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こはる行政書士見習帖 〜 昭和に転生して許認可に振り回されると試験知識が骨身にしみます 〜  作者: 条文小説
〈行政法 配点112点/300点〉 行政手続法

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[行政手続法13条・不利益処分の意見陳述]現場編 「もう取消しで決まっています」の罠。役所の結論と本人の言い分を聞く手続は、同じものじゃない

挿絵(By みてみん)

 人から何かを取り上げるときほど、先に話を聞いたほうがいい。


 たぶんこれは、法律以前の話です。


 おもちゃを取り上げる親でも。


 部活を辞めさせる先生でも。


 商売の許可を取り消す役所でも。


 ところが役所というところは、ときどき順番を逆にします。


 先に結論を決めて。


 あとから本人に知らせる。


 それで、


「もう決まったことですから」


 と言う。


 いや。


 決まったなら聞かなくていい、ではなく。


 聞いてから決めるんじゃないですか。


 ――という話を、私は昭和六十三年の夏、市役所の薄暗い廊下で本気ですることになりました。


 片桐行政書士事務所に、その男性がやって来たのは、午前十一時を少し過ぎた頃でした。


 年は五十前後。


 日に焼けた顔。


 白い開襟シャツの胸元まで汗で濡れています。


 手にしていたのは、一枚の封筒でした。


「これ、どういう意味でしょうか」


 声が震えていました。


 怒っているというより、まだ状況を理解できていない人の声です。


 私は冷たい麦茶を出しながら、その封筒を受け取りました。


 差出人は市役所。


 中には一枚の通知。


 食品営業許可取消処分予定通知。


 ……予定?


