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こはる行政書士見習帖 〜 昭和に転生して許認可に振り回されると試験知識が骨身にしみます 〜  作者: 条文小説
〈民法 配点76点/300点〉 債権

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531/592

[民法・寄託]現場編 「預かっただけだから責任はない」の嘘。父の形見を人質に取った倉庫業者と、昭和の民法が突きつける返還義務

挿絵(By みてみん)

 預けたものは、返ってくる。


 そんな当たり前のことが、当たり前ではなくなる日があります。


 たとえば。


 大切なものを預けた相手から、


「返してほしければ、金を払え」


 と言われたら。


 しかも。


 その相手が、


「預かっただけだから、壊れても責任はない」


 と笑っていたら。


 あなたなら、どうしますか。


 昭和六十三年。


 片桐行政書士事務所。


 その日の私は、民法のある契約を勉強することになりました。


 その名も。


 ――寄託。


 読み方は、きたく。


 物を預けて、保管してもらう契約です。


 簡単そうでしょう?


 私も、そう思っていました。


 でも。


 この契約には、恐ろしいほど重要な違いが隠されていたのです。


 無料で預かるのか。


 お金をもらって預かるのか。


 いつ返す約束なのか。


 そして。


 預かった人は、どこまで責任を負うのか。


 その違いを知らないばかりに。


 一人の女性が、亡き父親の形見を失いかけていたのでした。


「お願いします! 父の時計を取り戻してください!」


 朝九時。


 事務所の扉が開くなり、女性が頭を下げました。


 三十代半ばでしょうか。


 紺色のスカート。


 くたびれた革靴。


 両手には、古い茶封筒。


「まず、座ってください」


 片桐所長が静かに言いました。


 女性は椅子に腰を下ろしました。


「私、佐伯陽子と申します」


「時計を預けたのですか?」


 私が尋ねると、陽子さんは頷きました。


「はい。父が残した柱時計です」


「柱時計?」


「古い木製の、大きな時計なんです」


 陽子さんは茶封筒から写真を取り出しました。


 そこには、背の高い柱時計が写っていました。


 濃い茶色の木枠。


 丸い文字盤。


 振り子の下には、小さな真鍮の飾り。


「父が、若い頃から使っていた時計です」


 陽子さんは写真を指でなぞりました。


「毎日、夜九時になると、ぼーん、ぼーんって鳴るんです」


「素敵ですね」


「父は、その音を聞いてから寝る人でした」


 少しだけ、女性の声が震えました。


「去年、亡くなりまして」


「あ……」


「家を建て替えることになったので、その間だけ、知り合いの倉庫会社に預かってもらったんです」


 なるほど。


 家の建て替え。


 家具や家財道具を一時的に保管してもらう。


 よくある話です。


「預けたのは、いつですか?」


「今年の五月です」


「返してもらう予定は?」


「十月末でした」


 現在は九月。


 つまり、予定より一か月以上早い。


「でも、新しい家が予定より早く完成したんです。それで、返してほしいとお願いしたら……」


 陽子さんの顔が曇りました。


「返さないって言われました」


「え?」


「契約書には十月三十一日までと書いてあるから、それまでは返せないって」


 私は首をかしげました。


 でも。


 自分の物ですよね?


 預けた物ですよね?


 返してもらえない?


「それだけじゃないんです」


 陽子さんはもう一枚、紙を取り出しました。


 そこには、太い文字でこう書かれていました。


 ――特別保管管理料 八万円。


「……八万円?」


「返してほしいなら、このお金を払えって」


 私は思わず声を上げました。


「ええっ!」


 陽子さんは俯きました。


「毎月の保管料は、ちゃんと払っているんです」


「いくらですか?」


「月五千円です」


 五月から十月まで。


 六か月。


 合計三万円。


 しかも、全額前払い。


 それなのに。


 さらに八万円?


「理由は何だと言っているんですか?」


「時計は特別な保管が必要だから、だそうです」


 陽子さんは唇を噛みました。


「でも、預けるときにはそんな話、一度もなかったんです」


 私は紙を見つめました。


 八万円。


 決して小さな金額ではありません。


 そして、何より。


「父の時計なんです」


 陽子さんが言いました。


「お金の問題だけじゃないんです」


 その一言に、私は顔を上げました。


「新しい家の居間に、あの時計を置きたくて」


「はい」


「父がいた頃と同じように、夜九時に鳴る音を聞きたかったんです」


 私は写真を見ました。


 古い柱時計。


 値段をつければ、ただの中古品かもしれません。


 でも。


 陽子さんにとっては、父親が残した時間そのものなのです。


「分かりました」


 私は頷きました。


「まず、契約書を見せてください」


 そして。


 ここから、私の民法との戦いが始まりました。


「これは、寄託契約ですね!」


 私は契約書を見て言いました。


 相馬先輩が新聞から顔を上げます。


「ほう」


「物を預かって保管する契約です!」


「それで?」


「民法六百五十七条です!」


「うん」


 私は勢いよく続けました。


「寄託は、当事者が保管を約束して、相手が承諾すれば成立します!」


 沈黙。


 相馬先輩が、ゆっくり新聞を畳みました。


「……何だって?」


「ですから、寄託は諾成契約です!」


「誰がそんなこと言った」


「民法です!」


「どこの民法だ」


 ……。


 あ。


 私は固まりました。


 諾成契約。


 当事者の合意だけで成立する契約。


 現代の民法。


 令和二年の債権法改正。


 あれ?


 ちょっと待ってください。


 昭和六十三年。


 昭和六十三年!


「あっ……!」


 私は慌てて六法を開きました。


 民法第六百五十七条。


 そこに書かれていたのは。


 ――寄託ハ当事者ノ一方カ相手方ノ為メニ保管ヲ為スコトヲ約シテ或物ヲ受取ルニ因リテ其効力ヲ生ス。


「……受け取る?」


「そうだ」


 相馬先輩が言いました。


「寄託は、物を受け取って初めて効力を生ずる」


「要物契約……!」


「何だ、知ってるじゃねえか」


 私は頭を抱えました。


 またです。


 また、民法改正の地雷です!


