[民法・委任]法理編 こはるノート
人に仕事を任せることと、その人にすべてを好き勝手にさせることは、同じではありません。
お金を預けても。
契約書を渡しても。
「あなたを信用しています」
そう言ったとしても。
相手に自分の財産を奪う権利を与えたわけではないのです。
そして。
信頼して任せた仕事だからこそ、法律は受任者に厳しい義務を課しています。
善管注意義務。
報告義務。
受取物の引渡義務。
金銭を使い込んだ場合の責任。
しかし。
委任契約は、受任者だけが責任を負う契約ではありません。
委任者にも、報酬や必要な費用を負担する義務がある。
さらに。
委任は、当事者の死亡などによって終了することもある。
つまり。
委任とは、単に仕事を頼むだけの契約ではないのです。
昭和六十三年。
夕方の片桐行政書士事務所。
私は机に向かい、一冊のノートを開いていました。
表紙には大きく、
――こはるノート・民法編。
と書いてあります。
「……委任って、怖いですね」
私が呟くと、相馬先輩が新聞から顔を上げました。
「いきなり何だ」
「八十万円ですよ」
「ああ」
「人から預かった八十万円を、勝手に使っちゃったんですよ!」
「黒田の話か」
「そうです!」
私は鉛筆を握りしめました。
黒田義男。
駅前の不動産業者。
杉浦源蔵さんから、貸店舗の賃貸借契約の更新事務を任されていた男です。
更新に伴い、借主から八十万円を受領した。
ところが。
源蔵さんへ送金しなかった。
報告もしなかった。
さらに、調べてみれば。
五十万円を私的な借金の返済に使い、残り三十万円も会社の運転資金に充てていた。
「俺に任せたんだから、どう使おうが俺の自由だ」
黒田は、そう言い張っていました。
でも。
そんな理屈が通るはずはありません。
結局。
源蔵さん本人の名義で、委任契約に関する義務を整理した内容証明郵便を送ったところ。
黒田は態度を一変させました。
金銭管理の状況を報告し。
自分のために使ったことを認め。
八十万円を返還したのです。
「……最初から返してくれればよかったのに」
私が言うと、相馬先輩が鼻で笑いました。
「悪いことをした奴が、最初から素直に認めるとは限らねえだろ」
「そうですけど」
「それより、こはる」
「はい?」
「今回の件で、一番大事だったのは何だ?」
私は考えました。
「八十万円を返す義務です!」
「それだけか?」
「報告義務も!」
「それだけか?」
「善管注意義務も!」
「まだあるだろ」
私は口を開きました。
「……報酬?」
「そうだ」
相馬先輩が頷きます。
「黒田には、契約上、五万円の報酬を請求できる可能性があった」
「はい」
「正当な費用を使っていたなら、その精算も問題になる」
「はい」
「委任ってのは、片方だけが一方的に得する契約じゃねえんだ」
私は頷きました。
そうでした。
相手が悪い人だからといって、その人の正当な権利まで消えるわけではない。
契約の内容。
当事者の義務。
受け取ったお金。
支出した費用。
それらを一つずつ整理しなければならない。
「よし!」
私はノートを開き直しました。
「今日は、委任契約を完全に理解します!」
「昨日もそんなこと言ってなかったか?」
「昨日は現場編です! 今日は法理編です!」
「何の話だ」
……しまった。
また変なことを言ってしまいました。
そこへ、片桐所長が帳簿を閉じました。
「相馬」
「はい」
「付き合ってやれ」
「……所長まで」
よし。
今日も強制勉強会、開催です。
◇
「まず、委任契約とは何か!」
私はノートに大きく書きました。
――民法第六百四十三条。
「委任とは、当事者の一方が法律行為をすることを相手方に委託し、相手方がこれを承諾することで成立する契約です」
「うん」
「仕事を頼む人が委任者」
「そうだ」
「引き受ける人が受任者」
「そのとおり」
私は、源蔵さんと黒田の名前を書きました。
委任者。
杉浦源蔵。
受任者。
黒田義男。
委任した内容。
貸店舗の賃貸借契約更新手続。
「ここで重要なのが、諾成契約という言葉です!」
相馬先輩が眉を上げました。
「説明してみろ」
「当事者の意思表示の合致によって成立する契約です」
「つまり?」
「頼む、引き受ける。それで成立します!」
私は机を指差しました。
「契約書が絶対に必要というわけではありません!」
「そうだ」
諾成契約。
これは、委任の基本です。
たとえば。
「この土地の売買契約を代理して締結してくれないか」
「分かりました」
そうして委任契約が成立することがあります。
もちろん、代理権があるかどうかは別に確認する必要があります。
でも。
委任契約そのものは、原則として口頭でも成立する。
「じゃあ先輩」
「何だ」
「黒田が『契約書がなければ責任はない』と言っていたら?」
「通らねえな」
「ですよね!」
委任契約は、書面がないから当然に無効となる契約ではない。
もっとも。
証拠としては、契約書がある方が強い。
何を頼んだのか。
報酬はいくらか。
どこまで任せたのか。
それらが明確になるからです。
「つまり、契約書は成立の絶対条件ではないけれど、争いになったときの強力な証拠なんですね」
「そういうことだ」
私は二重線を引きました。
そして、もう一つ。
「委任には、法律行為を委託するという特徴があります」
法律行為。
売買契約の締結。
賃貸借契約の更新。
代理による契約の締結。
こうした行為です。
「じゃあ、単に家を掃除してもらうのは?」
相馬先輩が聞きました。
「それは法律行為ではありません」
「うん」
「事務処理を任せる契約として、準委任が問題になる場合があります」
私はノートに書きました。
――民法第六百五十六条。
法律行為でない事務の委託にも、委任の規定が準用される。
「ただし、掃除を頼めば何でも準委任になるわけではありません。仕事の内容によっては請負などにもなります」
