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こはる行政書士見習帖 〜 昭和に転生して許認可に振り回されると試験知識が骨身にしみます 〜  作者: 条文小説
〈民法 配点76点/300点〉 債権

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520/588

[民法・契約不適合責任]法理編 こはるノート

挿絵(By みてみん)

 壊れたものを売ったら、直せばいい。


 足りないものを渡したら、足せばいい。


 約束と違うものを渡したら、その違いに責任を持つ。


 当たり前のことに思えます。


 でも。


 法律の世界では、その「当たり前」が、昔から同じ形で認められていたわけではありません。


 昭和六十三年。


 夕方の片桐行政書士事務所。


 私は机に向かい、ノートを開いていました。


 表紙には大きく、


 ――こはるノート・民法編。


 と書いてあります。


 今日のテーマは。


 契約不適合責任。


 ……と言いたいところですが。


「先輩!」


「何だ」


「この時代の法律、難しすぎませんか!」


 相馬先輩が新聞から顔を上げました。


「また始まったな」


「だって、瑕疵担保責任ですよ!」


「そうだな」


「かし、ですよ! 普通の人、読めませんよ!」


「読めるようになれ」


「しかも、条文があっちこっち飛ぶんです!」


 私は六法を開きました。


 民法第五百七十条。


 隠れた瑕疵。


 そして。


 第五百六十六条を準用。


 さらに。


 第五百七十二条で免責特約の例外。


「一つの事件を解決するのに、何条めくらせるんですか!」


「法律に聞け」


「聞いても答えてくれません!」


 相馬先輩が煙草をくわえました。


「じゃあ、昨日の家を思い出せ」


 私は手を止めました。


 岡野春江さん。


 三十四歳。


 七歳の娘、由美ちゃんと暮らすために、百八十万円の中古住宅を購入した女性。


 ところが。


 引渡し後、最初の大雨で天井から水が落ちてきた。


 屋根の下には、腐った木材。


 修理見積りは九十万円。


 売主の丸山不動産は、こう言いました。


 ――現状渡しだから、責任は負わない。


 でも。


 調べてみると、売買の前年に丸山社長自身が雨漏りの修理見積りを受けていた。


 しかも、買主には雨漏りを説明していなかった。


 そこで。


 旧民法の瑕疵担保責任と、免責特約の例外を根拠に、春江さん名義の内容証明を作成した。


 結果。


 丸山不動産は修理費用の負担を申し出て、弁護士を通じた条件調整の末、住宅は修繕された。


 由美ちゃんは、ようやく安心して眠れるようになった。


 ……あの事件です。


「よし」


 私は鉛筆を握りました。


「今日は、瑕疵担保責任と契約不適合責任を、完全に区別します!」


「今使う法律を先に覚えろよ」


「もちろんです!」


 そこへ。


 奥から片桐所長が声をかけました。


「こはる」


「はい!」


「最初の問題だ」


「えっ、いきなりですか?」


「丸山が売った家には、何があった」


「雨漏りです!」


「それだけか」


「……腐った梁、です」


「ほかには?」


「修理に大きな費用が必要で、そのままでは安全に住めない状態でした」


 所長が頷きました。


「それが、法律上どんな問題になる」


 私は、六法を見ました。


 そして答えました。


「売買目的物の、隠れた瑕疵です」


「そうだ」


 まずは。


 そこからでした。


 ◇


「そもそも、瑕疵って何ですか?」


 私はノートに大きく書きました。


 ――瑕疵。


「傷とか欠陥だろ」


 相馬先輩が言いました。


「そうなんですけど、それだけじゃ少し足りません」


「ほう」


 私は続けました。


「売買目的物が通常備えるべき品質や性能を欠いていたり、契約で予定された性質を備えていなかったりすることです」


「例えば?」


「雨漏りしない住宅として売ったのに、屋根が腐っていて雨漏りすること!」


「うん」


「農作業に使える耕運機として売ったのに、エンジンが故障して動かないこと!」


「そうだな」


「水を通さないはずの容器に、穴が開いていること!」


「分かった分かった」


 私は、さらに書きました。


 ただし。


 古い家に、小さな傷がある。


 中古機械に、多少の使用感がある。


 それだけで、必ず瑕疵になるわけではありません。


 契約の内容。


 目的物の種類。


 価格。


 年式。


 説明された品質。


 取引上予定されていた性能。


 そうした事情によって判断する必要があります。


「つまり」


 私は言いました。


「新築住宅と築二十六年の中古住宅では、買主が期待できる品質は同じではありません」


「当たり前だな」


「でも、中古住宅だから雨漏りしても当然、とはなりません」


「そういうことだ」


 ここです。


 丸山社長は、


「古い家なんだから仕方ない」


 と主張しました。


 でも。


 春江さんは、雨漏りがないと説明されて購入していました。


 しかも。


 欠陥は、居住の安全に関わる重大なもの。


 単なる古さや使用感とは違います。


「だから、瑕疵の有無は、単純に新品か中古かだけでは決まらないんですね」


「そうだ」


 私は頷きました。


 そして次に。


 もう一つの言葉を書きました。


 ――隠れた瑕疵。


「ここが、昭和の重要ポイントです!」


 私は六法を指差しました。


 旧民法第五百七十条。


