体が問題になるのか。


 全部、同じではありません。


 ここは絶対に混同してはいけません。


「さて、もう一つ」


 私はノートに書きました。


 ――発行可能株式総数。


「先輩、これって何ですか?」


「会社が発行できる株式の上限だ」


「そうです!」


 私は頷きました。


 たとえば。


 発行可能株式総数が一万株。


 ならば。


 その会社が発行できる株式の総数は、原則としてその範囲に制限されます。


「でも!」


 私は勢いよく続けました。


「現代では、公証人の認証を受ける最初の定款に、必ず最初から書いておかなければならないわけではありません!」


「ほう」


 現代の会社法第三十七条。


 発行可能株式総数を原始定款に定めていない場合、会社成立までに発起人全員の同意によって定款を変更し、定める必要があります。


「つまり」


 私は言いました。


「設立登記の時までには必要。でも、最初の定款認証の時点で未記載でもよいんです」


「なるほどな」


 相馬先輩が頷きました。


 私はノートに赤線を引きました。


 ――現代の絶対的記載事項は五つ。発行可能株式総数は設立までに定める必要があるが、会社法第二十七条の五事項には含まれない。


 これです。


 試験で引っかかりやすいところ。


「昔はどうなんですか?」


 私が尋ねると、所長が答えました。


「今の商法では、会社が発行する株式の総数も、設立時に発行する株式の総数も、定款で定めるべき事項だ」


「ですよね!」


 昭和六十三年と令和。


 同じ株式会社でも。


 定款に求められる内容は、変化しているのです。


「さて」


 相馬先輩が煙草を灰皿に押しつけました。


「いよいよ昨日の本題だな」


「はい!」


 私はノートに大きく書きました。


 ――相対的記載事項。


 別名。


 変態設立事項。


「これ、名前だけで三点くらい取れそうですよね」


「試験を甘く見るな」


「すみません!」


 私は姿勢を正しました。


 相対的記載事項とは。


 定款に書かなくても、定款そのものが無効になるわけではない。


 しかし。


 法律上、定款に定めることが効力発生の条件とされている取決めについては、書かなければその効力が認められない。


 そういう事項です。


「先輩!」


「何だ」


「つまり、昨日の機械購入がそうなんですよね!」


「そうだ」


 私は頷きました。


 杉浦重蔵。


 会社が成立したら、妻の中古旋盤を八百万円で買わせようとしていた。


 でも。


 定款には、その財産引受について必要な記載がなかった。


「だから、その設立前の約束を、当然に成立後の会社へ押しつけることはできなかったんですね」


「そうだ」


「しかも、価格が適正かどうかという問題も残っていた」


「そこだ」


 私はノートに四つの項目を書きました。


 現物出資。


 財産引受。


 発起人の報酬その他の特別の利益。


 設立費用。


 現代の会社法第二十八条にも、この四つが規定されています。


「これが、変態設立事項の代表ですね!」


「そうだな」


 相馬先輩が頷きました。


 私は嬉しくなりました。


 なぜなら。


 昨日の事件では、このうち二つが同時に問題になっていたからです。


「まず、現物出資です!」


 私は言いました。


「現金ではなく、財産を出資することですね」


「ああ」


 たとえば。


 土地。


 建物。


 機械。


 自動車。


 金銭的な価値のある財産を、出資に充てる。


 そういう仕組みです。


「先輩、昨日の最後に電話があった土地の話、覚えていますか?」


「ああ」


「五百万円くらいの土地を、二千万円として出資したいという話です」


 私はノートに書きました。


 土地の実際の価値。


 五百万円。


 現物出資の評価額。


 二千万円。


 差額。


 千五百万円。


