[会社法・株式会社の設立]現場編 「会社を作れば八百万円は俺のもの」の罠。七人の発起人と、定款から消された一行が暴いた社長の横領計画
会社の金は、社長の財布ではありません。
たとえ、その社長が。
自分で会社を作った人間だったとしても。
会社には、会社の財産がある。
株主には、株主の権利がある。
そして。
会社を作るときには、最初に決めなければならない約束があります。
その名も。
――定款。
会社の憲法とも呼ばれる、大切な書類です。
ところが。
世の中には、この定款をただの紙切れだと思っている人がいます。
「会社は俺が作るんだ。何を書こうが、俺の自由だろう!」
そんな人に限って。
定款に書かなかった、たった一行のために。
自分の計画が崩れ去ることになるのです。
昭和六十三年。
片桐行政書士事務所。
その日、私は朝から会社設立の勉強をしていました。
「株式会社って、便利ですよねえ」
六法をめくりながら、私は呟きました。
「何がだ」
相馬先輩が新聞から顔を上げます。
「だって、一人でも作れますし」
「……は?」
「資本金だって一円から始められますし」
「おい」
「取締役も一人でいいし、合同会社という選択肢だって――」
「こはる」
「はい?」
「お前、どこの国の法律を読んでるんだ?」
私は固まりました。
……あ。
しまった。
またです。
未来人の悪い癖。
令和の会社法を、そのまま昭和六十三年に持ち込んでしまいました。
「株式会社を一人で作る?」
相馬先輩が笑いました。
「寝言は寝て言え」
「え、でも……」
「発起人は七人以上だ」
「七人!?」
「そうだ」
「一人じゃなくて!?」
「七人だ」
私は六法を見つめました。
発起人。
株式会社を設立する人。
現代なら、一人でも設立できます。
でも、昭和六十三年。
株式会社を作るには、少なくとも七人の発起人が必要。
「多すぎません!?」
「俺に言うな」
「七人も集めるんですか!?」
「そうだ」
「友達が六人しかいなかったら?」
「もう一人探せ」
「友達が一人もいなかったら?」
「株式会社を作る前に人間関係を見直せ」
「ひどい!」
しかも。
当時の株式会社では、取締役は三人以上。
監査役も必要です。
令和の一人会社とは、まるで違います。
「じゃあ、夫婦二人で小さな会社を作りたくても……」
「株式会社なら、必要な人数をそろえなきゃならねえ」
「そんな!」
「有限会社という選択肢もある。だが、それにも別の法律がある」
「合同会社は?」
「何だ、その会社は」
……ですよね。
昭和六十三年には、合同会社なんて存在しません。
会社法という独立した法律も、まだありません。
株式会社のルールは、商法第二編。
有限会社には、有限会社法。
私は頭を抱えました。
「昔の会社設立って、面倒くさすぎませんか?」
「面倒だから、書類屋の仕事があるんだろ」
相馬先輩は平然と言いました。
……確かに。
でも。
この七人という数字が。
まさか今日の事件の中心になるとは。
そのときの私は、まだ知りませんでした。
「会社を作る話を、やめさせたいんです」
午前十時。
事務所を訪れた女性は、開口一番そう言いました。
「……会社を?」
私は聞き返しました。
女性の名前は、杉浦美代子さん。
三十八歳。
町工場で、経理と事務を担当しています。
少し疲れた顔。
膝の上には、大きな封筒を抱えています。
「兄が、株式会社を作ると言い出したんです」
「お兄さんが?」
「はい。今は個人で機械の修理業をしているんですが、事業を大きくしたいと言って……」
「いいことじゃないですか」
私が言うと、美代子さんは首を振りました。
「最初は、私もそう思ったんです」
そして。
封筒から、一冊の書類を取り出しました。
表紙には、大きな文字。
――東海精機株式会社 定款案。
「兄から、ここに署名しろと言われました」
「定款ですか」
「はい」
「お兄さんが作ったんですか?」
「そうです」
私は書類を受け取りました。
まだ公証人の認証を受けていない、原始定款の案です。
表紙をめくります。
第一条。
商号。
第二条。
目的。
第三条。
本店所在地。
第四条。
会社が発行する株式の総数。
……。
ふむ。
会社を作るための基本的な項目が並んでいます。
「どこが問題なんでしょう?」
私が尋ねると、美代子さんは声を落としました。
「私、会社を作るために、四十万円を出すことになっているんです」
「出資ですね」
「はい。でも……」
女性は少し迷ってから言いました。
「兄は、会社ができたら、八百万円で機械を買うと言っているんです」
「八百万円?」
「はい」
「どんな機械ですか?」
「古い旋盤です」
旋盤。
金属を削るための工作機械。
町工場では珍しくありません。
「その旋盤が、八百万円なんですか?」
「兄はそう言います」
「それで?」
「でも、実際には……」
美代子さんは、もう一枚の紙を出しました。
中古機械商の査定書です。
そこに書かれていた金額。
――査定額 八十五万円。
「……え?」
私は二度見しました。
八十五万円。
なのに。
購入予定価格は、八百万円。
差額。
七百十五万円。
「ちょっと待ってください」
私は顔を上げました。
「その機械、本当に八百万円で買うんですか?」
「はい」
「誰から?」
美代子さんは俯きました。
「……兄の奥さんです」
……。
なるほど。
嫌な予感が、はっきりと形になりました。
兄が会社を設立する。
妹が四十万円を出資する。
さらに何人かから出資を集める。
そして。
設立した会社に、兄の妻が持っている古い旋盤を八百万円で買わせる。
……。
これ。
会社を作る話ではなく。
会社のお金を、身内に移す話になっていませんか?
