[民法・賃貸借]法理編 こはるノート
借りた物が壊れたら、誰がお金を払うのでしょうか。
借りている人?
貸している人?
それとも、壊れた原因によって変わる?
そして。
借りた物を少し良くしたら、その費用は返してもらえるのでしょうか。
実は、民法には。
\*\*「今すぐ返してもらえるお金」と「契約が終わるまで待つお金」\*\*があります。
たったこれだけの違いが。
十二万円を取り戻せるかどうかを左右するのです。
昭和六十三年。
夕方の片桐行政書士事務所。
私は机に向かい、ノートを開いていました。
表紙には大きく、
――こはるノート・民法編。
と書いてあります。
「……先輩」
「何だ」
「賃貸借って、借りたらお金を払って、最後に返すだけだと思ってました」
相馬先輩が新聞から顔を上げました。
「ずいぶん雑な理解だな」
「でも、間違いではないですよね?」
「間違いじゃねえが、それだけじゃ足りねえ」
私は頷きました。
昨日の事件。
藤野澄江さん。
駅前商店街の仕立て屋。
建物を借りて十年。
突然の雨漏り。
大家の黒田徳三は、修理を拒否しました。
仕方なく澄江さんが屋根を直したところ。
修理費用、十二万円。
ところが大家は、
「借りているのは、あんただろ!」
「修理代も、あんたが払え!」
と怒鳴ったのです。
しかも、契約書には、
――修繕及び原状回復に要する費用は、すべて賃借人負担。
という特約までありました。
最初は、私も青ざめました。
でも。
契約当初の覚書。
過去の修繕実績。
屋根の劣化を示す工事業者の書面。
大家が雨漏りを知っていた証拠。
それらを揃えて内容証明を送った結果。
黒田は自分から十二万円を返したのです。
「所長」
「何だ」
「今日は賃貸借を、最初から整理したいです」
「いいだろう」
「民法六百一条からです!」
相馬先輩が煙草をくわえました。
「長くなるぞ」
「覚悟してます!」
「だったら、昨日みたいに五十年なんて言うなよ」
「……!」
いきなり、そこですか。
私は慌ててノートを開き直しました。
昭和の民法。
令和の民法。
そして、賃貸借。
今日も時代錯誤との戦いが始まります。
◇
「まず、賃貸借とは何か」
私はノートに書きました。
――賃貸借。
貸主が、借主に物を使用・収益させることを約束する。
借主が、その対価として賃料を支払うことを約束する。
「民法六百一条ですね」
「そうだ」
相馬先輩が頷きました。
「でも先輩。使用と収益って、どう違うんですか?」
「仕立て屋を思い出せ」
「澄江さんのお店ですね」
「ああ」
「建物の中でミシンを使うのが、使用です」
「うん」
「その建物を使って仕立て屋を営み、収入を得るのが、収益ですね」
「そういうことだ」
なるほど。
ただ建物の中にいるだけではありません。
借主は、契約で定めた目的に従って、その物を利用できます。
畑なら、作物を育てる。
店舗なら、営業する。
住宅なら、そこで暮らす。
それが賃貸借です。
「じゃあ、借主は何をするんですか?」
「家賃を払う」
「はい」
「それから?」
「契約が終われば、借りた物を返します」
「そうだ」
私は頷きました。
そして、ふと手を止めました。
「あれ?」
「何だ」
「先輩。昭和六十三年の民法六百一条って、今の条文と少し違いませんか?」
「ほう」
私は六法を見比べるつもりで、頭の中に現代の条文を思い浮かべました。
現代の民法六百一条には、借主が契約終了時に物を返還する約束も、定義の中に書かれています。
でも。
昭和六十三年の六百一条には、その部分が明記されていません。
「あっ!」
「気づいたか」
「現代では『引渡しを受けた物を契約が終了したときに返還すること』まで、条文に書かれているんです!」
「昔から返還義務がなかったわけじゃねえぞ」
「はい!」
相馬先輩が頷きました。
「返すのは当たり前の話だ。条文の書き方が変わったんだよ」
私はノートに書きました。
昭和六十三年。
民法六百一条は、使用・収益と賃料の支払を中心に定義。
令和。
契約終了時の返還義務も、定義の中に明記。
「つまり、現代では賃貸借の内容が、より分かりやすく書かれるようになったんですね」
「そういうことだ」
私は小さく笑いました。
なるほど。
法律の改正は、必ずしも新しい権利を作るだけではない。
昔から認められていたことを、条文にはっきり書く改正もあるのです。
◇
「では、次です!」
私はページをめくりました。
――賃貸借の存続期間。
「先輩、ここはもう間違えません!」
「そうか」
「現代は五十年!」
「……」
「昭和六十三年は二十年!」
「よし」
私は拳を握りました。
やりました。
昨日の失敗を克服しました。
現代の民法六百四条。
賃貸借の存続期間は、最長五十年。
五十年を超える期間を定めても、民法上は五十年となります。
更新もできます。
ただし、更新後の期間についても、更新時から五十年を超えることはできません。
「でも昭和六十三年は違うんですよね」
「ああ」
私は当時の六法を開きました。
民法六百四条。
原則として、賃貸借の存続期間は二十年を超えることができない。
「じゃあ、百年契約って書いたら?」
相馬先輩が聞きました。
「当時の民法六百四条の原則では、二十年になります!」
「じゃあ、今の民法では?」
「五十年です!」
「更新は?」
「昭和では更新時から二十年以内。現代では更新時から五十年以内です!」
よし。
完璧。
……と思ったところで。
「こはる」
片桐所長が口を開きました。
「土地や建物でも、必ずその数字だけで決まるか」
「え?」
私は止まりました。
「……二十年では?」
「借地法や借家法を忘れるな」
……。
そうでした。
昭和六十三年。
土地や建物の賃貸借には、旧借地法・旧借家法といった特別法が存在します。
たとえば、建物所有を目的とする土地の賃貸借。
民法だけで単純に二十年とは言えません。
旧借地法には、建物の種類や契約の定め方による特別な期間の規律があります。
建物の賃貸借にも、期間の定めや更新について特別な保護がありました。
「つまり……」
私は言いました。
「民法六百四条の二十年は、賃貸借すべてに機械的に当てはめる数字じゃないんですね」
「そうだ」
所長が頷きました。
「特別法があれば、そちらも見る」
「はい!」
現代でも、借地借家法などの特別法を確認しなければなりません。
一般法。
特別法。
この関係は、行政書士試験でも重要です。
「先輩」
「何だ」
「民法だけ覚えても、安心できないんですね」
「それが法律だ」
「厳しい……」
「仕事で間違えるよりましだろ」
……確かに。
私はノートに大きく書きました。
――期間は、まず特別法の有無を確認!
