[商法・場屋営業]法理編 こはるノート
物を預けたか。
預けていないか。
たったそれだけの違いで、損害賠償責任のルールが変わることがあります。
しかも。
十分注意していたのに、責任を負う場合がある。
逆に。
物が壊れていても、責任を負わない場合がある。
……。
何だか、不公平に聞こえませんか?
でも。
そこには、ちゃんと理由があります。
昭和六十三年。
夕方の片桐行政書士事務所。
私は机に向かい、ノートを開いていました。
表紙には大きく、
――こはるノート・商法編。
と書いてあります。
「……先輩」
「何だ」
「商法って、性格が厳しすぎませんか?」
新聞を読んでいた相馬先輩が顔を上げました。
「いきなり何だよ」
「だって、ちゃんと注意していても、責任を負うことがあるんですよ?」
「あるな」
「普通は、注意していたら許してくれそうじゃないですか」
「法律は学校の先生じゃねえぞ」
「でも!」
私は昨日の事件の資料を広げました。
松風旅館。
藤沢澄江さん。
亡くなったお母様の形見だった、紺色のコート。
そして、木製の裁縫箱。
二つとも、旅館の中で壊されてしまいました。
コートは、旅館に預けた物。
裁縫箱は、預けずに自分の席の横に置いていた物。
旅館の主人は、
「注意していたから責任はない」
「預かっていないから責任はない」
と主張していました。
しかも。
玄関には、
――お客様のお荷物について、紛失・破損の責任は一切負いかねます。
という張り紙。
ところが。
商法第五百九十四条を根拠に内容証明郵便を送ったところ、主人の態度は一変しました。
知り合いの弁護士に確認し、自分の言い分に問題があったと知ったのです。
そして。
謝罪。
損害への対応。
張り紙の撤去。
あの強気だった主人が、最後には頭を下げました。
「……という事件でした」
私が言うと、相馬先輩が眉をひそめました。
「知ってるよ。俺もいたんだから」
「復習です!」
「俺に説明してどうすんだ」
「自分の頭を整理するためです!」
私は鉛筆を握りました。
「今日は、場屋営業を完全攻略します!」
「大げさだな」
「行政書士試験に出たら、絶対に落としたくないんです!」
すると。
奥から片桐所長が声をかけました。
「こはる」
「はい!」
「まず、場屋営業とは何か」
……。
来ました。
いきなり確認問題です。
でも。
今回は自信があります。
「お客様が集まる設備を設け、その設備を利用させることを目的とする営業です!」
所長が頷きました。
「具体例は?」
「旅館、飲食店、浴場です!」
「よし」
私は思わず笑いました。
今日は、出だしから好調です。
ただし。
このあと。
またしても私は、昭和と令和の条文番号の違いに、頭を抱えることになるのでした。
「では、最初に場屋営業です」
私はノートに大きく書きました。
――場屋営業。
「先輩、これ、何て読むか分かります?」
「じょうおくえいぎょう」
「正解です!」
「馬鹿にしてんのか」
「いえいえ!」
私は笑いました。
場屋営業。
読み方は、じょうおくえいぎょう。
言葉だけ聞くと、何だか古い建物を売る仕事のような気がします。
でも。
実際には違います。
「旅館や飲食店、浴場など、お客様を集めて施設を利用させる営業のことなんです」
「そうだな」
「今回の松風旅館も、当然これに当たります」
私はノートに例を書きました。
旅館。
飲食店。
銭湯。
その他、客が集まる設備を利用させる営業。
「じゃあ、普通の商店はどうなんですか?」
私は尋ねました。
相馬先輩が答えます。
「商店なら何でも場屋営業ってわけじゃねえ」
「ですよね」
「営業の実態を見ろ」
なるほど。
商人だから。
店舗があるから。
お客様が来るから。
それだけで、何でも場屋営業と決まるわけではないのです。
「つまり、施設を利用させるという営業の性質が大事なんですね」
「そうだ」
私は二重線を引きました。
場屋営業。
単なる物品販売とは区別する。
そして。
