[賃貸人の地位の移転]現場編 「大家が変わったから敷金は返さない」の嘘。登記のない新所有者と、三十万円の敷金を消そうとした悪徳不動産屋の誤算
家が売られても、そこに暮らす人の人生まで売られるわけではありません。
ある日突然。
「今日から、このアパートの大家は私です」
そう言われたら。
住んでいる人は、従わなければならないのでしょうか。
家賃の振込先が変わる。
契約書を書き直せと言われる。
昔の大家に預けた敷金は、もう返せないと言われる。
そして。
「嫌なら出ていけ」
そんな言葉まで突きつけられたら。
借りている人は、どうすればいいのでしょう。
昭和六十三年。
片桐行政書士事務所。
その日、私は知ることになります。
家の所有者が変わることと。
大家としての権利を主張できることは。
必ずしも、同じではないのです。
「敷金を、もう一度払えと言われたんです」
朝九時。
事務所に駆け込んできた女性は、そう言いました。
「……もう一度?」
私は聞き返しました。
「はい。三十万円です」
「三十万円!?」
思わず声が裏返りました。
女性の名前は、村瀬春江さん。
三十九歳。
駅から歩いて十五分ほどの場所にある、木造二階建てのアパートに住んでいます。
小学五年生の娘さんと二人暮らし。
夫を病気で亡くしてから、近くの縫製工場で働いているそうです。
「家賃は月四万五千円なんです。でも、入居するときに敷金を三十万円預けました」
「かなり大きな金額ですね」
「はい。主人が亡くなったときの保険金から出しました」
春江さんは膝の上で指を組みました。
「何かあったときのためのお金だったんです」
私は頷きました。
敷金。
借主が、家賃の未払いなどに備えて大家に預けるお金。
退去するとき、未払い家賃などの債務があれば差し引かれ、残りが返される。
現代の民法なら、第六百二十二条の二。
そこまで頭に浮かびました。
「それで、なぜもう一度払うことになったんですか?」
「大家さんが変わったからです」
「大家さんが?」
「先月、アパートが売られたそうなんです」
春江さんは鞄から一枚の紙を取り出しました。
私は受け取りました。
そこには、大きな文字でこう書かれています。
――所有者変更に伴う賃貸借契約の再締結について。
差出人。
東栄不動産株式会社。
代表取締役、黒崎源一。
本文を読み進めます。
――当社は、昭和六十三年六月一日付をもって、村瀬荘の所有権を取得した。
――従前の賃貸借契約は旧所有者との契約であり、当社には当然には承継されない。
――居住継続を希望する者は、新たな賃貸借契約を締結し、敷金三十万円を納付すること。
そして最後。
――なお、旧所有者に預託した敷金については、旧所有者に直接請求されたい。
私は紙を置きました。
「……これは」
「ひどいでしょう?」
春江さんの声が震えました。
「前の大家さんは、もう引っ越してしまっているんです。どこにいるのかも分かりません」
「それで新しい大家さんが?」
「前の大家に払った金は知らない、と」
春江さんは唇を噛みました。
「しかも、今月中に三十万円を用意できなければ、出ていってもらうって……」
私はもう一度、通知書を見ました。
三十万円。
工場で働く春江さんにとって、簡単に用意できる金額ではありません。
しかも。
既に払っているのです。
最初の入居時に。
きちんと。
領収書まで受け取って。
「分かりました!」
私は立ち上がりました。
「大丈夫です!」
春江さんが顔を上げます。
「本当ですか?」
「はい! これは民法六百五条の二の問題です!」
「……六百五条の二?」
「賃貸人の地位の移転です!」
よし。
今回は知っています。
現代の行政書士試験でも重要な論点。
不動産の所有者が変わった場合。
賃借人が対抗要件を備えていれば、原則として賃貸人の地位は新所有者に移転する。
しかも。
敷金返還債務も承継される。
「ですから、敷金をもう一度預け直す必要なんて――」
「待て」
相馬先輩の声。
嫌な予感。
「はい?」
「今、何条って言った?」
「民法六百五条の二です」
「……六百五条の二?」
「はい!」
先輩は無言で六法を開きました。
ぱらぱら。
ぱらぱら。
そして。
「こはる」
「はい」
「ねえぞ」
「……え?」
「六百五条の次は、六百六条だ」
……。
あ。
しまった。
またです。
また、やりました。
民法六百五条の二。
あれは令和二年施行の改正民法で新設された条文。
昭和六十三年には存在しません。
「お前な」
相馬先輩が呆れた声を出しました。
「どこの六法を読んで仕事してんだ?」
「い、いえ、その……」
「未来の法律か?」
ぎくっ。
鋭い!