 現代では、寄託は合意によって成立します。


 でも。


 昭和六十三年の寄託は、原則として物の受取りが必要な要物契約。


 約束しただけでは、まだ寄託契約としての効力は生じないのです。


「なんでこんなに違うんですか!」


「法律が違うからだろ」


「身も蓋もない!」


 相馬先輩は六法を指で叩きました。


「今使う法律で考えろ」


「はい……」


「それで、時計は?」


「え?」


「実際に相手へ渡したんだろ?」


「あ、はい!」


「だったら寄託の成立については問題ねえ」


 なるほど。


 今回は時計を実際に引き渡しています。


 だから、昭和の民法でも寄託契約が成立している。


 ただし。


 もし、まだ時計を渡していなかったら。


 現代と昭和では、出発点から違っていたわけです。


 危ない。


 未来人。


 民法六百五十七条で、いきなり転びかけました。


「こはる」


 片桐所長が言いました。


「成立の話はそこまでだ」


「はい」


「次は、相手が何を引き受けたのか確認しろ」


 私は契約書を見直しました。


 そこには。


 ――木製柱時計一台。


 ――保管期間 昭和六十三年五月一日から同年十月三十一日まで。


 ――保管料 月額五千円。


 ――保管場所 丸福倉庫株式会社第二倉庫。


 ――受寄者は善良な管理者の注意をもって保管する。


 と記載されていました。


 私は目を見開きました。


「所長!」


「何だ」


「ちゃんと書いてあります!」


「何が」


「善良な管理者の注意!」


 相馬先輩がにやりとしました。


「そこに気づいたか」


 私は頷きました。


 善管注意義務。


 善良な管理者の注意義務。


 預かった物を、その立場にある人として通常求められる注意をもって保管する義務です。


 そして。


 ここで重要なのが、お金。


 今回の倉庫会社は、月五千円の報酬を受け取っていました。


「有償寄託ですね」


「そうだ」


「だから、無償で預かる場合とは注意義務の程度が違う」


「よし」


 相馬先輩が頷きました。


 私は少し自信を取り戻しました。


 でも。


 そのとき。


 陽子さんが、小さな声で言いました。


「あの……」


「はい?」


「時計、壊れているかもしれないんです」


 事務所の空気が変わりました。


「壊れている?」


 片桐所長が顔を上げました。


 陽子さんは頷きました。


「倉庫の人から、電話で聞いたんです」


「何と?」


「保管場所を移したときに、時計を倒したかもしれないって」


「……倒した?」


「はい」


 私は写真を見ました。


 背の高い柱時計。


 木製。


 振り子。


 精密な機械部分。


 倒したら、壊れる可能性があります。


「それで、修理代は出すと言われたんですか?」


「いいえ」


 陽子さんは首を横に振りました。


「『古い時計だから、もともと壊れやすい。こちらに責任はない』って」


 ……。


 私は、ゆっくり息を吸いました。


 どういうことでしょう。


 月五千円の保管料を受け取る。


 勝手に保管場所を変える。


 時計を倒す。


 そのうえ責任はない。


 さらに返還にも八万円を要求する。


 ……。


 欲張りすぎでは?