「美代子さん」
片桐所長が口を開きました。
「その八百万円の売買について、何か書類はありますか」
「はい」
女性は封筒の底から、一枚の紙を取り出しました。
――機械設備売買予約契約書。
売主。
杉浦房江。
兄の妻。
買主側の表示。
――設立予定 東海精機株式会社。
発起人代表。
杉浦重蔵。
代金。
金八百万円。
引渡時期。
会社設立後、速やかに。
片桐所長は書類を読みました。
一分。
二分。
そして。
「定款には、どう書いてある」
低い声で尋ねました。
「え?」
美代子さんが首をかしげます。
「この機械を買うことについて、定款に記載がありますか」
「……分かりません」
私は急いで定款案をめくりました。
目的。
商号。
本店。
株式。
公告方法。
発起人。
取締役の員数。
……。
ない。
どこにもありません。
八百万円の機械について。
一文字も。
「所長」
私は顔を上げました。
「ありません!」
「そうか」
「でも、これって……」
私は現代の知識を思い出しました。
会社法第二十八条。
相対的記載事項。
変態設立事項。
その中の一つ。
財産引受。
……あ!
「所長!」
「何だ」
「これ、財産引受じゃありませんか!?」
所長が頷きました。
「その可能性が高い」
「会社が成立したら、特定の財産を買い受ける約束ですよね!」
「そうだ」
私は思わず身を乗り出しました。
「しかも、定款に書いてありません!」
「そうだな」
「だったら――」
「待て」
相馬先輩が遮りました。
「はい?」
「お前、また何条を思い浮かべた?」
「会社法第二十八条です!」
「……会社法?」
……。
しまったあああ!
また令和の条文です。
「お前なあ」
相馬先輩が額を押さえました。
「昭和六十三年に会社法なんて法律はねえって、さっき言っただろ!」
「そうでした!」
「今は商法だ!」
「はい!」
「財産引受なら、当時の商法の規定を調べろ!」
「はいっ!」
私は慌てて六法を開き直しました。
商法第二編。
株式会社。
設立。
定款。
そして。
商法第百六十八条。
そこに、ありました。
財産引受についての規定。
会社成立後に譲り受けることを約した財産。
その価格。
譲渡人の氏名。
定款に記載する必要がある事項です。
「ありました!」
私は叫びました。
「今度は昭和の条文です!」
「当たり前だ!」
相馬先輩が怒鳴りました。
でも。
胸が高鳴ります。
これです。
財産引受。
会社のお金を不当に流出させることを防ぐために、法律が厳しく扱っている事項。
まさに。
今回の事件の急所でした。
「ただし、こはる」
片桐所長が言いました。
「はい」
「まだ会社は成立していない」
「あ……」
「設立登記は済んでいるか」
美代子さんが答えました。
「いいえ。まだです」
「定款の認証は?」
「来週、公証役場へ持っていくと言っていました」
所長が頷きました。
「なら、まだ止められる」
「本当ですか!?」
美代子さんが身を乗り出しました。
「ただし、会社設立そのものを他人が一方的に禁止できるわけではありません」
「はい……」
「あなたが何に署名し、何に出資し、何を承諾するのか。そこを明確にするんです」
私は頷きました。
そうです。
行政書士は弁護士ではありません。
会社設立をめぐる紛争について、代理人として相手と争うことはできません。
でも。
定款を調べる。
設立関係書類を点検する。
本人の意思を通知する書面を作る。
そうした仕事はできます。
「美代子さん」
私は言いました。
「まだ署名していないんですよね?」
「はい」
「出資金も?」
「渡していません」
「よかった……!」
私は思わず胸を撫で下ろしました。
すると。
美代子さんは、思い出したように言いました。
「でも……」
「はい?」
「兄は、私が署名しないと会社が作れないって言うんです」
「え?」
「七人必要なのに、今は六人しかいないからって」
……。
七人。
私は相馬先輩を見ました。
先輩も私を見ました。
「こはる」
「はい」
「今朝、何を勉強した?」
「……株式会社の発起人は、七人以上」
「そうだ」
私は、美代子さんの手元にある定款案を見ました。
発起人の欄。
一人目。
杉浦重蔵。
二人目。
杉浦房江。
三人目。
重蔵の義弟。
四人目。
取引先の経営者。
五人目。
従業員。
六人目。
知人。
七人目。
――杉浦美代子。
私は息を呑みました。
そういうことですか。
この人は。
会社を作るための、最後の一人だったのです。
「俺が法律だと思っておけばいいんだよ!」
翌日。
杉浦重蔵は、そう言って笑いました。
場所は、町外れの工場事務所。
片桐所長が定款関係の事実確認を求める連絡を入れたところ、重蔵本人から、設立書類を見せるので来てほしいと返事があったのです。
私と相馬先輩は、書類の確認のために訪れました。
あくまで資料確認。
依頼人の代理人としての交渉ではありません。
でも。
相手の態度は、最初から最悪でした。
「行政書士が、俺の会社に何の用だ?」
杉浦重蔵。
四十六歳。
太い金の腕時計。
大きな指輪。
そして。
社長でもないのに、すでに社長椅子に座っています。
「会社設立関係の書類について、確認させていただきたいことがあります」