「ま、まさか!」
「だったら今の条文で説明しろ」
「はい……」
私は椅子に座りました。
またしても。
未来の民法が、昭和の机に激突しました。
でも。
問題はここからでした。
「所長!」
私は片桐所長を見ました。
「現代なら、賃貸人の地位が移転することは条文に書いてあります。でも、昭和六十三年には、その条文がないんですよね?」
「ない」
「じゃあ、春江さんはどうなるんですか?」
片桐所長は、春江さんの持参した賃貸借契約書を手に取りました。
「判例がある」
「……判例?」
「そうだ」
所長は静かに続けました。
「今の民法に明文がなくても、最高裁判所が既に判断している問題だ」
なるほど。
現代の改正民法。
突然、何もないところから作られたわけではありません。
長年の裁判で積み重ねられたルール。
それを後から条文にしたものもある。
「こはる」
「はい」
「まず、この人が何を借りているのか確認しろ」
「アパートの一室です」
「そうだ。では、いつから住んでいる?」
私は春江さんを見ました。
「七年前です」
「昭和五十六年から?」
「はい」
「契約書は?」
「あります」
「部屋の鍵は?」
「もちろん持っています」
「実際に住んでいますね?」
「はい。ずっとです」
所長が頷きました。
「それなら、まず旧借家法を開け」
「……旧借家法?」
私は一瞬、止まりました。
借地借家法。
現代なら第三十一条。
建物の引渡しによる対抗力。
……あ。
そうか。
「今は、借地借家法もない!」
「何だ、また妙なことを言って」
相馬先輩が眉をひそめました。
「いえ!」
私は慌てて六法を開き直しました。
昭和六十三年。
この時代は、借地法と借家法が別々に存在しています。
現代の借地借家法が制定されるのは、まだ先。
建物賃貸借の対抗力については、旧借家法第一条が重要になるのです。
「先輩!」
「何だ」
「建物を借りている人は、引渡しを受けていれば、その後に建物の所有権を取得した人にも賃貸借を対抗できますよね!」
「そうだ」
「賃借権の登記がなくても!」
「ああ」
私は春江さんを見ました。
「春江さん。安心してください。少なくとも、新しい所有者が現れたというだけで、今までの賃貸借が消えるわけではありません」
「……本当ですか?」
「はい」
相馬先輩が続けました。
「建物の賃貸借を第三者に対抗できるなら、新しい持ち主にも、賃借人としての立場を主張できる」
「じゃあ、住んでいていいんですね」
「現在の資料を見る限り、その方向で考えられます」
春江さんの肩から、少し力が抜けました。
でも。
片桐所長は、まだ契約書から目を離しませんでした。
「相馬」
「はい」
「新しい所有者の登記を調べろ」
「了解です」
……登記?
今度は、何でしょう。
私が首を傾げると、所長が言いました。
「こはる」
「はい」
「相手は、自分が新しい大家だと言っている」
「はい」
「では、それを賃借人に主張できる状態なのか」
私は息を呑みました。
「……所有権移転登記!」
「そうだ」
新しい問題が出てきました。
借りている側の対抗要件。
そして。
買った側の登記。
民法の戦いは、まだ始まったばかりでした。
翌日。
相馬先輩は法務局で登記簿を調べてきました。
「こはる」
「はい!」
「面白いものが出たぞ」
「何ですか?」
先輩は机に登記簿謄本を置きました。
村瀬荘。
所有者。
村瀬清三。
……。
私は首を傾げました。
「あれ?」
「気づいたか」
「東栄不動産じゃありませんね」
「そうだ」
先輩は指で所有者欄を叩きました。
「登記簿上は、まだ前の大家のままだ」
「じゃあ……」
「黒崎は、アパートを買ったと言ってるが、少なくとも所有権移転登記は済ませていねえ」
私は通知書を見直しました。
――当社は所有権を取得した。
――今日から家賃は当社へ支払え。
――旧契約は承継しない。
……。
これは。
「先輩」
「何だ」
「都合がよすぎませんか?」
「そうだな」
「新しい大家として家賃は請求する。でも、前の大家の敷金返還義務は知らない。さらに新しい敷金を払えって……」
「欲しい権利だけもらって、嫌な義務だけ捨てようって腹だ」
相馬先輩は鼻で笑いました。
「賃貸人の地位ってのは、そんな切り売りができるもんじゃねえ」
私は頷きました。
しかし。
ここで思い出しました。
「でも、先輩。所有権は、登記しなくても売買契約で移転することがありますよね?」
「おう」
「だったら、東栄不動産は本当に所有者になっているかもしれません」
「そうだ」
「じゃあ新しい大家だって主張できるんじゃ……」
「そこが違う」
先輩は、昭和四十九年の最高裁判例が載った資料を取り出しました。
「賃貸している不動産を買った奴が、賃借人に対して自分が賃貸人になったと主張するには、所有権移転登記が問題になる」
「……!」
「売買契約が成立したことと、借主に対して新所有者だと主張できることは別だ」
私は資料を覗き込みました。
最高裁判所。
昭和四十九年三月十九日判決。
賃貸中の土地を取得した者が、賃借人に対して賃貸人の地位を主張するには、所有権移転登記を必要とする。
民法百七十七条。
不動産物権変動の対抗要件。
そこから導かれた判例です。
「なるほど……」
私は小さく呟きました。
「相手は、所有権を取得したことを証明できていないんですね」
「登記による対抗要件を備えていない、ということだ」
片桐所長が言いました。
「ただし、相手が本当に購入していないと決めつけるな」
「はい」
「今は、何を根拠に誰が賃料を請求できるか。その確認が必要だ」
私は頷きました。
そして。
ふと、重大な疑問に気づきました。
「所長」
「何だ」
「もし東栄不動産が所有権移転登記を済ませたら、どうなるんですか?」
