[民法・請負]現場編 「完成していないから一円も払わない」の罠。職人の三か月を踏みにじる悪徳社長と、昭和の判例が突きつける百二十万円の請求書
仕事をしたのに、お金がもらえない。
世の中には、そんな理不尽があります。
汗を流して。
手を傷だらけにして。
約束どおりに働いたのに。
「まだ全部完成していないだろう」
その一言で、報酬を踏み倒される。
では。
百万円分の仕事をしても、最後の一万円分が残っていれば、一円も請求できないのでしょうか。
そして。
注文した人が突然、
「やっぱり、いらなくなった」
と言い出したら。
職人は、そこまでの仕事を全部なかったことにされるのでしょうか。
昭和六十三年。
片桐行政書士事務所。
その日の私は、民法六百三十二条から始まる「請負」という契約の恐ろしさを知ることになります。
仕事を完成させる義務。
報酬を支払う義務。
そして。
完成していない仕事にも、守られるべき価値があるということを。
◇
「……もう、店を畳むしかないんでしょうか」
朝九時。
事務所を訪れた男性は、そう言いました。
五十四歳。
日焼けした顔。
節くれ立った指。
爪の間には、黒い木くずが残っています。
名前は、森田源蔵さん。
町で三十年以上、家具を作ってきた木工職人です。
「店を畳むって……?」
私が聞くと、源蔵さんは膝の上で帽子を握りしめました。
「三か月働いた代金を、一円も払ってもらえないんです」
「三か月?」
「はい」
「いくらですか?」
「百六十万円です」
私は思わず鉛筆を止めました。
百六十万円。
昭和六十三年。
小さな家具工房にとって、決して軽い金額ではありません。
「何を作ったんですか?」
「旅館の食堂に置く、特注の配膳台です」
源蔵さんは、鞄から写真を取り出しました。
木製の大きな台。
美しい木目。
料理を並べる天板。
下には皿や盆を収納する棚。
見事な仕上がりでした。
「立派ですね!」
「ありがとうございます」
源蔵さんが、少しだけ笑いました。
「旅館の新しい食堂に、四台並べる約束だったんです」
「四台?」
「はい。一台四十万円。全部で百六十万円」
なるほど。
私は相談票に書きました。
注文者。
浜名観光株式会社。
請負人。
森田木工所。
仕事内容。
特注配膳台四台の製作・納入。
報酬。
百六十万円。
「それで、何があったんですか?」
源蔵さんの表情が曇りました。
「三台は完成して、もう旅館に納めました」
「三台?」
「はい。納品書にも受領印があります」
「じゃあ、残り一台ですね」
「そうです。ところが……」
源蔵さんは、別の紙を出しました。
浜名観光株式会社。
代表取締役。
黒岩重蔵。
その名前が記された通知書です。
私は読みました。
――当社は、貴殿との配膳台製作請負契約を解除する。
――本件契約は四台全部の完成を目的とするものであり、現時点で仕事は完成していない。
――したがって、当社に報酬支払義務はない。
――既納入の三台についても、契約全体が解除された以上、代金の支払いには応じない。
私は固まりました。
「……え?」
もう一度読みます。
三台は完成。
旅館へ納入済み。
受領印もある。
なのに。
契約全体が完成していないから、一円も払わない?
「ちょっと待ってください!」
私は思わず声を上げました。
「その三台、今どうなっているんですか?」
「旅館の食堂で使われています」
「使ってるんですか!?」
「はい。もう一か月以上になります」
……。
私は通知書を見ました。
次に、源蔵さんを見ました。
そして。
「それ、泥棒みたいな話じゃないですか!」
「こはる」
相馬先輩が新聞から顔を上げました。
「はい!」
「怒るのは後だ」
「でも!」
「まず契約を見ろ」
先輩は手を差し出しました。
「契約書は?」
「あります」
源蔵さんが、一枚の紙を出しました。
――配膳台製作請負契約書。
そこには、四台の仕様と金額。
納入予定日。
材料の負担。
支払条件。
そして、双方の署名押印がありました。
「……これは」
私は読み進めました。
――製作代金は、配膳台四台の納入完了後に支払う。
あ。
四台の納入完了後。
相手は、ここを利用しているんですね。
「この条項があるから、全部完成するまで一円も払わないと言っているんですか?」
「そうです」
源蔵さんが頷きました。
「しかも、社長が言うんです」
「何て?」
「最後の一台を作らせるつもりはない。でも、四台そろっていない以上、報酬は発生しないって」
……。
それは、ずるい。
自分で完成を止めておいて。
完成していないことを理由に、お金を払わない。
そんな理屈が通るなら。
注文者は、いつでも職人を泣き寝入りさせられます。
「大丈夫です!」
私は六法を開きました。
「民法六百三十四条です!」
よし。
請負。
行政書士試験でも重要なテーマです。
現代の民法六百三十四条。
仕事が完成しなかった場合でも。
既に行った仕事のうち、分けられる部分について注文者が利益を受けるなら。
その利益の割合に応じた報酬を請求できる。
今回なら。
三台は完成。
納入済み。
相手は使用中。
しかも一台四十万円と契約書に明記されている。
「源蔵さん! 三台分の百二十万円は、十分に請求できるはずです!」
「本当ですか!」
「はい! 六百三十四条に――」
「こはる」
相馬先輩が低い声で言いました。
「はい?」
「六百三十四条の、どこだ」
「え?」
「今、お前が言ったことが、六百三十四条のどこに書いてある」
「どこって……」
私は六法に目を落としました。
昭和六十三年版。
民法六百三十四条。
そこには。
――仕事の目的物に瑕疵があるときは、注文者は、請負人に対し、相当の期間を定めて、その瑕疵の修補を請求することができる。
……。
ん?
