[賃貸借の終了]現場編 「三か月前に言ったから出ていけ」の嘘。借家人を追い出す強欲大家と、昭和の借家法が隠していた造作買取請求権の刃
契約が終わることと、生活が終わることは、同じではありません。
たとえば。
あなたが二十年間、住み続けた家。
毎月きちんと家賃を払い、傷んだところを直し、家族との思い出を積み重ねてきた家。
そこへ突然、大家がやって来て。
「三か月前に通知しただろ。明日までに出ていけ」
そう言われたら。
あなたは、出ていかなければならないのでしょうか。
契約書には、期間の定めがありません。
民法には、期間の定めのない建物賃貸借は、解約の申入れから三か月で終了すると書かれています。
ならば、大家の言うとおり?
いいえ。
昭和六十三年。
片桐行政書士事務所。
その日の私は、民法の条文だけを読んでいたら見落としてしまう、とんでもない落とし穴に遭遇することになります。
民法六百十七条。
旧借家法。
正当事由。
そして。
大家が勝ち誇って契約書に書き込んだ、たった一行の特約。
それが、大家自身の首を絞めることになったのです。
◇
「明日までに店を空けろと言われたんです」
午前九時。
片桐行政書士事務所の扉が開きました。
入ってきたのは、五十代半ばの女性。
紺色の割烹着。
指先には、小さな切り傷がいくつもあります。
女性は、大切そうに茶色い封筒を抱えていました。
「お願いします。うちの店を、助けてください」
私は立ち上がりました。
「まず、お座りください!」
女性の名前は、藤田澄江さん。
五十六歳。
駅前商店街で「喫茶こもれび」という小さな喫茶店を営んでいるそうです。
開業して二十一年。
夫婦で始めた店でした。
ところが三年前、ご主人が病気で亡くなった。
それ以来、澄江さんは一人で店を守ってきたといいます。
「夫がね、昔、言っていたんです」
澄江さんは、膝の上で手を握りました。
「この店がある限り、お客さんは帰ってこられるって」
私は頷きました。
商店街の喫茶店。
常連客が新聞を広げる場所。
学校帰りの子供がクリームソーダを飲む場所。
そういう店なのでしょう。
「それが、昨日……」
澄江さんは封筒を開きました。
一枚の紙。
私は受け取りました。
表題は、
――建物賃貸借契約終了及び明渡請求通知書。
差出人は、建物所有者の黒田興産。
代表者、黒田源蔵。
本文には、こうありました。
――本件建物の賃貸借は、期間の定めのない契約である。
――昭和六十三年四月十日、解約の申入れを行った。
――民法第六百十七条により、三か月を経過した時点で契約は終了している。
――したがって、昭和六十三年七月十一日までに建物を明け渡すこと。
――なお、室内に設置した設備、建具及び造作については、契約書の特約に従い、借主の費用で撤去すること。
……。
私は日付を見ました。
七月十日。
つまり。
「明日!?」
「はい……」
澄江さんが頷きます。
「明日までに、店を空っぽにしろって」
「そんな急に……!」
「四月にも手紙は来たんです。でも、私は出ていくつもりはないって返事をしました」
「なるほど」
私は相談票を開きました。
「家賃は、払っていますか?」
「はい。毎月四万五千円。遅れたことは、ほとんどありません」
「ほとんど?」
「去年、主人の法事が重なって、一度だけ二週間遅れました。でも、その月のうちに払いました」
「領収書は?」
「全部取ってあります」
澄江さんが差し出したのは、古い菓子箱でした。
中には、小さな領収書がぎっしり。
昭和四十二年。
昭和四十三年。
昭和四十四年。
……。
二十一年分。
「すごい……」
私は思わず呟きました。
「主人が、捨てるなって言っていたんです」
澄江さんが微笑みます。
「お金を払った証拠は、紙で残せって」
私は胸が熱くなりました。
いいご主人です。
そして。
この菓子箱。
ただの古紙の山ではありません。
二十一年間の約束を守ってきた証拠です。
「まず、契約書を見せてください」
私が尋ねると、澄江さんは別の紙を取り出しました。
昭和四十二年に作成された建物賃貸借契約書。
貸主。
黒田源蔵の父親。
借主。
藤田夫妻。
賃貸借期間。
――期間の定めなし。
そして。
特約事項。
――借主が設置した造作、設備その他の物件については、契約終了時に借主の負担で撤去し、貸主に対して買取りを請求しないものとする。
私は頷きました。
期間の定めがない。
ならば、民法六百十七条。
行政書士試験の定番論点です。
土地は一年。
建物は三か月。
動産は一日。
これ、覚えています!
「澄江さん」
「はい」
「民法六百十七条では、期間の定めのない建物の賃貸借は、解約の申入れから三か月が原則なんです」
澄江さんの顔が曇りました。
「……じゃあ、やっぱり」
「あっ、いえ!」
私は慌てました。
「それだけで結論が出るわけではありません!」
そのとき。
「おい、こはる」
相馬先輩が、新聞を畳みました。
「はい?」
「お前、何の契約を見てる?」
「建物賃貸借です」
「そうだな」
「期間の定めがないので、民法六百十七条です!」
「それで?」
「三か月……」
「で、出ていけってか?」
「……え?」
先輩は立ち上がりました。
「民法だけで借家人を追い出せるなら、世の中の大家は苦労しねえよ」
私は固まりました。
その言葉。
何だか、嫌な予感がします。
「こはる」
片桐所長が、奥の机から声をかけました。
「はい」
「借家法を開け」
「借家法?」
「そうだ」
私は六法を開きました。
借地借家法……。
あれ?
