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こはる行政書士見習帖 〜 昭和に転生して許認可に振り回されると試験知識が骨身にしみます 〜  作者: 条文小説
〈民法 配点76点/300点〉 債権

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519/576

[民法・契約不適合責任]現場編 「現状渡しだから雨漏りしても知らない」の罠。百八十万円の中古住宅に隠された腐った柱と、悪徳不動産屋を震え上がらせた内容証明

挿絵(By みてみん)

 雨漏りは、屋根からだけとは限りません。


 人の嘘からも、降ってくることがあります。


 たとえば。


 ようやく手に入れた、家族の小さな家。


 雨の日に窓辺でお茶を飲んで。


 子供が畳の上を走り回って。


 古くても、雨風をしのげる。


 そんな当たり前の幸せを夢見て買った家が。


 最初の大雨で、水浸しになったら。


 しかも。


 売った不動産屋が、こう言ったら。


「中古なんだから、雨漏りくらい当たり前でしょう」


 ……。


 当たり前じゃありません!


 昭和六十三年。


 片桐行政書士事務所。


 その日、私は民法の恐ろしさを知ることになります。


 契約不適合責任。


 現代の民法では、そう呼びます。


 でも。


 この昭和の世界では。


 その言葉は、まだ存在しません。


 代わりに登場するのが。


 ――瑕疵担保責任。


 かしたんぽせきにん。


 漢字からして強そうです。


 そして、この古めかしい法律が。


 一軒の家と、そこに暮らす親子の人生を守ることになるのです。


 ◇


「家を買ったんです。でも……もう、住めないかもしれません」


 朝九時。


 事務所を訪れた女性は、そう言って頭を下げました。


 名前は、岡野春江さん。


 三十四歳。


 夫を三年前に病気で亡くし、洋裁の内職をしながら、小学生の娘を育てています。


 その隣には、七歳くらいの女の子がいました。


 赤いランドセルを抱えています。


「お名前は?」


「……由美」


「由美ちゃん。よろしくね」


 私が笑いかけると、女の子は小さく頷きました。


 でも。


 笑いません。


 その手には、くしゃくしゃになった画用紙が握られていました。


 家の絵です。


 赤い屋根。


 青い窓。


 黄色い花。


 そして、二人の女の子とお母さん。


 ……あれ?