 目的物に隠れた瑕疵があったとき、売主の担保責任が問題になる。


「先輩。隠れた瑕疵って、どういう意味ですか?」


「買主が知らなかった欠陥だろ」


「はい。でも、それだけではありません」


 私は鉛筆で線を引きました。


 買主が知らず、通常要求される注意を尽くしても発見できなかった欠陥。


「つまり、買主が知らなかったことに加えて、知らなかったことについて過失がないかが問題になるんですね」


「そうだ」


「じゃあ、買主が屋根に大きな穴が開いているのを見て買ったら?」


「それを承知で買ったなら、隠れた瑕疵とは言いにくいな」


「では、屋根裏の見えないところが腐っていたら?」


「普通の内覧じゃ分からん場合がある」


「そうです!」


 私は頷きました。


 春江さんの家。


 内覧では、天井板が張られていました。


 外から見ても、梁の腐食は分かりません。


 しかも、売主は雨漏りがないと説明していた。


 だから。


 買主が知らなかった欠陥だったか。


 通常の注意で発見できたか。


 そこを丁寧に調べる必要があったのです。


「所長」


「何だ」


「隠れた瑕疵って、売主が隠した瑕疵という意味ではないんですよね」


 所長が頷きました。


「そうだ」


 ここ。


 とても大事です。


 私はノートに大きな丸を書きました。


 隠れた瑕疵。


 これは、買主から見て発見できなかった欠陥を指します。


 売主が故意に隠したことが、必ず必要なわけではありません。


「つまり、売主が欠陥を知らなかったとしても、瑕疵担保責任は問題になるんですね」


「そうだ」


「旧民法の瑕疵担保責任は、売主の故意や過失がなければ絶対に成立しない、という制度ではありません」


 相馬先輩が頷きました。


「だから、売主の責任を調べるとき、知ってたかどうかだけに飛びつくな」


「はい!」


 ただし。


 今回の事件では、売主が知っていたかどうかも重要でした。


 なぜなら。


 契約書に、免責特約があったからです。


 ◇


「次は、現状渡しです」


 私はノートに書きました。


 ――現状有姿。


 ――瑕疵担保責任を負わない旨の特約。


「先輩。現状渡しって、何でも許されるんですか?」


「そんなわけねえだろ」


「ですよね!」


 私は契約書の写しを取り出しました。


 そこには、はっきり書かれています。


 ――売主は引渡し後の瑕疵について一切責任を負わない。


「これ、丸山社長が自信満々だった理由ですね」


「ああ」


「でも、現状有姿って言葉だけで、当然にあらゆる瑕疵担保責任が免除されるわけではありません」


「そうだな」


 現状有姿という言葉は、現在の状態で引き渡すという意味で使われます。


 しかし。


 どこまでの欠陥を買主が引き受けたのか。


 売主がどんな説明をしたのか。


 契約の文言はどうなっているのか。


 そこまで確認する必要があります。


 今回の契約には、単なる現状渡しだけでなく、担保責任を免除する明確な条項がありました。


 だからこそ。


 旧民法第五百七十二条が、決定的な意味を持ったのです。


「こはる」


 相馬先輩が言いました。


「五百七十二条、言ってみろ」


「はい!」


 私は六法を開きました。


 旧民法第五百七十二条。


 売主は、担保責任を負わない旨の特約をしたときであっても、知りながら告げなかった事実については、責任を免れることができない。


「つまり!」


 私は言いました。


「売主が雨漏りを知っていたのに、買主へ告げなかった場合、免責特約があっても逃げられない!」


「そうだ」


「しかも、丸山社長は前年に修理見積りを受けていました!」


「うん」


「だから、知らなかったという説明が崩れたんです!」


 私は思わず机を叩きました。


 ばん。


「……こはる」


「はい?」


「机を壊すな」


「あっ、すみません!」


 相馬先輩が笑いました。


「それだけ興奮するなら、もう一問だ」


「はい!」


「売主が欠陥を知らなかった場合は、免責特約が絶対に無効になるのか?」


「いいえ!」


 私は即答しました。


「当事者間で有効な免責特約が成立していれば、原則としてその効力が問題になります。ただし、強行法規などによる制限は別です」


「よし」


「旧民法五百七十二条の例外は、売主が知りながら告げなかった事実などについてです」


 ここを混同すると危険です。


 瑕疵担保責任そのものは、売主の過失がなくても成立し得る。


 でも。


 免責特約があるときに、その特約を排除できるかどうかは、別の問題。


 だから。


 今回、私たちは必死に調べたのです。


 屋根の腐食。


 古い修理見積書。


 板金店の証言。


 売主が雨漏りを知っていたことを裏付ける資料。


「先輩」


「何だ」


「内容証明に五百七十二条を書いたとき、社長が慌てた理由が分かりました」


「ほう」


「免責特約があるから勝てると思っていたのに、その前提が崩れたからです」


「そうだ」


 相馬先輩は笑いました。


「世の中、声がでかい奴じゃなくて、書面にハンコを押させた奴が勝つんだよ」


「またそれですか!」


「今回は証拠の方が先だったけどな」


 私は笑いました。


 でも。


 あの一枚の修理見積書。


 あれがなかったら。


 丸山社長は、最後まで知らなかったと言い張っていたかもしれません。


 民法の条文だけでは、相手の嘘を崩せない。


 事実を証明する資料があって、初めて法律が生きる。


 それが、今回の大きな教訓でした。


 ◇


「さて」