相馬先輩が言いました。
「確認?」
「はい」
「何を確認するんだ?」
「定款案と、機械設備の売買予約契約書との関係です」
重蔵は鼻で笑いました。
「ああ、あれか」
「はい」
「会社ができたら、機械を買う。それだけだろ」
「八百万円で?」
「そうだ」
「定款案には、その財産引受に関する記載がありません」
重蔵の笑みが止まりました。
でも。
すぐに、また笑いました。
「だから何だ?」
「設立に関係する重要な事項です」
「会社は俺が作るんだぞ」
重蔵は机を叩きました。
「何を買おうが、俺の勝手だ!」
……。
出ました。
ワンマン社長の必殺技。
――俺の会社だから俺の自由。
でも。
私は思いました。
違うんです。
まだ会社すら成立していない。
しかも。
会社が成立したら、出資した人たちの財産が会社の財産になる。
それを。
発起人代表が、自分の財布のように使っていいはずがありません。
「杉浦さん」
私は言いました。
「八百万円の機械の売主は、奥様ですよね」
「そうだが?」
「中古機械商の査定額は、八十五万円です」
「だから?」
「その差額について、どうお考えですか?」
重蔵の目が細くなりました。
「素人には分からん価値があるんだよ」
「でしたら、その根拠を――」
「うるさい!」
重蔵が怒鳴りました。
「女の見習いが、商売に口を出すな!」
……。
私は口を閉じました。
腹が立ちました。
ものすごく。
でも。
相馬先輩が、私の肩を軽く叩きました。
「こはる」
「はい」
「もういい」
「でも!」
「必要な話は聞いた」
先輩は重蔵を見ました。
「書類の内容については、確認できました」
「何だ。もう帰るのか?」
「はい」
「妹にも言っとけ!」
重蔵は椅子にもたれました。
「さっさと定款にハンコを押せってな!」
そして。
にやりと笑いました。
「七人いなきゃ会社が作れねえんだ。あいつが最後の一人なんだよ」
私は拳を握りました。
そうですか。
最後の一人。
だから、断れないと思っている。
そして。
四十万円を出資させて、八百万円の機械購入まで認めさせようとしている。
私は深く息を吸いました。
……なるほど。
よく分かりました。
杉浦重蔵さん。
あなたは。
会社の仕組みを、都合のいいところだけ使おうとしているんですね。
事務所へ戻った私は、机に定款案を広げました。
「先輩!」
「何だ」
「絶対に止めたいです!」
「何をだ」
「あの八百万円です!」
「なら、事実を整理しろ」
「はい!」
私は鉛筆を握りました。
株式会社設立。
発起人七人。
定款案。
公証人認証前。
出資金未払込。
設立登記未了。
財産引受。
定款への記載なし。
売主は発起人代表の妻。
売買予定価格八百万円。
査定額八十五万円。
……。
並べると、ひどい話です。
「所長!」
「何だ」
「この人、会社のお金を私物化しようとしています!」
「そうかもしれん」
「だから内容証明で、全部無効だって――」
「待て」
所長が遮りました。
「はい?」
「何が無効なんだ」
「え?」
「会社か。定款か。財産引受か」
……。
私は止まりました。
そうでした。
無効という言葉。
便利だからといって、何にでも使ってはいけません。
「今回、定款に財産引受の記載がないことが問題です」
「そうだ」
「だから、その財産引受を設立後の会社に負担させる効力が問題になる」
「そうだな」
「でも……」
私は考えました。
「それだけで、将来成立する会社そのものが全部無効になる、と決めつけてはいけません」
所長が頷きました。
「そうだ」
「定款の基本事項の欠缺とも、区別しなければいけないんですね」
「うん」
私は六法を見直しました。
定款。
株式会社の基本的なルールを定める書類。
その中には。
必ず定めなければならない事項があります。
現代の教材では、目的、商号、本店所在地、設立時出資額、発起人の氏名住所などが並んでいます。
発行可能株式総数も、設立登記までには定める必要があります。
でも。
昭和六十三年の商法は、記載項目や手続が現代と同じではありません。
当時の定款には、会社が発行する株式の総数、設立時に発行する株式の総数、公告方法、発起人の氏名住所など、当時の商法が要求する事項を記載する必要があります。
現代のチェックリストをそのまま使えば、危険です。
「先輩」
「何だ」
「昔の定款って、現代より細かいですね」
「時代が違うからな」
「こんなの、受験生には罠ですよ」
「受験生じゃなくても罠だろ」
確かに。
私は苦笑しました。
でも。
ここで、もう一つ気になることがありました。
「所長」
「何だ」
「この定款案には、発起人の報酬として何か定めがありますか?」
「調べてみろ」
私はページをめくりました。
……ない。
「ありません」
「設立費用は?」
「……こちらも、具体的な負担額が書かれていません」
「相馬」
所長が呼びました。
「はい」
「重蔵から示された設立費用の見積書はあるか」
「あります」
相馬先輩が、一枚の紙を置きました。
そこには。
――会社設立企画指導料 三百万円。
と書いてありました。
請求予定者。
杉浦重蔵。
……。
「三百万円!?」
私は叫びました。
「自分で会社を作るのに、自分へ三百万円払わせるんですか!?」
