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こはる行政書士見習帖 〜 昭和に転生して許認可に振り回されると試験知識が骨身にしみます 〜  作者: 条文小説
〈商法・会社法 配点20点/300点〉 株式会社の設立

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606/701

[会社法・株式会社の概要]法理編 こはるノート

挿絵(By みてみん)

 会社の持ち主だからといって、会社の借金まで自分の財布から払う必要はありません。


 でも。


 会社の持ち主なのに、会社の財産を勝手に使うこともできません。


 ……あれ?


 何だか、不思議ですよね。


 株式会社のオーナーは、株主です。


 ところが。


 株主は、会社の財産を直接所有しているわけではない。


 会社に出資したお金は、会社のものになる。


 会社が失敗すれば、株式の価値がなくなることもある。


 それなのに。


 会社が百億円の借金をして倒産しても、原則として株主が自分の財産で百億円を返す必要はない。


 これが。


 株式会社の基本中の基本。


 そして、行政書士試験でも重要な、


 ――株主の間接有限責任。


 という仕組みです。


 昭和六十三年。


 夕方の片桐行政書士事務所。


 私は机に向かい、ノートを開いていました。


 表紙には大きく、


 ――こはるノート・商法編。


 と書いてあります。


「……株式会社って、ややこしいですね」


 私が呟くと、相馬先輩が新聞から顔を上げました。


「何だ、いきなり」


「会社の持ち主なのに、会社の借金を払わなくていいんですよ」


「ああ」


「でも、会社の財産を勝手に使うのは駄目なんですよ」


「当たり前だろ」


「その当たり前が、昔の私には分からなかったんです!」


 相馬先輩は煙草をくわえました。


「だったら、藤井さんの事件を思い出せ」


 私は手を止めました。


 藤井澄江さん。


 四十八歳。


 駅前で洋裁店を営む女性。


 十年前、地元の工場を応援するために十万円を出資した。


 ところが。


 会社の経営が苦しくなった途端、黒川社長から、


 ――株主なのだから、会社の借金三百万円を負担しろ。


 という通知が届いた。


 娘さんの学費のために貯めたお金まで、奪われそうになったのです。


「でも、澄江さんには会社の借金を払う義務がなかったんですよね」


「株主だからという理由だけではな」


「はい」


 しかも。


 調べてみると、黒川社長自身が会社から五百万円を借りていた。


 その貸付けを承認したという取締役会議事録には。


 五年前に亡くなった人の名前が、出席者として記載されていたのです。


「……あの議事録、怖かったですね」


「死んだ人間が取締役会に出てくるんだからな」


「会社法以前に、怪談ですよ!」


「怪談で済めばいいがな」


 相馬先輩が言いました。


「あれは、会社の金の使い道に関わる話だ」


 そうです。


 株主の責任。


 会社の財産。


 取締役の責任。


 それぞれ違う。


 その違いを混同したから、黒川社長は大きな間違いを犯したのです。


「よし!」


 私は鉛筆を握りました。


「今日は、株式会社の基本を完全に整理します!」


「昨日もそんなこと言ってなかったか」


「昨日は現場です! 今日は法理です!」


「便利な言い訳だな」


 そこへ、奥から片桐所長が声をかけました。


「相馬」


「はい」


「付き合ってやれ」


「……所長まで」


 よし。


 今日も強制勉強会、開催です。


 ◇


「まず、株式会社とは何か、です!」


 私はノートに大きく書きました。


 ――株式会社。


「株式会社は、株式を発行して出資を集め、事業を行う会社です」


「うん」


「株式を持つ人が株主になります」


「そうだ」


「そして、株式会社は株主とは別の法人格を持っています」


 私は、そこに赤線を引きました。


 法人格。


 これが大切です。


 たとえば。


 私が一人で洋裁店を開いたとします。


 個人事業です。


 店のために百万円を借りたら。


 原則として、それは私自身の借金です。


「こはる洋裁店、開業ですね!」


「お前、洋裁できるのか」


「……ボタンくらいなら」


「店を開く前に修業しろ」


「たとえ話です!」


 私は咳払いしました。


「では、その事業を株式会社で行った場合はどうでしょう」


 会社が銀行から百万円を借りた。


 契約上の借主は、株式会社。


 つまり。


 会社自身が債務者です。


「株主が一人しかいなくてもですか?」


 私は聞きました。


「そうだ」


 相馬先輩が答えました。


「会社と株主は、法律上は別の主体だ」


「なるほど」


 私はノートに二つの丸を書きました。


 一つ。


 株式会社。


 もう一つ。


 株主。


 そして、その間に線を引きました。


「この二つを混同しないことが、株式会社を理解する第一歩なんですね」


「そういうことだ」


 片桐所長が言いました。


「ただし、会社が別人格だからといって、何をしても許されるわけではない」


「はい」


「会社の独立性と、個人の違法行為に対する責任は、分けて考えろ」


 私は頷きました。


 今回の黒川社長が、まさにその例です。


 会社が借金した。


 それだけでは、社長個人が当然に返済義務を負うわけではない。


 でも。


 社長が会社に損害を与える違法な行為をしたなら。


 その行為について、別に責任が問題になる。


 だから。


 会社と個人を区別することは。


 責任を消すことではなく。


 誰が、何について責任を負うのかを明確にすることなのです。


 ◇


「次は、株主です!」


 私はノートをめくりました。


 ――株主。


 株式会社の株式を持っている人。


「分かりやすく言えば、会社のオーナーですね」


「ああ」


「ただし、会社の資産を直接共有しているという意味ではありません」


 私は、昨日の黒川社長を思い出しました。