 片桐所長が帳簿を閉じました。


「瑕疵があったら、買主は何ができる」


「はい!」


 私はノートをめくりました。


 旧民法第五百七十条。


 そして第五百六十六条。


「一定の要件のもとで、契約解除または損害賠償請求ができます」


「解除は、いつでもできるか」


「いいえ!」


 私は答えました。


「瑕疵のために契約をした目的を達することができない場合に、解除が認められます」


 ここが、旧民法の重要なところです。


 例えば。


 中古住宅を買った。


 壁紙に小さな汚れがあった。


 その汚れが隠れた瑕疵に当たるとしても。


 それだけで、住むという目的を達成できないとは通常いえません。


「じゃあ、解除は難しい場合があるわけですね」


「そうだ」


 相馬先輩が頷きました。


「では、春江さんの家なら?」


 私は考えました。


 屋根から雨漏り。


 梁の腐食。


 そのまま住み続けるのは危険。


 修理費九十万円。


「居住目的を達成できないほど重大な瑕疵かどうかが問題になります」


「そうだ」


「ただし、修理できる可能性もありますから、必ず解除できると断定はできません」


 所長が頷きました。


「よし」


 私は続きを書きました。


 旧民法の瑕疵担保責任。


 契約の目的を達成できない場合には解除。


 その他の場合には損害賠償請求。


「では先輩、今回の春江さんは?」


「家に住みたいと言っていたな」


「はい」


「だから、解除を第一希望にはしなかった」


 私は頷きました。


 春江さんは、家を返したいわけではありませんでした。


 住みたかったのです。


 あの家に。


 由美ちゃんと。


 亡くなったご主人の写真を置いて。


「だから、損害賠償請求を行ったんですね」


「そうだ」


 ただし。


 私は赤線を引きました。


 ――損害賠償請求と、修理請求は同じではない。


「ここ、重要です!」


 私は言いました。


「令和の民法では、追完請求権として修補を請求できますよね」


「また未来か」


「比較です!」


 現代の民法五百六十二条。


 種類、品質または数量が契約内容に適合しない場合。


 原則として。


 修補。


 代替物の引渡し。


 不足分の引渡し。


 そうした履行の追完を請求できます。


 でも。


 昭和の旧民法五百七十条に基づく瑕疵担保責任から、当然に同じ修補請求権が発生するわけではありません。


「だから、あの内容証明では、修理そのものを法律上当然に請求できる権利だとは書かなかったんですね」


「そうだ」


「損害賠償を請求したうえで、相手が任意に修理する提案をする余地を残した」


 所長が頷きました。


「その違いは重要だ」


 私は書きました。


 法律上、請求できる権利。


 当事者が合意して実現する解決。


 この二つは、別。


 丸山不動産が修理費を負担したのは、旧民法の追完請求権を行使したからではありません。


 そんな現代の条文は、まだなかったのです。


 旧民法の瑕疵担保責任を根拠に損害賠償を請求し、最終的に双方が修理による解決に合意した。


 そういうことでした。


「なるほど……」


 私は鉛筆を止めました。


「同じ『家が直った』という結果でも、法律上の道筋は違うんですね」


「そういうことだ」


 相馬先輩が言いました。


「結果だけ覚えるな。何の権利を使ったのか、そこを間違えると試験でも実務でも痛い目を見るぞ」


「はい!」


 ……危なかった。


 危うく、令和の条文を昭和へ持ち込むところでした。


 ◇


「次は期間です」


 私はノートに大きく書きました。


 ――一年。


「先輩、ここが怖いところですね」


「ああ」


「旧民法と現代の民法で、同じ一年でも意味が違うんです」


 相馬先輩が首をかしげました。


「どう違う」


「まず、昭和六十三年です」


 旧民法第五百七十条が準用する第五百六十六条。


 買主は、瑕疵の事実を知った時から一年以内に、解除または損害賠償請求の権利を行使する必要があります。


 私は下線を引きました。


 ――権利行使。


「つまり、単に『欠陥がありました』と知らせれば、それだけで必ず足りるというわけではないんですね」


「そうだ」


 私は頷きました。


 ここは実務でも大事です。


 旧法では、損害賠償請求をする場合、一定の具体性をもって請求権を行使する必要があります。


 ただし、期間内に訴訟を起こすことまで必須というわけではありません。


「だから内容証明で、損害賠償を請求する意思をはっきり示したんですね」


「そうだな」


「では、令和の民法は?」


 私はノートの右側に書きました。


 現代の民法五百六十六条。


 目的物の種類または品質について契約不適合があった場合。


 原則として、買主が不適合を知った時から一年以内に、その旨を売主へ通知する必要がある。


「……通知?」


 相馬先輩が聞きました。


「そうです!」


 ここが違います。


 現代では、対象となる不適合について、一年以内に通知することが原則的な期間制限の仕組みになっています。


 そのうえで、具体的な請求権については、別途、消滅時効などの問題があります。


「なるほど」


 相馬先輩が頷きました。


「昔の権利行使と、今のお前が言う通知は、同じじゃねえってことか」


「そうです!」


 私はノートに二重線を引きました。


 昭和。


 知った時から一年以内の権利行使。


 令和。


 種類・品質の不適合について、知った時から一年以内の通知が原則。


「ただし!」


 私は自分で声を上げました。