「そこまで分かってりゃいい」
相馬先輩が頷きました。
私は得意になって続けました。
「委任と請負の違いも重要です!」
請負。
仕事の完成を約束する契約。
一方、典型的な委任では、一定の法律行為を適切に処理することが中心になります。
「たとえば」
私は言いました。
「建物を完成させる約束なら請負が典型です」
「うん」
「契約の締結などの事務処理を任せるなら委任」
「そうだ」
「委任では、思った結果が得られなかったからといって、直ちに債務不履行になるわけではありません」
相馬先輩が頷きました。
「大事なのは、何を約束し、どう処理したかだ」
「はい!」
そして。
ここで私は気づきました。
「先輩。委任契約と代理権って、同じものじゃないんですよね」
「お、いいところに気づいたな」
私は嬉しくなりました。
「褒めました?」
「まだだ」
「何でですか!」
相馬先輩は六法を指差しました。
「委任は、本人と受任者の間の契約だ」
「はい」
「代理は、代理人の法律行為の効果を本人に帰属させる仕組みだ」
「はい」
「委任契約を結んだから、どんな法律行為でも勝手に代理できると思うなよ」
なるほど。
委任契約があること。
代理権があること。
代理権の範囲がどこまでなのか。
これらは、区別して確認しなければならない。
黒田の場合も。
源蔵さんが賃貸借契約の更新手続を委任し、必要な範囲で代理権を与えていた。
でも。
だからといって、受け取った八十万円を自分の財産にしてよいわけではありません。
「委任と代理、似ているけど違う……」
私はノートに大きく丸をつけました。
これは、試験でも引っかかりそうです。
◇
「次は、受任者の善管注意義務です!」
私はページをめくりました。
――民法第六百四十四条。
受任者は、委任の本旨に従い、善良な管理者の注意をもって、委任事務を処理する義務を負う。
「善管注意義務!」
私は鉛筆を掲げました。
「委任契約の基本中の基本です!」
「うん」
「でも、これって名前が分かりにくいですよね」
「法律用語だからな」
「善良な管理者って、善人って意味じゃないんですよね?」
「当たり前だ」
私はノートに書きました。
善管注意義務。
その人の職業や事務の性質などに応じて、通常期待される注意を尽くす義務。
「黒田は不動産業者でした」
「ああ」
「だから、契約更新の手続や受領金の管理について、専門業者として通常求められる注意を払う必要があります」
「そうだ」
たとえば。
借主から八十万円を受け取った。
その金額を記録する。
委任者に報告する。
契約に従って送金する。
必要な書類を保管する。
こうしたことが、事務の内容に応じて求められます。
「ところが黒田は」
私は言いました。
「八十万円を私的な借金に使いました」
「そうだったな」
「しかも、報告もしなかった」
「ああ」
「善管注意義務違反が問題になるのは当然ですね」
相馬先輩が頷きました。
「そういうことだ」
私は少し考えました。
「じゃあ、黒田が『更新手続は終わったから問題ない』と言っていたのは?」
「それで免責されるわけじゃねえ」
「ですよね!」
委任事務の一部が完了したからといって。
預かった金銭を勝手に使うことが許されるわけではありません。
委任の本旨に従って、事務全体を適切に処理する必要があります。
「なるほど……」
私は鉛筆を止めました。
「結果だけじゃなくて、過程も大事なんですね」
片桐所長が頷きました。
「そうだ」
私は、その言葉をノートの端に書きました。
「それと、復受任者です!」
私は勢いよく言いました。
「……またか」
相馬先輩が顔をしかめました。
「今度は気をつけます!」
私は六法を開きました。
「現代の民法には、六百四十四条の二があります!」
「ここにはねえぞ」
「分かってます!」
そうです。
現代の民法では、復受任者の選任について明文の規定があります。
委任者の許諾。
または、やむを得ない事由。
原則として、これらがなければ復受任者を選任することはできません。
でも。
昭和六十三年には、その条文はまだない。
「じゃあ、昭和の受任者は自由に再委任できたんですか?」
私は尋ねました。
「そんなわけねえだろ」
相馬先輩が即答しました。
「委任は、相手への信頼を基礎にしている。受任者自身が処理すべきという考え方がある」
「はい」
「それに、代理権を与えられた任意代理人の復代理人選任には、民法百四条がある」
私は条文を確認しました。
本人の許諾。
やむを得ない事由。
これらがなければ、任意代理人は原則として復代理人を選任できない。
「ただし」
相馬先輩が言いました。
「単に事務の一部を補助者に手伝わせた場合と、代理権を持つ復代理人を選任した場合は、同じじゃねえぞ」
「あっ」
私は頷きました。
黒田は便利屋に更新事務を任せたと言っていました。
でも。
その人が何をしたのか。
単に書類を運んだのか。
契約内容を判断したのか。
本人の代理人として契約を締結したのか。
そこを区別しなければならない。
「便利屋に任せた、という一言だけで全部違法と決めつけちゃ駄目なんですね」
「そうだ」
「でも、受任者が勝手に重要な判断を丸投げしたなら、問題になり得る」
「ああ」
私は赤線を引きました。
なるほど。
昭和と令和。
条文の置き方は変わっても。
信頼して任せた仕事を、勝手に他人に丸投げしてよいわけではない。
その根本の考え方はつながっているのです。
◇
「さて」
相馬先輩が新聞を畳みました。
「今回の決定打は何だった?」
私は即答しました。
「報告義務です!」
「よし」
私はノートに大きく書きました。
――民法第六百四十五条。
受任者による報告。
「この条文、すごく重要です」
私は言いました。
「委任者が請求したときは、いつでも委任事務の処理状況を報告しなければなりません!」
「うん」
「さらに、委任が終了した後は、遅滞なく経過と結果を報告しなければなりません!」