「そのつもりらしいな」
相馬先輩が言いました。
「しかも、会社に負担させる予定だそうだ」
私は頭を抱えました。
八百万円の機械。
三百万円の報酬。
合わせて。
千百万円。
会社が生まれた途端に。
社長一家へ、大金が流れる仕組みです。
「ひどい……」
私が呟くと、片桐所長が言いました。
「こはる」
「はい」
「商法が、なぜこうした事項を定款に書かせると思う」
私は考えました。
「……会社のお金が、不当に持ち出されるのを防ぐためです」
「そうだ」
「特定の発起人だけが、こっそり利益を得ないように」
「うん」
「会社の財産を、最初から空っぽにされないように……」
所長が頷きました。
「そこだ」
私は六法を握り直しました。
なるほど。
これが。
変態設立事項。
名前は少し変わっています。
でも。
守っているものは、とてもまともです。
「所長!」
私は勢いよく立ち上がりました。
「分かりました!」
「何がだ」
「定款には、三種類の記載事項があるんです!」
相馬先輩が顔をしかめました。
「急に講義を始めるな」
「違います! 事件の解決に必要なんです!」
私は定款案を指差しました。
「会社を成立させるために必要な基本事項!」
「うん」
「定款に書かなければ、その特別な取決めの効力が認められない事項!」
「うん」
「そして、書かなくてもいいけど、定款に書けば会社の正式なルールになる事項!」
相馬先輩が頷きました。
「要するに?」
「全部、同じ扱いじゃないんです!」
そうです。
定款に何かが書かれていない。
それだけで、何でも会社が無効になるわけではありません。
必要な基本事項の欠缺なのか。
特別な取決めの効力に関する問題なのか。
任意的なルールが存在しないだけなのか。
そこを区別しなければならない。
今回の事件では。
機械を八百万円で買わせる約束。
発起人への三百万円の報酬。
これらが問題です。
「しかも」
私は続けました。
「変態設立事項って、定款に書けば何でも認められるわけじゃありませんよね!」
「そうだ」
相馬先輩が頷きました。
「現物出資や財産引受の価額は、適正かどうかが問題になる」
「はい!」
「必要な調査もある。勝手に数字をでっち上げればいいってもんじゃねえ」
私は、八十五万円の査定書を見ました。
八百万円。
その差額。
七百十五万円。
これを。
「社長が決めたから」
という一言で済ませることなど、できないのです。
「所長」
「何だ」
「内容証明の原案を作ります」
「何を書く」
「美代子さんが、今の定款案には署名しないという意思です」
「うん」
「八百万円の財産引受にも、三百万円の報酬にも、承諾していないこと」
「うん」
「そして、美代子さんの氏名を発起人として勝手に使用しないよう求めることです」
所長は少し考えました。
そして。
「書いてみろ」
と言いました。
「はい!」
私は原稿用紙を取り出しました。
いよいよ。
昭和の商法による反撃です。
二時間後。
机の上には、内容証明郵便の原案がありました。
差出人。
杉浦美代子。
宛先。
杉浦重蔵。
私は読み上げました。
「第一。通知人は、貴殿が設立を予定する東海精機株式会社の定款案について、現在まで署名その他の確定的な設立同意を行っていない」
「うん」
「第二。通知人は、貴殿より発起人となるよう求められているが、現時点において、提示された定款案に基づく発起人となる意思を有しない」
「うん」
「第三。したがって、通知人の氏名を、署名又は承諾が存在するものとして設立関係書類に使用しないよう求める」
相馬先輩が頷きました。
「続けろ」
「第四。貴殿が予定する中古旋盤の購入については、売主を杉浦房江、購入代金を八百万円とする売買予約契約書が存在する」
「うん」
「第五。当該契約は、設立後の会社による財産取得を予定するものであり、商法上の財産引受に該当するかが問題となる。しかし、提示された定款案には、当該財産、その価額及び譲渡人についての必要な記載が認められない」
私は一度、息を吸いました。
「第六。商法所定の定款記載を欠く財産引受について、設立後の会社に当然にその効力を主張することはできない」
「よし」
「第七。貴殿が設立後の会社より受領することを予定する三百万円の設立企画指導料についても、発起人の報酬その他の特別の利益、又は設立費用として、商法上の検討を要する」
相馬先輩が口元を上げました。
「いいぞ」
「第八。通知人は、これらの事項について必要な説明と適法な手続がない限り、出資及び設立関係書類への署名を行わない」
私は読み終えました。
……。
静かです。
誰も怒鳴っていません。
誰も脅していません。
でも。
この書面は。
杉浦重蔵が隠していた問題を、全部並べています。
八百万円の財産引受。
三百万円の報酬。
七人目の発起人。
そして。
まだ本人が署名していないという事実。
「所長」
私は尋ねました。
「これでいいでしょうか」
所長は原案を読みました。
そして。
赤鉛筆を取りました。
……嫌な予感。
「ここ」
「はい」
「『当該財産引受は絶対に無効である』と書きたくなっただろう」
「……はい」
「書くな」
「はい」