 私は眉を寄せました。


 文面を読みます。


 市内駅前通りにおいて飲食店を営む田所正雄について、衛生管理上重大な問題が認められたため、営業許可を取り消す方針である。


 処分予定日。


 一週間後。


 以上。


「……以上?」


 思わず声に出ました。


 相談者――田所さんが、弱々しく頷きます。


「役所へ電話したんです。何か事情を説明したいって。でも担当の人が」


 そこで一度、喉を鳴らしました。


「『写真もありますし、もう取消しで決まってます』って」


 私はもう一度、紙を見ました。


「何の写真です?」


「店の裏です」


「裏?」


「ネズミが出たって通報があったらしくて」


 相馬先輩が奥の机から顔を上げました。


「出たのか?」


「一匹は出ました」


「出たんかい」


 私は思わず田所さんと相馬先輩を見比べました。


 こういうとき、相談者に一切落ち度がない展開だと話は簡単です。


 役所が悪い。


 以上。


 でも現実は、だいたいそう親切ではありません。


「ただ」


 田所さんが身を乗り出します。


「店の厨房じゃないんです。裏の物置で。それも隣の空き家が取り壊されてから、急に出るようになって」


「保健所から立入検査は?」


「来ました」


「そのとき何か言われました?」


「掃除しろ、穴を塞げ、業者を入れろって」


「やりました?」


「全部やりました」


 田所さんは鞄から領収書を出しました。


 害虫駆除業者。


 壁面補修。


 排水口の金網交換。


 清掃業者。


 けっこうな額です。


「改善後の確認は?」


「来てません」


 私は顔を上げました。


「え?」


「最初に見に来て、それから何もなしです」


「それで取消し?」


「はい」


 うわ。


 嫌な匂いがします。


 ネズミじゃありません。


 手続の匂いです。


 昨夜まで令和で行政書士試験のテキストを読んでいた私の頭の奥に、見慣れた一文が浮かびます。


 行政庁が不利益処分をしようとする場合。


 名あて人となるべき者について。


 意見陳述のための手続を執らなければならない。


 聴聞。


 弁明の機会の付与。


 そして。


 許認可等の取消しなら――。


 私はそこまで考えて、止まりました。


 待って。


 昭和六十三年です。


 行政手続法、まだありません。


 制定されるのはもっと後。


 今ここで、


「行政手続法十三条違反ですね!」


 とか言ったら、私は行政法ではなく時空法に違反しそうです。


「こはる」


 片桐所長が言いました。


「顔に出てるぞ」


「何がです?」


「何か引っかかってる顔だ」


「所長」


 私は通知を机に置きました。


「これ、本人の話を聞く場って、ないんですか」


 田所さんが私を見ます。


 相馬先輩も見る。


 所長は通知を一読しました。


「書いてないな」


「電話で話したいと言っても、もう決まってるって」


「ふむ」


 所長が短く唸りました。


 私は言葉を選びます。


「営業許可を取り消すって、かなり重いですよね」


「重い」


「店を閉めることになる」


「そうだ」


「だったら少なくとも、どういう事実を根拠にしているのかとか、本人に何か説明はないのかとか」


 私は領収書を指さしました。


「こういう改善をした事情を聞かないまま、本当に取り消していいんでしょうか」


 相馬先輩が椅子を回しました。


「お前、今日は珍しく人間らしいこと言うな」


「普段なんだと思ってるんですか」


「論点自動販売機」


「嫌すぎる」


 でも。


 所長は笑いませんでした。


「筋は悪くない」


 そう言って、田所さんへ視線を戻します。


「田所さん。最初の立入検査のとき、店を閉めろとは言われていないんですね」


「はい。改善しろとだけ」


「改善期限は?」


「三日以内に対策しろと」


「守った?」


「翌日には業者を呼びました」


「役所へ連絡は?」


「しました。業者入れましたって」


「記録はありますか」


「電話だけです」


 所長が少しだけ眉を寄せました。


 昭和という時代。


 電話で済ませがち。


 そして後で揉める。


 文明の利器が法的証拠能力に追いついていません。


「相馬」


「はい」


「市役所へ行くぞ」


「ですよね」


「こはるも」


「ですよね」


 最近もう驚かなくなってきました。


 私、行政書士事務所の見習いというより、法的違和感探知犬みたいになってません?