 女の子は一人のはずですが。


「これは?」


 私が尋ねると、由美ちゃんは小さく言いました。


「お母さんと、私と……お父さん」


 私は息を止めました。


 絵には、三人。


 亡くなったお父さんも、一緒に描かれていたのです。


 春江さんが目元を押さえました。


「主人の生命保険金と、私が少しずつ貯めたお金で……家を買ったんです」


 百八十万円。


 駅から少し離れた、築二十六年の木造平屋。


 六畳二間に、小さな台所。


 庭には柿の木。


 古いけれど、親子二人には十分な家でした。


「不動産屋さんが言ったんです。古いけれど、雨漏りはありませんって」


「……雨漏りが?」


「はい。私は、屋根の修理なんてするお金がありませんから、何度も確認したんです」


 春江さんは、震える手で一枚の紙を差し出しました。


 売買契約書。


 売主は、丸山不動産株式会社。


 買主は、岡野春江。


 売買代金百八十万円。


 引渡しは、一か月前。


 私は契約書を読み進めました。


 そして。


 一番下で、手が止まりました。


 ――本物件は現状有姿にて引き渡すものとし、売主は引渡し後の瑕疵について一切責任を負わない。


「……これ」


「不動産屋さんは、この条項があるから、修理も返金もできないって」


 春江さんが俯きました。


「でも、雨漏りなんて……聞いていなかったんです」


「どのくらいひどいんですか?」


「この前の大雨で、天井から水が落ちてきて……」


 春江さんの声が震えました。


「押し入れの布団まで濡れて、畳も浮いてしまって……」


「それは……」


「大工さんに見てもらったら、屋根の下の木が腐っているって」


 私は顔を上げました。


「腐っている?」


「はい。昨日や今日の腐り方じゃないそうです」


 春江さんは、鞄から写真を取り出しました。


 ポラロイド写真。


 天井の板を一部外した様子が写っています。


 黒ずんだ木材。


 湿った断熱材。


 腐食した梁の一部。


 そして。


 天井から垂れ下がった、茶色い染み。


 ……ひどい。


 これは、少し雨が染み込んだという話ではありません。


 何年も。


 何年も。


 見えないところで水が入り続けていたように見えます。


「大工さんには、屋根だけじゃなくて、傷んだ木も直さないと危ないと言われました」


「修理費は?」


「……九十万円くらい」


「九十万円!?」


 思わず声が出ました。


 百八十万円の家。


 修理費が九十万円。


 購入価格の半分です。


「そんなお金、ありません」


 春江さんは俯きました。


「家を買うのに、全部使ってしまったので」


 私は何も言えませんでした。


 隣で、由美ちゃんが小さな声を出しました。


「お姉ちゃん」


「うん?」


「うち、壊れちゃうの?」


 ……。


 私は、画用紙を見ました。


 赤い屋根。


 青い窓。


 三人家族。


 この子にとって、百八十万円は数字ではありません。


 お母さんと暮らす場所。


 お父さんの思い出を置く場所。


 その全部なのです。


「大丈夫」


 私は言いました。


「まだ、諦めなくていいよ」


 そして。


 私は勢いよく立ち上がりました。


「所長! これは契約不適合責任です!」


 ……。


 事務所が、静まり返りました。


 相馬先輩が新聞を下ろします。


「……何だって?」


「契約不適合責任です!」


「何だその言葉は」


「民法五百六十二条の追完請求権です! それから五百六十三条の代金減額請求権!」


「……こはる」


 相馬先輩が額を押さえました。


「お前、また変な六法を読んでるな」


「え?」


「今、昭和何年だ」


「昭和六十三年です」


「なら、今の民法を使え」


 ……あ。


 やってしまいました。


 私は固まりました。


 そうです。


 令和の民法。


 契約不適合責任。


 追完請求。


 代金減額請求。


 これらの制度が現在の形に整理されたのは、令和二年施行の債権法改正。


 昭和六十三年には、まだありません。


「……瑕疵担保責任、ですね」


「そうだ」


 相馬先輩が分厚い六法を机に置きました。


「民法五百七十条だ」


 どん。


 重い音がしました。


「隠れた瑕疵があったときの、売主の担保責任だ」


「はい……」


「今のお前が言った代金減額請求権とやらを、当然に使えると思うなよ」


「……はい」


「それから、修理しろって請求も、瑕疵担保責任として当然に認められるわけじゃねえ」


「えっ」


 私は顔を上げました。


「だって、欠陥品を売ったんですよ!?」


「だから、当時の法律で何が請求できるか調べるんだよ」


 相馬先輩が六法を開きました。


 昭和の民法。


 第五百七十条。


 売買の目的物に隠れた瑕疵があったときは、第五百六十六条の規定を準用する。


 ただし、強制競売の場合は除く。


 私は目を瞬かせました。


「……短いですね」


「短いな」


「修理請求って、どこに書いてあるんですか?」


「ねえよ」


「代金減額請求は?」


「この条文にはねえ」


「じゃあ何があるんですか!?」


「解除と損害賠償だ。ただし、解除には条件がある」


 私は頭を抱えました。


 ……令和の民法って、なんて親切だったんでしょう。


 修理。


 交換。


 不足分の引渡し。


 代金減額。


 損害賠償。


 解除。


 買主の救済方法が、整理されていたんです。


 でも。


 今は昭和六十三年。


 旧民法。


 買主が何を求められるかは、欠陥の性質や売買の内容によって、慎重に考えなければなりません。


「こはる」


 片桐所長が口を開きました。


「はい」


「この家を、春江さんが買った目的は何だ」


「……住むためです」


「そうだ」


「親子二人で、暮らすためです」


 所長が頷きました。


「では、その目的を達成できるかどうか。まずそこを調べろ」


「……!」


 私は、写真を見直しました。


 黒く腐った梁。


 雨漏り。


 修理費九十万円。


 そして。


 由美ちゃんの画用紙。


 なるほど。


 ここが。


 この事件の、最初の急所だったのです。


 ◇


「現状渡しなんだから、文句を言われても困りますねえ」


 翌日。


 私は相馬先輩に同行して、問題の不動産屋を訪れました。


 駅前商店街。


 ――丸山不動産。


 金色の文字が入った看板。


 入口には、大きな貼り紙。


『安心の住まい探し』


 ……安心。


 ずいぶん便利な言葉です。


 店の奥には、恰幅のいい男が座っていました。


 丸山徳三。


 四十九歳。


 丸山不動産株式会社の社長。


 金の腕時計。


 磨かれた革靴。


 そして、妙に自信満々の笑顔。


「行政書士さん?」


「片桐事務所の相馬です。岡野さんから、売買に関する書類の作成について依頼を受けています」


「ああ、あの家の話ね」


 丸山は笑いました。


「わざわざご苦労さん。でも、契約書を読んでもらえば分かるでしょう」


 そう言って、机を指で叩きます。


「現状渡し。瑕疵について一切責任を負わない。そういう約束です」


 私は口を開きました。


「でも、雨漏りがあることを説明していませんよね?」


「知らなかったんですよ」


「本当に?」


「本当ですよ」


 丸山は肩をすくめました。


「築二十六年の中古住宅ですよ。多少の傷みがあるのは当然でしょう」


「多少、ではありません!」


「お嬢ちゃん」


 丸山が笑みを浮かべました。


「家ってのはね、新築じゃないんですから、どこかしら傷んでるもんなんですよ」


「でも、住めないほどの欠陥があったら――」


「だから、契約書に書いてあるでしょう」


 丸山が身を乗り出しました。


「現状有姿」


「……」


「それとも何ですか。買った後で気に入らなくなったら、何でも返金してもらえると?」


 む。


 腹が立ちます。


 ですが。


 相馬先輩は、静かでした。


「丸山社長」


「何です?」


「岡野さんは、契約前に雨漏りの有無を確認したそうですね」


「……さあ。そんな話をしたかな」


「雨漏りはないと説明した、という話です」


「覚えてませんねえ」


「分かりました」


 相馬先輩は手帳に書き込みました。


「それと、引渡し前に屋根を修理したことは?」


「ありませんよ」


「天井板を張り替えたことは?」


「……知りませんね」


「屋根裏に補修の跡があるそうですが」


「古い家なんだから、前の持ち主が直したんでしょう」


 先輩は頷きました。


「そうですか」


 私は横から聞きました。


「社長。雨漏りが分かっていたら、春江さんに説明しましたか?」


「当然でしょう」


「では、本当に知らなかったんですね?」


「しつこいねえ!」


 丸山が机を叩きました。


「知らないものは知らない!」


 私は思わず肩を震わせました。


 でも。


 先輩は顔色ひとつ変えません。


「確認できました。ありがとうございました」


 立ち上がります。


「え?」


 私は慌てました。


「先輩、もう帰るんですか?」


「ああ」


「でも!」


「必要なことは聞いた」


 丸山は鼻で笑いました。


「何だ、もう終わりですか。行政書士じゃ裁判もできないからねえ」


 ……!


