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こはる行政書士見習帖 〜 昭和に転生して許認可に振り回されると試験知識が骨身にしみます 〜  作者: 条文小説
〈民法 配点76点/300点〉 債権

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521/578

[民法・賃貸借]現場編 「修理代は借主が払え」の嘘。雨漏り十二万円を押しつけた悪徳大家と、昭和の民法六百八条が突きつける逆請求

挿絵(By みてみん)

 家賃を払っているからといって、雨漏りまで買い取ったわけではありません。


 屋根から雨が落ちる。


 天井に染みが広がる。


 畳が腐る。


 それでも大家は言います。


「借りているのは、あんたでしょう?」


「だったら、修理代もあんたが払うのが筋だ」


 ……本当に?


 昭和六十三年。


 片桐行政書士事務所。


 その日、私は一つのことを知りました。


 民法には。


 お金を払う時期が、まったく違う二種類の費用があります。


 必要費。


 有益費。


 片方は、今すぐ返してもらえるお金。


 もう片方は、原則として契約が終わるまで待たなければならないお金。


 この違いを知らないと。


 十二万円を失うだけでは済みません。


 大切なお店まで、失うことになるのです。


「もう、店を閉めるしかないんでしょうか……」


 朝九時。


 事務所を訪れた女性は、膝の上で手を握りしめていました。


 名前は、藤野澄江さん。


 四十六歳。


 駅前商店街で、小さな仕立て屋を営んでいます。


 店の名前は、


 ――洋裁のふじの。


 亡くなったご主人と二人で始めた店。


 今は一人で、婦人服の直しや子供服の仕立てを引き受けています。


「雨漏りがひどくて……」


 澄江さんが言いました。


「先月の台風のあと、天井から水が落ちるようになったんです」


「それは大変ですね」


 私は相談票を開きました。


「大家さんには連絡しましたか?」


「何度もしました」


「何と?」


「古い建物だから仕方がない。借りた人間が自分で直せって」


 ……。


 私は眉をひそめました。


「契約書には何と書いてありますか?」


 澄江さんが古びた封筒を取り出しました。


 中から出てきたのは、一枚の賃貸借契約書。


 昭和五十三年。


 契約期間二年。


 以後、更新。


 月額賃料四万円。


 そして。


 特約欄。


 私は目を止めました。


 ――建物の維持、修繕及び原状回復に要する費用は、すべて賃借人の負担とする。


「……全部?」


「はい」


「修繕も?」


「はい」


「原状回復も?」


「全部だそうです」


 私は思わず天井を見ました。


 これは。


 ずいぶん強気な契約書ですね。


「それで、雨漏りはどうされたんですか?」


「放っておけなくて、屋根を修理してもらいました」


「おいくらでした?」


「十二万円です」


 澄江さんが領収書を差し出しました。


 工事業者の名前。


 工事日。


 屋根瓦のずれ。


 防水部分の劣化。


 雨水侵入箇所の補修。


 工事金額。


 十二万円。


「大家さんに払ってもらうつもりだったんですけど……」


 澄江さんの目が潤みました。


「一円も払わないって」


「えっ」


「それどころか、勝手に屋根をいじったから契約違反だって言うんです」


 私は絶句しました。


 修理しろと言われたから修理した。


 修理したら、今度は契約違反。


 ……どっちなんですか!


