↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
こはる行政書士見習帖 〜 昭和に転生して許認可に振り回されると試験知識が骨身にしみます 〜  作者: 条文小説
〈民法 配点76点/300点〉 債権

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
518/561

[民法・売買と手付解除]法理編 こはるノート

挿絵(By みてみん)

 手付金を倍にして返せば、契約はいつでも解除できる。


 そう思っている人は、案外多いのかもしれません。


 でも。


 契約というものは、いったん約束したら、相手の人生まで動かしてしまうことがあります。


 家を買うと決めた人は、貯金を下ろす。


 銀行でお金を用意する。


 引っ越しの準備をする。


 新しい家具を選ぶ。


 そして。


 家族と、そこで暮らす未来を思い描く。


 そんな相手に向かって。


「やっぱり売るのをやめます。手付金は倍にして返しますから」


 それだけで、いつでも契約をなかったことにできるのでしょうか。


 答えは。


 できる場合と、できない場合があります。


 その境界線を引いているのが、民法五百五十七条。


 そして。


 今回の事件で、もう一つ分かったことがありました。


 自分の物ではない財産でも、売買契約の目的にすることができる。


 ただし。


 売った以上は、責任を負う。


 昭和六十三年。


 夕方の片桐行政書士事務所。


 私は机の上に、六法全書とノートを並べていました。


 表紙には、大きな文字。


 ――こはるノート・民法編。


 今日のテーマは。


 売買。


 手付。


 そして、他人物売買。


「……先輩」


「何だ」


「民法って、意外と容赦ないですね」


 新聞を読んでいた相馬先輩が、顔を上げました。


「いきなり何だ」


「だって、手付金を倍にして返せば解除できると思っていた地主さんが、見事に追い詰められましたから」


「そりゃ、自分で墓穴を掘っただけだ」


「でも、最初は私も同じことを考えました」


「だろうな」


「そこは否定してくださいよ!」


「事実だろ」


 ……ぐうの音も出ません。


 私は鉛筆を握り直しました。


 先日の事件。


 森田春江さん。


 四十三歳。


 夫を亡くし、娘さんと二人で暮らしている洋裁師さんです。


 春江さんは、長年の貯金を使って、古い平屋を二百万円で購入しました。


 売主は、大沢源蔵。


 手付金は二十万円。


 その後、残代金百八十万円も支払い、売買代金を全額支払いました。


 ところが。


 駅裏の開発計画によって、土地の値段が上がった。


 別の会社が、四百五十万円で買いたいと言い出した。


 そこで大沢は、契約を破ろうとしたのです。


「手付金を倍にして返せば解除できる!」


 と。


 でも。


 春江さんは、すでに二百万円を払っていました。


 そして、大沢自身が領収書に署名押印していた。


 その事実が、決定打になりました。


「結果的に、大沢さんは契約どおり家を引き渡しましたね」


「ああ」


「登記も済んで、春江さんは家を手に入れた」


「そうだ」


 相馬先輩は新聞を畳みました。


「じゃあ、今日はその事件で売買を整理するか」


「はい!」


 私はノートの一ページ目に、大きく書きました。


 ――売買は、約束で始まり、履行によって現実になる。


 さあ。


 昭和の民法と、令和の民法。


 今日も二つの時代を行ったり来たりしながら、整理していきます。


 ◇


「まず、売買とは何か」


 相馬先輩が言いました。


「はい!」


 私はノートに書きました。


 民法第五百五十五条。


 売買。


 売買は、当事者の一方がある財産権を相手方に移転することを約し、相手方がこれに対して代金を支払うことを約することによって、その効力を生ずる。


「つまり」


 私は顔を上げました。


「売主が財産権を移転する約束をして、買主が代金を支払う約束をすると、売買契約が成立するんですね」


「そうだ」


「品物を渡す前でも?」


「成立する」


「代金を払う前でも?」