「所長」


「何だ」


「これ、寄託の問題が全部乗せですね」


「全部乗せ?」


「成立、注意義務、返還、費用!」


 相馬先輩が吹き出しました。


「ラーメンみたいに言うな」


「だって!」


 私は拳を握りました。


「全部、民法の論点じゃないですか!」


「そうだな」


 先輩が言いました。


「だからこそ、順番に潰すんだ」


 そう言って、契約書を私の前に置きました。


「まず相手の言い分を取る」


「はい」


「それから証拠」


「はい!」


「最後に、本人名義の書面だ」


 私は頷きました。


 いよいよ。


 昭和の民法による反撃です。


 翌日。


 私と相馬先輩は、丸福倉庫株式会社を訪れました。


 駅から車で十五分。


 工場地帯の外れ。


 大きなトタン屋根の倉庫が並んでいます。


 看板には、


 ――丸福倉庫株式会社。


 と書かれていました。


「いらっしゃい」


 事務所から出てきたのは、五十歳前後の男。


 太い眉。


 大きな腹。


 金色の腕時計。


「社長の福田だ」


 男は私たちを見るなり、鼻で笑いました。


「行政書士さん?」


「片桐事務所の相馬です」


「弁護士じゃないんだな」


「そうです」


「じゃあ、何しに来た」


 ……。


 また、この反応です。


 どうして悪徳業者というのは、行政書士だと分かると急に偉そうになるのでしょうか。


「佐伯さんの柱時計について、保管状況と契約上の説明を確認したいのですが」


 相馬先輩が言いました。


「本人から事情確認の依頼を受けています」


「ああ、あの時計か」


 福田社長は椅子に座りました。


「契約書に書いてあるだろ」


「保管期限は十月三十一日ですね」


「そうだ」


「それ以前の返還には応じないと?」


「当たり前だ」


 福田は机を叩きました。


「約束ってのは、守るもんだろ!」


 私は思わず口を開きました。


「でも、預けた本人が返してほしいと言っているんですよ?」


「だから何だ」


「寄託者には返還を請求する権利があります」


「法律か?」


「はい」


「だったら契約書を見ろ」


 福田は笑いました。


「十月三十一日まで保管するって書いてある。今は九月だ。返す義務なんかない」


 私は言い返そうとしました。


 でも。


 相馬先輩が軽く手を上げました。


「こはる」


「はい」


「聞いておけ」


 ……はい。


 口で負かすのが仕事ではありません。


 相手の主張を記録する。


 それが先です。


「では、特別保管管理料八万円について」


 相馬先輩が続けました。


「これは何の費用ですか?」


「特別管理だよ」


「具体的には?」


「いろいろあるんだ」


「いろいろ、とは?」


「倉庫の管理だ!」


 ……説明になっていません。


「保管料は六か月分を前払いされていますね」


「ああ」


「八万円は、そのほかに必要になった費用ですか?」


「そうだ」


「いつ、何に使いましたか?」


「細かいことを聞くな!」


 福田は顔を赤くしました。


「こっちは商売なんだ! 預かっただけで終わりじゃないんだよ!」


 私はノートに書きました。


 特別保管管理料。


 八万円。


 具体的な支出内容、不明。


 領収書、不明。


 契約書上の追加料金条項、確認できず。


 なるほど。


 お金を請求するなら、根拠が必要です。


 請求書に数字を書けば、勝手に債務が生まれるわけではありません。


「それから」


 相馬先輩が言いました。


「保管場所を変更されたそうですね」


 福田の表情が変わりました。


「……誰が言った」


「保管状況について確認しています」


「別にいいだろ。うちの倉庫なんだから」


「契約書には第二倉庫とあります」


「だから?」


「現在は?」


 福田は舌打ちしました。


「第三倉庫だよ」


「移した理由は?」


「第二倉庫に大きな荷物が入ったんだ」


「時計の所有者の承諾は?」


「いちいち取るかよ!」


 ……。


 私は眉をひそめました。


 預かった物。


 保管場所。


 承諾。


 そして。


 時計が倒れたという話。


「移動の際、時計が転倒したと伺っています」


 相馬先輩が言いました。


 福田は一瞬、黙りました。


「……古い時計だぞ」


「はい」


「多少壊れたって仕方ねえだろ」


「転倒したのですか?」


「知らねえよ」


「保管記録は?」


「そんなもの、いちいちつけてねえ」


「移動を担当した従業員は?」


「もう辞めた!」


 私は鉛筆を握る手に力を込めました。


 ……ひどい。


 福田は笑いました。


「それにな」


「はい」


「俺は預かっただけなんだ」


 そして。


 決定的な一言を口にしました。


「預かった物が壊れたからって、全部責任を取る法律なんかねえだろ!」


 私は顔を上げました。


 ……。


 あります。


 それを決めるのが、民法です。


 ただし。


 相手が物を壊したというだけで、自動的に全責任が決まるわけではありません。


 どんな注意義務を負っていたのか。


 どう保管していたのか。


 何が原因で壊れたのか。


 それを確認する必要があります。


「福田社長」


 相馬先輩が言いました。


「保管状況を確認できる写真や記録はありますか」


「何だと?」


「時計の現状を知りたいのです」


「ない!」


「現物を確認させていただけますか」


「嫌だね!」


 福田は立ち上がりました。


「八万円払うまでは、見せもしねえ!」


 私は息を呑みました。


「……それは」


「何だ!」


「おかしいです!」


 思わず言ってしまいました。


 相馬先輩が私を見ました。


 でも、私は止まりませんでした。


「時計は佐伯さんの物です!」


「だから預かってるんだろ!」


「返してほしいって言ってるんですよ!」


「契約書!」


 福田は机を叩きました。


「契約書があるんだよ!」


 その顔には、絶対に勝てるという自信が浮かんでいました。


 私は唇を噛みました。


 悔しい。


 でも。


 ここで言い争っても仕方ありません。


 相馬先輩が静かに立ち上がりました。


「分かりました」


「何がだ」


「御社のお考えは確認できました」


「そうかい」


「失礼します」


 福田は鼻で笑いました。


「法律屋ってのは、たいしたことねえな」


 私は思いました。


 今だけです。


 その余裕。


 あとで、どうなるか。


 覚えていてください。


「先輩!」


 倉庫を出た瞬間、私は言いました。


「何であんなに大人しく帰るんですか!」


「何だ」


「ひどいじゃないですか!」


「ひでえな」


「もっと法律を言ってやれば!」


「こはる」


 相馬先輩が足を止めました。


「俺たちは、あそこで何をしに行った」


「……事情確認です」


「そうだ」


「はい」


「依頼人の代理人として示談交渉を引き受けるわけにはいかねえ」


「……はい」


「だったら、相手を言い負かしても仕方ねえ」


 先輩は煙草を取り出しました。


「相手の言い分は取れた」


「はい」


「保管場所を変えたことも認めた」


「はい」


「八万円の根拠は説明できなかった」


「はい」


「返還拒否の理由も、契約書に期限があるという一点だけだ」


 私は顔を上げました。


 あ。


 そうか。


「全部、書面に使える……!」


「そういうことだ」


 相馬先輩はにやりとしました。


「世の中、声がでかい奴じゃなくて、書面にハンコを押させた奴が勝つんだよ」


 また出ました。


 先輩の口癖。


 でも。


 今回は、その意味がよく分かります。


 口論ではなく。


 事実を整理する。


 そして。


 法律の条文を、一つずつ当てはめる。


 相手が説明できない部分を、書面で明らかにする。


 それが、行政書士の戦い方なのです。


 事務所へ戻ると、片桐所長が契約書を読んでいました。


「どうだった」


「相手は期限まで返還しないと言っています」


 相馬先輩が答えました。


「追加の八万円については、具体的な内訳を説明しませんでした」


「保管状況は」


「第二倉庫から第三倉庫へ移動したことは認めました。ただし、転倒の有無については明確に答えていません」


 所長は頷きました。


「こはる」


「はい!」


「民法を開け」


「はい!」


 私は六法を引き寄せました。


 いよいよ。


 法律による反撃開始です。


「まず、返還だ」


 所長が言いました。


「期限があるから返せない。これは正しいか」


「いいえ!」


 私は勢いよく答えました。


「民法六百六十二条です!」


 ページを開きます。


 寄託者による返還請求。


 私は条文を読みました。


 ――当事者が寄託物の返還の時期を定めたときであっても、寄託者は、いつでもその返還を請求することができる。


「つまり!」


 私は言いました。


「十月三十一日まで預かる約束でも、佐伯さんは九月に返還を請求できるんです!」


「そうだ」


 相馬先輩が頷きました。


「福田は、そこを勘違いしている」


 なるほど。


 保管期限。


 それは、預けた人が絶対に取り戻せない期間ではありません。


 寄託は、基本的に物を預けた人の利益のための契約です。


 だから。


 自分の物が必要になれば、返還を請求できる。


「でも、所長」


「何だ」


「倉庫会社が早期返還で損害を受けた場合は?」


 私は尋ねました。


 現代の民法では、六百六十二条二項があります。


 期限前の返還請求によって受寄者に損害が生じたときは、寄託者に損害賠償を請求できる。


 でも。


 昭和六十三年。


 私は嫌な予感がしました。


 六法を見ます。


 ……。


 ありません。


「二項がない!」


 相馬先輩が顔を上げました。


「何を騒いでる」


「六百六十二条の二項です!」


「そんなものはねえ」


「ですよね!」


「何が『ですよね』だ」


 私は頭を抱えました。


 また未来の民法!


