[商法・場屋営業]現場編 「お預かりした物には責任を負いません」の大嘘。旅館主人が知らなかった二つの責任と、消えた母の形見
預かった物を壊したら、責任を取る。
そんな当たり前の話にも、法律には恐ろしい落とし穴があります。
たとえば。
旅館に荷物を預けた。
旅館側は十分に注意していた。
それでも、荷物が壊れてしまった。
さて。
旅館は責任を負うのでしょうか。
逆に。
預けていない物を、旅館の従業員が壊してしまった場合は?
この二つ。
似ているようで、責任の仕組みが違うのです。
昭和六十三年。
片桐行政書士事務所。
その日の私は、一枚の張り紙を見て、思わず叫ぶことになります。
「そんな紙を貼っただけで、責任がなくなるわけないでしょう!」
すると相馬先輩が、煙草をくわえたまま言いました。
「こはる」
「はい!」
「お前、まず『預かった物』と『預かってねえ物』を分けろ」
「え?」
「そこを間違えると、商法の答えが全部ひっくり返るぞ」
……。
またです。
また、似ているようで違う法律問題です。
しかも今回の敵は。
町で評判の老舗旅館。
その主人でした。
「母の形見を、駄目にされたんです」
午前九時。
事務所を訪れた女性は、膝の上でハンカチを握り締めていました。
名前は、藤沢澄江さん。
四十八歳。
隣町で小さな仕立て屋を営んでいるそうです。
「形見……ですか?」
私が聞くと、澄江さんは頷きました。
「母が、最後に縫ってくれたコートなんです」
コート。
私は少し意外に思いました。
「どんなコートですか?」
「紺色の、ウールのコートです。もう二十年以上前のものですけど……」
澄江さんの声が震えます。
「母は、洋裁をしていたんです。私が結婚するとき、寒いところに嫁ぐからって、一針ずつ縫ってくれて」
なるほど。
高級ブランドのコートではありません。
でも。
金額では測れない価値がある。
「それが、どうして壊されたんですか?」
「旅館に預けたんです」
「旅館?」
「はい。駅前の松風旅館です」
松風旅館。
知っています。
駅から歩いて十分ほど。
宴会場もある、町では有名な老舗旅館です。
法事。
結婚式の披露宴。
町内会の集まり。
そうした行事にも使われています。
「昨日、親戚の法事がありまして」
澄江さんは続けました。
「旅館に着いたとき、女中さんが『お召し物をお預かりします』と言ったんです」
「はい」
「だから、コートを渡しました」
「預かり札は?」
相馬先輩が尋ねました。
「あります」
澄江さんは鞄から小さな札を取り出しました。
木製の札。
赤い紐。
番号は十七番。
裏には、
――松風旅館。
と焼き印が押されています。
相馬先輩が目を細めました。
「これは重要ですね」
「そうなんですか?」
私が聞くと、先輩は頷きました。
「ああ。預けた事実が分かる」
なるほど。
寄託。
物を預けること。
商法でも、重要な言葉です。
「それで、帰るときに返してもらったんですが……」
澄江さんは写真を取り出しました。
私は息を呑みました。
「えっ……!」
紺色のコート。
その裾が。
茶色く変色しています。
しかも。
布地が縮み、波打っていました。
「これ……どうしたんですか?」
「旅館の衣装置場で、暖房器具の近くに掛けられていたそうなんです」
「暖房器具?」
「石油ストーブです」
……嫌な予感。
「女中さんが、ストーブの上で湯を沸かしていたそうで」
「はい」
「やかんのお湯がこぼれて、コートにかかったんです」
「ええっ!」
熱湯。
ウール。
しかも長時間の熱。
これは、まずい。
「旅館の方は?」
私が尋ねました。
「謝ってはくれました」
「なら、弁償の話は?」
「それが……」
澄江さんは目を伏せました。
「主人が出てきて、こう言ったんです」
――うちは十分注意して保管していた。
――女中がわざとやったわけじゃない。
――事故だから仕方がない。
――だから弁償はできない。
……。
私は固まりました。
「ちょっと待ってください」
「はい」
「ストーブの上のやかんから、お湯がこぼれたんですよね?」
「そうです」
「それを、事故だから仕方がないって……」
澄江さんが頷きました。
「それに、旅館の玄関に張り紙があるから、責任はないって」
「張り紙?」
「はい」
彼女はもう一枚、写真を出しました。
そこには、大きな文字。
――お客様のお荷物につきましては、紛失・破損等の責任を一切負いかねます。
私は写真を見つめました。
……。
何ですか、これ。
お客様の荷物を預かる。
壊す。
でも責任は負わない。
そんな都合のいい話が、法律上いつでも通るのでしょうか。
「所長!」
私は勢いよく振り返りました。
「何だ」
「これ、契約内容以前に、商法の問題ですよね!」
片桐所長が、ゆっくり顔を上げました。
「そうだな」
「場屋営業です!」
私は思わず拳を握りました。
来ました。
商法。
場屋営業。
行政書士試験で勉強した、あの独特な名前の制度です。
旅館。
飲食店。
浴場。
お客様が集まる施設を利用させる営業。