「成立する」


「契約書がなくても?」


「原則として成立する」


 私は大きく頷きました。


 これです。


 売買契約は、原則として諾成契約。


 当事者の意思の合致によって成立する契約です。


「じゃあ、先輩」


「何だ」


「私が先輩の自転車を一万円で買いたいと言ったら?」


「売らねえ」


「そこは売ってください!」


「何でだよ」


「勉強です!」


 相馬先輩はため息をつきました。


「分かった。売るとする」


「ありがとうございます!」


「まだ何も売ってねえぞ」


 私は続けました。


「私が『一万円で買います』と言う」


「うん」


「先輩が『一万円で売ります』と言う」


「そうだ」


「これで売買契約成立!」


「基本はそうだ」


「まだ自転車も受け取っていないし、お金も払っていないのに!」


「そういうことだ」


 私はノートに丸をつけました。


 売買契約の成立。


 引渡しとは別。


 代金支払とも別。


 契約書の作成とも、原則として別。


「つまり、売買は『現物交換』ではなく、『権利と代金の約束』なんですね」


「そういうことだ」


 そこへ、片桐所長が奥から声をかけました。


「ただし、約束の内容が明確でなければならん」


「はい」


「何を、いくらで売るのか。誰と誰が合意したのか」


「そうですね」


「契約書がなくても成立することと、証拠がなくても困らないことは違う」


 私は鉛筆を止めました。


 なるほど。


 これは、先日の事件でも重要でした。


 春江さんには、売買契約書がありました。


 土地建物の表示。


 売買代金。


 手付金。


 残代金。


 引渡日。


 署名押印。


 全部が書いてあった。


「だから、大沢さんは売買契約そのものを否定できなかったんですね」


「そうだ」


 所長が頷きました。


「契約書は、契約の存在や内容を証明する重要な資料だ」


 私はノートに書きました。


 ――契約は約束で成立する。契約書は、その約束を証明する。


「よし!」


「まだ一つ目だぞ」


 相馬先輩が言いました。


「分かってます!」


 ……先は長そうです。


 ◇


「次は手付だ」


 相馬先輩が言いました。


 私はノートをめくりました。


 ――手付。


「これ、今回の主役ですね」


「ああ」


「春江さんが最初に払った二十万円」


「そうだ」


 手付とは、売買契約の際などに、買主が売主に交付する金銭その他のものです。


 そして。


 手付には、代表的に三つの性質があります。


 証約手付。


 解約手付。


 違約手付。


「名前が似ていますね」


「またそれか」


「法律って、似た名前が好きすぎません?」


「文句を言うな」


 私は一つずつ整理することにしました。


「まず、証約手付です」


 証約手付。


 契約が成立した証拠として交付される手付。


「たとえば」


 私は言いました。


「先輩の自転車を一万円で買う約束をして、千円を渡す」


「うん」


「この千円が、契約成立の証拠という意味を持つ場合です」


「そうだな」


「これが証約手付!」


 私はノートに書きました。


 証約手付。


 契約成立の証拠。


「次は解約手付」


 ここが今回の中心です。


 解約手付。


 一定の条件のもとで、契約を解除することを認めるための手付。


「買主がやめたい場合は?」


 相馬先輩が聞きました。


「手付を放棄します!」


「売主がやめたい場合は?」


「手付の倍額を現実に提供します!」


「そうだ」


 私は丸をつけました。


 買主。


 手付放棄。


 売主。


 手付倍額の償還。


「ただし」


 私は自分で言いました。


「相手方が履行に着手する前までです!」


「そこだ」


 相馬先輩が頷きました。


「その条件を落とす奴が多いんだ」


 私は苦笑しました。


 まさに私です。


 事件の最初。


 手付を倍にして返せば解除できる。


 そこで思考を止めてしまいました。


 でも。


 法律は、その後ろに重要な制限を置いています。


「そして、三つ目」


 私は書きました。