「それから、もう一つ」


 澄江さんは震える手で別の紙を取り出しました。


 ――契約終了時の原状回復費用として、壁紙全面張替え費用及び床補修費用を請求する予定である。


 私は読みました。


「壁紙ですか?」


「十年も使っていますから、少し黄ばんでいます」


「床は?」


「ミシンを置いていたところに、跡がついています」


「それだけですか?」


「はい……」


 澄江さんはうつむきました。


「大家さんが言うんです。借りたときと同じ状態に戻せって」


 その言葉を聞いた瞬間。


 私は思いました。


 来ました。


 原状回復義務。


 現代の民法六百二十一条。


 通常損耗。


 経年変化。


 賃借人の責めに帰することができない損傷。


 これらについては、原則として賃借人は原状回復義務を負わない。


「大丈夫です!」


 私は勢いよく立ち上がりました。


「通常損耗と経年変化については、民法六百二十一条で――」


「こはる」


 相馬先輩が新聞から顔を上げました。


「はい?」


「今、何条って言った」


「六百二十一条です!」


「六百二十一条?」


「はい!」


「……お前、何の六法を読んでる?」


 ……あ。


 しまった。


 私は固まりました。


 現代の民法六百二十一条。


 賃借人の原状回復義務を明文化した条文。


 でも。


 この時代には、まだその条文がありません。


「先輩……」


「何だ」


「今の、忘れてください」


「忘れられるか」


「ですよね……」


 相馬先輩は六法を開きました。


「原状回復の問題自体は、昔からある。だが、未来の条文を持ってくるな」


「はい……」


「それと、通常の使用で生じた傷みだから絶対に請求できない、なんて簡単に決めるなよ」


「え?」


「特約の内容、契約の経緯、損傷の原因。全部見なきゃならねえ」


 私は契約書を見ました。


 なるほど。


 民法の基本原則だけでなく、当事者が何を約束したかも重要なのです。


 ただ。


 この特約。


 どうにも引っかかります。


「先輩」


「何だ」


「『すべて賃借人の負担』って、かなり広いですよね」


「ああ」


「大家さんが修理する義務まで、全部なくなるんですか?」


 相馬先輩は答えませんでした。


 代わりに。


「所長」


 奥へ声をかけました。


「こいつ、ようやく本題に気づきました」


 片桐所長が顔を上げました。


「こはる」


「はい」


「その店は、何のために借りた」


「仕立て屋を営むためです」


「雨漏りで、仕事ができるか」


「できません」


「では、貸主は何を約束した」


 私は少し考えました。


「……建物を使わせることです」


「そうだ」


 所長が頷きます。


「賃料を受け取るだけが、貸主の仕事ではない」


 その一言で。


 私はようやく、今回の事件の入口に立った気がしました。


 翌日。


 相馬先輩と私は、澄江さんの仕立て屋を訪れました。


 商店街の外れ。


 木造二階建て。


 一階が店舗。


 二階は使っていない物置。


 店先には、小さな看板が出ています。


 ――洋裁のふじの。


 ショーウインドーには、子供用のワンピース。


 昭和らしい花柄。


 かわいい。


 でも。


 店内に入ると、私は言葉を失いました。


 天井に、大きな染み。


 壁には雨水の跡。


 床には古いバケツ。


 そして。


 ミシンの横に、布を守るためのビニールシート。


「こんな状態で仕事を……」


「修理前は、もっとひどかったんです」


 澄江さんは天井を見上げました。


「雨が降るたびに、バケツを三つ並べていました」


「商品は大丈夫でしたか?」


「一着、濡れてしまって……」


 澄江さんが奥からワンピースを持ってきました。


 白い布地。


 裾の一部に、薄い茶色の染み。


「卒業式に着る服なんです」


「え……」


「お母さんを亡くした女の子が、うちに頼んでくれたんです。お父さんが、どうしても新しい服を着せてやりたいって」


 私はワンピースを見つめました。


「作り直すんですか?」


「はい。代金は、もちろんいただけません」


 澄江さんは少し笑いました。


「私が引き受けた仕事ですから」


 ……。


 雨漏りを放置した大家。


 自腹で屋根を修理した借主。


 そして。


 その間にも、失われていく仕事。


 これは単なる建物の修理代の話ではありません。


 人の生活が、かかっています。


「澄江さん」


 相馬先輩が言いました。


「雨漏りについて、最初に大家へ知らせたのはいつですか」


「先月の五日です」


「どうやって?」


「電話です」


「その後は?」


「七日に、大家さんが店を見に来ました」


