↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
こはる行政書士見習帖 〜 昭和に転生して許認可に振り回されると試験知識が骨身にしみます 〜  作者: 条文小説
〈商法・会社法 配点20点/300点〉 株式会社の設立

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
605/701

[会社法・株式会社の概要]現場編 「会社の借金は株主が払え」の嘘。消えた一千万円と、七人の発起人が隠した社長の企み

挿絵(By みてみん)

 会社の看板は、借金まで消してくれる魔法の盾ではありません。


 株式会社。


 なんだか立派な響きです。


 社長がいて。


 株主がいて。


 資本金があって。


 会社の名前で商売をする。


 でも。


 その会社が借金を返せなくなったら。


 いったい誰が責任を取るのでしょうか。


 社長?


 株主?


 それとも、会社そのもの?


 昭和六十三年。


 片桐行政書士事務所。


 その日の私は、たった三つの言葉に振り回されることになります。


 株主。


 株式。


 資本金。


 行政書士試験では、株式会社の最初に登場する基本用語です。


 でも。


 この三つを悪用すると。


 真面目に働いてきた人の貯金を奪い、会社の借金を押しつけることさえできる。


 そして私は、まだ知りませんでした。


 株式会社の仕組みを利用して人を騙そうとした社長が。


 自分自身は株式会社の仕組みを、まるで理解していなかったことを。


 ◇


「私、三百万円の借金を払わないといけないんでしょうか」


 朝九時。


 事務所にやってきた女性は、震える手で一枚の封筒を差し出しました。


「……三百万円?」


 私は思わず聞き返しました。


 女性の名前は、藤井澄江さん。


 四十八歳。


 駅前商店街で、小さな洋裁店を営んでいます。


 ご主人を五年前に亡くし、今は娘さんと二人暮らし。


 娘さんは来年、看護学校を卒業するそうです。


「私、会社の株主なんです」


「株主?」


「はい。でも、会社の仕事なんて、何もしていないんです」


 私は封筒を開きました。


 中には、社長名義の通知書。


 差出人。


 ――東海精密部品株式会社。


 代表取締役。


 黒川重蔵。


 通知書には、こう書かれていました。


 ――当社は現在、深刻な資金不足に陥っている。


 ――株主は会社の所有者であり、会社の債務について責任を負う立場にある。


 ――よって、貴殿に対し、株主として金三百万円の負担を求める。


 ――指定期日までに支払われたい。


 私は読み終わって、固まりました。


「……え?」


 株主だから。


 会社の借金を払え?


「澄江さん、これ、本当に社長から届いたんですか?」


「はい」


「会社の借入れについて、保証人になったことは?」


「ありません」


「借用書や保証契約書に署名したことは?」


「いいえ」


「株式の購入代金は、もう払い込みましたか?」


「はい。十年前に、十万円を払いました」


 十万円。


 それが澄江さんの出資額。


 ところが請求されているのは。


 三百万円。


 三十倍です。


「先生……」


 澄江さんは、膝の上で手を握りました。


「私、娘の学費のために、少しずつ貯金してきたんです」


「はい」


「もし三百万円なんて払ったら、あの子の卒業までのお金が……」


 声が途切れました。


 私は通知書を見つめます。


 そして。


 頭の中で、現代の会社法が開きました。


 株主の責任。


 間接有限責任。


 会社法第百四条。


 株主の責任は、その有する株式の引受価額を限度とする。


 つまり。


「澄江さん!」


「は、はい!」


「普通の株主なら、会社の借金を自分のお金で返す義務はありません!」


「……本当ですか?」


「はい!」


 私は勢いよく立ち上がりました。


「会社と株主は別です! 株主が出資したお金を失うことはあっても、原則として会社の債権者に直接返済する責任までは負いません!」


 澄江さんの目が、大きく開かれました。


「じゃあ、三百万円は……」


「株主であるという理由だけでは、払う必要はありません!」


 よし。


 会社法。


 今回は、いけます。


 現代の法律知識が、そのまま役に立つ。


「会社法第百四条に基づいて、きっぱり通知しましょう!」


「待て」


 相馬先輩が言いました。


 嫌な予感。


「はい?」


「今、何法って言った?」


「会社法です」


「……会社法?」


 先輩は眉を寄せました。


「会社のことなら、商法だろ」


 ……あ。


 私は凍りつきました。


 そうでした。


 昭和六十三年。


 ここには。


 現代のような独立した「会社法」が、まだ存在しないのです。


「こはる」


「はい……」


「商法の第二編を開け」


「はい……」


「会社法百四条なんて言っても、この時代の六法には載ってねえぞ」


「ですよね!」


「何が『ですよね』だ!」


 またやりました。


 未来人。


 会社法で自爆です。


 ◇


「それで、どうして株主になったんですか?」


 私は気を取り直し、澄江さんに尋ねました。


「十年前のことです」


 澄江さんが語り始めました。


 昭和五十三年。


 まだご主人が元気だった頃。


 駅の東側にある小さな機械加工場が、株式会社になったそうです。


 経営者は黒川重蔵。


 当時四十代。


 腕のいい職人として知られていました。


「黒川さんが、みんなの力で大きな会社を作りたいって」


「それで出資を?」


「はい」


 澄江さんは頷きました。


「この町に仕事を増やしたい。若い人を雇いたい。だから少しでいいから協力してほしいって」


 十万円。


 洋裁の仕事で貯めたお金です。


 決して小さな金額ではありません。


「でも、株式を持っていれば、会社が大きくなったときに利益も分けてもらえるって」


「配当ですね」


「はい。そういう説明でした」


 私は頷きました。


 株式。


 株式会社が資金を集めるために発行するもの。


 それを引き受け、払込みをすると、株主になる。


 株主は会社の構成員として、議決権や配当を受ける権利などを持ちます。


 ただし。


 出資は預金ではありません。


 会社が失敗すれば、株式の価値が下がり、投資したお金を失うこともある。


 そこは、株式会社に出資する人が引き受ける危険です。


 でも。


 会社が借りたお金まで、際限なく返す義務を負うわけではない。


「ところで澄江さん」


 私は尋ねました。


「会社を作ったとき、ほかにも出資した人がいたんですか?」


「ええ。七人で始めたって聞きました」


「七人?」


「はい」


 私は首をかしげました。


 七人。


 どうして、わざわざ七人?