「これ、どうして問題なんでしょう?」


 私が尋ねると、相馬先輩が言いました。


「会社に入る財産の価値を、実際より大きく見せることになるからだ」


「そうです!」


 たとえば。


 本当は五百万円の土地しか会社に入っていない。


 なのに。


 二千万円の財産を出資したものとして株式を割り当てる。


 そうなれば。


 他の株主との公平が問題になります。


 会社の財産が十分にあるように見せかける危険もあります。


 取引先だって、会社の財産状況を誤解するかもしれません。


「だから、現物出資には厳しいルールがあるんですね」


「そうだ」


 現代の会社法では。


 誰が現物出資するのか。


 何を出資するのか。


 その価額はいくらか。


 何株を割り当てるのか。


 こうした事項を定款に記載する必要があります。


 さらに。


 原則として検査役による調査が問題になります。


 ただし、現代法には一定の少額の場合や、専門家による証明がある場合など、法定の例外もあります。


「でも、昭和六十三年では?」


 私が尋ねると、所長が答えました。


「今の商法で定められた方式と調査が必要だ。現代の例外を、そのまま持ち込むな」


「はい!」


 私は慌てて書きました。


 昭和の商法と現代の会社法。


 現物出資を厳しく扱うという基本的な考え方は共通する。


 ただし、具体的な手続や例外は異なる。


「なるほど……」


 私は頷きました。


 法律が改正されても。


 問題の核心は残るのです。


 現物を過大評価して、会社の財産を多く見せかけてはいけない。


 その原則は、昔も今も大切なのです。


「次は、財産引受です!」


 私は鉛筆を握り直しました。


 ――財産引受。


 会社が成立した後に、特定の財産を譲り受けることを、設立段階で約束しておくこと。


「これこそ、杉浦さんの事件ですね!」


「そうだ」


 相馬先輩が頷きました。


 私はノートに、昨日の旋盤の絵を描きました。


 ……。


 どう見ても、四角い箱です。


「おい」


「はい?」


「それ、何だ?」


「旋盤です!」


「弁当箱だろ」


「旋盤です!」


「まあいい。続けろ」


 私は咳払いしました。


 財産引受。


 たとえば。


 発起人が、会社設立後に第三者の建物を二千万円で買う約束をする。


 ところが。


 その建物の実際の価値は、五百万円しかない。


 そうすると。


 会社が成立した直後に、大きな損失を抱える危険があります。


「昨日の八百万円の機械と同じです!」


「そうだ」


「会社がまだ存在していないうちに、将来の会社の財産を使う約束をしてしまうんですね」


「そこが問題だ」


 私は頷きました。


 まだ生まれていない会社。


 その会社に。


 高額な買物を押しつける。


 しかも。


 買う相手が、発起人の親族かもしれない。


 それは、危険です。


「だから、定款に書く必要があるんですね」


「そうだ」


 現代の会社法第二十八条第二号では。


 会社成立後に譲り受けることを約した財産。


 その価額。


 譲渡人の氏名または名称。


 これらを定款に記載しなければ、財産引受としての効力は生じません。


「先輩」


「何だ」


「でも昨日、所長は『設立後に改めて買う場合は別問題』って言いましたよね」


「ああ」


「それって、どういうことですか?」


 相馬先輩が机に二枚の紙を置きました。


「一枚目。会社ができる前に、発起人が会社へ機械を買わせる約束をした」


「はい」


「二枚目。会社ができた後に、会社が適法な意思決定をして、新しく機械を買う契約をした」


「はい」


「同じか?」


 私は考えました。


 そして。


「違います!」


「そうだ」


 前者は、設立段階の財産引受。


 後者は、成立後の会社による取引です。