瑕疵?
修補?
私は目をこすりました。
六百三十四条。
間違いありません。
でも。
私の知っている六百三十四条ではありません。
「……あれ?」
相馬先輩が、にやりとしました。
「どうした」
「あの……」
「割合に応じた報酬は、どこに書いてある?」
「それが……」
「ないだろ」
「……ないです」
やってしまいました。
またです。
令和の民法。
昭和の民法。
同じ条文番号でも、中身が違う!
「お前、六法を開く前から結論を決めてたな」
「すみません……」
「昭和六十三年の六百三十四条は、請負人の瑕疵担保責任に関する条文だ」
「はい……」
「今は、そっちじゃねえ」
私は頭を抱えました。
現代なら条文に書いてある。
でも昭和では、まだ書かれていない。
では。
源蔵さんは、報酬を請求できないのでしょうか。
そのとき。
奥の机から、片桐所長が口を開きました。
「相馬」
「はい」
「昭和五十六年だ」
相馬先輩が頷きました。
「ああ。あれですね」
「判例を出せ」
「了解です」
……判例?
私は顔を上げました。
片桐所長は、静かに言いました。
「条文に書いていないからといって、答えがないわけではない」
その言葉に。
私は、思わず背筋を伸ばしました。
◇
「おい、森田さん」
相馬先輩が契約書を指差しました。
「四台は、同じ形ですか?」
「はい。同じ設計です」
「一台だけでも使えますか?」
「もちろんです」
「四台が全部そろわなきゃ、役に立たないような仕組みですか?」
「いいえ。一台ずつ独立しています」
「なるほど」
先輩は頷きました。
「納めた三台は?」
「ちゃんと使えます」
「不具合は?」
「ありません」
「受領印は?」
「ここです」
源蔵さんが納品書を三枚並べました。
一台目。
五月十日。
二台目。
五月二十四日。
三台目。
六月七日。
いずれも。
浜名観光株式会社。
旅館支配人の受領印。
完璧です。
「支払期限を四台の納入完了後とする約束はある」
相馬先輩が言いました。
「はい」
「だから通常なら、四台納めてから報酬を請求する形だった」
「そうですね」
「だが、今回は注文者自身が残りの製作を止めた」
「はい!」
「そこで、契約解除の問題になる」
私は六法をめくりました。
民法六百四十一条。
――請負人が仕事を完成しない間は、注文者は、いつでも損害を賠償して契約の解除をすることができる。
「あっ!」
思わず声が出ました。
「注文者は、完成前ならいつでも解除できる!」
「そうだ」
「でも、損害を賠償しなければならない!」
「そういうことだ」
私は契約書を見ました。
黒岩社長。
彼は、四台目の製作を一方的に取りやめました。
解除できる。
そこまではいい。
でも。
解除したからといって、今までの仕事の価値まで消えるわけではない。
「先輩!」
「何だ」
「六百四十一条は、注文者の自由を認めるだけじゃないんですね!」
「ほう」
「請負人の損害も守っている!」
相馬先輩が頷きました。
「仕事をやめさせる自由はある。だが、やめさせたことで生じる損害まで職人に押しつけるなってことだ」
なるほど。
ただし。
それだけでは、まだ足りません。
三台分の報酬について、どう考えるのか。
「そこで、昭和五十六年の判例だ」
先輩が書棚から判例集を取り出しました。
最高裁判所。
昭和五十六年二月十七日。
建物等の請負契約が、完成前に解除された場合の判断です。
私は判例の要旨を読みました。
工事の内容が分けられる。
既に施工した部分について当事者が利益を受ける。
そのような場合には、特別な事情がない限り、完成済みの部分まで解除することはできず、未施工部分について解除するにとどまる。
「……あっ」
私は息を呑みました。
「これ、今回の事件と似ています!」
「そうだ」
「旅館の配膳台は四台。それぞれ独立して使える」
「うん」
「三台は納品済みで、相手は利益を受けている」
「うん」
「だったら、契約全体が未完成というだけで、三台分の価値をなかったことにはできない!」
「その筋だ」
片桐所長が、静かに口を開きました。
「ただし、その判例は建物等の工事について、債務不履行を理由とする解除が問題になった事件だ」
「はい」
「今回のような、独立した家具の製作と注文者の任意解除に、結論をそのまま機械的に当てはめるな」
私は鉛筆を止めました。
「……はい」
「契約の内容と、実際の引渡し。それに民法六百四十一条を合わせて、筋道を立てるんだ」
私は頷きました。
同じ判例を知っているだけでは、足りない。
どこが似ているのか。
どこが違うのか。
その違いが結論に影響するのか。
そこまで考えるのが、法律実務です。
でも。
今回には強い材料があります。
一台ずつ独立した製品。
一台四十万円という明確な価格。
三台分の受領印。
そして、実際の使用。
「所長」
「何だ」
「これなら、三台分の報酬請求について、かなり強い根拠がありますよね」
「ああ」
「それに、残り一台の製作を止められた損害も、別に検討できます」
「そうだ」
所長は頷きました。
「まずは、その二つを混ぜないことだ」
完成して、納めた三台分の報酬。
解除された四台目についての損害賠償。
似ているようで。
法律上の性質は違う。
私は相談票に、大きく二本の線を引きました。
◇
その日の午後。
私と相馬先輩は、浜名観光株式会社が経営する旅館へ向かいました。
旅館の名前は、
――浜名グランド観光ホテル。
駅前の再整備に合わせ、食堂を改装したばかりの大きな建物です。