相馬先輩が頷きました。
「二つの場面だな」
「はい!」
私は指を二本立てました。
委任者から報告を求められたとき。
委任が終了したとき。
「この二つです!」
「じゃあ、源蔵の事件では?」
「源蔵さんが、何度も報告を求めていました」
「うん」
「それなのに、黒田は『忙しい』と言って報告しませんでした」
「そうだ」
「だから報告義務違反が問題になったんです」
私は頷きました。
委任者は、仕事を任せたからといって、黙って待つしかないわけではありません。
何をしているのか。
どこまで進んだのか。
お金はどうなったのか。
それを尋ねることができる。
「先輩」
「何だ」
「黒田は『任せたんだから口を出すな』って言ってましたよね」
「ああ」
「でも、それって逆なんですね」
「どういうことだ?」
「任せたからこそ、報告してもらう権利があるんです」
相馬先輩が少し笑いました。
「そういうことだ」
私は嬉しくなりました。
なるほど。
信頼することと、確認しないことは違う。
委任者が報告を求めるのは、相手を疑っているからとは限りません。
自分の財産や法律関係に関わることだから。
知る必要がある。
だからこそ。
民法は、受任者に報告義務を課しているのです。
「じゃあ、確認問題です!」
私は先輩を見ました。
「委任者から報告請求がなければ、受任者は委任終了後も報告しなくていい!」
「駄目だ」
「正解!」
委任終了後には、請求がなくても遅滞なく経過と結果を報告しなければならない。
「次!」
「まだやるのか」
「委任者が報告を求められるのは、委任終了後だけ!」
「違う」
「正解!」
委任が続いている途中でも、委任者から請求があれば報告義務が生じる。
「先輩、完璧ですね!」
「お前に褒められても嬉しくねえ」
「ひどい!」
でも。
この二つは、もう間違えません。
黒田の顔を思い出せばいい。
「忙しいんだよ!」
そう怒鳴っていた男。
でも。
忙しいというだけで、法律上の報告義務がなくなるわけではないのです。
◇
「次は、受取物の引渡義務!」
私はノートをめくりました。
――民法第六百四十六条。
「この条文が、源蔵さんの八十万円を取り戻す中心になりました」
「そうだな」
委任事務を処理するにあたって受け取った金銭その他の物は、委任者に引き渡さなければならない。
また、収取した果実についても同様です。
さらに。
受任者が委任者のために、自分の名義で取得した権利は、委任者へ移転しなければなりません。
「具体例で考えましょう!」
私はノートに書きました。
AさんがBさんに、貸店舗の契約更新を委任した。
Bさんが、借主から八十万円を受け取った。
「この八十万円は?」
私は相馬先輩に聞きました。
「委任事務で受け取った金だ」
「はい。だから、委任者へ引き渡す義務があります!」
「そうだ」
黒田の場合。
源蔵さんから契約更新を任されていました。
その仕事の中で、八十万円を受け取った。
だから。
「俺が受け取ったんだから俺の金だ」
という理屈は通らない。
私は大きく丸をつけました。
「じゃあ、金銭以外ならどうですか?」
相馬先輩が聞きました。
「たとえば、委任事務で受け取った書類や品物も、引渡義務の対象になり得ます」
「うん」
「それから、委任者のために自己名義で取得した権利も移転しなければならない」
「具体的には?」
私は少し考えました。
「たとえば、委任者のために、受任者が自己名義で第三者に対する金銭債権を取得した場合です」
「うん」
「受任者は、その権利を委任者に移転しなければならない」
相馬先輩が頷きました。
「そうだ」
ここで私は、少し首をかしげました。
「先輩、民法六百四十六条って、かなり当然のことを書いてませんか?」
「当然か?」
「はい。人のために受け取ったものは、その人に渡す。普通ですよね?」
相馬先輩は煙草をくわえました。
「だったら、黒田みたいな奴は出てこねえよ」
「……あ」
「当たり前のことを守らねえ奴がいるから、法律に書いてあるんだ」
私は黙りました。
そうでした。
民法。
難しい言葉がいっぱいあります。
でも。
その根っこには、当たり前の公平さがある。
他人から任されたものを、自分のものにしない。
その当たり前が守られないとき。
法律が必要になるのです。
「そして!」
私は鉛筆を掲げました。
「黒田を青ざめさせた条文!」
相馬先輩が笑いました。
「六百四十七条だな」
「はい!」
私は大きく書きました。
――民法第六百四十七条。
受任者の金銭の消費についての責任。
「委任者に引き渡すべきお金や、委任者の利益のために使うべきお金を、受任者が自分のために消費した場合です」
「うん」
「その消費の日以後の利息を支払わなければなりません」
「そうだ」
「さらに、なお損害があれば、その賠償責任も負います!」
私はノートに線を引きました。
「これ、かなり厳しいですよね」
「ああ」
「使い込んだお金を後から返せば、何もなかったことになるわけじゃない」
「そうだ」
黒田は八十万円を受け取りました。
五十万円を私的債務の返済に使用。
三十万円を自分の会社の運転資金へ充当。
委任事務とは無関係な用途です。
「だから、自己消費の責任が問題になったんですね」
「そういうことだ」
私は少し考えました。
「ただし、先輩」
「何だ」
「八十万円を引き渡していないことと、八十万円全部を自己のために消費したことは、同じじゃないんですよね」
「そこだ」
相馬先輩が頷きました。
「引渡義務と、自己消費による責任は分けて考える」
「はい」
「金を預かったまま送金を忘れていた場合と、自分の借金返済に使った場合では、問題になる事実が違う」
私は書きました。
引渡義務。
委任事務で受け取った金銭を引き渡す義務。
自己消費の責任。
自分のために使った場合、その日以後の利息や損害賠償が問題になる。