 言いましたね。


 それを。


 相馬先輩の前で。


 でも、先輩は振り返りませんでした。


「裁判をするなら、弁護士の仕事です」


「そうでしょうねえ」


「我々は、事実を整理して書類を作ります」


「ふん。紙を書いたところで家は直りませんよ」


 先輩は、そこで初めて振り向きました。


「そうですね」


「……?」


「ですが、社長がその紙に書かれた事実を説明できなければ、話は変わるでしょう」


 丸山の笑顔が、わずかに止まりました。


「……どういう意味です?」


「今は、それだけです」


 相馬先輩は店を出ました。


 私も後を追います。


 商店街に出た瞬間。


「先輩!」


「何だ」


「何であんなに簡単に帰っちゃうんですか!」


「簡単じゃねえよ」


「だって!」


 私は振り返りました。


 丸山不動産。


 安心の住まい探し。


 あの看板が、腹立たしい。


「向こう、完全に勝ったつもりですよ!」


「そうだろうな」


「だったら、法律で言い返さないと!」


 相馬先輩は煙草を取り出しました。


「こはる」


「はい」


「俺たちは、依頼人の代理で相手と示談交渉をする仕事じゃねえ」


「……はい」


「だから、金を返せだの契約を解除しろだの、店先で代理交渉はしねえ」


「でも……」


「まず、依頼人本人が何を求めるのかを確認する。そのために事実を固めるんだ」


 先輩は煙草に火をつけました。


「それにな」


「はい」


「相手が嘘をついてるなら、言葉より先に痕跡が残る」


「痕跡?」


「ああ」


 先輩は、春江さんから預かった写真を取り出しました。


 腐った梁。


 雨漏りの跡。


 そして。


 新しく張られた天井板。


「古い家なのに、天井板だけ妙に新しい」


「……!」


「それが何を意味するか、まだ決めつけるな。だが調べる価値はある」


 私は写真を見つめました。


 なるほど。


 口ではいくらでも嘘をつける。


 でも。


 木材は、嘘をつきません。


 腐った年月も。


 新しく張った板も。


 全部、そこに残っているのです。


 ◇


「……これは、ひどいな」


 その日の午後。


 春江さんの家を訪れた大工の老人は、天井を見上げて呟きました。


 名前は、木下源治。


 六十八歳。


 この町で四十年以上、家を建ててきた棟梁です。


「雨漏りは最近始まったものじゃねえ」


「分かるんですか?」


 私が尋ねると、木下さんは頷きました。


「この梁を見な」


 指差した先。


 木材の表面が黒ずんでいます。


 触ると、一部がぼろぼろと崩れました。


「長いこと水を吸ってたんだ。腐りが奥まで進んでる」


「……」


「しかも」


 木下さんは、新しい天井板を指で叩きました。


「こっちは最近張ったもんだ」


「え?」


「釘が新しい。板も変色してねえ」


 私は息を呑みました。


「じゃあ、誰かが雨漏りを隠すために……?」


「そこまでは、俺には分からん」


 木下さんは首を振りました。


「ただ、古い染みの上に新しい板を張ってある。そこまでは確かだ」


 さすが。


 余計なことを断定しない。


 職人の言葉には、重みがあります。


 相馬先輩が言いました。


「木下さん。修理が必要な箇所と費用を、書面にしてもらえますか」


「できるよ」


「腐食の状態も、見たまま記録してください」


「ああ」


「それから、現状のままで居住を続けられるかも」


 木下さんは、しばらく天井を見つめました。


「……この部屋は、使わん方がいい」


 春江さんが息を呑みました。


「そんな……」


「屋根を直すだけじゃ済まねえ。傷んだ部材を調べて、必要なら取り替えにゃならん」


 私は顔を上げました。


「費用は?」


「詳しく積算せんと分からんが、少なくとも八十万、九十万円は見ておきたい」


 春江さんの肩が落ちました。


「そんなお金……」


 そのとき。


 由美ちゃんが、部屋の隅から言いました。


「お母さん」


「……なあに?」


「私、ここに住みたい」


 春江さんが顔を上げました。


「由美……」


「ここ、お父さんの写真を置く場所、決めたんだよ」


 女の子が指差したのは、小さな床の間。


 そこには、まだ何も置かれていません。


「それに、お庭の柿の木も好き」


「……うん」


「だから、直らないの?」


 春江さんは答えられませんでした。


 私は唇を噛みました。


 ……住みたい。


 でも住めない。


 家を買った目的は、家族が安心して暮らすこと。


 その目的を達成できないほどの欠陥。


 ここが、旧民法の瑕疵担保責任で重要になるところです。


 けれど。


 証拠がなければ。


 不動産屋は、またこう言うでしょう。


「買ってから壊れたんじゃないですか」


 だから。


 今必要なのは、怒ることではありません。


 調べることです。


「先輩」


「何だ」


「この家、買う前から腐っていたって証明できますか?」


「それを今から調べるんだよ」


 相馬先輩は、家の外へ出ました。


 私も追いかけます。


 裏庭。


 隣家との境。


 そこに、一人の女性がいました。


 隣の家に住む、森田トキさん。


 六十二歳。


「丸山さんの家のことかい?」


 トキさんは、そう言いました。


「前から、屋根が漏ってたよ」


 ……。


 私は止まりました。


「え?」


「去年の台風でも、大騒ぎだったからねえ」


 相馬先輩の目が細くなりました。


「詳しく教えていただけますか」