場屋営業では、お客様が荷物を持ち込んだり、預けたりすることが多い。
旅館なら、衣服や旅行鞄。
飲食店なら、上着や手荷物。
浴場なら、衣服や所持品。
「……あ」
私は顔を上げました。
「だから、特別な責任があるんですね!」
相馬先輩が頷きました。
「客が安心して施設を利用するには、荷物の安全も重要だからな」
「なるほど!」
私はノートに書きました。
――場屋営業の責任は、施設を利用する客の財産を保護し、取引の安全を守るための特則。
これで。
なぜ商法にこんな規定があるのか、少し分かってきました。
「さて」
相馬先輩が新聞を畳みました。
「本題だ」
「はい!」
「預かったコートの方からいくぞ」
私はページをめくりました。
――寄託を受けた物品。
「寄託って、要するに預かることですよね」
「ああ」
「今回なら、松風旅館が澄江さんのコートを預かったことです」
澄江さんは、旅館の女中さんにコートを渡しました。
女中さんは、それを受け取りました。
そして。
番号十七番の預かり札を渡した。
ここで重要なのは。
単に旅館へコートを持ち込んだのではなく。
旅館側に、コートの保管を任せたことです。
「この時点で、旅館の責任が重くなるんですね」
「そうだ」
私は六法を開きました。
昭和六十三年。
商法第五百九十四条第一項。
文語体の条文です。
「……読みづらい!」
思わず声が出ました。
「またそれか」
「だって、先輩!」
私は条文を指差しました。
「『其不可抗力ニ因リタルコトヲ証明スルニ非サレハ』ですよ!」
「それがどうした」
「現代語訳が欲しいです!」
「自分で訳せ」
「厳しい!」
相馬先輩は笑いました。
私は、ゆっくり意味を確認しました。
場屋の主人は、客から預かった物品が滅失したり、毀損したりした場合。
不可抗力によって生じたことを証明しなければ、損害賠償責任を免れることができない。
「つまり!」
私は言いました。
「預かった物については、不可抗力が重要なんです!」
「そうだ」
「旅館側が、十分注意していたと説明しただけでは足りない」
「そのとおり」
私は鉛筆を止めました。
……。
ここ。
行政書士試験では、かなり重要なところです。
一般的な過失責任の感覚だと、
「注意していたなら責任はない」
と考えてしまいそうです。
でも。
場屋営業者が預かった物については、もっと重い責任が定められている。
「先輩、どうしてですか?」
「何がだ」
「どうして、こんなに厳しいんですか?」
相馬先輩は、少し考えてから言いました。
「客は、預けた物を自分で守れねえだろ」
「……あ」
私は、はっとしました。
そうです。
コートを旅館に預けたあと。
澄江さんは宴会場へ向かいました。
その間。
衣装置場で何が起きているか、分かりません。
ストーブが置かれていることも。
その上にやかんがあることも。
知ることはできなかった。
「管理を任せた以上、預かった側に責任を負わせる必要があるんですね」
「そうだ」
片桐所長が静かに言いました。
「預けた客には、管理の状況が見えない」
「はい」
「だから、場屋の主人には重い責任を負わせる」
私は頷きました。
なるほど。
厳しいように見えて。
ちゃんと理由があるのです。
「では、不可抗力とは何でしょう!」
私はノートに書きました。
――不可抗力。
相馬先輩が言いました。
「普通の注意をしていても避けられない、というだけで簡単に認められるもんじゃねえ」
「はい」
「その事故が、不可抗力によるものだと説明できなきゃならねえ」
私は松風旅館の事故を思い出しました。
衣装置場。
石油ストーブ。
その上のやかん。
熱湯がこぼれ、コートが損傷した。
「これを、旅館の主人は『たまたま起きた事故だ』と言っていました」
「ああ」
「でも、たまたま起きたからといって、不可抗力とは限らない」
「そうだ」
偶然の事故。
不可抗力。
この二つは、同じではありません。
「たとえば、従業員が気をつけていたとしても?」
「それだけで免責されるわけじゃねえ」
「なるほど」