 成立後の取引であれば、会社の機関による意思決定や利益相反取引など、別の規律が問題になります。


 もちろん。


 後から契約し直せば、過大な価格でも何でも許されるわけではありません。


 でも。


 設立前の財産引受に関する規律と、成立後の通常の売買契約は区別しなければならない。


「なるほど……」


 私はノートに赤線を引きました。


 ――財産引受は、設立前に将来の会社へ財産を買わせる約束。設立後の新たな売買とは区別する。


 よし。


 これなら忘れません。


「では三つ目!」


 私は続けました。


 ――発起人の報酬その他の特別の利益。


「昨日の三百万円ですね!」


「ああ」


 杉浦重蔵は。


 会社を設立するための企画指導料として、自分に三百万円を支払わせようとしていました。


「先輩、発起人が報酬をもらうこと自体は、絶対に禁止されているんですか?」


「そうじゃねえ」


「ですよね」


 発起人が設立のために働き、報酬を受け取ること自体が、当然に違法というわけではありません。


 問題は。


 不当に高額な報酬や特別の利益を、会社に負担させることです。


 だからこそ。


 現代の会社法第二十八条第三号では、会社の成立によって発起人が受ける報酬その他の特別の利益と、その発起人の氏名または名称を、定款に記載する必要があります。


「これを隠していたら、どうなります?」


 私が尋ねると、相馬先輩が答えました。


「会社に当然に請求できると思うな、という話になる」


「そうです!」


 私は頷きました。


 会社を作った人が。


「俺が設立したんだから、三百万円くらい当然だ」


 と言い出す。


 そんなことが自由に認められたら。


 会社の財産は、簡単に減ってしまいます。


 昨日の重蔵さん。


 あの人は、まさにそれをしようとしていたのです。


「所長」


「何だ」


「この規定って、出資した株主を守る意味もありますよね」


「ある」


「会社の財産が不当に減れば、会社の債権者にも影響します」


「そうだ」


 所長が頷きました。


 会社の財産は。


 単に社長のものではありません。


 会社という法人の財産です。


 そして。


 その財産を前提に、取引をする人がいる。


 だから。


 設立時の特別な利益には、厳しい規律があるのです。


「四つ目は、設立費用です!」


 私は言いました。


 ――設立費用。


 会社を設立するために必要な費用。


 たとえば。


 事務所の賃料。


 株式申込関係の書類の印刷費。


 設立準備のために支出する一定の費用。


「これも、会社に負担させるなら定款に書く必要があるんですね」


「原則としてな」


 相馬先輩が答えました。


 現代の会社法第二十八条第四号では、会社が負担する設立費用について、定款への記載が求められています。


 ただし。


 定款認証の手数料など、法令で定める一定の費用は例外です。


「先輩」


「何だ」


「どうして設立費用まで定款に書くんですか?」


「発起人が、勝手に高額な費用を会社へ請求したら困るからだろ」


「そうです!」


 私は頷きました。


 たとえば。


 設立準備のために、実際には十万円しか使っていない。


 なのに。


「設立費用として五百万円かかった」


 と主張する。


 会社がそれを無条件に負担しなければならないとしたら。


 会社の財産が、最初から不当に減ってしまいます。


「だから、事前に明らかにする必要があるんですね」


「そういうことだ」


 私は四つを囲みました。


 現物出資。


 財産引受。


 発起人の報酬その他の特別の利益。


 設立費用。


「先輩!」


「何だ」


「この四つ、共通点が分かりました!」


「言ってみろ」


「会社が生まれるときに、その財産を不当に減らしたり、実際より多く見せたりする危険があることです!」


 相馬先輩が頷きました。


「正解だ」


 ……!


 やりました!