そうした営業者には、客の物品について特別な責任が定められています。
「しかも!」
私は続けました。
「預かった物については、不可抗力が原因だと証明できない限り、損害賠償責任を免れないはずです!」
相馬先輩が頷きました。
「お。今日はまともだな」
「今日はって何ですか!」
「いつも未来の条文を持ってくるだろ」
「ぐっ……」
それは否定できません。
現代の行政書士試験で覚えた知識。
昭和六十三年では、まだ存在しない法律。
特に会社法。
私は何度も地雷を踏んでいます。
「でも今回は大丈夫です!」
私は胸を張りました。
「商法の場屋営業ですから!」
「ほう」
「現代の商法でも勉強しました!」
「じゃあ、何条だ?」
「第五百九十六条です!」
相馬先輩の手が止まりました。
「……何条?」
あ。
嫌な予感。
「五百九十六条……」
「こはる」
「はい」
「六法を開け」
私は慌てて昭和六十三年の六法を開きました。
場屋営業。
場屋ノ主人ノ責任。
条文番号。
……第五百九十四条。
「……あれ?」
「どうした」
「番号が……違います」
相馬先輩が額を押さえました。
「またか!」
「すみません!」
「今の商法を読め!」
「はいっ!」
そうでした。
現代では商法の運送・寄託関係の規定が整理され、条文番号も変わっています。
でも。
この昭和六十三年では。
場屋営業者の責任は、商法第五百九十四条。
「条文番号は間違えましたけど!」
私は言いました。
「法律の考え方は間違ってません!」
「そこは認めてやる」
相馬先輩が六法を指で叩きました。
「ただし、覚えとけ」
「はい」
「条文番号を一つ間違えりゃ、相手に突っ込まれる」
「……はい」
危ない。
今回は内容証明を作る前でよかった。
もし書面に堂々と未来の条文番号を書いていたら。
また全部やり直しになるところでした。
「実は……」
そのとき。
澄江さんが、もう一枚の写真を取り出しました。
「被害は、コートだけじゃないんです」
「え?」
「こちらも、壊されてしまって」
写真には。
木製の小さな裁縫箱が写っていました。
蓋が割れています。
角も欠けていました。
「これも、お母様の?」
「はい。母が使っていた裁縫箱です」
澄江さんは、そっと写真を撫でました。
「法事のあと、親戚に見せようと思って持っていったんです」
裁縫箱。
中には古い糸巻きや針山。
母親の名前が書かれた、小さな布切れも入っていたそうです。
「これも旅館に預けたんですか?」
私が尋ねると、澄江さんは首を振りました。
「いいえ」
「預けていない?」
「はい。宴会場の自分の席の横に置いていました」
私は頷きました。
「それで?」
「片付けをしていた従業員の方が、料理を運ぶ台車をぶつけて……」
「台車?」
「裁縫箱を踏みつけてしまったんです」
……。
私は写真を見直しました。
蓋は真っ二つ。
角の木材も割れています。
かなり強い衝撃だったのでしょう。
「どうして台車がぶつかったんですか?」
相馬先輩が尋ねました。
「宴会場が混んでいたので、従業員さんが急いでいたそうです」
「足元は確認していたんですか?」
「いいえ。荷物があるのに気づかなかったと、本人が謝っていました」
相馬先輩は静かに頷きました。
「なるほどな」
「それで、旅館の主人に言ったんです」
澄江さんの声が沈みます。
「でも……」
――そっちは預かっていないだろう。
――お客様が勝手に持ち込んだ物だ。
――預かっていない以上、うちに責任はない。
私は唖然としました。
……。
何ですか。
その理屈。
預かったコートについては、
「注意していたから責任なし」
預かっていない裁縫箱については、
「預かっていないから責任なし」
つまり。
どっちでも責任なし。
「先輩」
「何だ」
「これ、旅館側が無敵になってません?」
「そうだな」
「おかしくないですか!」
「ああ」
相馬先輩は六法を閉じました。
「だから商法があるんだよ」
私は、はっとしました。
そうです。
今回の核心。
預かった物。
預かっていない物。
同じ旅館の中で壊された物でも。
法律が責任を認めるための条件が違う。
そして、旅館の主人は。
どうやらその違いを、まったく理解していないようでした。
「まず、損害を確認する」
片桐所長が言いました。
「はい」
「コートは修理できるのか」
澄江さんが首を振りました。
「仕立て仲間に見てもらいましたが、元どおりにするのは難しいと言われました」
「書面はありますか」
「見積書を持ってきました」
澄江さんは封筒を出しました。
修復の可能性についての所見。
代替品を仕立てる場合の費用。
四万八千円。
「裁縫箱は?」
「木工職人さんに見てもらいました」
こちらも見積書がありました。
修復費用。
一万二千円。
合計六万円。
もちろん。
実際に賠償されるべき金額は、物の価値や損傷の程度、修理の相当性などを踏まえて検討する必要があります。
古い物だからといって、必ず修理費全額が認められるわけではありません。
