[賃貸人の地位の移転]法理編 こはるノート
家を買ったからといって、そこに住む人との約束まで消せるわけではありません。
大家が変わる。
地主が変わる。
建物の持ち主が変わる。
不動産の世界では、珍しいことではありません。
でも。
借りている人にとっては、大事件です。
今までの契約はどうなるのか。
家賃は誰に払えばいいのか。
預けた敷金は誰が返してくれるのか。
そして。
新しい大家から、
「前の大家との約束なんか知らない」
と言われたら。
借主は、泣き寝入りするしかないのでしょうか。
答えは、違います。
昭和六十三年。
夕方の片桐行政書士事務所。
私は机に向かい、ノートを開いていました。
表紙には大きく、
――こはるノート・民法編。
と書かれています。
「……大家さんって、思ったより大変なんですね」
私が呟くと、相馬先輩が新聞から顔を上げました。
「いきなり何だ」
「だって、アパートを買ったら家賃をもらえるんですよね」
「ああ」
「でも、敷金も引き継ぐ場合がある」
「そうだな」
「修理費の負担もある」
「ああ」
「しかも、登記していないと、新しい大家だって借主に主張できないことがある」
「そうだ」
私は腕を組みました。
「……家賃だけ欲しい人には、都合の悪い法律ですね」
相馬先輩が笑いました。
「当たり前だろ」
「何がですか?」
「家賃をもらう権利だけ欲しくて、義務は全部捨てたいなんて、そんな都合のいい話があるか」
私は頷きました。
そうです。
昨日までの事件。
村瀬春江さん。
三十九歳。
娘さんと二人で、木造アパートに暮らしている女性。
前の大家に敷金三十万円を預けていたのに。
新しい所有者を名乗る東栄不動産から、
「昔の敷金は知らない。新しく三十万円払え」
と言われた。
しかも。
「払わなければ出ていけ」
とまで。
でも、私たちは。
旧借家法。
民法。
最高裁判例。
登記簿。
敷金の領収書。
家賃の支払記録。
そうした資料を整理し、春江さん名義の内容証明を作成しました。
その結果。
東栄不動産は新契約の強制と敷金の二重払い要求を撤回。
従前の賃貸借契約を尊重し、敷金に関する義務も承継することを確認したのです。
あの事件。
実は、行政書士試験でも重要な論点がぎっしり詰まっていました。
「よし!」
私は鉛筆を握りました。
「今日は、賃貸人の地位の移転を完全に整理します!」
「昨日もそんなこと言ってたな」
「昨日は事件です。今日は復習です!」
「毎日忙しい奴だな」
奥から片桐所長が声をかけました。
「相馬」
「はい」
「付き合ってやれ」
「……所長まで」
よし。
今日も強制勉強会、開催です。
私はノートの真ん中に、大きく三人の名前を書きました。
A。
B。
C。
「まず、基本の登場人物を整理します」
相馬先輩が煙草をくわえました。
「やってみろ」
「Aさんがアパートの所有者です」
「うん」
「Bさんが、そのアパートの一室を借りています」
「うん」
「そして、AさんがアパートをCさんに売却します」
私は矢印を引きました。
A――アパートを売却――→C
その下に。
B――アパートの一室を賃借中。
「さて、問題です!」
私は先輩を見ました。
「アパートがAからCに売られたら、Bさんはどうなりますか?」
「場合による」
「……いきなり正解を言わないでください!」
「何でだよ」
「私が説明するところだったんです!」
相馬先輩は呆れました。
「じゃあ説明しろ」
「はい!」
私はノートに書きました。
――不動産の所有者の変更と、賃貸借関係の承継。
所有者Aが、アパートをCに売る。
すると、不動産の所有権はCに移転します。
でも。
そこにBという借主がいる。
「ここで考えるべきことは、二つあります」
私は指を二本立てました。
「第一に、BはCに対して『私はこの部屋を借りています』と主張できるか」
「うん」
「第二に、CはBに対して『私が新しい大家です』と主張できるか」
相馬先輩が頷きました。
「そこだ」
私は嬉しくなりました。
そう。
この二つ。
似ているようで、違う問題です。
借主が新所有者に賃貸借を対抗できるか。
新所有者が借主に賃貸人の地位を主張できるか。
「この二つを混ぜると、間違えます」
「昨日のお前みたいにな」
「……はい」