 ――違約手付。


「約束を破った場合に、手付を没収したり、違約に対する制裁として扱ったりするものですね」


「そうだ」


「ただし、解約手付と違約手付は同じものではない」


「ああ」


 ここは重要です。


 解約手付による解除は、約束した範囲内で契約から離脱する仕組みです。


 一方。


 違約手付は、債務不履行があった場合の制裁や損害賠償の予定などに関わります。


「つまり、先輩」


「何だ」


「手付金って名前がついているだけで、何でも同じ効果になるわけじゃないんですね」


「そういうことだ」


 所長が口を開きました。


「契約書を読め」


「はい」


「手付をどういう趣旨で交付したのか。違約時の条項はどうなっているのか」


「そこが大事なんですね」


「そうだ」


 私は頷きました。


 先日の大沢の契約書。


 手付金二十万円。


 解約手付として扱う旨が書かれていました。


 だから問題になったのは、民法五百五十七条。


 でも。


 仮に違約金の定めや特別な解除条件があれば、さらに別の検討が必要だったわけです。


「手付って、ただの前払い金だと思ってました」


 私が言うと、相馬先輩が笑いました。


「前払いの性質を持つ場合もあるが、それだけじゃねえ」


「はい」


「名前より、法律上どんな役割を持たせたかを見ろ」


 なるほど。


 試験でも実務でも。


 そこを間違えると、結論が変わってしまうのです。


 ◇


「さて」


 相馬先輩が机を指で叩きました。


「今日の本題だ」


「はい!」


「民法五百五十七条」


 私は六法を開きました。


 昭和六十三年の旧民法。


 解約手付の規定です。


「今回、大沢は何をしたかった?」


「手付金二十万円の倍額、四十万円を返して契約を解除したかったんです」


「そうだ」


「理由は、四百五十万円で買う別の買主が現れたから」


「うん」


「でも、春江さんはすでに代金全額を支払っていました」


「そうだ」


 私はノートに、今回の出来事を時系列で書きました。


 九月二十日。


 売買契約締結。


 手付金二十万円交付。


 十月五日。


 残代金百八十万円支払。


 十月十日。


 売主が手付解除を通知。


「ここですよね!」


 私は十月五日に丸をつけました。


「買主が全額支払った日!」


「そうだ」


「この時点で履行に着手している!」


 相馬先輩が頷きました。


「じゃあ聞くぞ」


「はい」


「履行の着手って何だ」


 ……。


 私は止まりました。


「えっと……」


「代金を全部払ったことか?」


「それも含まれます」


「じゃあ、全部払わなければ履行の着手にならねえのか?」


「……違います!」


 危ない。


 私は慌てて六法に挟んでいた判例メモを取り出しました。


 履行の着手。


 契約上の債務の履行行為そのもの。


 または、履行の提供に欠くことのできない前提行為などをした場合に問題になります。


「つまり」


 私は言いました。


「全部終わっていなくてもいいんですね」


「そうだ」


「例えば、代金の一部を契約に従って支払った場合でも、履行の着手に当たることがあります」


「うん」


「逆に、単にお金を用意しただけとか、準備を考えただけでは、必ずしも履行の着手とは限らない」


「そうだ」


 私は大きく頷きました。


 ここ、大切です。


 履行の着手。


 それは、単なる気持ちや予定ではありません。


 契約を実行するための、客観的な行為が必要です。


「じゃあ先輩」


「何だ」


「自転車の売買で考えます」


「また俺の自転車か」


「便利なので!」


「勝手に教材にするな」


 私は構わず続けました。


「一万円で買う契約をしました」


「うん」


「私が財布に一万円を用意した」


「それだけで当然に履行の着手とは言えねえな」


「はい」


「でも?」


「約束した支払方法に従って、代金を実際に先輩へ支払った!」


「それなら明確だ」


「ですよね!」


 私はノートに書きました。


 ――履行の着手は、単なる準備と区別する。


 そして。


 今回の春江さんの場合。