「契約の内容、当事者、成立過程、定款との関係を正確に調べる必要がある」
「はい」
「それに、設立後に会社が改めて適法な手続で財産を購入する可能性まで、この通知で否定できるわけではない」
「あ……」
そうです。
今問題にしているのは。
設立前の財産引受です。
会社が成立した後、適法な手続によって新しく取引する場合まで、同じ話にはできません。
「こはる」
「はい」
「一つの法律問題を、何でも止められる万能の武器だと思うな」
所長が静かに言いました。
「書類は、届く範囲だけを正確に刺せ」
私は頷きました。
なるほど。
だからこそ。
怖いんですね。
余計なことを書かない。
事実を曲げない。
法律で説明できる範囲だけを書く。
その代わり。
相手が否定しにくい事実を、絶対に落とさない。
それが。
片桐行政書士事務所の戦い方なのです。
翌日。
美代子さんが、事務所へ来ました。
内容証明の最終案を、一行ずつ確認します。
「これで、お願いします」
彼女は署名しました。
杉浦美代子。
自分の名前を。
自分の意思で。
私は、その署名を見つめました。
重蔵は。
この名前を、会社設立のための七人目としてしか見ていませんでした。
でも。
この名前には。
本人の意思があります。
財産があります。
権利があります。
兄だからといって。
妹の名前を、勝手に使っていいわけではありません。
「美代子さん」
私は言いました。
「一つだけ、確認させてください」
「はい」
「本当に、この定款案には署名したくないんですね?」
「はい」
彼女は、はっきり答えました。
「私は、兄の会社を応援したかったんです」
「……はい」
「でも、他の人のお金まで集めて、あんな機械を八百万円で買わせるなんて……」
美代子さんは唇を噛みました。
「そんな会社を、一緒に作ることはできません」
私は頷きました。
「分かりました」
そして。
通知書を、内容証明郵便として発送しました。
赤いハンコ。
郵便局の証明。
発送の記録。
書かれているのは。
怒りではありません。
本人の意思と、確認された事実。
ただ、それだけです。
内容証明を発送してから三日後。
杉浦重蔵は、青い顔で事務所に現れました。
「片桐先生はいるか!」
あの大声です。
でも。
以前のような余裕はありません。
「所長はおりますが……」
私が答えると、重蔵は封筒を机に置きました。
「これだ!」
例の内容証明です。
「こんなもの、妹に出させたのか!」
相馬先輩が静かに答えました。
「杉浦美代子さんご本人の意思に基づく通知です」
「お前らが余計な知恵をつけたんだろ!」
「書面の内容は、ご本人が確認されています」
重蔵は歯ぎしりしました。
「七人目がいなけりゃ、会社が作れねえんだぞ!」
……。
私は思いました。
やっぱり。
そこなんですね。
妹が心配なのではない。
会社設立ができなくなることが、心配なのです。
「杉浦さん」
片桐所長が奥から出てきました。
「何でしょう」
重蔵が振り向きます。
「会社を設立するのであれば、必要な発起人をそろえ、定款を作成し、適法な手続を踏むことになります」
「そんなことは分かってる!」
「そうですか」
「だから、妹が必要なんだ!」
所長は短く言いました。
「本人は承諾していません」
……。
重蔵の顔が歪みました。
「妹だぞ!」
「それが?」
「身内なんだぞ!」
「身内でも、別の人間です」
所長の声は、静かでした。
でも。
その一言は。
重蔵の怒鳴り声より、ずっと重く響きました。
重蔵は何か言いかけました。
けれど。
言葉が出てきません。
そのとき。
相馬先輩が口を開きました。
「それと、機械の件ですが」
「……何だ」
「お送りした書面のとおり、定款に記載のない財産引受を、設立後の会社に当然に負担させることはできません」
「……」
「発起人報酬の件も同様に、所定の規律があります」
「……」
「仮に必要な定款記載を整えたとしても、今度は価額の適正さや調査の問題が残ります」
重蔵の顔色が変わりました。
「……調査?」
「はい」
「何の調査だ」
「財産の価額が適正かどうかです」
相馬先輩は淡々と言いました。
「八十五万円と査定された旋盤を、八百万円で会社に取得させる。その価格について、根拠を問われることになります」
重蔵は黙りました。
「しかも、売主はあなたの奥様です」
……。
沈黙。
重蔵の額に、汗が浮かびました。
「お、お前ら……」
相馬先輩は、そこで言葉を止めました。
それ以上の交渉はしません。
依頼人の代理人として、値段を下げさせたり、契約の撤回を迫ったりはしません。
ただ。
既に本人名義で通知された書面の内容を、確認しただけです。
なのに。
重蔵は椅子に座り込みました。
「……何なんだよ」
小さな声。
「会社ってのは、俺が作るんだろ……?」
片桐所長が答えました。
「会社を作る人間だからこそ、守らなければならないことがあります」
「……」
「会社は、設立者の財布ではありません」
重蔵は俯きました。
そして。
「……分かった」
と呟きました。
「何がでしょう」
所長が尋ねます。
「……あの定款案は、使わん」
私は顔を上げました。
「機械の売買予約も、見直す」
重蔵は苦々しげに言いました。
「三百万円の報酬も、取り下げる」
……!