これは忘れられません。
◇
「さて、本題だ」
相馬先輩が新聞を畳みました。
「はい!」
「澄江さんの十二万円。どうして請求できた?」
「民法六百八条です!」
「その前に?」
「……六百六条!」
「そうだ」
私はノートの中央に書きました。
――賃貸人の修繕義務。
民法六百六条。
貸主は、賃貸物の使用及び収益に必要な修繕をする義務を負う。
「たとえば、貸した建物の屋根が壊れた」
「うん」
「雨漏りして、店として使えない」
「そうだ」
「この場合、貸主の修繕義務が問題になります」
「正解」
私は昨日の仕立て屋を思い出しました。
バケツ。
濡れた床。
ビニールシートをかけたミシン。
そして、茶色い染みがついた白いワンピース。
あれでは、まともに仕事ができません。
「でも所長」
「何だ」
「現代の民法六百六条には、ただし書がありますよね」
私は現代の条文を思い浮かべました。
賃借人の責めに帰すべき事由によって修繕が必要になった場合には、賃貸人は修繕義務を負わない。
「ところが、昭和六十三年の条文には、そのただし書がないんです」
相馬先輩が頷きました。
「よく気づいたな」
「褒めましたね!」
「続けろ」
「はい!」
私は書きました。
昭和六十三年の民法六百六条第一項。
賃貸人の必要な修繕義務を規定。
令和の民法六百六条第一項。
賃借人の責めに帰すべき事由による修繕について、賃貸人は義務を負わない旨を明文化。
「ただし」
片桐所長が言いました。
「昭和には、借主が自分で壊しても必ず大家が全部負担する、という意味ではない」
「はい」
修繕義務の規定。
損傷の原因。
債務不履行による責任。
契約上の費用負担。
これらを合わせて考える必要がありました。
現代の改正では、その関係の一部が条文上も明確になったのです。
「じゃあ、たとえば借主が壁を蹴って穴を開けたら?」
相馬先輩が聞きました。
「借主に責任があるので、その修繕費用まで当然に大家さんが負担するわけではありません」
「そうだ」
「反対に、長年の雨風で屋根が劣化した場合は?」
「通常は貸主の修繕義務が問題になる」
「はい!」
私は頷きました。
ここで大切なのは。
壊れた。
だから大家。
あるいは。
借りている。
だから借主。
そんな単純な決め方をしないことです。
「それと、もう一つ」
所長が言いました。
「六百六条の二項だ」
「あっ」
私は六法を開きました。
賃貸人が賃貸物の保存に必要な行為をしようとするとき、賃借人はこれを拒むことができない。
「つまり、大家さんが屋根の必要な修理をすると言ったら、借主は自由に拒否できないんですね」
「そうだ」
「自分の店だから、誰も入れるなって言ったとしても?」
「保存に必要な工事なら、原則として拒めん」
私は少し考えました。
「でも、工事のせいでお店が使えなくなったら?」
「いい質問だ」
所長が別の条文を指しました。
民法六百七条。
賃貸人が賃借人の意思に反して保存行為をしようとする場合、そのために賃借の目的を達成できなくなるときは、賃借人は契約を解除できる。
「なるほど……」
私は頷きました。
大家には修繕する権限と義務がある。
借主は、必要な保存行為を原則として拒めない。
でも。
その工事によって借りた目的を達成できなくなる場合には、借主を守る仕組みもある。
「貸主と借主、どちらか一方だけを守っているわけじゃないんですね」
「そういうことだ」
相馬先輩が笑いました。
「民法ってのは、片方の都合だけで動くもんじゃねえんだよ」
◇
「さて」
私は鉛筆を握り直しました。
「次は、昨日の最大の決め手です!」
――必要費。
民法六百八条第一項。
「先輩、必要費って何ですか?」
「借りた物を維持するために必要な費用だ」
「そうです!」
私はノートに、屋根の絵を描きました。
その下に、小さな雨粒。
さらに。
十二万円。
「絵が下手だな」
相馬先輩が言いました。
「法律のノートです!」
「屋根がひっくり返った鍋に見えるぞ」
「そこは見逃してください!」
私は咳払いしました。
「必要費とは、物の保存や通常の使用に必要な費用です」
たとえば。
屋根の雨漏りを止める修理。
腐った配管の補修。
使用に必要な設備の修繕。
ただし、すべての修理費用が無条件で大家の負担になるわけではありません。
民法六百八条第一項が定めているのは、
――賃貸人の負担に属する必要費。
です。
「ここが重要なんですよね」
「ああ」
相馬先輩が頷きました。
「必要費だから即請求、で終わるな」
「はい」
「誰の負担に属する費用かを確認する」
「そのとおりです!」
今回の十二万円については。
屋根の経年劣化。
貸主への通知。
貸主が修繕しなかった事実。
契約当初の覚書。
従前の修繕実績。
それらを調べた結果。
貸主負担の必要費だと主張できる根拠が揃いました。
「だから、直ちに償還を請求できたんですね」
「そうだ」
私は大きく丸をつけました。
――必要費は、貸主負担なら直ちに償還請求。
「直ちに、というのが大切です!」
「何でだ?」
「契約終了まで待つ必要がないからです!」