玄関には、立派な松。
磨かれたガラス扉。
中からは、食事を終えた観光客たちの笑い声が聞こえていました。
「先輩」
「何だ」
「本当に使ってますね」
「ああ」
ガラス越しに見える食堂。
そこには。
美しい木製配膳台が三台並んでいました。
上には料理の大皿。
下には盆や食器。
従業員が忙しそうに使っています。
「……あれです」
私は呟きました。
源蔵さんが三か月かけて作ったもの。
木目を合わせ。
角を削り。
何度も磨いたもの。
それが。
ちゃんと旅館の役に立っている。
「写真を撮っていいか、支配人に確認しろ」
相馬先輩が言いました。
「はい!」
旅館の担当者に事情を説明すると、食堂内の配膳台を撮影する許可が得られました。
私は持参したカメラで、三台の使用状況を記録しました。
納入した品物の形。
配置。
実際に料理や食器が載せられている状態。
一つずつ、写真に残します。
そこへ。
「何をしている!」
鋭い声が響きました。
振り返ると。
黒い背広を着た男が立っていました。
五十代半ば。
金時計。
太い指。
ぎらついた目。
浜名観光株式会社の社長。
黒岩重蔵です。
「お前ら、森田の差し金か!」
相馬先輩が名刺を差し出しました。
「片桐行政書士事務所の相馬です。資料作成に必要な事実の確認に来ました」
「行政書士?」
黒岩は鼻で笑いました。
「何だ。弁護士じゃねえのか」
「そうです」
「だったら、お前らに何ができる」
……。
また出ました。
この台詞。
民法の相手方は、どうして行政書士と聞くと、こうも嬉しそうになるのでしょうか。
「森田に言っとけ!」
黒岩は腕を組みました。
「契約書を読めとな!」
私は言いました。
「契約書なら拝見しました」
「ほう」
「四台の納入完了後に支払う、とありますね」
「そのとおりだ!」
黒岩が笑いました。
「だから一円も払わねえ!」
「ですが、三台は既に――」
「四台全部が完成してねえだろ!」
怒鳴り声。
私は言葉を止めました。
黒岩は得意げに続けます。
「法律ってのは契約だ。約束を守らなきゃ金はもらえねえ。違うか?」
……。
違いません。
契約は大事です。
でも。
あなたが言うと、何かが決定的に違います。
「四台目の製作を中止させたのは、社長ですよね」
私は聞きました。
「そうだ」
「それなら、森田さんが四台全部を完成できないのは――」
「俺が注文者だ!」
黒岩が机を叩きました。
「いらなくなったからやめさせた。それの何が悪い!」
私は思わず答えました。
「やめさせること自体は、民法六百四十一条で認められています!」
「ほら見ろ!」
「ただし!」
私は一歩前に出ました。
「損害を賠償する必要があります!」
黒岩の笑顔が止まりました。
「……何?」
「請負人が仕事を完成しない間は、注文者は損害を賠償して解除できるんです」
「そんなの知らん!」
「知らないからといって――」
「こはる」
相馬先輩が遮りました。
「はい」
「そこまでだ」
「でも!」
「俺たちは相手方との示談交渉をする立場じゃねえ」
先輩は黒岩を見ました。
「社長のお考えは確認できました。お時間をいただき、ありがとうございました」
「ふん」
黒岩は鼻を鳴らしました。
「裁判でも何でも、好きにしろ」
そして、背中を向けました。
「ただし、覚悟しとけ。俺には顧問弁護士がいるんだぞ!」
……。
顧問弁護士。
なるほど。
それで余裕なのですね。
私は相馬先輩の顔を見ました。
先輩は、まったく動じていません。
「行くぞ、こはる」
「はい……」
旅館を出ると、私は思わず聞きました。
「先輩!」
「何だ」
「悔しくないんですか!」
「何が」
「三台も使ってるのに、一円も払わないなんて!」
「そうだな」
「だったらもっと言ってやれば!」
「言い負かして、金が出てくるのか?」
「……それは」
「出てこねえだろ」
先輩は煙草を一本取り出しました。
「いいか、こはる」
「はい」
「口で勝つことと、金を回収することは違う」
私は黙りました。
「相手が今、何を根拠に踏み倒そうとしているか。それは分かった」
「はい」
「次は、その根拠を紙の上で崩す」
「……内容証明ですか」
「そうだ」
相馬先輩は笑いました。
「世の中、声がでかい奴じゃなくて、書面にハンコを押させた奴が勝つんだよ」
また、その台詞です。
でも。
今日は少しだけ、意味が分かった気がしました。
◇
事務所へ戻ると、片桐所長が写真を確認しました。
一枚目。
配膳台一号。
二枚目。
二号。
三枚目。
三号。
どれも、食堂で使用されています。
「十分な資料だ」
所長が言いました。
「ありがとうございます!」
「次は、四台目だ」
「四台目?」
「どこまで作った」
源蔵さんは、工房で四台目の材料加工に着手していました。
木材を購入し。
天板を切り出し。
脚を組む準備をしていたところ。
突然、製作中止を命じられたのです。
「材料費は?」
「十八万円ほどです」
「他の仕事に使えるか」
「一部は使えます。でも、寸法が特殊で……」
所長が頷きました。
「では、損害額の資料を作ろう」
「はい!」
私は木材の領収書を並べました。
購入日。
金額。
用途。
加工済みの部分。
転用できる材料。
転用できない材料。
さらに、四台目を完成させるために必要だった費用も確認しました。
「所長」
「何だ」
「残り一台は四十万円ですよね」
「ああ」
「なら、四十万円を損害として請求できるんですか?」