でも。
物を壊された事実。
旅館側の説明。
修復に必要とされる費用。
それらは、きちんと書面で残しておく必要があります。
「所長」
私は言いました。
「お母様の形見だったことは、どう書きますか?」
片桐所長は少し考えました。
「事実として書く」
「はい」
「ただし、思い出の価値と損害賠償額は、区別して考えろ」
「……はい」
そうでした。
思い出は大切です。
でも。
母親の形見だから、好きな金額を請求できるわけではありません。
法律で認められる損害を、証拠に基づいて示さなければならない。
片桐所長が静かに言いました。
「こはる」
「はい」
「気持ちだけで相手を責めるな」
「……はい」
「だが、気持ちを無視するな」
私は顔を上げました。
「法律で取り戻せるものと、戻せないものがある」
所長は写真を見ました。
「だからこそ、取り戻せるものは正確に調べる」
私は頷きました。
六万円。
それで母親の思い出が戻るわけではありません。
でも。
壊された物を修復するための費用。
失われた財産的価値。
そうした損害について、責任を問うことはできる。
そして、その根拠が。
商法第五百九十四条なのです。
翌日。
私と相馬先輩は、松風旅館を訪れました。
もちろん、依頼人の代理人として損害賠償の交渉をするためではありません。
書類作成に必要な事実関係を、旅館側が任意に確認させてくれるか尋ねるためです。
駅前通りを抜けた先。
大きな木造の門。
立派な松の木。
玄関には、磨かれた石畳。
――松風旅館。
なるほど。
老舗です。
建物からして、格式があります。
でも。
私は玄関に入った瞬間、例の張り紙を見つけました。
――お客様のお荷物につきましては、紛失・破損等の責任を一切負いかねます。
……。
本当に貼ってあります。
「先輩」
「何だ」
「これ、どう見ても危ないですよね」
「ああ」
「しかも、すごく大きく書いてあります」
「大きく書きゃ法律より偉くなると思ってんだろ」
相馬先輩が鼻で笑いました。
そのとき。
「何か御用ですか」
奥から男が現れました。
五十代後半。
立派な和服。
恰幅のいい体。
口元には、いかにも自信ありげな笑み。
「片桐行政書士事務所の相馬と申します」
相馬先輩が名刺を差し出します。
「藤沢澄江さんの件で、書類作成に必要な事実を確認したく伺いました」
男の顔が曇りました。
「……ああ。あの客か」
松風旅館の主人。
松岡源蔵。
この町で三十年以上、旅館を経営している男です。
「弁護士じゃないんだろ?」
源蔵は名刺を見て笑いました。
「行政書士が何の用だ」
……出ました。
またです。
行政書士を舐める人間。
どうして悪徳経営者というのは、こういう台詞が好きなのでしょう。
「事実確認です」
相馬先輩が短く答えました。
「コートをお預かりしたことは間違いありませんか」
「ああ、預かったよ」
「保管場所は?」
「奥の衣装置場だ」
「石油ストーブを置いていましたか」
「置いてたさ。寒かったからな」
「そのストーブの上のやかんから湯がこぼれ、コートが損傷した」
「そうだ」
源蔵は苛立ったように言いました。
「だから何だ。女中だって気をつけてたんだ。たまたま湯がこぼれただけだろう」
……。
私は唇を噛みました。
たまたま。
それで終わる話なのでしょうか。
「裁縫箱については?」
相馬先輩が続けます。
「ああ、あれか」
「従業員の台車が接触したと聞いています」
「そうだよ」
「従業員は、足元を確認していなかったと説明したそうですね」
「忙しかったんだ!」
源蔵が声を荒らげました。
「客が勝手に置いた箱まで、いちいち面倒を見ていられるか!」
相馬先輩は黙って聞いていました。
源蔵はさらに続けます。
「第一、うちはちゃんと張り紙を出してる!」
そう言って玄関を指差しました。
「荷物については責任を負わん! そう書いてある!」
私は思わず言いました。
「でも、それだけで法律上の責任がなくなるわけではありません」
「何だと?」
「商法には、旅館のような場屋営業者について、特別な責任の規定があります」
源蔵は鼻で笑いました。
「商法?」
「はい」
「俺は三十年、旅館をやってるんだぞ」
「それは存じています」
「お前みたいな若い娘に、商売の何が分かる!」
……。
腹が立ちました。
非常に腹が立ちました。
でも。
私は相馬先輩の言葉を思い出しました。
私たちは、弁護士ではありません。
依頼人の代理人として法律紛争の示談交渉をする立場にはありません。
ここで感情的に言い争っても、仕方がない。
「では」
相馬先輩が静かに言いました。
「旅館としては、二つの損傷について、責任はないというお考えですね」
「当たり前だ!」
「分かりました」
「分かったなら帰れ!」
「ご説明ありがとうございました」
相馬先輩は頭を下げました。
私も慌てて続きます。
そして、旅館を出ました。
「先輩!」
門を出たところで、私は声を上げました。
「何で、あんな簡単に帰っちゃうんですか!」
「何がだ」