 私は思わず拳を握りました。


 試験のために覚えていた四つの項目。


 でも。


 昨日の事件を思い出すと。


 なぜ厳しく扱われているのか。


 はっきり分かります。


 会社を設立する人間が、自分だけ有利になるように仕組みを作る。


 それを防ぐためのルールなのです。


「ところで先輩」


「何だ」


「一つ、気になったことがあります」


「言ってみろ」


「定款に書けば、どんな現物出資や財産引受でも有効になるんですか?」


 相馬先輩は、にやりと笑いました。


「なるわけねえだろ」


「ですよね!」


 私は頷きました。


 定款への記載は、必要な条件です。


 でも。


 それだけで、すべてが許されるわけではありません。


 価額が適正か。


 法定の調査が必要か。


 手続に違反がないか。


 そうした問題が残ります。


 現代の会社法第三十三条では、原則として検査役による調査の制度が用意されています。


 もっとも。


 一定の場合には例外があり、具体的な要件を確認する必要があります。


「だから、昨日の八百万円の旋盤も、定款に書き足せば万事解決というわけではなかったんですね」


「そうだ」


 所長が頷きました。


「八十五万円という査定がある。八百万円と評価するなら、その根拠が問われる」


「はい」


「もちろん、査定書一枚だけで適正価格が最終的に決まるわけではない」


「あ……」


 そうでした。


 機械の価値は、状態や付属品、特殊な加工能力などによって変わることがあります。


 八十五万円という査定があっても、それだけで八百万円の価額が絶対に違法だと断定することはできません。


 だから。


 調査が必要なのです。


「所長」


「何だ」


「法律の書類って、数字の根拠が大事なんですね」


「そうだ」


「書けばいいわけじゃない。書いた数字を説明できなければならない」


 所長が静かに言いました。


「そのとおりだ」


 私は、ノートに書きました。


 ――定款への記載は免罪符ではない。財産の価額には、合理的な根拠が必要。


 よし。


 これで変態設立事項は、かなり整理できました。


「さて、最後だ」


 相馬先輩が言いました。


「任意的記載事項ですね!」


 私はページをめくりました。


 ――任意的記載事項。


 法律上、必ず定款で定める必要はない。


 定款に書かなくても、別の方法で有効に定められる事項。


 しかし。


 定款に書けば、会社の基本的なルールとして扱われる。


「先輩、これって何が重要なんですか?」


「変更するときだ」


「そうです!」


 私は頷きました。


 たとえば。


 現代の株式会社で、取締役の員数について、法律の範囲内で定款に特別な定めを置く場合です。


 定款に、


 ――取締役は五名とする。


 と書いてあったとします。


 これを。


 会社の都合で三名に変更したくなった。


 その場合。


 定款自体を変更する必要が生じます。


「定款変更には、原則として株主総会の特別決議が必要ですね!」


「そうだ」


 私はノートに書きました。


 現代の会社法第三百九条第二項。


 定款変更などには、原則として特別決議が必要。


 普通決議よりも厳しい決議要件が課されます。


「つまり」


 私は言いました。


「定款に書いておくと、簡単には変更できなくなることがあるんです!」


「そういうことだ」


 もっとも。


 取締役の人数に関する具体的な取扱いは、取締役会の有無や法定の最低員数などにも左右されます。


 定款に何も書いていなければ、常に株主総会の普通決議だけで好きな人数に変えられる、というわけではありません。


 そこは会社の機関設計と一緒に考える必要があります。


「なるほど……」


 私は頷きました。


 任意的記載事項。


 書いても書かなくてもいい。


 だから、重要ではない。


 そう考えてはいけないのです。


 書くことによって、会社のルールとして固定される。


 その結果。


 将来、変更するためのハードルが高くなることがある。


「先輩」


「何だ」


「定款って、何でも書けば親切というわけじゃないんですね」


「そうだな」


「必要なことは書く。でも、将来の変更も考えて書く」


 相馬先輩が頷きました。


「会社のルールは、作った後も使うからな」


 私は、その言葉をノートに書きました。


 定款は、会社を作るためだけの書類ではない。


 会社が続いていく限り、使われる基本的なルールなのです。


「所長!」


 私は顔を上げました。


「何だ」