澄江さんは、まだ仕立て屋を続けています。
契約も続いています。
それでも十二万円を請求できました。
もし。
契約終了まで待たなければならなかったら。
十年。
二十年。
場合によっては、それ以上。
お店を続けている間、ずっと自腹のままになってしまいます。
「だから、必要費は早く返してもらえる仕組みなんですね」
私が言うと、所長が頷きました。
「貸主が負担すべき費用を、借主が立て替えたような関係だからな」
私は、その言葉を書き留めました。
必要費。
貸主の負担を、借主が立て替えた。
だから、直ちに請求できる。
なるほど。
理屈で理解すると、忘れません。
◇
「ところで、先輩」
「何だ」
「ここでも、昭和と令和で違いがありますよね」
「どこだ」
「借主が自分で修繕できる場合です」
私は現代の条文を思い浮かべました。
民法六百七条の二。
賃借人による修繕。
「現代では、借主が修繕できる場面が明文化されています」
たとえば。
借主が修繕の必要性を通知した。
あるいは、大家がすでに知っていた。
それなのに、大家が相当の期間内に必要な修繕をしない。
そんな場合。
借主は、自分で修繕できる。
さらに。
急迫の事情がある場合も、修繕できます。
「でも!」
私は六法を開きました。
「昭和六十三年には、六百七条の二がありません!」
「そうだな」
相馬先輩が頷きました。
「じゃあ、澄江さんは自分で修理しちゃいけなかったんですか?」
「そんな単純な話じゃねえ」
相馬先輩は、昨日の工事業者の書面を指しました。
「雨漏りは放置できなかった。大家は状況を知っていた。しかも、自分で修理しろと言っている」
「はい」
「こうした事情のもとで修繕した費用について、六百八条の償還請求が問題になるんだ」
私は頷きました。
昭和六十三年には、現在の六百七条の二のような明文規定はない。
でも。
借主による修繕が一切認められなかったわけではありません。
個別の事情や契約関係を踏まえて判断されていました。
「現代の改正では、借主が修繕できる場合が分かりやすくなったんですね」
「そういうことだ」
私は書きました。
昭和。
借主の修繕について、現代の六百七条の二の規定はない。
令和。
通知後に相当期間内の修繕がない場合、または急迫の事情がある場合に、借主が修繕できることを明文化。
「ただし!」
私は自分で付け加えました。
「借主がいつでも好き勝手に修繕して、全額請求できるわけではありません!」
相馬先輩が笑いました。
「やっと分かってきたな」
「はい!」
借主が修繕できるか。
その費用は誰が負担するか。
この二つは、関係していますが別の問題です。
自分で修繕できる場合でも、その費用が当然にすべて貸主負担になるとは限りません。
修繕の必要性。
原因。
金額の相当性。
契約上の費用負担。
それらを確認する必要があるのです。
……難しい。
でも。
澄江さんの十二万円を思い出せば、理解できます。
◇
「さて、こはる」
相馬先輩が机の上に、もう一枚の紙を置きました。
「次はこれだ」
「何ですか?」
「澄江さんが、昔やった内装工事の見積書だ」
私は紙を受け取りました。
――店舗内装改修工事。
――壁面収納設置。
――照明設備改修。
――工事費用二十万円。
「こんな工事もしていたんですね」
「ああ。ただし、今回は本人が費用を請求しているわけじゃない。勉強の材料だ」
「なるほど!」
私はノートに書きました。
――有益費。
民法六百八条第二項。
「先輩。必要費と有益費の違いを、一言で説明すると?」
「必要費は、物を維持するための金だ」
「はい」
「有益費は、物の価値を増加させるための金だ」
「そうです!」
私は二つを並べました。
必要費。
雨漏りを直す。
壊れた配管を修理する。
使える状態を維持する。
一方。
有益費。
古い店舗に価値のある設備を設ける。
土地を改良して価値を高める。
建物の設備を改善する。
「じゃあ、澄江さんの二十万円は、有益費ですね!」
「そうなる可能性はある」
「可能性?」
「ああ」
相馬先輩が言いました。
「金をかけて内装を変えたからといって、必ず有益費になるわけじゃねえ」
「え?」
「ただの趣味で変えた内装だったらどうする?」
「……あ」
「大家にとって価値が増えているか。それを考えるんだ」
なるほど。
借主が便利になったことと、賃貸物そのものの価値が増加したことは、同じではありません。
しかも。
取り外して持って帰れる設備なら、それが建物の一部なのか、借主自身の所有物なのかも問題になります。
「エアコンなんかもそうですね」
私は言いました。
「借主が設置したからといって、必ず大家に購入代金を請求できるわけではない」
「そうだ」
「取り外せる設備なのか、建物にどんな価値が残ったのか、契約で何を約束したか……」
「全部確認する必要がある」
私は頷きました。
そして、六百八条第二項を読み直します。
――賃貸借の終了の時。
「あっ!」
「何だ」
「必要費と違って、契約終了時なんですよね!」
「そうだ」