私は頷きました。
ここが、第一項の最大の特徴です。
十分注意していた。
過失はなかった。
それだけでは、責任を免れる理由にならない。
不可抗力によることを証明する必要がある。
「じゃあ、先輩」
「何だ」
「もし、旅館に預けた鞄が、通常は予測も防止もできないような異常な自然災害によって破壊されたら?」
「具体的な事情によるが、不可抗力が認められる可能性はあるな」
「その場合は?」
「旅館が不可抗力によるものだと証明できれば、第一項の責任を免れられる」
「なるほど!」
私は大きく書きました。
預かった物。
不可抗力を証明できれば免責。
証明できなければ、原則として責任を免れない。
「重要なのは、誰が証明するかですね」
私が言うと、所長が頷きました。
「そうだ」
「客が、旅館側の不注意まで全部証明しなきゃいけないわけではない」
「うん」
「旅館側が、不可抗力によることを証明する」
「そのとおり」
私は二重丸をつけました。
これは忘れません。
だって。
あのコートの事故を思い出せばいいのです。
女中さんは注意していた。
主人はそう言いました。
でも。
問題は、それだけではありませんでした。
「じゃあ、次だ」
相馬先輩が言いました。
「はい!」
「裁縫箱」
私は写真を取り出しました。
木製の小さな裁縫箱。
澄江さんのお母様が使っていたものです。
宴会場の席の横に置いていたところ。
旅館の従業員が、台車をぶつけて壊してしまった。
「これは、預かっていない物ですね」
「そうだ」
「じゃあ、第一項は?」
「そのまま使う話じゃねえ」
「第二項!」
私は六法を確認しました。
商法第五百九十四条第二項。
場屋の中に客が携帯した物品について。
場屋の主人または使用人の不注意によって滅失・毀損した場合。
場屋の主人が損害賠償責任を負う。
「つまり」
私は言いました。
「預かっていない物でも、旅館側の不注意があれば責任を負うんですね!」
「そうだ」
松風旅館の主人は言いました。
――預かっていないから、うちに責任はない。
でも。
それは間違いでした。
預かっていなくても。
従業員が不注意で壊したなら、場屋営業者の責任が問題になるのです。
「ただし」
私は鉛筆を止めました。
「ここが第一項と違うんですよね」
「言ってみろ」
「第二項は、不注意が必要なんです!」
相馬先輩が頷きました。
「正解」
私はノートに二つの例を書きました。
まず。
客が自分の鞄を宴会場の席の横に置いていた。
旅館の従業員が、前方をよく確認せず、台車をぶつけた。
鞄が壊れた。
「これは?」
相馬先輩が聞きました。
「従業員の不注意が原因なら、旅館側が責任を負います!」
「そうだ」
次。
客が自分の鞄を持って歩いていた。
旅館側に落ち度はなかった。
ところが、客が自分で転んで鞄を壊してしまった。
「これは?」
私は答えました。
「旅館側に不注意がなければ、少なくとも第二項の責任は発生しません!」
「正解」
私は思わず拳を握りました。
よし。
区別できました。
ただし。
ここでも大切なのは、具体的な事実です。
預かっていない物が壊れたから、絶対に責任なし。
これも違う。
旅館の中で壊れたから、絶対に責任あり。
これも違う。
旅館側の不注意と、損傷との因果関係を考える必要があるのです。
「では、ここまでを整理します!」
私はノートの真ん中に、一本の線を引きました。
左側。
預かった物。
右側。
預かっていない物。
「先輩、ここが今回の最重要ポイントです」
「分かったから説明しろ」
「はい!」
まず、預かった物。
場屋営業者が、客から寄託を受けた物品です。
滅失・毀損が生じた場合。
不可抗力によることを証明しなければ、損害賠償責任を免れない。
次に、預かっていない物。
客が場屋の中に携帯した物品です。
場屋の主人または従業員の不注意によって、滅失・毀損したときに責任を負う。
「ここ、間違えやすいですね」
「そうだな」
「預かった方が責任が重いんです」
「ああ」