「本人が?」


「はい」


 先輩の目が光りました。


「見たんですね」


「天井の染みも、雨水が落ちてくるところも」


「誰か立ち会いましたか」


「向かいの八百屋さんがいました」


「よし」


 相馬先輩は手帳に書き込みました。


「そのとき、大家は何と言った」


「古い家なんだから仕方ない。自分で直しなさいって」


「それを八百屋も聞いた?」


「はい」


「修理業者を呼んだのは?」


「十日です」


「工事は?」


「十二日です」


 先輩は頷きました。


「こはる。分かったか」


「はい」


「何が分かった」


「大家さんは、修繕が必要なことを知っていた」


「そうだ」


「しかも、修繕を求められていた」


「うん」


「それでも、修繕しなかった」


「そこだ」


 私は六法を思い出しました。


 民法六百十五条。


 賃借人の通知義務。


 建物に修繕が必要なら、借主は原則として遅滞なく大家へ知らせなければならない。


 ただし、大家がすでに知っている場合は別。


 今回。


 澄江さんは連絡していました。


 しかも。


 大家自身が、現場を見ている。


「先輩」


「何だ」


「通知した証拠、重要ですね」


「ああ」


「電話だけだと、後から言った言わないになりますから」


「だから八百屋の証言を確認する」


 なるほど。


 昭和の世界。


 メールもありません。


 スマホで撮影もできません。


 でも。


 日付。


 領収書。


 目撃者。


 手帳。


 こうしたものが、民法を現実に動かすのです。


「おい!」


 突然。


 入口から怒鳴り声が響きました。


「また余計な人間を呼んだのか!」


 振り向くと、大柄な男が立っていました。


 五十代後半。


 腹の出た体。


 高そうな腕時計。


 建物の大家。


 黒田徳三です。


「何だ、あんたら」


 男は相馬先輩を睨みました。


「片桐行政書士事務所の相馬です。こちらは朝比奈です」


「行政書士?」


 黒田は鼻で笑いました。


「弁護士じゃねえのか」


「そうです」


「だったら何もできねえだろ」


 ……。


 また言われました。


 この時代の悪徳業者。


 行政書士を見ると、とりあえず鼻で笑う習慣でもあるんでしょうか。


「契約書は見たか?」


 黒田が言いました。


「はい」


「だったら話は終わりだ!」


 黒田は机を叩きました。


「修繕費は全部借主負担! そう書いてあるだろ!」


 私は言いました。


「でも、屋根の老朽化による雨漏りですよね」


「だから何だ!」


「建物を使える状態に保つ責任は――」


「契約書!」


 黒田が怒鳴りました。


「契約書に書いてある!」


 ……。


 すごい。


 契約書という言葉だけで、すべての法律を倒せると思っている人がいます。


「それにな」


 黒田は私を見ました。


「俺は何も頼んでねえ。勝手に十二万円も使いやがって」


「でも、修理しないと雨漏りが――」


「知らねえよ!」


 黒田は鼻を鳴らしました。


「嫌なら出ていけ!」


 澄江さんの肩が震えました。


「そんな……」


「出ていくなら、壁も床も全部元に戻せよ。あの古い壁紙も新品に張り替えろ」


「黒田さん、それは……」


「原状回復だ!」


 黒田は勝ち誇ったように笑いました。


「法律に詳しいなら知ってるだろ?」


 私は唇を噛みました。


 言い返したい。


 ものすごく言い返したい。


 でも。


「こはる」


 相馬先輩が静かに言いました。


「はい」


「もういい」


「でも!」


「相手の主張は確認した」


 先輩は黒田を見ました。


「修繕費はすべて借主負担であり、今回の十二万円も支払わない。また、通常の使用による傷みを含めて原状回復費用を請求する、ということですね」


「ああ、そうだ!」


「分かりました」


 相馬先輩は手帳を閉じました。


「失礼します」


「おいおい!」


 黒田が笑いました。


「何だ、もう帰るのか!」


 先輩は振り向きませんでした。


 私も澄江さんに頭を下げ、店を出ました。


 商店街を歩きながら。


 私はとうとう我慢できなくなりました。


「先輩!」


「何だ」


「悔しくないんですか!」


「何が」


「あんな言い方されて!」


「別に」


「修理代を踏み倒すつもりですよ!」


「そうだな」


「じゃあ、どうするんですか!」


 相馬先輩は立ち止まりました。


「こはる」


「はい」


「俺たちは弁護士じゃねえ」


「はい……」


「相手と示談交渉して、十二万円を取り立てる代理人にはなれねえ」


「分かってます」


「だから、依頼人本人の主張を、正確な書面にする」