私は大きく書きました。
必要費。
原則として、直ちに償還請求。
有益費。
原則として、賃貸借終了時に償還請求。
「何で有益費は、すぐ請求できないんですか?」
相馬先輩が腕を組みました。
「じゃあ、考えてみろ」
「はい」
「借主が二十万円かけて、立派な設備をつけた」
「はい」
「その翌日、大家に二十万円払えって言った」
「はい」
「大家は困らねえか?」
「……困ります」
「その設備が十年後にどうなってるかも分からねえだろ」
「あっ!」
私は理解しました。
有益費。
価値を増やすために使ったお金。
でも。
価値は、時間とともに変わります。
二十万円かけた設備でも。
十年後には古くなる。
壊れるかもしれない。
取り外されるかもしれない。
「だから、契約終了時に、価値の増加が残っているか確認するんですね!」
「そういうことだ」
民法六百八条第二項。
そして、民法百九十六条第二項。
私はノートに線を引きました。
――有益費は、賃貸借終了時に価格の増加が現存する場合に、償還が問題となる。
「じゃあ、二十万円使っても、その時点で価値の増加が残っていなければ?」
「原則として、その有益費の償還は請求できねえ」
「厳しい!」
「大家だって、価値が残ってねえものに払えと言われても困るだろ」
「確かに……」
さらに。
ここには、もう一つの落とし穴がありました。
「先輩!」
「何だ」
「もし二十万円使って、契約終了時に増えた価値が五万円しか残っていなかったら?」
「貸主は、支出額と増価額のどちらを償還するか選べる」
「つまり?」
「二十万円か五万円だな」
「大家さんが選ぶんですよね?」
「そうだ」
「じゃあ五万円を選べる!」
「そういうことだ」
私は頭を抱えました。
「二十万円使って、五万円しか返ってこないんですか!」
「そういうこともある」
「十五万円も違う!」
「だから勝手に大金をかけるなって話だ」
なるほど。
ここが必要費との大きな違いです。
必要費は、貸主の負担に属する必要な支出について、直ちに償還を求める。
有益費は、契約終了時に残った価値を踏まえて、貸主が支出額と増価額のいずれかを選択する。
「所長」
「何だ」
「有益費について、返還請求しないという特約があったらどうなりますか?」
「その特約の有効性と適用範囲を検討する必要がある」
「はい」
「賃貸借契約では、有益費の償還を排除する特約が置かれることもある」
私は頷きました。
つまり。
お金をかけて良くしたから、必ず返してもらえる。
そう思い込むのは危険なのです。
「それに、こはる」
所長が続けました。
「有益費には、裁判所が貸主の請求により相当の期限を許与できる仕組みもある」
「支払猶予ですか?」
「そうだ」
私は書きました。
――有益費は、終了時・増価現存・貸主の選択・期限許与に注意。
……覚えること、多いですね。
「先輩」
「何だ」
「もう必要費だけ覚えて帰っていいですか?」
「駄目だ」
「ですよね……」
行政書士試験。
甘くありません。
◇
「さて、次だ」
相馬先輩が言いました。
「澄江さんは、何で十二万円を取り戻せた?」
「民法六百八条です!」
「それはさっき聞いた」
「えっ」
「ほかに大事なことがあっただろ」
私は首をかしげました。
必要費。
修繕義務。
契約書。
……。
「あっ!」
「思い出したか」
「大家さんへの通知です!」
私はノートに書きました。
――賃借人の通知義務。
民法六百十五条。
賃借物に修繕が必要になったとき。
借主は、原則として、遅滞なく貸主に通知しなければなりません。
「何で通知が必要なんですか?」
相馬先輩が聞きました。
「大家さんが修繕の必要性を知らなかったら、修理の対応ができないからです」
「そうだ」
私は昨日の事件を思い出しました。
澄江さんは、雨漏りが発生した日に大家へ電話しました。
さらに。
大家自身が店を訪れ、雨漏りを確認していました。
「だから通知についても、事実が揃っていたんですね」
「ああ」
「もし大家さんが最初から知っていた場合は?」
「改めて通知する義務はない」
「正解です!」
私は小さく笑いました。
相馬先輩が眉をひそめます。
「何でお前が採点するんだ」
「勉強会ですから!」
「勝手に教師になるな」
でも。
ここは覚えやすいと思います。
大家が知らないなら、知らせる。
大家が知っているなら、重ねて知らせる必要はない。
理屈がはっきりしています。
「ただし」
私は続けました。
「通知していないから、必ず修理代を請求できなくなる、という話ではありませんよね」
「そうだ」
相馬先輩が頷きました。
「通知義務の問題と、費用償還請求の成否は、事情を分けて考える必要がある」
「はい!」
もちろん。
知らせなかったことで損害が拡大したような場合には、借主側の責任も問題になります。
だから。
修繕が必要だと気づいたら、できるだけ早く知らせる。
そして。
いつ。
誰に。
何を伝えたのか。
記録を残す。
「昭和では、これが特に大切ですね」
私が言うと、所長が頷きました。
「電話だけでは、後から争いになることもある」