「だから内容証明でも、最初から『八十万円全部を横領した』とは書かなかったんですね」
「そうだ」
「証拠がなかったから」
「ああ」
「まず、受領と未送金を指摘した」
「うん」
「自己消費については、その事実がある場合に責任を追及するとした」
「そのとおり」
私は頷きました。
法律の書面は、強い言葉を使えば強くなるわけではない。
証明できる事実から。
確実な義務を導く。
その積み重ねが、相手に反論を難しくさせるのです。
「それに」
片桐所長が言いました。
「内容証明には、もう一つ意味がある」
「何ですか?」
「誰が、いつ、どんな意思表示をしたか。その内容を証拠として残せる」
「はい」
「ただし、内容証明郵便だからといって、書かれた事実が真実だと証明されるわけではない」
私は頷きました。
内容証明は、万能の証拠ではありません。
でも。
請求内容や通知の記録を残せる。
相手が受け取ったことの確認には、配達証明なども役立ちます。
そして。
法律と事実を整理した書面は、相手に自分の立場を理解させる力を持つ。
「所長」
「何だ」
「怖いのは内容証明そのものじゃないんですね」
「そうだ」
「説明できない事実を、相手が残してしまったこと」
所長が頷きました。
「それでいい」
私は、この言葉にも赤線を引きました。
◇
「さて、こはる」
相馬先輩が煙草を灰皿に押しつけました。
「ここまで受任者の義務ばかり勉強したな」
「はい!」
「じゃあ、委任者には義務がねえのか?」
「あります!」
私はノートをめくりました。
――民法第六百四十八条。
受任者の報酬。
「ここ、実はかなり重要です」
「説明してみろ」
「委任契約は、報酬の特約がなければ、原則として報酬を請求できません!」
相馬先輩が頷きました。
「そうだ」
「つまり、仕事を任せたら必ずお金を払わなければならない、というわけではないんです」
たとえば。
親戚に頼んで、契約書を受け取ってもらう。
知人に頼んで、代わりに一定の法律行為をしてもらう。
そうした場合でも、委任契約は成立し得ます。
でも。
報酬の約束がなければ、原則として報酬請求権は発生しない。
「ただし、先輩」
「何だ」
「今回の黒田には、報酬の約束がありました」
「ああ」
「五万円です」
「そうだ」
私は契約書を開きました。
――更新事務一件につき、報酬五万円。
「だから、黒田がきちんと委任事務を履行したなら、五万円の報酬を請求できる可能性があったんですね」
「そういうことだ」
「でも、黒田は最終的に請求しないと申し出ました」
「ああ」
「だから今回は、その五万円を払わずに済んだ」
相馬先輩が頷きました。
ここで、私は一つ疑問を感じました。
「先輩。報酬って、いつ支払うんですか?」
「原則は?」
「……後払いです!」
「正解」
私は大きく書きました。
委任の報酬は、原則として委任事務を履行した後でなければ請求できない。
「ただし、報酬の支払時期について特約があれば、その約束が問題になります」
「うん」
「期間によって報酬を定めた場合にも、別の扱いがあります」
なるほど。
委任契約だから全部先払い。
あるいは全部後払い。
そんな単純な話ではありません。
契約内容によっても違うのです。
「じゃあ、こはる」
相馬先輩が新しい問題を出しました。
「十万円で委任事務を引き受けたとする」
「はい」
「ところが、仕事が半分進んだところで、委任が終了した」
「はい」
「報酬はどうなる?」
私は即答しました。
「既にした履行の割合に応じて、報酬を請求できます!」
……。
相馬先輩が黙りました。
あれ?
「先輩?」
「お前、また何か忘れてねえか?」
「え?」
「今は昭和六十三年だぞ」
……。
あ。
私は固まりました。
「や、やってしまいました……」
「また未来の民法か」
「はい……」
そうです。
現代の民法六百四十八条三項。
そこには、委任事務の履行ができなくなった場合や、委任が中途で終了した場合に、既にした履行の割合に応じて報酬を請求できる規定があります。
でも。
昭和六十三年の条文は、現在と同じではありません。
私は慌てて古い六法を開きました。
「……あっ!」
相馬先輩がにやりとします。
「見つけたか」
「はい!」
当時の民法六百四十八条三項。
そこでは。
委任が、受任者の責めに帰することができない事由によって、履行の途中で終了した場合に、履行の割合に応じた報酬請求が認められていました。
「つまり……」
私は考えました。
「昭和の規定では、受任者の責任で途中終了した場合にまで、当然に割合報酬を請求できるわけではなかったんですね」
「そうだ」
「でも、現代の条文は広がっている……」
私は思わず鉛筆を走らせました。
昭和六十三年。
受任者の責めに帰することができない事由による中途終了が、割合報酬を請求できる要件。
現代。
委任者の責めに帰することができない事由により履行できなくなった場合や、委任が中途で終了した場合について、割合報酬を請求できる規定がある。
「ずいぶん違いますね」
「ああ」
「でも、どうして現代では広げたんでしょう?」
私は自分で考えました。
途中まで仕事をした。
その仕事には、委任者にとって価値がある。
それなのに。
中途終了の理由によっては、既に行った事務処理に対応する報酬を一切請求できない。
それでは、合理的でない場合もある。
「なるほど……」
私は頷きました。
「既に行った仕事に対して、適切な報酬を認める方向に整理されたんですね」
相馬先輩が眉を上げました。
「何の話だ。今はこの六法で仕事しろ」
「はい!」
私は慌てて、昭和の条文に赤線を引き直しました。
危ない。
民法大改正。
またしても、未来人の知識が地雷になりました。
でも。
この違いを覚えておけば。
現代の法律が、どのような問題を解決するために改正されたのか。
少しずつ見えてきます。
「ところで先輩」
「何だ」