「何だよ」


「現代の民法には例外があります!」


 私は続きを書きました。


 売主が引渡しの時に不適合を知っていた場合。


 または。


 重大な過失によって知らなかった場合。


 この場合、民法五百六十六条の一年以内の通知をしなかったことを理由に、同条による権利制限を受けるわけではありません。


「……ほう」


 相馬先輩が頷きました。


「丸山みたいな奴だな」


「そうです!」


 私は思わず笑いました。


 令和の民法で考えても。


 売主が知っていた不適合を隠していた。


 そんな場合にまで、買主が一年以内に通知しなかったからといって、売主を当然に保護する必要はない。


 そこには、旧法から続く公平の考え方があるのです。


「でも、先輩」


「何だ」


「現代の一年以内の通知のルールは、種類と品質の不適合についてなんです」


「数量は?」


「同じ一年通知の規定の対象ではありません」


「ほう」


 私は大きく頷きました。


 教材で出てくる三つの言葉。


 種類。


 品質。


 数量。


 この三つは、追完請求や代金減額請求では一緒に登場します。


 でも。


 民法五百六十六条の一年通知では、種類と品質。


 数量は含まれません。


「ここ、試験で狙われそうですね」


「お前、本当に試験が好きだな」


「好きじゃありません!」


「じゃあ何だ」


「受かりたいんです!」


 相馬先輩は呆れた顔をしました。


「だったら、ちゃんと区別しろ」


「はい!」


 私は、三つの言葉を丸で囲みました。


 種類。


 品質。


 数量。


 似たように並んでいても、全ての条文で同じ扱いになるとは限らない。


 これも、大事な教訓です。


 ◇


「さて、こはる」


 片桐所長が言いました。


「はい」


「ここからは、お前の言う新しい法律を使って考えてみろ」


「えっ!」


 私は目を丸くしました。


「いいんですか!?」


「比較するだけだ」


「やった!」


 相馬先輩が眉をひそめました。


「何を喜んでるんだ」


「未来の民法が使えるんです!」


「また訳の分からんこと言ってるな」


 私は、ノートの新しいページを開きました。


 大きく書きます。


 ――契約不適合責任。


 現代の民法。


 旧法の瑕疵担保責任などを改め、売主が契約内容に適合するものを引き渡す義務を負うという考え方を基礎に、買主の救済を整理した制度。


「ここで一番大事なのは、名前が変わっただけではないことです」


 私は言いました。


「じゃあ、何が変わった」


 相馬先輩が聞きました。


「考え方の中心が、契約の内容になったんです」


 私はノートに二つの言葉を書きました。


 旧法。


 隠れた瑕疵。


 現代。


 契約の内容に適合しているか。


「例えば、春江さんの家です」


 私は説明しました。


 春江さんは、雨漏りがないと説明されて中古住宅を買いました。


 だから。


 引き渡された住宅が、契約で予定された品質に適合しているかが問題になります。


「現代なら、まずそこから考えるんですね」


「そういうことか」


 相馬先輩が頷きました。


 私は続けました。


「重要なのは、単に『隠れていたかどうか』という言葉だけではなく、約束された内容と実際に引き渡されたものが一致しているか、ということです」


 もちろん。


 買主が欠陥を知っていたかどうか。


 どんな説明を受けたか。


 欠陥を承知で契約したか。


 それらは契約内容の判断に関わります。


 だから、現代では買主が欠陥を知っていたら必ず請求できる、という単純な話でもありません。


「なるほどな」


 相馬先輩が言いました。


「結局、何を約束したかが大事ってことか」


「はい!」


 ここが。


 現代の契約不適合責任の出発点なのです。


「では、第一の武器!」


 私は鉛筆を掲げました。


「追完請求権です!」


 相馬先輩が顔をしかめました。


「また妙な言葉だな」


「契約に合った状態にしてもらうことです!」


 民法第五百六十二条。


 種類、品質または数量について契約内容に適合しない場合。


 買主は、原則として履行の追完を請求できます。


「例えば?」


 相馬先輩が聞きました。


「壊れた機械なら修理!」


「うん」


「違う商品が届いたなら、契約に合ったものへの交換!」


「うん」


「十台買ったのに八台しか届かなかったら、不足する二台の引渡し!」


「なるほどな」


 私は大きく丸をつけました。


 修補。


 代替物の引渡し。


 不足分の引渡し。


 この三つが基本です。


「ただし!」


 私は言いました。


「またか」


「大事なんです!」


 買主が選んだ方法が、必ずそのまま認められるとは限りません。


 売主は、買主に不相当な負担を課すものでないとき、買主が請求した方法とは異なる方法で追完することができます。


「例えば、簡単な部品交換で完全に直る機械を、買主が新品に交換しろと言った場合です」


「ほう」


「売主が修理という別の方法で追完できる場合があるんです。ただし、買主に不相当な負担をかけないことが条件です」


 相馬先輩が頷きました。


「売主にも、方法を選べる余地があるわけか」


「そうです」


 私は続けました。


「それから、契約不適合が買主の責めに帰すべき事由による場合には、追完請求はできません」


「例えば?」


「買主自身の不適切な取扱いが原因で壊れた場合などです」


「当たり前だな」


「ですよね!」


 売主が悪いわけではないのに、買主が壊して、無料で直せと言う。