探しても、ありません。
「所長」
「何だ」
「借地借家法が……」
「そんな名前の法律は、まだない」
……。
しまった。
またです。
未来の法律!
現代の私は、借地借家法を勉強していました。
建物賃貸借。
正当事由。
更新拒絶。
建物買取請求権。
造作買取請求権。
全部、借地借家法で覚えています。
でも。
今は昭和六十三年。
借地借家法が制定されるのは、平成三年。
施行されるのは、平成四年。
この時代には、まだ存在しないのです。
「お前、また妙な条文を探してるのか」
相馬先輩が笑いました。
「い、いえ!」
「借家法はこっちだ」
先輩が六法の別のページを開きます。
――借家法。
古い法律。
そして、そこに書かれていたのは。
民法の三か月とは違う数字でした。
「……六か月?」
「そうだ」
「でも、民法六百十七条には三か月って……」
「借家法第三条だ」
私は読みました。
――賃貸人ノ解約申入ハ六月前ニ之ヲ為スコトヲ要ス。
「……六か月!」
「そうだ」
相馬先輩は煙草を取り出しました。
「しかも、それだけじゃねえ」
次に示されたのは、借家法第一条ノ二。
私は目を走らせました。
建物の賃貸人は、正当の事由がなければ、賃貸借の更新を拒絶したり、解約を申し入れたりできない。
つまり。
単に六か月待てばいいという話でもない。
「所長!」
「何だ」
「大家が解約するには、正当事由が必要なんですね!」
「そうだ」
「しかも、六か月!」
「そうだ」
「じゃあ、明日までに出ていけっていうのは……」
片桐所長が静かに答えました。
「この通知だけでは、通らん」
私は思わず拳を握りました。
よし。
反撃開始です。
◇
「何だ。行政書士だと?」
その日の午後。
黒田興産の事務所。
駅前通りにある、二階建ての建物でした。
応接室の革張りの椅子に、黒田源蔵がふんぞり返っています。
六十二歳。
金の腕時計。
太い指には、大きな指輪。
「藤田の婆さんが、そんなところに泣きついたのか」
うわ。
出ました。
悪徳大家の典型的な第一声。
相馬先輩は、淡々と頭を下げました。
「片桐行政書士事務所の相馬です。本日は書類作成に必要な事実関係の確認に伺いました」
「弁護士じゃねえのか」
「行政書士です」
「じゃあ、裁判もできねえだろ」
黒田は笑いました。
「契約書に書いてある。民法にも書いてある。こっちは三か月前に通知した。それで終わりだ」
私は口を開きました。
「でも、借家法では――」
「お嬢ちゃん」
黒田が遮りました。
「俺は三十年も不動産をやってるんだ」
「……はい」
「民法くらい知ってるよ」
黒田は机を指で叩きました。
「土地は一年、建物は三か月、動産は一日。そうだろ?」
……。
覚えてる。
この人。
妙に試験向きのところだけ、正確に覚えています。
「そのとおりです」
相馬先輩が答えました。
私は驚きました。
「先輩?」
「ただし、民法の一般原則です」
黒田の眉が動きました。
「何?」
「建物については、借家法の特別規定があります」
「借家法?」
「はい」
相馬先輩は、それ以上説明しませんでした。
代わりに質問します。
「今回、建物を明け渡してもらう必要がある理由を、確認させてください」
「決まってるだろ。建て替えるんだよ」
「建て替え?」
「あの辺りは、これから駅前開発が進む。古い喫茶店なんか置いておけねえ」
「建物が危険な状態なのですか」
「古いんだよ」
「危険性を示す調査結果はありますか」
「そんなものはねえ」
「建築計画は?」
「これからだ」
「建築確認申請は?」
「まだだ」
「では、現在は具体的な建替計画が確定していないということですね」
黒田は顔をしかめました。
「何が言いたい」
「事実を確認しているだけです」
相馬先輩の声は、落ち着いていました。
……なるほど。
ここで言い争わない。
必要な事実を、一つずつ確かめる。
相手が主張する正当事由。
その裏付けが、どこまであるのか。
確認しているのです。
「それとな」
黒田が鼻で笑いました。
「藤田は、去年、家賃を遅らせたんだ」
「はい」
「だから契約違反だ。解除だよ、解除」
私は顔を上げました。
「解除?」
「そうだ。賃貸借契約には、家賃を払う義務があるだろ」
それは、そのとおりです。
でも。
「その遅れた賃料は、既に支払われています」
相馬先輩が答えました。
「知ってるよ」
「現在の滞納はありませんね」
「ああ」
「これまでに、賃料の不払いを理由とする解除通知をしたことは?」
「ねえよ」
黒田は苛立ったように腕を組みました。
「一度でも遅れたら、契約違反だろうが!」
私は思わず言い返しました。
「契約違反があれば、何でも解除できるわけではありません!」
「何だと?」
「賃貸借は、当事者同士の信頼関係を基礎とする継続的な契約です。小さな不履行が一度あっただけで、当然に解除できるわけではありません!」
黒田が目を細めました。
「お嬢ちゃん、法律を語るのが好きらしいな」
「好きです!」
「こはる」
先輩が低い声を出しました。
「あっ」
しまった。
私は口を閉じました。
「本日は事実の確認です」
相馬先輩が続けました。
「解除を主張されるのであれば、その根拠となる事情も書面で整理していただければと思います」
「何で俺がそんなことしなきゃいけねえ」
「後日の誤解を防ぐためです」
黒田は舌打ちしました。
「もういい。帰ってくれ」
そして。
最後に、こう言いました。
「何を書いてきても無駄だ。契約書には特約があるんだよ」
「特約?」
相馬先輩が尋ねました。
「店を出るときは、造作を全部撤去する。買取り請求もしない」
黒田は笑いました。
「藤田の婆さん、内装に随分金をかけてたらしいがな。全部取り外して、自分の金で片付けてもらう」
私は息を呑みました。
あの店。
二十一年間。
少しずつ手を入れてきた店。
それを全部撤去?