私は少し肩を落としました。
昨日。
所有権が移れば、新所有者が当然にすべて主張できる。
そう考えかけました。
でも。
借主の対抗要件。
新所有者の所有権移転登記。
それぞれを確認する必要があったのです。
「所長」
「何だ」
「まず、借主の対抗要件から整理します!」
「いいだろう」
私は六法を開きました。
民法第六百五条。
不動産賃貸借の対抗力。
「不動産の賃貸借は、登記をすれば、その不動産について物権を取得した第三者などに対抗できます」
「そうだ」
「これは昭和六十三年にも存在する規定です」
私は大きく丸をつけました。
民法第六百五条。
不動産賃借権の登記。
対抗力あり。
「でも、先輩」
「何だ」
「普通のアパートの借主って、賃借権の登記なんかしていませんよね?」
「してねえな」
「じゃあ、登記がなければ新しい大家に対抗できないんですか?」
「いや」
「そうです!」
私は勢いよく書きました。
――建物賃貸借には、特別な保護がある。
現代なら、借地借家法第三十一条。
建物の賃貸借は、登記がなくても、建物の引渡しがあれば、その後に建物について物権を取得した者に対抗できる。
「つまり、借主が実際に建物の引渡しを受けていれば、賃借権の登記がなくても保護されるんです」
「そうだ」
「ただし!」
私は自分で言いました。
相馬先輩が顔をしかめました。
「また何だ」
「昭和六十三年には、借地借家法第三十一条は存在しません!」
「当たり前だ」
「この時代は、旧借家法第一条です!」
そうです。
昭和六十三年。
まだ借地借家法はありません。
建物の賃貸借は、借家法によって保護されていました。
旧借家法第一条。
建物の賃貸借は、その登記がなくても、建物の引渡しがあったときは、その後その建物について物権を取得した者に対して効力を生ずる。
「つまり、基本的な保護の考え方は、当時からあったんですね」
「ああ」
相馬先輩が頷きます。
「法律の名前や条文番号が変わっても、借家人を保護する考え方は続いてる」
「はい」
私はノートに整理しました。
昭和六十三年。
旧借家法第一条。
建物の引渡しで対抗力。
現代。
借地借家法第三十一条。
建物の引渡しで対抗力。
基本的な仕組みは共通。
「だから春江さんは守られたんですね」
「そうだ」
春江さんは、昭和五十六年からアパートに住んでいました。
契約書もある。
家賃も払っている。
部屋の鍵も持っている。
そして、建物の引渡しを受けている。
「だから、新しい所有者に対しても、賃貸借を主張できた」
「そのとおり」
私は大きく頷きました。
でも。
ここで疑問が出ました。
「先輩」
「何だ」
「建物の引渡しって、住民票があることですか?」
「違う」
「ですよね」
私はノートに書き足しました。
建物の引渡し。
建物を借主の支配下に置くこと。
実際に鍵を受け取り、部屋を使用できる状態になったことなどが重要です。
住民票だけで機械的に決まるわけではありません。
また、建物の引渡しを受けた後、一時的に旅行や入院で不在になったからといって、当然に対抗力を失うわけでもありません。
「つまり」
私は言いました。
「住んでいる人を守るために、登記よりも身近な『引渡し』を対抗要件にしたんですね」
「そういうことだ」
片桐所長が頷きました。
なるほど。
もし建物の賃借権を登記しなければ保護されないとしたら。
普通の借家人は困ります。
賃借権の登記には、原則として賃貸人の協力が必要です。
大家が協力しなければ、簡単には登記できません。
だからこそ。
建物を借り、引渡しを受けたという事実に、特別な対抗力を認めている。
「法律って、生活に合わせて作られているんですね」
私が言うと、相馬先輩が笑いました。
「そうでなきゃ困るだろ」
「確かに」
「さて」
相馬先輩が言いました。
「じゃあ土地はどうなる?」
「来ましたね!」
私はページをめくりました。
――建物所有目的の土地賃貸借。
「今度はAさんが土地を所有しています」
「うん」
「Bさんがその土地を借りて、自分の家を建てています」
「うん」
「そして、Aさんが土地をCさんに売ります」
私は図を書きました。
土地所有者A。
土地賃借人B。
借地上にB所有の建物。
土地をCに売却。