「ああ。あの家は元々、丸山さんの親戚が住んでたんだよ」


「はい」


「去年、その人が引っ越す前に、屋根から水が落ちてきたって言ってた」


「……!」


「丸山さん本人も来てたよ。大工を呼ぶとか何とか言ってた」


 私の心臓が跳ねました。


 丸山社長。


 本人も来ていた。


「それ、確かですか?」


「確かだよ」


 トキさんは腕を組みました。


「だって、うちの物干し場から見えたんだもの。屋根に人が上がって、青いシートをかけてたよ」


 ……。


 私は、相馬先輩を見ました。


 先輩は何も言いません。


 ただ、手帳を開きました。


「森田さん。その話を、事実確認書として記録させていただくことはできますか」


「ええよ。嘘じゃないからね」


 私は、拳を握りしめました。


 来ました。


 証拠。


 しかも。


 まだ終わりではありませんでした。


 ◇


「……丸山不動産の名前で、修理を頼まれたことがあります」


 翌朝。


 商店街の小さな板金店。


 そこで聞いた言葉に、私は思わず声を上げました。


「本当ですか!?」


 店主は、加藤清吉さん。


 五十五歳。


 屋根の板金工事を専門にしています。


「去年の秋だな。あの家の屋根を見に行ったよ」


「修理したんですか?」


「いや」


 加藤さんは首を振りました。


「見積りだけだ」


「どうして?」


「社長が高いって言ってね」


 加藤さんは、古い帳簿を取り出しました。


 昭和六十二年十月。


 丸山不動産株式会社。


 屋根補修及び腐食部材調査。


 概算見積り。


 八十五万円。


 ……!


 私は息を止めました。


「これ……」


「雨漏りがひどかったから、表面だけ直しても無理だって説明したんだ」


「丸山社長に?」


「ああ。直接な」


「それで?」


「社長は、そこまで金をかけられんって。売る予定だから、見た目だけ何とかできないかって言ってたよ」


 私の背中が冷たくなりました。


 見た目だけ。


 何とかできないか。


「実際に修理は?」


「うちは断った。根本的に直さなきゃ駄目だって言ったんだ」


 相馬先輩が静かに尋ねました。


「その見積書の控えはありますか」


「あるよ」


「写しをいただけますか」


「構わんが、何に使うんだ?」


「住宅の売買について、事実関係を確認するためです」


 加藤さんは頷きました。


「いいよ。こっちも、あの屋根が気になってたからな」


 先輩は、さらに尋ねました。


「社長が雨漏りを認識していたことについて、事実確認書を作成してもよろしいですか」


「ああ。俺が直接説明したことなら書ける」


 私は、受け取った見積書を見つめました。


 昭和六十二年。


 つまり、売買契約の前。


 屋根の腐食。


 修理見積り。


 そして。


 丸山社長本人への説明。


 ……これ。


 完全に。


「先輩……」


「ああ」


「知らなかったって、言ってましたよね」


「言ってたな」


「でも、知ってたんですよね」


「その可能性を裏付ける資料が出た」


 相馬先輩は、あくまで冷静でした。


「まだ、全部終わったわけじゃねえぞ」


「……はい」


「証拠を揃える。日付を確認する。誰が何を見聞きしたのか、正確に書く」


 私は頷きました。


 そして。


 ここで、一つの言葉が頭に浮かびました。


 ――隠れた瑕疵。


 旧民法五百七十条。


 買主が通常の注意を尽くしても発見できなかった欠陥。


 契約前から存在していた、重大な雨漏り。


 売主は、その存在を知っていた疑いが強い。


 しかも。


 責任を免れる特約まで入れていた。


 私は、背筋が伸びるのを感じました。


 ……なるほど。


 古い民法。


 難しい条文。


 けれど。


 この法律も、ちゃんと見ているのです。


 売主が、何を知っていたのか。


 買主が、何を知らなかったのか。


 そして。


 その不公平を、放置してよいのか。


 そこを。


 ◇


「……免責特約があるから、絶対に責任を負わない?」


 事務所に戻った私は、契約書を机に広げました。


「そんなわけないじゃないですか!」


 相馬先輩が笑いました。


「お。ようやく気づいたか」


「はい!」


 私は六法をめくりました。


 民法五百七十条。


 隠れた瑕疵。


 そして。


 民法五百七十二条。


 ――担保の責任を負わない旨の特約をしたときでも、知りながら告げなかった事実については、その責任を免れることができない。


「これです!」


 私は条文を指差しました。


「社長が雨漏りを知っていたなら、免責特約があっても逃げられない!」


「そうだ」


「契約書に『責任を負いません』って書いてあっても!」


「そういうことだ」


 私は思わず笑ってしまいました。


 何ですか。


 この条文。


 すごいじゃないですか!


「先輩!」


「何だ」


「五百七十二条、最高です!」


「条文に惚れるな」


「でも!」


 私は契約書を指差しました。


「この人、契約書に免責特約を書いたから安心してたんですよね!」


「そうだろうな」


「でも、民法はそんな単純じゃない!」


「ああ」


 相馬先輩は煙草をくわえました。


「世の中、自分に都合のいい一行だけで法律が終わると思ってる奴がいる」


「はい」


「そういう奴ほど、次の条文を読んでねえ」


 私は、大きく頷きました。


 なるほど。


 民法。


 奥が深い。


 ……いや。


 性格が悪い?