「黒川さんが一人で会社を作ればよかったのでは?」


 そう言った瞬間。


 相馬先輩が、ゆっくり私を見ました。


「こはる」


「はい?」


「株式会社を作るのに、発起人は何人必要だ?」


「一人で大丈夫ですよね」


「……」


「取締役も一人で――」


「七人だ」


「え?」


「発起人は七人以上だ」


 ……。


 七人。


「えええっ!」


 私は叫びました。


「七人も必要なんですか!」


「うるせえ!」


「だって、現代なら発起人一人で株式会社を作れますよ!」


「現代って、いつの話だ」


「あっ」


 危ない。


 私は口を押さえました。


 相馬先輩は六法を机に置きました。


「今は昭和六十三年だ。発起人は七人以上必要なんだよ」


「じゃあ、取締役は?」


「三人以上」


「監査役は?」


「一人以上必要だ」


「……!」


 私は頭を抱えました。


 現代では、取締役会を置かない株式会社なら取締役一人でも設立できる。


 発起人も一人でいい。


 資本金一円で設立することだって、法律上は可能。


 合同会社という選択肢もあります。


 でも。


 昭和六十三年。


 発起人七人以上。


 取締役三人以上。


 監査役一人以上。


 合同会社なんてありません。


 株式会社を作るだけで、大変な人数が必要なのです。


「先輩!」


「何だ」


「それじゃあ、一人で商売を始めたい人はどうするんですか!」


「個人商人でやるか、別の会社形態を考えるか、必要な人数を揃えるかだ」


「頭数合わせじゃないですか!」


「だから問題になるんだろ」


 相馬先輩が言いました。


「親戚や知人に頼んで、発起人になってもらう。役員の名前を借りる。そういうことが起こる」


 私は澄江さんを見ました。


 まさか。


「澄江さん」


「はい」


「株式会社を作るとき、黒川さんから何か頼まれませんでしたか?」


「……そういえば」


 澄江さんは思い出したように言いました。


「書類に名前を書いてほしいって」


「何の書類ですか?」


「会社を作るための書類です。七人いないと困るからって」


 私は相馬先輩を見ました。


 先輩も私を見ました。


「……先輩」


「ああ」


「七人、揃えたんですね」


「そういうことだな」


 そして。


 この七人という数字が。


 今回の事件で、思いがけない意味を持つことになります。


 ◇


 片桐所長は、ずっと黙って話を聞いていました。


 やがて口を開きます。


「澄江さん」


「はい」


「株券はありますか」


「はい」


 澄江さんは鞄から封筒を出しました。


 中には、少し黄ばんだ株券。


 ――東海精密部品株式会社。


 ――額面株式。


 ――一株の金額 五万円。


 ――二株。


 代表取締役の名前と会社の印。


 私は目を見開きました。


「株券……!」


 紙です。


 本物の紙。


 現代では株券を発行しない株式会社が一般的ですが、この時代には紙の株券が重要な役割を持っています。


 澄江さんは、その二株を十年間、大切に保管していたのです。


「所長」


「何だ」


「二株で十万円ですね」


「そうだ」


「それなら、会社がいくら借金していても……」


「株主であるというだけで、追加の支払義務は生じない」


 所長が静かに言いました。


「もっとも、払込みが済んでいるか。保証契約がないか。別の責任原因がないか。それは確認する」


「はい」


「だが、社長の通知書は、株主の責任を取り違えている」


 所長は株券を机に置きました。


「相馬。会社の資料を揃えろ」


「登記簿と定款ですね」


「ああ。株主関係の資料もだ」


「分かりました」


 そのとき。


 澄江さんが小さな声で言いました。


「あの……」


「はい?」


「実は、三百万円のこと以外にも、気になることがあるんです」


「何でしょう」


「黒川さん、会社の資本金は一千万円だって言っていたんです」


「はい」


「でも最近、工場で働いている人のお給料も遅れているそうで」


 私は顔を上げました。


「給料が?」


「はい。材料屋さんへの支払いも止まっているって」


 資本金一千万円。


 それなのに。


 給料も払えない?