「おまけに、撤去が遅れたら損害金も請求する」
黒田は満足そうに頷きました。
「まあ、年寄りには気の毒だがな。契約ってのは、そういうもんだ」
そのとき。
相馬先輩の目が、わずかに細くなりました。
「なるほど」
「分かったか」
「はい」
先輩は手帳を閉じました。
「その特約についても、確認できました」
黒田は笑いました。
「何だ。もう諦めたか」
「いいえ」
相馬先輩が、静かに答えます。
「必要な材料が揃っただけです」
……。
私は横顔を見ました。
この顔。
知っています。
相馬先輩が、相手の急所を見つけたときの顔です。
◇
「先輩!」
黒田興産を出て、商店街を歩きながら、私は声を上げました。
「何で、造作の話をもっと突っ込まなかったんですか!」
「何を突っ込むんだよ」
「エアコンとか、畳とか、建具とか!」
「相手の言い分は聞いただろ」
「でも、契約書には買取り請求しないって書いてあります!」
「書いてあるな」
「現代の借地借家法だと、造作買取請求権を排除する特約は有効ですよね!」
相馬先輩が足を止めました。
「……また何だ、その借地借家法ってのは」
「あ」
しまった。
また未来です。
「い、いえ。その……」
「お前、さっきから存在しない法律を持ち出してねえか?」
「気のせいです!」
「便利な気のせいだな」
先輩は煙草に火をつけました。
「こはる」
「はい」
「今は昭和六十三年だ」
「知ってます!」
「だったら、今の借家法を読め」
そして。
事務所へ戻った私は、驚くべきことを知ります。
「……無効?」
私は六法を見つめました。
「はい?」
「所長!」
「何だ」
「旧借家法では、造作買取請求権を排除する特約が無効になるんですか!?」
「そうだ」
「えええっ!?」
片桐所長が、私の前に古い法律書を置きました。
借家法第五条。
造作買取請求権。
そして。
借家法第六条。
賃借人に不利な特約を制限する規定。
「つまり……」
私は震える声で言いました。
「大家の承諾を得て付加した造作で、法律上の要件を満たすものなら……」
「うん」
「契約書に『買取り請求しない』って書いてあっても……」
「うん」
「その特約では、請求権を奪えないんですか!?」
「そうだ」
……。
何ですか、それ。
現代と逆じゃないですか!
現代の借地借家法では、造作買取請求権は原則として特約で排除できます。
でも、昭和六十三年。
旧借家法では、その排除が許されない。
「未来の法律より、昔の法律の方が強く借家人を守ってる部分もあるんですね……」
私は呟きました。
「何だって?」
「いえ! 何でもありません!」
危ない。
口が滑りました。
でも。
ここは本当に重要です。
法律が新しくなれば、必ず権利が増えるわけではない。
制度の見直しによって、特約の自由が広がることもある。
昔と今。
条文の名前だけでなく、効力まで変わることがあるのです。
「ただし」
片桐所長が言いました。
「まだ喜ぶな」
「え?」
「店にあるものが、全部造作に当たるわけではない」
「あ……」
「所有者は誰か。貸主の同意があったか。建物にどう付加され、どんな便益を与えているか」
所長は指を折りました。
「それを確認しろ」
「はい!」
「勝手に持ち込んだ冷蔵庫や、ただ置いてある机まで、何でも買い取らせることはできん」
「分かりました!」
「それと、もう一つ」
「はい」
「そもそも、まだ契約が終了していない可能性が高い」
……。
確かに。
私たちは、一つの大きな問題を抱えていました。
造作買取請求権は、賃貸借が終了する場面で問題になる権利です。
しかし。
今回、黒田の解約申入れは、六か月という期間すら満たしていない。
正当事由も疑わしい。
「だったら、今すぐ買い取れって請求するのは……」
「順番が違う」
相馬先輩が言いました。
「まず、追い出せるかどうかだ」
「はい」
「造作の問題は、その次」
なるほど。
法律問題には、順番があります。
契約は終わったのか。
終わるとすれば、どんな理由か。
その終了に伴って、どんな権利が発生するのか。
そこを混同すると、強い書面にはならないのです。
◇
翌日。
私は相馬先輩と一緒に、喫茶こもれびへ向かいました。
事務所で依頼された書類を作成するための、現地確認です。
店の扉を開けると。
カラン。
小さな鈴が鳴りました。
「いらっしゃいませ!」
澄江さんの明るい声。
店の中には、コーヒーの香りが漂っています。
木製のカウンター。
古い丸椅子。
窓際には、鉢植えの観葉植物。
壁には、二十一年前の開店記念写真。
若い頃の澄江さんと、ご主人が笑っていました。
「いい店ですね」
私が言うと、澄江さんは嬉しそうに微笑みました。
「主人が内装を考えたんです」
「ご主人が?」
「ええ」
澄江さんは、壁の木製棚を指差しました。
「あの棚も、主人が設計して、大工さんに取り付けてもらいました」
「大家さんの承諾は?」
「取りましたよ」
澄江さんは奥から、古い書類を持ってきました。
――内装工事承諾書。
昭和四十二年。
貸主の署名押印。
