[行政手続法14条・不利益処分の理由提示]現場編 「違反があったので処分です」の罠。結論だけの通知と、争う入口を塞ぐ“理由なき不利益”
理由のない「駄目です」は、だいたい困ります。
子どもなら、
「なんで?」
と聞けます。
家族なら、
「どうして?」
と聞けます。
ところが相手が役所になると、不思議なことが起きます。
「処分します」
と書かれた紙を渡されただけで、
何となく、
聞き返してはいけない空気になる。
紙が白い。
印鑑が赤い。
文体が固い。
それだけで、内容まで絶対に正しそうに見える。
紙ってずるいです。
特に役所の紙は、ネクタイを締めている。
昭和六十三年。
地方都市の片桐行政書士事務所。
その日、私は朝から、役所の紙とにらめっこしていました。
「こはる」
「はい」
「それ、さっきから上下逆だぞ」
「え」
相馬先輩に言われて見ると、本当に逆でした。
私はそっと書類を回転させます。
「考え事してました」
「書類を逆さに読むほど?」
「行政法って、方向感覚を奪うんですよ」
「お前だけだ」
ひどい。
でも否定はできません。
昨夜まで私の頭の中には、
不利益処分。
理由提示。
聴聞。
弁明。
そんな言葉がぐるぐる回っていました。
いや。
正確には、未来の私の頭の中です。
今は昭和六十三年。
行政手続法はまだありません。
そのことを毎回思い出すたび、私は何とも言えない気分になります。
未来では、
こういうときは理由を示しなさい。
こういうときは意見を聞きなさい。
そんなルールが、ちゃんと条文になっている。
でも今は。
その条文が生まれる前の困りごとが、普通に人の家へ届く。
そしてその日も。
事務所の扉が開いて。
茶色い封筒を握りしめた女性が入ってきました。
「すみません」
四十代くらい。
髪を後ろでひとつにまとめています。
紺色のワンピース。
買い物帰りなのか、手には布の手提げ。
顔色が悪い。
「片桐先生はいらっしゃいますか」
「所長なら奥に」
私が立ち上がると、奥から相馬先輩が出てきました。
「どうしました」
「これ……今日、市役所から届いて」
女性は封筒から一枚の紙を出しました。
私は横から覗き込みます。
屋外広告物掲出許可取消通知。
駅前通りで営業している洋品店。
店先に出している大型看板。
その掲出許可を取り消す。
理由欄。
私は目を止めました。
そこには、一行。
こう書かれていました。
――関係規定に違反したため。
「……以上?」
また言ってしまいました。
最近これが口癖になっています。
「はい」
女性が不安そうに頷きます。
「何に違反したのか、分からないんです」
「市役所には聞きました?」
「電話しました」
「何て?」
「『通知に書いてあります』って」
私は紙を見ます。
書いてある。
確かに書いてあります。
関係規定に違反したため。
……いや。
これは「理由」というより、
理由が存在するらしいことのお知らせです。
「お名前は?」
「柴崎美和です。駅前の柴崎洋品店です」
「ああ」
相馬先輩が知っている顔をしました。
「角の店か。赤い看板の」
「はい」
駅前再整備の予定地から二本外れた通り。
昔ながらの洋品店。
ショーウインドウに婦人服。
店先には大きな縦看板。
私は何度か前を通っています。
「許可はいつ取ったんです?」
「三年前です」
「更新は?」
「去年しました」
「最近、何か役所から指導は?」
「一度ありました」
ここで。
所長が奥から出てきました。
「何を言われました」
柴崎さんが所長を見ます。
「看板が歩道にはみ出しているかもしれないって」
「はみ出していた?」
「いいえ。道路の測量をし直すって話が出た頃で……。担当の人から、『駅前整備もあるから、できれば少し下げてほしい』と言われました」
「下げた?」
「二十センチくらい」
「書面は?」
「ありません」
「その後は?」
「何も」
私は通知をもう一度見ました。
関係規定に違反したため。
でも。
どの規定?
どの事実?
いつの状態?
どの基準?