 東海精密部品株式会社。


 発行済株式二百株。


 そのうち、黒川社長は百六十株を持っていました。


「社長の持株割合は八十パーセントでしたね」


「そうだ」


「つまり、大株主です」


「ああ」


「でも、工場の機械の八十パーセントが黒川社長個人の所有物になるわけではない」


「そのとおり」


 私は大きく頷きました。


 ここ。


 かなり重要です。


 株主は、会社のオーナー。


 でも。


 会社の土地や建物、機械、預金を、持株割合に応じて直接所有するわけではありません。


 それらは、会社自身の財産です。


「じゃあ、株主は何を持っているんですか?」


 私は自分で問いかけました。


 相馬先輩が答えます。


「株式だろ」


「そうです!」


 私は大きく書きました。


 ――株主が所有しているのは、会社の財産そのものではなく、株式。


「じゃあ、その株式には何の意味がある?」


 先輩が聞きました。


「株主としての権利が認められます」


「言ってみろ」


 私は指を一本立てました。


「まず、剰余金の配当を受ける権利です」


 会社が利益を上げる。


 一定の条件を満たし、配当が決められる。


 すると、株主は保有株式に応じて配当を受けられます。


「ただし、毎年必ず配当があるわけじゃありません」


「そうだな」


「赤字の会社なら、配当できないこともあります」


 次に。


 議決権。


「株主総会で、会社の重要事項について議決に参加する権利です」


 取締役を選任する。


 定款を変更する。


 会社の重要な意思決定をする。


 そういう場面で、株主が議決権を行使します。


「ただし、株式の内容などによって議決権に違いがある場合もあります」


「うん」


「そして、残余財産の分配を受ける権利」


 会社が解散し、清算される。


 債務を支払った後に財産が残れば、株主に分配されることがあります。


「でも先輩」


「何だ」


「会社が倒産して借金を返せないなら、普通は株主に分けるお金なんて残りませんよね」


「そうだな」


「つまり、株主は最後に残ったものを受け取る立場でもあるんですね」


 片桐所長が頷きました。


「会社の債権者より先に、株主が勝手に財産を取り出せるわけではない」


「はい」


 なるほど。


 会社のオーナーだからといって。


 すべてに優先するわけではありません。


 株主には権利がある。


 しかし、その権利は会社という仕組みの中で行使するもの。


 会社の財産を、自分の財布のように取り出す権利ではないのです。


 ◇


「では、次は株式です!」


 私はノートに書きました。


 ――株式。


 株式会社における社員としての地位を、割合的な単位に分けたもの。


「……難しいですね」


 私は自分で言いました。


「自分で書いておいて何だ」


「受験用語って、どうしてこう硬いんでしょう」


「文句を言う前に説明しろ」


「はい!」


 私は紙に数字を書きました。


 一株一万円。


 一千株発行。


「会社が一株一万円で株式を一千株発行し、全部引き受けてもらって払い込まれたら?」


 相馬先輩が答えました。


「一千万円だな」


「そうです!」


 一万円を、一千倍。


 一千万円。


 会社は株式の発行によって、一千万円の資金を調達できる。


 そして。


 一株を引き受けた人は、一株分の株主。


 百株を引き受けた人は、百株分の株主。


「つまり、会社は株式という仕組みを使って、複数の人から資金を集められるんですね」


「そうだ」


 私は頷きました。


 もし一人で一千万円を用意しなければならなかったら。


 会社を始めるのは、大変です。


 でも。


 百人が十万円ずつ出資すれば。


 一千万円を集められる。


 多くの人が、少しずつ事業を支えることができるのです。


「これ、すごい発明ですよね!」


「まあな」


「一人ではできない大きな仕事も、みんなで資金を出せばできる!」


「そうだ」


「工場を建てたり、機械を買ったり、人を雇ったり!」


「うん」


 私は、藤井澄江さんを思い出しました。


 洋裁の仕事で貯めた十万円。


 それを、地元の工場を応援するために出資した。


 その十万円が、別の人の出資と合わさって。


 大きな事業の資金になる。


「……なるほど」


 私は鉛筆を止めました。


「株式って、お金を集めるためだけの紙じゃないんですね」


 片桐所長が答えました。


「そうだな」


「事業を、多くの人の出資で支えるための仕組みなんですね」


「そうだ」


 私は、大きく丸をつけました。


 これなら忘れません。


 ◇


「ところで先輩」


「何だ」


「昭和六十三年って、まだ額面株式があるんですよね」


「ああ」


「昨日の澄江さんの株券にも、一株五万円って書いてありました」


「そうだな」


 私は、あの黄ばんだ株券を思い出しました。


 ――額面株式。


 ――一株の金額五万円。


 ――二株。


 澄江さんは、その二株を十年間、大切に保管していた。


「でも、現代は無額面株式ですよね」


 相馬先輩が怪訝な顔をしました。


「無額面?」


 ……しまった。


 また未来です。


「あ、いえ、その……」


「何を言ってるんだ、お前は」


 私は慌てて言いました。


「昭和の株式には、額面株式と無額面株式がありますよね!」


「そうだ」


「それが、将来は無額面株式に一本化される方向に……」


「将来?」


「……夢で見ました」


「便利な夢だな」


 先輩が呆れました。


 私は咳払いしました。


 昭和六十三年。


 額面株式の制度は現役です。


 でも、額面に書かれた金額と、株式の実際の価値は同じとは限りません。


「たとえば、額面五万円の株券でも」


 私は言いました。


「会社の業績が悪ければ、その株式の価値は五万円より低くなることがあります」


「そうだ」


「逆に、会社が成長すれば高くなることもあります」


「うん」


「つまり、株券に五万円と書いてあるから、必ず五万円で換金できるわけではない」


「そのとおり」


 私は頷きました。