 それを当然に認めるわけにはいきません。


「契約不適合責任も、買主が何でも得をする制度ではないんですね」


「そうだな」


 私は頷きました。


 民法が考えているのは。


 一方を無条件に勝たせることではありません。


 当事者間の公平なのです。


 ◇


「次は、代金減額請求権です!」


 私はページをめくりました。


 民法第五百六十三条。


「先輩。例えば、十台買った機械のうち、二台が不足していたら?」


「足りない二台を渡せって言うだろ」


「そうです!」


「で?」


「相当な期間を定めて追完を催告したのに、売主が不足分を渡さなかったら?」


「……金を減らせって話か」


「正解です!」


 私は大きく丸をつけました。


 代金減額請求。


 契約内容に適合しない程度に応じて、代金を減額するよう求めること。


「ここ、追完請求との順序が大事なんです」


 私は書きました。


 原則。


 まず、相当期間を定めて追完を催告。


 その期間内に追完がなければ、代金減額請求。


「つまり、原則として、最初から自由に値引きを要求できるわけではないんですね」


「そういうことだな」


 相馬先輩が頷きました。


「でも、例外があります!」


 私は続けました。


「またか」


「四つあります!」


「多いな!」


「民法ですから!」


 私はノートに書きました。


 一つ目。


 追完が不能な場合。


 二つ目。


 売主が追完を拒絶する意思を明確に表示した場合。


 三つ目。


 特定の日時や期間内に履行されなければ契約目的を達成できないのに、その時期を過ぎた場合。


 四つ目。


 その他、催告しても追完される見込みがないことが明らかな場合。


「この四つなら、催告なしで直ちに代金減額請求ができるんです!」


「なるほどな」


 相馬先輩が腕を組みました。


「例えば、結婚式のために頼んだ品物が式の後に届いた場合か」


「はい。契約の性質や当事者の意思によって、その日でなければ意味がない場合ですね」


「ふむ」


「ただし、そもそも追完によって契約目的を達成できるかなど、具体的な事情も大事です」


 私は頷きました。


 さらに。


 代金減額請求も、不適合が買主の責めに帰すべき事由による場合にはできません。


「追完請求と同じように、買主自身の責任で生じた問題を売主に押し付けることはできないんですね」


「そうだ」


 私はノートに書きました。


 追完請求。


 まず、約束どおりにしてもらう。


 代金減額請求。


 約束どおりにならない場合に、一定の要件のもとで、その分だけ代金を減らす。


「なるほど……」


 私は鉛筆を止めました。


「これ、かなり分かりやすいですね」


「何がだ」


「買主が何を求められるか、順序立てて考えられるんです」


 旧法では、瑕疵担保責任について解除と損害賠償が中心でした。


 でも現代では。


 修理してもらう。


 足りない分を渡してもらう。


 それができなければ、代金を減額する。


 そうした選択肢が明文で整理されているのです。


「法律が、現実の取引に合わせて整えられたんですね」


 私が言うと、片桐所長が頷きました。


「それが改正の意味だろうな」


 私は、少し嬉しくなりました。


 昔の法律を知ったからこそ。


 今の法律の分かりやすさが見えてきたのです。


 ◇


「でも、所長」


 私は尋ねました。


「追完請求や代金減額請求ができたら、損害賠償や解除はできなくなるんですか?」


 所長は首を振りました。


「必ずしもそうではない」


「ですよね!」


 私は六法の未来のページを思い浮かべました。


 民法第五百六十四条。


 追完請求や代金減額請求に関する規定は、債務不履行による損害賠償請求や、契約解除を妨げない。


「つまり!」


 私は言いました。


「追完請求と代金減額請求だけが、救済方法の全部ではないんです!」


 相馬先輩が頷きました。


「損害賠償と解除もあるわけだな」


「はい!」


 ただし。


 ここでも大事な注意点があります。


 私は赤線を引きました。


 ――それぞれの請求には、それぞれの要件がある。


「例えば、損害賠償です」


 私は言いました。


 現代の民法では、債務不履行による損害賠償請求について、民法第四百十五条の要件が問題になります。


 売主に帰責できない事情がある場合には、損害賠償が認められないことがあります。


「旧法の瑕疵担保責任と、ここは考え方が違うんですね」


「そうだな」


 相馬先輩が頷きました。


 私は続けました。


「それから、解除も自動的にできるわけではありません」


 現代の民法では、原則として催告による解除。


 一定の場合には、無催告解除。


 そうした要件があります。


 さらに、催告解除では、不履行が契約及び取引上の社会通念に照らして軽微な場合、解除できません。


「つまり、壁紙に小さな傷があっただけで、必ず住宅の売買全部を解除できるわけじゃない」


「そういうことだ」


「逆に、居住に重大な支障があって、契約の目的を達成できないような場合には、解除が問題になります」


 私は頷きました。


 旧法でも現代でも。


 解除は、重大な法律効果を生じさせます。


 だから。


 何でも気軽に解除できるわけではありません。


「でも、現代では『瑕疵のために契約目的を達成できない場合だけ解除』という旧法の枠組みを、そのまま使うわけではないんですね」


「そういうことだ」


 私は書きました。


 昭和。


 隠れた瑕疵について、契約目的を達成できないときは解除。