そこには、木製建具、畳敷きの小上がり、固定式の収納棚などの設置が記載されていました。
「これだ……!」
私は思わず声を上げました。
相馬先輩が書類を見ます。
「保存状態がいいな」
「主人が、こういうものは大切にしていたので」
「工事代金の領収書はありますか」
「はい」
また箱が出てきました。
今度は、工事関係の書類。
施工業者の名前。
工事内容。
代金。
取付年月日。
……。
これは。
証拠の宝箱です。
「所長の言ったとおりですね」
私が小声で言うと、相馬先輩が頷きました。
「そうだな」
「これなら造作に当たるものを具体的に調べられます!」
「まだ決めつけるなよ」
「はい!」
私は店内を見回しました。
畳敷きの小上がり。
建物に固定された収納棚。
貸主の承諾を得て取り付けた建具。
ただし、どれも購入時の値段がそのまま買取価格になるわけではありません。
問題になるのは、現在の価値。
つまり時価です。
「澄江さん」
「はい」
「これらの設備について、今の価値を調べてもよろしいですか?」
「もちろんです」
「ただし、法律上の造作に当たるかどうかは、一つずつ確認する必要があります」
澄江さんは頷きました。
「分かりました」
それから。
少し寂しそうに、小上がりを見つめました。
「主人がね、ここを作った理由があるんです」
「理由?」
「足の悪いお客さんも、ゆっくり座れるようにって」
私は黙りました。
「昔、この近くに一人暮らしのおじいさんがいて」
「はい」
「毎日、ここでお茶を飲んでいたんです。あの畳に座るのが楽しみだったって」
澄江さんは、小さく笑いました。
「その方はもう亡くなりましたけどね」
私は畳を見ました。
少し色あせています。
でも、丁寧に手入れされていました。
これは。
ただの設備ではありません。
二十一年分の記憶が染み込んだ場所です。
もちろん。
法律は、思い出に値段をつけることはできません。
けれど。
大家の承諾を得て、借主が費用をかけて設置した造作。
その財産的価値まで、大家が一方的に奪ってよいわけではない。
そう考えると。
旧借家法の造作買取請求権が、急に温かい制度に思えてきました。
◇
事務所へ戻ると。
片桐所長は、机に三枚の紙を並べました。
「こはる」
「はい!」
「今回、黒田が主張している契約終了の理由を整理しろ」
「はい!」
私は一枚目に書きました。
――解約の申入れ。
「期間の定めがない建物賃貸借なので、黒田は民法六百十七条を根拠に三か月で契約が終了したと主張しています」
「うん」
「でも、昭和六十三年の借家法第三条では、賃貸人の解約申入れは六か月前に行う必要があります」
「そうだ」
「さらに、借家法第一条ノ二により正当事由が必要です」
私は続けました。
「今回、建替計画は具体化していません。建物の危険性を示す資料もなく、澄江さんには営業を継続する必要があります」
「うん」
「だから、少なくとも黒田の主張どおりに、三か月で当然終了したとはいえません」
所長が頷きました。
「次」
二枚目。
――債務不履行による解除。
「黒田は、一度家賃が遅れたことを理由に、解除も主張しています」
「うん」
「でも、遅れた賃料は既に支払われています。現在の滞納はありません」
「それで?」
「賃貸借のような継続的契約では、判例上、信頼関係が破壊されたといえるかが重要です」
相馬先輩が頷きます。
「そうだ」
「一度、二週間遅れただけで、その後支払われている。これだけで解除が認められるとは考えにくいです」
所長は短く言いました。
「よし」
三枚目。
――造作買取請求権。
「契約書には、買取りを請求しない特約があります」
「うん」
「でも昭和六十三年の旧借家法では、造作買取請求権を排除する賃借人に不利な特約は無効です」
「そうだ」
「しかも、澄江さんは貸主の承諾書と工事関係の証拠を持っています」
私は深呼吸しました。
「したがって、将来、法律上の要件を満たす形で賃貸借が終了する場合には、造作の時価買取請求が問題になります」
片桐所長が頷きました。
「それでいい」
私は嬉しくなりました。
よし。
今回、かなり整理できています!
ところが。
「まだ一つ足りねえな」
相馬先輩が言いました。
「え?」
「契約が終わる理由は、解約申入れと解除だけか?」
私は首をかしげました。
「いえ……」
期間満了。
解約の申入れ。
解除。
そして。
目的物の全部滅失。
「あ、全部滅失!」
「そうだ」
「でも今回は、建物が残っています」
「そうだな」
「黒田は古いと言っていますけど、現に営業できています」
「そこを混同するな」
私は頷きました。
たとえば、火災で建物が完全に焼失してしまい、賃貸借の目的を達成できなくなった場合。
それは、賃借物が全部滅失した場合の問題です。
しかし。
古い。
建て替えたい。
将来壊す予定だ。
それだけでは、建物が既になくなったことにはならない。
「……所長」
「何だ」
「現代の民法には、六百十六条の二がありますよね」
所長が顔を上げました。
「六百十六条の二?」
あ。
しまった!