 ここも重要です。


 株式は預金通帳ではありません。


 会社に十万円を出資した。


 だから、いつでも会社に十万円を返してもらえる。


 そういうものではないのです。


「先輩」


「何だ」


「澄江さんは、十万円を出資しましたよね」


「ああ」


「その十万円が、会社の経営不振で戻らなくなることはある」


「そうだ」


「でも、会社の借金を理由に追加で三百万円を請求されるわけではない」


 相馬先輩が頷きました。


「そこが次の話だ」


 私は、ノートのページをめくりました。


 いよいよ。


 今回の事件の核心です。


 ◇


「株主の間接有限責任!」


 私は大きく書きました。


 ――間接有限責任。


「名前からして難しいです!」


「また文句か」


「だって、間接と有限がくっついてるんですよ!」


「分けて考えろ」


「……分ける?」


 相馬先輩は頷きました。


「まず、有限責任だ」


「はい」


「責任が、一定の限度にとどまるってことだな」


「そうです」


 株式会社の株主は、原則として株式の引受価額を限度として責任を負います。


 たとえば。


 十万円を出資した。


 会社が失敗した。


 株式の価値がゼロになった。


 その場合、株主は十万円を失う。


 でも。


 株主だからという理由だけで、それ以上の会社の借金を払う必要はない。


「では、間接とは何か」


 私は言いました。


 相馬先輩が答えました。


「会社の債権者に対して、株主が直接責任を負うわけじゃねえってことだ」


「そうです!」


 私は赤線を引きました。


 ここ。


 絶対に間違えたくありません。


 直接責任。


 間接責任。


 言葉は似ています。


 でも、意味は大きく違います。


「たとえば、会社が銀行から百億円を借りたとします」


「ずいぶん借りるな」


「極端な例のほうが覚えやすいんです!」


 私は続けました。


 株式会社X。


 銀行から百億円を借入れ。


 株主A。


 出資額十万円。


 その後、株式会社Xが経営破綻。


「ここで銀行が、株主Aに言いました」


 私は声を低くしました。


「会社が百億円を返せなくなった! 株主のお前が返せ!」


 相馬先輩が顔をしかめました。


「黒川そっくりだな」


「そうなんです!」


 私は鉛筆を振りました。


「でも、株主Aは会社の借金について、当然には返済義務を負いません」


「そうだ」


「株主Aが失う可能性があるのは、出資した十万円です」


 私は二重線を引きました。


 百億円。


 会社の借金。


 十万円。


 株主の出資額。


 この二つは、まったく違います。


「じゃあ、百億円を借りた会社が倒産しても、株主は無傷なんですか?」


 私は自分で問いかけました。


 相馬先輩が首を振りました。


「無傷じゃねえだろ」


「そうです」


 十万円を出資した。


 その十万円が戻らなくなる。


 これは、ちゃんと損失です。


 でも。


 出資を失うことと。


 出資額を超えて会社の借金を負担することは違う。


「だから有限責任なんですね」


「そうだ」


「では、間接責任は?」


「会社の債権者が株主に直接請求するのが原則じゃねえ、ということだ」


「はい!」


 私は大きく書きました。


 ――株主は会社に出資する。会社債権者に対して、株主であることだけを理由に直接弁済義務を負わない。


 なるほど。


 だから。


 藤井澄江さんは守られたのです。


 十万円を出資した。


 その払込みは終わっている。


 保証人にもなっていない。


 会社の借金について、別に責任を負う事情も確認されていない。


 だから。


 黒川社長の、


「株主だから三百万円払え」


 という請求には、根拠がなかった。


「所長」


「何だ」


「でも、出資の払込みが終わっていなかったら、どうなりますか?」


 片桐所長が頷きました。


「いい質問だ」


 私は驚きました。


「褒められました!」


「話を聞け」


「はい!」


 所長は言いました。


「株式を引き受けた者が、法律上必要な払込みをしていないなら、その出資義務の問題は残る」


「はい」


「有限責任とは、出資の約束を守らなくてもいいという意味ではない」


 私は頷きました。


 なるほど。


 十万円を出資すると約束した。


 なのに、払っていない。


 それなら、出資に関する義務が問題になる。


 一方。


 十万円をきちんと払い終えた株主に対して。


 会社が赤字になったから、追加で三百万円払え。


 と一方的に請求することはできない。


 今回の澄江さんは、後者だったのです。


 ◇


「さて、ここで一つ注意点だ」


 相馬先輩が言いました。


「はい?」


「有限責任だからといって、株主が絶対に追加の支払いをしないとは限らねえ」


「……え?」


 私は鉛筆を止めました。


「どういうことですか?」


「たとえば、銀行から金を借りるとき、株主が個人で保証人になっていたら?」


 あ。


「保証債務を負うことがあります!」


「そうだ」


 つまり。


 株主としての責任。


 保証人としての責任。


 これは別です。


 私はノートに二つ書きました。


 ――株主としての責任は有限。


 ――個人保証をした場合は、保証契約に基づく責任が別に生じる。


「これ、すごく重要ですね」


「ああ」


「株主だから払わなくていい、という話と、保証人だから払わなければならない、という話は両立するんですね」


「そういうことだ」


 そして、もう一つ。


 取締役の責任。


「黒川社長ですね」


「ああ」


 黒川社長は、株式の八十パーセントを持っていました。


 株主としては、大株主。


 でも同時に。


 代表取締役でもあります。


「ここで大切なのは、同じ人間でも立場が違うことです」


 私は言いました。


「株主としての黒川さんと、取締役としての黒川さんは、分けて考える必要があります」


 相馬先輩が頷きました。


「そうだ」


 株主としては有限責任。


 でも。