「この場合、BさんはどうすればCさんに借地権を対抗できるでしょうか?」
相馬先輩が答えました。
「土地の賃借権を登記するか、特別法の要件を満たすかだな」
「はい!」
私は大きく書きました。
――借地上の建物の登記。
現代なら借地借家法第十条第一項。
建物所有を目的とする土地の賃借権については、借地権の登記がなくても、借地権者が土地上に登記されている建物を所有するときは、第三者に対抗できる。
「つまり、土地の賃借権そのものを登記していなくても、借地上の自分の建物に登記があれば、対抗できる場合があるんです」
「そうだ」
「でも昭和六十三年には……」
「建物保護ニ関スル法律だな」
「正解です!」
私は頷きました。
昭和六十三年。
建物保護ニ関スル法律第一条。
建物を所有するために土地を借りている場合、借地人がその土地上に登記した建物を所有していれば、土地の賃借権を第三者に対抗できる。
現代では、その仕組みが借地借家法第十条に引き継がれています。
「所長」
「何だ」
「建物を借りる場合と、土地を借りて自分の建物を持つ場合で、対抗要件が違うんですね」
「そうだ」
私は整理しました。
建物を借りる。
建物の引渡し。
土地を借りて建物を所有する。
借地上の建物登記。
もちろん、民法第六百五条による賃借権自体の登記という方法もあります。
「これ、試験で絶対に間違えたくないです」
「なら覚えろ」
「語呂合わせを作りましょう!」
「またか」
私は鉛筆を振りました。
「借家は引渡し! 借地は建物登記!」
「普通だな」
「普通が一番覚えやすいんです!」
「まあな」
私は大きく丸をつけました。
ただし。
借地上の建物なら何でもよいわけではありません。
借地権者が登記されている建物を所有していることなど、法律上の要件が重要です。
単に他人名義の建物が建っているというだけで、当然に保護されるわけではありません。
また、建物登記の名義が借地権者と異なる場合には注意が必要です。
「……なるほど」
私は少し考えました。
「建物を借りる人と、土地を借りる人。守り方が違うんですね」
「そうだ」
所長が静かに言いました。
「だから、何を借りているのか、最初に確認する」
私は頷きました。
あの事件の最初。
所長が春江さんに尋ねたこと。
「何を借りているのか」
あれは、ただの確認ではありませんでした。
対抗要件を見つけるための、最初の一歩だったのです。
「では、いよいよ本題です!」
私はページをめくりました。
――賃貸人の地位の移転。
「AがBにアパートを貸している」
「うん」
「そのアパートをAがCに売る」
「そうだ」
「Bは建物の引渡しを受けているので、Cに賃貸借を対抗できる」
「うん」
「この場合、賃貸人の地位はどうなりますか?」
相馬先輩が答えました。
「原則としてCに移る」
「はい!」
私は大きく書きました。
――賃貸人の地位は、新所有者に移転する。
現代の民法第六百五条の二第一項。
賃借人が賃貸借の対抗要件を備えている場合に、その不動産が譲渡されたときは、賃貸人たる地位は譲受人に移転する。
「つまり、AからCに賃貸人の地位が移るんです」
「そうだ」
「このとき、Bの承諾は必要ですか?」
「原則いらねえ」
「正解です!」
私は頷きました。
賃借人Bの承諾は、原則として不要。
「でも先輩」
「何だ」
「普通、契約上の地位を第三者に移すときって、相手の承諾が必要になることがありますよね?」
「ああ」
「なのに、大家の地位は、どうして承諾なしで移せるんですか?」
所長が口を開きました。
「賃貸人の地位は、不動産の所有権と密接に結びついているからだ」
「……なるほど」
私は考えました。
AがアパートをCに売る。
すると、建物を所有するのはC。
ところが、大家だけはAのままだとしたら。
Bは、建物を持っていないAから部屋を借り続けることになる。
賃貸人としての権利や義務が複雑になります。
「だから、賃借人が対抗要件を備えた通常の場合、所有権の移転に伴って賃貸人の地位も移転するんですね」
「そうだ」
ただし。
ここで重要なのが、昭和六十三年との違い。
「相馬先輩!」
「何だ」
「この条文、昭和六十三年にはありません!」
「知ってる」
「でも、判例によるルールは存在したんですよね」