 残代金百八十万円を支払っている。


 大沢は受領している。


 領収書まで発行している。


 これは、単なる準備ではありません。


 実際の履行です。


「だから」


 私は言いました。


「大沢さんは、四十万円を返すだけで解除することはできなかった」


「そういうことだ」


 相馬先輩が頷きました。


「自分で代金を受け取っといて、あとからなかったことにしようなんて、都合がよすぎるからな」


 私は笑いました。


 しかし。


 本当に怖いのは、ここからでした。


 ◇


「こはる」


 片桐所長が言いました。


「はい」


「昭和六十三年の五百五十七条と、現代の五百五十七条を比べてみろ」


 私は固まりました。


「……来ましたね」


「何がだ」


「時代錯誤ポイントです!」


 相馬先輩が眉をひそめました。


「また訳の分からんこと言ってるな」


 でも。


 これは本当に重要なのです。


 昭和六十三年の民法五百五十七条には、こうあります。


 ――当事者の一方が契約の履行に着手するまでは。


 一方。


 現代の民法五百五十七条では、解除する者の相手方が履行に着手した後は解除できない、という形で規定されています。


「……あれ?」


 私は首をかしげました。


「先輩」


「何だ」


「昭和の条文だけ読むと、どちらか一方が履行を始めたら、両方とも手付解除できなくなるように見えません?」


「そう読めるな」


「でも現代は、解除する人の相手方が履行に着手したかどうかですよね」


「ああ」


「どうして変わったんでしょう」


 片桐所長が言いました。


「判例を見ろ」


 私は判例集を開きました。


 最高裁判所大法廷。


 昭和四十年十一月二十四日判決。


 手付解除と履行着手に関する重要な判例です。


 その趣旨を確認すると。


 自分が履行に着手した者は、そのことだけで自分の手付解除権を失うわけではない。


 手付解除を制限するのは、基本的には相手方の履行着手です。


「……あ!」


 私は声を上げました。


「これ、昭和の時点で判例が整理していたんですね!」


「そうだ」


「じゃあ現代の民法は、その考え方を条文に明確に書いたんですか!」


 片桐所長が頷きました。


「そういうことだ」


 私は急いでノートに書きました。


 昭和六十三年。


 条文の文言は「当事者の一方」。


 ただし、判例により、相手方の履行着手が重要とされる。


 現代。


 条文上も「その相手方」の履行着手を基準とする。


「なるほど……!」


 私は鉛筆を止めました。


「これ、すごく分かりやすい改正ですね」


「そうか?」


 相馬先輩が聞きました。


「はい!」


 昔の条文は、文言だけ読むと誤解しやすかった。


 でも、裁判例によって実際の解釈が積み重なっていた。


 そして現代の民法では、その考え方が条文にも反映されている。


「つまり、法律が突然まったく別のものになったわけじゃないんですね」


「そうだ」


 所長が言いました。


「積み重ねられた解釈を、条文に反映する改正もある」


 私は頷きました。


 これです。


 昔の民法を学ぶ意味。


 現代の条文だけを暗記していたときには、見えていなかったもの。


 どうして、今の条文がこう書かれているのか。


 その理由が、少しずつ分かってくるのです。


 ◇


「ただし、こはる」


 相馬先輩が言いました。


「はい?」


「現代の条文を覚えたからって、昭和の条文を勝手に読み替えるなよ」


「……はい」


「今の時代には、今の判例と条文がある」


「そうですね」


「実務で使うなら、そこまで調べろ」


 私は頷きました。


 条文だけでは分からないことがある。


 判例が、その意味を具体的にしている。


 そして、法律が改正されると、判例の考え方が条文に取り込まれることもある。


 これが民法の面白いところです。


「でも先輩」


「何だ」


「私、もう一つ気になることがあります」


「言ってみろ」


「大沢さんは『四十万円を返す用意がある』って書いてましたよね」


「ああ」


「それだけでも手付解除できるんですか?」


 相馬先輩が、にやりと笑いました。