しかも、許可取消し。
地味ですが重い。
看板を出せない。
場合によっては撤去。
店の顔が消える。
「相馬」
所長が言いました。
「役所に電話」
「はい」
相馬先輩が受話器を取ります。
しばらくして。
「担当、外出中だそうです」
「いつ戻る」
「午後」
「じゃあ午後行く」
所長の判断は速い。
私は通知を見たまま聞きました。
「所長」
「何だ」
「この通知」
「うん」
「理由として足りてるんですか」
所長は一度、紙を見ました。
「お前はどう思う」
来ました。
見習いへの突然の口頭試問。
昭和の行政書士事務所、研修制度がほぼ野生です。
「足りない気がします」
「なぜ」
「だって」
私は理由欄を指しました。
「関係規定に違反したため、だけじゃ」
言葉を探します。
「何を直せばいいのかも」
「うん」
「何に反論すればいいのかも」
「うん」
「そもそも本当に自分のことなのかも分からない」
所長が頷きました。
「そうだな」
私は少し安心しました。
昨夜までなら、
理由提示。
処分理由。
書面。
そんな単語を見ただけで眠くなっていたのに。
今は違う。
理由が書かれていない。
たったそれだけで。
人は、自分が何に対して怒ればいいのかすら分からなくなる。
これ、かなり怖い。
午後。
私たちは市役所へ向かいました。
柴崎さんも一緒です。
駅前整備関係の窓口と、都市計画関係の課が同じ階に集められています。
廊下には再開発予定図。
色分けされた道路。
区画整理。
建物移転。
最近この町、やたら未来を描きたがります。
未来から来た私が言うのも何ですが。
窓口に出てきたのは、倉田係長でした。
「またですか」
第一声がそれでした。
「何です、その歓迎の薄さ」
「朝比奈さんが来ると、だいたい書類を見直すことになる」
「いいことじゃないですか」
「こっちの仕事は増える」
「そこは知りません」
相馬先輩が横で笑います。
「今日は看板の件です」
所長が通知を差し出しました。
倉田係長が目を通す。
「柴崎洋品店ですか」
「はい」
「担当呼びます」
しばらくして。
若い職員が出てきました。
三十歳前後。
名札には、
大森。
「この取消通知なんですが」
相馬先輩が言います。
「理由は?」
「書いてありますよね」
来た。
本日二回目。
「関係規定に違反したため、です」
大森さんが言いました。
私は思わず聞きました。
「どの規定です?」
「屋外広告物関係の規定です」
「どの条項です?」
「細かいところまでは、ここでは」
「じゃあ何が違反なんです?」
「設置状況に問題がありまして」
「どういう問題です?」
「基準に適合していません」
強い。
抽象語だけで会話を一周させました。
関係規定。
設置状況。
基準。
何一つ具体的になっていません。
「先輩」
私は小声で言いました。
「これ、説明してるようで何も説明してません」
「知ってる」
相馬先輩も小声で返します。
所長が尋ねました。
「具体的には」
大森さんが少し困った顔をしました。
「ええと……看板の一部が道路境界側へ出ていると」
「何センチ」
「そこまでは」
「いつ測った」
「先月です」
「柴崎さん立会い?」
「いえ」
「測量記録は?」
「課にあります」
「写真は?」
「あります」
「じゃあ、それを理由として通知に書かなかったのはなぜです」
大森さんが止まりました。
「……書式がこうなので」
はい。
出ました。
行政あるある。
書式がこうなので。
便利な言葉です。
だいたい何でも吸い込むブラックホール。
「書式が一行しかないんです」
大森さんは続けました。
「理由欄が」
私は通知を見ました。
確かに小さい。
横長の枠。
十数文字で苦しくなるサイズです。
「欄が小さいから、理由も小さくしたんですか」
思わず聞くと。
相馬先輩が吹き出しそうになりました。
大森さんは真面目な顔です。
「そういうわけでは」
「でも結果そうなってますよね」
倉田係長が額を押さえました。
「朝比奈さん」
「はい」
「言い方」
「すみません」
最近この役所で私、注意され慣れてきました。
所長が静かに言いました。
「大森さん」
「はい」
「柴崎さんは、この通知を受けて、何を争えばいいんですか」
大森さんが黙りました。
「道路境界から何センチ出ていたのか」
「……」
「どの基準に違反しているのか」
「……」
「いつの状態を見たのか」
「……」
「改善の余地があるのか」
所長は通知を机に置きます。
「何一つ書いていない」
空気が変わりました。
柴崎さんが小さく頷きます。
「そうなんです」
声は弱い。