 市役所の衛生担当窓口は、本庁舎とは別棟にありました。


 古い扇風機が、首を振るたびにギイ、ギイ、と鳴っています。


 受付で事情を告げると、奥から倉田係長が出てきました。


「ああ、片桐先生」


「所長です」


 私が小声で訂正すると、相馬先輩に肘で突かれました。


 そこ今どうでもいい。


 倉田係長は、前回の貼り紙事件以来、私たちを見ると若干身構えるようになっています。


「今日は何です?」


「田所食堂の営業許可取消しについてです」


 片桐所長が通知を差し出しました。


 倉田係長の顔が少し固くなる。


「ああ……その件ですか」


「担当は?」


「生活衛生課です。ただ、今回は私も駅前再整備の関係で話を聞いてます」


 なるほど。


 また駅前。


 この町、法律トラブルが駅前に集合しすぎです。


「担当者をお願いします」


 しばらくして、五十代くらいの男性職員が現れました。


 森川主任。


 細い眼鏡。


 書類を胸に抱えています。


「田所さんの件ですね」


「はい」


 所長が言います。


「取消し処分を予定していると」


「予定というか、事実上決定です」


 私の頭の中で、赤い警告灯が点灯しました。


 事実上決定。


 怖い言葉です。


「まだ処分していないんですよね」


 私が聞くと、森川主任は少し不思議そうな顔をしました。


「処分日は来週です」


「なら、まだ決まってないですよね」


「いや、内部では決裁が通っています」


 内部では。


 私は心の中で反復しました。


 内部では。


 それ、市民側から見て最終決定と同じなんでしょうか。


「田所さんは、改善したと言っています」


 所長が静かに言います。


「害虫駆除。穴の補修。清掃。排水口の対策」


「その話は聞いています」


「確認しましたか」


「いえ。ただ、立入時の状態が非常に悪かった」


 森川主任が写真を出しました。


 確かに。


 かなり悪い。


 物置の床に食品用の段ボール。


 壁際には糞らしき黒い点。


 穴。


 衛生上問題あり。


 そこは否定できません。


「これなら取消しも当然でしょう」


 森川主任が言いました。


 私は写真を見たまま、口を開きました。


「この写真、いつのですか」


「二週間前です」


「改善前ですよね」


「そうです」


「改善後は?」


「ありません」


 森川主任が黙る。


 私は田所さんの領収書と作業報告書を並べました。


「これ、一週間前です」


 業者の記録には、


 侵入口閉鎖済み。


 床面清掃。


 薬剤処理。


 捕獲器設置。


 とあります。


「主任さん」


 私はできるだけ穏やかに言いました。


「取消しの理由って、二週間前の状態だけなんですか」


「重大な衛生上の問題があったということです」


「でも改善命令を受けて、改善している可能性がある」


「可能性はありますが」


「確認してない」


「……はい」


「本人は説明したいと言った」


「電話はありました」


「でも聞かなかった」


「もう内部で方針が決まっていたので」


 出ました。


 本日の主役です。


 もう決まっていたから、聞かなかった。


 私の頭の中では、未来の行政手続法十三条が大音量で鳴っています。


 許認可の取消し。


 聴聞。


 口頭審理。


 本人が意見を述べ、証拠を出し、争点を明らかにする場。


 でも今は昭和六十三年。


 その制度を私は使えない。


 使えないけれど。


 問題そのものは、目の前にある。


「所長」


 私は小さく呼びました。


「うん」


「これって、処分するかどうかの判断材料が、一方側だけになってませんか」


 所長の目が動きました。


「続けろ」


「役所には立入時の写真がある。でも田所さんには、その後改善した証拠がある。それなのに、その証拠を見ないまま取消しを決めてる」


 倉田係長が腕を組みます。


「でも一度悪い状態だったことは事実でしょう」


「事実です」


 私は認めました。


「だから処分するなとは言ってません」


 ここです。


 行政法で一番気持ちいい瞬間。