「成果報酬って、どうなるんですか?」
「成果報酬?」
「たとえば、契約更新が成立したら五万円、という約束です」
「ああ」
私は勢いよく言いました。
「現代なら、民法六百四十八条の二です!」
相馬先輩が顔をしかめました。
「……また『の二』か」
「すみません!」
「お前、その『の二』って条文が好きなのか?」
「好きで踏んでるわけじゃありません!」
そうです。
現代の民法には、成果等に対する報酬についての規定があります。
成果の引渡しを要する場合は、その引渡しと同時に報酬を支払う。
引渡しを要しない場合は、成果の完成時が基本になる。
ただし、当事者が別の支払時期を定めていれば、その約束も考慮しなければなりません。
でも。
昭和六十三年には、民法六百四十八条の二は存在しません。
「じゃあ、昔は成果報酬の約束ができなかったんですか?」
「そんなわけねえだろ」
相馬先輩が即答しました。
「当事者が、成果に応じた報酬を約束することはできる」
「はい」
「だが、今お前が言った条文はねえ」
私は頷きました。
制度が存在しないこと。
その内容の契約ができないこと。
この二つは、まったく違う。
「条文が新しくできたからといって、それ以前の似た契約が全部無効だったわけじゃないんですね」
「そうだ」
私はノートに書きました。
――現代の条文を昭和に持ち込むな。まず当時の契約と法律を確認する。
うん。
これは、転生者に必要な心得です。
◇
「次は、費用です!」
私は新しいページを開きました。
――民法第六百四十九条。
委任事務に必要な費用の前払請求。
「これ、最初は意外でした」
「何がだ」
「受任者って、費用を前払いしてもらえるんですね」
「ああ」
たとえば。
委任された契約手続のために、遠方へ行かなければならない。
交通費が必要になる。
そうした費用について。
受任者が請求すれば、委任者には必要な費用を前払いする義務がある。
「つまり」
私は言いました。
「受任者が、必ず自分の財布から全部立て替えなければならないわけではないんですね」
「そうだ」
「これは受任者を守る規定です」
私は頷きました。
委任者から仕事を頼まれた。
そのために費用が必要になる。
それなのに。
全部受任者が負担しなければならないとなれば、仕事を引き受けること自体が難しくなる場合があります。
「だから前払請求が認められているんですね」
「そういうことだ」
そして。
次。
――民法第六百五十条。
費用等の償還請求。
「先輩。これは前払いとは違います」
「説明してみろ」
「受任者が、委任事務を処理するために必要な費用を実際に支出した場合です」
「うん」
「その費用と、支出の日以後の利息について、委任者へ償還を請求できます」
「そうだ」
私はノートに書きました。
前払請求。
これから必要になる費用。
償還請求。
既に必要な費用を支出した場合。
「これ、順番が違うんですね!」
「そうだな」
「前払いは、使う前」
「うん」
「償還は、使った後」
「そのとおり」
よし。
覚えました。
ただし。
ここで大切なのは、必要な費用であることです。
「黒田は、私的な借金の返済に五十万円を使いました」
「ああ」
「それは委任事務に必要な費用ですか?」
「違う」
「会社の運転資金三十万円も?」
「委任事務に必要な費用だと認められる事情がなければ、勝手に請求できねえ」
私は頷きました。
だから。
「管理費に使った!」
その一言では駄目なのです。
何に使ったのか。
いつ使ったのか。
なぜ委任事務に必要だったのか。
金額は妥当なのか。
そこを確認する必要があります。
「つまり、先輩」
「何だ」
「本当に必要な交通費なら償還できる。でも、自分の競馬代を管理費と言い張ることはできない」
相馬先輩が吹き出しました。
「当たり前だろ!」
「黒田さんには、その当たり前が分かっていなかったんです!」
「まあな」
私は笑いました。
でも。
その当たり前を法律上説明できること。
それが大事なのだと思います。
さらに民法六百五十条には、必要な債務を受任者が負担した場合の扱いや、委任事務を処理するために受任者が過失なく損害を受けた場合の賠償請求についても規定があります。
受任者にも、法律上守られる利益がある。
だからこそ。
委任契約は、委任者だけを保護する制度ではないのです。
◇
「さて」
片桐所長が口を開きました。
「ここまでで、委任契約の成立と義務は分かったな」
「はい!」
「では、委任はいつまで続く?」
私は少し考えました。
「……仕事が終わるまでですか?」
「それだけか」
「え?」
所長は、机の上に一枚の相談票を置きました。
昨日、電話で相談があった案件です。
――兄に土地の売却を任せていたが、その兄が死亡した。
「あっ!」
私は顔を上げました。
「委任の終了!」
「そうだ」
所長が頷きました。
「今日は、そこまで整理しろ」
「はい!」
私はノートに大きく書きました。
――民法第六百五十一条。
委任の解除。
「委任は、各当事者がいつでも解除できます!」
相馬先輩が頷きました。
「そうだ」
「委任者からでも」
「ああ」
「受任者からでも」
「そうだ」
私は少し驚きました。
「これ、かなり自由ですね」
「委任は信頼関係を基礎にする契約だからな」
相馬先輩が言いました。
「信頼できなくなったのに、永遠に任せ続けなきゃならねえとしたら困るだろ」
「確かに!」
たとえば。
仕事を任せた相手が、約束を守らない。
何度尋ねても報告しない。
お金まで勝手に使ってしまった。
そんな相手に、今後も仕事を任せ続けなければならないとしたら。
あまりにも理不尽です。
「だから、いつでも解除できるんですね」
「そうだ」
ただし。
ここにも注意点があります。
「相手に不利な時期に解除すると、損害賠償が問題になる場合があります」
「うん」
たとえば。
委任された契約手続のために、受任者が遠方まで出かけている。