 それ以外では損害賠償。


 令和。


 契約不適合について、追完・減額の制度が整備され、損害賠償・解除も債務不履行の一般規定に従って判断する。


「なるほど……」


 私は、しみじみ呟きました。


「民法改正って、単なる言葉の言い換えじゃないんですね」


「そうだ」


 所長が言いました。


「責任の仕組みを、契約の問題として整理し直したんだ」


 私は大きく頷きました。


 やっと。


 旧法と現代の違いが、一本の線でつながってきました。


 ◇


「さて、こはる」


 相馬先輩が言いました。


「はい?」


「家の話ばっかりしてるが、売買するのは物だけじゃねえぞ」


「……権利ですか?」


「そうだ」


 私はノートに書きました。


 ――移転した権利が、契約内容に適合しない場合。


 現代の民法第五百六十五条。


 売主が買主へ移転した権利が、契約の内容に適合しない場合にも、追完請求や代金減額請求などに関する規定が準用されます。


「例えば」


 私は説明しました。


「完全に自由に利用できる土地として買ったのに、第三者の地上権が付いていた場合です」


「ほう」


「あるいは、他人のための地役権が設定されていて、契約で予定していた使い方ができない場合」


「なるほどな」


 私は続けました。


 対抗力のある賃借権。


 地上権。


 地役権。


 質権。


 こうした権利が付着していることによって、売主が移転した権利が契約の内容に適合しない場合があります。


「でも先輩」


「何だ」


「他人の権利が付いていたら、必ず契約不適合になるわけではありません」


「どういうことだ」


「買主がその権利を承知して、その負担付きの権利を買う契約だったなら、契約内容に適合している場合があります」


 相馬先輩が頷きました。


「やっぱり契約内容が大事なんだな」


「そうです!」


 私はさらに書きました。


 ――一部他人物売買。


 例えば。


 百坪の土地全部を売る契約をした。


 ところが、実際にはそのうち二十坪が他人の所有だった。


 売主が、その二十坪の所有権を取得できず、買主へ移転できなかった。


「これも契約不適合責任の問題になるんです」


「なるほど」


 相馬先輩が言いました。


「物の傷だけじゃないってことか」


「はい!」


 約束した権利。


 実際に移転された権利。


 その間に食い違いがあれば、買主の救済が問題になります。


「だから」


 私は言いました。


「契約不適合責任って、欠陥品の話だけじゃないんです」


「そうだな」


「物だけじゃなく、権利も含めて、契約どおりの内容が実現しているかを考える制度なんですね」


 所長が頷きました。


「よし」


 私は、大きく丸をつけました。


 種類。


 品質。


 数量。


 そして、移転した権利。


 ここまでつながれば。


 契約不適合責任の全体像が、かなり見えてきます。


 ◇


「さて」


 相馬先輩が煙草を消しました。


「今度は問題だ」


「はい!」


「十台の機械を買った」


「はい」


「八台しか届かなかった」


「はい」


「買主は何を求める?」


 私は即答しました。


「現代の民法なら、原則として不足分二台の引渡しによる追完請求ができます!」


「よし」


「売主が相当期間内に追完しなければ、原則として代金減額請求もできます!」


「そうだ」


「追完を明確に拒絶しているなら、無催告で代金減額請求できる場合もあります!」


「よし」


 私は得意になりました。


「完璧ですね!」


「まだだ」


「えっ」


「じゃあ、昭和六十三年は?」


 ……。


 私は固まりました。


 そうでした。


 ここは昭和。


 令和の条文は、まだありません。


「……旧民法五百六十五条です」


「そうだ」


 旧民法では、数量を指示して売買した物に不足がある場合などについて、独自の担保責任の規定がありました。


 私は六法を開きました。


「数量を指示した売買で、不足があり、買主がその不足を知らなかった場合ですね」


「うん」


「一定の要件のもとで、代金減額や損害賠償、解除が問題になります」


「そうだ」


「ただし、現代の追完請求と同じ仕組みが、当然にあるわけではありません」


 私は頷きました。


 ここも重要です。


 旧法では。


 物の瑕疵。


 数量不足。


 権利の瑕疵。


 そうした場合について、別々の規定が置かれていました。


 でも、現代では。


 契約内容に適合しているかという考え方を軸に、買主の救済が体系的に整理されています。


「……なるほど」


 私は鉛筆を置きました。


「これ、改正される理由が分かる気がします」


「何がだ」


「昔の民法って、同じように契約どおりのものが渡されなかった場合でも、何が不足していたかによって条文が分かれていたんです」


 相馬先輩が頷きました。


「そうだな」


「でも、買主からすれば、どれも約束と違うものが渡されたという問題です」


「うん」


「だから現代では、契約不適合という考え方を中心に整理されたんですね」


 片桐所長が、静かに言いました。


「法律は、現実の取引に役立たなければ意味がない」


 私は、その言葉をノートに書きました。


 そうです。


 民法は、試験問題のためにあるわけではありません。


 家を買う人。


 機械を買う人。


 土地を買う人。


 毎日の生活を送る人。


 その人たちのためにあるのです。


 ◇


 窓の外は、もう夕暮れでした。


 私は、今日のノートを見直しました。


 旧民法。


 瑕疵担保責任。