「ああ」
最高裁昭和三十九年八月二十八日判決など。
不動産の所有権移転に伴う賃貸人の地位の承継について、賃借人の承諾を必要としないという考え方が、判例によって示されていました。
「つまり、現代の民法第六百五条の二は、従来の判例法理を明文化した部分があるんですね」
「そうだな」
私は赤線を引きました。
昭和六十三年。
賃貸人の地位の移転は、主として判例によって処理。
令和。
民法第六百五条の二に明文化。
「でも、所長」
「何だ」
「現代の条文には、例外もありますよね?」
「ある」
私は頷きました。
民法第六百五条の二第二項。
ここです。
AとCが、
「賃貸人の地位はAに残す」
と合意し、さらにCがAにその不動産を賃貸するという仕組みを設けた場合。
一定の要件のもとで、賃貸人の地位をAに留保できます。
「つまり、アパートをCに売った後も、AがCからアパートを借りて、引き続きBに貸すような仕組みですね」
「そういうことだ」
これは、所有権が移転したら必ず直ちに賃貸人の地位も移る、という原則に対する例外です。
ただし、単にAとCが、
「大家はAのままにしよう」
と約束しただけで、当然にこの例外が成立するわけではありません。
CからAへの賃貸借という要件が必要です。
また、そのAとCの間の賃貸借が終了すると、留保されていた賃貸人の地位は、Cまたはその承継人に移転します。
「……ちょっと複雑ですね」
「そうだな」
「でも、理由は分かります」
私は言いました。
「所有者が変わっても、一定の仕組みのもとで、今までの大家が引き続き建物を貸すことを認めているんですね」
「そうだ」
所長が頷きました。
「ただし、昭和六十三年の事件を処理するのに、未来の条文をそのまま当てはめるな」
「はい!」
私は苦笑しました。
この例外を含め、現代の制度をそのまま昭和の法律として使ってはいけません。
当時は当時の判例と法的構成を確認する必要があるのです。
「さて」
相馬先輩が言いました。
「昨日、一番効いたのは何だった?」
「敷金です!」
私は即答しました。
「その前だ」
「……登記?」
「そうだ」
私はページをめくりました。
――新所有者が賃貸人の地位を主張するための登記。
「これ、最初は意味が分からなかったんです」
「何がだ」
「アパートを買ったら、新しい所有者ですよね」
「ああ」
「それなら、どうして登記が必要なんだろうって」
私はノートに書きました。
AがCにアパートを売却。
Cは所有権を取得。
しかし、所有権移転登記は未了。
「このとき、CはBに対して、自分が新しい大家であることを当然に主張できるでしょうか?」
相馬先輩が答えました。
「登記がなけりゃ、原則として主張できねえ」
「はい!」
現代の民法第六百五条の二第三項。
賃貸人たる地位の移転は、不動産について所有権移転登記をしなければ、賃借人に対抗できない。
「ここ、重要ですね」
「ああ」
私は続けました。
「でも昭和六十三年には、この条文がありません」
「そうだ」
「その代わり、最高裁昭和四十九年三月十九日判決があるんですよね」
片桐所長が頷きました。
不動産を取得した者が、賃借人に対して賃貸人の地位を主張するには、所有権移転登記が必要であるという判例。
「つまり」
私は言いました。
「所有権の移転と、その移転を借主に対抗できるかは、別の問題なんですね」
「そうだ」
ここで、私は昨日の黒崎を思い出しました。
東栄不動産。
アパートを買った。
売買代金も払った。
でも。
所有権移転登記はまだ済んでいなかった。
それなのに。
「俺が新しい大家だ!」
と威張っていたのです。
「先輩」
「何だ」
「黒崎さんって、登記を甘く見てましたよね」
「そうだな」
「でも、借主から見たら、登記って大切ですよね」
「ああ」
もし登記も確認できないのに、突然現れた人へ家賃を払わなければならないとしたら。
借主は困ります。
本当にその人が新しい所有者なのか。
誰に家賃を払えばよいのか。
間違った人へ払ってしまったらどうなるのか。
そうした危険がある。
「だから、賃貸人の地位を主張する側にも、対抗要件が必要なんですね」
「そういうことだ」
私は大きく書きました。
――借主の対抗要件と、新大家の対抗要件は別!