「完全に舐められてましたよ!」
「そうだな」
「だったら、商法第五百九十四条を教えてやれば!」
「こはる」
相馬先輩が足を止めました。
「はい」
「俺たちは、何を確認しに行った?」
「……事実関係です」
「確認できたか?」
「はい」
「預かったコート。旅館の管理する衣装置場。ストーブの上のやかん。熱湯による損傷」
「はい」
「預かっていない裁縫箱。宴会場内。従業員が足元を確認せずに台車をぶつけた」
「はい」
「それに、主人は責任を否定している」
「……はい」
先輩が頷きました。
「なら十分だ」
「でも!」
「口喧嘩で責任を認めさせるつもりか?」
「……」
「それは俺たちの仕事じゃねえ」
先輩は煙草を取り出しました。
「依頼人の意思を書面にする。事実を固める。必要なら弁護士につなぐ」
「はい」
「それが行政書士の仕事だ」
私は黙りました。
「それにな」
相馬先輩が、にやりと笑いました。
「あの主人、もう逃げ道を自分で狭くしてるぞ」
「え?」
「注意していたから責任がない。預かってないから責任がない」
「はい」
「その二つを、一緒くたにしてる」
先輩は六法を軽く叩きました。
「商法は、そこを分けてるんだよ」
……。
私は、はっとしました。
預かった物。
預かっていない物。
法律の責任の条件が違う。
それを知らない主人は。
両方に通用しない言い訳をしていたのです。
事務所に戻った私は、すぐに六法を開きました。
商法第五百九十四条。
昭和六十三年の場屋営業者の責任です。
私は条文を読みました。
「所長!」
「何だ」
「ありました!」
「読んでみろ」
「はい!」
私はまず、第一項を確認しました。
旅店。
飲食店。
浴場。
その他、客が集まる施設の営業者。
そうした者が、客から寄託を受けた物品を滅失・毀損した場合。
不可抗力によることを証明しなければ、損害賠償責任を免れない。
「つまり!」
私は顔を上げました。
「預かったコートについては、旅館がちゃんと注意していたというだけでは足りないんですね!」
「そうだ」
片桐所長が頷きました。
「不可抗力によることを証明しなければならん」
「不可抗力……」
私は少し考えました。
「普通の事故なら、全部不可抗力ですか?」
「違う」
相馬先輩が即答しました。
「え?」
「事故だったら全部不可抗力になるなら、何のための規定だ」
「あ……」
確かに。
主人は言いました。
たまたま湯がこぼれた。
女中は注意していた。
だから仕方がない。
でも。
それは、不可抗力の証明とは別の話です。
「避けられなかった、と言えばいいわけじゃないんですね」
「そうだ」
相馬先輩が言いました。
「自分たちで置いたストーブ。その上のやかん。そこで起きた事故だ」
「はい」
「注意していたかどうか以前に、それを不可抗力と言えるのかって問題だ」
私は頷きました。
自分たちの管理する衣装置場。
そこに置いた暖房器具。
その上からこぼれた熱湯。
少なくとも、これだけの事情で不可抗力が認められるとは考えにくい。
「じゃあ、裁縫箱は?」
所長が聞きました。
「はい!」
私は第二項を確認しました。
客が特に寄託していない物品でも。
場屋の中に携帯した物品について。
場屋の主人または使用人の不注意によって、滅失・毀損が生じたとき。
主人は損害賠償責任を負う。
「こっちは!」
私は言いました。
「従業員の不注意が問題になるんですね!」
「そうだ」
「預かっていないから絶対に責任なし、というわけじゃない」
「そのとおり」
裁縫箱。
旅館には預けていない。
宴会場の自分の席の横に置いていた。
でも。
旅館の従業員が、足元を確認しないまま台車を押してぶつけた。
その不注意が原因なら。
旅館側の責任が問題になる。
「なるほど……」
私は思わず呟きました。
「同じ旅館の中で起きた事故なのに、責任の考え方が違うんですね」
「そうだ」
相馬先輩が頷きました。
「預かった物は、不可抗力を証明できるか」
「はい」
「預かっていない携帯品は、主人や従業員の不注意があったか」
「はい!」
私はノートに二本の線を引きました。
預かった物。
預かっていない物。
……。
これは。
覚えやすい。
しかも、実際の事件を見たら忘れられません。
「所長!」
「何だ」
「これ、行政書士試験で出たら絶対に間違えません!」
「試験はともかく、今は書類だ」
「はいっ!」
そうでした。
勉強会ではありません。
事件は、まだ終わっていないのです。
「ところで」
私は玄関の張り紙の写真を見ました。
「所長、これも気になります」
――お客様のお荷物につきましては、紛失・破損等の責任を一切負いかねます。
片桐所長が写真を受け取りました。
「第三項だな」
「第三項?」
「読め」
私は六法に目を戻しました。
そして。
「……あっ!」
思わず声が出ました。
商法第五百九十四条第三項。
客の携帯品について責任を負わない旨を告示しても、それによって第一項・第二項の責任を免れることはできない。
「あるじゃないですか!」