「い、いえ!」
私は慌てて六法を閉じました。
現代では、賃借物の全部滅失等による賃貸借の終了が民法六百十六条の二に明文化されています。
でも。
昭和六十三年には、まだその条文がありません。
全部滅失によって目的を達成できなくなれば賃貸借が終了するという考え方は、当時から認められていました。
ただし。
現代の条文番号を、そのまま使うことはできない。
「こはる」
相馬先輩が呆れた声を出しました。
「はい……」
「お前、六法を開くたびに違う時代の法律を探してねえか?」
「気のせいです!」
「気のせい、多すぎだろ」
私は笑ってごまかしました。
危ない。
本当に、民法改正は転生者泣かせです。
◇
夕方。
片桐所長は、私が作った原案を受け取りました。
赤鉛筆を持ちます。
……。
来ました。
恐怖の赤入れです。
「まず、ここ」
「はい!」
「『本件賃貸借は永久に終了しない』」
赤線。
「ええっ!」
「そんなことはない」
「でも、正当事由がないんですよ?」
「今の事情では認められにくいというだけだ。将来、事情が変わることもある」
「……はい」
「次」
「はい」
「『黒田は必ず裁判で敗訴する』」
赤線。
「これもですか!?」
「必ず、などと書くな」
所長は落ち着いた声で言いました。
「事実と法的根拠を書け。裁判の結果を決めつけるな」
「はい……」
私は肩を落としました。
またやってしまいました。
勢いで書くと、どうしても強い言葉を使いたくなります。
でも。
法律の書面は、脅迫状ではありません。
根拠のある主張を、相手に正確に伝えるものです。
「それから、ここ」
「はい」
「『造作買取請求権を直ちに行使する』」
赤線。
「……あ」
私は気づきました。
「今は、まだ賃貸借が終了していないから……」
「そうだ」
「将来の終了時に問題になる権利として記載するべきですね」
「そうだ」
所長は頷きました。
「そして」
「はい」
「相手に求めることを、はっきり書け」
私は鉛筆を握りました。
黒田に何を求めるのか。
第一に。
七月十一日の明渡要求を撤回すること。
第二に。
現時点で、賃貸借契約が終了したとの主張を改めること。
第三に。
家賃の受領を継続し、平穏な使用を妨げないこと。
第四に。
将来、適法な契約終了が問題になる場合には、造作買取請求権を含む権利関係について、法律に従って対応すること。
私は書き直しました。
相馬先輩が横から覗き込みます。
「よし」
「本当ですか!?」
「ああ」
「やった!」
「まだだ」
「え?」
「本人に確認してもらえ」
そうでした。
私たちは弁護士ではありません。
澄江さんの代理人として、黒田と法律紛争の和解交渉をすることはできません。
だからこそ。
澄江さん本人の意思に基づいて、正確な通知書を作る。
その通知が、相手に法律上の問題を認識させる。
それが、私たちの仕事なのです。
二時間後。
机の上に、一通の内容証明郵便の原案が完成しました。
私は読み上げました。
「通知書」
――通知人 藤田澄江。
――被通知人 黒田源蔵。
――第一 本件賃貸借は、期間の定めのない建物賃貸借である。
――第二 貴殿は、昭和六十三年四月十日の解約申入れにより、三か月を経過した時点で賃貸借が終了したと主張する。
――第三 しかし、建物賃貸借については、借家法第三条により、賃貸人の解約申入れには六か月の期間を要する。
――第四 また、借家法第一条ノ二により、賃貸人からの解約申入れには正当事由が必要である。
――第五 通知人は二十一年間、本件建物において営業を継続し、賃料を支払ってきた。貴殿の主張する建替計画について、具体的な必要性及び正当事由を基礎づける事情は明らかにされていない。
私は一度、息を吸いました。
「続けます」
――第六 過去の一時的な賃料支払の遅延は既に解消され、現時点で未払賃料は存在しない。その事情のみをもって、継続的賃貸借関係における信頼関係が破壊されたと認めることは困難である。
――第七 本件建物に付加された造作のうち、貸主の承諾を得て設置されたものについては、借家法第五条に基づく造作買取請求権が問題となる。これを排除する賃借人に不利な特約は、同法第六条に照らし効力を有しない。
――第八 通知人は、現時点で本件賃貸借が終了したものとは認めず、引き続き賃料の支払及び適法な使用を継続する意思を有する。
そして。
最後の一文。
――よって、昭和六十三年七月十一日を期限とする明渡要求の撤回を求める。なお、建物の明渡しを強制し、又は平穏な使用を妨げる行為がなされた場合には、弁護士への相談のうえ、適切な法的措置を検討する。
読み終わりました。
相馬先輩は黙っています。
片桐所長も。
しばらくして。
「よし」
所長が言いました。
「これでいい」
私は小さく拳を握りました。
「ありがとうございます!」
所長は、机の上の資料を揃えました。
「解約の期間」
「はい」
「正当事由」
「はい」
「解除の根拠」
「はい」
「造作の権利関係」
「はい!」
「相手が主張していることを、一つずつ検討した」
私は頷きました。
ああ。
これが。
書面の力なんですね。
声を荒らげていない。
大家を罵倒していない。
ただ、法律と事実を並べているだけ。
でも。
黒田がこの書面を受け取れば、簡単には言えなくなります。
「三か月経ったから出ていけ」
とは。
そして。
自分が契約書に書き込んだ特約だけでは、造作の買取請求権を封じられないことも知るでしょう。