「預かっていない方は、不注意が鍵になる」
「そうだ」
私は大きな丸で囲みました。
そして、思いました。
これ。
試験問題にすると、絶対にひっかけられます。
「先輩!」
「何だ」
「問題を作ってください!」
「は?」
「行政書士試験風です!」
「またかよ」
「お願いします!」
相馬先輩は、面倒くさそうに六法を閉じました。
「じゃあ、第一問」
「はい!」
「旅館が客から預かった荷物を壊した場合、十分な注意を尽くしていたことを証明すれば、当然に損害賠償責任を免れる」
私は即答しました。
「誤りです!」
「理由は?」
「不可抗力によることを証明しなければ、第一項の責任を免れないからです!」
「正解」
よし。
「第二問」
「はい!」
「客が旅館に預けていない荷物については、旅館の従業員が不注意で壊しても、旅館は責任を負わない」
「誤りです!」
「理由は?」
「第二項によって、従業員の不注意が原因なら責任を負うからです!」
「正解」
よし。
「第三問」
「はい!」
「客が旅館に預けていない物品が施設内で壊れた場合、旅館は原因に関係なく必ず責任を負う」
「誤りです!」
「理由は?」
「第二項では、場屋の主人または使用人の不注意が必要だからです!」
相馬先輩が頷きました。
「よし」
私は満足しました。
完璧。
これなら大丈夫です。
ところが。
「第四問」
先輩が、にやりと笑いました。
「旅館が『荷物の破損について責任を負わない』と玄関に張り紙を出していた場合、第一項と第二項の責任は免除される」
「誤りです!」
「早えな」
「第三項です!」
私は六法を開きました。
商法第五百九十四条第三項。
客の携帯品について責任を負わない旨を告示しても。
前二項の責任を免れることはできない。
「これ、松風旅館の張り紙そのものです!」
「そうだ」
私は思わず笑いました。
「主人は、第三項を知らなかったんですね」
「そうだろうな」
法律を知らないまま。
自信満々に、
「うちは責任を負いません!」
と掲示する。
でも。
商法には、それを防ぐ規定がある。
「……すごいですね」
私は呟きました。
「何がだ」
「張り紙をしただけでは、法律を消せないんです」
相馬先輩が笑いました。
「当たり前だろ」
「でも、実際に見ると痛快です!」
私はノートに書きました。
――免責の告示だけでは、場屋営業者の法定責任を免れない。
ただし。
私は小さく付け加えました。
個別の契約条件の有効性まで、第三項だけで一律に結論づけるものではない。
そこには別の法的検討も必要になる。
今回の主人がしていたのは、玄関に一方的な告示を出し、それだけで責任が消えると主張すること。
その主張は、第三項に正面からぶつかっていたのです。
「ところで」
片桐所長が言いました。
「こはる」
「はい!」
「なぜ、預かった物と預かっていない物で、責任の条件が違うと思う」
私は考えました。
「管理する人が違うからです」
「うん」
「預かった物は、旅館が管理します」
「そうだ」
「でも、預かっていない物は、基本的に客の手元にあります」
「それで?」
「だから、旅館に全部同じ責任を負わせるのは適切ではないんですね」
所長が頷きました。
「そういうことだ」
私は少し嬉しくなりました。
法律の仕組みが、分かってきた気がします。
たとえば。
客が旅館にコートを預ける。
旅館が預かり札を渡す。
その瞬間から、客はコートを自分で管理できなくなる。
だから、旅館側に重い責任を負わせる。
一方。
客が自分の鞄を持ったまま宴会場へ入る。
その鞄については、旅館が当然に全面的な管理を引き受けたわけではない。
だから、旅館側の不注意によって損傷した場合に責任を認める。
「なるほど……」
私は鉛筆を止めました。
「法律って、ただ厳しくしてるわけじゃないんですね」
「そうだ」
所長が言いました。
「責任には理由がある」
私は、その言葉をノートの端に書きました。
責任には理由がある。
そして。
責任の重さは、誰が何を管理していたかによっても変わる。