「何がだ」
「張り紙対策の条文が!」
私は写真を指差しました。
「まさにこれです!」
相馬先輩が笑いました。
「そうだな」
「責任を負いません、って貼っても!」
「ああ」
「それだけで、商法上の責任を免れるわけじゃない!」
「そのとおり」
私は、しばらく写真を見つめました。
なるほど。
こういうことですか。
旅館の主人が、
「うちは責任を負いません」
と一方的に宣言する。
でも、それだけで法定の責任が消えるなら。
お客様は何の保護も受けられなくなってしまう。
だから商法は、わざわざ第三項まで置いている。
「……強いですね」
私は呟きました。
「何がだ」
「商法です」
相馬先輩がこちらを見ます。
「張り紙一枚では、逃げられないんですね」
「ああ」
先輩は笑いました。
「大きな字で書いたって、法律の方が強いんだよ」
……。
何ですか、その台詞。
格好いいじゃないですか。
ちょっと悔しいです。
「では、内容証明の原案を作ります!」
私は机に向かいました。
差出人は、藤沢澄江さん本人。
宛先は、松風旅館の経営者である松岡源蔵。
相馬先輩と片桐所長の指導を受けながら、事実と法的根拠を整理します。
一時間後。
原案が完成しました。
「読んでみろ」
所長が言いました。
「はい!」
私は背筋を伸ばしました。
――通知書。
――通知人は、昭和六十三年某月某日、貴旅館を利用した際、紺色ウール製コート一着を貴旅館従業員に預け、番号十七番の預かり札の交付を受けた。
――右コートは、貴旅館の管理する衣装置場において、石油ストーブ上のやかんからこぼれた熱湯により損傷した。
相馬先輩が頷きました。
「続けろ」
「はい」
――商法第五百九十四条第一項によれば、場屋の主人は、客から寄託を受けた物品の滅失又は毀損について、不可抗力によるものであることを証明しなければ、損害賠償責任を免れることができない。
――本件につき、貴旅館の管理する暖房器具に起因する事故であることから、単に注意を尽くしていたとの説明のみをもって、不可抗力によるものとすることはできない。
「よし」
相馬先輩が言いました。
「次だ」
「はい!」
私はページをめくりました。
――また、通知人が宴会場内に携帯していた木製裁縫箱は、貴旅館従業員が台車の進路及び足元を十分に確認せずに接触したことにより損傷した。
――商法第五百九十四条第二項は、客が寄託していない物品であっても、場屋の主人又は使用人の不注意により滅失又は毀損した場合、場屋の主人が損害賠償責任を負う旨を定めている。
――よって、本件裁縫箱についても、従業員の不注意に基づく損害賠償責任が問題となる。
「はい」
片桐所長が頷きました。
「続けろ」
私は、最後の部分を読みました。
――なお、貴旅館玄関には、客の荷物の紛失・破損について責任を負わない旨の告示が掲示されている。
――しかし、商法第五百九十四条第三項により、かかる告示のみをもって、同条第一項及び第二項に定める責任を免れることはできない。
――通知人は、上記各損傷について、修復見積書その他の資料を踏まえ、損害賠償を求める意向である。
――ついては、本件事故に関する貴殿の認識及び対応方針を、書面にて回答されたい。
――本件について適切な対応が得られない場合、通知人は弁護士に相談のうえ、法的手続を検討する。
私は読み終えました。
「どうですか!」
相馬先輩が原案を受け取りました。
「……悪くねえ」
「本当ですか!」
「ただし」
「はい」
「まだ足りない」
「ええっ!」
またです。
なぜ毎回、一発で通らないのでしょう。
「預かった事実の裏付けだ」
先輩は言いました。
「預かり札の番号。損傷前後の写真。保管場所についての説明。それを整理しろ」
「はい」
「裁縫箱についても、従業員の不注意を裏付けるものが必要だ」
「はい」
「それから、損害額」
先輩は見積書を指差しました。
「見積額がそのまま法的に認められるとは限らねえ。依頼人に、その点も説明しておけ」
「分かりました」
片桐所長も口を開きました。
「そして、相手の事故の説明を、できる限り書面で残しておく」
「はい」
「事実が争われる場合に備えるんだ」
私は頷きました。
内容証明郵便。
それ自体に、裁判の判決のような力があるわけではありません。
送ったからといって、すぐに財産を差し押さえられるわけでもない。
相手に賠償を強制する力もない。
でも。
いつ。
誰が。
どのような事実について。
どんな意思を通知したか。
それを証拠として残すことができます。
そして今回。
旅館の主人が言った三つの言い訳。
注意していた。
預かっていない。
張り紙を出している。
それぞれに、商法第五百九十四条の規定が対応していました。
第一項。
第二項。
第三項。
……。
これ、すごい。
「所長」
「何だ」
「この書面、三段構えですね」
「そうだな」
「主人の言い訳が、全部別の項に引っかかってます」
相馬先輩が笑いました。
「だから商法を読めって言ったんだ」