 隠れた瑕疵。


 解除。


 損害賠償。


 免責特約。


 そして、現代。


 契約不適合責任。


 追完請求。


 代金減額請求。


 損害賠償。


 解除。


 さらに、権利の不適合。


 期間制限。


 ……多い。


 やっぱり多いです。


「所長」


「何だ」


「確認問題、お願いします!」


「いいだろう」


 私は背筋を伸ばしました。


 所長が言いました。


「昭和六十三年。買った住宅に隠れた瑕疵があった。売主は、過失がなければ当然に責任を免れるか」


「いいえ! 旧民法の瑕疵担保責任は、売主の過失がなくても成立し得ます!」


「よし」


「ただし、免責特約が有効な場合などは別に検討します!」


 所長が頷きました。


「では、隠れた瑕疵による解除は、いつでもできるか」


「いいえ! 契約の目的を達成できない場合です!」


「損害賠償は?」


「解除できない場合にも、請求できる余地があります!」


「では、売主が知っていた瑕疵を告げず、免責特約を置いた場合は?」


「旧民法五百七十二条です! 知りながら告げなかった事実については、免責されません!」


「よし」


 私は拳を握りました。


 所長が続けます。


「現代の民法五百六十二条は?」


「買主の追完請求権です!」


「追完の方法は?」


「修補、代替物の引渡し、不足分の引渡しです!」


「売主は、買主が指定した方法に必ず従わなければならないか」


「いいえ! 買主に不相当な負担を課さないときは、別の方法による追完もできます!」


「不適合が買主の責任で生じた場合は?」


「追完請求できません!」


「よし」


 私は、ますます調子に乗りました。


 続いて。


「五百六十三条!」


 所長が言いました。


「代金減額請求権です!」


「原則として必要な手続は?」


「相当期間を定めた追完の催告です!」


「例外は?」


「追完不能、明確な追完拒絶、特定時期の経過、催告しても追完の見込みがないことが明らかな場合です!」


 所長が頷きました。


「五百六十四条」


「損害賠償請求と解除権の行使について、追完や減額の規定が妨げにならないことです!」


「五百六十五条」


「移転した権利が契約内容に適合しない場合の売主の責任です!」


「五百六十六条」


「種類または品質についての契約不適合を知った時から一年以内の通知が原則です!」


「数量は?」


「同条の一年通知の対象ではありません!」


「売主が不適合を知っていた場合は?」


「同条の一年通知をしなかったことによる権利制限の例外になります!」


 ……。


 所長が頷きました。


「よし」


 私は、思わず両手を上げました。


「やりました!」


 相馬先輩が呆れた顔をしました。


「一人で試験会場にいるみたいだな」


「実際、試験に出るんです!」


「そうかよ」


「でも先輩!」


「何だ」


「問題を解くだけなら、ここまで覚えられなかったと思います」


 相馬先輩が顔を上げました。


「ほう」


「春江さんの家を思い出すと、全部つながるんです」


 私はノートを見ました。


 隠れた瑕疵。


 屋根の腐食。


 免責特約。


 売主の知っていた雨漏り。


 損害賠償。


 修理による解決。


 そして。


 現代なら、追完請求という方法が明文で用意されている。


「だから、法律って事件と一緒に覚えると忘れにくいんですね」


 相馬先輩が頷きました。


「そうだな」


 私は、少し嬉しくなりました。


 やっぱり。


 現場で生きる知識というのは、こういうことなのです。


 ◇


「ところで、こはる」


 相馬先輩が言いました。


「はい?」


「お前、今回の事件で一番怖かったのは何だ?」


 私は少し考えました。


「……丸山社長です」


「違う」


「えっ」


「社長が怖かったんじゃねえ」


「じゃあ何ですか?」


 先輩は、契約書の写しを指差しました。


「これだ」


 ――現状有姿。


 ――売主は一切責任を負わない。


「……契約書?」


「ああ」


 相馬先輩が言いました。


「契約書にそう書いてあるから、自分には何もできないと思い込んじまうことだ」


 私は、はっとしました。


 春江さんは、最初から諦めかけていました。


 不動産屋が言ったから。


 契約書に書いてあるから。


 自分は法律を知らないから。


 だから、仕方ない。


 そう思っていたのです。


「でも」


 先輩は続けました。


「契約書の一行で、民法が全部消えるわけじゃねえ」


「……はい」


「法律は、約束を守らせるためにある。だが、約束を利用して人を騙す奴まで守るためにあるわけじゃねえ」


 私は、その言葉をゆっくり噛みしめました。


 なるほど。


 契約自由の原則。


 当事者の合意。


 それは大事です。


 でも。


 知らない人間を騙して。


 欠陥を隠して。


 都合のいい条項だけ押し付ける。


 そんなやり方が、いつでも通用するわけではありません。


 民法は。


 人が約束を守ることを求める一方で。


 約束の形を借りた不公平にも、向き合っているのです。


 私は、ノートの最後のページを開きました。


 ここに。


 今日の一行を書きます。


 鉛筆の先を整えて。


 ゆっくり。


 ――旧法は「隠れた瑕疵」、現代は「契約との不適合」。違いを見抜き、約束されたものを守る。


「……できた!」


 私はノートを掲げました。


「どうですか!」


 相馬先輩が覗き込みました。


「まあ、いいんじゃねえか」


「褒めましたね!」