私は思わず、相馬先輩を見ました。
先輩は表情を変えません。
「その判断は、ご自身でなさってください」
ただ、それだけ言いました。
一週間後。
東海精機株式会社の設立計画は、いったん白紙になりました。
重蔵が、他の発起人候補へ事情を説明したところ。
八百万円の機械購入。
三百万円の報酬。
そして、それらが定款案に記載されていなかったこと。
この三つが問題になったそうです。
特に。
発起人の一人だった取引先の経営者は、厳しい言葉を重蔵に向けたといいます。
「そんな話、聞いていないぞ」
当然です。
誰だって。
会社を作るためにお金を出すのであって。
社長一家にお金を配るために、出資するわけではありません。
発起人の人数がそろっていても。
肝心の信頼がなければ。
会社は始まりません。
結局、重蔵は。
機械の売買予約について、妻と協議して解消することになりました。
設立企画指導料の請求予定も撤回。
さらに。
集めていた出資の約束についても、一から見直すことになったのです。
もちろん。
内容証明を送ったからといって、あらゆる契約が自動的に消えたわけではありません。
重蔵自身が問題を認め、関係者と確認し直した結果です。
でも。
そのきっかけを作ったのは。
定款に書かれていない事項を見抜いた、一通の通知書でした。
「ありがとうございました」
美代子さんが、事務所で頭を下げました。
表情は、以前よりずっと明るくなっています。
「兄は、まだ怒っていますけど……」
「そうですか」
私が言うと、彼女は苦笑しました。
「でも、少し反省したみたいです」
「本当ですか?」
「はい。今度は、自分の商売をちゃんと大きくしてから、会社を作ると言っています」
「それなら、いいですね」
美代子さんは頷きました。
「実は、私も……」
「はい?」
「兄の技術は、本当にすごいと思っているんです」
私は顔を上げました。
「昔から、壊れた機械を直すのが得意で」
「はい」
「町工場の人たちにも、頼りにされているんです」
彼女は少し笑いました。
「だからこそ、あんなことをしてほしくなかった」
……。
なるほど。
美代子さんは。
兄の会社設立を邪魔したかったわけではありません。
むしろ。
きちんとした会社を作ってほしかった。
そのために。
間違った計画には、署名しなかったのです。
「美代子さん」
私は言いました。
「もし、もう一度会社を作ることになったら……」
「はい」
「そのときは、ちゃんとした定款を作りましょう」
「……はい!」
彼女は笑いました。
「今度は、私も内容を読んでから署名します」
「それが一番です!」
私は笑顔で答えました。
会社を作る。
それは、夢を形にすることです。
でも。
夢があるからといって。
他人のお金を自由に使っていいわけではありません。
夢を実現するためにも。
守らなければならない約束があるのです。
美代子さんが帰ったあと。
私は机に向かっていました。
「相馬先輩」
「何だ」
「今日、定款の意味が分かった気がします」
「ほう」
「最初は、ただの会社のルールだと思っていたんです」
「うん」
「でも、違うんですね」
私は定款案を見ました。
目的。
商号。
本店。
株式。
発起人。
そして。
財産引受。
発起人の報酬。
設立費用。
これらを定款に書くということは。
会社が生まれる前に。
何を約束しているのか、明らかにするということです。
「定款って、会社を作る人を縛るためだけの書類じゃないんですね」
「そうだな」
「出資する人を守るためでもある」
「うん」
「会社と取引する人を守るためでもある」
相馬先輩が頷きました。
「特に設立時はな」
「はい」
「会社が生まれたばかりのときに、財産を抜かれたらどうなる?」
「会社にお金がなくなります」
「そうだ」
「仕入先にも、お金を払えなくなるかもしれない」
「うん」
「従業員の給料だって……」
私は言葉を止めました。
そうです。
会社設立の書類。
ただの形式ではありません。
その向こうには。
将来、働く人がいる。
取引する人がいる。
商品を買う人がいる。
そして。
出資したお金を失うかもしれない人がいる。
「だから、財産引受や発起人の報酬には、厳しいルールがあるんですね」
「そういうことだ」
相馬先輩は煙草に火をつけました。
「会社ってのはな」
「はい」
「作るのは人間だが、作った人間の持ち物そのものじゃねえんだ」
私は頷きました。
なるほど。
この言葉。
覚えておきたいです。
「ところで先輩」
「何だ」
「昭和の株式会社って、やっぱり不便ですよね」
「またそれか」
「だって発起人七人ですよ!」
「そうだな」
「取締役三人に監査役まで!」
「そうだな」
「人数をそろえるだけで大変じゃないですか!」
相馬先輩は煙を吐きました。
「だから、名前だけ貸す人間が出てくるんだろ」
「……あ」
そうでした。
今回の事件でも。
美代子さんは、七人目の発起人として名前を求められていました。
実際に事業を運営したいわけではない。
ただ。
法律上必要な人数をそろえるため。
「それって、制度としてどうなんでしょう……」
私は呟きました。
「人数を増やせば、会社が健全になるとは限らないですよね」
「当たり前だ」
「逆に、名前だけの発起人や役員が増えてしまうこともある」
「そうだな」
私は少し考えました。
令和の会社法。
一人で株式会社を作ることもできる。
小さな会社なら、取締役一人という形も選べる。
合同会社という制度もある。
もちろん。
現代でも、不正をしていいわけではありません。
財産引受や現物出資に関する規律もあります。
定款も必要です。
でも。
必要以上に形式的な人数をそろえなくても、事業を始められるようになっている。
つまり。