「会社のお金は、どこへ行ったんでしょう」


 澄江さんが呟きました。


 片桐所長の目が、わずかに鋭くなりました。


「その資本金について、黒川さんは何と説明していましたか」


「一千万円あるから安心だって」


「……そうですか」


「それなのに、株主が追加で三百万円払えって……」


 所長はしばらく考えました。


 そして、言いました。


「こはる」


「はい」


「資本金とは何だ」


「会社が出資を受けて形成される、財産的基礎を示す金額です」


「うん」


「最初に資金を集めて、事業を始めるための……」


「では、資本金一千万円の会社には、いつでも現金一千万円があるのか」


「……え?」


 私は止まりました。


 あ。


 違います。


 会社は、集めた資金で機械を買います。


 材料を買います。


 従業員に給料を払います。


 現金は減ります。


 逆に、利益が出れば会社の財産は増える。


 でも、資本金という会計上の金額が、日々の現金残高と同じように動くわけではありません。


「違います」


 私は答えました。


「資本金一千万円だからといって、銀行口座に一千万円あるとは限りません」


「そうだ」


 所長が頷きました。


「なら、まず何を調べる」


「会社のお金の流れです」


「それでいい」


 私はノートを開きました。


 株主の責任。


 資本金の意味。


 会社財産と社長個人の財産。


 この三つが、どうやら今回の鍵になりそうです。


 ◇


 翌日。


 私たちは、東海精密部品株式会社へ向かいました。


 駅から自転車で十五分。


 古い工場が並ぶ一角。


 目的の建物は、二階建ての鉄骨造でした。


 入口には、


 ――東海精密部品株式会社。


 と書かれた看板。


 その下に、従業員募集の色あせた貼り紙。


 でも。


 工場の中は、妙に静かでした。


「機械、止まってますね」


「ああ」


 相馬先輩が言いました。


 油のにおい。


 並んだ旋盤。


 隅に積まれた鋼材。


 そして。


 腕を組んだ男が、奥から出てきました。


「何だ。あんたら」


 五十代半ば。


 腹の出た体格。


 太い金の腕時計。


 黒川重蔵。


 この会社の社長です。


「片桐行政書士事務所の相馬です。藤井澄江さんのご相談に関し、事実関係を確認させていただきたいのですが」


「行政書士?」


 黒川は鼻で笑いました。


「弁護士じゃねえのか」


「そうです」


「じゃあ、会社の経営に口を出す立場じゃねえな」


 ……。


 早速、嫌な感じです。


「澄江さんに三百万円を請求されていますね」


 相馬先輩が言いました。


「ああ」


「理由は、株主だからですか」


「そうだ」


 黒川は椅子にどっかり座りました。


「株主ってのは会社の持ち主だろ」


「はい」


「だったら会社が苦しいとき、金を出すのは当たり前じゃねえか」


 私は思わず口を開きました。


「違います!」


「あ?」


「株主は会社の構成員ですが、会社の借金を無制限に負担するわけじゃありません!」


 黒川の眉が動きました。


「何を言ってる」


「株主には間接有限責任という原則があります」


「何だそりゃ」


「すでに出資したお金を失う危険はあります。でも、会社の債権者が株主に直接、会社の借金を返せと言えるわけではありません」


 黒川は笑いました。


「だから会社ってのは面倒なんだ」


「……え?」


「会社が借りた金は会社の借金。社長個人の借金じゃねえ。だったら、株主にも少しは負担してもらわねえと不公平だろ」


 私は呆れました。


 何ですか、その理屈。


 会社と個人を分けるなら。


 株主についても分けなければいけないでしょう。


「株主だから払え、という根拠にはなりません」


「うるせえな!」


 黒川が机を叩きました。


「俺の会社なんだよ!」


 ……出ました。


 俺の会社。


「俺が始めた会社だ! 俺が社長だ! 俺が法律だ!」


 私は思わず相馬先輩を見ました。


 先輩は、まったく動じません。


「社長」


「何だ」


「株式は、何株発行されていますか」


「は?」


「発行済みの株式数です」


「二百株だ」


「一株の額面は」


「五万円」


「では、額面総額は一千万円ですね」


「そうだ」


 黒川は得意そうに笑いました。


「立派なもんだろ。資本金一千万円の株式会社だ」


 先輩は頷きました。


「株主は?」


「何人かいる」


「澄江さんは二株ですね」


「ああ。ほんの二株だ」


「では、社長ご自身は?」


「百六十株だ」


 ……。


 私は頭の中で計算しました。


 二百株のうち。


 百六十株。


 八割。


 黒川社長は、会社の株式の八割を持っている。


 確かに大株主です。


 でも。


「それでも、会社の財産が社長個人のものになるわけじゃありません」


 私が言うと、黒川は面倒くさそうに手を振りました。


「分かってるよ」


「本当に?」


「何だ、その言い方は」


 私は工場の奥を見ました。


 そこには、一台だけ新しい機械が置かれていました。


 まだ梱包材が残っています。


 ほかの機械と違い、妙にぴかぴかです。


「あの機械、新しいんですね」


「ああ」


「会社で買ったんですか?」


 黒川は一瞬、黙りました。


「……関係ねえだろ」


 相馬先輩の目が細くなりました。


「なるほど」


 黒川が立ち上がりました。


「もう帰れ!」


「分かりました」


 先輩はあっさり言いました。


「ただし、株主であることだけを理由とする追加負担については、法律関係を整理したうえで、ご本人から正式に通知することになると思います」


「好きにしろ!」


 黒川は笑いました。


「紙切れ一枚で会社が動くと思うなよ!」


 私たちは工場を出ました。


 外に出てすぐ、私は言いました。


「先輩!」


「何だ」


「あの社長、絶対におかしいです!」


「ああ」


「株主の有限責任を全然分かってない!」


「それだけか?」


「え?」


 先輩は工場を振り返りました。


「あの機械だ」


「新しい機械ですか?」


「ああ。あれについて調べる」


「どうしてです?」


 相馬先輩は煙草を取り出しました。


「こはる」


「はい」


「会社の金と、社長の金は別だって言ったな」


「はい」


「だったら、会社の金で買った機械を、社長が自分のものにしたらどうなる」


 私は息を呑みました。


「……まさか」


「まだ分からねえ。だから調べるんだ」


 なるほど。


 会社の借金を株主に押しつけようとする社長。


 その一方で。


 会社の財産を、自分の財産のように扱っていたとしたら。


 話は、まったく違ってきます。


 ◇


 三日後。


 片桐事務所の机には、何枚もの資料が広げられていました。


 会社の登記簿。


 定款の写し。


 設立時の株式関係書類。


 過去の決算書。


 そして。


 黒川社長が以前、取引先に提出したという会社概要。


 さらに、澄江さんが紹介してくれた元経理担当者から、重要な証言が得られました。


「社長、会社の金で機械を買ったらしいんです」


 その人は、そう言いました。


「ところが、納品書の購入者が、黒川さん個人の名前になっていて……」


 私は身を乗り出しました。


「会社のお金で払ったのに?」


「はい」


「帳簿はどうなっていますか?」


「社長への仮払金のように処理されていたんです。でも、精算されていませんでした」


 それは。


 かなり問題では?