「ここまでで、三種類の違いが分かりました!」


「言ってみろ」


「はい!」


 私はノートを見ずに答えました。


「絶対的記載事項は、定款に必ず書かなければならない事項です!」


「うん」


「相対的記載事項は、書かなければ、その特別な取決めの効力が認められない事項です!」


「うん」


「任意的記載事項は、書かなくてもいいけれど、書けば定款のルールとして扱われる事項です!」


 所長が頷きました。


「よし」


 私は思わず笑いました。


 やった。


 これなら試験でも間違えません。


「じゃあ、確認問題だ」


 相馬先輩が言いました。


「はい!」


「会社の目的は?」


「絶対的記載事項!」


「商号は?」


「絶対的記載事項!」


「現物出資は?」


「変態設立事項!」


「財産引受は?」


「変態設立事項!」


「発起人の報酬は?」


「変態設立事項!」


「設立費用は?」


「原則として変態設立事項!」


「取締役の員数について、法令の範囲内で任意に定款へ定める場合は?」


「任意的記載事項として扱われます!」


「よし」


 相馬先輩が笑いました。


 私は拳を握りました。


 完璧。


 ……と思った、そのとき。


「では、こはる」


 片桐所長が言いました。


「はい!」


「発行可能株式総数は、現代の会社法第二十七条にある絶対的記載事項か」


 私は勢いよく答えようとして。


 止まりました。


 ……危ない。


 ここ、ひっかけ問題です。


「いいえ!」


 私は答えました。


「現代の会社法第二十七条の五事項には含まれていません!」


「うん」


「でも、会社成立までには発起人全員の同意で定款に定める必要があります!」


「そうだ」


「昭和六十三年の商法では、定款の必要的な記載事項の扱いが違います!」


 所長が頷きました。


「よし」


 私は大きく息を吐きました。


 危なかった。


 現代の教材を読んでいると、発行可能株式総数を六つ目の絶対的記載事項として覚えたくなることがあります。


 でも。


 会社法第二十七条の五事項と、会社成立までに必要となる発行可能株式総数の定めは、区別しなければならないのです。


「所長」


「何だ」


「今の問題、意地悪です」


「試験には、もっと意地悪な問題が出る」


「……ですよね」


 私は苦笑しました。


 でも。


 これで一つ、間違えにくくなりました。


「ところで、こはる」


 相馬先輩が言いました。


「はい?」


「お前、朝から一人会社がどうとか言ってたな」


「はい……」


「今の株式会社では、取締役は何人必要だ?」


「三人以上です!」


「監査役は?」


「必要です!」


「発起人は?」


「七人以上です!」


 先輩が頷きました。


「それでいい」


 私は、ふと考えました。


 昭和六十三年。


 発起人七人以上。


 取締役三人以上。


 監査役も必要。


 それだけの人数をそろえなければならない。


 一方。


 令和の会社法では。


 発起人一人。


 取締役一人。


 監査役を置かない株式会社。


 そうした形も、会社の機関設計に応じて可能です。


 資本金一円での設立も、法律上は可能。


 もちろん、実際に事業を続けられるかどうかは別問題です。


「先輩」


「何だ」


「昔は会社を作ること自体が、大変だったんですね」


「そうだな」


「でも、会社を作るのが大変だから、必ず健全な会社になるわけでもない」


 相馬先輩が私を見ました。


「何が言いたい?」


「杉浦重蔵さんの事件です」


 私は答えました。


 発起人を七人そろえる。


 取締役を三人そろえる。


 監査役を置く。


 それだけの条件を満たしても。


 社長が会社の財産を私物化しようとしたら、意味がありません。


 形式だけ整えても。


 中身が守られていなければ。


 会社は危険な状態になります。


「人数を増やせば、必ず不正を防げるわけじゃないんですね」


「そうだな」


 相馬先輩が頷きました。


「結局、必要なのは、会社を作る人間が法律を守ることだ」


「はい!」


 私はノートに書きました。


 ――会社の健全性は、発起人や役員の人数だけでは決まらない。


 これです。


 今回の事件から学んだ、もう一つの大切なことでした。


「では、どうして現代では会社法が独立したんでしょう?」


 私は呟きました。


 相馬先輩が怪訝な顔をします。


「また会社法か」


「あ、いえ、その……」


 私は慌てました。


 でも。