「そのときは、別の問題になる」
「別の?」
「賃貸人としての地位を引き継いだなら、何を引き継ぐのか」
……。
私は春江さんの契約書を見ました。
敷金三十万円。
そこには、まだ解決していない問題が残っていました。
三日後。
東栄不動産から春江さんのもとへ、二通目の通知が届きました。
――新契約締結の最終通告。
――敷金三十万円の納付なき場合、居住継続の意思がないものと判断する。
――本月末日をもって明渡しを求める。
私は思わず机を叩きました。
「何ですか、これ!」
相馬先輩が呆れました。
「机を叩くな」
「でも!」
「相手の書いた紙を見ろ」
「見てます!」
「なら、もっとよく見ろ」
私は通知書を見直しました。
居住継続の意思がないものと判断する。
……。
「あ!」
「気づいたか」
「新しい契約を結ばないことと、今の賃貸借を終わらせることは違います!」
「そうだ」
既に成立している賃貸借契約。
その権利を、新所有者に対抗できる。
それなのに、新契約に署名しなかったからというだけで、当然に退去しなければならない。
そんな理屈にはなりません。
「しかも!」
私は続けました。
「既に預けた敷金を無視して、同じ金額をもう一度払わせようとしている!」
「そうだな」
「返還義務を負わないというなら、その法的根拠を説明してもらわないと!」
片桐所長が顔を上げました。
「こはる」
「はい」
「相手の言い分を、一つずつ整理しろ」
「はい!」
私はノートを開きました。
東栄不動産の主張。
第一。
所有者が変わったから、昔の賃貸借契約は引き継がない。
第二。
住み続けるなら、新契約が必要。
第三。
敷金は前の大家に預けたものだから、東栄不動産には関係ない。
第四。
従わなければ退去。
「……四つとも、怪しいですね」
「怪しいじゃ弱い」
相馬先輩が言いました。
「何が、どこで間違ってるかを書け」
「はい」
私は六法を開きました。
借家法第一条。
民法第六百五条。
民法第百七十七条。
そして、賃貸人の地位の承継に関する最高裁判例。
新しい民法の条文を使えないなら。
この時代の法律と判例で組み立てる。
それが昭和の行政書士です。
「所長」
「何だ」
「相手に、確認しておくことはありますか?」
「ある」
所長は言いました。
「旧所有者と新所有者の間で、賃貸借と敷金をどう扱う約束をしたのか」
「はい」
「それから、春江さんの賃料に未払いがないか」
「ありません。毎月、振込の控えがあります」
「確認して保管しろ」
「はい」
「敷金三十万円の領収書は?」
「あります」
「よし」
そして所長は、低い声で言いました。
「書類は、相手が一番困る事実から作る」
……。
一番困る事実。
それは。
敷金を受け取っていないから返さない、という言い訳が、法律上そのまま通用するわけではないこと。
私は、そこに赤線を引きました。
その日の午後。
東栄不動産の黒崎源一が、突然事務所に現れました。
黒い背広。
金色の腕時計。
いかにも景気のよさそうな男です。
「ここが片桐行政書士事務所か」
黒崎は受付を見回しました。
「村瀬春江の件で、何か余計なことを吹き込んでるらしいな」
私はむっとしました。
「余計なことではありません」
「何?」
「契約書と法律を確認しているだけです」
黒崎は鼻で笑いました。
「行政書士か。弁護士じゃないんだろ?」
「はい」
「だったら裁判もできねえじゃないか」
……。
また、この台詞です。
民法編の悪役は、どうしてこうも同じことを言うのでしょう。
「ま、いい」
黒崎は椅子に腰を下ろしました。
「うちがアパートを買ったんだよ。俺が新しい大家だ」
相馬先輩が静かに聞きました。
「所有権移転登記は済んでいますか?」
「……何?」
「登記です」
黒崎は一瞬、顔をしかめました。
「手続中だ」
「そうですか」
「何だよ」
「賃借人に賃貸人としての地位を主張するには、登記の有無が問題になります」
「売買契約書があるんだぞ!」
黒崎は声を荒らげました。
「代金だって払った!」
「そのことと、賃借人に対して所有権取得を対抗できるかは別です」
相馬先輩の声は静かでした。
黒崎の眉間に皺が寄ります。
「細かいことを……!」
相馬先輩は、それ以上追及しませんでした。
「それと、通知書の内容を確認させてください」
「何だ」
「旧所有者との賃貸借契約を承継せず、敷金を新たに三十万円受け取るという方針ですね」
「当たり前だ!」
「旧所有者に預けた敷金は?」
「知らん!」
「そうですか」
「俺が受け取った金じゃねえんだ。返す義務なんかあるか!」
黒崎は机に身を乗り出しました。
「いいか。俺はアパートを買ったんだ。前の大家の借金まで買った覚えはねえ!」
……。
私は思いました。
出ました。
核心です。
「黒崎さん」
私は口を開きました。
「賃貸人の地位は、単に家賃を受け取る権利だけではありません」
「何?」
「契約上の義務も関係します」
「だから何だ!」
「敷金返還債務についても、判例があります」
黒崎の目が細くなりました。
「判例?」
相馬先輩が横から言いました。
「最高裁昭和四十四年七月十七日判決です」
「……」
「賃貸建物の所有権移転に伴い賃貸人の地位が承継された場合、旧賃貸人に差し入れられた敷金について、未払賃料があればそれに充当し、残額の権利義務関係が新賃貸人に承継されるという判断です」
黒崎が黙りました。
「本件は、契約と事実関係の確認が必要ですが」
相馬先輩は続けました。
「少なくとも『自分が受け取っていないから一切関係ない』という説明だけでは済みません」
……。
沈黙。
黒崎はしばらくこちらを睨んでいました。
それから。
「ふん」
鼻で笑いました。
「そんな昔の判例、知らねえな」
……。
昔?