重要な手続の直前になって、委任者が突然解除した。
それによって、受任者に損害が生じた。
そんな場合です。
「もちろん、やむを得ない事由があれば、損害賠償責任を負わない場合があります」
「そうだ」
私はノートに書きました。
委任はいつでも解除できる。
ただし、解除に伴う損害賠償は別問題。
「じゃあ、先輩」
「何だ」
「黒田みたいにお金を使い込んだ相手を解除する場合は?」
「事情を見なきゃならねえが、重大な義務違反は、解除の正当性を考えるうえで重要になるな」
「はい」
「それと、解除できるからといって、既に生じた債務が全部消えるわけじゃねえぞ」
「あっ!」
私は頷きました。
委任契約が終了する。
でも。
預かった八十万円を返す義務まで消えるわけではない。
既に発生した報酬。
費用の精算。
損害賠償。
そうした問題が残ることもある。
「終了と清算は別なんですね」
「そういうことだ」
私は二重線を引きました。
これは重要です。
契約が終わった。
だから全部なかったことになる。
そんな単純な話ではありません。
「ところで、こはる」
相馬先輩が言いました。
「昭和と現代で、解除の規定にも違いがあるぞ」
「えっ!」
私は六法を開きました。
昭和六十三年の民法六百五十一条二項。
そこでは、相手方に不利な時期に委任を解除した場合の損害賠償が規定されています。
一方、現代の民法では。
それに加えて、委任者が受任者の利益をも目的とする委任を解除した場合についても、一定の損害賠償責任が明文化されています。
ただし、受任者が単に報酬を得る利益だけを持つ場合は、そこから除かれます。
「……また増えてる!」
私は頭を抱えました。
「未来の民法、増築しすぎじゃありませんか!」
「知らねえよ」
「条文が『の二』になったり、項が増えたり!」
「文句を言うな」
私はため息をつきました。
でも。
なぜ改正されたのか考えると、意味があります。
委任は信頼関係を基礎にする契約。
だから、原則としていつでも解除できる。
しかし。
受任者自身にも、報酬以外の独立した利益がある場合があります。
その利益を不当に害してよいわけではない。
「解除の自由と、相手の利益の保護。その両方を考えているんですね」
片桐所長が頷きました。
「そうだ」
私はノートに書きました。
――解除できることと、損害賠償なしで解除できることは違う。
よし。
これは忘れません。
◇
「では、最後です!」
私はノートの次のページを開きました。
――民法第六百五十三条。
委任の終了事由。
「死亡!」
私は書きました。
「破産!」
続けて書きます。
「そして、禁治産宣告!」
相馬先輩が頷きました。
「昭和六十三年の言葉で説明できたな」
「はい!」
私は得意になりました。
昭和の民法では、委任は次のような事情によって終了します。
委任者または受任者の死亡。
委任者または受任者の破産。
受任者が禁治産宣告を受けたこと。
「先輩!」
「何だ」
「ここ、委任者と受任者で違いがあります!」
「言ってみろ」
「死亡は、どちらでも終了!」
「うん」
「破産も、どちらでも終了!」
「そうだ」
「でも、禁治産宣告は、受任者側だけが終了事由になる!」
「正解」
私は拳を握りました。
よし。
覚えました。
でも。
「……どうしてなんでしょう?」
私は首をかしげました。
「委任者が禁治産宣告を受けても、それだけで当然終了するわけじゃないんですよね?」
「そうだ」
「でも、受任者が禁治産宣告を受けたら終了する」
私は考えました。
委任とは。
相手の能力を信頼して、仕事を任せる契約。
誰の能力を信頼しているのか。
……あ。
「受任者です!」
私は声を上げました。
「そうだ」
「仕事を処理するのは、受任者だから!」
相馬先輩が頷きました。
なるほど。
受任者の能力や判断に信頼を置く。
だからこそ。
受任者が禁治産宣告を受けた場合には、法定の終了事由になる。
一方。
委任者側については、禁治産宣告を受けたというだけで、当然に終了するわけではない。
「制度の違いにも、理由があるんですね……」
私は頷きました。
そして。
またしても、時代の壁です。
「現代では、禁治産者ではなく成年被後見人ですよね」
「また未来か」
「だって大事なんです!」
私はノートの端に書きました。
昭和六十三年。
受任者が禁治産宣告を受けたとき。
現代。
受任者が後見開始の審判を受けたとき。
平成十一年の改正で成年後見制度が整備され、平成十二年から施行されました。
昔の禁治産・準禁治産制度は見直され、本人の意思を尊重し、保護の必要性に応じて支援する制度へ移っていきます。
「だから、現代の制度を昭和に持ってきちゃ駄目なんですね」
「そうだ」
相馬先輩が言いました。
「今の法律で仕事しろ」
「はい!」
何度目でしょう。
この台詞。
でも。
転生者にとっては、何度聞いても必要な警告なのです。
「じゃあ、ここで問題です!」
私は先輩を見ました。
「委任者が死亡した場合、委任はどうなりますか?」
「原則として終了する」
「正解!」
「受任者が死亡した場合は?」
「それも終了だ」
「正解!」
「委任者が破産した場合は?」
「終了する」
「正解!」
「受任者が禁治産宣告を受けた場合は?」
「終了する」
「正解!」
「委任者が禁治産宣告を受けた場合は?」
「それだけでは当然終了しねえ」
「大正解!」
私は思わず拍手しました。
「先輩、満点です!」
「……何で俺が受験生になってんだ」
「勉強会ですから!」
「勝手に決めるな!」
私は笑いました。
でも。
ここで、片桐所長が静かに言いました。
「こはる」
「はい?」
「委任が終了したら、受任者は何もしなくていいのか」
「え?」
私は止まりました。
終了。
契約が終わる。
だから、仕事もしなくていい。
……そう考えかけました。
でも。
「違いますね」