 取締役として、法令や定款に違反したり、会社に対する義務に違反したりして損害を生じさせた場合には、別の責任が問題になります。


「今回の五百万円の貸付けも、そうですね」


「ああ」


「会社の資金を社長個人のために使った疑いがあった」


「そうだ」


「しかも、貸付けを承認した取締役会議事録には、亡くなった人の名前が書かれていた」


 私は身震いしました。


「……あれ、やっぱり怖いです」


「怖いのは名前じゃねえ」


 相馬先輩が言いました。


「そんな書類を平気で作ってたことだ」


 確かに。


 会社を自分の財布だと思い込んでいた。


 大株主だから、何をしても許されると思っていた。


 それが、黒川社長の最大の間違いだったのです。


「所長」


「何だ」


「株主の有限責任って、経営者を甘やかす制度じゃないんですね」


「そうだ」


「出資の危険を一定の範囲に限定することで、人がお金を出しやすくする」


「うん」


「でも、経営者が会社に損害を与えたら、その行為について別に責任を問われることがある」


「そのとおりだ」


 私は大きく頷きました。


 株式会社。


 有限責任。


 それは、誰かが無責任になるための仕組みではありません。


 出資者が負担する危険の範囲を明確にすることで、事業に必要なお金を集めやすくする制度なのです。


 ◇


「次は資本金です!」


 私はノートをめくりました。


 ――資本金。


「これも、最初は勘違いしていました」


「どう勘違いした」


 相馬先輩が聞きました。


「資本金一千万円の会社には、現金一千万円があると思っていたんです」


「……」


「そんな顔しないでください!」


「いや、初心者なら勘違いする奴もいるだろうな」


「ですよね!」


 私は嬉しくなりました。


 でも。


 資本金と、会社が今持っている現金は違います。


「まず、分かりやすい例で考えます」


 私はノートに書きました。


 一株一万円。


 一千株発行。


 全株式の払込み完了。


 集まったお金。


 一千万円。


「この一千万円を、全額資本金に計上したとします」


「うん」


「そうすると、資本金一千万円の株式会社になります」


 ここまでは簡単です。


 でも。


「その会社が、八百万円の機械を買ったら?」


 相馬先輩が答えました。


「現金は二百万円になるな」


「はい」


「機械は八百万円分ある」


「そうです」


 私は図を書きました。


 最初。


 現金一千万円。


 機械購入後。


 現金二百万円。


 機械八百万円。


「では、資本金は?」


「一千万円だな」


「そうです!」


 私は大きく頷きました。


 機械を買ったからといって、資本金が八百万円減るわけではありません。


 会社の財産の形が変わったのです。


 現金から機械へ。


 もちろん、機械の価値は時間とともに変わることがあります。


 減価償却もあります。


 でも。


 設備を買うたびに、資本金の額が減るわけではありません。


「じゃあ、先輩」


「何だ」


「会社が赤字になったら、資本金はどうなりますか?」


「損失が出ただけで、資本金の額が自動的に減るわけじゃねえ」


「そうなんです!」


 私は赤線を引きました。


 ここ。


 かなり重要です。


 資本金一千万円。


 これは、会社が現在持っている現金の額ではない。


 会社が現在持っている財産の総額とも、必ずしも一致しない。


 会計上の資本の一項目なのです。


「だから黒川社長の、資本金一千万円だから安心だ、という説明も正確ではなかったんですね」


「そうだ」


 片桐所長が頷きました。


「資本金の額だけを見て、会社の安全性を判断するな」


「はい」


「借金がいくらあるか。現金がどれだけあるか。利益や損失はどうか。会社の実態を見る必要がある」


「はい!」


 私はノートに大きく書きました。


 ――資本金と、会社の現在の現金残高は別物。


 なるほど。


 資本金一千万円。


 この数字を見て、立派な会社だと思う。


 でも、実際には現金がほとんどなく、借金だらけかもしれない。


 逆に。


 資本金が少なくても、利益を積み重ねて財産が増えている会社もあります。


「資本金だけで、会社の信用は決まらないんですね」


「そうだな」


 相馬先輩が答えました。


 ◇


「ところで」


 私は鉛筆を止めました。


「資本金って、株式で集めたお金が全部そのままなるんですか?」


 片桐所長が顔を上げました。


「必ずしもそうではない」


「ですよね!」


 私は頷きました。


「資本準備金という仕組みがありますから」


 現代でも、株式発行時の払込額について、法律の定めに従って一部を資本準備金とすることができます。


 だから。


 一千万円を払い込んでもらった。


 その全額が必ず資本金になる。


 とは限らないのです。


「さっきの例では、簡単にするために全部を資本金にしました」


「そうだな」


「でも、厳密には払込金額と資本金の額は区別する必要があります」


「うん」


 私はそこに小さく注記しました。


 ――株式発行による払込額の全額が、必ず資本金になるわけではない。


 よし。


 受験勉強としては、ここも押さえておきたいところです。


 ただし。


 今回の本質は、もっと簡単です。


 資本金とは、会社の財産的基礎に関わる会計上の金額。


 そして。


 会社が事業に使える財産と、社長個人が自由に使える財産は違う。


 ここを混同してはいけない。


「所長」


「何だ」


「黒川社長は、株式の八十パーセントを持っていたんですよね」


「ああ」


「だから、会社のお金の八十パーセントを自分で使っていいと思っていた」


「そのようだな」


「でも、違います」


 私は言いました。


「株主が持っているのは、株式です」


「うん」


「会社の現金や機械は、会社自身の財産です」


「そうだ」


 片桐所長が頷きました。


「その区別ができれば、今回の事件の半分は理解できたことになる」


 私は思わず拳を握りました。


 半分!