 先輩は煙草を取り出しました。


「それにな」


「はい」


「黒田は、自分で大事なことを言った」


「え?」


「修繕費は、全部借主が払う」


「はい」


「その一言が、どこまで通用するかだ」


 私は契約書を思い出しました。


 修繕費。


 原状回復費。


 全部賃借人負担。


 でも。


 借主は家賃を払って、建物を使う権利を得ている。


 その建物が、雨漏りで使えない。


 しかも、貸主が修繕を拒んでいる。


「……民法六百六条」


 私は呟きました。


 相馬先輩が笑いました。


「ようやく出てきたな」


 私は拳を握りました。


 よし。


 今度こそ。


 昭和六十三年の民法で、戦います。


 事務所に戻ると、片桐所長が私たちの報告を聞きました。


「必要費だな」


 所長は一言、そう言いました。


「はい!」


 私は六法を開きました。


 民法六百六条。


 賃貸人は、賃貸物の使用及び収益に必要な修繕をする義務を負う。


「屋根が雨漏りしていたら、仕立て屋として使えません」


「そうだ」


「だから、貸主の修繕義務が問題になるんですね」


「うん」


 私は続けました。


「それから、民法六百八条!」


 賃借人が、賃貸人の負担に属する必要費を支出したとき。


 賃貸人に対して、直ちに償還を請求できる。


「つまり!」


 私は机を叩きそうになりました。


「必要費なら、契約が終わるのを待たずに返還請求できます!」


「そうだ」


 十二万円。


 屋根の雨漏りを止めるための修理代。


 建物を使い続けるために必要だった費用。


 これが貸主の負担に属する必要費なら。


 借主は、今すぐ返してほしいと請求できるのです。


「所長!」


「何だ」


「これなら勝てます!」


「まだだ」


「え?」


 所長が契約書を指差しました。


「特約がある」


 ……。


 私は止まりました。


 そうでした。


 修繕費は、すべて賃借人負担。


 問題の特約。


「でも、民法六百六条があるじゃないですか!」


「法律に修繕義務が書いてある。それだけで、費用負担の特約がすべて無効になるわけではない」


「え……」


 所長は静かに続けました。


「賃貸借では、修繕費用について当事者が特約を定めることもある」


 私は青ざめました。


「じゃあ、大家さんの言うとおりなんですか?」


「そうとは限らん」


「どっちですか!」


 相馬先輩が横から言いました。


「だから契約書を調べるんだろうが」


 ……。


 民法。


 やっぱり簡単には勝たせてくれません。


「こはる」


 片桐所長が言いました。


「この特約は、何をどこまで借主に負担させる約束だったのか」


「はい」


「それを調べる」


 所長は契約書の日付を指しました。


「昭和五十三年。契約当時の説明は?」


「澄江さんに確認します」


「過去の修繕は?」


「大家さんが払っていたか調べます」


「屋根の修繕が必要になった原因は?」


「業者に確認します!」


「よし」


 所長が頷きました。


「条文に飛びつく前に、事実を揃えろ」


 私はノートを開きました。


 民法六百六条。


 修繕義務。


 民法六百八条。


 必要費の償還。


 でも。


 その二つを使うには、まず十二万円が本当に貸主の負担に属する費用なのか。


 そこを崩されないようにしなければならない。


 なるほど。


 法律は、条文だけでは戦えない。


 事実という弾が必要なのです。


 翌朝。


 私は澄江さんから、追加の資料を預かりました。


 それを見た瞬間。


「……あっ!」


 声が出ました。


 昭和五十三年。


 契約開始時の手書きメモ。


 大家の黒田が書いたものです。


 ――室内の日常的な小修繕は借主負担。


 ――屋根、柱など建物本体の修繕は貸主にて行う。


 しかも。


 黒田の署名と印鑑。


「所長!」


 私は奥へ駆け込みました。


「これ!」


 所長はメモを読みました。


「……なるほど」


 相馬先輩も覗き込みます。


「こいつはいい」


「ですよね!」


 さらに。


 昭和五十九年。


 雨樋の修理代。


 大家負担。


 昭和六十一年。


 屋根瓦の補修代。


 大家負担。


 修理業者の領収書の写し。


 澄江さんが保管していたものでした。


「同じ建物ですね」


「ああ」


「前は、大家さんが修理してる!」


「そうだ」


 私は一気に元気になりました。


 そして。


 屋根の工事業者からも、書面をもらいました。


 ――本件雨漏りは屋根瓦及び防水部分の経年劣化に起因するものと認められる。


 ――賃借人の使用方法によって生じた損傷とは認められない。