ここです。
借主B。
建物の引渡しによって賃貸借を対抗する。
新所有者C。
所有権移転登記によって賃貸人の地位の移転を対抗する。
「なるほど……!」
私は拳を握りました。
「両方から考えるんですね!」
「そうだ」
ただし、登記未了だからといって、売買契約自体が当然に無効になるわけではありません。
また、具体的な賃料の支払先や支払方法については、請求の根拠、通知、代理受領などの事情も確認する必要があります。
「だから昨日、すぐ黒崎さんに家賃を払えとも、絶対に払うなとも決めつけなかったんですね」
「そうだ」
片桐所長が言いました。
「法律は、事実を確認してから使う」
私は頷きました。
「では、いよいよ三十万円です!」
私はノートをめくりました。
――敷金返還債務の承継。
相馬先輩が笑いました。
「春江さんの事件の核心だな」
「はい!」
私は説明を始めました。
「まず、敷金とは何か」
敷金。
賃借人が、賃貸借契約に基づいて賃貸人に負う債務を担保するために交付する金銭です。
たとえば。
家賃の未払い。
借主が負担すべき原状回復費用。
そうした債務があれば、敷金から差し引かれることがあります。
「そして、残ったお金が返還されるんですよね」
「そうだ」
「ただし、返還する時期が重要です」
私はノートに書きました。
――建物の明渡し後に、被担保債務を精算して返還。
現代の民法第六百二十二条の二第一項では、賃貸借が終了し、賃貸物の返還を受けたときなどの敷金返還義務が明文化されています。
「でも、この条文も昭和にはないんですよね」
「そうだ」
相馬先輩が頷きました。
「敷金の性質や返還時期も、判例と契約で考えていた」
「はい」
私は書きました。
昭和六十三年。
敷金の基本的な法的性質や返還時期について、判例法理が重要。
現代。
民法第六百二十二条の二に明文化。
「では、問題です」
私は先輩を見ました。
「AがBから敷金三十万円を預かっていました」
「うん」
「その後、AがアパートをCに売りました」
「うん」
「賃貸人の地位がCに移転しました」
「そうだ」
「このとき、Bが預けた敷金についての義務はどうなりますか?」
「Cが承継する」
「正解です!」
私は大きく丸をつけました。
現代の民法第六百五条の二第四項。
賃貸人の地位が移転した場合、敷金返還債務も新賃貸人に承継される。
ただし、承継される敷金に関する債務の範囲には、未払賃料等との精算が関係します。
「でも先輩」
「何だ」
「CはAから、実際に敷金のお金を受け取っていないかもしれませんよね?」
「ああ」
「それでも、Cが返還義務を負うんですか?」
「原則としてな」
「……すごいですね」
私は昨日の黒崎を思い出しました。
「俺は敷金なんか受け取ってねえ!」
そう怒鳴っていました。
でも。
賃貸人の地位を承継した以上。
「自分は受け取っていない」
というだけでは、敷金返還義務を免れる理由にはならない。
ここが重要です。
「じゃあ、Cは損するんですか?」
私は聞きました。
相馬先輩が肩をすくめました。
「買うときにAとの間で精算しておくべき話だな」
なるほど。
私は頷きました。
AとCの間で。
預かっている敷金はいくらか。
未払賃料はあるか。
敷金相当額を売買代金から控除するのか。
別途精算するのか。
そうしたことを確認しておく。
でも。
売主と買主が精算を怠ったからといって、借主が当然にもう一度敷金を預け直さなければならないわけではありません。
「……黒崎さん、まさにそれをやろうとしていたんですね」
「そういうことだ」
片桐所長が言いました。
「買主が確認を怠ったことを、借主に押しつけるなということだ」
私は頷きました。
ただし。
ここで試験上の注意点があります。
「相馬先輩」
「何だ」
「敷金三十万円が、必ずそのまま三十万円全部承継されるわけではありませんよね?」
「そうだ」
「たとえば、所有権移転前に未払家賃があった場合です」
私は例を書きました。
敷金三十万円。
未払家賃五万円。
その状態で賃貸人の地位がAからCに移転する。
判例上、旧賃貸人に対する未払賃料があれば、敷金は当然にその弁済に充当され、その残額について敷金関係が新賃貸人に承継されると解されています。
「だから、この例なら残額二十五万円が問題になるんですね」
「そうだ」
ただし、未払賃料以外の債務や具体的な精算内容についても、事案に応じた確認が必要です。
「春江さんの場合は?」
先輩が聞きました。
「家賃の滞納がありませんでした」
「そうだな」
「だから、三十万円の敷金を預けた事実を、領収書と支払記録で示したんです」
「よし」
私は嬉しくなりました。
ここでも。
法律だけでは足りません。
領収書。
振込記録。
契約書。