「気のせいだ」


「またそれですか!」


 私は笑いました。


 でも。


 この一行は、たぶん忘れません。


 あの家のことを思い出せばいい。


 百八十万円の中古住宅。


 天井から落ちてきた雨。


 腐った梁。


 丸山社長の、


「現状渡しだから知らない」


 という言葉。


 それを崩した。


 古い修理見積書。


 そして。


 旧民法第五百七十二条。


 たった一つの条文が、相手の免責という盾を破ったのです。


 法律の知識だけでは足りない。


 証拠だけでも足りない。


 その二つを正確につなげて、初めて誰かを守る力になる。


 私は、そう思いました。


 ◇


「さて」


 相馬先輩が立ち上がりました。


「勉強会は終わりだ」


「はい!」


「机を片付けろ」


「……はい」


「六法も戻せ」


「はい……」


「それと、奥の棚にある古い契約書を整理しとけ」


「ええっ!?」


 私は立ち上がりました。


「先輩!」


「何だ」


「私、今日すごく勉強したんですよ!」


「知ってるよ」


「だったら、少しくらい休憩してもいいじゃないですか!」


 相馬先輩がにやりと笑いました。


「こはる」


「はい」


「お前、今日のテーマは何だった?」


「契約不適合責任です!」


「じゃあ、お前の仕事は何だ」


「……見習い行政書士として、書類作成の勉強と補助です」


「だろ?」


「はい」


「所長から頼まれた書類整理は?」


「……業務です」


「じゃあ、ちゃんとやれ」


 私は口を尖らせました。


「先輩」


「何だ」


「それ、追完請求ですか?」


「は?」


「私の仕事が契約内容に適合してないから、追完しろってことですか?」


 相馬先輩が、しばらく黙りました。


 そして。


「……お前な」


「はい?」


「雇われて仕事してるんだから、売買の契約不適合責任とは違うだろ」


「……あっ」


 私は固まりました。


 そうでした。


 契約不適合責任は、売買などの契約に関する制度。


 業務の指示を何でも売買の追完請求に当てはめるわけにはいきません。


「こはる」


 片桐所長が奥から言いました。


「はい!」


「今の説明は正しいな」


「はい……」


「では、書類整理を頼む」


「……!」


 相馬先輩が吹き出しました。


「ほらな」


「もう!」


 私は、仕方なく立ち上がりました。


 棚には、古い契約書が山のように積まれています。


 昭和の民法。


 瑕疵担保責任。


 隠れた瑕疵。


 数量不足。


 権利の瑕疵。


 ……本当に。


 昔の法律は、ややこしいです。


 でも。


 今は少しだけ、そのややこしさが好きになりました。


 法律が改正された理由。


 昔の制度が抱えていた難しさ。


 そして。


 今も変わらず残っている、公平の考え方。


 それらを知ると、条文がただの暗記対象ではなくなります。


 私は棚の契約書を手に取りました。


 そのとき。


 一枚の古い写真が、書類の間から落ちました。


「あれ?」


 拾い上げます。


 そこには、若い夫婦が写っていました。


 小さな家の前。


 笑顔の二人。


 裏には、鉛筆で一言。


 ――昭和四十一年。念願の我が家。


 私は、思わず微笑みました。


 家を買う。


 土地を買う。


 物を買う。


 その裏には、いつも誰かの暮らしがあります。


 契約書の一行は、ただの文字ではありません。


 誰かのお金。


 誰かの夢。


 誰かの未来。


 そういうものを動かす約束なのです。


 だからこそ。


 約束したものと違うものを渡されたとき。


 買主を守る仕組みが必要になる。


 それが。


 昭和では瑕疵担保責任。


 そして現代では、契約不適合責任へと整理された制度なのです。


「こはる!」


 相馬先輩の声が飛びました。


「はい!」


「写真見てねえで、書類を整理しろ!」


「今、民法の本質を考えてたんです!」


「本質は後だ!」


「先輩!」


「何だ!」


「約束した仕事を、ちゃんと仕上げる!」


「そうだ!」


「それって、契約不適合責任の考え方にもつながりますね!」


「つながる部分はあるが、何でもかんでも同じ条文にするな!」


「はいっ!」


 私は笑いながら、契約書を棚に戻しました。


 窓の外。


 夕暮れの町に、家々の明かりが灯っていきます。


 あのどこかで。


 春江さんと由美ちゃんは、修理された家で夕食を食べているのでしょう。


 雨が降っても。


 もう、天井にバケツを置かなくていい。


 お父さんの写真を濡らす心配もない。


 そんな当たり前の暮らしが、戻ってきたのです。


 私はノートを閉じました。


 最後の一行を、もう一度読みます。


 ――旧法は「隠れた瑕疵」、現代は「契約との不適合」。違いを見抜き、約束されたものを守る。


 よし。


 今日の民法。


 これなら忘れません。


 ただし。


 次からは。


 内容証明を書く前に、必ず六法の発行年を確認しようと思います。


 だって。


 令和の契約不適合責任を、昭和六十三年の不動産屋に突きつけたところで。


「なんだ、その法律は」


 と言われて終わってしまいますから。


 ……危ない危ない。


 転生者の行政書士受験生にとって。


 民法最大の敵は。


 悪徳業者だけではなく。


 自分の頭に入っている、未来の六法なのかもしれません。

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