 ――放置した場合、室内への雨水侵入が続き、建物内部及び使用中の商品に被害が拡大するおそれがあった。


 私は読みながら、胸が熱くなりました。


「これで、全部繋がります!」


 契約当初の説明。


 過去の修繕実績。


 雨漏りの原因。


 修繕の必要性。


 大家への通知。


 支払った金額。


 十二万円。


 所長は静かに言いました。


「修繕費負担の特約はある。だが、建物本体の重大な修繕まで借主が負担する合意だったかは、これらの資料を踏まえて判断する必要がある」


「はい!」


「特約の文言だけでなく、契約時の説明と、その後の扱いを示す」


「はい!」


 相馬先輩が笑いました。


「これなら、相手も『全部借主負担』の一言じゃ済まねえな」


 私は拳を握りました。


 よし。


 十二万円を取り戻すための書面。


 いよいよ作成です。


「ところで」


 片桐所長が言いました。


「こはる。必要費と有益費の違いは分かるか」


「はい!」


 私は即答しました。


「必要費は、物を維持するために必要な費用です!」


「うん」


「有益費は、物の価値を増加させるために支出した費用です!」


「そうだ」


 相馬先輩が言いました。


「じゃあ問題だ」


「はい!」


「澄江さんが、屋根の雨漏りを十二万円で修理した」


「必要費です!」


「じゃあ、古い店に二十万円かけて、立派な内装をつけた」


「有益費になり得ます!」


「では、その二十万円は、すぐ請求できるか?」


「できます!」


「馬鹿」


「えっ!」


「違う」


 ……しまった。


 相馬先輩が六法を指しました。


「六百八条の二項を読め」


 私は慌てて読みました。


 有益費。


 賃貸借終了の時。


 ……。


「あっ」


「気づいたか」


「契約が終わるとき!」


「そうだ」


 必要費は、貸主の負担に属するなら直ちに償還請求。


 一方。


 有益費は、原則として契約終了時。


 しかも、価値の増加がその時点で残っている必要があります。


「じゃあ、店を綺麗にしたからって、今すぐ大家さんに払ってもらえるわけじゃないんですね」


「そういうことだ」


「しかも、特約で有益費の償還をしない約束がされている場合もある」


「うん」


 なるほど。


 同じように借主がお金を出したとしても。


 必要費と有益費では、請求できる時期も条件も違う。


 私はノートに書きました。


 ――必要費は維持。有益費は価値増加。


 ――必要費は直ちに。有益費は原則終了時。


「それと、こはる」


 所長が言いました。


「有益費は、支出額がそのまま全額戻るとは限らん」


「はい」


「終了時に増価が残っている場合、貸主には支出額か増価額かを選ぶ余地がある」


「……はい」


 私はため息をつきました。


「民法って、お金を払った人がいつも全額取り戻せるわけじゃないんですね」


「当然だ」


 相馬先輩が言いました。


「借りた店に勝手に百万円の大理石を敷いて、大家に百万円払えって言われても困るだろ」


「確かに!」


「だから区別がある」


 私は頷きました。


 今回の十二万円。


 単に店を豪華にするためのお金ではない。


 雨漏りを止めるための費用。


 そして。


 この違いこそ、大家への請求の核心になるのです。


 午後三時。


 私たちは、内容証明郵便の原案を完成させました。


 宛先。


 黒田徳三。


 差出人。


 藤野澄江。


 件名。


 ――賃貸建物修繕費用償還請求通知書。


 私は緊張しながら読み上げました。


「第一。本件建物につき、昭和六十三年某月五日、屋根部分からの雨漏りが発生した」


「うん」


「第二。通知人は、同日及びその後、貴殿に修繕の必要性を通知した。また、貴殿は同月七日、本件建物を訪れ、雨漏りの状況を現認した」


 相馬先輩が頷きました。


「続けろ」


「第三。貴殿は修繕を行わず、通知人に対して自ら修繕するよう告げた」


「うん」


「第四。通知人は、建物の使用及び営業上の損害拡大を防ぐため、同月十二日、屋根の必要な補修工事を実施し、金十二万円を支出した」


 私は一度、息を吸いました。


「第五。本件修繕は、賃借人の使用上の過失による損傷を原因とするものではなく、建物の経年劣化に起因するものである」


「よし」


「第六。民法第六百六条第一項は賃貸人の修繕義務を定め、同法第六百八条第一項は、賃借人が賃貸人の負担に属する必要費を支出したときは、直ちに償還を請求できる旨を定めている」


 私の声に、自然と力が入りました。


「第七。本件賃貸借契約書には修繕費用の負担に関する特約があるが、契約当初の書面及び従前の修繕実績から、本件のような建物本体の経年劣化に伴う修繕まで通知人が負担する合意が成立していたとは解し難い」