そうした事実を証明する書類が必要なのです。
「さて」
片桐所長が言いました。
「昨日の修理費八万円はどうだ」
「あ、はい!」
私はノートをめくりました。
――必要費・有益費の償還債務。
「春江さんは、台所の給水管が壊れて、修理代八万円を立て替えていました」
「そうだ」
「旧大家は、必要な修理費として確認したうえで、後日精算すると書面で回答していました」
「うん」
「ところが、その後アパートが売られた」
「そうだな」
私は頷きました。
賃貸人の地位の移転。
そこには、敷金だけでなく、費用償還の問題もあります。
現代の民法第六百五条の二第四項では、民法第六百八条の費用償還に係る債務も、新賃貸人に承継されると定められています。
「まず、必要費です」
私は書きました。
――必要費。
賃借物の保存のために必要な費用。
「たとえば、水道管が壊れて、修理しなければ生活できない場合などですね」
「そうだ」
民法第六百八条第一項。
賃借人が、賃貸人の負担に属する必要費を支出したときは、直ちにその償還を請求できる。
「ここは重要ですね」
「ああ」
「必要費なら何でも大家が負担する、という意味ではありません」
私は赤線を引きました。
――賃貸人の負担に属する必要費であること。
そこが要件です。
たとえば、借主が自分の不注意で壊した設備を修理した場合。
その費用を当然に大家へ請求できるとは限りません。
契約内容。
故障原因。
修理の必要性。
誰が負担すべき費用か。
そうした事情を確認する必要があります。
「だから、春江さんの修理費についても、すぐ断定しなかったんですね」
「そうだ」
相馬先輩が頷きました。
「領収書と、旧大家の回答書があったから話が進んだ」
「はい」
私は次を書きました。
――有益費。
賃借物の価値を増加させるために支出した費用。
「たとえば、設備を改良して、建物の価値が上がるような場合です」
「うん」
「でも、有益費は必要費と違って、いつでも直ちに請求できるわけではありません」
民法第六百八条第二項。
有益費については、賃貸借終了時に、価値の増加が現存している場合などに償還が問題になります。
償還額についても、支出額か増価額かという問題があります。
さらに、賃貸人の請求により、裁判所が相当の期限を許与できる場合があります。
「……うわあ」
私は鉛筆を止めました。
「何だ」
「必要費と有益費、似ているようで全然違いますね」
「だから分けろと言っただろ」
「はい」
私は大きく書きました。
必要費。
保存のため。
賃貸人の負担に属する場合、直ちに償還請求。
有益費。
価値増加のため。
賃貸借終了時、増価が現存する場合などに償還が問題となる。
「そして、賃貸人の地位が移転したら、これらの償還債務も新賃貸人に承継されるんですね」
「そうだ」
私は頷きました。
ここも、敷金と同じです。
大家が変わったから。
以前の大家に対する費用償還の問題は、全部なかったことになる。
そんな単純な話ではありません。
ただし。
実際に償還債務が成立しているか。
どの範囲で承継されるか。
それは、個別に確認しなければなりません。
「所長」
「何だ」
「この辺り、書類作成が本当に大事ですね」
「そうだ」
所長が頷きました。
「修理したというだけでは足りない」
「はい」
「いつ、何が壊れたか」
「はい」
「誰が修理したか」
「はい」
「いくら払ったか」
「はい」
「本来誰が負担すべき費用か」
「はい」
「証拠をそろえろ」
私は大きく頷きました。
民法第六百八条。
試験では、必要費と有益費の違いを覚えるだけかもしれません。
でも、現場では。
その条文を使うための事実が必要なのです。
「さて、もう一つ」
相馬先輩が言いました。
「はい?」
「賃借人が対抗要件を備えていない場合はどうなる?」
私は止まりました。
……あ。
そこです。
私はノートに書きました。
――賃貸借の対抗要件がない場合。
「例えば、Bさんがアパートの賃貸借契約を結んだ。でも、まだ建物の引渡しを受けていない」
「うん」
「その間に、AがアパートをCに売ってしまった」
「そうだ」
「この場合、Bは当然にCへ賃貸借を対抗できるとは限りません」
「そうだな」
建物の引渡しを受けていない。
賃借権の登記もない。
そうすると、対抗要件がありません。
「だから、最初の『引渡し』の確認が大切なんですね」
「そうだ」
私は頷きました。
ただし。
現代民法には、もう一つの仕組みがあります。
民法第六百五条の三。
合意による不動産の賃貸人たる地位の移転。
賃貸人の地位は、一定の場合、譲渡人と譲受人との合意によって、賃借人の承諾なしに移転させることができます。
「つまり、対抗要件を備えた賃貸借についての当然承継とは、別に、合意による移転も定められているんですね」