「所長」
「何だ」
「これ、黒田さん、驚きますよね」
「かもしれんな」
「特に造作のところ」
相馬先輩が笑いました。
「だろうな」
「でも、まだ請求権を行使しているわけじゃないんですよね」
「そうだ」
先輩は机を指で叩きました。
「今は店を守る。将来、契約を終わらせる話になったときには、造作の問題も逃げられねえと知らせる」
「はい」
「相手に、自分の要求がどれだけ危ういか考えさせるんだ」
私は頷きました。
なるほど。
内容証明は、怒りをぶつける紙ではない。
相手が無視していた法律を、真正面から見せる紙なのです。
◇
翌々日。
黒田興産に、一通の内容証明郵便が届きました。
その日の夕方。
黒田源蔵は、顧問弁護士の事務所にいました。
「先生、これを見てくれ」
黒田は通知書を机に置きました。
「行政書士が書いたらしいんだが、妙なことが書いてある」
弁護士は黙って読み始めました。
第一項。
第二項。
第三項。
そこで、眉が動きました。
「黒田さん」
「何だ」
「あなた、借家法を確認しましたか」
「民法六百十七条なら知ってるぞ」
「それでは足りません」
「……何?」
「建物の賃貸借です。賃貸人側の解約申入れには、借家法第三条により六か月を要します」
黒田の顔から、笑みが消えました。
「六か月?」
「はい」
「三か月じゃねえのか」
「それは民法の一般原則です」
「……」
「しかも、借家法第一条ノ二があります」
「何だ、それ」
「正当事由です」
弁護士は顔を上げました。
「今回、建物を取り壊さなければならない事情は?」
「駅前開発が……」
「具体的な計画書は?」
「まだ……」
「建物が危険だという調査結果は?」
「ねえ」
「借主に対する立退料の提示は?」
「してねえよ」
弁護士は、ゆっくり息を吐きました。
「これでは、解約の正当事由が認められるか、相当厳しいでしょう」
黒田は黙りました。
さらに。
弁護士は、通知書の第七項に目を止めました。
「……造作買取請求権?」
「それなら大丈夫だ!」
黒田は急に元気を取り戻しました。
「契約書に、買取り請求しないって書いてある!」
弁護士は首を横に振りました。
「黒田さん」
「何だ」
「この契約は、いつ締結しましたか」
「昭和四十二年だ」
「そうですか」
弁護士は契約書を手に取りました。
そして。
特約欄を読みました。
「……これは、まずいですね」
「何がだよ!」
「旧借家法では、造作買取請求権を排除する賃借人に不利な特約は、無効となります」
黒田は目を見開きました。
「は?」
「借家法第五条と第六条です」
「いや、待て!」
黒田は身を乗り出しました。
「契約書に書いてあるんだぞ!」
「書いてあっても、法律上無効となる特約はあります」
「本人がハンコを押したんだ!」
「それでもです」
……。
黒田は、しばらく言葉を失いました。
「じゃあ……」
ようやく口を開きます。
「あの店の畳や建具を、俺が買い取らなきゃいけねえのか?」
「現在、直ちにという話ではありません。そもそも賃貸借が適法に終了するかどうかが先です」
「……」
「ただし、将来、法律上の要件を満たす形で契約が終了するなら、造作の種類や承諾の有無などを確認する必要があります」
「いくらだ」
「時価です」
「二十一年前のものだぞ!」
「ですから、今の価値を評価するのです」
黒田の顔が引きつりました。
弁護士は続けました。
「それから、家賃が一度遅れた件ですが」
「ああ! それだ!」
「既に支払済みですね」
「そうだが……」
「二十一年間の契約関係の中で、一度、二週間遅れたというだけでは、信頼関係の破壊を理由とする解除は、難しいでしょう」
黒田は椅子にもたれました。
「……じゃあ、俺はどうすりゃいい」
弁護士は静かに言いました。
「少なくとも、明日までに出ていけという要求は撤回するべきです」
「撤回?」
「はい」
「俺の建物だぞ!」
「所有者であっても、賃借人の権利を無視して自由に追い出せるわけではありません」
その言葉に。
黒田は、初めて黙り込みました。
そして。
弁護士が最後に告げたのです。
「無理に鍵を交換したり、荷物を搬出したりすれば、別の法的責任まで生じます。明渡しを求めるなら、適法な手続が必要です」
黒田は、通知書を見つめました。
そこに書かれた、借家法第三条。
借家法第一条ノ二。
借家法第五条。
借家法第六条。
自分が知らなかった法律。
それが。
今まで見下していた喫茶店の主人を、守っている。
「……分かった」
黒田は小さく言いました。
「明渡しは、いったん取り下げる」
声は、ひどく弱々しかったそうです。
◇
三日後。
片桐行政書士事務所に、一通の書留が届きました。
差出人。
黒田興産。
私は封を開きました。
そして。
「所長!」
「何だ」
「来ました!」
書面には、こう記されていました。
――先般通知した昭和六十三年七月十一日を期限とする建物明渡請求については、撤回する。
――本件賃貸借関係については、従前どおり賃料を受領し、引き続き建物の使用を認める。
――今後、建替計画等について協議が必要となる場合は、法令に従って対応する。
……。
私は、何度も読み返しました。
「撤回……!」
「そうだな」
相馬先輩が頷きました。
「やりましたね!」
「ああ」
「内容証明で!」
「そうだ」
私は思わず飛び跳ねそうになりました。
でも。
相馬先輩が、いつもの調子で言いました。
「こはる」