 昭和六十三年の六百六十二条には、現代のような損害賠償の明文規定がありません。


 もっとも、だから早期返還による損害が一切問題にならないという意味ではありません。


 有償寄託で現実に損害が発生した場合には、契約関係や解釈に基づく賠償の問題が生じ得ます。


 でも。


 福田社長の八万円が、当然に認められるわけではない。


「こはる」


 所長が言いました。


「ここを間違えるな」


「はい」


「返還を求める権利と、早期返還による損害の負担は、別の問題だ」


「……なるほど」


「損害があるというなら、その中身を確認する必要がある」


「はい!」


 私はノートに書きました。


 返還請求権がある。


 だからといって、損害の問題が絶対に発生しないわけではない。


 逆に。


 損害を主張している。


 だからといって、預かった物を無条件に返還拒否できるわけでもない。


 ……。


 民法。


 本当に、単純ではありません。


「次だ」


 相馬先輩が言いました。


「保管中の注意義務」


「はい!」


 私は民法六百五十九条を開きました。


 無報酬の受寄者の注意義務。


 無報酬で物を預かった人は、自分の財産に対するのと同一の注意をもって保管する義務を負う。


「つまり、無料で預かった人ですね」


「そうだ」


「たとえば友人から、旅行中だけ荷物を預かるよう頼まれた場合」


「うん」


「お金をもらわないなら、自分の財産と同じように注意して保管する義務がある」


「そうだ」


 ただし。


 無料だから何をしてもよいわけではありません。


 自分の物でも雨ざらしにせず、鍵を掛けて大切に保管している人なら、預かった物についても同じような注意が必要です。


 そして。


 今回の倉庫会社は違います。


「有償です!」


 私は言いました。


「月五千円の保管料を受け取っています!」


「そうだ」


「だから、善管注意義務が問題になります!」


 民法四百条。


 特定物を引き渡すまでの保存義務。


 当時の規定を踏まえれば、報酬を得て保管する受寄者には、善良な管理者の注意が求められます。


 しかも。


 今回の契約書には、はっきりと書かれていました。


 ――受寄者は善良な管理者の注意をもって保管する。


「所長!」


「何だ」


「相手、自分で書いてます!」


「そうだ」


「善管注意義務!」


 相馬先輩が笑いました。


「逃げ道を自分で塞いでるな」


 私は頷きました。


 保管料を受け取る事業者。


 それも、倉庫会社。


 古い時計を保管するなら。


 転倒しないように固定する。


 湿気や雨漏りに注意する。


 移動するときは、破損しないように扱う。


 そうした注意が、具体的な保管状況に応じて求められます。


「ただし」


 所長が言いました。


「こはる、ここも断定するな」


「はい?」


「時計が壊れたと、まだ確認できていない」


「あ」


「原因も確定していない」


「……はい」


「だから、現段階で損害賠償額まで決めるな」


 私は頷きました。


 そのとおりです。


 転倒した可能性がある。


 でも。


 実際に壊れたのか。


 どこが壊れたのか。


 保管中の取扱いが原因なのか。


 まだ調査が必要です。


「なら、まず現物の確認を求めるんですね」


「そうだ」


 所長が頷きました。


「必要なら、時計職人の点検記録を取る」


「はい!」


 私は少し嬉しくなりました。


 民法は、勢いだけで使うものではありません。


 事実を確認する。


 根拠を揃える。


 それから、責任を問う。


 順番が大切なのです。


「最後は八万円だ」


 相馬先輩が言いました。


「はい!」


 私は民法六百六十五条を開きました。


 寄託には、委任に関する費用の規定が準用されます。


 必要な保管費用。


 前払い。


 費用償還。


 そして、支出の日以後の利息。


「保管に費用が必要なら、寄託者に前払いを請求できる場合があります」


「そうだ」


「受寄者が必要な費用を立て替えた場合も、償還を請求できます」


「うん」


「でも!」


 私は八万円の請求書を持ち上げました。


「この紙には、何の費用なのか書いてありません!」


 相馬先輩が頷きました。


「しかも、保管料は既に三万円受け取っている」


「はい!」


「そのほかに何を支出したのか、説明もねえ」


「そうです!」


 私は請求書に鉛筆で印をつけました。


 特別管理料。


 八万円。


 根拠なし。


 内訳なし。


 支出資料なし。


「じゃあ、支払う必要はないんですね!」


 私は言いました。


 しかし。


「そこまで言い切るな」


 所長が止めました。


「え?」


「実際に保管に必要な費用を支出している可能性はある」


「あ……」


「契約上の追加費用条項も、もう一度確認する必要がある」


「はい」


「重要なのは、理由の分からない八万円を、そのまま認める必要はないということだ」


 なるほど。


 寄託者にも義務があります。


 保管してもらう側だから、何でも無料で要求してよいわけではありません。


 必要な費用は、法律に従って負担することがあります。


 ただし。


 それを利用して、根拠のない請求をしてよいわけでもない。


 私は頷きました。


「所長」


「何だ」


「寄託って、預ける側だけが守られる契約じゃないんですね」


「そうだ」


「預かる側にも権利がある」


「うん」


「だからこそ、本当に請求できる費用かどうかを区別する必要がある」


 所長は静かに頷きました。


「そのとおりだ」


 私は少し胸が熱くなりました。


 民法。


 やっぱり面白いです。


 片方だけを無条件に勝たせる法律ではない。


 それぞれの権利と義務を整理して、公平に考える。


 そこに意味があるのです。


 その日の午後。


 私たちは、陽子さんからさらに資料を預かりました。


 保管契約書。


 時計の引渡証。


 保管料三万円の領収書。


 時計を預ける前に撮影した写真。


 そして。


 父親が生前に依頼した、時計修理店の修理伝票。


「これ、重要ですね」


 私が言うと、相馬先輩が頷きました。