私は六法を開きました。
――民法第六百五十四条。
委任の終了後の処分。
「急迫の事情がある場合には、必要な処分をしなければならないんですね!」
「そうだ」
たとえば。
受任者が、ある重要な手続を任されていた。
その途中で、委任者が死亡した。
委任契約は原則として終了する。
でも。
今すぐ必要な措置を取らなければ、委任者の相続人に重大な損害が生じる。
しかも、相続人が自分で対応できるようになるまで時間がかかる。
「そんな場合、受任者は必要な処分をしなければならないことがあるんですね」
「そうだ」
相馬先輩が頷きました。
「契約が終わったからって、急いで守らなきゃならねえものまで放り出していいわけじゃねえ」
私は大きく頷きました。
さらに。
民法六百五十五条。
委任の終了事由を相手方に通知するか、相手方がそれを知っていた場合でなければ、その終了を相手方に対抗できない。
「つまり、終了したという事実だけで、すべての相手に当然に主張できるわけではないんですね」
「そういうことだ」
私は昨日の相談票を思い出しました。
土地の売却を任されていた兄が死亡した事件。
委任の終了。
代理権の消滅。
契約成立の時期。
相手方の認識。
いくつもの問題が絡んでいます。
「所長」
「何だ」
「委任の終了って、単純じゃないですね」
「そうだ」
「死亡したから全部無効、とも言えない」
「うん」
「どの時点で、誰が、どんな権限を持っていたのかを確認しないと」
所長が頷きました。
「そのとおりだ」
私は相談票を見つめました。
なるほど。
終了事由を暗記するだけでは足りない。
その前後に何が起きたのか。
そこまで考えなければ、本当の法律問題は解けないのです。
◇
窓の外は、もう薄暗くなっていました。
私はノートを見直しました。
委任契約。
最初は、ただ仕事を任せる契約だと思っていました。
でも。
杉浦源蔵さんの八十万円事件を経験して、見方が変わりました。
「所長」
「何だ」
「今日の確認問題、お願いします!」
「いいだろう」
所長は帳簿を閉じました。
「委任契約は、書面がなければ成立しないか」
「いいえ! 諾成契約なので、原則として意思表示の合致で成立します!」
「受任者の注意義務は?」
「善管注意義務です!」
「委任者から報告を求められたら?」
「いつでも委任事務の処理状況を報告しなければなりません!」
「委任が終了したら?」
「遅滞なく経過と結果を報告します!」
「委任事務で八十万円を受け取ったら?」
「原則として委任者に引き渡す義務があります!」
「自分のために使ったら?」
「消費の日以後の利息と、なお生じた損害の賠償責任が問題になります!」
よし。
順調です。
所長は続けました。
「委任の報酬は、特約がなければ?」
「原則として請求できません!」
「必要な費用を、これから使う場合は?」
「前払請求です!」
「既に必要な費用を支出した場合は?」
「費用と支出の日以後の利息の償還請求です!」
「委任は解除できるか」
「各当事者が、原則としていつでも解除できます!」
「昭和六十三年の終了事由は?」
「死亡、破産、受任者の禁治産宣告です!」
所長が頷きました。
「よし」
私は思わず拳を握りました。
やった。
委任契約。
かなり整理できました。
「じゃあ、俺からも一問」
相馬先輩が口を挟みました。
「はい!」
「昭和六十三年の民法六百四十四条の二には、何が書いてある?」
「存在しません!」
「よし」
「六百四十八条の二も、存在しません!」
「そうだ」
「当時の報酬の割合請求も、現代の条文とは違います!」
「よし」
「禁治産宣告も忘れません!」
「いいだろう」
相馬先輩が笑いました。
「お前、少しは昭和の法律に慣れてきたな」
「本当ですか!」
「ああ」
「褒めましたね!」
「……調子に乗るな」
私は笑いました。
でも。
この違い。
ただ古い言葉を覚えるだけではありません。
昔の制度を知ると。
どうして現代の法律が改正されたのか。
その理由が見えてきます。
復受任者の選任について、委任の規定として明文化されたこと。
成果報酬について、支払時期などが整理されたこと。
途中終了の場合の割合報酬について、規律が見直されたこと。
禁治産制度が成年後見制度へと変わったこと。
それらは、突然まったく新しい世界を作ったというだけではない。
社会の変化に合わせて。
昔からの考え方を整理し。
分かりにくかった部分を明確にし。
当事者の利益を調整し直してきた結果なのです。
「先輩」
「何だ」
「民法って、昔も今も同じものを守ろうとしているんですね」
「何をだ?」
私は少し考えました。
「人と人との公平です」
相馬先輩が黙りました。
私は続けました。
「任せた人を守る」
「うん」
「任された人も守る」
「ああ」
「でも、信頼を裏切っていいわけじゃない」
片桐所長が頷きました。
「そうだ」
私は、源蔵さんの顔を思い出しました。
八十万円が戻ってきたとき。
通帳を胸に抱えていた姿。
「任せるってのは、そういうことなんじゃな」
あの言葉。
今なら、よく分かります。
自分ではできないことを、誰かに頼む。
そのために必要なのは。
信頼。
でも、信頼だけでは守れないこともある。
だから。
民法は、受任者に義務を課し、委任者にも必要な負担を求めている。
その両方があって初めて。
安心して人に仕事を任せられるのです。
私はノートの最後のページを開きました。
今日の一行。
ここに、委任契約の本質を書きます。
鉛筆の先を整えて。
ゆっくり。
――委任は「信頼して任せる契約」。受任者は善管注意・報告・引渡し、委任者は約束した報酬と必要費用を負担する。
「……できた!」
私はノートを掲げました。
「どうですか!」
相馬先輩が覗き込みました。
「長くねえか?」
「一行です!」
「長い一行だな」
「大事なことが多いんです!」
私は笑いました。