昭和四十四年。
今は昭和六十三年です。
十九年前。
確かに少し前ですけど。
現代から転生してきた私にとっては、むしろ全部昔です。
「とにかく!」
黒崎が立ち上がりました。
「俺は新しい契約書に判を押してもらう。それだけだ」
「ご本人が同意しなければ?」
「出ていってもらう!」
私は思わず言い返しそうになりました。
しかし。
「こはる」
相馬先輩が私を制しました。
「はい」
「聞くべきことは聞いた」
そして黒崎に向かって言いました。
「事情は分かりました。私どもは事実と関係法令を整理し、ご本人の書面作成をお手伝いします」
「好きにしろ!」
黒崎は吐き捨てました。
「だがな。紙なんかで、俺の考えは変わらんぞ!」
乱暴に扉が閉まりました。
しん。
事務所に静けさが戻ります。
「……先輩」
「何だ」
「すごく腹が立ちます」
「俺もだ」
「もっと言い返したかったです」
「無駄だ」
先輩は煙草に火をつけました。
「世の中、声がでかい奴じゃなくて、書面にハンコを押させた奴が勝つんだよ」
私は頷きました。
片桐所長が帳簿を閉じました。
「こはる」
「はい」
「内容証明の原案を作れ」
「はい!」
「ただし」
「はい」
「所有者が変わったことだけを責めるな」
「え?」
「所有者が変わること自体は、違法ではない」
私は止まりました。
「……はい」
「大家が変わっても、借主を守る仕組みがある。そこを使え」
なるほど。
今回、悪いのは所有者の変更ではありません。
新しい大家が、引き継ぐべき義務を否定していること。
そして。
借主に二重の負担を押しつけようとしていること。
「所長」
「何だ」
「相手は、家賃をもらう権利だけ欲しいんですね」
「そうだな」
「でも、賃貸人という立場には、義務もついてくる」
「そのとおりだ」
私は鉛筆を握りました。
さあ。
昭和の民法で。
反撃開始です。
夕方。
私の書いた原案は、片桐所長の机に置かれていました。
所長は、最初の一行を読みました。
そして。
赤鉛筆を取りました。
嫌な予感。
「ここ」
「はい」
「『民法六百五条の二第一項により、賃貸人の地位は当然に移転した』」
「……あっ!」
赤線。
「また未来の条文か」
「すみません!」
「今は昭和六十三年だ」
「はい……」
私は慌てて書き直しました。
「じゃあ、借家法第一条と判例です!」
「そうだ」
所長が頷きました。
「建物の引渡しを受けていること。賃貸借を新所有者に対抗できること。そこから始めろ」
「はい」
私は書き直しました。
――通知人は、昭和五十六年四月一日より、本件建物の一室を賃借し、その引渡しを受け、現在まで継続して居住している。
――したがって、本件賃貸借は、借家法第一条に基づき、本件建物についてその後物権を取得した者に対抗し得るものである。
「よし」
相馬先輩が頷きました。
「次だ」
私は続けました。
――本件建物の所有権移転に伴う賃貸人の地位の承継については、最高裁判所の判例により、賃借人の承諾を当然に要するものではないとされている。
「待て」
先輩が言いました。
「何か足りねえ」
「え?」
「所有権移転登記は?」
「あ……」
「相手はまだ登記してねえんだろ」
「はい!」
私は書き足しました。
――もっとも、貴社が賃貸人としての地位を通知人に主張するについては、所有権移転登記の有無が問題となる。
――よって、貴社が本件建物の賃貸人として賃料その他を請求する法的根拠につき、所有権移転登記の状況を含め、書面による説明を求める。
所長が頷きました。
「そこだ」
私は少し嬉しくなりました。
でも。
本番は、ここからです。
「敷金ですね」
「ああ」
私は領収書を確認しました。
昭和五十六年四月一日。
敷金三十万円。
受領者、村瀬清三。
確かに記載があります。
家賃の支払いも確認しました。
滞納なし。
「書け」
相馬先輩が言いました。
私は鉛筆を走らせました。
――通知人は、旧賃貸人に対し、昭和五十六年四月一日、敷金三十万円を交付している。
――通知人には、現在までの賃料不払いは認められない。
――最高裁昭和四十四年七月十七日判決によれば、建物所有権の移転に伴い賃貸人の地位が承継される場合、敷金に関する権利義務関係も、所定の未払賃料への充当を経た残額について新賃貸人に承継される。
――したがって、賃貸人の地位を承継した者が、旧賃貸人から現実に敷金を受領していないことのみを理由に、敷金に関する義務を一切否定することはできない。
読み終えると。
「よし」
相馬先輩が言いました。
「でも、先輩」
「何だ」
「敷金って、今すぐ返せという話ではないですよね?」
「おう」
私は頷きました。
敷金は、退去して建物を明け渡した後、未払いの債務などを精算して返還されるもの。
現在住み続けている春江さんに、今すぐ三十万円が返されるという話ではありません。
大切なのは。
預けた敷金の存在が消えないこと。
新しい大家に地位が移れば、その義務も問題になること。
そして。
新しい敷金を当然にもう一度払う必要などないことです。
「所長」
「何だ」
「『三十万円を直ちに返還せよ』とは書かない方がいいですね」