 相馬先輩が小さく頷きます。


「いいぞ」


「第八。よって通知人は、貴殿に対し、民法第六百八条第一項に基づき、必要費金十二万円の償還を請求する」


 私は最後の一文を読みました。


「本書面到達後十四日以内に、上記金員を支払われたい。なお、支払がなされない場合には、弁護士に相談のうえ、適切な法的措置を検討する」


 読み終えました。


 ……。


 静かな事務所。


 時計の音。


 相馬先輩は原案を取りました。


「まあまあだな」


「まあまあですか!」


「最初に比べりゃ上出来だ」


「褒めてます?」


「調子に乗るな」


 片桐所長が、最後の一文を確認しました。


「相馬」


「はい」


「原状回復の件も、別に整理しておけ」


「分かりました」


 私は顔を上げました。


「そうでした!」


 壁紙。


 床のへこみ。


 原状回復。


 大家が退去時に請求すると言っていた費用。


「でも所長、昭和六十三年には現代の民法六百二十一条がないんですよね」


「ない」


「じゃあ、どうするんですか?」


 所長は六法を閉じました。


「賃貸借の性質と、契約の内容から考える」


「はい」


「通常の使用で避けられない損耗まで、当然に借主が負担するという結論にはならん」


 私は頷きました。


 貸主は、建物を使わせる。


 借主は、家賃を払う。


 建物は、使えば少しずつ傷む。


 壁紙は古くなる。


 床に家具の跡がつく。


 それは、通常の使用に伴って起きることです。


 もっとも。


 特別な原状回復義務について明確な合意があったのか。


 借主の不注意で生じた損傷なのか。


 そこは、個別に確かめなければなりません。


「所長」


「何だ」


「契約書に『原状回復』って書いてあるだけで、何でも新品にする義務が生じるわけじゃないんですね」


「そうだ」


 私は胸を撫で下ろしました。


 これなら。


 澄江さんのお店を、まだ守れるかもしれません。


 翌日。


 完成した内容証明郵便を、澄江さんが確認しました。


 私は説明します。


「澄江さん。これは、澄江さんご本人の請求を、法律と事実に沿って書面にしたものです」


「はい」


「相手に請求の内容を明確に伝え、その内容と発送の事実を証拠として残します」


「これで、お金が戻ってくるんですか?」


 私は少し考えました。


「必ずとは言い切れません」


 澄江さんの表情が曇ります。


「でも」


 私は続けました。


「大家さんが支払わない場合、何が争点になるのか。そのためにどんな証拠があるのか。それを明確に示せます」


 相馬先輩も言いました。


「内容証明だけで差押えができるわけじゃありません。裁判が必要になれば、弁護士に繋ぎます」


「そうですか……」


 澄江さんは、しばらく書面を読んでいました。


 そして。


「出してください」


 静かに言いました。


「私、自分が間違っていたとは思いません」


 私は頷きました。


「はい」


「雨が降るたびに、服を濡らさないように走り回って……」


 澄江さんの声が震えます。


「それでも、店を守りたかったんです」


 私は書面を差し出しました。


「その気持ちを、事実と法律で伝えましょう」


 澄江さんは、ゆっくり署名しました。


 藤野澄江。


 そして。


 朱肉をつけた印鑑を、静かに押したのです。


 内容証明が黒田のもとへ届いてから、三日後。


 事務所の電話が鳴りました。


「はい、片桐行政書士事務所です!」


『……黒田だ』


 私は固まりました。


 大家の黒田徳三。


 あの怒鳴り声です。


 でも。


 今日は少し違います。


『あの書面……』


「はい」


『本当に、六百八条ってのがあるのか』


「ございます」


『……そうか』


 沈黙。


『十二万円を、今すぐ返せっていうのか』


「通知書には、その旨が記されています」


『あの契約書には、全部借主負担って……』


 私は所長を見ました。


 片桐所長が受話器を受け取りました。


「片桐です」


『あの……』


「はい」


『こっちも、知り合いの弁護士に相談したんだが……』


 私は耳を澄ませました。


『最初に交わした覚書が残っているなら、屋根の修理まで借主負担だと主張するのは難しいって……』


 所長は黙って聞いています。


『しかも、前の修理は俺が払ってるだろ』


「その資料も確認しています」


『それで……』


 電話の向こうで、男が息を吐きました。


『裁判になれば、必ず勝てるとは言えないって言われた』


 ……。


 私は拳を握りました。


 来た。


 法的リスクを、ようやく理解したんです。


 契約書の一行を盾にしていた大家。


 でも。


 契約当時の覚書。


 過去の修繕実績。


 屋根の劣化。


 大家自身が修繕の必要性を知っていた事実。


 そのすべてが、黒田の主張を揺るがしている。


 そして。


 必要費償還請求権。


 民法六百八条。


 それが、十二万円という具体的な請求を支えています。


『……十二万円は払う』


 私は思わず顔を上げました。


『澄江さんの指定した口座に振り込む』


 所長は答えました。


「承知しました。ご本人にその旨をお伝えします。支払については、ご本人の意思に従って進めていただくことになります」


『……それと』


「はい」


『壁紙の話も、もういい』


「そうですか」


『あれも、全部新品にしろってのは……』


 黒田の声が小さくなりました。


『無理があるって言われた』


 私は口元を押さえました。


 勝った。


 いや。


 まだ振込確認前です。


 でも。


 少なくとも。


 あの大家が。


「全部借主負担だ!」


 と怒鳴っていた大家が。


 自分から、支払うと言い始めたのです。


 電話が切れました。


「所長!」


「何だ」


「十二万円、払うって!」


「ああ」


「壁紙の請求も撤回するって!」


「聞いていた」


 私は嬉しくなって、思わず立ち上がりました。


「民法六百八条!」


 相馬先輩が言いました。


「落ち着け」


「でも!」


「振り込まれてから喜べ」


「……はい!」


 そうでした。


 世の中。


 言葉だけでは終わりません。


 とくに。


 あの黒田という大家の場合は。


 五日後。


 澄江さんから連絡がありました。


「入金されました!」


 電話の向こうで、明るい声が響きました。


「十二万円、全部です!」


「本当ですか!」


「はい!」


 私は胸を撫で下ろしました。


 ようやく。


 本当に。


 十二万円が戻ってきました。


 さらに黒田は、今回の屋根補修費について借主に負担を求めないことと、通常の使用による壁紙の変色や床の設置跡について一律に新品への交換費用を請求しないことを書面で確認しました。