「はい」
「だから、手紙や記録を残す」
私は書きました。
――故障を発見したら、通知と証拠。
今回の事件でも。
大家が現場を見たという目撃証言が、重要な役割を果たしました。
法律上の義務を知る。
そして、その義務を果たした証拠を残す。
その二つが揃って、初めて現場で役立つ知識になるのです。
◇
「次は、原状回復です!」
私は勢いよくページをめくりました。
――原状回復義務。
「澄江さんの事件では、大家さんがこんなことを言っていました」
私は低い声で言いました。
「借りたときと同じ状態に戻せ!」
相馬先輩が顔をしかめました。
「似てねえな」
「また物真似の評価ですか!」
「もっと腹から声を出せ」
「物真似の練習じゃありません!」
私は咳払いしました。
原状回復。
契約終了時に、賃借物に生じた損傷について、借主が一定の回復義務を負うこと。
ただし。
すべてを新品に戻す義務ではありません。
「ここが重要ですよね」
「ああ」
たとえば。
十年間住んだ部屋。
家具を置いていた部分の床に、へこみができた。
壁紙が日焼けした。
テレビの後ろの壁が黒ずんだ。
こうした通常の使用に伴う損耗や、時間の経過による変化まで、当然に借主が負担するとは限りません。
「現代では、民法六百二十一条に書かれています!」
「また未来だな」
「今日は比較しているんです!」
私はノートに書きました。
令和の民法六百二十一条。
賃借人は、受け取った後に生じた損傷について、原状回復義務を負う。
ただし、通常の使用及び収益によって生じた損耗や、経年変化は除かれる。
また、賃借人の責めに帰することができない損傷についても、原状回復義務を負わない。
「でも、昭和六十三年には、この条文がないんですよね」
「そうだ」
相馬先輩が頷きました。
「当時は、契約の内容や賃貸借の性質などから、返還時の義務を考える」
「はい」
私はノートの上に、二つの言葉を書きました。
通常損耗。
経年変化。
「まず通常損耗です」
通常の使い方をしていて、自然に発生する傷み。
たとえば、家具を置いたことで生じた通常の設置跡。
人が普通に歩くことで生じる床の摩耗。
「次は経年変化」
時間が経つことによって起きる劣化。
日光による壁紙の色あせ。
雨風による建物の劣化。
設備の自然な老朽化。
「これらについて、現代の民法では原則として借主に原状回復義務がありません」
「そうだ」
「ただし、借主が故意に壊した場合は別です」
私はノートに大きな穴の開いた壁を描きました。
相馬先輩が覗き込みます。
「また下手な絵だな」
「壁です!」
「饅頭に穴が開いてるようにしか見えねえ」
「先輩!」
「続けろ」
「……はい」
たとえば。
借主が怒って壁を殴り、穴を開けた。
飲み物をこぼしたのに放置し、床を腐らせた。
こうした損傷は、通常損耗や経年変化とは異なります。
借主の責任が問題になるのです。
「つまり」
私は言いました。
「普通に使っていて生じた傷みと、借主に責任のある損傷を区別するんですね」
「そういうことだ」
ただし。
ここで、私は昨日の契約書を思い出しました。
――原状回復費用は、すべて賃借人負担。
「所長」
「何だ」
「通常損耗について、借主が費用を負担する特約があったらどうなるんですか?」
「特約の内容と有効性を検討する必要がある」
「……やっぱり」
所長が頷きました。
「原則があるからといって、個別の合意を無視できるわけではない」
そして。
特約の文言がどこまで明確か。
借主が何を負担するものとして合意したか。
契約締結時にどのような説明があったか。
そうした事情が重要になります。
「じゃあ、『原状回復』って一言書かれているだけなら?」
「それだけで、通常損耗のすべてを借主負担にする特別な合意だと当然には言えん」
私は頷きました。
澄江さんの事件では。
大家は、壁紙も床も全部新品にしろと言いました。
でも。
壁紙の自然な色あせ。
ミシンを普通に置いていたことで生じた跡。
それらを、借主が壊したものと同じように扱うのは乱暴です。
「だから、原状回復では、何が原因の損傷なのかを確認するんですね」
「そうだ」
私はノートに書きました。
――原状回復は「新品にすること」ではない。損傷の原因と契約内容を見極める。
「よし!」
私は鉛筆を置きました。
これなら覚えられます。
必要費。
有益費。
通常損耗。
経年変化。
それぞれの言葉が、頭の中で繋がってきました。
◇
「さて」
相馬先輩が時計を見ました。
「もう一つ、忘れてるものがあるぞ」
「何ですか?」
「賃料だ」
「あっ!」
私は慌ててページをめくりました。
――賃料の支払時期。
「はい! 家賃は毎月末に払います!」
「原則はな」
「はい!」
私は六法を開きました。
民法六百十四条。
「先輩、賃料の支払時期って、六百十四条ですよね」
「ああ」
「六百十六条じゃないですよね」
「何で六百十六条が出てくる」
「いえ、条文番号を間違えたら大変なので!」
私はノートに大きく書きました。
――賃料の支払時期は民法六百十四条!