でも。
事務所に来たときより少しだけ強くなっていました。
「私は、何が悪かったのか知りたいだけなんです」
大森さんが言います。
「違反があったこと自体は、確認しています」
「それなら」
私は言いました。
「その違反を書けばいいんじゃないですか」
「だから関係規定違反と」
「違います」
思ったより強い声が出ました。
自分でも少し驚きました。
「それは結論です」
大森さんが私を見る。
「どうして、その結論になったかが理由じゃないんですか」
部屋が静かになりました。
私は続けます。
「例えば」
通知を指します。
「看板の東側が道路境界から三十五センチ出ていた」
「……」
「条例の何条、規則の何条の基準に反している」
「……」
「だから許可条件違反として取消す」
「……」
「そこまで分かって初めて、柴崎さんも」
柴崎さんを見る。
「いや、そこは違う」
「もう直した」
「測り方がおかしい」
「って言えるんじゃないですか」
未来の私の頭の中に。
行政手続法十四条。
という数字が浮かびます。
不利益処分をする場合。
その名あて人に対し。
同時に。
理由を示さなければならない。
しかも書面で処分するなら、理由も書面。
でも。
もちろん私は言えません。
昭和六十三年です。
未来の法律の条文番号を叫んだ瞬間、私は行政法受験生から預言者に職業変更です。
なので。
言うのはもっと単純なことです。
「理由が分からないと、直すことも争うこともできません」
倉田係長が私を見ました。
「争う」
「はい」
「ずいぶん物騒な言葉を使いますね」
「でもそうですよね」
私は引きませんでした。
「処分に納得できなかったら、何らかの形で争うことになる」
「それはまあ」
「なのに、理由が『違反したため』だけだったら」
一息置きます。
「何と戦えばいいんです?」
倉田係長が黙りました。
相馬先輩が横から言います。
「敵の姿も見せずに殴ってるようなもんです」
「先輩、それも物騒です」
「分かりやすいだろ」
「否定できませんけど」
大森さんが、少し苛立ったように言いました。
「でも、現場は忙しいんですよ」
来た。
これも現実です。
「一件一件細かく理由を書いていたら、処理できません」
「それは分かります」
私は言いました。
「でも」
その先を。
所長が引き取りました。
「だから理由を書かなくていいことにはならない」
短い。
冷たい。
でも。
その冷たさが、今は柴崎さん側を守っていました。
「書式が悪いなら」
相馬先輩が言います。
「別紙つければいいでしょう」
大森さんが一瞬止まります。
「別紙……」
「理由欄に“別紙のとおり”って書けばいい」
「……」
「欄が狭いのは、市民の責任じゃない」
はい。
今日一番気持ちいいやつです。
役所の都合と、市民の不利益を切り分ける。
書式が小さい。
人手がない。
件数が多い。
それは役所の事情です。
柴崎さんが、
なぜ自分の許可を取り消されるのか分からない。
それとは別です。
倉田係長が通知をもう一度見ました。
「大森君」
「はい」
「現場記録、持ってきて」
「でも」
「いいから」
十分ほどして。
写真。
簡単な測定記録。
関係する条例の写し。
そして。
問題の基準が出てきました。
看板は道路境界から一定の距離を保つこと。
許可条件にも同じ趣旨が入っている。
ところが。
測定記録を見た柴崎さんが、眉をひそめました。
「これ」
「何です?」
私は覗き込みます。
「ここ、古い境界線じゃありません?」
大森さんの顔が変わりました。
「どういうことです」
「去年、駅前整備の測量で杭を打ち直しましたよね」
「……」
「店の前、道路との境界が少し動いたはずです」
倉田係長が測定図を見る。
「大森君」
「はい」
「これ、どの図面使った?」
「旧図です」
「旧図?」
「昨年度の……」
倉田係長が目を閉じました。
ああ。
役所側の人間が目を閉じるときは、大体よくないことが起きています。
「現地杭は確認した?」
「……してません」
私は心の中で。
うわあ。
とだけ言いました。
声に出すと角が立つので。
相馬先輩は声に出しました。
「それで取消し?」
「先輩!」
「いや、言うだろ普通」
倉田係長が深く息を吐きます。
「いったん止めます」
柴崎さんが顔を上げました。
「え?」
「取消し処分は保留にします」
「でも」
「現地をもう一度測ります」
「じゃあ……」
「まだ適法だと決まったわけじゃありません」
倉田係長はきっぱり言いました。
「看板が新しい境界でも基準違反なら、必要な対応を求めることになります」