 違いますね。


 抜け目がないんです。


 悪いことを考える人間よりも。


「ただし」


 片桐所長が口を開きました。


「こはる。まだ結論を急ぐな」


「はい?」


「春江さんが、何を望んでいるか確認したか」


「……あ」


 私は固まりました。


 そうでした。


 売主に責任がある。


 その可能性は高まった。


 でも。


 春江さんが何を求めるのか。


 そこは、別の問題です。


「家を返して、百八十万円を返してもらうのか」


「はい」


「家は残して、損害の賠償を求めるのか」


「はい」


「あるいは、売主が自発的に修理費を負担する解決を望むのか」


「……はい」


 所長が頷きました。


「法律上、何が請求できるかと、本人がどう暮らしたいかは、同じではない」


 私は、由美ちゃんの画用紙を思い出しました。


 赤い屋根。


 青い窓。


 庭の柿の木。


「春江さんは……あの家に住みたいと言っていました」


「そうだな」


「由美ちゃんも」


「うん」


 所長は静かに言いました。


「なら、その気持ちを確かめてから書面にする」


「はい」


「それから、旧民法では、隠れた瑕疵があるからといって当然に解除できるわけではない」


 私は六法を見ました。


「契約の目的を達成できない場合、ですね」


「そうだ」


「それ以外の場合は、損害賠償請求が問題になる」


「うん」


 私は頷きました。


 令和の頭で考えると。


 修理を請求して。


 駄目なら代金を減額して。


 場合によっては解除。


 そう整理したくなります。


 でも、昭和の旧民法では。


 隠れた瑕疵の担保責任として、同じ手順をそのまま使えるわけではありません。


「しかも」


 相馬先輩が言いました。


「期間も忘れるな」


「……一年!」


「そうだ」


 旧民法五百七十条が準用する、五百六十六条。


 買主が瑕疵の事実を知った時から一年以内。


 解除や損害賠償請求について、権利行使の期間制限がある。


「現代なら、不適合を知って一年以内に通知すればいいという規定がありますけど……」


「また未来か」


「あっ!」


 私は口を押さえました。


 そうでした。


 現代の民法五百六十六条。


 種類または品質についての不適合を知った時から一年以内の通知。


 でも昭和の旧法では、隠れた瑕疵について、知った時から一年以内に解除や損害賠償の権利を行使する必要がある。


 単なる通知で済むと決めつけてはいけない。


「危なかった……」


 私は呟きました。


「条文番号が同じでも、中身が違うんですね」


「当たり前だ」


「未来人には、つらいです……」


「何の話だ」


「いえ、こちらの話です!」


 危ない。


 また転生者の秘密が漏れるところでした。


 ですが。


 この事件では、瑕疵が分かったのは、つい先日の大雨です。


 期間の問題で、今すぐ権利行使ができなくなる状況ではありません。


 それでも。


 日付を正確に記録する。


 早く行動する。


 それが大切なのです。


 ◇


「……あの家に、住みたいんです」


 翌日。


 春江さんは、そう言いました。


 私たちは、集まった資料を一つずつ説明していました。


 大工の調査書。


 修理見積書。


 隣人の事実確認書。


 板金店の見積書。


 そして。


 売買契約書。


「返金してもらって、別の家を探すことも考えました」


 春江さんが言いました。


「でも……」


 その目が、少し潤みました。


「あの家を見たとき、由美が初めて笑ったんです」


「……」


「主人が亡くなってから、あの子、引っ越す話になると嫌がってばかりで」


 春江さんは、膝の上で手を握りました。


「でも、あの家は気に入ってくれたんです」


「……そうだったんですね」


「だから、できるなら直して、住みたい」


 私は頷きました。


「分かりました」


 片桐所長が口を開きました。


「春江さん」


「はい」


「法律上の請求と、相手が任意に応じる解決は区別して考える必要があります」


「……はい」


「今回は、隠れた瑕疵について売主の責任を問う余地があります。修理費相当額が、そのまま当然に全額認められるとは限りませんが、損害の内容を資料で示すことはできます」


 春江さんは真剣に聞いていました。


「まず、あなたご自身の名義で、売主に書面を出しましょう」


「書面……」


「はい。内容証明郵便です」


 所長は続けました。


「売主が応じなければ、弁護士へ引き継ぎます。解除や損害賠償を裁判で争うことになれば、法律上の要件と証拠をさらに精査する必要があります」


 春江さんは、しばらく黙りました。


 それから。


「……お願いします」


 深く、頭を下げました。


「私たちの家を、守りたいんです」


 私は、その言葉を聞きながら。


 机の上の六法を見ました。


 民法。


 古い条文。


 難しい漢字。


 でも。


 この紙の向こうにいるのは。


 家を守りたい、一人のお母さんなのです。


 ◇


「こはる。書け」


 相馬先輩が原稿用紙を置きました。


「はい!」


「ただし、今度は令和の民法を持ち込むなよ」


「分かってます!」


 私は鉛筆を握りました。


 宛先。


 丸山不動産株式会社。


 代表取締役 丸山徳三。


 差出人。


 岡野春江。


 件名。


 ――売買目的物の隠れた瑕疵に関する通知並びに損害賠償請求書。


「まず、契約の事実から」


 私は書き始めました。


 ――通知人は、昭和六十三年某月某日、貴社より本件中古住宅を代金百八十万円で購入し、同月、引渡しを受けた。


 ――本件売買に先立ち、通知人は居住に重大な支障を生じさせる雨漏りの有無を確認し、貴社担当者から雨漏りはない旨の説明を受けた。


 ――しかし、引渡し後の降雨により、天井からの漏水及び建物内部の腐食が判明した。


 私は一度、手を止めました。


「次は、瑕疵の状態ですね」


「そうだ」


 ――大工による調査の結果、屋根及び構造部材には長期間の漏水に起因するとみられる腐食が認められ、現状での居住継続には安全上の問題があると指摘されている。


 ――当該瑕疵は売買契約締結時から存在していたと考えられ、通常の内覧によって容易に発見できるものではなかった。


「よし」


 相馬先輩が頷きました。


「次だ」


 私は、板金店の見積書を手に取りました。


 そして書きました。


 ――さらに、貴社は、本件売買契約に先立つ昭和六十二年十月、屋根補修及び腐食部材調査について見積りを受け、雨漏りの存在及び修繕の必要性について説明を受けていたことが、関係資料及び関係者の陳述により確認されている。