「いいところに気づいたな」


「褒めましたね!」


「まだだ」


「何でですか!」


 先輩は机に鉛筆を置きました。


「売主が手付解除するには、倍額の償還が必要になる」


「はい」


「じゃあ、口で『返すつもりだ』と言っただけで足りると思うか?」


「……足りません!」


 私は勢いよく答えました。


 そうです。


 民法五百五十七条。


 売主が手付解除するには、単に倍額を返す意思を示すだけでは足りません。


 現代の民法では、手付の倍額を現実に提供することが明記されています。


 昭和の旧法でも、倍額の償還による解除には現実の提供が必要と解されていました。


「つまり」


 私は言いました。


「大沢さんの『四十万円を返す用意がある』という手紙は、それだけで適法な手付解除になるとは限らないんですね」


「そうだ」


「しかも、そもそも春江さんは履行に着手していた」


「そこが決定的だ」


 私はノートに書きました。


 ――売主の手付解除は、倍額を返すと言うだけでは足りない。現実の提供と、解除できる段階かどうかが重要。


「……先輩」


「何だ」


「大沢さん、二重に間違えていたんですね」


「ああ」


「手付の倍返しを申し出れば、いつでも解除できると思っていた」


「そうだ」


「しかも、実際にはお金を提供したわけでもなかった」


「そういうことだ」


 私は苦笑しました。


 自信満々で契約解除を主張していた大沢源蔵。


 けれど、その理屈を一つずつ確認していくと。


 履行着手。


 解除権の制限。


 手付倍額の現実の提供。


 いくつもの壁が立ちはだかっていた。


「法律って、本当に細かいですね」


 私が言うと、片桐所長が静かに答えました。


「その細かさで、守られる約束がある」


 私は、しばらく黙りました。


 確かに。


 もし大沢の一方的な解除通知がそのまま通っていたら。


 春江さんは、長年の夢だった家を失っていたのです。


 ◇


「さて」


 相馬先輩が言いました。


「手付について、もう一問だ」


「はい!」


「買主が手付を放棄して解除する場合、何でも自由にできるか?」


「相手方が履行に着手した後は、原則としてできません!」


「よし」


「それと、契約で別の取り決めをしている場合は、その内容も確認しなければなりません」


「そうだな」


 私は鉛筆を動かしました。


 民法五百五十七条。


 解約手付。


 ただし、当事者間の合意によって解除に関する取り扱いを定める場合もあります。


 実際の契約では、手付解除の期限を日付で定めていることもあります。


「つまり」


 私は言いました。


「条文だけ見て『まだ履行に着手していないから絶対に解除できる』と即断してもいけないんですね」


「そうだ」


「契約書を読まないと」


「そのとおり」


 そして、もう一つ。


「先輩、手付を放棄して解除する場合と、債務不履行で解除する場合も違いますよね」


「ああ」


 私はノートに二つの言葉を書きました。


 ――手付解除。


 ――債務不履行解除。


「手付解除は、一定の条件のもとで、約束された解除権を行使するものです」


「うん」


「一方、債務不履行解除は、相手が契約上の義務を果たさないことなどを理由にする解除です」


「そうだ」


 今回の大沢は、春江さんが何か約束を破ったから解除しようとしたわけではありません。


 春江さんは、むしろ代金を全部払っています。


 大沢が解除したかったのは、もっと高く売れる相手が見つかったから。


 ただ、それだけ。


「それなのに、相手の履行が進んだあとで、手付解除を使おうとした」


「そうだ」


「だから失敗したんですね」


 相馬先輩が頷きました。


「覚えとけ。手付解除は、契約から逃げる万能札じゃねえ」


 私は、その言葉に赤線を引きました。


 ◇


「次は、売買の予約だ」


 片桐所長が言いました。


「はい!」


 私はノートをめくりました。


 民法第五百五十六条。


 売買の一方の予約。


「これ、さっき電話で相談があった件にも関係しますね」


「ああ」


「予約って、普通の売買契約と何が違うんですか?」


 相馬先輩が腕を組みました。