「ああ」


 修理伝票には、こう書かれていました。


 ――機械部点検済み。


 ――振り子動作正常。


 ――時報装置正常。


 ――外装に軽微な傷あり。


 日付は、昨年十一月。


「預ける前には動いていた証拠ですね」


「そうだ」


 さらに。


 陽子さんは一枚の紙を取り出しました。


「これも、使えるでしょうか」


 私は受け取りました。


 それは、時計を預けた日の引渡確認書でした。


 時計の状態欄。


 そこには、倉庫会社の担当者が手書きで、


 ――外観良好。破損なし。


 と記載してありました。


 そして。


 担当者の認印。


 私は思わず声を上げました。


「先輩!」


「何だ」


「これです!」


「何がだ」


「引渡し時点で破損がなかったことを、倉庫会社自身が確認しています!」


 相馬先輩が紙を見ました。


 そして。


 にやりと笑いました。


「いいもん持ってきたな」


 私は頷きました。


 写真だけではありません。


 倉庫会社自身の確認書。


 これは大きい。


 少なくとも、預けたときの状態を示す重要な証拠になります。


「こはる」


 片桐所長が言いました。


「これで書けるか」


「はい!」


「何を書く」


「返還請求の内容証明です!」


 所長が頷きました。


「原案を作れ」


「はいっ!」


 私は机に向かいました。


 相手は、契約書を盾にしています。


 でも。


 こちらにも契約書がある。


 領収書がある。


 引渡確認書がある。


 そして、民法がある。


 口約束ではありません。


 感情論でもありません。


 事実と法律。


 それを、一通の書面にまとめるのです。


 三時間後。


 私は原案を所長に提出しました。


「できました!」


 所長が読み始めました。


 そして。


 赤鉛筆を取りました。


 ……嫌な予感。


「ここ」


「はい」


「『貴社は善管注意義務に違反し、時計を破損させた』」


「はい!」


「断定するな」


 赤線。


「あっ……」


「破損の有無も、原因も、まだ確定していない」


「……はい」


「次」


「はい」


「『追加保管料八万円は違法である』」


 赤線。


「ええっ!」


「費用の根拠を確認していない段階だ」


「でも、説明してくれなかったんですよ?」


「だから、法的根拠と内訳の提示を求める」


「……なるほど」


 私は慌てて書き直しました。


 まだ確認できていない事実は、事実として断定しない。


 相手が説明できていない部分は、説明を求める。


 法律上の権利は、条文に沿って明確に主張する。


 そして。


 必要なら弁護士へ引き継ぐ。


「所長」


「何だ」


「難しいですね」


「何が」


「相手がひどいことをしていると、つい全部決めつけたくなります」


 所長は赤鉛筆を置きました。


「だから書面にする」


「え?」


「怒っていると、言わなくていいことまで言う」


 私は黙りました。


「書面なら、一度止まって考えられる」


 なるほど。


 そういうことですか。


 内容証明郵便。


 単に相手を脅すための紙ではありません。


 自分たちの主張を、事実と法律に照らして整理するための武器でもあるのです。


「こはる」


 相馬先輩が言いました。


「もう一度だ」


「はい!」


「今度は、余計な言葉を入れるな」


「分かりました!」


 私は原稿用紙を新しく取り出しました。


 翌朝。


 机の上に、完成した内容証明郵便の原案が置かれました。


 差出人。


 佐伯陽子。


 宛先。


 丸福倉庫株式会社。


 代表取締役 福田。


 私は声に出して読みました。


「通知書」


 相馬先輩が腕を組みます。


 片桐所長は黙って聞いています。


「第一。本通知人は、昭和六十三年五月一日、貴社に対し、木製柱時計一台を同年十月三十一日まで保管することを委託し、同日、当該時計を引き渡した」


「うん」


「第二。本件契約は、民法第六百五十七条に定める寄託契約であり、貴社は当該時計の保管義務及び返還義務を負う」


「続けろ」


「第三。本通知人は、民法第六百六十二条に基づき、本書面をもって本件柱時計の返還を請求する」


 私は息を吸いました。


「本件契約に返還予定日が定められていることは、右返還請求を妨げるものではない」


 相馬先輩が頷きました。


「そこだ」


 私は続けました。


「第四。本件契約は有償寄託であり、貴社は善良な管理者の注意をもって寄託物を保管する義務を負う」


「うん」


「第五。本件柱時計は引渡し時の貴社作成確認書において、外観良好、破損なしと記載されている」


「うん」


「貴社による保管場所変更及び移動中の転倒の可能性が指摘されていることから、現在の保管状況及び破損の有無について、資料を添えて説明されたい」


 私は、所長を見ました。


 所長が小さく頷きました。


「第六。貴社が請求する特別保管管理料八万円については、本件契約書に明確な定めが見当たらず、具体的な支出内容も示されていない」


「うん」


「よって、その契約上又は法律上の根拠、費用の内訳及び支出を裏付ける資料の提示を求める」


 そして。


 最後の部分です。


「第七。本通知人は、既に約定の保管料三万円を支払済みである」


「うん」


「本通知人は、本件柱時計の返還を求めるとともに、貴社から請求されている追加費用について、根拠及び必要性が確認できない段階で、これを当然の債務として承認するものではない」


 相馬先輩が言いました。


「最後だ」


「はい」


 私は読み上げました。


「本書面到達後七日以内に、柱時計の返還可能日時、保管状況及び追加費用の根拠について、書面により回答されたい」


 一呼吸。


「なお、返還拒否又は損傷等の問題が解決しない場合には、弁護士に相談のうえ、返還請求訴訟、損害賠償請求その他適切な法的措置を検討する」


 読み終えました。


 静寂。


 私は、そっと原稿を置きました。


「……どうでしょう」


 相馬先輩が言いました。


「悪くねえ」


「本当ですか!」


「ああ」


 所長も頷きました。


「これでいい」


 私は思わず拳を握りました。


 やった!