 ただし、帳簿上の処理だけで、直ちに違法な私的流用だと断定できるわけではありません。


 立替えなのか。


 貸付けなのか。


 正当な会社の取引なのか。


 それとも。


 社長が会社のお金を私物の購入に使ったのか。


 そこを確かめなければいけません。


 片桐所長は、提出された資料をじっと見ていました。


 そして。


 一枚の議事録で、手を止めました。


「相馬」


「はい」


「これを見ろ」


 先輩が覗き込みました。


「……ああ」


 私は二人の顔を見ました。


「何ですか?」


「取締役会議事録だ」


 所長が言いました。


 私は書面を受け取りました。


 そこには、


 ――昭和六十三年六月十五日。


 ――取締役会。


 ――代表取締役黒川重蔵に対する金五百万円の貸付けを承認する。


 と書かれていました。


「……貸付け?」


 私は目を見開きました。


 会社が。


 社長個人に。


 五百万円を貸す?


 しかも。


「所長、この貸付けの承認、取締役会で決めたことになっています」


「ああ」


「でも、社長自身が借りる側ですよね」


「そうだ」


 私は六法をめくりました。


 会社と取締役との取引。


 利益相反。


 会社の利益と、取締役個人の利益が衝突する場面です。


「これ、慎重な承認手続が必要になる取引ですよね」


「そうだ」


 所長が頷きます。


「まず、誰が決議に参加したか確認しろ」


「はい」


 私は出席者欄を見ました。


 取締役三名。


 黒川重蔵。


 黒川の弟。


 そして。


 ――藤井正一。


「……藤井?」


 私は顔を上げました。


「澄江さんのご主人ですか?」


 相馬先輩が頷きました。


「そうだ」


「でも、ご主人は五年前に亡くなっていますよね?」


「ああ」


 ……。


 私は、もう一度日付を見ました。


 昭和六十三年六月十五日。


 今年です。


 澄江さんのご主人が亡くなったのは。


 五年前。


「……え?」


 背筋が冷たくなりました。


「所長」


「何だ」


「この議事録、亡くなった人が出席したことになってます」


「そうだ」


「五年前に亡くなった人が、今年の取締役会に?」


 所長は静かに言いました。


「だから、調べる価値がある」


 私はしばらく、言葉が出ませんでした。


 会社を作るときに、七人の名前を集めた。


 取締役も、必要な人数を揃えた。


 でも。


 その後、本当に適法に役員を選任し、会社を運営していたのか。


 亡くなった人の名前が残っていたのなら。


 それは、ただの事務ミスでは済まない可能性があります。


「……これ」


 私は議事録を握りました。


「怖いですね」


 相馬先輩が頷きました。


「名前だけ借りて、会社を作る」


「はい」


「そのうち、名前を借りた相手が何も言わないのをいいことに、書類まで勝手に作る」


「はい」


「そうなったら、もう頭数合わせじゃ済まねえ」


 片桐所長が言いました。


「ただし、こはる」


「はい」


「この議事録だけで、直ちに金五百万円の横領が確定するわけではない」


「……はい」


「だが、議事録の信用性には重大な疑問がある。貸付けの承認が適法だったかも、調べる必要がある」


 私は頷きました。


 法律は、疑わしいというだけで人を有罪にする道具ではありません。


 でも。


 事実を調べるための道具にはなる。


 そして。


 説明できない書類は、相手にとって非常に重い。


「所長」


「何だ」


「会社の借金を株主に押しつけようとしていた社長が……」


「うん」


「本当は、会社にお金を返す立場かもしれないんですね」


 所長は、短く答えました。


「その可能性がある」


 ◇


「ところで、こはる」


 相馬先輩が言いました。


「はい?」


「株式会社の資本金って、何だと思う」


「またですか?」


「答えろ」


 私は少し考えました。


「会社が株式を発行して、出資を受けた金額を基礎として計上する、資本の額です」


「うん」


「ただし、株式の発行で集めたお金の全額が、必ず資本金になるとは限らない」


「ほう」


「現代でも、一定の額を資本準備金にできる仕組みがありますから」


 相馬先輩は少し驚いた顔をしました。


「そこまで分かってるなら、話が早い」


 私は嬉しくなりました。


「褒めました?」


「まだだ」


「何でですか!」


 先輩は机に紙を置きました。


 そこには、こう書かれていました。


 ――一株五万円。


 ――二百株発行。


 ――払込総額一千万円。


「今回は、説明を簡単にするために、払込金額の全額を資本金に計上したものと考えろ」


「はい」


「では、会社がその金で八百万円の機械を買ったら?」


「現金は二百万円になります」


「資本金は?」


「原則として、機械を買っただけでは変わりません」


「そうだ」


「会社には機械という財産が残っていますし」


「じゃあ、その機械が故障して、会社が赤字になったら?」


「会社の財産は減る可能性があります」


「資本金は?」


「損失が出ただけで、登記された資本金の額が自動的に減るわけではありません」


 相馬先輩が頷きました。


「そういうことだ」


 私は、ようやく理解しました。


 資本金一千万円。


 それは。


 銀行口座に、常に一千万円が眠っているという意味ではありません。


 会社の財産そのものと、会計上の資本金は違う。


 そして。


 黒川社長が、


「資本金一千万円だから安心だ」


 と言っていたことも。


 それだけでは、会社の支払能力を保証しないのです。


「先輩」


「何だ」


「じゃあ、資本金が一千万円あっても、会社が倒産することはありますよね」


「当然だ」


「でも、株主は会社の借金を直接返さなくていい」


「原則としてな」


「だからこそ、会社にお金を貸す人は、会社そのものの財産や信用を調べる必要がある」


「そうだ」