そして。
原則として。
動産。
建物。
宅地。
これらの賃料は、毎月末に支払います。
一方。
その他の土地については、毎年末です。
ただし、収穫の季節があるものについては、その季節の後に遅滞なく支払うことになります。
「つまり、原則は後払いですね」
「そうだ」
相馬先輩が頷きました。
「じゃあ、問題だ」
「はい!」
「澄江さんの仕立て屋。十月分の家賃は、民法の原則ではいつ払う?」
「十月末です!」
「じゃあ、畑を借りていて、収穫の季節がある場合は?」
「その季節の後に、遅滞なく支払います!」
「よし」
私は嬉しくなりました。
でも。
「先輩」
「何だ」
「実際の家賃って、翌月分を前月末までに払うことが多いですよね」
「ああ」
「それはどうしてですか?」
「契約でそう決めてるからだ」
私は頷きました。
民法六百十四条は、賃料の支払時期についての原則を定めています。
でも。
当事者が特約で前払いを定めることもできます。
だから。
現実の賃貸借契約では、前払いが広く行われているのです。
「なるほど……」
私は書きました。
――民法の原則は後払い。ただし、前払いの特約に注意。
所長が言いました。
「こはる」
「はい」
「契約書を読むとき、何を確認する」
「賃料の金額です!」
「それだけか」
「……支払時期」
「うん」
「支払方法」
「うん」
「修繕費の負担、契約期間、原状回復……」
「そうだ」
私は頷きました。
賃貸借。
ただ物を借りる約束。
そう思っていました。
でも、実際には。
誰が修理するか。
誰がお金を払うか。
いつ家賃を払うか。
いつ返すか。
どこまで元に戻すか。
そこまで考えなければならない。
「契約書って、未来のトラブルを減らすためのものなんですね」
私が言うと、所長が頷きました。
「曖昧にしたまま契約すれば、後で争いになる」
まさに。
澄江さんと黒田の事件が、そうでした。
修繕費は全部借主負担。
その一行について、当事者の理解が食い違った。
しかも、その後の修繕実績と、契約書の文言が一致していなかった。
だから。
争いが生じたのです。
◇
窓の外が、少しずつ暗くなっていました。
商店街の街灯が灯り始めています。
私はノートを閉じようとしました。
ところが。
「こはる」
相馬先輩が言いました。
「はい?」
「最後に確認問題だ」
「望むところです!」
先輩がにやりと笑いました。
「第一問。賃貸借とは?」
「貸主が物を使用・収益させ、借主が賃料を支払う契約です。契約終了時には借りた物を返還します!」
「よし。第二問。昭和六十三年の民法六百四条による一般的な存続期間の上限は?」
「二十年!」
「今は?」
「五十年!」
「ただし?」
「借地借家法などの特別法に注意!」
「よし」
私は拳を握りました。
順調です。
「第三問。貸主の修繕義務は何条だ?」
「六百六条!」
「賃借人が必要な修繕をするとき、現代で確認する条文は?」
「六百七条の二!」
「昭和六十三年には?」
「その条文は存在しません!」
「よし」
相馬先輩が頷きました。
「第四問。貸主の負担に属する必要費を借主が支出した。いつ償還請求できる?」
「直ちに!」
「有益費は?」
「原則として賃貸借終了時!」
「条件は?」
「価格の増加が現存していること!」
「償還額は?」
「貸主が支出額と増価額のどちらかを選択します!」
「よし」
私は笑いました。
もう大丈夫。
……と思ったところで。
「第五問」
相馬先輩が言いました。
「借主が家賃を払わねえ。大家は、すぐ契約を解除できるか?」
……。
私は止まりました。
「えっ?」
「家賃の不払いだよ」
「それは……」
私は考えました。
債務不履行。
契約解除。
賃貸借。
……あ。
「先輩、それ、単純に一回払わなかっただけで必ず解除できるとは限りませんよね」
「ほう」
「賃貸借は、継続的な信頼関係を基礎とする契約ですから」
片桐所長が、静かに頷きました。
「そのとおりだ」
私は続けました。
「判例上、賃貸借の解除では、信頼関係が破壊されたといえるかどうかが重要になる場合があります」
「そうだ」
「だから、家賃を一日遅れたら即退去、とは限りません」
相馬先輩が笑いました。
「いいじゃねえか」
「今度こそ褒めましたね!」
「まあな」
「やった!」
私は嬉しくなりました。
でも。
この信頼関係という言葉。
賃貸借の本質に、とても近い気がします。
家主は、建物を貸す。
借主は、家賃を払う。
一日で終わる契約ではありません。
何年も。
何十年も。
同じ物を使い続けることがあります。
その間。
雨漏りが起きるかもしれない。
設備が壊れるかもしれない。
家賃の支払が遅れることもある。
だからこそ。
賃貸借には、継続する関係を前提としたルールが必要なのです。
「所長」
「何だ」