 頭の中では、未来の法改正が浮かんでいました。


 昭和六十三年。


 会社に関する規定は、商法第二編や有限会社法などに分かれています。


 その後。


 会社制度は、経済社会の変化に合わせて何度も改正されます。


 平成二年の商法改正では、株式会社の最低資本金制度が導入されました。


 原則一千万円。


 でも。


 それは昭和六十三年より後のことです。


 そして。


 平成十七年。


 会社法が成立。


 平成十八年五月一日。


 新しい会社法が施行されます。


 ここで、会社に関する制度が大きく整理されました。


 株式会社。


 持分会社。


 合同会社という新しい会社形態。


 会社の機関設計。


 設立手続。


 それまで商法などに分かれていた会社関係の制度が、独立した法律として体系的に整理されたのです。


「……なるほど」


 私は小さく呟きました。


 現代の会社法は。


 ただ昔の商法を簡単にしただけではありません。


 小規模な会社から大企業まで、多様な会社のあり方に対応するための制度改革だったのです。


 そして。


 会社を作る人数や資本金の制約を緩和する一方で。


 出資財産の適正な評価。


 発起人の責任。


 会社財産の保護。


 こうした重要な仕組みは、形を変えながら引き継がれています。


「法律って、変わる部分と変わらない部分があるんですね」


 私が言うと、片桐所長が答えました。


「何を守るための規定か。そこを考えろ」


「はい」


 その言葉に、私は大きく頷きました。


 発起人が七人必要か、一人でよいか。


 それは、時代によって変わる。


 取締役の最低人数も変わる。


 最低資本金制度だって、導入されたり廃止されたりする。


 でも。


 会社の財産を、不当に流出させてはいけない。


 現物出資を、不当に高く評価してはいけない。


 会社を作る人が、自分だけ特別な利益を隠して得てはいけない。


 そうした問題意識は。


 昔も今も、重要なのです。


「さて」


 相馬先輩が立ち上がりました。


「今日の勉強会は終わりか?」


「もう少しです!」


「まだやるのか」


「最後の確認問題をお願いします!」


 先輩は面倒そうに椅子へ座り直しました。


「じゃあ、一問目」


「はい!」


「株式会社を設立しようとして、定款を作った」


「はい」


「だが、公証人の認証を受けていない」


「原則として、株式会社の原始定款には公証人の認証が必要です!」


「よし」


「二問目」


「はい!」


「会社を設立したら、発起人の妻から高額な機械を買うことを設立前に約束した」


「財産引受に該当するかが問題になります!」


「定款には何も書いていない」


「必要な記載を欠く財産引受を、当然に設立後の会社へ負担させることはできません!」


「よし」


「三問目」


「はい!」


「会社を作った発起人が、自分への特別報酬を請求しようとしている」


「発起人の報酬その他の特別の利益として、定款への記載が必要になる場合があります!」


「よし」


「四問目」


「はい!」


「現物出資する土地を、実際の価値より不当に高く評価した」


「定款に書くだけでは足りません! 価額の適正性や法定の調査、責任が問題になります!」


「よし」


 私は得意になりました。


 そして。


 相馬先輩が最後の問題を出しました。


「五問目」


「はい!」


「社長が言った」


 先輩は、わざと偉そうな声を出しました。


「会社は俺が作ったんだ! だから会社の金は全部俺のものだ!」


 私は即答しました。


「違います!」


「なぜだ?」


「会社は、社長個人とは別の法人だからです!」


 私は続けました。


「株式会社が成立すれば、会社の財産は会社自身の財産です!」


「うん」


「社長が出資したとしても、そのお金を好き勝手に私物化できるわけではありません!」


「正解!」


 相馬先輩が笑いました。


 私は思わず拳を握りました。


 やった。


 会社の設立と定款。


 今なら、かなり理解できています。


 少なくとも。


 定款を、ただの書類だとは思わなくなりました。


 窓の外は、もう薄暗くなっていました。


 私はノートを見直しました。


 絶対的記載事項。


 相対的記載事項。


 任意的記載事項。


 最初は、似たような三つの言葉でした。


 でも。


 杉浦美代子さんの事件を思い出せば、はっきり区別できます。


 会社を作るために、基本的な事項は必ず定款に書かなければならない。