 もっとも、将来の退去時に生じる原状回復の問題すべてが、これで解決したわけではありません。


 そのときの損傷の状態や、契約内容によって、改めて判断する必要があります。


 でも。


 澄江さんが、十二万円を自腹で負担させられる事態は避けられたのです。


 一週間後。


 私は、もう一度仕立て屋を訪れました。


 店の中には、ミシンの軽やかな音。


 窓から差し込む秋の日差し。


 そして。


 白いワンピース。


「あ……!」


 私は思わず声を上げました。


「完成したんですね!」


 澄江さんが笑いました。


「はい」


 雨漏りで濡れてしまった服。


 作り直した一着です。


 白い襟。


 小さなリボン。


 袖口には、丁寧な刺繍。


「明日、取りに来てくれるんです」


「よかった……」


「お父さんがね、娘さんに内緒で頼んでくれた服なんですよ」


 澄江さんは優しく布を撫でました。


「これを着て、卒業式に出てほしいんですって」


 私は胸が熱くなりました。


 ああ。


 よかった。


 十二万円。


 法律上は、お金の話です。


 必要費。


 費用償還請求権。


 賃貸人の修繕義務。


 どれも、試験のテキストでは硬い言葉。


 でも。


 その十二万円が戻ってきたから。


 澄江さんは、また仕事を続けられる。


 そして。


 誰かの大切な卒業式のために、服を作ることができる。


 民法が守るのは。


 単に建物ではありません。


 そこで営まれる、暮らしなのです。


「朝比奈さん」


 澄江さんが言いました。


「はい?」


「私、ずっと思っていたんです」


「何をですか?」


「借りている立場だから、何も言えないんだって」


 私は黙りました。


「大家さんに逆らったら、店を追い出されるかもしれないって」


「……はい」


「でも、違ったんですね」


 澄江さんは店内を見回しました。


「家賃を払って借りているからこそ、ちゃんと使えるようにしてもらう権利があるんですね」


 私は頷きました。


「はい」


 もちろん。


 借主にも、賃料を払う義務があります。


 契約が終われば、目的物を返還する義務もあります。


 故意や過失で傷つけた部分について、責任が生じることもあります。


 でも。


 その反対側には。


 貸主の義務がある。


 使わせる義務。


 必要な修繕をする義務。


 負担すべき必要費を返す義務。


 それらが、釣り合っているのです。


「法律って」


 澄江さんが笑いました。


「ちゃんと、両方のことを考えているんですね」


 私は嬉しくなりました。


「そうなんです!」


 思わず、声が大きくなってしまいました。


「民法って、そういう法律なんです!」


 澄江さんが笑います。


 そして。


 天井を見上げました。


「これで、雨の日も安心です」


 私は同じように天井を見ました。


 もう。


 バケツは置かれていませんでした。


 夕方。


 片桐行政書士事務所。


 私は机に戻り、六法を開いていました。


「相馬先輩」


「何だ」


「今日の事件、面白かったですね」


「澄江さんは面白くなかっただろうな」


「それはそうですけど!」


 私はノートを指差しました。


「必要費と有益費、ようやく違いが分かりました!」


「ほう」


「必要費は、使える状態を維持するためのお金」


「うん」


「有益費は、物の価値を増加させるためのお金」


「そうだ」


「で、必要費は貸主負担なら直ちに請求!」


「うん」


「有益費は、原則として契約終了時!」


「そうだ」


 私は得意になりました。


「もう間違えません!」


 相馬先輩が、にやりと笑いました。


「じゃあ、もう一問」


「はい!」


「賃貸借の存続期間の上限は?」


「五十年です!」


 ……。


 相馬先輩が止まりました。


 私は止まりました。


 所長も、帳簿から顔を上げました。


 嫌な沈黙。


「……こはる」


「はい」


「五十年?」


「……はい」


「昭和六十三年の民法六百四条を読め」


 私は震える手で六法を開きました。


 そして。


 その数字を見ました。


 ――二十年。


 ……。


「に、二十年!?」


「そうだ」


「五十年じゃないんですか!?」


「何の話だ!」