 なるほど。


 株主の有限責任。


 会社と株主の財産の分離。


 それは、出資者に挑戦する機会を与える仕組みです。


 でも同時に。


 会社の債権者には、会社財産を見極める必要が生じます。


 だからこそ。


 社長が会社財産を勝手に自分のものにしていたら。


 それは単なる社内の問題では済まなくなる。


 会社にお金を貸した人。


 材料を納めた人。


 給料を待つ従業員。


 みんなに影響するのです。


「こはる」


 片桐所長が言いました。


「今日の書類を作れ」


「はい!」


「何を書く」


 私は答えました。


「まず、澄江さんが追加負担を負わないこと」


「うん」


「次に、会社の資金がどう使われたかについて、社長が説明すべき事項を整理します」


「うん」


「そして、問題の取締役会議事録です」


 所長が頷きました。


「よし」


 相馬先輩が、にやりと笑いました。


「社長が一番偉いんじゃねえ」


「はい」


「商法のルールを守った奴が勝つんだよ」


 私は鉛筆を握りました。


 いよいよ。


 紙の反撃です。


 ◇


 その日の午後。


 私は内容証明郵便の原案を作りました。


 差出人。


 藤井澄江。


 宛先。


 東海精密部品株式会社。


 代表取締役黒川重蔵。


 まずは、株主としての追加負担に関する通知です。


 ――通知人は、貴社株式二株を適法に取得し、その引受金額十万円の払込みを完了している。


 ――通知人は、貴社の借入債務について、保証契約その他の個人的債務負担契約を締結した事実がない。


 ――株主の責任は有限責任であり、株主であることのみを理由として、貴社債務の弁済を求めることはできない。


 ――したがって、貴殿が通知人に対して行った金三百万円の請求には、現時点で確認できる限り、法律上の根拠が認められない。


 私は一度、手を止めました。


 これだけでも。


 かなり強い。


 でも、片桐所長は言いました。


「もう一つだ」


「はい」


「会社財産に関する問題を、別の書面に整理しろ」


 私は頷きました。


 株主個人への請求と。


 取締役の会社に対する責任。


 この二つは、別の法律問題です。


 混ぜてはいけません。


 所長の指示で、澄江さん名義の照会書と、関係資料を整理しました。


 ただし。


 会社の帳簿を誰でも自由に見られるわけではありません。


 株主の情報取得には、当時の商法や会社の規模、持株数などに応じた要件があります。


 澄江さんは二株。


 発行済株式二百株の一パーセントです。


 当然にあらゆる帳簿の閲覧を強制できる、と書くわけにはいきません。


 それでも。


 疑わしい議事録。


 会社から社長への五百万円の貸付け。


 未精算の金銭。


 これらについて、説明を求める書面を提出することはできます。


 そして、必要な権利行使や訴訟については、弁護士に引き継ぐ。


 そこが行政書士の仕事の境界です。


「所長、こちらもできました」


 私は書面を読み上げました。


 ――昭和六十三年六月十五日付取締役会議事録には、昭和五十八年に死亡した藤井正一が出席取締役として記載されている。


 ――右記載は客観的事実と整合せず、当該議事録の作成経緯及び決議の真正について重大な疑義がある。


 ――同議事録記載の金五百万円の貸付けにつき、実際の資金移動、承認手続及び返済状況を明らかにされたい。


 ――取締役の行為により会社に損害が生じている場合には、商法上の責任が問題となり得る。


 ――適切な説明及び是正がなされない場合、通知人は、弁護士に相談のうえ、株主として認められる法的手段を検討する。


 読み終わると。


 相馬先輩が言いました。


「よし」


「本当ですか!」


「ああ。ただし、最後にもう一つ確認だ」


「何でしょう」


「黒川個人に対して、会社の借金を全部払えとは書いてねえな」


「はい」


「どうしてだ」


 私は答えました。


「黒川社長も、会社とは別の人格だからです」


「そうだ」


「社長だからといって、会社の全債務について当然に個人責任を負うわけではありません」


「うん」


「でも、会社に損害を与える違法な行為をしていたなら、その行為について責任を問われることがあります」


 先輩が頷きました。


「そこを間違えるな」


 黒川が社長だから、全部払え。


 澄江さんが株主だから、全部払え。


 どちらも乱暴な話です。


 株式会社では。


 会社自身の債務。


 株主の出資上の責任。


 取締役個人の職務上の責任。


 それぞれ、きちんと分けて考える必要があります。


 片桐所長が、静かに言いました。


「こはる」


「はい」


「有限責任は、何をしても許されるという意味ではない」


「はい」


「だが、経営に失敗したというだけで、全員の個人財産が当然に差し押さえられるという意味でもない」


「……はい」


「だから法律が要る」


 私は、書面を見つめました。


 なるほど。


 株式会社は。


 会社という別の人格を作り。


 出資者に有限責任を認め。


 資金を集めやすくする制度。


 その仕組みを守るためにこそ。


 会社の財産を勝手に私物化する行為には、厳しい目が向けられるのです。


 ◇


 内容証明郵便の発送から、四日後。


 黒川重蔵が、事務所に現れました。


 顔色が悪い。


 あの金の腕時計は、今日は見当たりません。


「片桐先生は……」


 先日の怒鳴り声とは、まるで違います。


「こちらです」


 私は所長を呼びました。


 黒川は、封筒を握りしめていました。


「……これを送ったのは、先生の事務所ですか」


 所長が頷きました。


「藤井さんからご依頼を受け、本人名義の書面作成をお手伝いしました」


「……そうですか」


 黒川は椅子に座りました。


 そして。


 長い沈黙。


「……弁護士に見せました」


 私は思わず顔を上げました。


「それで?」


 黒川は唇を噛みました。