「ただし、こはる」


「はい?」


 所長が言いました。


「これで返還が確定するわけではない」


「……はい」


「相手が争えば、裁判になる可能性もある」


「はい」


「内容証明そのものに、相手の財産を差し押さえる力はない」


「はい」


 私は頷きました。


 内容証明郵便は、魔法ではありません。


 送れば必ず勝てるわけでもない。


 でも。


 こちらが何を請求したのか。


 いつ請求したのか。


 どんな理由を示したのか。


 それを証拠として残せます。


 そして相手には。


 争いを続けた場合に、何が問題になるのかを明確に示すことができる。


「所長」


「何だ」


「これ、怖い書面ですね」


「そうか」


「はい」


 私は原案を見つめました。


 罵倒はありません。


 感情的な言葉もありません。


 でも。


 福田社長が反論しようとしたら。


 なぜ期限前に返還できないのか。


 なぜ八万円が必要なのか。


 時計をどう保管していたのか。


 どうして保管場所を変えたのか。


 破損があるなら、その原因は何なのか。


 一つずつ、説明しなければなりません。


 そして。


 説明できなければ、裁判でも不利な事情になり得る。


「こはる」


 相馬先輩が言いました。


「怖いのは民法じゃねえ」


「え?」


「自分が何を引き受けたのか、分かってねえ奴だ」


 私は頷きました。


 預かった。


 保管料を受け取った。


 期限を決めた。


 契約書に署名押印した。


 その一つ一つが。


 法律上の義務につながっていたのです。


 内容証明郵便を発送して三日後。


 事務所の電話が鳴りました。


「はい、片桐行政書士事務所です!」


『……福田です』


 私は固まりました。


 あの倉庫会社の社長です。


「少々お待ちください」


 片桐所長へ電話を代わりました。


「片桐です」


『あの……通知書の件で』


「はい」


『うちの顧問に相談したんですが……』


 私は耳を澄ませました。


 福田の声は、以前とまったく違っていました。


『返還期限があるからって、無条件に返還を拒めるわけじゃないって言われまして』


 所長は静かに聞いています。


『それに、その……』


「はい」


『保管料をもらっている以上、時計をきちんと保管する義務があると』


「そうですね」


『……あの時計、少し壊れてるんです』


 私は息を呑みました。


 やっぱり。


『第三倉庫へ運ぶとき、作業員が倒してしまって……』


 所長の表情がわずかに変わりました。


「損傷の程度は確認されていますか」


『時計のガラスが割れて、振り子の軸も曲がっているみたいで』


 ……。


 ひどい。


 陽子さんの父親の時計。


 大切に預けたもの。


 それを倒して。


 しかも、黙っていた。


『最初は、古い時計だから仕方ないと思ったんですが……』


 福田は言葉を濁しました。


『弁護士にも聞いたら、ちゃんと事情を調べろと。うちの保管方法にも問題があったんじゃないかって』


 所長は短く答えました。


「まず、事実関係を確認することが必要ですね」


『はい……』


 電話の向こうから、深いため息が聞こえました。


『八万円の件も、取り下げます』


 私は顔を上げました。


『実際には、あの金額に見合う特別な支出をしたわけじゃないんです』


 ……。


 やっぱり!