 では、残り半分は。


 もちろん。


 昭和と現代の会社制度の違いです。


 ◇


「さて!」


 私はノートを新しいページに開きました。


「ここからが、転生者にとって最大の難関です!」


 相馬先輩が眉をひそめました。


「何の話だ」


「あ、いえ……昭和と現代の違いです!」


「また始まったな」


 私は大きく書きました。


 ――昭和六十三年の会社制度。


 現在のような独立した会社法は存在しない。


 株式会社については、商法第二編などに規定。


 有限会社については、有限会社法。


「現代では、会社法という独立した法律があります」


「現代?」


「……将来の話です!」


「そうかよ」


 私は続けました。


 現在の会社法は、平成十七年に成立。


 平成十八年に施行。


 それまで商法や有限会社法などに分かれていた会社制度が、再編・整理されました。


「でも、昭和六十三年では商法です!」


「そうだ」


「だから、株主の有限責任についても、会社法百四条ではなく、当時の商法を確認しなければいけません」


 私はノートに書きました。


 昭和六十三年。


 商法第二百条。


 株主の責任は、その有する株式の引受価額を限度とする。


 現代。


 会社法第百四条。


 株主の責任は、その有する株式の引受価額を限度とする。


「……あれ?」


 私は目を丸くしました。


「中身、基本的に同じじゃないですか!」


 相馬先輩が頷きました。


「そうだな」


「つまり、条文の場所が変わっても、株主有限責任という原則自体は引き継がれているんですね」


「そういうことだ」


 なるほど。


 会社法が新しくできたからといって。


 株式会社の基本原理が、突然全部変わったわけではありません。


 昔から存在していた重要な仕組みを引き継ぎながら。


 制度を整理し、現代の経済社会に合わせて改めてきた。


「これ、面白いですね!」


「お前は何でも面白がるな」


「だって、法律の歴史がつながってるんですよ!」


 私は大きく丸をつけました。


 昭和の商法第二百条。


 現代の会社法第百四条。


 時代が変わっても。


 株主の有限責任という考え方は、変わらず重要なのです。


 ◇


「次は、発起人です!」


 私は勢いよく書きました。


 ――昭和六十三年。


 株式会社の発起人は、七人以上必要。


「これ、本当に驚きました」


「昨日、叫んでたな」


「だって七人ですよ!」


 私は指を折りました。


 一人。


 二人。


 三人。


 四人。


 五人。


 六人。


 七人。


「七人も必要なんです!」


「数えりゃ分かる」


「先輩!」


「何だ」


「現代なら一人で株式会社を設立できるんですよ!」


「だから何なんだ」


「この差は大きすぎます!」


 私はノートに書きました。


 昭和六十三年。


 発起人七人以上。


 現代。


 発起人一人でも可。


「しかも、取締役は昭和六十三年では三人以上必要です」


「そうだ」


「監査役も必要!」


「そうだな」


 私は頭を抱えました。


 株式会社を作りたい。


 でも。


 一人では作れない。


 発起人を七人揃える。


 取締役を三人揃える。


 監査役も置く。


「そりゃ、名前を貸してくださいって話になりますよね」


「そういうことだ」


 相馬先輩が言いました。


「本当に経営する人間が一人でも、必要な人数を揃えなきゃならねえ」


「はい」


「そこで、親戚や知人に頼む」


「はい」


「結果として、形式だけの発起人や役員が生まれることがある」


 私は、藤井澄江さんを思い出しました。


 黒川社長から、


「七人いないと会社を作れない」


 と言われて、書類に名前を書いた。


 そして。


 亡くなったご主人は、取締役として名前を残されていた。


「……あの事件、昭和の制度が背景にあったんですね」


「そうだな」


 ただし、発起人と取締役は違います。


 発起人は、会社の設立手続を行う人。


 取締役は、設立後の会社の業務執行などを担う役員。


 株主は、株式を持つ人。


 同じ人が複数の立場を兼ねることはあります。


 でも。


 それぞれ、法律上の地位と責任は別です。


「だから、発起人だったからといって、いつまでも取締役というわけではないんですよね」


「そうだ」


「株主だから、自動的に取締役になるわけでもない」


「そのとおり」


 私は頷きました。


 これも重要。


 株主。


 発起人。


 取締役。


 似たような立場に見えても、役割は違う。


 そして。