 ……。


 私は、少し息を吸いました。


 ここです。


 隠された事実。


 知らなかったという嘘。


 そして。


 免責特約。


「先輩」


「何だ」


「五百七十二条ですね」


「ああ」


 私は、丁寧に書きました。


 ――本件売買契約書には、売主の瑕疵担保責任を免除する旨の条項が存在する。


 ――しかし、民法第五百七十二条は、売主が担保責任を負わない旨の特約をした場合であっても、知りながら買主に告げなかった事実については免責されない旨を定めている。


 ――したがって、貴社が本件瑕疵を認識しながら通知人に告げなかった場合には、右免責条項をもって当然に責任を免れることはできない。


 書き終わりました。


 ……。


 怖い。


 自分で書いていて、怖いです。


 相手を罵倒していません。


 嘘つきとも書いていません。


 でも。


 相手が一番触れられたくない部分に、正確に刃が入っています。


 そのとき。


 片桐所長が原稿を手に取りました。


「こはる」


「はい!」


「いいが、まだ足りない」


「ええっ!」


「何を請求するのか、明確にしろ」


「あ……」


 そうでした。


 事実だけでは、請求書になりません。


 所長は静かに言いました。


「本人の意思を、本人の名義で、法律上の根拠とともに書く」


「はい」


「そして、損害の範囲を決めつけるな」


 私は頷きました。


 修理費見積り九十万円。


 けれど。


 修理費が九十万円だから、損害賠償額も絶対に九十万円。


 そう簡単にはいきません。


 必要な修理の範囲。


 瑕疵との因果関係。


 建物の価値。


 損害の評価。


 それらを検討する必要があります。


「今回は、春江さんの希望に沿って、九十万円を請求額として掲げる。ただし、見積書を根拠にして、争いがあれば精査する」


「はい!」


 私は続きを書きました。


 ――以上の事情により、通知人は、民法第五百七十条及び第五百六十六条に基づき、本件隠れた瑕疵に係る損害賠償として、現時点における修繕見積額九十万円の支払を請求する。