片桐所長が首を横に振りました。
「単純にはいかん」
「え?」
「作らずに済んだ分の費用もある」
「あ……」
「残り四十万円をそのまま丸ごと損害にするのではない。解除がなければ得られた利益や、既に生じた費用を整理して、節約できた支出なども考慮する」
なるほど。
請負人の保護。
それは、注文者から取れるだけ取るという話ではありません。
職人が受けた損害を、正しく評価すること。
過大でもなく。
過小でもなく。
その金額を、証拠で示すことなのです。
「こはる」
相馬先輩が言いました。
「損害賠償ってのは、怒った分だけ数字を積み上げるもんじゃねえぞ」
「はい……」
「証明できる金額にしろ」
「分かりました!」
結局。
既に納めた三台分。
百二十万円。
こちらは、契約書の単価と納品書を基礎に報酬を求める。
残り四台目。
こちらは、契約解除に伴う損害について、支出と節約額を精査する。
この二本立てになりました。
「ところで」
私は、ふと気づきました。
「所長。材料は誰が出したんでしょう?」
源蔵さんが答えました。
「全部、うちです」
「木材も?」
「はい」
「金具も?」
「全部です」
私は首をかしげました。
請負。
材料の提供者。
所有権の帰属。
あ。
「先輩!」
「何だ」
「この配膳台って、所有権は誰のものになるんですか?」
相馬先輩が顔を上げました。
「いいところに気づいたな」
「本当ですか!」
「ただし、今は簡単じゃねえぞ」
先輩は六法を閉じました。
「請負で作られた物の所有権は、契約の内容や材料の提供者、それに代金の支払状況などで問題になる」
「はい」
「材料を請負人が全部出して、代金も払われていない。そんな場合は、請負人の所有権が認められることもある」
「じゃあ!」
私は身を乗り出しました。
「三台はまだ源蔵さんのものだから、取り返せるんじゃないですか!」
「早まるな」
「え?」
「今回は、三台とも既に納入している」
「あ……」
「しかも、契約内容によっては所有権の移転時期も違う。材料を出しただけで、いつでも取り戻せると決めつけるな」
私は肩を落としました。
危ない。
また、一つの知識だけで結論を出しそうになりました。
「そのうえで、未払いの代金をどう回収するかが重要なんだ」
「……はい」
片桐所長が頷きました。
「請負は、物を作る契約だ。だが、物の所有権と、報酬を請求できるかどうかは、別の問題になる」
私は、その言葉をノートに書きました。
そして。
いよいよ、内容証明郵便の原案を作ることになりました。
◇
机の上。
便箋。
定規。
六法。
判例集。
そして、数枚の証拠写真。
私は鉛筆を握りました。
「よし……!」
最初の一行を書きます。
――貴社は悪質な契約違反を行っており、その行為は到底許されない。
「駄目だ」
相馬先輩が即座に言いました。
「ええっ!」
「感情を書くな」
「でも、本当のことです!」
「本当かどうかと、通知書に必要かどうかは別だ」
赤線。
消しゴム。
書き直し。
――貴社は、請負契約に基づく報酬支払義務を負っている。
「まだ早い」
「ええっ!」
「まず契約の成立からだ」
「……厳しい」
「当たり前だろ」
先輩は机を指で叩きました。
「何を約束した。何を作った。何を納めた。いつ解除された。それを先に書け」
「はい!」
私は、もう一度整理しました。
請負契約。
民法六百三十二条。
仕事の完成を約束する。
結果に対して報酬を支払う。
有償。
双務。
諾成。
契約書がなくても、当事者の合意で契約は成立し得る。
ただし今回は。
契約書がある。
署名押印もある。
しかも一台ごとの金額が明記されている。
相手自身が、契約の存在を認めている。
「……よし」
私は書き始めました。
――通知書。
――通知人 森田源蔵。
――被通知人 浜名観光株式会社。
第一。
昭和六十三年某月某日、通知人と貴社は、特注配膳台四台の製作及び納入を目的とする請負契約を締結した。
第二。
報酬総額は金百六十万円、一台当たりの契約上の単価は金四十万円と定められた。
第三。
通知人は、契約に従い、配膳台三台を完成させ、各納品日に貴社へ引き渡した。
第四。
貴社は右三台を受領し、現に旅館食堂において使用している。
第五。
貴社は、残る一台が完成する前に、通知人に対し製作中止及び契約解除を通知した。
私は一度、息を吸いました。
「先輩」
「何だ」
「ここから法律ですね」
「そうだ」
私は、六法を見ました。
民法六百三十三条。
報酬の支払時期。
目的物の引渡しと同時。
ただし。
今回の契約には、四台納入完了後という支払時期の定めがありました。
だから。
単純に三台の納入時点で、無条件に支払期限が来ていたと書いてはいけません。
「所長」
「何だ」
「この契約書の支払条件、どう扱いましょう」
片桐所長が言いました。
「注文者が残り一台を不要として解除した。それなのに、四台完成という条件だけを永久に盾にできるか。そこを問題にしろ」
「はい」
「契約上の支払条件を無視せず、解除後の精算について法律上の根拠を示すんだ」
私は頷きました。
条文。
契約書。
解除の事実。
全部を組み合わせます。
そして。
最も重要な部分。
昭和五十六年二月十七日の最高裁判決です。
私は、判例集をもう一度開きました。
既に施工した部分。
分けられること。
その部分に利益があること。
完成前の解除。
今回の三台は、それぞれ独立した配膳台。
しかも、納入済み。
実際に使われている。