 名義を貸しただけだという言い分で、すべての法律問題が解決するわけでもありません。


 実際に就任したのか。


 どんな書類に署名したのか。


 どういう行為に関与したのか。


 そこを具体的に確認する必要があります。


 ◇


「では、どうして現代では一人で株式会社を作れるようになったんでしょう」


 私は問いかけました。


 相馬先輩は新聞を置きました。


「七人集めても、実際には形だけだったりするからだろ」


「そうなんです!」


 私は嬉しくなりました。


「人数を形式的に揃える制度が、必ずしも実質的な会社運営の健全さにつながっていなかったんですね」


 昭和の制度では、発起人七人という要件がありました。


 でも。


 実際には、一人の経営者が主導する会社もある。


 そういう会社が、七人の発起人を揃える。


 その結果。


 本当に会社を作りたい人の負担が増える。


 名前だけ貸す人が現れる。


 手続の実質と形式がずれていく。


「そこで、後の商法改正では、発起人一人で株式会社を設立できるようになります」


「ほう」


 相馬先輩が頷きました。


「ただし、そこには別の規制も組み合わされました」


 私はノートに書きました。


 平成二年の商法改正。


 発起人七人以上の要件を廃止する方向へ。


 一方、株式会社の最低資本金一千万円という制度が導入される。


「つまり!」


 私は言いました。


「人数の面では設立しやすくする一方、資本の面では一定の財産的基礎を求めようとしたんですね」


 片桐所長が頷きました。


「会社の設立を簡単にすることと、債権者を守ること。その両方を考えなければならん」


「はい」


 しかし。


 時代はさらに進みます。


 平成十八年施行の会社法。


 最低資本金制度は廃止。


 資本金一円でも、法律上は株式会社を設立できるようになります。


「ただし、先輩」


「何だ」


「資本金一円で会社を作れるからといって、一円で事業が回るとは限りません」


「そりゃそうだ」


「設立の費用もありますし、設備や仕入れや人件費も必要です」


「ああ」


「だから資本金一円というのは、法律上の最低額に関する話なんですね」


「そういうことだ」


 私は大きく頷きました。


 法律上、設立できる。


 事業として、実際に経営できる。


 この二つも、違うのです。


「所長」


「何だ」


「会社法が独立したのって、単に会社を作りやすくするためだけじゃないんですね」


「そうだ」


「商法や有限会社法などに分かれていた制度を整理して、会社形態や組織運営のルールを分かりやすくする目的もあった」


「うん」


 現代では。


 株式会社。


 合同会社。


 合名会社。


 合資会社。


 こうした会社形態が、会社法の中で整理されています。


 一方。


 昭和六十三年には、合同会社がありません。


 有限会社法も、独立した法律として存在していました。


「ちなみに、現代の合同会社は、社員が有限責任を負う持分会社です」


「……ごうどうがいしゃ?」


 相馬先輩が首をかしげました。


 ……あ。


「先輩、まだ存在しません!」


「だったら何で説明した!」


「未来との比較です!」


「未来の話をされても困る!」


 私は笑いました。


 でも。


 この時代の制度を知っているからこそ。


 現代の会社法が、なぜ今のような仕組みになっているのか。


 少しずつ理解できるようになってきました。


 ◇


「では、ここで確認問題です!」


 私はノートを閉じました。


 相馬先輩が嫌そうな顔をしました。


「またかよ」


「大切なところですから!」


 私は指を立てました。


「第一問!」


「はいはい」


「株式会社の株主が所有するのは、会社の財産そのものですか?」


「違う。株式だ」


「正解!」


「簡単だな」


「第二問!」


 私は続けました。


「株主が十万円を出資した株式会社が、百億円の借金をして倒産しました。株主は百億円を返す義務がありますか?」


「株主であることだけを理由には、ねえな」


「正解!」


「ただし、保証人になっているなら別だろ」


「そのとおり!」


 私は嬉しくなりました。


 いいですね。


 相馬先輩、完璧です。


「第三問!」


「まだあるのか」


「資本金一千万円の会社には、必ず現金一千万円がありますか?」


「あるとは限らねえ」


「正解!」


 私は大きく頷きました。


「第四問!」


「多いな」


「会社が一千万円を集めて、八百万円の機械を買ったら、資本金は二百万円になりますか?」


「ならねえ。機械を買っただけなら資本金の額は変わらねえ」