片桐所長が、静かに言いました。
「相手の言葉を、よく聞け」
「はい」
「相手の言い訳の中に、使うべき条文が隠れている」
私は、その言葉を胸に刻みました。
なるほど。
法律の知識とは。
条文を丸暗記して、自慢するためのものではない。
目の前の事件で。
相手が何を理由に責任を否定しているのか。
そこから、必要な条文を選び出す。
そのための武器なのです。
三日後。
松風旅館に、内容証明郵便が届きました。
そして。
その日の午後。
事務所の電話が鳴りました。
「はい、片桐行政書士事務所です!」
『……片桐先生は、いらっしゃいますか』
低い男の声。
聞き覚えがあります。
「あの……松風旅館の?」
『松岡だ』
あ。
あの主人です。
でも。
声が違う。
昨日までの、あの偉そうな調子ではありません。
「少々お待ちください」
私は所長に受話器を渡しました。
「片桐です」
『……あの、通知書を受け取りまして』
「はい」
『商法の条文が書いてあったもんで……』
所長は黙って聞いています。
『知り合いの弁護士に見せたんです』
「そうですか」
『そしたら……』
受話器の向こうで、源蔵が息を吐きました。
『うちの考え方は、まずいと言われまして』
私は思わず相馬先輩を見ました。
先輩が、にやりと笑います。
『預かった物は、注意していたというだけじゃ駄目なんですね』
「その点は、通知書に記載されたとおりです」
『不可抗力じゃないと……』
「はい」
『それで、裁縫箱の方も……』
源蔵の声が、さらに小さくなりました。
『従業員に不注意があったなら、預かってなくても責任が問題になると』
「そうですね」
『……』
沈黙。
それから。
『あの張り紙も、駄目なんですか』
所長は落ち着いて答えました。
「少なくとも、掲示したというだけで、商法第五百九十四条の責任を免れることはできません」
源蔵は、しばらく黙りました。
そして。
『……参りました』
小さな声で言ったのです。
『三十年も旅館をやってきて、そんな規定があるとは……』
所長は答えません。
『弁護士からも、事故の経緯や賠償について、きちんと対応した方がいいと言われました』
「そうですか」
『その……お客様に、謝りたいんです』
私は息を呑みました。
『損害の件も、きちんと確認して対応します』
所長が言いました。
「では、そのお考えを、まずご本人に書面でお伝えください」
『分かりました』
「必要であれば、今後の対応は弁護士とも相談なさってください」
『はい……』
電話が切れました。
私は思わず立ち上がりました。
「所長!」
「何だ」
「折れましたね!」
「まだだ」
相馬先輩が言いました。
「え?」
「謝るって言っただけだ」
「あ……」
「実際に謝って、損害の問題が解決して、初めて一段落だ」
私は頷きました。
そうでした。
言葉だけでは、まだ終わりません。
でも。
あの主人が。
「うちは悪くない」
から。
「きちんと対応します」
へ変わった。
その理由は。
商法第五百九十四条。
たった一つの条文でした。
一週間後。
澄江さんが、再び事務所を訪れました。
今度は。
少しだけ、表情が明るくなっていました。
「ありがとうございました」
そう言って、深く頭を下げます。
「どうなりましたか?」
私が尋ねると、澄江さんは一通の封筒を取り出しました。
「旅館の主人から、謝罪の手紙が届いたんです」
私は封筒を受け取りました。
中には、丁寧な文字。
――このたびは、当旅館の管理上の問題により、大切なお品物を損傷させ、誠に申し訳ございませんでした。
――長年お預かりしたお客様の信頼を、私自身が軽んじていたことを深く反省しております。
――今後は従業員への指導及び保管設備の見直しを行います。
私は、ゆっくり読みました。
そして。
「……ちゃんと謝ってくれたんですね」
「はい」
澄江さんが頷きました。
「主人が、直接頭を下げてくれました」
損傷したコートと裁縫箱については、その後、双方が資料を確認し、弁護士への相談も経て、修復費用などの負担について合意したそうです。
なお、実際に支払われることになった金額は、当初の見積額とまったく同じではありませんでした。
でも。
澄江さんは、ほっとした顔で言いました。
「裁縫箱は、直してもらえることになりました」
「本当ですか!」
「はい。木工職人さんが、できる限り元の形に戻してくださるそうです」
「よかった……!」
「コートは、やっぱり元どおりには難しいみたいですけど」
澄江さんは少し笑いました。
「残っている布地を使って、小さな肩掛けを作ろうと思うんです」
「肩掛け?」
「はい。母の縫い方を、少しでも残したくて」
私は胸が熱くなりました。
壊れたものは。
必ずしも、元どおりにはなりません。
お金を払っても。
謝っても。
失われたものが完全に戻るわけではない。
でも。
責任を認めること。
被害を受けた人の話を聞くこと。
修復できるものは修復すること。
それだけで。
前に進めることがあります。
「それと……」