「そうだ」
「今の目的は、旧契約の存続と敷金の扱いを明らかにすることです」
所長が頷きました。
「よし」
私は最後の部分を書きました。
――通知人は、従前の賃貸借契約を終了させ、新たな敷金三十万円を差し入れることに同意していない。
――また、貴社の通知のみをもって、既存の賃貸借契約が当然に終了するものではない。
――よって、新たな敷金納付及び新契約締結の要求を撤回するとともに、従前の賃貸借関係と敷金の取扱いにつき、書面による回答を求める。
最後に。
――本件につき法的紛争が継続する場合には、弁護士に相談のうえ、必要な法的措置を検討する。
そこまで書いて、私は鉛筆を置きました。
「……できました」
相馬先輩が原案を読みました。
「悪くねえ」
「本当ですか!」
「ただし、まだ一つ」
「え?」
「必要費と有益費も確認しとけ」
「……必要費?」
私は顔を上げました。
先輩は言いました。
「賃貸人の地位が移るなら、敷金だけじゃねえ。建物にかけた費用の償還義務だって問題になる」
なるほど。
必要費。
賃借物の保存に必要な費用。
有益費。
賃借物の価値を増加させるために支出した費用。
民法第六百八条。
私は春江さんの相談票を確認しました。
そして。
「あっ!」
「何だ」
「春江さん、去年、台所の水道管を修理しています!」
「いくらだ」
「八万円です!」
相談票には、こう書かれていました。
――台所床下の給水管破損。
――旧大家へ連絡したが、修理業者の手配が遅れた。
――生活に支障が出たため、借主が業者を手配。
――修理代金八万円を立替え。
――旧大家は必要な修理費を確認して後日精算すると書面で回答。
私は顔を上げました。
「これも、賃貸人の地位が変わったらどうなるんですか?」
相馬先輩が頷きました。
「そこも確認する必要がある」
片桐所長が言いました。
「領収書と、旧大家の回答書を取り寄せろ」
「はい!」
「ただし、必要費と有益費では、償還の要件や時期が違う。何でも同じ扱いにするな」
「はい」
「修理費が本当に賃貸人の負担すべきものかも確認する」
私は頷きました。
敷金だけではありません。
大家の立場が変われば。
賃貸人として負っていた義務も、問題になる。
建物という物だけが売られるわけではないのです。
そこには。
誰かが暮らしている。
誰かが家賃を払っている。
誰かが敷金を預けている。
誰かが、必要な修理代を立て替えている。
その積み重ねを、売買契約一枚で消せるはずがありません。
「所長」
「何だ」
「この八万円も、相手に示しますか?」
「ああ。証拠をそろえたうえで、償還義務の承継についても見解を求める」
「分かりました!」
こうして。
書類は完成しました。
いや。
ただの書類ではありません。
借家法。
民法。
最高裁判例。
敷金の領収書。
家賃の支払記録。
修理費の領収書。
旧大家の回答書。
そして登記簿。
相手が否定してきた事実を、一枚ずつ積み重ねた内容証明です。
翌朝。
春江さんが事務所へ来ました。
完成した書面を確認し、自分の意思で署名しました。
「これを送れば、追い出されませんか?」
不安そうな声。
私は一瞬、返事に詰まりました。
絶対に追い出されない。
そう言い切りたい。
でも、法律の仕事で軽々しく保証してはいけません。
片桐所長が静かに言いました。
「この書面は、あなたの権利と立場を明確にするものです」
「はい」
「今の賃貸借を守るための法的根拠はあります。ただし、相手が争いを続ければ、弁護士の力が必要になることもあります」
「……そうですか」
「その準備もしてあります」
春江さんは、ゆっくり頷きました。
「分かりました」
そして、書面を見つめました。
「私、間違っていなかったんですね」
私は首を横に振りました。
「少なくとも、大家さんが変わったからといって、今までの約束が全部なくなるわけではありません」
「……はい」
「七年間、家賃を払って暮らしてきたんです。その事実は大切です」
春江さんは、小さく笑いました。
「娘がね」
「はい」
「あの部屋が好きなんです」
窓から、小学校の校庭が見えるそうです。
春になると桜が咲く。
夏には蝉が鳴く。
冬には隙間風が入る。
古いアパートです。
でも。
娘さんにとっては、生まれ育った家。
「主人が亡くなって、引っ越すことも考えました」
春江さんは言いました。
「でも娘が、ここにいたいって」
私は黙って聞きました。
「お父さんと最後に暮らした家だからって」
……。
その一言で。
三十万円という数字が。
ただのお金ではなくなりました。
そこにあるのは、生活です。
私は内容証明の控えを、そっと封筒に入れました。
そして。
春江さん本人の名義で、通知書が発送されました。
四日後。
東栄不動産の黒崎が、また事務所に現れました。
しかし。
前回とは、様子が違いました。
顔色が悪い。
手には、あの内容証明の封筒。
「……片桐さん」
声が小さい。
相馬先輩が顔を上げました。
「何でしょう」
「あの書面なんだが」
「はい」
「ちょっと、困るんだよ」
……。
困る?