この事情を、一つずつ記載します。
――本件配膳台は各台が独立して使用できるものであり、既納入三台と未製作の一台とは、その給付を区分することができる。
――貴社は既納入三台の引渡しを受け、現にその使用利益を享受している。
――最高裁判所昭和五十六年二月十七日判決は、建物等の請負契約における完成前の解除について、既施工部分が可分であり、当事者がその給付に利益を有する場合には、特段の事情のない限り、既施工部分まで解除することはできない旨を判示している。
――本件は右判例と事案を異にする部分があるものの、完成済みの給付と未完成部分とを区別すべきことを裏付ける重要な法理である。
私は鉛筆を置きました。
「……どうでしょう」
片桐所長が黙って読みました。
赤鉛筆。
……。
一行に線を引きました。
「ここだ」
「はい!」
「判例があるから絶対に百二十万円取れる、と断定するな」
「はい」
「今回の契約の内容と、個々の給付が完成している事実を中心に据えろ」
「分かりました」
所長は頷きました。
「続けろ」
私は書きました。
――したがって、貴社が四台目の製作を中止させ、契約を解除したことのみをもって、既納入三台に対応する報酬支払義務が消滅するものではない。
――通知人は、既納入三台に対応する報酬金百二十万円の支払いを請求する。
そして。
民法六百四十一条。
私は続けました。
――また、貴社による完成前の契約解除については、民法第六百四十一条に基づく損害賠償の問題が生じる。
――通知人は、未製作部分について既に支出した費用、解除によって失われた利益及び支出を免れた費用等を精査し、別途、損害額を明らかにする。
最後に。
――本通知書到達後十四日以内に、既納入三台に対応する金百二十万円を支払われたい。
――期限内に支払いがない場合には、弁護士に相談のうえ、訴訟その他の法的手段を検討する。
私は読み終えました。
……。
事務所が静かになりました。
相馬先輩が、ゆっくり煙草を灰皿に押しつけました。
「悪くねえ」
「本当ですか!」
「ああ」
「やった!」
「ただし」
「はい!」
「まだ発送すんな」
「……え?」
「証拠目録を揃えろ」
先輩が机に資料を並べました。
契約書。
三台分の納品書。
受領印。
写真。
四台目の製作中止通知。
材料購入の領収書。
そして。
源蔵さんが記録していた、製作日誌。
「ここまで揃って、やっと書面になる」
「はい!」
私は頷きました。
内容証明郵便そのものが、すべての事実を証明してくれるわけではありません。
郵便局が証明するのは、どんな内容の文書を差し出したかということ。
その文書に書いた事実が真実かどうかは、別です。
だから。
契約書。
納品書。
写真。
領収書。
証拠が必要なのです。
「先輩」
「何だ」
「これ、相手が読んだら嫌でしょうね」
「何でだ」
「反論しなきゃいけないことが、多すぎます」
私は一つずつ数えました。
「三台が完成していない、と言うなら納品書があります」
「うん」
「引渡しを受けていない、と言うなら受領印があります」
「うん」
「使っていない、と言うなら写真があります」
「うん」
「契約していない、と言うなら契約書があります」
「そうだ」
「解除していない、と言うなら、自分で出した解除通知があります」
相馬先輩が笑いました。
「な?」
「はい」
「声の大きさなんて、関係ねえだろ」
私は頷きました。
片桐所長が、静かに言いました。
「相手が逃げられないのは、書面が怖いからじゃない」
「はい」
「自分のしたことを、説明できなくなるからだ」
その言葉が。
妙に胸に残りました。
◇
内容証明郵便を発送して、四日後。
浜名観光株式会社の社長室。
黒岩重蔵は、机の上の封筒を見つめていました。
「……何だ、これは」
最初は笑っていたそうです。
行政書士から届いた書面。
どうせ大したことは書いていない。
そう思ったのでしょう。
ところが。
封筒を開け。
一枚目を読み。
二枚目に目を通したところで。
その表情が変わりました。
「昭和五十六年……?」
判例。
最高裁。
既施工部分。
契約解除。
そして、民法六百四十一条。
黒岩は、机の電話をつかみました。
「先生か! 俺だ!」
相手は、顧問弁護士です。
「森田の件だ! 何か妙な内容証明が来た!」
黒岩は早口で説明しました。
四台のうち三台だけ納めた。
残り一台は不要になったので解除した。
だから一円も払わない。
そういう契約だ。
ところが。
電話の向こうの弁護士は、しばらく黙っていたそうです。
『……社長』
「何だ」
『三台は、現在も使用しているのですね』
「当たり前だ。もう納品されたんだからな」
『一台ずつ独立して使用できるのですか』
「ああ」
『単価も、一台四十万円と契約書に記載されていますね』
「そうだ」
『そして、四台目の製作中止は、御社から申し入れた』
「そうだって言ってるだろ!」
そこで。
弁護士が、静かに答えました。
『それでは、既納入三台について報酬支払義務がないという主張は、かなり難しいと思います』
「……何?」
『それに、民法六百四十一条です』
「それがどうした!」
『注文者が完成前に解除することはできます。しかし、損害賠償の問題は残ります』
「……」
『未製作の一台についても、解除による損害の精算が必要です』
黒岩は、口を閉じました。
『社長。契約書の支払条項だけで、この請求をすべて退けられると考えるのは危険です』
「だ、だって四台完成してねえんだぞ!」