澄江さんが続けました。
「旅館の張り紙、なくなったそうです」
「え?」
「親戚が昨日行ったら、玄関から外されていたって」
私は思わず笑いました。
「本当ですか!」
「はい」
相馬先輩が横から言いました。
「そりゃ、あのまま貼っとくわけにもいかねえだろ」
「ですよね!」
「法律に逆らう張り紙を、立派な額に入れても仕方ねえからな」
私は吹き出しました。
確かに。
商法より偉い張り紙。
そんなもの、あるわけありません。
澄江さんも、くすっと笑いました。
そして、静かに言いました。
「母は、よく言っていたんです」
「何をですか?」
「人から預かったものは、自分のものより大切にしなさいって」
私は頷きました。
「はい」
「だから、旅館の主人にも、その気持ちを分かってもらえたなら……それで少し、救われた気がします」
私は何も言えませんでした。
人から預かったもの。
自分のものより大切にする。
それは、母親が娘に教えた、小さな生活の知恵。
でも。
商法は。
その当たり前の感覚を、法律上の責任として定めているのです。
澄江さんが帰ったあと。
私は、机の上に二枚の写真を並べました。
一枚目。
紺色のコート。
二枚目。
木製の裁縫箱。
どちらも、母親の形見。
どちらも、松風旅館で壊された物。
でも。
責任を考えるための条件は違いました。
「先輩」
「何だ」
「今回の事件、すごく勉強になりました」
「そうか」
「預かった物は、不可抗力が原因だと証明できなければ、旅館側は責任を免れない」
「そうだ」
「預かっていない物でも、旅館の主人や従業員の不注意で壊したなら、責任を負う」
「そうだな」
「しかも、責任を負いませんって張り紙を出しても、それだけでは逃げられない」
「正解」
私は得意になりました。
「完璧です!」
「本当に?」
「はい!」
相馬先輩が、にやりとしました。
「じゃあ、一つ聞くぞ」
「どうぞ!」
「旅館の従業員が、十分注意していた。でも、預かった荷物が、予測できない原因で壊れた」
「はい」
「責任は?」
「不可抗力によるものだと証明できなければ、原則として責任を免れません!」
「よし」
「次!」
「客が預けていない荷物を、旅館の中で壊した」
「はい!」
「旅館側にも従業員にも、不注意はなかった」
「……え?」
私は止まりました。
不注意がない。
預かっていない。
……。
「あっ!」
「どうした」
「第二項の責任は、不注意がある場合ですよね!」
「そうだ」
「じゃあ、その規定による責任は、当然には発生しません!」
相馬先輩が頷きました。
「そこだ」
「なるほど……」
私は大きく息を吐きました。
危ない。
預かった物と。
預かっていない物。
これを混同すると。
何でも旅館が責任を負う。
あるいは。
何でも旅館は責任を負わない。
そんな極端な答えになってしまう。
「所長」
私は言いました。
「法律って、ちゃんと理由があるんですね」
「そうだな」
所長が帳簿を閉じました。
「客は、預けた荷物を自分で管理できない」
「はい」
「だから、預かった側には重い責任がある」
「はい」
「一方、預かっていない物は、基本的には客の手元にある」
「そうですね」
「だから、場屋の主人や使用人の不注意が問題になる」
私は頷きました。
なるほど。
管理を任せたのか。
任せていないのか。
それによって、責任のあり方が変わる。
「こはる」
所長が言いました。
「預かるとは、どういうことだと思う」
「……物を受け取ることです」
「それだけか」
私は考えました。
コートを渡した澄江さん。
預かり札を受け取った。
その瞬間。
彼女は、コートを自分で守ることができなくなった。
代わりに、旅館が管理する。
だから。
預かるということは。
「……相手の信頼を引き受けることです」
私は答えました。
片桐所長が、小さく頷きました。
「そうだ」
私は胸が温かくなりました。
預かり札。
ただの木の札。
番号十七番。
でも。
その小さな札には。
母親の形見を預けた人の信頼が、詰まっていたのです。
「ところで、こはる」
相馬先輩が言いました。
「はい?」
「今日、お前の鞄はどこだ」
「え?」
「鞄」
「あ、そこです」
私は机の横を指差しました。
布製の鞄。
受験勉強のノートや筆記用具が入っています。
「それ、俺に預けてみろ」
「……何でですか?」
「勉強だよ」
「分かりました」
私は鞄を差し出しました。
相馬先輩が受け取ります。
「はい。俺が預かった」
「はい」
「じゃあ、この鞄を壊したら、俺は不可抗力を証明しなきゃ責任を免れられねえのか?」
「もちろんです!」
私は勢いよく答えました。
相馬先輩が笑いました。
「違う」
「えっ!」
「俺は旅館の主人か?」
「……違います」
「飲食店か?」
「違います」
「浴場か?」
「違います」
「ここは客を集めて施設を利用させる場屋営業か?」
「……違います」
私は固まりました。
あ。
そもそも。
商法第五百九十四条は。
場屋営業者についての特別な規定でした。