私は思わず黒崎を見ました。
「うちはな」
黒崎は椅子に腰を下ろしました。
「アパートの売買代金は払ったんだ」
「そうですか」
「それで、入居者の敷金まで負担しろと言われたら……」
相馬先輩は答えません。
黒崎は続けました。
「そんなの、聞いてなかったんだ」
私は、はっとしました。
……なるほど。
どうやら。
旧大家との売買契約で、敷金の精算を十分に考えていなかったのかもしれません。
「昨日、弁護士に相談した」
黒崎が言いました。
「そしたら……」
ごくり。
私は息を呑みました。
「入居者がいる建物を買うなら、賃貸借の負担を調べておくべきだった、と」
相馬先輩は黙っています。
「敷金の件も、最高裁判例があるから、受け取ってないというだけじゃ通らんと……」
黒崎は額の汗を拭きました。
「しかも、うちの売買契約には、敷金の精算に関する条項がろくに入ってなかった」
……。
私は思いました。
それは。
完全に。
あなた方の問題では?
しかし、口には出しませんでした。
「それから、登記も済んでないんだろうと指摘された」
黒崎は続けました。
「新しい大家だと主張して家賃を取るなら、登記を済ませろって……」
相馬先輩が静かに頷きました。
「そうですか」
「……」
「それで、どのようなご用件でしょう」
黒崎は封筒を見つめました。
長い沈黙。
そして。
「新しい敷金を払わせる話は、撤回する」
……!
私は思わず顔を上げました。
「新契約も強制しない」
黒崎は続けました。
「今までの契約を前提にする。敷金も……賃貸人の地位を承継する以上、きちんと扱わなきゃいけないんだろう」
相馬先輩は表情を変えません。
「その点は、相手方ご本人に書面でお伝えください」
「ああ」
「私どもは、依頼人の代理人として示談交渉をする立場ではありませんので」
「分かってる」
黒崎は、ため息をつきました。
「……内容証明ってのは、厄介なもんだな」
相馬先輩が答えました。
「書かれているのは、事実と法律です」
「……」
「それを厄介と感じる理由は、こちらには分かりません」
……。
先輩。
容赦ありません。
黒崎は力なく笑いました。
「俺も、勉強不足だったってことか」
その顔から、前回の余裕は消えていました。
帰り際。
黒崎は小さく言いました。
「旧所有者との間でも、改めて精算を確認するよ」
相馬先輩が頷きました。
「それは売主との間で整理すべき問題でしょう」
「……そうだな」
黒崎は事務所を出ていきました。
扉が閉まります。
私は、ゆっくり息を吐きました。
「……先輩」
「何だ」
「折れましたね」
「ああ」
「敷金の二重払い、撤回しましたね!」
「そうだな」
「やりました!」
私は拳を握りました。
でも。
「まだだ」
相馬先輩は言いました。
「またですか!」
「書面が来てから喜べ」
「……はい」
そうでした。
口約束。
それだけでは、まだ終わらない。
法律の仕事は。
最後まで、証拠です。
その一週間後。
東栄不動産から、春江さん宛てに書面が届きました。
――従前の賃貸借契約を尊重し、新たな賃貸借契約の締結及び敷金の追加差入れを求めない。
――旧賃貸人に交付された敷金三十万円については、賃貸人の地位の承継に伴い、その権利義務関係を承継するものとして取り扱う。
――賃貸借終了時には、未払賃料その他の被担保債務を精算したうえで、返還すべき残額を返還する。
――修理費八万円については、関係資料を確認し、償還義務の有無及び範囲を別途書面により回答する。
そして。
――従前の新契約締結要求及びこれに応じないことを理由とする明渡要求を撤回する。
私は読み終えました。
「……!」
今度こそ。
春江さんの暮らしを脅かしていた要求が、正式に撤回されました。
その後、東栄不動産は所有権移転登記を済ませ、旧大家との敷金精算も確認しました。
修理費八万円についても、旧大家の回答書と工事内容を踏まえ、賃貸人側が負担すべき必要費であることを認める書面を春江さんに送りました。
返済方法については、春江さん自身が相手方と確認し、八万円の支払いを受けることになりました。
そして。
アパートの賃貸借契約は、そのまま続きました。
家賃も。
居住条件も。
従前の約束を基本として。
春江さんは、これまでどおりの部屋で暮らせることになったのです。
「本当に、ありがとうございました」
数日後。
春江さんが、娘さんを連れて事務所にやってきました。
娘さんは、小さな紙袋を持っています。
「これ、お母さんと作ったんです」
中身は。
手作りのクッキー。
「わあ!」
私は思わず笑いました。
「ありがとう!」