 話を混ぜない。


「処分するかどうかと」


 私は田所さんを見ました。


「処分する前に本人の言い分を聞くかどうかは、別の話ですよね」


 倉田係長が黙りました。


 森川主任も黙る。


 相馬先輩が、横でほんの少し口角を上げました。


 私は続けます。


「写真があるから取消し」


「……」


「ではなくて」


「……」


「写真がある。改善したという話もある。じゃあ今どうなっているのか。そこを確認して、それでも取消しが必要なのか決める」


 私は一息置きました。


「順番、逆じゃないですか」


 扇風機が、ギイ、と鳴りました。


 妙に大きく聞こえました。


 所長が言います。


「森川さん」


「はい」


「営業許可の取消しは、田所さんにとって店を閉じるに等しい処分です」


「それは承知しています」


「なら、それだけ慎重に事実を確認する必要がある」


「しかし、営業者には衛生管理の義務があります」


「あります」


「違反が重大なら行政として対応しなければならない」


「そのとおりです」


 所長は一度も役所の権限そのものを否定しませんでした。


 そこが怖い。


 逃げ道を一つずつ塞いでいく話し方です。


「だからこそ」


 所長が言います。


「本人に弁明させる機会を設けても、行政の権限は失われません」


 私は一瞬、所長を見ました。


 弁明。


 未来の法律と同じ言葉。


 でももちろん、行政手続法の制度名として言っているわけじゃない。


 当時だって、重い不利益を与える前に、本人の意見を聞くべきだという考え方そのものが、突然未来から降ってくるわけじゃありません。


 後の法律は、何もなかった場所に魔法で制度を生み出すわけじゃない。


 先に問題がある。


 実務が揉める。


 学説が考える。


 裁判例が積み重なる。


 そして最後に、


 こういうときはこうしましょう、


 と手続が形になる。


 私は未来を知っている。


 だから今、目の前にある“制度になる前の問題”が見える。


 少し不思議な気分でした。


「取消し処分をしないでくれ、と言っているわけじゃない」


 相馬先輩が割って入りました。


「聞くべきことを聞いてから決めろって話です」


 森川主任が眉をひそめます。


「でも現場が危険だったら、すぐ止めないといけない場合もありますよ」


「それはある」


 所長が即答しました。


「たとえば今まさに食中毒が広がっている。危険な食品が販売され続けている。住民の健康を守るため、猶予なく止める必要がある」


 私は心の中で、


 公益上、緊急に不利益処分をする必要がある場合。


 と続きを呟きました。


 未来の条文が、また重なります。


「でも田所さんの店は?」


 所長が聞きます。


 森川主任は答えません。


「現在営業停止にしてます」


 倉田係長が代わりに言いました。


「自主的に?」


「はい。指導を受けて、田所さん本人が三日前から休業しています」


 私は田所さんを見る。


「そうなんですか」


「お客さんに何かあったら困るから……」


 なるほど。


 少なくとも、今まさに危険な食品を売り続けている状況ではない。


 しかも本人は改善措置を取ったと言っている。


 確認の余地はある。


 そして時間もある。


「じゃあ」


 私は森川主任を見ました。


「一週間後までに、もう一度現場を確認できませんか」


「再検査?」


「はい。それと田所さんから、改善内容を直接説明してもらう」


「……」


「その上で判断する」


 森川主任が困った顔をしました。


「もう決裁が通ってましてね」


 相馬先輩がすぐ返しました。


「決裁は神棚じゃないですよ」


「相馬」


「はい」


「言い方」


「でも事実でしょう」


 さすが先輩。


 空気を悪くする担当として安定しています。


 倉田係長が額を押さえました。


「相馬さん、毎回もう少し穏便にできませんか」


「できません」


「即答しないでください」


 私は少し笑いそうになりましたが、田所さんの顔を見て止めました。


 本人にとっては笑い事ではない。