「賃貸借って、ただの物の貸し借りじゃないんですね」
「そうだ」
「長く続く関係を、法律で支えているんですね」
所長が頷きました。
「だから、信頼を壊すな」
短い言葉。
でも。
妙に胸に残りました。
◇
そのとき。
事務所の電話が鳴りました。
「はい、片桐行政書士事務所です!」
『あの、藤野です』
「あっ、澄江さん!」
仕立て屋の澄江さんでした。
『先日は、本当にありがとうございました』
「いえ!」
『今日、あのワンピースを取りに来てくれたんです』
「卒業式の?」
『はい』
澄江さんの声が、少し弾んでいます。
『女の子、とても喜んでくれました』
「本当ですか!」
『鏡の前で、何度もくるくる回って……』
私は思わず笑いました。
白いワンピース。
雨漏りで濡れてしまった、一着目。
それを作り直した、二着目。
仕立て屋の小さな店で。
誰かの大切な一日が、守られたのです。
『それでね、朝比奈さん』
「はい?」
『私、これからも店を続けます』
私は受話器を握り直しました。
『もう古い建物だから、いろいろ大変でしょうけど』
「はい」
『でも、ちゃんと家賃を払って、ちゃんとお店を使って、必要なことは大家さんにもお願いして……』
澄江さんが、少し笑いました。
『今度は、我慢しすぎないようにします』
私は頷きました。
「はい!」
『法律って、難しいけど……』
「はい」
『私みたいな小さな店のことも、守ってくれるんですね』
私は少し黙りました。
そして。
「そうですね」
静かに答えました。
電話が切れました。
私は受話器を置きました。
窓の外。
商店街の方角には、もう夕暮れの色が広がっています。
あのどこかで。
澄江さんは、またミシンを踏んでいるのでしょう。
屋根の雨漏りを気にすることなく。
大切な服を、一着ずつ仕立てながら。
◇
「さて」
私はノートを開き直しました。
「今日のまとめです!」
相馬先輩が顔をしかめました。
「まだやるのか」
「最後です!」
「本当だな?」
「たぶん!」
「信用できねえな……」
私は笑いました。
そして、ノートに今日の要点を整理しました。
賃貸借。
貸主は物を使用・収益させる。
借主は賃料を支払い、契約終了時には物を返還する。
存続期間。
昭和六十三年の民法では、原則最長二十年。
現代の民法では、原則最長五十年。
ただし、特別法に注意。
貸主の修繕義務。
民法六百六条。
借主による修繕。
現代では六百七条の二に明文化。
必要費。
貸主負担なら、直ちに償還請求。
有益費。
原則として契約終了時に、増価が残る場合に償還。
通知義務。
修繕が必要なら、原則として遅滞なく通知。
ただし、貸主が知っていれば不要。
原状回復。
通常損耗や経年変化と、借主に責任のある損傷を区別。
賃料。
民法六百十四条。
動産・建物・宅地は原則毎月末。
その他の土地は原則毎年末。
収穫の季節があるものは、その季節の後に遅滞なく。
ただし、前払い特約などに注意。
「……できました!」
私は鉛筆を置きました。
相馬先輩が覗き込みます。
「ずいぶん書いたな」
「はい!」
「覚えられるのか?」
「大丈夫です!」
「どうしてだ?」
私は笑いました。
「澄江さんの事件を思い出せばいいんです」
屋根の雨漏り。
十二万円。
大家の怒鳴り声。
修繕費負担の特約。
そして。
必要費償還請求権。
その一つ一つを思い出すと、条文の意味も自然に浮かんできます。
「先輩」
「何だ」
「丸暗記って、やっぱり忘れますね」
「そりゃそうだ」
「でも、事件で覚えると忘れにくいんです」
「ほう」
「六百六条を見れば、雨漏りを思い出します」
「うん」
「六百八条を見れば、十二万円を思い出します」
「うん」
「六百十五条を見れば、大家さんへの通知を思い出します」
「そうだな」
「六百十四条を見れば、家賃を思い出します!」
相馬先輩が笑いました。
「だったら、少しは身についたんじゃねえか」
「はい!」
私は頷きました。
法律の知識は、暗記するだけでは使えません。
どんな場面で。
誰を守るために。
何を認め、何を認めないのか。
その理由が分かれば。
条文は、ただの文字ではなくなります。
現場で使える道具になるのです。
◇
私はノートの最後のページを開きました。
ここに。
今日の一行を書きます。
鉛筆の先を整えて。
ゆっくり。
――必要費は「維持するお金」で直ちに請求。有益費は「価値を増すお金」で原則終了時に請求。
「……よし!」
私はノートを掲げました。
「どうですか!」
相馬先輩が覗き込みました。
「悪くねえな」
「褒めましたね!」
「たまにはな」
「やった!」
片桐所長も、帳簿を閉じました。
「こはる」
「はい」
「今日、もう一つ覚えておけ」
「何でしょう」
「民法は、契約書を無視するための法律じゃない」
「……はい」