「はい!」
「まだ終わりじゃねえぞ」
「え?」
「黒田が二度と変なことを言わない保証はねえ」
「……はい」
「だから、撤回書面も保管する。今後の家賃の領収書も残す」
「はい」
「それから、造作の承諾書や工事資料もな」
私は頷きました。
そうです。
今日、追い出されずに済んだからといって。
すべてが終わったわけではありません。
契約が続く限り、権利と義務も続く。
そして。
いつか契約が適法に終了するときには、また別の問題が生まれるかもしれない。
でも、少なくとも。
澄江さんは、明日、店を閉めずに済むのです。
◇
一週間後。
私は喫茶こもれびにいました。
窓際の席。
目の前には、クリームソーダ。
緑色の炭酸。
上には、白いアイスクリーム。
「こはるちゃん、これ、サービス」
澄江さんが、クッキーを一枚置いてくれました。
「ありがとうございます!」
「本当に、ありがとうね」
澄江さんは、少し照れくさそうに笑いました。
「おかげで、店を続けられることになったわ」
「よかったです!」
「主人にも報告したの」
「ご主人に?」
「ええ」
澄江さんは、壁の写真を見ました。
二十一年前。
まだ若い夫婦が、店の前で笑っている写真。
「あんたの店、まだ大丈夫だよって」
私は、何も言えませんでした。
そのとき。
カラン。
入口の鈴が鳴りました。
「こんにちは!」
入ってきたのは、ランドセルを背負った女の子。
小学校三年生くらいでしょうか。
「おばちゃん、クリームソーダ!」
「はいはい」
澄江さんが笑います。
「今日はお母さんと一緒?」
「うん! あとから来る!」
女の子は、窓際の席に座りました。
「ねえ、おばちゃん」
「何?」
「ここ、なくならないんだよね?」
澄江さんの手が止まりました。
「……うん」
女の子は、嬉しそうに笑いました。
「よかった!」
「どうして?」
「お父さんがね」
女の子は、壁の写真を見ました。
「お父さんも、子供の頃ここでクリームソーダ飲んだんだって!」
……。
私は、思わず笑ってしまいました。
そうか。
二十一年。
その時間は。
一人の子供が大人になって。
親になって。
自分の子供を連れてくるくらいの時間なのです。
法律は、こういう時間を守ることがある。
契約書。
賃料。
解約申入れ。
正当事由。
造作買取請求権。
どれも、教科書では硬い言葉です。
でも。
その一つ一つが。
この店でクリームソーダを飲む親子の時間につながっている。
そう思うと。
法律の勉強が、少し違って見えてきました。
「ねえ、こはるちゃん」
澄江さんが、私に聞きました。
「一つ、いい?」
「はい!」
「もし、いつか本当にこの店を閉めることになったら……」
私は顔を上げました。
「はい」
「主人が作った棚や建具は、どうなるのかしら」
私は、少し考えました。
「契約がどういう理由で終了するのかによります」
「理由?」
「はい」
私は指を折りました。
「期間満了なのか、解約の申入れなのか、それとも債務不履行による解除なのか」
「そんなに違うの?」
「違うんです」
私は頷きました。
「そして、造作買取請求権が認められる場合でも、今の価値を調べる必要があります」
「そうなのね」
「それに、取り外せるものと、建物に付加された造作では、法律上の扱いが違うこともあります」
澄江さんは、しばらく考えていました。
それから。
「難しいのね、法律って」
私は笑いました。
「難しいです」
「こはるちゃんでも?」
「私なんて、毎日間違えてます!」
「まあ!」
二人で笑いました。
でも。
澄江さんは最後に、こう言ったのです。
「でもね」
「はい」
「法律を知らなかったら、私は明日、この店を出ていくところだったのよね」
私は黙りました。
「黒田さんが、法律に書いてあるって言うから」
「……はい」
「契約書にも書いてあるって言うから」
「はい」
「私は、何も言えなかった」
澄江さんは、カウンターをそっと撫でました。
「でも、違ったのね」
その声は、とても静かでした。
「法律って、強い人が弱い人に命令するためだけのものじゃないのね」
私は頷きました。
「はい」
心から。
「そうです」
法律は。
所有者の権利を守る。
契約の自由も守る。
賃料を支払ってもらう権利も守る。
でも。
同時に。
住み続ける人。
働き続ける人。
生活を築いてきた人。
その権利も守っている。
どちらか一方が、何でも自由にできるわけではない。
そこに。
民法の公平があるのです。
◇
夕方。
事務所に戻った私は、六法を机に置きました。
「相馬先輩!」
「何だ」
「今日、賃貸借が終了するって、すごく複雑だと思いました」
「今さらか」
「だって、終了の仕方が違うと、問題になる権利も違うんですよ!」
「そうだな」
「期間満了!」
「うん」
「解約の申入れ!」
「うん」
「解除!」
「うん」
「目的物の全部滅失!」
「そうだ」
私は得意になって続けました。
「でも、建物については民法だけじゃ足りない!」
「そうだ」
「昭和六十三年は旧借家法!」
「そうだ」
「大家の解約申入れは、六か月と正当事由!」
「そうだ」
「しかも造作買取請求権の排除特約は……」
「無効だな」
「そうです!」
私は大きく頷きました。
すると。
片桐所長が、奥から声をかけました。
「こはる」
「はい!」
「では、一つ質問だ」
「何でしょう!」
「期間の定めのない土地の賃貸借について、民法の解約申入れ期間は?」