娘さんは恥ずかしそうに笑いました。
「お母さん、最近ずっと元気なかったから」
「……うん」
「でも、もう引っ越さなくていいんだよね?」
私は春江さんを見ました。
春江さんは頷きました。
「そうよ」
娘さんの顔が明るくなりました。
「よかった!」
そして言いました。
「来年も、あの窓から桜が見られるね!」
……。
私は胸が熱くなりました。
敷金三十万円。
新契約。
賃貸人の地位の移転。
所有権移転登記。
試験の問題文では、どれも硬い言葉です。
でも。
そこには。
小さな女の子が、来年も同じ窓から桜を見たいという願いがある。
法律が守っているのは、そういうものなのかもしれません。
二人が帰ったあと。
私は机の上に広げた書類を見つめました。
「相馬先輩」
「何だ」
「今回の事件、すごく勉強になりました」
「そうか」
「最初、簡単だと思ったんです」
「何が」
「大家さんが変わる。それだけの話かと」
先輩が煙草をくわえました。
「で?」
「でも、違いました」
私は指を一本立てました。
「まず、借主が新所有者に賃貸借を対抗できるか」
「うん」
「次に、新所有者が大家になったことを借主に主張できるか」
「そうだ」
「それから、大家の地位が移るなら、敷金や費用償還の義務はどうなるか」
「そこだな」
私は頷きました。
似ているようで、違う問題です。
借りている人が、家に住み続けられるか。
新しい所有者が、大家として家賃を請求できるか。
敷金を、誰が返す義務を負うか。
それぞれに、法律上の理由が必要なのです。
「先輩」
「何だ」
「現代の民法だと、この辺りが条文で整理されるんですよね」
「また未来か」
「あっ!」
私は口を押さえました。
しまった。
でも、心の中では思います。
令和二年施行の改正民法。
第六百五条の二。
賃貸人の地位の移転。
そこには、今日勉強した判例法理が明文化されています。
賃借人が対抗要件を備えている場合の賃貸人の地位の移転。
所有権移転登記。
敷金返還債務。
費用償還債務。
昭和六十三年には、まだその条文がありません。
でも。
考え方そのものは、既に裁判の中で育っていたのです。
「……法律って、面白いですね」
私が呟くと、相馬先輩が笑いました。
「お前、そればっかりだな」
「だって本当に面白いんです!」
「まあ、今日の黒崎はいい勉強になったろうな」
「何がですか?」
「不動産を買うってのは、建物だけ買えばいいってもんじゃねえ、ってことだ」
私は頷きました。
「そこに住んでいる人との契約もあるんですね」
「そうだ」
「敷金もある」
「ああ」
「修理費の問題もある」
「そうだな」
「……買う前にちゃんと調べないと大変ですね」
相馬先輩がにやりとしました。
「高い授業料だな」
私は苦笑しました。
でも、たぶん。
春江さんに三十万円をもう一度払わせようとした黒崎は、もっと大きな失敗をするところだったのです。
もし、あのまま無理に追い出そうとしていたら。
弁護士が介入し、裁判になっていたかもしれません。
明渡しが認められないだけでなく、違法な行為によって損害を与えれば賠償の問題も生じます。
判決などの債務名義に基づく支払義務を履行しなければ、強制執行に進む可能性もある。
それを。
事実と法律を整理した内容証明によって。
争いが大きくなる前に止めることができた。
行政書士は、裁判で戦えません。
争いの代理交渉もできません。
でも。
法的な問題を見つけること。
書類に残すこと。
依頼人が自分の権利を正しく主張できるよう、適法な範囲で書面作成を支えること。
それはできます。
そして。
その仕事が、人の生活を守ることにつながる場合もあるのです。
夕方。
片桐所長が帳簿を閉じました。
「こはる」
「はい!」
「今日、何を覚えた」
私は少し考えました。
「大家が変わっても、借主の権利が当然に消えるわけではありません」
「うん」
「建物の引渡しを受けていれば、旧借家法によって新所有者にも賃貸借を対抗できる」
「そうだ」
「そして、新所有者が賃貸人としての地位を借主に主張するには、所有権移転登記が問題になる」
「うん」
「さらに、賃貸人の地位を承継したら、家賃を受け取る権利だけじゃなく、敷金返還債務などの義務も引き継ぐ」
所長が頷きました。
「よし」
私は嬉しくなりました。
でも。
もう一つ、大切なことがありました。
「所長」
「何だ」
「今回、一番印象に残ったのは……」
私は少し言葉を探しました。
「家が売られても、そこに暮らす人の生活は続いているってことです」
所長は黙って聞いていました。