「株主に会社の借金を負担させることは、できないと言われました」


 でしょうね。


 私は口には出しませんでした。


「それに……」


 黒川は、問題の議事録を取り出しました。


「これも、調べられたらまずいと」


 片桐所長は何も言いません。


「……会社の金を、少し借りたんです」


 黒川は俯きました。


「工場の設備を買うために」


 私は尋ねました。


「会社の設備ですか?」


「……いや」


 黒川は答えに詰まりました。


「別に始めようとしていた、俺個人の仕事の設備です」


 ……。


 やっぱり。


「会社から五百万円を借りて、個人の事業用の機械を買ったんですか」


「……そうだ」


「取締役会の承認は?」


 黒川は何も答えません。


「亡くなった藤井正一さんの名前は?」


「……昔の議事録を、使い回した」


 私は息を呑みました。


 使い回した。


 亡くなった人を出席者にしたまま。


 会社から自分への貸付けを承認したことにした。


 黒川は、小さく言いました。


「弟にも、ちゃんと説明していなかった」


 相馬先輩が低い声で言いました。


「社長」


「……はい」


「それで会社の給料や仕入代金が払えなくなっているなら、問題は深刻ですよ」


「……分かってる」


「会社が別人格だからといって、会社財産を好きにしていいわけじゃねえ」


 黒川は頷きました。


「……はい」


 私は驚きました。


 あんなに偉そうだった社長が。


 今は、言い返すことすらできません。


 片桐所長が口を開きました。


「黒川さん」


「はい」


「藤井澄江さんへの三百万円の請求については」


「……撤回します」


 黒川は、封筒から一枚の紙を取り出しました。


 ――金三百万円の負担請求を撤回する。


 ――藤井澄江が当社株主であることのみを理由として、会社債務の弁済を求めない。


 代表取締役。


 黒川重蔵。


 署名。


 押印。


 私は、その紙を見つめました。


「本当に……撤回するんですね」


「……はい」


 黒川は力なく答えました。


「株主には、そんな義務はないんでしょう」


 私は頷きました。


「はい」


 黒川は続けました。


「会社から借りた五百万円についても、返すための手配をしています」


 所長は静かに言いました。


「返済の事実と、会社としての適切な処理を確認する必要があります」


「……分かっています」


「議事録の問題も、放置はできません」


「はい」


 黒川は俯きました。


「……弁護士にも、会社と俺自身の責任について調べてもらいます」


 相馬先輩が言いました。


「それがいい」


 黒川は、しばらく黙っていました。


 そして。


「俺は……」


 小さな声で言いました。


「会社は、自分のものだと思っていました」


 私は何も言いませんでした。


「百六十株も持っているんだから、会社の金も、ある程度は自由になるんだと……」


 片桐所長が答えました。


「株式の八割を持っていても、会社の財産が八割あなたの個人財産になるわけではありません」


「……はい」


「株主が持つのは、株式です」


 所長は続けました。


「会社が持つのは、会社の財産です」


 黒川は目を閉じました。


 その一言は。


 どんな怒鳴り声よりも。


 深く突き刺さったようでした。


 ◇


 一週間後。


 澄江さんが、娘さんを連れて事務所を訪れました。


「ありがとうございました!」


 澄江さんは、何度も頭を下げました。


「三百万円、払わなくていいんですね」


「はい。株主であることだけを理由とした請求は、正式に撤回されました」


 私は笑いました。


 澄江さんは、ほっと息をつきました。


「よかった……」


 娘さんが、母親の手を握ります。


「お母さん、よかったね」


「うん……」


「これで、卒業まで学校に通えるね」


 澄江さんの目に、涙が浮かびました。


「そうね」


 私は、胸が温かくなりました。


 十万円。


 澄江さんが会社に出資したお金です。


 その十万円は、会社が失敗すれば失われるかもしれません。


 でも。


 だからといって。


 娘さんの学費まで、会社の借金のために奪われる必要はありません。


「先生」


 澄江さんが聞きました。


「私、株主になったこと自体が、間違いだったんでしょうか」


 私は首を振りました。


「そんなことはありません」


「でも、会社がこんなことになって……」


「出資には、もちろん危険があります」


 私は言いました。


「お金が戻ってこないこともありますし、配当が受けられないこともあります」


「はい」


「でも、澄江さんは、町に仕事を増やしたいと思って出資したんですよね」


「……はい」


「それは、悪いことではありません」


 澄江さんは、少しだけ笑いました。


「主人も、そう言っていたんです」


「ご主人が?」


「ええ」


 澄江さんは、古い株券を取り出しました。


「この町で、若い人が働ける工場が増えたらいいなって」


 私は株券を見つめました。


 二株。


 十万円。


 紙の上では、それだけです。


 でも。


 そこには、ご夫婦の願いがあった。


 会社が大きくなり。


 人を雇い。


 町が元気になる。


 そのために、資金を出した。


 株式会社は、本来、そういう人たちのお金を集めて事業を行う仕組みなのです。


「澄江さん」


「はい」


「株式は、ただのお金の証明じゃないんです」


「え?」


「会社を支える一員になったことを表しているんだと思います」


 澄江さんは、株券をそっと撫でました。


「……そうですね」


 娘さんが言いました。


「お母さん、私が働くようになったら、また少しずつ貯金しようね」


「うん」


 澄江さんは笑いました。


「そうしようね」


 私は二人を見送りました。


 秋の風が、商店街を通り抜けていきました。


 その後、黒川社長は個人で取得した設備を処分し、会社への返済資金を用意することになりました。