 この人は、一枚の紙で店を失うかもしれないのです。


 何十年も続けてきた食堂を。


「お願いします」


 田所さんが頭を下げました。


「悪かったところは直します」


 声が掠れます。


「いや、直しました。でも、本当に足りないならまた直します」


 森川主任が田所さんを見る。


「ただ」


 田所さんは顔を上げました。


「何が悪いのかも聞かず、直したところも見ずに、もう店を閉めろって言われるのは……」


 一度、言葉に詰まりました。


「それだけは、納得できません」


 役所の部屋が静かになりました。


 こういうとき、法律は少しだけ後ろに下がります。


 最初にあるのは、たぶん人間の感覚です。


 自分について決めるなら。


 せめて自分の話を聞いてほしい。


 その感覚を制度の形にしたものが、手続なんだと思います。


 片桐所長が森川主任に言いました。


「再確認してください」


「……」


「取消しが必要なら、その後でもできます」


 短い。


 重い。


「しかし」


「今、話を聞かない理由は何ですか」


 森川主任が止まりました。


「時間がない?」


「……いえ」


「緊急?」


「現時点では、そこまでは」


「証拠を見る必要がない?」


「それは……」


「なら、聞けばいい」


 以上。


 この人、本当に言葉が少ない。


 でも逃げ道まで少ない。


 倉田係長が大きく息を吐きました。


「主任。再検査、入れましょう」


「係長」


「処分後に揉めるよりいいでしょう」


「……」


「それに」


 倉田係長が私をちらりと見ました。


「この子、また後で面倒なこと言い出しますよ」


「私を何だと思ってるんですか」


「論点自動販売機」


「相馬先輩と同じ!」


「有名なんだな」


「そんな称号いりません!」


 結果。


 取消処分は、ひとまず保留になりました。


 正式な撤回でも白紙化でもありません。


 役所は、改善後の再検査を行う。


 田所さんは、害虫駆除業者の記録、補修内容、清掃記録を提出する。


 その場で本人から事情を聞く。


 その上で、処分内容を改めて検討する。


 それだけです。


 でも田所さんにとっては。


 その「それだけ」が大きかった。


 事務所へ戻る道。


 田所さんは何度も、


「ありがとうございます」


 と言いました。


「まだ取消しがなくなったわけじゃありませんよ」


 私は念のため言います。


「分かってます」


「再検査で問題が残ってたら、厳しい判断になるかもしれません」


「それも分かってます」


 田所さんは少し笑いました。


「でも、見てもらえるんですよね」


「はい」


「直したところを」


「はい」


「それならいいです」


 それならいい。


 不思議でした。


 許可を守れる保証なんて、何もない。


 なのに。


 本人の表情は、来たときよりずっと落ち着いていました。


 人は結果だけで納得するわけじゃない。


 自分の話が判断材料になる。


 ちゃんと見てもらえる。


 それだけで、同じ「駄目」でも受け止め方は変わるのかもしれません。


 三日後。


 再検査が行われました。


 私は同行しませんでしたが、午後、市役所から電話がありました。


 受話器を取ると倉田係長です。


『朝比奈さん』


「はい」


『田所食堂、見ました』


「どうでした?」


『かなり直ってました』


 思わず背筋が伸びました。


『物置の食品は全部撤去。侵入口も封鎖済み。業者も入ってる。衛生管理の記録もつけ始めてました』


「じゃあ取消しは?」


『そこはまだ』


「……ですよね」


『ただ』


 倉田係長が少し間を置きます。


『取消しではなく、一定期間の営業停止と改善確認で済ませられないか、再検討しています』


 私は目を閉じました。


「そうですか」


『最初の状態が悪かったのは事実ですから』


「はい」


『でも、改善後を見ずに決めたのも、確かにまずかった』


 私は少し驚きました。


 倉田係長、最近かなり柔らかくなっています。


 この人。


 最終回あたりで味方になったりしません?