『時計も返します』


 所長は落ち着いた声で言いました。


「その意思があるのでしたら、まず佐伯さんご本人へ書面で回答してください」


『はい』


「修理についても、損傷状況を確認し、必要であればご本人と弁護士を通じて協議されるのがよいでしょう」


『分かりました』


 福田は、しばらく黙っていました。


 そして。


『……裁判には、したくありません』


 その声は、ひどく小さなものでした。


 私は思いました。


 あれほど偉そうだった人が。


 契約書を振りかざしていた人が。


 民法の条文と証拠を突きつけられただけで、ここまで変わる。


 法律の力。


 そして、書面の力。


 それを、目の前で見た気がしました。


「やりましたね!」


 電話が切れるなり、私は立ち上がりました。


「返すって!」


 相馬先輩が鼻で笑いました。


「まだだ」


「え?」


「現物が返ってこなきゃ、終わりじゃねえ」


「あ……」


「それに、壊れてるんだろ」


「はい」


「修理も確認しなきゃな」


 私は頷きました。


 確かに。


 返すと言っただけでは、終わりません。


 現物が戻ること。


 状態を確認すること。


 必要な修理や損害の問題を整理すること。


 そこまでが大切なのです。


「先輩」


「何だ」


「民法って、細かいですね」


「当たり前だ」


「はい?」


「人の財産を扱うんだぞ」


 相馬先輩が言いました。


「細かくなきゃ困るだろ」


 私は、少しだけ笑いました。


 確かに。


 そのとおりです。


 数日後。


 陽子さんから事務所へ電話が入りました。


「時計、戻ってきました!」


 明るい声でした。


「本当ですか!」


「はい!」


 福田社長は、追加費用八万円の請求を撤回。


 返還日時も、陽子さん本人と確認。


 時計は、約束された保管場所で、陽子さんに引き渡されました。


 ただし。


 ガラスは割れ、振り子の一部が曲がっていました。


 そこで陽子さんは、地元の時計職人に点検を依頼しました。


 修理見積書。


 損傷箇所の写真。


 保管前の記録。


 これらを揃え、必要な修理費の負担について弁護士にも相談することにしたのです。


 すると。


 数日後。


 福田社長の側から、修理費の全額を負担する旨の申し出がありました。


 陽子さんは説明を受け、修理方法と費用を確認したうえで了承しました。


 当事者間で確認書が交わされます。


 そこには、福田社長の署名押印。


 ――本件柱時計の保管中に生じた損傷について、修理費用を負担する。


 ――追加保管管理料八万円の請求は撤回する。


 ――本件柱時計について、返還を完了したことを確認する。


 私は、その写しを見せてもらいました。


「……本当に、ハンコが押してありますね」


 相馬先輩が笑いました。


「ほらな」


「また、それですか」


「世の中、声がでかい奴じゃなくて、書面にハンコを押させた奴が勝つんだよ」


 私は思わず笑ってしまいました。


「先輩」


「何だ」


「でも今回、ハンコを押させたのは私たちじゃありませんよね」


「ああ」


「本人同士が、きちんと確認して押したんですよね」


「そうだ」


 先輩は頷きました。


「俺たちは、そのための書類を整えたんだ」


 私は、少し嬉しくなりました。


 行政書士。


 裁判では戦えません。


 紛争の代理交渉もできません。


 でも。


 事実を整理して。


 法律を確認して。


 書面を整える。


 その力で、争いが大きくなる前に解決への道を作ることがある。


 それが。


 この仕事の、面白さなのだと思いました。


 一週間後。


 陽子さんが、事務所を訪れました。


 手には、一枚の写真。


「時計、直りました」


 そう言って、私に見せてくれました。


 新しい家の居間。


 白い壁。


 木の床。


 その中央に。


 古い柱時計が立っていました。


「あ……!」


 私は思わず声を上げました。


 写真で見た、あの時計。


 濃い茶色の木枠。


 丸い文字盤。


 振り子の下の真鍮飾り。


「きれいですね」


「はい」


 陽子さんが微笑みました。


「時計職人さんが、丁寧に直してくれました」


「動くんですか?」


「はい」


 私は胸を撫で下ろしました。


「よかった……!」


 すると。


 陽子さんが少し照れたように言いました。


「昨日、夜九時に鳴ったんです」


「……はい」


「ぼーん、ぼーんって」


 その声が、少し震えました。


「父がいた頃と、同じ音でした」


 私は何も言えませんでした。


「私、泣いてしまって」


 陽子さんは笑いました。


「主人に、どうしたんだって聞かれました」


「……はい」


「でも、本当に嬉しかったんです」


 写真の中。


 古い柱時計は、新しい家の真ん中に立っています。


 まるで。


 ずっとそこにあったかのように。


「ありがとうございました」


 陽子さんが頭を下げました。


「父の時計を、取り戻せました」


 私は慌てて首を振りました。


「そんな!」


「でも、あの書面がなかったら、きっと諦めていました」


 私は少し考えました。


「陽子さん」


「はい?」


「時計を大切にしていたのは、私たちじゃありません」


「……え?」


「お父さんと、陽子さんです」


 私は写真を見ました。


「だから、返ってきてよかったです」


 陽子さんは目元を押さえました。


 そして。


 小さく頷きました。


 陽子さんが帰ったあと。


 私は机の上に六法を広げました。


「相馬先輩」


「何だ」


「今日、寄託が好きになりました」


「また変なこと言ってるな」


「だって!」


 私はノートを開きました。


「寄託って、最初は物を預かるだけの簡単な契約だと思ってたんです」


「うん」


「でも、全然違いました」


 私は指を折りました。


「まず、昭和六十三年では要物契約!」


「そうだ」


「物を実際に受け取って、寄託が成立する!」


「うん」


「それから、無料なら自己の財産と同一の注意!」


「そうだ」


「有料なら善管注意義務!」


「うん」


「預けた人は、返還期限が決まっていても返還を請求できる!」


「そのとおり」


「保管に必要な費用は、前払いや償還の問題になる!」


「そうだな」


 私は大きく頷きました。


 そして。


「でも、先輩」


「何だ」


「一番大切なのは、それじゃない気がします」


 相馬先輩が顔を上げました。


「ほう」


 私は、陽子さんの写真を思い出しました。


 父親の柱時計。


 夜九時の鐘の音。


 家族の記憶。


「寄託って、相手を信じて大切な物を預ける契約なんですね」


 先輩は黙って聞いていました。


「預ける人は、安心して戻ってくると思っている」


「うん」


「だから、預かる人には、ちゃんと守る義務がある」


「そうだな」


 私は続けました。


「そして、預かる人にも必要な費用を負担してもらう権利がある」


「そうだ」


「お互いに、ちゃんと守るべきものがあるんです」


 相馬先輩は少しだけ笑いました。


「まあ、そういうことだ」


 片桐所長が帳簿を閉じました。


「こはる」


「はい」


「今日、何を覚えた」


 私は少し考えました。


 それから答えました。


「預かっただけ、という言い訳では責任を免れないことです」


「うん」


「保管料をもらうなら、それに見合った注意が必要です」


「そうだ」


「そして、預けた本人の返還請求を、期限があるという理由だけで拒むことはできません」


 所長が頷きました。


「それでいい」


 私はノートを開きました。


 今日の教訓。


 ここに、一行だけ書きます。


 ――寄託は「預かったから自由」ではない。預かったからこそ、守り、返す義務がある。


 よし。


 覚えました。


 もう、忘れません。


「ところで、こはる」


 相馬先輩が言いました。


「はい?」


「一つ問題だ」


「来ましたね!」


 私は身構えました。


「友達から、無料で壺を預かった」


「はい」


「お前は、自分の壺を棚の上に置いてる」


「はい」


「友達の壺も、同じ棚に置いた」


「はい」


「ところが、その棚が倒れて壺が割れた」


 私は首をかしげました。


「……それで?」


「お前は責任を負うか?」


 ……。


 私は考えました。


 無料で預かった。


 無償寄託。


 自己の財産に対するのと同一の注意。


 でも。


 自分の壺も同じように保管していた。


 だから責任なし?