会社を作りやすくすることと。
会社を悪用させないこと。
その両方を考えているんですね。
「先輩」
「何だ」
「昔の商法を知ると、今の会社法がどうしてああなったのか、少し分かる気がします」
「今の会社法?」
「……あ」
しまった。
また未来の話です。
「い、いえ!」
「何だよ」
「いつか、もっと簡単に会社を作れる時代が来るかもしれないなって!」
相馬先輩は鼻で笑いました。
「そんなに簡単に会社を作れるようになったら、変な社長が増えるんじゃねえか?」
「それは……」
私は考えました。
確かに。
会社を作るハードルが低くなれば。
誰でも会社を始めやすくなる。
その一方で。
会社の仕組みを理解しないまま、経営者になる人もいるかもしれない。
「だからこそ、会社を作るときのルールが大事なんじゃないでしょうか」
「ほう」
「人数だけそろえても駄目ですし、資本金が少ないからといって必ず駄目なわけでもありません」
「うん」
「大切なのは、出資した財産をちゃんと会社のために使って、法律を守ることだと思います」
相馬先輩は少し黙りました。
そして。
「まあ、そうだな」
と答えました。
……。
褒められた?
今、褒められましたよね?
「先輩!」
「何だ」
「今の、いいこと言いましたよね!」
「自分で言うな」
「だって!」
「調子に乗るな」
……。
いつもの相馬先輩でした。
そのとき。
片桐所長が、奥から一冊の帳簿を持ってきました。
「こはる」
「はい!」
「一つ聞く」
「何でしょう!」
「株式会社の設立で、一番大切な書類は何だ」
「定款です!」
「なぜだ」
「会社の基本的なルールを定めるからです!」
「それだけか」
「……え?」
所長が、今回の定款案を指差しました。
「この書類のどこに、杉浦重蔵の欲が表れていた」
私は考えました。
そして。
「あ……」
気づきました。
「書いていないところです」
所長が頷きました。
「そうだ」
「八百万円の財産引受」
「うん」
「三百万円の報酬」
「うん」
「本当は会社に負担させたいのに、定款には書かなかった」
所長が静かに言いました。
「定款は、書いてあることだけを見る書類じゃない」
「……はい」
「書かなければならないのに、書いていないことを見る書類でもある」
私は息を呑みました。
なるほど。
これは。
法律の勉強だけでは、なかなか気づけないことです。
問題集では。
「次のうち、定款の相対的記載事項はどれか」
と聞かれます。
そこで。
現物出資。
財産引受。
発起人の報酬。
設立費用。
と答える。
それで正解。
でも。
現実の仕事では。
その項目が何を意味しているのか。
なぜ書かれていないのか。
書かれないことで、誰が得をするのか。
そこまで考えなければならない。
「所長」
「何だ」
「定款って、怖い書類ですね」
「そうか」
「はい」
所長は、ほんの少し笑いました。
「怖いのは、定款じゃない」
「え?」
「定款に書けないことを、やろうとする人間だ」
……。
私は、しばらく黙りました。
そして。
大きく頷きました。
夕方。
事務所の窓から、西日が差し込んでいました。
私は、机の上に置いた定款案を見つめました。
もし。
美代子さんが、何も考えずに署名していたら。
もし。
他の発起人も、会社を作ることだけを考えていたら。
もし。
八百万円の機械購入や三百万円の報酬について、誰も疑問を持たなかったら。
東海精機株式会社は。
設立前から、大きな問題を抱えることになっていたでしょう。
そして。
会社のお金が失われれば。
そのしわ寄せは、社長だけに降りかかるわけではありません。
従業員。
取引先。
出資者。
多くの人が、影響を受けます。
でも。
今回は違いました。
一人の女性が、定款に署名する前に立ち止まった。
そして。
法律のルールを確かめた。
それだけで。
危険な計画を、会社が生まれる前に見直すことができたのです。
「相馬先輩」
「何だ」
「会社の設立って、会社ができた瞬間がスタートじゃないんですね」
「ほう」
「会社ができる前から、もう法律の世界なんですね」
相馬先輩が頷きました。
「当たり前だ」
「ですよね」
「発起人が誰か。何を出資するか。会社が何を引き受けるか。誰が経営するか」
「はい」
「そこを決める前から、会社の運命は始まってるんだよ」
私は小さく笑いました。
そして。
ノートを開きました。
今日は、まだ詳しい法理の整理はしません。
それは、次のお楽しみです。
でも。
忘れたくないことが、一つあります。
――会社を作る自由は、会社のお金を私物化する自由ではない。
私は、その一行を書きました。
よし。
これなら忘れません。
「ところで、こはる」
相馬先輩が言いました。
「はい?」
「さっき、資本金一円で株式会社が作れるとか言ってたな」
「……はい」
「何の冗談だ?」
「ええっと……」
私は困りました。
昭和六十三年。
この時代には、平成二年の商法改正による株式会社の最低資本金一千万円制度も、まだ導入されていません。
でも。
だからといって、令和の資本金一円会社をそのまま持ち込めるわけではありません。
額面株式など、当時の制度には別の制約があります。
そもそも。
発起人七人。
取締役三人。
監査役。
必要な人を集めるだけでも大仕事です。
「先輩」
「何だ」
「時代によって、会社を作るルールって変わりますよね」
「そりゃ変わるだろうな」
「でも、守ろうとしているものは、そんなに変わらないのかもしれません」
「何をだ?」
「会社にお金を出す人と、会社を信用して取引する人です」
相馬先輩は、少し考えました。
「まあな」
「だから、現代では会社を作りやすくしても、定款や財産引受のルールは残っているんだと思います」
「現代?」
「……あ」
しまった!