 会社の資金繰りがすぐに改善するかは、まだ分かりません。


 従業員への給料。


 取引先への支払い。


 それらの問題も残っています。


 でも。


 少なくとも、株主だからという理由で、何の根拠もなく追加の借金を押しつけることは止まりました。


 会社の財産と。


 株主の財産と。


 社長個人の財産。


 その境界を、法律が守ったのです。


 ◇


 二人が帰ったあと。


 私は事務所の机に、三つの言葉を書きました。


 株主。


 株式。


 資本金。


「相馬先輩」


「何だ」


「株式会社って、面白いですね」


「また始まったな」


「だって、会社の持ち主なのに、会社の財産を勝手に持って帰れないんですよ」


「当たり前だ」


「会社の借金を、自分の財産で全部払わなくてもいい」


「そうだ」


「でも、会社が失敗すれば、自分が出資したお金はなくなるかもしれない」


「そうだな」


 私は頷きました。


「何だか、すごくバランスを取っている制度なんですね」


 先輩は煙草をくわえました。


「そうだな」


 そして言いました。


「無制限に責任を負うんじゃ、怖くて誰も金を出せねえ」


「はい」


「だが、会社に出した金が必ず戻ってくるなら、それは出資じゃねえ」


「はい」


「だから、有限責任って仕組みがあるんだ」


 私はノートを見ました。


 なるほど。


 株主は。


 事業に資金を出す。


 その見返りに株式を取得する。


 そして会社が利益を上げれば、その成果を受け取る機会がある。


 一方。


 会社が失敗すれば、出資したお金を失う危険も引き受ける。


 でも原則として。


 それ以上の会社の借金まで、個人として背負うわけではない。


「先輩」


「何だ」


「じゃあ、資本金一千万円の会社が、百億円借金して倒産しても……」


「普通の株主なら、会社の借金百億円を直接返す義務はねえ」


「すごいですね」


「ただし」


 先輩が人差し指を立てました。


「個人保証をしてりゃ話は別だ」


「はい」


「それから、自分自身の違法な行為について責任を負うこともある」


「はい」


「有限責任を、何でも許される免罪符だと思うなよ」


 私は大きく頷きました。


 今回の黒川社長が、まさにそうでした。


 株主の有限責任を利用して事業を行う。


 そのこと自体は、何も悪くありません。


 でも。


 会社のお金を自分のために使い。


 不自然な議事録を作り。


 会社の経営が苦しくなったら、ほかの株主に借金を押しつける。


 それでは、株式会社という仕組みが成り立ちません。


「片桐所長」


「何だ」


「今日、一つ分かりました」


「言ってみろ」


 私は答えました。


「株式会社は、社長一人の財布じゃありません」


 所長が頷きました。


「そうだ」


「株主は会社に出資します。でも会社の借金を全部背負うわけではありません」


「うん」


「資本金は、会社が事業を行うための財産的基礎を示すもので、社長が好きに使える個人のお金じゃありません」


 所長は静かに言いました。


「それでいい」


 私は嬉しくなりました。


 今日の教訓。


 これなら忘れません。


 ノートに、大きく書きました。


 ――株主は株式を持つ。会社は財産を持つ。株主の責任は、原則として出資の範囲にとどまる。


 よし。


 完璧です。


 ◇


「ところで、こはる」


 相馬先輩が言いました。


「はい?」


「お前、さっき一人で株式会社を作れるとか言ってたな」


 ……。


 嫌な予感。


「はい」


「じゃあ聞くぞ」


「何でしょう」


「発起人は何人必要だ」


「七人以上です!」


「取締役は?」


「三人以上!」


「監査役は?」


「一人以上!」


「よし」


 私は胸を張りました。


「もう覚えました!」


「じゃあ、最低資本金はいくらだ?」


 私は勢いよく答えかけました。


「一千万円!」


「違う」


「……え?」


 相馬先輩が笑いました。


「今の昭和六十三年の商法には、まだ株式会社の最低資本金一千万円という制度はねえ」


「……!」


 私は固まりました。


 そうでした。


 最低資本金一千万円の制度は、もっと後の商法改正で導入されるものです。


 そして。


 さらに時代が進めば、その最低資本金制度も廃止される。


「……ややこしい!」


 私は叫びました。


「人数は厳しいのに、資本金の最低額はまだ決まってないんですか!」


「そうだ」


「しかも、現代では発起人一人、取締役一人、資本金一円でも株式会社を作れるのに!」


「だから現代っていつだ!」


「あっ!」


 私は口を押さえました。


 相馬先輩が額を押さえました。


「お前、本当に変なところから知識を仕入れてくるな」


「いろいろ事情がありまして……」


「何の事情だよ」


 転生です。


 もちろん、言えません。


 片桐所長が帳簿を閉じました。


「こはる」


「はい」


「会社を作りやすくすることには、意味がある」


「はい」


「だが、会社を作れば責任が全部消えると思わせてはいけない」


「……はい」


「仕組みを簡単にすることと、責任を曖昧にすることは違う」


 私はその言葉を、そっと胸にしまいました。


 昭和六十三年。


 会社を作るには、七人もの発起人が必要です。


 だからこそ、名前だけを借りることもある。


 その結果。


 本当は経営に関わっていない人の名前が、会社の重要な書類に残り続けることもある。


 現代の制度が、なぜ簡素化されてきたのか。


 少しだけ分かった気がしました。


「所長」


「何だ」


「株式会社って、結局、人間を信用する仕組みなんですね」


「そうだな」


「会社という別人格を作って、お金を出し合って、事業をする」


「うん」


「でも、最後にその仕組みを守るのは、人間なんですね」


 所長は、少しだけ笑いました。