「ええと……」


 私は言いました。


「自分の物と同じようにしていたから、必ず免責されるわけではないですよね」


「ほう」


「自分の物を普段どう管理していたか、その棚が危険だと知っていたか、予見できたか。そういう事情も問題になります」


 相馬先輩が頷きました。


「よし」


 私は少し得意になりました。


「じゃあ、私からも問題です!」


「何だ」


「同じ壺を、一か月五千円で預かりました!」


「うん」


「私は壺を、庭に置いておきました!」


「……おい」


「雨が降って、壺が傷みました!」


「おい!」


「さて、責任は?」


 相馬先輩が額を押さえました。


「お前、何で庭に置いた」


「問題です!」


「そんな管理の仕方をするな!」


「つまり!」


 私は笑いました。


「お金をもらって預かるなら、善管注意義務ですね!」


「そうだよ!」


「無償寄託より、厳しい注意が求められる!」


「分かったから!」


 私は得意げに頷きました。


 すると。


 片桐所長が静かに言いました。


「こはる」


「はい!」


「では、最後に一問」


「どうぞ!」


 所長は机の引き出しを開けました。


 中から、小さな木箱を取り出します。


「この箱を、明日まで預かってくれ」


「はい!」


 私は手を伸ばしました。


 でも。


 所長は箱を引き出しに戻しました。


「まだ渡さない」


「え?」


「今、保管を頼んだ。お前は承諾した」


「はい」


「この時点で、昭和六十三年の民法上の寄託契約は成立したか」


 私は止まりました。


 ……。


 危ない!


 さっき勉強したばかりです!


「まだです!」


「なぜだ」


「昭和六十三年の寄託は要物契約だからです!」


「うん」


「約束しただけでは足りません!」


「では?」


「実際に物を受け取る必要があります!」


 所長が頷きました。


「正解だ」


 私は思わず拳を握りました。


 やった!


「ちなみに現代では、合意によって成立する諾成契約になっています!」


 相馬先輩が顔をしかめました。


「また未来か!」


「だって、そこが大改正のポイントなんです!」


「ここは昭和六十三年だ!」


「分かってます!」


 私は笑いました。


 でも。


 改めて思います。


 同じ寄託という契約でも。


 昭和と令和では、成立の仕組みが違う。


 注意義務や返還義務の基本的な考え方は受け継がれている一方で。


 法律が明文化した部分や、契約が成立するタイミングには違いがある。


 その一つ一つに、理由があるのです。


「で、こはる」


 相馬先輩が言いました。


「はい?」


「さっきの箱、預かるんだろ」


「はい!」


 所長が木箱を差し出しました。


 私は両手で受け取りました。


「中身は?」


「古い万年筆だ」


「万年筆?」


「大切なものだから、気をつけてくれ」


「分かりました!」


 私は木箱を見つめました。


 古い木製の箱。


 少し擦れた角。


 丁寧に磨かれた蓋。


 私は机の隅に、そっと置きました。


「これで寄託成立ですね!」


「そうだ」


 所長が頷きました。


 相馬先輩が笑いました。


「じゃあ、注意義務も発生したな」


「はい!」


「無料だぞ」


「分かってます!」


「自己の財産と同一の注意だ」


「はい!」


 私は胸を張りました。


「大切に保管します!」


 すると。


 相馬先輩が言いました。


「ちなみに、こはる」


「はい?」


「お前、自分の万年筆はどこに置いてる?」


「え?」


「どこだ」


「……机の引き出しです」


「鍵は?」


「……ありません」


「たまに机の上に出しっぱなしだろ」


「……はい」


 相馬先輩がにやりとしました。


「大丈夫か?」


「何がですか!」


「自己の財産と同一の注意だぞ」


「だからって、適当に置いていいわけじゃないです!」


 私は慌てて木箱を抱えました。


「これは大切な万年筆なんですから!」


 相馬先輩が吹き出しました。


「分かってるじゃねえか」


「何がですか!」


「預かった物を、どう扱うべきかだよ」


 私は少し黙りました。


 そして。


 木箱を見つめました。


 所長の万年筆。


 陽子さんの柱時計。


 どちらも。


 持ち主にとって、大切なもの。


 人は、大切な物を預けるとき。


 ただ場所を借りているのではありません。


 相手を信じているのです。


 だから。


 預かった側は、その信頼に応えなければならない。


 そして。


 預けた側も、必要な費用や約束をきちんと守る。


 それが、寄託という契約なのだと思いました。


 私は木箱を丁寧に引き出しへしまいました。


 そのとき。


 事務所の古い掛時計が鳴りました。


 ぼーん。


 ぼーん。


 夕方五時。


 私は、陽子さんの家の柱時計を思い出しました。


 今夜もきっと。


 九時になれば、あの時計が鳴るのでしょう。


 亡くなったお父さんが、毎日聞いていた音。


 家族が、これからも聞いていく音。


 それを守れたことが、何より嬉しかったのです。


「相馬先輩!」


「今度は何だ!」


「寄託って、やっぱりいい契約ですね!」


「何がいいんだよ!」


「人の大切なものを、守る契約です!」


 相馬先輩は少しだけ笑いました。


「まあな」


 私はノートの最後の一行を、もう一度読みました。


 ――寄託は「預かったから自由」ではない。預かったからこそ、守り、返す義務がある。


 よし。


 完璧。


 ……と思った、その瞬間。


「こはる!」


「はい!」


「お前、所長の万年筆をどこにしまった?」


「引き出しです!」


「鍵は?」


「……ありません」


「じゃあ、保管場所をもう少し考えろ!」


「はいっ!」


 私は慌てて引き出しを開けました。


 ……なるほど。


 預かるということは。


 ただ持っていればよい、ということではないのです。


 大切に扱う。


 きちんと守る。


 必要になれば返す。


 そして、万一問題が起きたときには、どんな義務を負っていたかが問われる。


 そんな当たり前のことを。


 民法は、きちんと教えてくれていました。


 昭和六十三年。


 片桐行政書士事務所。


 今日も私は、一つ賢くなりました。


 ただし。


 所長の万年筆を無事に返すまでは。


 私自身も、受寄者なのでした。

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