「所有者が変わることはあります。でも、それを理由に、今までの約束を全部なかったことにはできない」
「そうだ」
「民法って、物だけじゃなくて、その物を使って生活している人も守っているんですね」
片桐所長は静かに頷きました。
「それが分かればいい」
私はノートを開きました。
今日の教訓。
そこに一行だけ書きました。
――大家が変わっても、借主の権利は消えない。賃貸人の地位には、権利だけでなく義務もついてくる。
「……よし!」
私は鉛筆を置きました。
「完璧です!」
相馬先輩が覗き込みました。
「まあ、悪くねえな」
「褒めましたね!」
「気のせいだ」
「またそれですか!」
私は笑いました。
窓の外。
夕暮れの町に、家々の明かりが灯っていきます。
あのどこかで。
春江さんと娘さんは、いつもの部屋で夕食を食べているのでしょう。
家賃四万五千円。
敷金三十万円。
木造二階建て。
築年数の古いアパート。
不動産屋から見れば、収益物件。
売買契約書に書かれた数字の一つかもしれません。
でも。
そこには。
父親の思い出が残っている。
母親が働いて守ってきた生活がある。
娘が来年も見たい、桜の景色がある。
それは。
所有者が変わったからといって、簡単に切り捨てていいものではありません。
「ところで、こはる」
相馬先輩が言いました。
「はい?」
「今回の事件、もう一つ重要なことがあるぞ」
「何ですか?」
「建物と土地では、対抗要件が違う場合がある」
「あ」
私は顔を上げました。
「建物の賃貸借は、引渡しですね!」
「そうだ」
「でも、建物を所有するために土地を借りている場合は……」
私は少し考えました。
現代なら。
借地借家法第十条。
借地上の建物の登記。
でも。
昭和六十三年には、その条文もまだ存在しません。
「……建物保護ニ関スル法律!」
「そうだ」
相馬先輩が頷きました。
「建物所有目的の借地なら、土地の賃借権そのものの登記がなくても、借地人が登記ある建物を所有していることで第三者に対抗できる場合がある」
「はい!」
「建物を借りるのと、土地を借りて自分の建物を持つのとでは、確認するものが違う」
なるほど。
私はノートに書き足しました。
建物を借りる。
引渡し。
土地を借りて建物を所有する。
借地上の建物登記。
もちろん、土地の賃借権自体に登記がある場合は、民法第六百五条による対抗力も問題になります。
「先輩!」
「何だ」
「これ、今度は土地の相談が来たら使えますね!」
「おう」
「私、もう未来の条文を間違えません!」
「信用ならねえな」
「ひどい!」
そのとき。
電話が鳴りました。
「はい、片桐行政書士事務所です!」
『あのう……』
年配の男性の声。
『わしの土地を、人に貸してるんですが……』
私は相馬先輩を見ました。
先輩もこちらを見ました。
『その土地を売ったら、借りてる人の建物はどうなるんでしょうか』
……。
来ました。
今度は土地です。
しかも。
『借りてる人が、そこに家を建ててるんです』
私は思わず叫びました。
「先輩!」
「聞こえてる!」
「建物の登記です!」
「まだ分かんねえだろ!」
「建物保護ニ関スル法律ですよ!」
「まず事情を聞け!」
「はいっ!」
私は受話器を握り直しました。
「すみません。まず、土地を貸した時期と、建物の登記について教えてください」
昭和六十三年。
民法の世界は、今日も奥が深い。
土地を売る。
建物を売る。
大家が変わる。
地主が変わる。
一見すると、ただ所有者が変わるだけの話。
でも。
その裏には。
今まで築いてきた契約関係と、生活を守るための法律がある。
そして私は、今日もう一つ確信しました。
法律を知らない人に向かって、
「大家が変わったから、全部やり直しだ」
と脅す相手ほど。
登記簿と判例を並べられた瞬間、顔色が変わることがある。
だって。
家の持ち主になることと。
そこに暮らす人の権利を消せることは。
まったく別の話なのです。
私はノートの最後の一行を、もう一度見つめました。
――大家が変わっても、借主の権利は消えない。賃貸人の地位には、権利だけでなく義務もついてくる。
これなら。
もう忘れません。
……たぶん。
「こはる!」
「はい!」
「電話の相手を待たせるな!」
「今、法律の大切さを噛みしめていたんです!」
「噛みしめるのは後にしろ!」
「はいっ!」
昭和六十三年。
片桐行政書士事務所。
今日もまた、誰かの暮らしを守るために。
古い六法が、音を立てて開かれるのでした。
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