でも。
この一行は、きっと忘れません。
杉浦源蔵さん。
七十二歳。
足が悪くなって、自分で貸店舗の管理ができなくなった。
だから。
二十年来の知り合いに、仕事を任せた。
それなのに。
八十万円を使い込まれてしまった。
でも。
法律は、源蔵さんを見捨てなかった。
委任者には報告を求める権利がある。
受任者には、受け取ったものを引き渡す義務がある。
自己のために金銭を消費すれば、その責任を負う。
その条文と証拠を整理した内容証明郵便が、黒田に自分の責任を認めさせるきっかけになった。
そして。
源蔵さんの八十万円は、戻ってきた。
もちろん。
内容証明郵便だけで、強制的に財産を差し押さえられるわけではありません。
裁判や強制執行が必要になれば、弁護士への引継ぎが必要です。
でも。
相手が争い続ける法的リスクを理解し、自分から履行することもある。
そのための書面を、事実と法律に基づいて作る。
それが。
行政書士の仕事の一つなのです。
「さて、こはる」
相馬先輩が言いました。
「はい?」
「勉強会は終わりか?」
「はい!」
「じゃあ、机を片付けろ」
「え?」
「六法も戻せ」
「はい」
「それから、郵便局へ出す書類を整理しとけ」
「……また仕事ですか?」
「見習いだろ」
私は腕を組みました。
「先輩」
「何だ」
「私、気づいたことがあります」
「嫌な予感がするな」
「私たちの関係も、委任契約みたいですよね!」
「……は?」
相馬先輩が顔をしかめました。
「所長が仕事を任せる!」
「ああ」
「私は受任者!」
「いや、雇用関係の話だろ」
「だから善管注意義務で――」
「こはる」
片桐所長が静かに言いました。
「はい!」
「委任と雇用は、別の契約類型だ」
「……はい」
私は固まりました。
そうでした。
働く人が、仕事を指示される。
それだけで、すべて委任契約になるわけではありません。
雇用。
請負。
委任。
準委任。
どれに当たるのかは、契約の内容によって判断しなければならない。
「……危ない」
私は小さく呟きました。
相馬先輩が笑いました。
「お前、法律を覚えた途端、何でも委任にしたがるな」
「だって便利なんです!」
「便利だからって、何でも当てはめるな!」
「はい……」
私は箒を手に取りました。
でも。
ここで一つだけ、反撃を思いつきました。
「先輩!」
「今度は何だ!」
「もし先輩が、私に仕事を任せたとして!」
「ああ?」
「その仕事で受け取ったお金を、私が勝手に使ったらどうなります?」
「返せ」
「ですよね!」
「当たり前だ」
「じゃあ先輩!」
「何だ!」
「今朝、所長に頼まれて買ってきたお茶菓子!」
相馬先輩の動きが止まりました。
私は机の上を指差しました。
「六個入りだったのに、今は三個しかありません!」
……。
沈黙。
相馬先輩が、ゆっくり私を見ました。
「……何が言いたい」
「先輩、三個食べましたね?」
「……」
「所長のお使いで買ってきたお茶菓子を!」
「……二個だ」
「一個増えましたね!」
「細けえな!」
私は六法を抱えました。
「先輩!」
「何だよ!」
「民法六百四十六条!」
「菓子にまで持ち出すな!」
「受任者は、委任事務で受け取った物を引き渡す義務があります!」
「だから、雇用の話だろ!」
「法律関係は違っても、預かったものを勝手に食べていいわけじゃありません!」
片桐所長が、帳簿から顔を上げました。
「相馬」
「……はい」
「菓子は?」
「……食いました」
「そうか」
所長は頷きました。
「帰りに補充しておけ」
「……はい」
私は思わず吹き出しました。
「先輩!」
「何だ!」
「内容証明、作りましょうか?」
「菓子二個で内容証明を作るな!」
「でも、事実確認書くらいなら!」
「いらねえ!」
私は笑いながら箒を動かしました。
窓の外。
夕暮れの商店街に、家々の明かりが灯っていきます。
あのどこかで。
源蔵さんは、戻ってきた八十万円で店の修理を進めているのでしょう。
もしかしたら。
今度は別の人に、仕事を任せているかもしれません。
人は、一人では生きられません。
誰かに頼る。
誰かを信じる。
誰かに、大切な仕事を任せる。
そのとき。
相手が誠実に仕事をしてくれることを期待する。
そして。
法律は、その期待を単なる願い事で終わらせないために存在しているのです。
委任。
たった二文字。
でも。
そこには、人と人との信頼を守るための、たくさんの約束が詰まっています。
私は箒を止め、ノートの最後の一行をもう一度読みました。
――委任は「信頼して任せる契約」。受任者は善管注意・報告・引渡し、委任者は約束した報酬と必要費用を負担する。
よし。
完璧。
「こはる!」
相馬先輩の声が飛びました。
「はい!」
「ノート見てねえで掃除しろ!」
「今、学習内容を確認してたんです!」
「確認は後だ!」
「先輩!」
「何だ!」
「善管注意義務をもって、丁寧に掃除します!」
「それでいい!」
「ただし!」
「まだあるのか!」
「委任事務を処理するために必要な費用は、前払いを請求できます!」
「だから委任じゃねえだろ!」
「新しい箒が必要です!」
「今持ってるだろ!」
「……あ、本当ですね」
「お前、六百四十九条を悪用しようとしてんじゃねえか!」
私は笑いました。
なるほど。
法律を覚えると、つい使いたくなります。
でも。
法律は、自分の都合のいい結論を出すための道具ではありません。
事実を確かめ。
契約を見て。
当事者それぞれの権利と義務を考える。
そのうえで。
公平な結論を導くためのものなのです。
そして私は、もう一つ覚えました。
相馬先輩にお茶菓子を任せる場合は。
民法六百四十六条を開くより先に。
お菓子の数を数えておいた方が、確実かもしれません。
以下に私の作品へのリンク貼ってます。是非、手に取って頂ければと思います。また、ついでに評価ブックマーク頂ければ幸いです。