「そうだな」
相馬先輩が頷きました。
「ただし、昭和六十三年にはその条文はないぞ」
「分かってます!」
私は笑いました。
今回の法理で大切なのは。
対抗要件を備えている場合の地位移転。
そして。
それとは別の合意による地位移転。
両方を区別することです。
現代の民法第六百五条の三による移転でも、所有権移転登記による賃借人への対抗や、敷金・費用償還債務の承継について、第六百五条の二第三項・第四項が準用されます。
「……なるほど」
私は鉛筆を止めました。
「現代の条文って、すごく整理されていますね」
「何がだ」
「昔は判例をいくつも確認しなければならなかったことが、条文でつながっているんです」
相馬先輩が少し笑いました。
「未来の話は便利そうだな」
「はい!」
私は頷きました。
ただし。
現代の民法でも、条文を読むだけですべての事件が解決するわけではありません。
事実関係。
契約内容。
登記。
引渡し。
敷金。
費用。
それらを確認する必要があることは、昭和でも令和でも同じです。
窓の外は、少しずつ暗くなっていました。
私はノートを見直しました。
民法第六百五条。
賃借権の登記による対抗力。
旧借家法第一条。
建物の引渡しによる対抗力。
建物保護ニ関スル法律。
借地上の登記建物による対抗力。
そして。
賃貸人の地位の移転。
所有権移転登記。
敷金返還債務。
必要費・有益費。
……。
「先輩」
「何だ」
「今日、すごく頭を使いました」
「いつも使え」
「ひどい!」
相馬先輩が笑いました。
私はノートを閉じかけて、思い直しました。
「所長!」
「何だ」
「最後に確認問題を出してください!」
「いいだろう」
片桐所長は帳簿を置きました。
「では、第一問」
「はい!」
「AがBに建物を貸している。Bは建物の引渡しを受けている。Aがその建物をCに売却した。Bは賃借権の登記をしていない。Cに賃貸借を対抗できるか」
「できます!」
「根拠は?」
「昭和六十三年なら旧借家法第一条です! 現代なら借地借家法第三十一条です!」
「よし」
私は拳を握りました。
所長が続けます。
「第二問」
「はい!」
「AがBに建物所有目的で土地を貸している。Bは借地上に自己名義で登記した建物を所有している。Aが土地をCに売却した。Bは土地の賃借権の登記をしていない。どうか」
「建物保護ニ関スル法律によって、Cに対抗できる場合があります!」
「現代では?」
「借地借家法第十条第一項です!」
「よし」
次。
「第三問。賃借人が対抗要件を備えている場合、所有権移転に伴って賃貸人の地位が移るのに、賃借人の承諾は必要か」
「原則として不要です!」
「第四問。新所有者が賃貸人の地位を賃借人に主張するには?」
「所有権移転登記が必要です!」
「第五問。旧賃貸人に預けた敷金についての債務は?」
「賃貸人の地位の移転に伴い、新賃貸人に承継されます!」
「第六問。賃貸人の地位が移転した場合、民法第六百八条の費用償還債務は?」
「新賃貸人に承継されます!」
よし。
ここまでは完璧。
すると。
「じゃあ俺から一問」
相馬先輩が口を挟みました。
「はい!」
「昭和六十三年の民法六百五条の二には、何が書いてある?」
「存在しません!」
「おお」
「令和二年施行の改正民法で新設された規定です!」
「よし」
相馬先輩が笑いました。
「ようやく覚えたか」
「はい!」
私は得意になって続けました。
「しかも、現代の借地借家法は平成三年に制定され、平成四年に施行されるので、昭和六十三年にはありません!」
「そうだ」
「昭和六十三年は、借家法と建物保護ニ関スル法律です!」
「よし」
「そして敷金返還債務の承継は、昭和四十四年の最高裁判例が重要です!」
「よし」
「所有権移転登記は昭和四十九年の判例です!」
「よし」
「つまり、現代の条文は――」
「もう未来の説明はいい!」
また怒られました。
でも。
この違い。
行政書士試験を勉強するうえで、すごく大切だと思います。
昔の民法では。
条文だけでは、賃貸人の地位の移転の全体像が分かりにくかった。
だから判例が重要だった。
その後、令和二年施行の改正民法によって、長年の判例法理が明文化され、一定の例外や関連する債務の承継も条文で整理された。
それによって、契約当事者がルールを確認しやすくなった。
「所長」
「何だ」
「法律が改正されるって、ただ条文が増えるだけじゃないんですね」
「そうだ」
「裁判で積み重ねられてきた考え方を、分かりやすく整理することもある」
片桐所長が頷きました。
「そのとおりだ」
私は少し嬉しくなりました。
昭和六十三年。
未来の条文は使えません。
でも。
未来の民法を知っているからこそ。
昔の判例が、どれだけ重要だったのか分かる。