「正解!」


「もう終わりか?」


「まだです!」


 私はにやりと笑いました。


「第五問!」


「……」


「昭和六十三年の株式会社の発起人は、何人以上必要ですか?」


「七人以上」


「正解!」


「取締役は三人以上、監査役も必要だ」


「素晴らしい!」


 私は拍手しました。


 相馬先輩が呆れた顔をしています。


「お前に褒められてもな」


「では、最後です!」


「まだあんのか!」


 私は六法を掲げました。


「昭和六十三年の株主有限責任は、現代の会社法第何条に対応するでしょう!」


 相馬先輩が顔をしかめました。


「だから、今は会社法なんてねえだろ」


「現代との比較です!」


「……百四条だったか?」


「大正解!」


 私は思わず立ち上がりました。


「先輩、すごいです!」


「昨日、お前が散々騒いでただろ」


「覚えてくれたんですね!」


「嫌でも覚えるわ!」


 私は笑いました。


 でも。


 このやり取りのおかげで、頭の中が整理されました。


 株式会社の基本は、三つ。


 株主。


 株式。


 資本金。


 そして。


 株主の責任は、原則として間接有限責任。


 これを押さえるだけで、会社の仕組みがずいぶん見えてきます。


 ◇


 窓の外は、もう夕暮れでした。


 私はノートを開き直しました。


 そこには、今日の勉強内容がぎっしり書かれています。


 株主。


 株式。


 資本金。


 間接有限責任。


 法人格。


 発起人。


 取締役。


 昭和の商法。


 現代の会社法。


「……すごい量ですね」


 私は呟きました。


「自分で書いたんだろ」


 相馬先輩が言いました。


「そうなんですけど!」


 私は笑いました。


 受験生だった頃。


 会社法は、どこか遠い世界の話でした。


 株式会社。


 株式。


 資本金。


 取締役。


 株主総会。


 大企業の社長や、証券取引所で働く人たちのための法律。


 そんな印象がありました。


 でも。


 藤井澄江さんの事件を通じて、考え方が変わりました。


 十万円を出資した、町の洋裁店のお母さん。


 会社の経営に直接関わっていない人。


 ただ、地元の工場を応援したかった人。


 そんな人も、株式会社の株主なのです。


 そして。


 株主という立場には、きちんと法律上の意味がある。


「所長」


「何だ」


「株式会社って、大企業だけの話じゃないんですね」


「そうだ」


「小さな町工場でも、株式会社は株式会社」


「うん」


「そこに出資した人にも、株主としての権利がある」


「そうだ」


「でも、会社の財産を勝手に使えるわけではないし、会社の借金を全部背負うわけでもない」


 片桐所長が頷きました。


「それが分かれば十分だ」


 私は、ふと思いました。


 もし、株主が会社の借金を無制限に返さなければならなかったら。


 澄江さんは、十万円を出資できたでしょうか。


 地元の工場を応援したい。


 町に雇用を増やしたい。


 その気持ちがあっても。


 失敗したら数百万円、数千万円の借金を背負うかもしれない。


 そう言われたら。


 怖くて出資できないでしょう。


「だからこそ、有限責任なんですね」


 私は呟きました。


 相馬先輩が頷きました。


「そうだ」


「出資する人が、どこまで危険を負うのかを明確にする」


「ああ」


「そうすることで、会社が資金を集めやすくなる」


「そのとおりだ」


 私はノートを見つめました。


 有限責任。


 冷たい法律用語です。


 でも。


 その仕組みがあるからこそ。


 小さな出資者も、大きな事業に参加できる。


 失敗すれば出資を失うかもしれない。


 けれど、会社の借金を無制限に負わされるわけではない。


 それは。


 人が新しい事業に挑戦するための、大切な仕組みなのです。


 ◇


「さて、こはる」


 片桐所長が言いました。


「はい!」


「最後に一つ聞こう」


「何でしょう」


「黒川社長の、一番大きな間違いは何だったと思う」


 私は少し考えました。


「株主に三百万円を請求したことです」


「それもある」


「会社のお金を、自分のために使ったことです」


「それもある」


「亡くなった人の名前が入った議事録を使ったことです」


「そうだ」


 所長は静かに言いました。


「だが、その根っこは何だ」


 私は黙りました。


 そして。


 思い出しました。


 工場で、黒川社長が言った言葉。


 ――俺の会社なんだよ!


 ――俺が社長だ!


 ――俺が法律だ!