 ――貴社において、必要な修繕を自らの費用負担により実施する等、通知人の被った損害を填補する具体的な提案がある場合には、通知人本人に対し、書面により提示されたい。


 ――本書面到達後十四日以内に回答がなく、又は誠実な対応が得られない場合には、弁護士に相談のうえ、訴訟その他の適切な法的措置を検討する。


 私は鉛筆を置きました。


「……できました」


 相馬先輩が原稿を読みました。


 片桐所長も、黙って目を通しました。


 しばらくして。


「もう一つ」


 所長が言いました。


「はい?」


「判例を確認しておけ」


「判例……」


 相馬先輩が書棚へ向かいました。


「昭和三十六年十二月十五日の最高裁判決だ」


「何ですか?」


「不特定物売買でも、買主が瑕疵のある物を受領した後に瑕疵が発見された場合について、瑕疵担保責任を認めた判例だ」


「……!」


「ただし、今回の特定された中古住宅と、事案は同じじゃねえ。判例の射程を間違えるな」


 私は頷きました。


 なるほど。


 旧民法の瑕疵担保責任は、条文だけでは全体像が分かりにくい。


 判例や学説の積み重ねで、どのような売買に適用されるかが論じられてきた。


 だからこそ。


 現代のような契約不適合責任への整理には、大きな意味があるのです。


 私は、ふと思いました。


 未来の民法は。


 突然、空から降ってきたわけじゃない。


 こうした長い年月の争いと解釈を経て、整えられていったものなんですね。


「こはる」


 相馬先輩が言いました。


「はい」


「判例は名前を並べれば強くなるもんじゃねえぞ」


「……はい」


「事実が違えば、使い方も違う。今回の中心は、住宅の隠れた瑕疵と、売主が知っていたかどうかだ」


「はい!」


 所長は原案を机に置きました。


「よし。春江さんに内容と請求の意思を最終確認してもらえ」


「はい!」


「それから、内容証明に何でも書けるわけではない。事実と違うことは、一文字も書くな」


「はい」


「書面が強いのは、大げさだからじゃない」


 所長は静かに言いました。


「本当のことしか書いていないからだ」


 私は、しばらく黙りました。


 そして。


 原稿を見直しました。


 契約。


 雨漏り。


 腐食。


 事前の修理見積り。


 免責特約。


 民法五百七十二条。


 損害賠償請求。


 どれも。


 相手が説明しなければならない事実ばかりです。


 これは、怒鳴り声ではありません。


 証拠と条文を並べた、静かな問いなのです。


 ◇


 内容証明郵便を発送して、四日目。


 丸山不動産から、春江さんのもとへ電話が入りました。


 翌朝。


 春江さんが、その内容を事務所に報告に来ました。


「……社長さんが、謝りたいって」


「えっ」


 私は顔を上げました。


「丸山社長が?」


「はい」


「何て?」


「屋根の件について、説明不足があったかもしれない、と」


 ……。


 私は、相馬先輩を見ました。


 先輩は新聞を読んでいます。


「先輩」


「何だ」


「説明不足って……」


「便利な言葉だな」


「ですよね!」


 あれだけ。


 知らなかった。


 現状渡しだ。


 契約書に書いてある。


 そう言っていた人が。


 説明不足。


 ……ずいぶん変わりましたね。


 でも。


 まだ終わりではありませんでした。


 春江さんは一枚の紙を差し出しました。


「社長さんから、これも届きました」


 差出人。


 丸山不動産株式会社。


 代表取締役 丸山徳三。


 その文面を読んだ瞬間。


 私は、思わず笑いそうになりました。


 ――本件建物の屋根及び腐食部材の補修については、当社の負担において実施する方向で協議したい。


 ――工事業者の選定、修繕範囲及び実施時期について、買主の希望を確認したい。


 ――なお、本件について訴訟に至ることは双方にとって望ましくないため、早期解決を希望する。


 ……。


 すごい。


 あの丸山社長が。


 訴訟を避けたいと。


 自分から書いてきたのです。


「所長!」


「何だ」


「相手、折れました!」


 片桐所長は、書面を読みました。


 そして。


「まだだ」


「えっ」


「これは、修理する方向で話し合いたいという提案にすぎない」


「……あ」


「実際に工事が終わり、安全に住める状態にならなければ、解決とは言えん」


 私は頷きました。


 そうでした。


 書面が届いた。


 相手が謝った。


 それで全部終わるわけではありません。


 実際の履行。


 約束したことが、現実に行われること。


 そこまで確認して、初めて安心できるのです。


「それに」


 相馬先輩が言いました。


「相手が修理するって言っても、勝手に決めるなよ」


「はい?」


「家は春江さんのものだ。誰に修理させるか、どの範囲を直すか、安全をどう確認するか。本人の意思が一番大事だ」


 私は頷きました。


 なるほど。


 ここでも。


 契約不適合責任の根底にある考え方が見えてきます。


 買主が、何を約束されたのか。


 どんな物を受け取ったのか。


 その違いを、どう埋めるのか。


 ただお金を返せばいい、という話ではありません。


 まして。


 売主が一方的に、


「古い家だから我慢しろ」


 と決めてよいわけでもないのです。


 ◇


 数日後。


 春江さんは、知人を通じて紹介された弁護士に相談しました。


 工事範囲。


 修理の実施方法。


 工事中の仮住まい。


 再発した場合の対応。


 そうした紛争解決のための条件調整は、弁護士が担当することになりました。


 私たち片桐事務所は、これまで収集した資料を整理し、引継ぎ用の事実経過書を作成しました。


「相馬先輩」


「何だ」


「行政書士って、最後まで交渉できないんですね」


「そりゃそうだ」


「せっかくここまで調べたのに」


 先輩は、書類を紐で綴じながら言いました。


「だからどうした」


「え?」


「俺たちが主役になる必要はねえだろ」


「……」


「家が直って、親子が住めればいい」


 私は、はっとしました。


 そうです。


 私たちは、裁判で勝つことが目的ではありません。


 まして。


 行政書士がどれだけ偉いかを見せつけることでもない。


 相談者の暮らしを守る。


 そのために。


 必要な事実を調べる。


 書面にする。


 権利を明確にする。


 そして、必要な専門家へつなぐ。


「こはる」


 相馬先輩が笑いました。


「世の中、声がでかい奴じゃなくて、書面にハンコを押させた奴が勝つんだよ」


「……またそれですか」


「ああ」


「でも、今回は内容証明だけじゃ終わりませんでしたね」


「当然だ」


 先輩は頷きました。


「だから、次の人間に渡すんだ。裁判が必要なら、弁護士が戦えるようにな」


「はい」


「俺たちの仕事は、そこまで含めて仕事だ」


 私は、書類の束を見ました。


 売買契約書。


 写真。


 見積書。


 事実確認書。


 内容証明郵便。


 全部で、数十枚。


 最初は。


 たった一枚の契約書に書かれた、


 ――現状渡し。


 という言葉に、春江さんは泣いていました。


 でも今は。


 その一枚の裏に隠されていた事実が、全部、紙になっています。


 書類って。


 すごいですね。


 誰かの嘘を、少しずつ追い詰めることができる。


 そして。


 誰かの暮らしを、守ることもできるのです。


 ◇


 一か月半後。


 片桐行政書士事務所に、一通の手紙が届きました。


 差出人は、岡野春江さん。


 中には、写真が入っていました。


 新しく修理された天井。


 乾いた畳。


 そして。


 笑顔の由美ちゃん。


 手紙には、こう書かれていました。


 ――おかげさまで、屋根と傷んだ木材の修理が終わりました。


 ――第三者の大工さんにも確認していただき、雨漏りの原因箇所は補修できたそうです。


 ――修理費用は、丸山不動産が負担しました。


 ――工事中の仮住まいの費用についても、弁護士さんを通じて解決しました。


 私は、息をつきました。


「……よかった」


 所長が頷きました。


「そうだな」


 でも。


 手紙は、まだ続いていました。


 ――実は、先日の雨の日、由美が言ったんです。


 ――『お母さん、今日はバケツを置かなくていいの?』って。