これが、場屋営業の根っこにある考え方なのです。
「さて」
相馬先輩が言いました。
「ここまで分かったなら、昨日の電話の話だ」
「昨日の電話?」
「ああ。財布を預けたって相談」
私は思い出しました。
旅館に財布を預けた。
ところが、紛失してしまった。
その財布には現金が入っていた。
「そうでした!」
私は顔を上げました。
「普通のコートと、現金では違うんですよね!」
「そうだ」
「商法第五百九十五条!」
私は六法を開きました。
今度は、昭和六十三年の条文番号です。
間違えません。
「高価品の特則ですね!」
相馬先輩が頷きました。
「そうだ」
私はノートに書きました。
――高価品の特則。
貨幣。
有価証券。
その他の高価品。
こうした物については、客が種類と価額を明告して寄託しなければ、場屋の主人は原則として、その滅失・毀損による損害を賠償する責任を負わない。
「つまり!」
私は言いました。
「現金や高価品については、普通の荷物とは別の注意点があるんですね!」
「そうだ」
私は少し考えました。
「先輩、どうしてですか?」
「中に何が入ってるか分からねえと、保管方法も考えられねえだろ」
「あ……」
なるほど。
たとえば。
何も知らされずに預かった小さな鞄。
その中に、百万円が入っていたとします。
旅館側は、ただの手荷物だと思っていた。
ところが。
紛失したあとに、
「百万円入っていた!」
と言われる。
それでは、旅館側も対応に困ります。
「だから、種類と価額を伝えて預ける必要があるんですね」
「そうだ」
「現金なら、現金だと伝えるだけでは足りない場合がある」
「ああ。金額も問題になる」
私は頷きました。
ただし。
高価品の特則にも、適用範囲や例外、ほかの法的責任との関係があります。
今回の裁縫箱やコートも、母親の形見という意味では、とても大切な物でした。
でも。
思い出として大切なことと、商法上の高価品に当たるかどうかは別の問題です。
「つまり、感情的な価値だけで高価品と決まるわけではないんですね」
「そうだ」
相馬先輩が頷きました。
「何を預けたか、何を告げたか。そこまで確かめるんだ」
私は書きました。
――高価品は、種類と価額の明告に注意。
……。
怖い。
商法。
一つ覚えると、また新しい注意点が出てきます。
「先輩」
「何だ」
「これ、全部覚えないといけないんですか?」
「試験に出るならな」
「うう……」
「嫌なら、実際の事件を思い出せ」
私は顔を上げました。
「事件?」
「ああ。コートと裁縫箱と財布」
……なるほど。
コート。
預かった物。
裁縫箱。
預かっていない物。
財布の中の現金。
高価品。
「……覚えやすい!」
「だろ」
私は笑いました。
法律の知識が、頭の中でつながっていきます。
文字だけだった条文が。
人の顔や、物の形と結びついていく。
これが。
現場で学ぶ法律の面白さなのだと思いました。
「そういえば」
私は六法を見ながら呟きました。
「今回の条文って、現代と番号が違うんですよね」
相馬先輩が顔を上げました。
「また未来の話か」
「はい!」
「堂々と言うな」
「でも、大事なんです!」
私はノートに二つの年代を書きました。
昭和六十三年。
令和。
「昭和六十三年の場屋営業者の責任は、商法第五百九十四条」
「そうだ」
「でも、現代では第五百九十六条なんです!」
相馬先輩が眉をひそめました。
「番号が移ったのか?」
「そうなんです」
私は説明しました。
現代では、平成三十年の商法改正によって、運送や寄託などに関する規定が整理されました。
その改正は、令和元年に施行されています。
その結果。
昔の商法第五百九十四条にあった場屋営業者の責任は、現代では第五百九十六条に置かれています。
「つまり、先輩」
「何だ」
「中身の基本的な考え方は引き継がれているのに、条文番号が違うんです」
「ややこしいな」
「本当ですよ!」
私は力いっぱい頷きました。
「しかも、現代では文語体から読みやすい現代語に整理されているんです」