「じゃあ、今のは!」
「単に俺が鞄を預かっただけだ」
「うっ……!」
「契約関係や責任の有無は別途考える必要があるが、場屋営業者の特則がそのまま当てはまるわけじゃねえ」
……。
やられました。
「先輩!」
「何だ」
「ひっかけ問題じゃないですか!」
「試験に出たらどうすんだ」
「ぐっ……!」
悔しい。
非常に悔しい。
私は鞄を取り返しました。
「もう預けません!」
「何だよ」
「信用できません!」
「ひでえな」
「先輩が壊しても、商法第五百九十四条で守ってもらえないんですよ!」
「他の法律はあるだろ」
「そうですけど!」
相馬先輩は笑いました。
「だから、条文の適用範囲を見ろってことだ」
私は、渋々頷きました。
場屋営業。
旅館。
飲食店。
浴場。
お客様が集まる設備を設けて利用させる営業。
そして。
寄託を受けた物と、受けていない物。
この区別。
絶対に忘れません。
夕方。
事務所の窓から、橙色の光が差し込んでいました。
私は、澄江さんが見せてくれた写真を思い出していました。
紺色のコート。
木製の裁縫箱。
どちらも、母親が残したもの。
どちらも、二度と同じものは作れない。
法律は。
失われた時間を戻すことはできません。
母親を生き返らせることもできません。
思い出を、完全に修復することもできません。
でも。
預かった人が責任を取る。
不注意で壊した人が責任を取る。
そういう仕組みを作ることはできます。
そして。
その仕組みがあるからこそ。
人は安心して、旅館に荷物を預けられる。
飲食店に入れる。
銭湯に行ける。
他人が管理する場所で、ひとときを過ごせるのです。
「……商法って、意外と優しいですね」
私が呟くと、相馬先輩が顔を上げました。
「何だ、急に」
「だって」
私は笑いました。
「お客様の荷物まで、ちゃんと守ってくれるんですよ」
「そりゃそうだ」
「会社の設立とか、取締役の責任とか、難しい話ばかりだと思ってました」
「ああ」
「でも、旅館のコートも、商法なんですね」
相馬先輩は煙草を灰皿に押しつけました。
「商売ってのは、信用で成り立ってるからな」
「信用……」
「客が安心して物を預けられねえ旅館なんか、誰も使わねえだろ」
「確かに」
「だから商法は、預かった側に重い責任を負わせることがある」
私は頷きました。
なるほど。
取引の安全。
債権者の保護。
商人の信用。
行政書士試験で覚えた言葉が、少しずつつながっていきます。
私はノートを開きました。
そして、今日の出来事を一行にまとめました。
――場屋営業では、預かった物は不可抗力、預かっていない物は営業者側の不注意が責任判断の鍵。
「……よし!」
私は鉛筆を置きました。
これなら忘れません。
コートと裁縫箱。
あの二つを思い出せばいいのです。
そのとき。
電話が鳴りました。
「はい、片桐行政書士事務所です!」
『あのう……』
男性の声。
『旅館で財布を盗まれたんですが……』
私は顔を上げました。
「財布、ですか?」
『はい。財布を預けたんです』
「旅館に?」
『ええ。現金が入っていて……』
……。
私は止まりました。
現金。
預けた。
旅館。
これは、さっきと同じでしょうか。
「先輩」
「何だ」
「旅館に預けた現金って、普通の荷物と同じですか?」
相馬先輩の表情が変わりました。
「……財布?」
「はい」
「現金が入ってた?」
「はい」
「預けるとき、現金がいくら入っているか、旅館に伝えたのか?」
私は受話器を握り直しました。
「すみません。財布を預けたとき、中に現金が入っていることや、その金額は旅館の方に伝えましたか?」
『え?』
相手が戸惑います。
『いや、ただ財布を預けただけですが……』
……。
私は相馬先輩を見ました。
先輩が、にやりと笑いました。
「こはる」
「はい」
「今度は第五百九十五条だ」
「……え?」
「高価品の特則」
……。
来ました。
また、新しい条文です。
預かった物。
預かっていない物。
ようやく理解できたと思ったら。
今度は、高価品。
「先輩!」
「何だ!」
「商法って、どこまでひっかけてくるんですか!」
「法律に文句言うな!」
「だって、やっと第五百九十四条を覚えたのに!」
「次の条文を読め!」
「はいっ!」
私は六法を開きました。
昭和六十三年。
片桐行政書士事務所。
法律の勉強は、今日も終わりません。
でも。
一つだけ、確信しました。
旅館の玄関に、どれだけ大きな文字で、
――責任は負いません。
と書かれていても。
その一行だけで、すべてが決まるわけではない。
預かったのか。
預かっていないのか。
誰の不注意なのか。
不可抗力だったのか。
そして、何を預かったのか。
商法は、その一つ一つを見ているのです。
だって。
預かり札の番号よりも大切なのは。
その札を受け取った人が、安心して帰りを待てることなのですから。
以下に私の作品へのリンク貼ってます。是非、手に取って頂ければと思います。また、ついでに評価ブックマーク頂ければ幸いです。