『それと』


「はい」


『田所さん本人からも話を聞きました』


「どうでした?」


『長かった』


「そこですか」


『四十分』


「結構しゃべりましたね」


『昔の店の話まで始まりました』


「それは……お疲れさまでした」


『でも』


 倉田係長の声が少しだけ柔らかくなりました。


『聞いといてよかったです』


 それだけ言って、電話は切れました。


 私は受話器を置きました。


「何だって?」


 相馬先輩が聞きます。


「取消し、再検討だそうです」


「へえ」


「改善後を確認したら、かなり直ってたって」


「じゃあお前の読みが当たったな」


「違います」


 私は首を振りました。


「別に、田所さんが正しいって読んだわけじゃないです」


「じゃあ何だ」


「聞いてから決めたほうがいいってだけです」


 相馬先輩が一瞬黙ります。


「……珍しくまともだな」


「今日二回目です、その評価」


 夕方。


 田所さんが事務所に顔を出しました。


 手には大きなアルミの容器。


「これ、皆さんで」


 開けると。


 唐揚げ。


 山盛り。


「おお」


 相馬先輩の目が輝きました。


「店、まだ営業止めてるんじゃ?」


 私が聞くと、田所さんが笑います。


「家で作ったんですよ。売り物じゃない」


「なるほど」


「衛生面は?」


 相馬先輩が聞く。


「先輩!」


「冗談だ」


「今日その冗談は最悪です」


 田所さんは声を出して笑いました。


 最初に事務所へ来たときとは、別人みたいでした。


「来週、もう一度市役所で話すことになりました」


「はい」


「どうなるかは分かりません」


「そうですね」


「でも」


 田所さんは私を見ました。


「自分で説明できるなら、納得できます」


 その言葉が、妙に残りました。


 納得。


 行政法のテキストには、あまり出てこない言葉です。


 許可。


 取消し。


 不利益処分。


 行政行為。


 裁量。


 聴聞。


 弁明。


 全部固い。


 全部冷たい。


 でも。


 その冷たい制度の目的の一つは、


 たぶん。


 人に、自分について話す席を一つ残すことなんです。


 結果を変えるためだけじゃない。


 行政が間違った事実を前提にしないため。


 見落とした事情を拾うため。


 本人に反論の機会を与えるため。


 そして。


 自分の店がなくなる理由を、


 誰にも聞いてもらえないまま決められた。


 そんな終わり方を、少しでも減らすため。


 私は机の上のノートを開きました。


 書きかけて。


 止まります。


 未来の私は、答えを知っています。


 不利益処分をしようとするとき。


 重い処分なら聴聞。


 それ以外なら弁明の機会。


 許認可の取消しは聴聞。


 でも。


 ここは昭和六十三年。


 まだそのルールは、一つの法律として整理されていない。


 だから私は、未来の言葉を書かずに。


 今日起きたことだけを書きました。


 ――人から何かを奪う前に、その人の話を聞かなくていいのか。


「何書いてる」


 相馬先輩が覗き込みます。


「見ないでください」


「行政法?」


「まだ名前のついてない行政法です」


「何だそれ」


「私だけ分かればいいんです」


 奥で唐揚げを食べていた所長が言いました。


「名前がなくても、問題はある」


 私は顔を上げました。


「はい?」


「制度ができる前から、人は困っている」


 所長はそれだけ言って、二個目の唐揚げに手を伸ばしました。


 ずるい。


 今日一番いいこと言った人が、今日一番先に二個目を取った。


「所長」


「何だ」


「一人一個じゃないんですか」


「そんな決まりはない」


「この前、団子のときは一人一本でしたよね!」


「今日は違う」


「内部運用を勝手に変えないでください!」


 相馬先輩が笑いながら三個目を取ります。


「お前も早く取れ」


「先輩はもう三個目じゃないですか!」


「聞く前に動け」


「今日の教訓を全部踏みにじらないで!」


 私は慌てて唐揚げを一つ確保しました。


 役所の取消し処分には、言い分を聞く余地が必要です。


 でも夕方の唐揚げには、どうやら事前手続がありません。


 弱肉強食です。


 それでも。


 机の上の一行を見ながら、私は少しだけ笑いました。


 行政が誰かに不利益を与えるとき。


「悪いことをしたんだから当然だ」


 その一言で終わらせない。


 何があったのか。


 本人はどう言っているのか。


 処分するほどの事情なのか。


 ほかに見るべき事実はないのか。


 先に結論を閉じてしまえば。


 あとからどれだけ話を聞いても、それはただの儀式になります。


 逆に。


 一度きちんと席を空けておけば。


 そこに、見落としていた事実が入ってくるかもしれない。


 今日、田所さんが守ったのは、


 まだ営業許可ではありません。


 自分の話を、判断される前に聞いてもらう場所。


 たったそれだけです。


 でも。


 その一席があるかないかで。


 役所の決定は、


「もう決まったこと」


 から、


「これから決めること」


 へ戻ります。


 私はノートの最後に、小さく書き足しました。


 ――取り上げる前に、聞く。


 たぶん数年後。


 この国は、その当たり前をもっと細かい言葉にする。


 聴聞。


 弁明の機会の付与。


 不利益処分。


 そして、それぞれを法律の条文に並べる。


 でも昭和六十三年の今日。


 田所さんに必要だったのは、条文の番号ではありませんでした。


「もう決まっています」


 と言われたときに。


「まだ、私の話を聞いていませんよね」


 そう言えること。


 たぶんそこから。


 未来の行政手続は始まっていたんだと思います。


「こはる」


「はい?」


「唐揚げ、最後の一個」


 相馬先輩が言いました。


 見ると、皿の上に本当に一個だけ残っています。


 そして先輩の箸が、ゆっくり伸びている。


「待ってください!」


「何だ」


「私にも意見陳述の機会を!」


「却下」


「まだ陳述してません!」


「結論は決まった」


「今日いちばん駄目なやつ!」


 私は全力で箸を伸ばしました。


 結果。


 唐揚げについてだけは。


 聞いてから決める制度の導入が、まだ少し先になりそうでした。

 以下に私の作品へのリンク貼ってます。是非、手に取って頂ければと思います。また、ついでに評価ブックマーク頂ければ幸いです。

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