 ……あ。


「所長」


「何だ」


「会社を、自分自身と同じものだと思っていたことです」


 所長が頷きました。


「そうだ」


「株式の八十パーセントを持っている。だから、会社の財産も自分のものだと思った」


「うん」


「でも、株式会社は別の法人格を持っています」


「そうだ」


「会社の金は会社の金。株主の金は株主の金。社長個人の金は社長個人の金」


 所長が言いました。


「その境界を、都合よく消してはいけない」


 私は大きく頷きました。


 なるほど。


 株式会社の仕組みを理解するというのは。


 単に、有限責任という言葉を覚えることではありません。


 会社と株主の区別。


 出資と貸付けの区別。


 株主としての責任と、取締役としての責任の区別。


 資本金と、現在の会社財産の区別。


 そうした一つ一つの境界を理解することなのです。


「所長」


「何だ」


「今日、ようやく株式会社が分かった気がします」


「そうか」


「はい!」


 私は最後のページを開きました。


 ここに。


 今日の一行を書きます。


 鉛筆の先を整えて。


 ゆっくり。


 ――株主は株式を持ち、会社は会社の財産を持つ。株主は原則として、出資の限度で責任を負う。


「……できました!」


 私はノートを掲げました。


「どうですか!」


 相馬先輩が覗き込みました。


「まあ、悪くねえな」


「褒めましたね!」


「気のせいだ」


「またそれですか!」


 私は笑いました。


 でも。


 この一行は、たぶん忘れません。


 藤井澄江さんのことを思い出せばいい。


 十万円を出資した。


 会社を応援した。


 でも、経営が苦しくなったからといって、三百万円の借金まで背負う必要はなかった。


 そして。


 黒川社長のことを思い出せばいい。


 株式の八十パーセントを持っていた。


 代表取締役でもあった。


 でも、会社の財産を自分の財布のように使うことはできなかった。


 法律は。


 出資した人を守る。


 同時に。


 会社の財産と、会社に関わる人たちの利益も守ろうとする。


 そのために。


 株主。


 株式。


 資本金。


 法人格。


 取締役の責任。


 そうした仕組みが組み合わされているのです。


 ◇


「ところで、こはる」


 相馬先輩が言いました。


「はい?」


「今日の勉強会、もう終わりか?」


「はい!」


「じゃあ、机を片付けろ」


「え?」


「六法も棚に戻せ」


「はい」


「それから、郵便物の整理も頼む」


「……先輩」


「何だ」


「私、今、大切なことに気づきました」


「嫌な予感がするな」


 私は胸を張りました。


「私は、片桐行政書士事務所の株主ではありません!」


「……は?」


「株式を持っていません!」


「そりゃそうだろ」


「だから、事務所の経営について責任を負う立場ではありません!」


 相馬先輩は、しばらく黙りました。


 そして。


「こはる」


「はい!」


「ここは株式会社じゃねえ」


「……あ」


「片桐所長が個人で営んでいる行政書士事務所だ」


「……!」


 私は固まりました。


 そうでした。


 株式会社と、個人事業。


 これも違います。


「それにな」


 相馬先輩が続けました。


「お前が株主じゃないことと、見習いとして頼まれた仕事をするかどうかは、別問題だ」


「ぐっ……!」


 やられました。


 完全に。


 私は、机の上の六法を見ました。


 商法。


 分厚いです。


 重いです。


 そして。


 どうやら、掃除や片付けを免れるための万能な法律ではないようです。


「分かりましたよ!」


 私は立ち上がりました。


「片付けます!」


「いい返事だ」


「でも先輩!」


「何だ!」


「もし私が株式会社を作ったら、先輩に株式を一株あげます!」


「いらねえよ」


「どうしてですか!」


「何の商売をするんだよ」


「法律の勉強を楽しく教える会社です!」


 相馬先輩が鼻で笑いました。


「お前が社長か?」


「はい!」


「じゃあ発起人を七人集めろ」


「……!」


 私は固まりました。


 七人。


 また七人です。


「先輩!」


「何だ」


「現代なら一人で作れるんですよ!」


「今は昭和六十三年だ!」


「そこなんですよ!」


 私は頭を抱えました。


「しかも取締役三人! 監査役一人!」


「そうだな」


「そんなに知り合いいません!」


「だったら諦めろ」


「ひどい!」


 片桐所長が帳簿を閉じました。


「こはる」


「はい?」


「会社を作る前に、まず一人前の行政書士になれ」


 ……。


 私は黙りました。


 そして。


 ゆっくり頷きました。


「……はい」


 確かに。


 今の私には、まだ覚えるべき法律が山ほどあります。


 商法。


 民法。


 行政法。


 憲法。


 会社の設立を考える前に、まずは試験に合格しなければなりません。


 でも。


 今日の勉強で、少しだけ自信がつきました。


 株式会社の仕組み。


 株主の間接有限責任。


 資本金の意味。


 どれも、受験生だった頃は、ただの暗記事項でした。


 それが今は。


 十万円を出資したお母さんの顔と、一緒に思い出せます。


 法律の言葉の向こうに。


 ちゃんと、人の生活が見えるのです。


 私は六法を棚に戻しました。


 窓の外。


 夕暮れの町に、工場の明かりが灯っています。


 あのどこかで。


 会社を経営する人がいて。


 出資する人がいて。


 働く人がいて。


 材料を納める人がいる。


 株式会社。


 それは。


 一人ではできない仕事を、多くの人の力で実現するための仕組みです。


 だからこそ。


 誰が何を持ち。


 誰がどこまで責任を負い。


 会社のお金をどう扱うのか。


 その境界を、法律が定めている。


 私は、ノートの最後の一行をもう一度読みました。


 ――株主は株式を持ち、会社は会社の財産を持つ。株主は原則として、出資の限度で責任を負う。


 よし。


 完璧。


「こはる!」


 相馬先輩の声が飛びました。


「はい!」


「ノート見てねえで、郵便物を整理しろ!」


「今、学習内容を確認してたんです!」


「確認は後だ!」


「先輩!」


「何だ!」


「私、将来は資本金一円で株式会社を作ります!」


「勝手にしろ!」


「そして、社長になります!」


「その前に試験に受かれ!」


「……はい!」


 私は素直に頷きました。


 どうやら。


 株式会社の社長になる夢よりも。


 まずは行政書士試験に合格するという現実のほうが、ずっと手強そうです。


 でも。


 そのための一歩は、今日も確実に進みました。


 株主は、株式を持つ。


 会社は、会社自身の財産を持つ。


 資本金は、会社の財産的基礎を示す会計上の金額。


 そして、株主の責任は、原則として間接有限責任。


 たったこれだけの基本が分かれば。


「会社の借金は株主が払え」


 そんな社長の言葉に、もう惑わされることはありません。


 だって。


 株式会社という制度は。


 出資した人の人生まで、会社の借金の担保にするために作られたものではないのです。

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