 特別な財産引受や発起人報酬は、必要な事項を定款に書かなければ効力が認められない。


 そして。


 任意に定款へ定めたルールは、将来の変更にも影響する。


「所長」


「何だ」


「私、今日一つ分かりました」


「何をだ」


「定款って、会社の設立を面倒にするための書類じゃないんですね」


「そうだ」


「会社が始まる前から、誰かが不当に得をしたり、誰かが損をしたりすることを防ぐための仕組みでもあるんですね」


 所長が頷きました。


「うん」


 私は続けました。


「発起人が何人でも、社長が誰でも、会社には守るべきルールがある」


「そうだ」


「そして、そのルールを紙に残すから、後から確認できる」


 所長は静かに言いました。


「書面は、人間の欲を消せない」


「……はい」


「だが、欲によって何が約束されたかを明らかにすることはできる」


 私は、その言葉をしばらく考えました。


 なるほど。


 法律は、人の欲望そのものを消すことはできません。


 でも。


 その欲望によって、誰かの財産が不当に奪われることを防ぐ仕組みは作れる。


 定款も、その一つなのです。


 私はノートの最後のページを開きました。


 ここに。


 今日の一行を書きます。


 鉛筆の先を整えて。


 ゆっくり。


 ――絶対的記載事項は「書かないと定款が駄目」、相対的記載事項は「書かないとその取決めが駄目」、任意的記載事項は「書けば会社のルールになる」。


「……できた!」


 私はノートを掲げました。


「どうですか!」


 相馬先輩が覗き込みました。


「まあ、覚えやすいんじゃねえか」


「褒めましたね!」


「気のせいだ」


「またそれですか!」


 私は笑いました。


 でも。


 この一行は、たぶん一生忘れません。


 杉浦美代子さん。


 兄の事業を応援したかった女性。


 でも。


 危険な定款案には署名しませんでした。


 そして。


 その一つの判断が。


 会社が生まれる前に、大きな財産流出の危険を見直すきっかけになった。


 法律を知らなければ。


 ただの紙だと思って、署名していたかもしれません。


 でも。


 法律を知っていれば。


 その一行が、何を意味するのか分かります。


 書いてあること。


 書いていないこと。


 どちらにも、法律上の意味がある。


 それが。


 定款という書類なのです。


「ところで、こはる」


 相馬先輩が言いました。


「はい?」


「お前、会社を作るなら何人で作りたい?」


「え?」


「発起人だよ」


 私は少し考えました。


「一人です!」


「おい」


「だって七人も集めるの大変じゃないですか!」


「今の商法じゃ無理だ!」


「分かってます!」


 私は笑いました。


「でも、現代なら一人で会社を作れるんですよ!」


「また未来の話か!」


「しかも取締役も一人でいい会社があります!」


「お前、本当にどこの法律を読んでるんだ!?」


「未来です!」


 ……。


 あ。


 言ってしまいました。


 相馬先輩が固まりました。


「……未来?」


 私は慌てました。


「あ、いえ!」


「何だ?」


「未来の会社制度を想像しているんです!」


「想像?」


「はい!」


 先輩は怪訝な顔をしました。


 そして。


「お前、夢ばっかり見てるな」


 と呟きました。


 私は苦笑しました。


 でも。


 夢ではありません。


 私は知っています。


 この先、会社を作るための制度は大きく変わります。


 発起人七人の時代は終わる。


 取締役一人の株式会社も認められる。


 合同会社も生まれる。


 最低資本金制度もなくなる。


 会社法という独立した法律ができる。


 そして。


 小さな事業を始めたい人が、以前より会社を作りやすい時代になる。


 でも。


 その未来でも。


 会社の財産を私物化してよいわけではありません。


 現物出資を勝手に水増ししてよいわけでもありません。


 発起人が隠れて特別な利益を得てよいわけでもありません。


 会社を作る自由と。


 会社を適法に運営する責任。


 この二つは、いつの時代も切り離せないのです。


「こはる!」


 相馬先輩が声をかけました。


「はい!」


「ノートは終わったな?」


「はい!」


「じゃあ、机を片付けろ」


「え?」


「六法も戻せ」


「はい……」


「それから、定款案の控えも整理しとけ」


 私は机の上を見ました。


 大量の紙。


 定款案。


 売買予約契約書。


 査定書。


 内容証明の控え。