 私は頭を抱えました。


 またです。


 また、未来の民法を持ってきてしまいました。


 現代では、賃貸借の存続期間の上限は五十年。


 でも。


 昭和六十三年の民法では、原則二十年。


 しかも、土地や建物については借地法・借家法などの特別法も関わるため、単純に二十年で全部終わるわけではありません。


「先輩!」


「何だ!」


「賃貸借って、修繕だけでも大変なのに、期間まで時代で違うんですか!」


「当たり前だろ」


「何で民法は、私をこんなに苦しめるんですか!」


「民法のせいにするな!」


 所長が小さく笑いました。


 ……えっ。


 今、笑いました?


 珍しい!


「こはる」


「はい!」


 片桐所長が言いました。


「今日、何を覚えた」


 私は少し考えました。


 雨漏り。


 十二万円。


 大家の怒鳴り声。


 契約書。


 修理業者の領収書。


 そして。


 あの白いワンピース。


「……借主は、家賃を払うだけの存在じゃありません」


 私は答えました。


「うん」


「貸主も、家賃を受け取るだけの存在じゃない」


「そうだ」


「双方に権利と義務がある。そして、必要な修繕のお金を誰が負担するかは、民法と契約内容、事実を見て判断する」


 所長が頷きました。


「それでいい」


 私はノートの最後に、一行を書きました。


 ――必要費は「守るお金」で直ちに請求。有益費は「良くするお金」で原則終了時。


 よし。


 今日の教訓。


 これなら忘れません。


 そのとき。


 相馬先輩が声をかけました。


「こはる」


「はい!」


「ちょうどいいから、事務所の棚を直してくれ」


「……棚?」


 私は振り向きました。


 奥の木製書棚。


 扉の蝶番が外れかけています。


「そこ、前から壊れてますよね」


「ああ」


「修理するんですか?」


「そうだ」


「誰がお金を出すんです?」


「所長だろ」


 私は目を輝かせました。


「必要費ですね!」


「……まあ、事務所の備品だからな」


「じゃあ、すぐ請求できますね!」


「おい」


「先輩!」


「何だ」


「私が蝶番を買ってきたら、その費用は直ちに償還請求できますよね!」


 相馬先輩は、しばらく黙りました。


 そして。


「……所長」


「何だ」


「こいつ、賢くなったんだか面倒になったんだか、分かりません」


 片桐所長が帳簿を閉じました。


「こはる」


「はい!」


「蝶番代は事務所の経費で払う」


「やった!」


「ただし」


「はい?」


「修理を頼んだだけで、お前に棚の賃貸借をしたわけじゃない」


 ……。


 私は止まりました。


 相馬先輩が吹き出しました。


「ほらな!」


「な、なるほど!」


 そうでした。


 費用を立て替えれば、何でも民法六百八条が使えるわけではありません。


 必要費償還請求権は、賃貸借という法律関係の中で問題になる権利なのです。


「こはる」


 相馬先輩が笑いました。


「法律は、使う相手を間違えるなよ」


「はい!」


 私はノートを閉じました。


 昭和六十三年。


 古い民法。


 難しい条文。


 時代によって違う数字。


 でも。


 そこに書かれていることの根っこは、案外分かりやすいのかもしれません。


 借りた人には、借りた人の義務がある。


 貸した人には、貸した人の義務がある。


 そして。


 どちらか一方が強いからといって。


 すべてを押しつけてよいわけではない。


 私は今日、もう一つだけ確信しました。


 契約書に、


「全部借主負担」


 と書いてある。


 その一行で勝ち誇る大家ほど。


 民法六百八条と、過去の自分が押したハンコを並べられた瞬間。


 急に声が小さくなることがある。


「相馬先輩!」


「今度は何だ!」


「やっぱり、民法って面白いですね!」


「面白がってねえで、棚を直せ!」


「はいっ!」


 私は工具箱を手に取りました。


 ただし。


 蝶番代の領収書は、絶対にもらっておこうと思います。


 だって。


 お金を払った証拠を残すこと。


 それもまた。


 今日、昭和の仕立て屋さんから教わった、大切な民法の知恵なのです。

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