そして、現代の民法がなぜその形になったのか。
理由まで理解できるのです。
「さて」
私はノートの最後のページを開きました。
「今日の一行です!」
相馬先輩が覗き込みます。
「また長くなるんじゃねえだろうな」
「短くします!」
「本当か?」
「はい!」
私は鉛筆の先を整えました。
そして。
ゆっくり書きました。
――借主は「引渡し・登記」で守り、新大家は「所有権移転登記」で名乗る。地位が移れば敷金などの義務もついてくる。
「……できた!」
私はノートを掲げました。
「どうですか!」
相馬先輩が読みました。
「まあ、覚えやすいんじゃねえか」
「褒めましたね!」
「気のせいだ」
「またそれですか!」
私は笑いました。
でも。
この一行は、きっと忘れません。
春江さんのことを思い出せばいい。
七年間、家賃を払い続けた女性。
亡くなった夫との思い出が残る部屋。
娘さんが、来年も桜を見たいと願っている窓。
そこに突然、新しい大家が現れて。
「前の約束は知らない」
と言った。
でも。
法律は、そんな一方的な言葉だけで暮らしを奪うことを許していない。
建物の引渡し。
賃借権の対抗力。
賃貸人の地位の移転。
敷金返還債務の承継。
それらは、単なる試験の暗記項目ではありません。
誰かが安心して家に住み続けるための仕組みなのです。
「ところで、こはる」
相馬先輩が言いました。
「はい?」
「今日の勉強会、もう終わりか?」
「はい!」
「じゃあ、この書類を整理しろ」
「え?」
先輩が机の上に、厚い書類の束を置きました。
賃貸借契約書。
登記簿謄本。
敷金の領収書。
修理費の資料。
「……全部ですか?」
「全部だ」
「量が多いですよ!」
「仕事だからな」
私は腕を組みました。
「先輩」
「何だ」
「私には、賃貸人の地位の移転について知識があります」
「あるな」
「所有権移転登記の意味も分かります」
「そうだな」
「敷金返還債務の承継も説明できます!」
「で?」
「だから、今日はもう十分働いたと思います!」
相馬先輩がにやりとしました。
「そうか」
「はい!」
「じゃあ所長に聞け」
私は奥を見ました。
「所長」
「何だ」
「今日の勉強成果を考慮して、書類整理を免除していただけませんか?」
所長は帳簿から顔を上げずに言いました。
「考慮する」
「本当ですか!」
「そのうえで、整理を頼む」
「……!」
相馬先輩が吹き出しました。
「ほらな」
「何ですか!」
「知識があることと、仕事が減ることは別問題だ」
「ぐっ……」
確かに。
賃貸人の地位が移転することと、賃借人の義務が全部なくなることが違うように。
私が民法を勉強したことと、事務所の仕事を免除されることも、別問題なのでした。
「分かりましたよ!」
私は書類を手に取りました。
「整理します!」
「いい返事だ」
「でも先輩!」
「何だ」
「この書類の整理が終わったら、次は先輩に問題を出します!」
「は?」
「賃貸人の地位を留保する場合の要件です!」
「だから未来の条文だろうが!」
「勉強会です!」
「勝手に決めるな!」
私は笑いながら、書類を分類し始めました。
窓の外。
夕暮れの町に、家々の明かりが灯っていきます。
あのどこかで。
春江さんと娘さんは、いつもの部屋で夕食を食べているのでしょう。
来年の春。
窓の向こうには、また桜が咲くはずです。
その景色を。
新しい大家になったというだけの理由で、誰かが勝手に奪うことはできない。
民法は、そうした暮らしを守るためにあるのです。
私は書類をそろえながら、ノートの最後の一行をもう一度読みました。
――借主は「引渡し・登記」で守り、新大家は「所有権移転登記」で名乗る。地位が移れば敷金などの義務もついてくる。
よし。
完璧。
「こはる!」
相馬先輩の声が飛びました。
「はい!」
「ノート見てねえで書類を整理しろ!」
「今、重要論点を確認していたんです!」
「確認は後だ!」
「先輩!」
「何だ!」
「もし先輩がこの事務所の大家になったら、私の書類整理義務も引き継ぐんですか?」
「引き継ぐか!」
「賃貸人の地位は権利も義務も移転するんですよ!」
「お前の仕事は賃貸借契約じゃねえ!」
「……あっ」
しまった。
完全に別問題でした。
相馬先輩は大きくため息をつきました。
「こはる」
「はい」
「今日の最後の問題だ」
「何ですか?」
「お前が書類を整理しなかったら、誰がやる?」
「……私です」
「正解」
……なるほど。
賃貸人の地位は、一定の要件で移転する。
でも。
見習い行政書士の書類整理係という地位は。
どうやら。
そう簡単には移転しないようです。
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