「お前、また変なこと言ってるぞ」
「い、いえ!」
「今度は何だ?」
「未来の株式会社について、ちょっと想像してただけです!」
相馬先輩が呆れました。
「お前はまず、目の前の商法を覚えろ!」
「はいっ!」
私は慌てて六法を閉じました。
でも。
心の中では、少し嬉しくなっていました。
会社法。
昔は、商法の中に置かれていた。
そして、長い年月を経て。
会社の制度が整理され、独立した法律になっていく。
私は、その未来を知っています。
でも。
今、目の前にあるのは。
昭和六十三年の商法。
古くて。
堅苦しくて。
七人も発起人を集めなければ株式会社を作れない法律です。
それでも。
その商法には。
会社の財産を守ろうとする仕組みが、ちゃんとある。
社長の欲望から。
出資者の財産を守るための仕組みが。
「こはる!」
相馬先輩が声をかけました。
「はい!」
「次の相談票、取れ!」
「え?」
「電話だ!」
私は慌てて受話器を取りました。
「はい、片桐行政書士事務所です!」
『あのう……』
男性の声でした。
『株式会社を作ろうと思っているんですが……』
「はい!」
『現金が足りないので、土地を出資したいんです』
……。
土地?
出資?
私は目を見開きました。
「土地を、ですか?」
『はい。私の土地を会社に入れて、その分の株をもらおうと思っていて……』
あ。
分かりました。
今度は。
現物出資です。
『ところが、一緒に会社を作る人が、土地の値段を二千万円にしようって言うんです』
「二千万円?」
『でも、不動産屋に聞いたら、五百万円くらいだって……』
……。
またですか。
八十五万円の旋盤を八百万円にした人の次は。
五百万円の土地を二千万円ですか。
昭和の会社設立。
どうやら。
数字を大きくするのが大好きな人が、たくさんいるようです。
「先輩!」
「何だ!」
「今度は現物出資です!」
「聞こえてる!」
「土地の値段が四倍です!」
「だから聞こえてる!」
「これも変態設立事項ですよね!」
相馬先輩が、煙草を灰皿に押しつけました。
「こはる」
「はい!」
「まず、何を調べる?」
私は、今朝の定款案を思い出しました。
そして。
答えました。
「誰が、何を、いくらの価値として会社に出資しようとしているのか!」
「それから?」
「その内容が、定款にどう書かれているのか!」
「よし」
「さらに、価額の根拠と必要な調査です!」
相馬先輩が頷きました。
「少しは分かってきたな」
……!
褒められました!
今度こそ、褒められました!
「先輩!」
「何だ!」
「今日の私は、昨日より成長してます!」
「だったら電話を待たせるな!」
「あっ!」
私は慌てて受話器を握り直しました。
「失礼しました! まず、その土地について詳しく教えてください!」
昭和六十三年。
片桐行政書士事務所。
今日もまた。
会社を作ろうとする人間の欲望が、定款の向こう側に見え隠れしています。
でも。
もう、私は知っています。
会社の設立は。
単に名前を決めて、ハンコを押すことではありません。
誰が会社を作るのか。
何を出資するのか。
会社にどんな義務を負わせるのか。
誰が特別な利益を得ようとしているのか。
そして。
その約束が、法律に従って定款に書かれているのか。
そこを確かめることが。
会社を守る第一歩なのです。
会社は。
登記が終わってから、初めて守ればいいものではありません。
生まれる前から、守らなければならないものなのです。
私は受話器を握りながら、心の中で呟きました。
――定款は、会社が生まれる前に交わす、未来への約束。
だからこそ。
その約束から消された一行には。
ときとして。
社長の本当の狙いが、隠されているのです。
以下に私の作品へのリンク貼ってます。是非、手に取って頂ければと思います。また、ついでに評価ブックマーク頂ければ幸いです。