「はい」
「ただ」
通知を指で叩きます。
「今の資料のまま取消しを確定するのはまずい」
その一言で。
柴崎さんの肩が少し落ちました。
力が抜けたのだと思います。
完全勝利ではありません。
看板が残ると決まったわけでもない。
ただ。
何に違反したのか分からないまま。
何の図面を使われたかも知らされないまま。
「関係規定に違反したため」の一行で終わる話ではなくなった。
それだけです。
でも。
その「それだけ」が大きい。
帰り道。
柴崎さんが言いました。
「私、最初は」
「はい」
「役所から通知が来たら、もう何も言えないと思ってました」
「そうですよね」
「でも理由を聞いていいんですね」
「むしろ」
私は少し考えて言いました。
「理由が分からないと、どうしていいか分からないですから」
「そうね」
「直すにしても、争うにしても」
柴崎さんが笑いました。
「争う、って言葉はまだ怖いです」
「私もです」
「でも」
一度立ち止まって。
柴崎さんは市役所を振り返りました。
「何が悪いか聞くことまで、喧嘩じゃないのね」
その言葉。
私は好きでした。
「はい」
少しだけ笑います。
「そこは全然、喧嘩じゃないです」
三日後。
再測量の結果が出ました。
電話を取ったのは私。
『都市整備課の倉田です』
「はい」
『柴崎洋品店の件』
「どうでした?」
『基準内でした』
「え」
『新しい境界杭で測り直したら、看板は道路側に出てませんでした』
「じゃあ」
『取消しはしません』
思わず。
受話器を持ったまま、私は立ち上がりました。
「本当ですか!」
『声が大きい』
「すみません」
『あと』
「はい」
『通知書式も見直します』
「え?」
『理由欄』
私は黙りました。
『“関係規定に違反したため”だけでは足りないと言われたのでね』
「私が言いました?」
『三人で言いました』
「そうでした」
『今後は、根拠と事実が分かるようにする。長ければ別紙』
少し間があって。
『処分する側も、そのほうが確認しやすい』
私は目を瞬きました。
なるほど。
理由を書くということは。
相手のためだけじゃない。
自分たちが、
何を根拠に。
どの事実を認定して。
どうしてその結論に至ったか。
そこを自分たちで確かめることにもなる。
今回もし最初から、
旧図面上の道路境界から何センチ出ている。
この基準に反している。
だから取消す。
と具体的に書こうとしていたら。
途中で誰かが気づいたかもしれません。
その図面、古くない?
と。
「倉田係長」
『何です』
「理由を書くって、役所にも効くんですね」
電話の向こうで。
少しだけ沈黙。
『……それ、所長に言われた?』
「いえ。今思いました」
『たまには自分で考えるんですね』
「ひどい!」
『では』
切られました。
最近扱いが雑になっています。
でも。
ちょっと嬉しかった。
夕方。
柴崎さんが事務所へ来ました。
今度は封筒ではなく。
紙袋。
「皆さんでどうぞ」
「何です?」
「駅前のパン屋さんのシベリア」
「シベリア?」
私は紙袋を覗きます。
カステラの間に羊羹を挟んだ、昭和の香りしかしないお菓子。
「すごい」
「何が」
相馬先輩が言います。
「時代への適合性が」
「意味分からん」
柴崎さんは笑いました。
「看板、残せることになりました」
「よかったですね」
「はい」
「ただし」
所長が言います。
「今後、設置状況が変われば、また問題になります」
「分かってます」
「定期的に確認を」
「はい」
甘くしない。
でも。
そこが所長です。
相談者を勝たせることより。
次に同じことで困らない形にして帰す。
「それから」
柴崎さんが言いました。
「市役所の大森さんから、謝られました」
「え」
「測量図を間違えたこと」
私は少し驚きました。
「そうなんですか」
「ええ。それで」
柴崎さんは笑います。
「今度から通知にちゃんと理由を書くようにしますって」
相馬先輩が鼻で笑いました。
「最初からやれって話だな」
「先輩」
「何だ」
「今日はちょっと言い方が悪いです」
「今日も、だろ」
「自覚あるんですね」
紙袋からシベリアを出します。
四つ。
人数は。
所長。
相馬先輩。
私。
柴崎さん。
ぴったり。
平和。
と思ったら。
相馬先輩が二つ取ろうとしました。
「待ってください」
「何だ」
「一人一個です」
「誰が決めた」
「個数と人数から合理的に導かれます」
「理由提示しろ」
「今しました!」
「根拠が弱い」
「一人が二つ取ったら誰か食べられないでしょう!」
「それは効果だ」