 ――私は『もう大丈夫だよ』と答えました。


 ――そうしたら、由美が笑って、『じゃあ、お父さんの写真も濡れないね』と言いました。


 ……。


 私は、手紙を持つ手を止めました。


 お父さんの写真。


 あの、小さな床の間。


 そこに。


 ようやく安心して置けるようになったのです。


「相馬先輩」


「何だ」


「……民法って、すごいですね」


「また始まったな」


「だって」


 私は、写真を見せました。


「この子、笑ってるんです」


 相馬先輩は写真を見ました。


 しばらくして。


「……ああ」


 短く答えました。


 それから。


「よかったじゃねえか」


 そう言いました。


 私は頷きました。


 はい。


 本当に。


 よかったです。


 ◇


 夕方。


 事務所の窓から、赤い西日が差し込んでいました。


 私は、六法を開いていました。


 民法第五百七十条。


 瑕疵担保責任。


 そして。


 第五百七十二条。


 担保責任を負わない旨の特約をしたときでも、知りながら告げなかった事実については責任を免れない。


 私は、何度もその部分を読みました。


「……先輩」


「何だ」


「今回、ちょっと怖かったです」


「何がだ」


「契約書です」


 私は言いました。


「『現状渡し』って書いてあるだけで、春江さんはもう駄目だって思ってたんですよね」


「ああ」


「でも、その契約書が全てじゃなかった」


「そうだ」


「民法が、契約書の外側にある事情まで見てくれたんです」


 相馬先輩が頷きました。


「契約は大事だ」


「はい」


「当事者が決めたことは、基本的には守らなきゃならねえ」


「はい」


「だがな」


 先輩は煙草を消しました。


「何でも自由に決めればいいってもんじゃねえ」


「……」


「知ってる欠陥を隠して、責任は負いません、じゃ通らねえんだよ」


 私は頷きました。


 契約自由。


 当事者の合意。


 それは、民法の大切な原則です。


 でも。


 片方だけが重大な欠陥を知っていて。


 もう片方は何も知らずに契約した。


 そんなとき。


 契約書の文字だけで、全部を片づけてよいのでしょうか。


 民法は、そこで立ち止まるのです。


 そして。


 もう一つ。


 私は、大事なことに気づきました。


「先輩」


「何だ」


「令和の民法だと、契約不適合責任になるんですよね」


「……また妙な話を始めたな」


「いえ、その……」


 私は慌てました。


 未来のこと。


 また口が滑りました。


 でも。


 どうしても、考えてしまうのです。


 現代では。


 何が契約の内容に適合していないのか。


 修理してもらえるのか。


 代金を減らしてもらえるのか。


 損害賠償はできるのか。


 解除はできるのか。


 それぞれの救済が、条文上整理されています。


 今回のような中古住宅なら。


 契約で約束された品質は何か。


 実際に引き渡された住宅はどうだったか。


 そこから考える。


 でも昭和六十三年では。


 隠れた瑕疵。


 解除のための目的達成不能。


 損害賠償。


 免責特約。


 そして、一年という期間。


 古い条文と判例を、慎重に組み合わせて考えなければならない。


「……だから、民法は改正されたんですね」


 私は小さく呟きました。


「何?」


 相馬先輩が聞き返しました。


「いえ!」


 私は笑いました。


「昔の法律を知ると、今の法律が分かりやすくなるなって」


「当たり前だ。昔の法律を知らずに今の法律が生まれたわけじゃねえ」


 私は、目を丸くしました。


 ……。


 先輩。


 時々、すごくいいこと言いますね。


「何だ、その顔は」


「いえ! ちょっと感動してました!」


「気持ち悪いな」


「ひどい!」


 片桐所長が、帳簿を閉じました。


「こはる」


「はい!」


「今日、何を覚えた」


 私は少し考えました。


 瑕疵担保責任。


 現状渡し。


 免責特約。


 隠れた瑕疵。


 売主の悪意。


 損害賠償。


 契約解除。


 たくさんあります。


 でも。


 一番大事なのは。


「契約書に『責任を負わない』って書いてあっても、知っていた欠陥まで隠していいわけじゃない、です」


 所長が頷きました。


「そうだ」


「それから」


「うん」


「買主が何を買ったつもりだったのか、そこも大切なんですね」


「そのとおりだ」


 私は、由美ちゃんの写真を見ました。


 家を買った。


 でも、欲しかったのは木材でも屋根瓦でもありません。


 雨の日に。


 バケツを置かずに眠れること。


 お父さんの写真を、安心して飾れること。


 そういう暮らしだったのです。


 そして。


 売買契約の法律は。


 その当たり前の期待を、簡単に踏みにじらせないためにある。


 私はノートを開きました。


 今日の教訓。


 一行だけ。


 ゆっくり書きました。


 ――現状渡しの一言でも、隠した欠陥までは売り逃げできない。


「……できました!」


 私はノートを掲げました。


「先輩、どうですか!」


 相馬先輩が覗き込みました。


「まあ、いいんじゃねえか」


「褒めましたね!」


「調子に乗るな」


 私は笑いました。


 そのとき。


 電話が鳴りました。


「はい、片桐行政書士事務所です!」


『あのう……』


 男性の声。


『先月、中古の機械を買ったんですが……』


「はい」


『十台買ったはずなのに、八台しか届かなくて』


 ……。


 私は止まりました。


「八台?」


『はい。売主は、現物はこれだけだって言うんです』


 私は相馬先輩を見ました。


 先輩も、こちらを見ました。


「……先輩」


「何だ」


「今度は数量です」


「そうだな」


「しかも、二台足りません」


「聞こえてるよ」


 私は六法を見ました。


 令和なら。


 契約の内容に適合しない数量。


 不足分の引渡し。


 追完請求。


 でも。


 ここは昭和六十三年。


 数量不足には、旧民法独特の担保責任の規定があります。


「……また違う条文なんですね」


 私は小さく呟きました。


 相馬先輩が、こちらを見ました。


「こはる」


「はい!」


「今度は、何条だ?」


 私は慌てて六法をめくりました。


「ええと……」


「ほら、早くしろ」


「あっ!」


 見つけました。


 民法第五百六十五条。


 数量を指示して売買した物に不足がある場合などの規定。


「先輩!」


「何だ」


「昭和の民法、やっぱり難しすぎませんか!?」


「文句を言う暇があったら、相談票を取れ!」


「はいっ!」


 私は受話器を握り直しました。


 今度は。


 足りない二台の機械。


 契約書に何と書いてあるのか。


 売主は何を約束したのか。


 買主はいつ不足に気づいたのか。


 確認しなければならないことが、たくさんあります。


 昭和六十三年。


 民法の世界は、今日も一筋縄ではいきません。


 けれど。


 ひとつだけ、分かったことがあります。


 契約書の文字は、大切です。


 でも。


 そこに書いていない嘘や、隠された欠陥まで、許されるわけではありません。


 そして。


 百八十万円の小さな家にも。


 七歳の女の子にも。


 民法は、ちゃんと味方になれることがあるのです。


 私はノートの最後の一行を、もう一度見ました。


 ――現状渡しの一言でも、隠した欠陥までは売り逃げできない。


 よし。


 これなら、忘れません。


「相馬先輩!」


「今度は何だ!」


「民法って、やっぱり面白いですね!」


「面白がってる暇があったら、電話の相手を待たせるな!」


「はいっ!」


 ……なるほど。


 契約不適合責任。


 現代では、ずいぶん整理された制度です。


 でも。


 その原点にあるものは、昔も今も変わらないのかもしれません。


 約束したものを、きちんと渡す。


 隠し事をして、相手の財産を奪わない。


 間違ったものを渡してしまったら、その責任を考える。


 そんな当たり前のことを。


 当たり前に守らせるために。


 民法は、百年以上も、人間の欲と嘘に向き合ってきたのです。

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