『その四台目を不要だとして中止させたのは、御社でしょう』
「……!」
『現在使用している三台についてまで代金を支払わない理由を、裁判で説明する必要があります』
黒岩は、内容証明を見つめました。
そこには。
怒鳴り声も。
脅迫も。
罵倒もありません。
ただ。
日付。
契約。
引渡し。
受領印。
解除。
条文。
判例。
そして。
百二十万円という数字。
『このまま訴訟になれば、報酬の支払いを命じられる可能性があります。判決等に基づく強制執行の問題にもなり得ます』
「さ、差押えってことか……?」
『支払義務が認められ、必要な手続が進めば、そういう可能性もあります』
黒岩は黙りました。
ホテルの食堂では。
今も三台の配膳台が使われています。
従業員は毎日、料理を並べている。
観光客は何も知らずに食事を楽しんでいる。
その裏で。
家具を作った職人に、一円も払っていない。
……その事実を。
裁判所で、どう説明する?
「……先生」
『はい』
「これ、払わなきゃまずいのか」
『少なくとも、現状の全面拒否を維持するのは勧められません。損害額も含めて、早急に事実を整理すべきです』
「……分かった」
黒岩は受話器を置きました。
そして。
机に置かれた内容証明を、もう一度見ました。
最後の行。
――期限内に支払いがない場合には、弁護士に相談のうえ、訴訟その他の法的手段を検討する。
黒岩は、小さく呟きました。
「……行政書士のくせに」
ですが。
その言葉に、もう以前の余裕はありませんでした。
◇
翌日。
片桐行政書士事務所に、一通の手紙が届きました。
差出人。
浜名観光株式会社。
黒岩重蔵。
私は封筒を開きました。
そして。
「所長!」
「何だ」
「来ました!」
相馬先輩も顔を上げました。
「読め」
「はい!」
――先般の配膳台製作請負契約について、弊社の支払義務を再検討した。
――既に納入された三台について、報酬金百二十万円を支払うことを認める。
――残る一台については、契約解除に伴う損害の精算に応じる意向である。
――今後の手続については、双方の確認のうえ、書面を取り交わしたい。
私は目を見開きました。
「……百二十万円!」
相馬先輩が頷きました。
「ああ」
「認めました!」
「そうだな」
「やりましたね!」
私は思わず立ち上がりました。
でも。
相馬先輩は、落ち着いた顔です。
「まだだ」
「……え?」
「金が入るまで終わりじゃねえ」
「あっ」
「それに、四台目の損害の問題が残ってる」
そうでした。
内容証明を送った。
相手が支払義務を認めた。
でも。
まだお金は動いていません。
「本人に連絡しろ」
片桐所長が言いました。
「はい!」
「相手からの回答内容を伝えて、今後の手続を確認するんだ」
私は頷きました。
源蔵さんへ電話をかけます。
『はい、森田木工所です』
「片桐行政書士事務所の朝比奈です!」
『ああ、お嬢さん』
「浜名観光から返事が来ました!」
『……え?』
「納めた三台分、百二十万円の支払いを認めるそうです!」
電話の向こうが、静かになりました。
『……本当ですか』
「はい!」
『……そうですか』
その声は、震えていました。
『……よかった』
私は受話器を握りしめました。
『あの三台には、うちの若い衆もずっとかかりきりだったんです』
「はい」
『木材代も、金具代も、全部立て替えて……』
「はい」
『給料を払えるか、毎晩考えていました』
胸が、少し苦しくなりました。
百二十万円。
ただの数字ではありません。
工房で働く人たちの生活。
家族の食卓。
職人が積み重ねた時間。
そういうものが、全部つながっているのです。
『……ありがとうございます』
源蔵さんが言いました。
『もう、仕事をしたことまで否定された気分で……』
「そんなことありません」
私は、思わず答えていました。
「源蔵さんの仕事は、ちゃんと残っています」
『……え?』
「旅館に行って、見ました」
私は言いました。
「三台とも、使われていました」
『……』
「お客さんたちのために、毎日役に立っていました」
電話の向こうで。
源蔵さんが、小さく鼻をすすりました。
『……そうですか』
「はい」
『……それなら、作ってよかった』
私は言葉に詰まりました。
作ってよかった。
その言葉を。
百二十万円を踏み倒されそうになった人が、口にする。
仕事って。
きっと、そういうものなのです。
◇
その後。
浜名観光株式会社は、源蔵さん本人に対し、三台分の報酬百二十万円を支払いました。
入金日は、源蔵さんの帳簿にも記録されました。
さらに。
四台目の製作中止に伴う損害については、材料費や加工費、支出を免れた費用などを資料で整理。
源蔵さんは、弁護士にも確認を求めました。
その結果。
双方は損害額を八万円とすることで合意し、残りの精算を終えました。
合計。
百二十八万円。
そして。
支払い完了後、源蔵さんが事務所に持ってきたのは、一通の確認書でした。
――浜名観光株式会社は、既納入三台に対応する請負報酬金百二十万円を支払った。
――また、未完成部分の契約解除に伴う損害として、金八万円を支払った。
――双方は、本件請負契約に関する上記金員の支払及び受領を確認する。
黒岩の署名。
会社の実印。
源蔵さんの署名押印。
私は、その書面を見つめました。
「……先輩」
「何だ」
「最初は一円も払わないって言ってたのに」
「そうだな」
「百二十八万円です」
「ああ」
「すごいですね……」