「そりゃ便利だな」
「便利です!」
私は笑いました。
そして。
もう一つ思い出しました。
「会社法も同じように、時代によって整理されているんですよね」
相馬先輩が首をかしげました。
「会社法?」
「……あっ」
しまった。
またです。
昭和六十三年には、独立した会社法という法律は存在しません。
会社の規定は、商法第二編や有限会社法などに分かれています。
「何だその会社法って」
相馬先輩が怪訝な顔をします。
「あ、いえ、その……会社に関する法律という意味で!」
「商法第二編の話か?」
「そうです!」
私は慌てて頷きました。
「将来、法律がもっと整理されるといいなと思いまして!」
相馬先輩は呆れたように言いました。
「お前、また妙なこと考えてるな」
「いえいえ!」
危ない。
転生者。
また未来の制度を口走りかけました。
でも。
私は思います。
現代では、会社に関する規定が独立した会社法として整理されました。
商法の運送・寄託関係の規定も、時代に合わせて見直されています。
それは。
法律を使う人が、現在の商取引に合った形で制度を理解し、利用できるようにするためです。
「法律って、少しずつ整備されていくんですね」
私は呟きました。
片桐所長が頷きました。
「商売の形が変われば、法律も見直される」
「はい」
「だが、古い法律にも理由がある」
私は顔を上げました。
「理由?」
「なぜその責任があるのか。そこを理解すれば、条文が変わっても考え方を追える」
私は、しばらく黙りました。
なるほど。
今回の場屋営業。
昭和では、第五百九十四条。
現代では、第五百九十六条。
番号は違います。
でも。
預かった物について、重い責任を負わせる。
預かっていない物について、営業者側の不注意を問題にする。
免責の告示だけでは責任を消せない。
その基本的な考え方は、引き継がれているのです。
「所長」
「何だ」
「条文番号だけを丸暗記するより、理由を理解する方が大事なんですね」
「そうだ」
私は大きく頷きました。
これは。
転生者にとって、特に重要な教訓です。
未来の条文番号を覚えていても。
昭和六十三年の書面に、そのまま使ってはいけない。
でも。
法律の根底にある考え方を理解していれば。
違う時代の条文にも、ちゃんと対応できるのです。
窓の外は、もう薄暗くなっていました。
私は、ここまでのノートを見直しました。
場屋営業。
寄託を受けた物品。
寄託を受けていない物品。
不可抗力。
不注意。
免責告示。
高価品。
最初は、覚えることが多すぎると思いました。
でも。
松風旅館の事件を思い出すと。
全部、きれいにつながります。
「所長」
「何だ」
「最後に確認問題をお願いします!」
所長が帳簿を閉じました。
「いいだろう」
私は姿勢を正しました。
「旅館が客から預かった物品を滅失させた。責任を免れるため、第一項により証明すべきことは?」
「不可抗力によることです!」
「旅館が十分注意していたと証明しただけでは?」
「それだけでは免責されません!」
「客が預けていない物品を、従業員の不注意で壊した場合は?」
「第二項により、場屋の主人が損害賠償責任を負います!」
「旅館側に不注意がなかった場合は?」
「第二項の責任は、原則として発生しません!」
所長が頷きました。
「では、免責の張り紙は?」
「第三項です! 責任を負わないと告示しても、それだけで第一項・第二項の責任は免れません!」
「よし」
私は拳を握りました。
やった。
「次。昭和六十三年の条文番号は?」
「商法第五百九十四条!」
「現代では?」
「第五百九十六条!」
所長が頷きました。
「では、高価品の特則は?」
「昭和六十三年は第五百九十五条、現代は第五百九十七条です!」
「よし」
完璧。
私は思わず笑いました。
「先輩!」
「何だ」
「今日こそ完全攻略です!」
「本当に?」
「はい!」
相馬先輩が、にやりとしました。
……。
嫌な予感。
「じゃあ、最後に一問」
「どうぞ!」