「行政法でシベリア強奪しないでください!」
柴崎さんが声を上げて笑いました。
所長は、黙って一つ確保しました。
強い。
この人。
行政法より先に動きます。
しばらくして。
事務所が静かになりました。
私はノートを開きます。
今日の出来事を書こうとして。
ペンを止めます。
未来の私は知っています。
数年後。
行政手続法という法律ができる。
不利益処分をするなら。
原則として。
その名あて人に。
処分と同時に。
理由を示しなさい。
書面で処分するなら。
理由も書面で示しなさい。
そういう決まりが、条文になる。
しかも。
本当に差し迫った事情があって、その場で理由を示せないときでも。
それで永遠に黙っていていいわけじゃない。
あとで示す。
原則として。
理由は消えない。
ただ。
今はまだ。
私はその未来の条文を、ここで使えません。
でも。
今日、柴崎さんが困っていたことは。
未来とまったく同じでした。
なぜ。
自分は不利益を受けるのか。
何が悪かったのか。
何を根拠に。
どの事実を見て。
なぜ、この結論なのか。
そこが見えない。
理由のない処分は。
ただ怖いだけではありません。
直す道を隠す。
反論する場所を隠す。
役所自身の間違いまで隠す。
今回。
理由を掘ったから。
古い図面が出てきた。
古い図面が出てきたから。
測り直せた。
測り直したから。
取消しはなくなった。
もし。
最初の一行を、
そういうものか。
で受け入れていたら。
看板は撤去されていたかもしれません。
私はノートに書きました。
――理由は、処分につける飾りじゃない。
「何書いてる」
相馬先輩が覗き込みます。
「見ないでください」
「今日のまとめ?」
「まだまとめません」
「何で」
「ちゃんと整理すると長くなりそうなので」
「またか」
「今日分かったのは、まだ入口です」
私は通知書を思い出します。
関係規定に違反したため。
たったそれだけ。
でも。
その一行では。
柴崎さんは何もできなかった。
「所長」
「何だ」
「理由って」
「うん」
「相手に納得してもらうためだけじゃないですよね」
「そうだな」
「争うためにも必要だし」
「うん」
「行政側が自分の判断を確認するためにも必要」
「そうだ」
私は少し考えて。
今日の教訓を一行にしました。
――「なぜ処分されたのか」が分からなければ、「次に何をすればいいか」も分からない。
相馬先輩が読みます。
「普通だな」
「普通でいいんです」
「今日は哲学なし?」
「行政法は普通のことを、普通にやらせるために必要なんですよ」
言ってから。
自分で少し驚きました。
所長がこちらを見ます。
「それでいい」
それだけ。
でも。
ちょっと嬉しい。
窓の外では、駅前の工事現場に仮設灯が点いていました。
この町は変わろうとしています。
道路が変わる。
区画が変わる。
看板が変わる。
店が移る。
役所の仕事も増える。
急げば。
どうしても手続は雑になります。
説明は省きたくなる。
理由欄には、
関係規定に違反したため。
そう書けば早い。
でも。
早いことと。
正しいことは。
同じじゃない。
むしろ。
理由を書くという面倒な手続があるから。
その面倒の途中で、
「あれ?」
と気づけることがある。
今回みたいに。
古い図面を使っていたことに。
私はノートを閉じました。
未来では。
きっとこの感覚に、ちゃんと条文番号がつく。
でも今日の私は。
まだ番号を書きません。
今書くのは、一つだけ。
――処分の理由は、相手に渡すためであり、自分を止めるためでもある。
「こはる」
「はい?」
「シベリア、半分残ってるぞ」
相馬先輩が言いました。
「え?」
見ると。
所長が半分残しています。
「所長、食べないんですか」
「甘すぎる」
「じゃあ私が」
手を伸ばした瞬間。
相馬先輩の手も伸びました。
「待ってください」
「何だ」
「それ私のです」
「理由は?」
「所長が残したから!」
「俺が食ってはいけない理由になってない」
「くっ……!」
行政法。
理由を示すって難しい。
私は必死に考えます。
「私はまだ一個しか食べてない!」
「俺も一個だ」
「平等!」
「弱い」
「先輩のほうが大人でしょう!」
「もっと弱い」
「所長!」
所長は新聞から顔を上げません。
「じゃんけん」
「またそれですか!」
結局。
その日も。
事務所内の紛争処理だけは。
理由提示より、じゃんけんのほうが早かったのです。
以下に私の作品へのリンク貼ってます。是非、手に取って頂ければと思います。また、ついでに評価ブックマーク頂ければ幸いです。