「一年です!」
「建物は?」
「民法の原則では三か月です!」
「動産は?」
「一日!」
所長が頷きました。
「では、今回の大家はなぜ三か月で追い出せなかった」
「借家法による修正があるからです!」
「うん」
「賃貸人側からの解約申入れには六か月を要し、正当事由も必要でした!」
「よし」
私は嬉しくなりました。
「所長!」
「何だ」
「もう一問ください!」
相馬先輩が顔をしかめました。
「お前、勉強が好きすぎるだろ」
「今なら答えられる気がするんです!」
片桐所長が、少し考えました。
「では、借りていた建物が火災で全部焼けてしまい、使用できなくなったらどうなる」
「賃貸借の目的が達成できなくなるので、契約は終了します!」
「解除の意思表示は必要か」
「いいえ。全部滅失による終了なら、解除を待つものではありません!」
「よし」
やった。
私は思わず拳を握りました。
すると。
相馬先輩が、横から言いました。
「じゃあ、俺からも一問」
「はい!」
「大家が『家賃を一日遅れたから解除だ』と言ったら?」
「それだけで当然に解除できるわけではありません!」
「理由は?」
「賃貸借では、信頼関係が破壊されたといえるかどうかが重要だからです!」
「よし」
「……先輩」
「何だ」
「今日、やけに優しいですね」
「勘違いするな」
先輩は新聞を広げました。
「お前が間違えると、書面を全部直す羽目になるからだ」
「ひどい!」
私は頬を膨らませました。
でも。
何となく、分かっています。
相馬先輩は、厳しい。
片桐所長も、厳しい。
だけど。
その厳しさは、相談者の生活を守るためのものなのです。
「ところで、こはる」
相馬先輩が言いました。
「はい?」
「今日は、あの喫茶店で何を飲んだ」
「クリームソーダです!」
「うまかったか」
「ものすごく!」
「そうか」
先輩は頷きました。
「じゃあ、今度、俺も行くかな」
「本当ですか!」
「ああ」
「所長も行きましょう!」
片桐所長が帳簿を閉じました。
「そうだな」
「やった!」
私は笑いました。
そして。
ふと思いました。
法律の仕事というのは。
誰かを負かすことだけではないのかもしれません。
今回、黒田は明渡要求を撤回しました。
澄江さんは店を守りました。
でも。
それ以上に。
明日も、あの店の扉が開く。
コーヒーが淹れられる。
子供がクリームソーダを注文する。
そういう当たり前の毎日が続く。
それが。
法律が守った、本当のものなのかもしれません。
私はノートを開きました。
今日の教訓。
鉛筆を握ります。
――賃貸借は、終わり方によって守られる権利が違う。契約を終わらせる言葉だけでなく、その理由と法律上の条件を確かめる。
よし。
書けました。
「先輩!」
「今度は何だ」
「今日の教訓です!」
「何て書いた」
私は読み上げました。
相馬先輩は、しばらく黙っていました。
それから。
「まあ、悪くねえな」
とだけ言いました。
「褒めましたね!」
「気のせいだ」
「またそれですか!」
私は笑いました。
そのとき。
電話が鳴りました。
「はい、片桐行政書士事務所です!」
『あのう……土地を借りている者なんですが……』
男性の声でした。
『地主さんから、もう契約は終わりだから建物を壊して土地を返せって言われてまして……』
私は鉛筆を止めました。
……土地?
『父の代から借りていて、家も自分たちで建てたんです。でも、契約が終われば家は壊すしかないって……』
私は相馬先輩を見ました。
先輩も、こちらを見ました。
その顔には。
また、少しだけ笑みが浮かんでいました。
「先輩」
「何だ」
「これって……」
「ああ」
私は小声で言いました。
「建物買取請求権……?」
相馬先輩が頷きます。
「今度は借地法だな」
……。
借地法。
借家法。
そして、未来の借地借家法。
ややこしい!
本当にややこしい!
でも。
私は、受話器を握り直しました。
「すみません。まず、契約書はお手元にありますか?」
『はい』
「それと、土地を借り始めた時期と、建物を建てた時期を教えてください」
電話の向こうで、男性が少し安心したように息を吐きました。
『ありがとうございます。実は、もう諦めるしかないと思っていたんです』
私は笑いました。
「まだ、そう決めるのは早いかもしれません」
昭和六十三年。
片桐行政書士事務所。
民法の世界は、今日も簡単には終わりません。
期間が満了したから。
通知したから。
契約書に書いてあるから。
そんな一言だけで、人の生活を片付けられるほど。
賃貸借という契約は、単純ではないのです。
そして。
私は今日、はっきりと覚えました。
契約の終わりを決めるのは、大家の都合でも、契約書の一行でもない。適用される法律と、積み重ねられた事実なのだと。
「相馬先輩!」
「今度は何だ!」
「民法って、やっぱり面白いですね!」
「面白がってる暇があったら相談票を書け!」
「はいっ!」
窓の外。
駅前商店街の夕暮れ。
喫茶こもれびの看板に、明かりが灯り始めていました。
その明かりは、昨日と同じように。
今日も、誰かの帰りを待っています。
法律が守るものは。
ときに、財産。
ときに、契約。
そして、ときには。
たった一杯のクリームソーダを、明日も同じ場所で飲めるという、小さな幸せなのです。
以下に私の作品へのリンク貼ってます。是非、手に取って頂ければと思います。また、ついでに評価ブックマーク頂ければ幸いです。