 相談票。


 ……。


 多すぎます。


「先輩」


「何だ」


「会社を作るって、書類が多いですね」


「そうだな」


「これ全部、手書きで整理するんですか?」


「当たり前だろ」


「パソコンで管理したいです……」


「何だ、ぱそこん?」


 ……。


 そうでした。


 昭和六十三年。


 パソコンそのものは存在します。


 でも。


 今のような便利な電子定款やオンライン申請の環境ではありません。


 もちろん。


 スマートフォンで定款のひな形を検索することもできません。


「先輩」


「何だ」


「将来、定款を電子データで作れる時代が来たら、便利でしょうね」


「ほう」


「紙に何度も書き直さなくてもいいし、データで保存できますし」


 相馬先輩は少し考えました。


「まあ、便利かもしれねえな」


「ですよね!」


「だがな」


「はい?」


「紙だろうが、電子だろうが、内容が間違ってりゃ意味がねえぞ」


 ……。


 私は止まりました。


 そして。


 笑いました。


「それは、そうですね」


 定款が紙でも。


 電子データでも。


 手書きでも。


 ワープロでも。


 大切なのは、中身です。


 誰が会社を作るのか。


 何を出資するのか。


 会社がどんな財産を引き受けるのか。


 誰が特別な利益を得ようとしているのか。


 その内容が、法律に従って定められているか。


 そこを確かめなければならない。


 時代が変わっても。


 書類の本質は、変わらないのです。


 私は定款案の控えを整理しながら、窓の外を眺めました。


 夕暮れの町。


 工場の煙突。


 商店街の明かり。


 遠くから聞こえる、機械の音。


 あのどこかで。


 杉浦美代子さんは、今日も帳簿をつけているのでしょう。


 兄が、もう一度きちんと会社を作る日が来ることを願いながら。


 そして。


 私は思いました。


 会社を作るということは。


 ただ社長になることではありません。


 誰かと一緒に、仕事を始めること。


 誰かから、お金を預かること。


 誰かと、約束を交わすこと。


 その責任を、引き受けることです。


 だからこそ。


 定款がある。


 絶対的記載事項がある。


 変態設立事項がある。


 任意的記載事項がある。


 法律は。


 会社を作る人間の夢を、ただ邪魔しているわけではありません。


 その夢が、他人の財産を踏みにじるものにならないように。


 最初の約束を、明確にさせているのです。


 私はノートの最後の一行を、もう一度読みました。


 ――絶対的記載事項は「書かないと定款が駄目」、相対的記載事項は「書かないとその取決めが駄目」、任意的記載事項は「書けば会社のルールになる」。


 よし。


 完璧。


「こはる!」


 相馬先輩の声が飛びました。


「はい!」


「何をぼうっとしてる!」


「定款の重要性を考えていました!」


「考える前に、書類を片付けろ!」


「はい!」


 私は慌てて紙をそろえました。


 すると。


 一枚の定款案が、床に落ちました。


 私は拾い上げました。


 そこには、発起人の名前が七人分書かれています。


 その最後。


 杉浦美代子。


 私は、その名前を見つめました。


 今なら分かります。


 この一行は、ただの人数合わせではありません。


 そこには。


 一人の人間の意思と責任がある。


 だから。


 他人が勝手に埋めていい欄ではないのです。


「先輩」


「今度は何だ!」


「定款って、やっぱり面白いですね!」


「面白がってないで片付けろ!」


「だって、たった一行で会社の運命が変わるんですよ!」


「だから、その一行を間違えるなって言ってるんだ!」


 ……なるほど。


 相馬先輩の言うことは、今日も正しいようです。


 会社の定款。


 そこにあるのは、難しい法律用語だけではありません。


 会社を作る人間の夢。


 出資する人間の期待。


 経営者の責任。


 そして。


 ときには、隠された欲望。


 その全部が、一枚の書類に詰まっているのです。


 だから私は。


 これから会社の定款を読むとき。


 書いてあることだけでなく。


 書かれていないことにも、目を向けようと思います。


 なぜなら。


 会社を守るための大切な答えは。


 ときとして。


 定款から消された、たった一行の中に隠されているのです。

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