「客が旅館に預けた荷物を、旅館の従業員が十分注意して保管していた」
「はい」
「ところが、不可抗力とはいえない偶然の事故によって、荷物が壊れた」
「はい」
「旅館は責任を免れるか?」
私は即答しました。
「免れません!」
「理由は?」
「預かった物については、不可抗力によることを証明しなければならないからです!」
「よし」
先輩が頷きました。
「じゃあ、その荷物が、客の手元にあった場合は?」
「え?」
「預けていない荷物だ」
「あ……」
私は考えました。
預けていない。
従業員は十分注意していた。
旅館側に不注意がない。
なら。
「第二項の責任は、原則として発生しません!」
「正解」
私は大きく息を吐きました。
「……怖い!」
「何がだ」
「前提を一つ変えるだけで、答えが変わります!」
相馬先輩が笑いました。
「それが法律だ」
なるほど。
預かったのか。
預かっていないのか。
不注意があるのか。
不可抗力なのか。
その一つを見落とすだけで。
答えが変わる。
「先輩」
「何だ」
「これ、過去問を解くときも使えますね」
「当然だ」
「問題文の『寄託を受けた』という言葉を、絶対に見落としません!」
「そうしろ」
私はノートに大きな星印を描きました。
これが、今日の最大の収穫です。
「ところで、こはる」
片桐所長が言いました。
「はい?」
「松風旅館の主人が、最後に謝った理由は何だと思う」
私は少し考えました。
「……商法第五百九十四条を知らなかったからです」
「それだけか」
「え?」
所長は、静かに続けました。
「条文を知っただけで、人が変わるとは限らん」
私は黙りました。
確かに。
内容証明郵便を受け取ったあと。
旅館の主人は、弁護士に相談しました。
そして。
自分の言い分では責任を免れない可能性があることを知った。
その結果。
裁判になる危険を理解した。
損害賠償の問題を放置できないと悟った。
「……自分の責任と向き合う必要があると分かったから、でしょうか」
私は答えました。
所長が頷きました。
「そうだな」
私は、澄江さんの顔を思い出しました。
最初に事務所へ来たとき。
彼女は、泣きそうでした。
母親の形見を壊された。
それだけでも辛いのに。
「うちは悪くない」
と言われてしまった。
でも。
最後には、主人が謝罪しました。
損害についても、きちんと対応することになりました。
壊れた裁縫箱は、修理されることになった。
コートも、残った布地を使って、新しい形に生まれ変わる。
「法律って、責任を認めさせるためだけのものじゃないんですね」
私は呟きました。
「どういう意味だ」
相馬先輩が聞きました。
「責任を認めることで、次に進めることもあるんです」
先輩は少し黙りました。
それから。
「まあな」
短く答えました。
私は頷きました。
法律は。
壊れた物を、魔法のように元どおりにはできません。
でも。
誰が、どんな責任を負うのか。
それを明確にすることはできます。
そして。
責任が明確になれば、謝罪や修復、損害の回復につながることがある。
そこに。
商法の役割があるのだと思いました。
私はノートの最後のページを開きました。
ここに。
今日の一行を書きます。
鉛筆の先を整えて。
ゆっくり。
――場屋営業は「預かったら不可抗力、預かっていなければ不注意」。責任なしの張り紙だけでは逃げられない。
「……できた!」
私はノートを掲げました。
「どうですか!」
相馬先輩が覗き込みました。
「まあ、覚えやすいんじゃねえか」
「褒めましたね!」
「気のせいだ」
「またそれですか!」
私は笑いました。
でも。
この一行は、たぶん忘れません。
松風旅館。
紺色のコート。
木製の裁縫箱。
玄関の張り紙。
そして。
最後に頭を下げた主人。
あの事件を思い出せば。
商法第五百九十四条の意味が、自然と浮かんできます。
預かった物は、不可抗力。
預かっていない物は、不注意。
告示だけでは免責されない。
これが、場屋営業の責任です。
「さて」