「法律も、人間が使うものだからな」


 私は頷きました。


 今日の依頼は、一枚の請求書から始まりました。


 三百万円。


 株主だから払え。


 そんな理不尽な要求。


 でも。


 株式会社の基本を知っていれば、それがどれほどおかしいか分かる。


 そして。


 株式と資本金と会社財産の違いを理解していれば。


 会社を自分の財布だと思っている社長の誤りも、見抜くことができる。


 法律は難しい。


 商法は古い。


 昭和の会社制度は、ややこしい。


 でも。


 その複雑な仕組みの向こうには。


 十万円を出資した洋裁店のお母さんがいて。


 看護学校を卒業しようとしている娘さんがいて。


 給料を待っている工場の従業員がいる。


 株式会社の仕組みを正しく理解することは。


 そういう人たちの生活を守ることにもつながっているのです。


 そのとき。


 事務所の電話が鳴りました。


「はい、片桐行政書士事務所です!」


『あの……』


 男性の声でした。


『会社を作るときに、名前だけ貸したんですが……』


 私は鉛筆を止めました。


 ……また?


『最近になって、自分が取締役になっていると知りまして』


 私は相馬先輩を見ました。


 先輩もこちらを見ました。


『しかも、会社が倒産しそうなんです』


 ……。


 嫌な予感。


『私、経営には一切関わっていないんです。名前を貸しただけなんですけど……』


 私は息を吸いました。


 株主。


 取締役。


 発起人。


 似ているようで。


 全然違う立場です。


 株主には、間接有限責任の原則がある。


 でも。


 取締役には、取締役としての義務がある。


 名前だけ貸した。


 それだけで、責任の問題がすべて消えるとは限りません。


「先輩」


「何だ」


「次の相談、取締役です」


「聞こえてる」


「しかも、名前だけです」


「聞こえてるっての」


「昭和の頭数合わせ、怖すぎませんか!」


 相馬先輩は煙草を灰皿に押しつけました。


「こはる」


「はい!」


「まず、登記と就任の経緯を確認しろ」


「はい!」


「名前が載っていることと、適法に取締役になったことも、必ずしも同じじゃねえからな」


「……なるほど!」


 私は受話器を握り直しました。


「すみません。まず、会社を作ったときに、どんな書類へ署名されたのか、詳しく教えていただけますか?」


 昭和六十三年。


 株式会社の世界は、どうやら一筋縄ではいきません。


 発起人七人。


 取締役三人。


 監査役一人。


 株式会社を作るだけでも、人が必要です。


 けれど。


 名前を貸したから。


 株を持っているから。


 社長だから。


 そんな単純な理由だけで、責任の有無が決まるわけではありません。


 今日、私はそれを知りました。


 会社の借金は、誰の借金なのか。


 株主は、何を持っているのか。


 資本金は、誰のものなのか。


 その三つを間違えなければ。


 少なくとも。


 十万円を出資しただけのお母さんに、三百万円の借金を押しつける社長の言い分を、見抜くことができます。


「相馬先輩!」


「今度は何だ!」


「私、株式会社のことがちょっと好きになりました!」


「そうかよ!」


「でも、発起人七人は多すぎませんか!」


「法律に文句を言うな!」


「だって、一人で会社を作りたい人は大変ですよ!」


「だったら今の制度を勉強しろ!」


「はい!」


 私は笑いながら、六法を開きました。


 商法第二編。


 会社。


 分厚い条文の中には。


 人が資金を出し合い、仕事を生み出し、利益も危険も分かち合うための約束が詰まっています。


 そして。


 会社の看板を、自分の欲望のために使おうとする人間が現れたとき。


 その看板の裏側まで見抜くための、法律の刃も。


 ちゃんと用意されているのです。


 ――株式会社は、社長の財布ではない。株主は株式を持ち、会社は会社自身の財産と責任を持つ。


 今日の教訓。


 これなら、絶対に忘れません。


 ただし。


 次の相談では。


 株主ではなく、取締役の責任が問題になりそうです。


 ……昭和の会社って。


 名前を一つ貸すだけでも、ずいぶん怖い世界なんですね。

 以下に私の作品へのリンク貼ってます。是非、手に取って頂ければと思います。また、ついでに評価ブックマーク頂ければ幸いです。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
さくら司法書士補助者の法務帳 〜 昭和に転生して泥沼の争いを収めたら、実務と試験知識が完全にリンクしました 〜
こはる行政書士見習帖 〜 昭和に転生して許認可に振り回されると試験知識が骨身にしみます 〜
宅建見習い栞の人情事件簿 〜転生したら昭和の不動産屋だったので、巻き込まれているうちに宅建過去問が解けるようになりました〜
名探偵 藤原彰子の宮中事件簿 ――『転生皇后 藤原彰子』スピンオフ外伝
転生皇后 藤原彰子 〜 欠けることのない望月の世は私が創る 〜
新訳 太閤記 ~ 転生 豊臣秀吉、未来を識る僕は史実の道を静かに歩む 〜
新訳 三河物語 〜 徳川家康と家臣団の戦国サバイバル 〜 with 逆行転生犬シロ
新訳 北条五代記 〜 近所の隠居が書いたメモがガチの戦記だった件〜
美しき女帝 北条政子 〜 婚約破棄どころか強制結婚!? 平家のエリートに嫁がされそうになったので、豪雨の山を越えて愛する無職の元へ走ってみた 〜
新訳 曽我物語 〜 復讐系なろうの原点、父を殺された兄弟の二十年の復讐譚〜
箴言・格言・名言集 〜頑張るあなたへ、今日を乗り越えるための一言〜
拝啓、愛読者様。― 想いを少しだけ 謹呈 条文小説
六道輪廻抄 〜 戦国転生記 〜
コミックス「六道輪廻抄〜戦国転生記〜」
動画生成AIが作成したイメージビデオ
動画生成AIが作成したなろう小説イメージビデオ
動画生成AIが作成したなろう小説イメージビデオ
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。