相馬先輩が笑いました。
「世の中、声がでかい奴じゃなくて――」
「書面にハンコを押させた奴が勝つ!」
私は先回りして言いました。
「おい」
「もう覚えました!」
「まだ最後まで言ってねえだろ!」
私は笑いました。
でも。
この事件で一番大切だったのは、ハンコだけではありません。
どんな仕事を約束したのか。
どこまで完成したのか。
何を引き渡したのか。
相手がどんな利益を受けたのか。
そして。
誰が、なぜ、残りの仕事を中止させたのか。
その一つずつを、正しく確認したことです。
もし。
私が最初に思いついた現代の民法六百三十四条を、そのまま書面に書いていたら。
きっと相手の弁護士に、すぐ指摘されたでしょう。
「そんな条文は、昭和六十三年には存在しない」
そう言われて。
こちらの書面の信用を落としていたかもしれません。
危なかった。
本当に危なかったです。
◇
一週間後。
森田源蔵さんが、もう一度事務所を訪れました。
今度は、少し大きな包みを持っています。
「今日は、お礼を持ってきました」
「お礼?」
私が首をかしげると、源蔵さんは包みを開きました。
中から出てきたのは。
小さな木製の本立てでした。
艶のある木目。
丸く磨かれた角。
そして、底には小さな文字。
――森田木工所。
「余った木で作ったんです」
「わあ……!」
私は思わず声を上げました。
「六法を立てるのに、ちょうどいいでしょう」
「いいんですか!」
「ええ。うちの仕事を信じてくれたお礼です」
私は両手で受け取りました。
木の香り。
すべすべした表面。
丁寧に削られた角。
そこには。
源蔵さんの三十年が詰まっている気がしました。
「大切にします!」
私は言いました。
源蔵さんが笑いました。
「それと、もう一つ」
「何でしょう?」
「若い衆が、辞めずに済みました」
私は顔を上げました。
「……本当ですか」
「はい。今度、駅前の喫茶店から棚の注文が入りましてね」
「新しい仕事!」
「ええ」
源蔵さんは、少し照れたように笑いました。
「また、木を削れます」
その言葉が。
何より嬉しかったのです。
契約。
報酬。
解除。
損害賠償。
法律の教科書では、硬い言葉ばかりです。
でも。
その向こうには。
木を削る音があります。
職人の手があります。
家族を養うための仕事があります。
そして。
また明日も、働けるという安心があります。
◇
夕方。
私は、いただいた本立てに六法を置きました。
ぴったりです。
しかも。
少し斜めになっていて、条文が読みやすい。
「……すごい」
思わず呟くと、相馬先輩がこちらを見ました。
「何が」
「これ、使いやすいんです!」
「職人だからな」
「そうですね」
私は、木の表面を指で撫でました。
「先輩」
「何だ」
「請負って、難しいですね」
「そりゃそうだ」
「仕事を完成させる契約なのに、完成していなくても報酬が問題になる」
「うん」
「注文者は完成前なら解除できるけど、損害賠償が必要になる」
「そうだ」
「しかも、完成した物の所有権が誰にあるかも、場合によって変わる」
「そうだな」
私はため息をつきました。
「民法、ややこしすぎません?」
相馬先輩が笑いました。
「だから面白えんだろ」
「……先輩が言うんですか、それ」
「何だよ」
「いつも私が言うと、怒るくせに!」
「お前は面白がりすぎなんだよ!」
私は笑いました。
片桐所長が、帳簿を閉じました。
「こはる」
「はい」
「今日、何を覚えた」
私は少し考えました。
請負。
民法六百三十二条。
請負人は、仕事を完成させる。
注文者は、その結果に対して報酬を支払う。
でも。
ただ、それだけではない。
仕事の途中で契約が終わることもある。
注文者の事情で、中止になることもある。
そのとき。
既に完成して引き渡された部分の価値を、どう扱うのか。
解除によって生じた損害を、誰が負担するのか。
それが問題になります。
「所長」
「何だ」
「請負って、完成したか、していないかだけで決められないんですね」
「ああ」
「どこまで仕事をして、相手が何を受け取ったのか。それを見なければいけない」
「そうだ」
「それから、注文者が解除できることと、無償で解除できることは違う」
所長が頷きました。
「よし」
私は、ノートを開きました。
そして。
今日の教訓を、一行だけ書きます。
――請負は「完成」が原則。でも、既に渡した仕事の価値も、解除で生じた損害も、消えてなくなるわけじゃない。
「……できました!」
私はノートを掲げました。
相馬先輩が覗き込みます。
「まあ、悪くねえな」
「褒めましたね!」
「気のせいだ」
「またそれですか!」
私は笑いました。
でも。
もう一度、考えました。
もし、民法がなかったら。
契約書の一文を盾にして。
声の大きい注文者が、職人の仕事を奪ってしまうかもしれない。
途中でいらなくなったと言えば。
今までの苦労を、全部なかったことにできるかもしれない。
でも。
民法は、そう簡単にはさせません。
注文者の自由も認める。
請負人の利益も守る。
両方の立場を考える。
その公平さこそ、契約法の大切なところなのだと思います。
「ところで、こはる」
相馬先輩が言いました。
「はい?」
「その本立て、ずいぶん気に入ったみたいだな」
「はい!」
「じゃあ、その本立てを作った森田さんの仕事は、完成してるか?」
「もちろんです!」
「引渡しは?」
「受けました!」
「報酬は?」
「え?」
私は固まりました。
……報酬?