相馬先輩が立ち上がりました。
「勉強会は終わりだな」
「はい!」
「じゃあ、机を片付けろ」
「え?」
「六法も戻せ」
「はい」
「それから、湯呑みを洗っとけ」
「……先輩」
「何だ」
「それ、私ばっかりじゃないですか?」
「見習いだろ」
私は腕を組みました。
「先輩!」
「何だよ」
「私、今から先輩に湯呑みを預けます!」
「は?」
私は自分の湯呑みを差し出しました。
「はい!」
「何だこれ」
「寄託です!」
相馬先輩が顔をしかめました。
「……またかよ」
「これで先輩は、預かった物を大切に管理する義務があります!」
「そうだな」
「だから、洗ってください!」
……。
相馬先輩は、しばらく私を見つめました。
それから。
「こはる」
「はい!」
「ここは旅館か?」
「……違います」
「飲食店か?」
「違います」
「浴場か?」
「違います」
「場屋営業か?」
「……違います」
私は固まりました。
あ。
またです。
また、適用範囲。
「ここは行政書士事務所だ」
「はい……」
「場屋営業者の特則を、何でもかんでも当てはめるな」
「……はい」
相馬先輩は、湯呑みを机に戻しました。
「それに、預かったからって、洗う義務まで当然に発生するわけじゃねえだろ」
「ぐっ……!」
確かに。
預かることと。
洗うこと。
これも別の話です。
「先輩!」
「何だ!」
「商法って、融通が利かないですね!」
「お前の使い方が間違ってんだ!」
私は唇を尖らせました。
すると。
奥から片桐所長が声をかけました。
「こはる」
「はい!」
「その湯呑みは誰のだ」
「私のです!」
「では、自分で洗いなさい」
「……!」
相馬先輩が吹き出しました。
「ほらな」
「所長まで!」
私は渋々、湯呑みを持ち上げました。
でも。
何だか、おかしくなって笑ってしまいました。
法律の知識が増えると。
つい、何でも法律で解決したくなります。
でも。
どんな法律にも、適用される範囲がある。
場屋営業。
寄託。
不可抗力。
不注意。
それぞれの意味を正確に理解しなければ、使い方を間違えてしまうのです。
私は湯呑みを洗いながら、窓の外を見ました。
昭和六十三年。
夕暮れの町。
商店街の灯りが、一つずつ点いていきます。
どこかの旅館では。
今もお客様が荷物を預けているのでしょう。
どこかの飲食店では。
お客様が上着を脱いで、食事を楽しんでいるのでしょう。
どこかの銭湯では。
湯上がりの人が、脱衣所で着替えているのでしょう。
その一つ一つの場所で。
商法は、静かに働いています。
普段は、誰も意識しないかもしれません。
でも。
預かった物が壊れたとき。
預けていない物が、従業員の不注意で壊れたとき。
初めて、その条文の意味が見えてくる。
「……法律って、面白いですね」
私は小さく呟きました。
洗い終えた湯呑みを拭きながら。
もう一度、今日の一行を思い出しました。
――場屋営業は「預かったら不可抗力、預かっていなければ不注意」。責任なしの張り紙だけでは逃げられない。
よし。
完璧です。
そのとき。
「こはる!」
相馬先輩の声が飛びました。
「はい!」
「湯呑み、洗い終わったか!」
「終わりました!」
「じゃあ、俺のも頼む!」
「……先輩!」
「何だ!」
「それは寄託ですか!」
「違う!」
「じゃあ、何ですか!」
「ただのお願いだ!」
……なるほど。
商法第五百九十四条。
残念ながら。
先輩の湯呑みを洗わずに済むための条文ではないようです。
私は、深いため息をつきました。
でも。
今度、先輩が大切な物を預けてきたら。
そのときは、ちゃんと確認しようと思います。
何を預かったのか。
どんな約束をしたのか。
誰が管理するのか。
そして。
どんな責任が生じるのか。
だって。
預かるという行為は。
単に物を受け取ることではなく。
その物に込められた、誰かの信頼を引き受けることでもあるのですから。
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