「契約で何を約束したか。それを確かめたうえで、法律と照らし合わせるんだ」
私は頷きました。
澄江さんの事件。
最初は、私は思いました。
大家に修繕義務がある。
だから、十二万円は絶対に戻る。
でも。
修繕費を借主負担とする特約がありました。
そこで必要になったのが。
契約当初の覚書。
過去の修繕実績。
工事業者の意見。
大家が雨漏りを知っていた事実。
それらを一つずつ積み重ねることで、ようやく請求の根拠が固まったのです。
「所長」
「何だ」
「法律の条文って、答えそのものじゃないんですね」
「そうだ」
「事実を調べて、契約を読んで、条文を当てはめて……」
「うん」
「そこまでやって、初めて答えに近づく」
所長が頷きました。
「それでいい」
私はノートを閉じました。
民法。
賃貸借。
必要費。
有益費。
修繕義務。
原状回復。
どれも、最初は難しい言葉でした。
でも。
今なら分かります。
借りた物だから、何が起きても借主が我慢しなければならない。
そんな法律ではありません。
貸した物だから、大家が何でも負担しなければならない。
そんな法律でもありません。
誰が何を約束したのか。
何が原因で壊れたのか。
誰の負担に属する費用なのか。
そして。
その負担が、公平といえるのか。
民法は、そこを考える法律なのです。
「ところで、こはる」
相馬先輩が言いました。
「はい?」
「昨日の書棚、どうなった?」
……。
私は固まりました。
事務所の奥。
古い木製書棚。
扉の蝶番が、まだ外れかけています。
「あ……」
「直したんじゃなかったのか?」
「ええと……」
「蝶番は?」
「買ってきました!」
「取り付けたのか?」
「まだです!」
相馬先輩がため息をつきました。
「じゃあ直ってねえじゃねえか!」
「でも先輩!」
「何だ!」
「蝶番代の領収書はあります!」
「だから何だ!」
「必要費として、直ちに償還請求を――」
「それは事務所の備品だろ!」
「……あっ」
私は口を閉じました。
そうでした。
賃貸借の必要費償還請求権。
民法六百八条。
それは賃貸借関係における規定です。
事務所の備品を買ったからといって、何でも六百八条で請求できるわけではありません。
「先輩」
「何だ」
「私、まだまだ勉強不足ですね」
「分かってりゃいい」
そのとき。
片桐所長が静かに言いました。
「相馬」
「はい」
「蝶番は、私が取り付ける」
「え?」
「こはるは書類を整理してくれ」
「はい!」
私は思わず笑顔になりました。
よかった。
これで修理作業から解放されます。
……と思ったところで。
所長が続けました。
「ただし、明日までに契約書の控えを全部整理しておくように」
「……全部?」
「全部だ」
机の横には。
分厚い契約書の束。
賃貸借。
売買。
贈与。
委任。
請負。
……。
私は天井を見上げました。
「所長」
「何だ」
「それは、通常損耗にはなりませんか?」
「ならん」
「じゃあ、有益費として――」
「書類を整理しても、建物の価値が増加するわけではない」
「……!」
相馬先輩が吹き出しました。
「お前、何でも民法六百八条にする気か!」
「だって、今日覚えたばっかりなんです!」
「使いどころを間違えるな!」
私は笑いながら、契約書の束を抱えました。
窓の外。
夕暮れの町に、家々の明かりが灯っていきます。
あのどこかで。
澄江さんは、今日もミシンを踏んでいるのでしょう。
雨漏りを気にすることなく。
十二万円を取り戻した、小さな仕立て屋で。
誰かの大切な服を、少しずつ作りながら。
必要費。
有益費。
修繕義務。
原状回復。
言葉は硬い。
覚えることも多い。
昭和と令和で条文まで違う。
でも。
その違いを理解できるだけで、守れる暮らしがあります。
私は机に座り、ノートの最後の一行をもう一度読みました。
――必要費は「維持するお金」で直ちに請求。有益費は「価値を増すお金」で原則終了時に請求。
よし。
これなら、もう忘れません。
「こはる!」
相馬先輩の声が飛びました。
「はい!」
「ノート見てねえで、書類を整理しろ!」
「今、復習してたんです!」
「復習は後だ!」
「先輩!」
「何だ!」
「私の勉強時間も、必要費として認めてもらえませんか!」
「金を使ってねえだろ!」
「じゃあ有益費!」
「何の価値が増えたんだよ!」
「私の頭の価値です!」
「それは大家に請求できねえ!」
……なるほど。
賃貸借の必要費と有益費。
どうやら、覚えた知識を何にでも当てはめればよいわけではないようです。
残念ながら。
私の頭が少し賢くなったからといって。
片桐所長に、有益費の償還を請求することはできないのでした。
以下に私の作品へのリンク貼ってます。是非、手に取って頂ければと思います。また、ついでに評価ブックマーク頂ければ幸いです。