あれ?
「先輩」
「何だ」
「これ、お礼としていただいたものですよね」
「そうだな」
「じゃあ、請負契約じゃないですよね」
「ほう」
相馬先輩が、にやりとしました。
「分かってるじゃねえか」
「当たり前です!」
「じゃあ、請負と贈与の違いは?」
「それは……」
私は少し考えました。
請負は、仕事の完成と報酬の約束。
贈与は、無償で財産を与える契約。
今回の本立ては、源蔵さんが好意でくれたもの。
私たちは、これを作る仕事を発注していません。
「贈与です!」
「正解」
「やった!」
そのとき。
片桐所長が口を開きました。
「では、こはる」
「はい!」
「森田さんに、報酬を払わず本立てをもらったことは、違法か」
「違法じゃありません!」
「なぜだ」
「無償で譲るという合意だからです!」
所長が頷きました。
「そうだ」
私は満足して、本立てを眺めました。
すると。
相馬先輩が、さらに聞きました。
「じゃあ、もし森田さんに注文して、千円で作ってもらう約束だったら?」
「請負契約です!」
「そうだな」
「完成して、引渡しを受けるときに、原則として報酬を支払います!」
「よし」
私は得意げに胸を張りました。
「もう請負は完璧です!」
「ほう?」
相馬先輩が笑いました。
「じゃあ次の問題だ」
「はい!」
「注文者が破産したら、請負人はどうなる?」
「……え?」
「まだ仕事が完成していない場合は?」
「……」
「完成した後なら?」
「……ええっと」
私は固まりました。
民法六百四十二条。
注文者の破産。
請負人と破産管財人による解除。
しかも。
仕事完成後には、請負人からの解除が制限される。
……。
まだありました。
請負の世界。
全然終わっていません。
「先輩!」
「何だ!」
「もう少し余韻に浸らせてください!」
「試験に余韻なんかねえ!」
「ひどい!」
「六法を開け!」
「はいっ!」
私は慌てて、森田さんの本立てから六法を持ち上げました。
ふと。
窓の外を見ます。
夕暮れの商店街。
どこかで、金槌の音が聞こえました。
トン。
トン。
トン。
きっと、誰かが何かを作っているのでしょう。
家を。
家具を。
看板を。
誰かに頼まれた、大切なものを。
その仕事が、正当に評価されますように。
約束した報酬が、きちんと支払われますように。
そして。
途中で仕事が終わってしまっても。
そこまで積み重ねた価値が、むやみに踏みにじられませんように。
そんな願いを込めながら。
私は、民法六百四十二条を開きました。
「……先輩」
「何だ」
「民法って、職人さんの味方でもあるんですね」
相馬先輩は少しだけ笑いました。
「職人だけじゃねえ」
「え?」
「約束を守る奴の味方だ」
私は、しばらくその言葉を考えました。
そして。
小さく頷きました。
昭和六十三年。
民法の条文は、今よりずっと古めかしい。
同じ六百三十四条でも、未来とは中身が違う。
けれど。
働いた人の利益を守ろうとする考え方は、確かにそこにありました。
法律は。
仕事をしていない人から、無理やりお金を取るためのものではありません。
でも。
仕事をさせるだけさせて、結果だけ受け取って。
「完成していないから一円も払わない」
そんな理不尽を、無条件に許すためのものでもないのです。
私はノートの最後の一行を、もう一度読みました。
――請負は「完成」が原則。でも、既に渡した仕事の価値も、解除で生じた損害も、消えてなくなるわけじゃない。
よし。
これなら、忘れません。
そのとき。
「こはる!」
相馬先輩が声を上げました。
「はい!」
「六百四十二条はどうした!」
「今からです!」
「さっきから今からって言ってんだろ!」
「だって先輩!」
「何だ!」
「この本立て、すごくいい匂いなんです!」
「六法を嗅いでる暇があったら条文を読め!」
「木の匂いです!」
「知るか!」
……なるほど。
請負契約で守られる職人の仕事には、法律の教科書だけでは分からない価値もあるようです。
残念ながら。
その価値を味わっているだけでは、行政書士試験には合格できないのでした。
以下に私の作品へのリンク貼ってます。是非、手に取って頂ければと思います。また、ついでに評価ブックマーク頂ければ幸いです。