「じゃあ、また俺の自転車で考えろ」


「いいんですか!」


「もう諦めた」


「ありがとうございます!」


 私は笑いながら説明を始めました。


「例えば、先輩が私に『この自転車を一万円で買いたくなったら、来月末までなら売る』と約束したとします」


「うん」


「そして、私に売買を成立させるかどうか決める権利を与えた」


「そうだ」


「私はまだ買うと決めていない」


「うん」


「でも後日、私が『買います!』と意思表示をしたら?」


「売買の効力が生じる」


「そうです!」


 これが、売買の一方の予約。


 一方が売買を完結する権利、いわゆる予約完結権を持つ仕組みです。


「大事なのは」


 私は言いました。


「もう一度双方で合意し直さなくても、予約完結権を持つ人の意思表示によって売買の効力が生じることですね」


「そうだ」


「だから売主が『やっぱり売りたくない』と言っても、予約完結権が有効に存在していれば、勝手に無視できない」


「そのとおり」


 私は頷きました。


 先ほどの電話相談。


 売主が、


「まだ予約だから、いつでもやめられる」


 と言っていたらしいのです。


 でも。


 それが本当に一方の予約なら、話は違います。


「ただし、契約書の内容を確認しないといけませんね」


 私が言うと、所長が頷きました。


「そうだ」


「単なる売買の交渉や、将来改めて契約を結ぼうという約束と、一方の予約は区別が必要です」


「うん」


 そして、民法五百五十六条には、もう一つ仕組みがあります。


 予約完結の意思表示をする期間を定めなかった場合。


 予約をした側は、相当の期間を定めて、売買を完結するかどうか確答するよう催告できます。


 その期間内に確答がなければ、予約は効力を失います。


「なるほど……」


 私は鉛筆を止めました。


「いつまでも宙ぶらりんにしておくわけにもいかないんですね」


「そうだ」


「でも、催告という手順が必要になる」


「そういうことだ」


 私は書きました。


 ――売買の予約は、単なる口約束とは限らない。予約完結権があれば、一方の意思表示で売買の効力が生じる。


「よし!」


「お前、まだ自転車を買う気か?」


 相馬先輩が聞きました。


「もちろんです!」


「売らねえぞ」


「一方の予約をしてください!」


「しねえよ!」


「……残念」


 法律を勉強していると、何でも契約にしたくなります。


 これは少し危険な兆候かもしれません。


 ◇


「では、他人物売買だ」


 片桐所長が言いました。


 私は姿勢を正しました。


「はい!」


 これも、今回の事件で重要だった論点です。


 大沢源蔵は、土地建物全部を春江さんに売る契約をしました。


 ところが、登記簿を調べると。


 大沢の持分は二分の一。


 残りの二分の一は、弟の大沢清一が所有していた。


「先輩」


「何だ」


「自分が全部持っていないのに、全部売るって約束したんですよね」


「そうだ」


「それでも、契約自体は有効になり得る」


「ああ」


 私はノートに書きました。


 ――他人物売買。


 他人に属する権利を売買の目的とする契約。


「最初に勉強したとき、これが不思議だったんです」


 私が言うと、相馬先輩が首をかしげました。


「何がだ」


「自分の物じゃないのに売れるんですか?」


「売買契約はできる」


「でも、勝手に他人の所有権を移せるわけじゃないですよね」


「そうだ」


「……そこが難しい!」


 相馬先輩が笑いました。


「だから、契約を結ぶことと、権利を移転することを分けて考えろ」


 なるほど。


 ここです。


 売主が、他人の所有物を売る約束をする。


 その約束自体が、ただちに無効になるわけではない。


 しかし。


 その契約だけで、本来の所有者の権利を勝手に奪えるわけでもない。


「では、売主はどうするんですか?」


 私は自分で問いかけました。


「本来の所有者から権利を取得して、買主に移転するんです!」


 相馬先輩が頷きました。


「そうだ」


 私は六法を開きました。


 昭和六十三年。


 旧民法第五百六十条。


 他人の権利の売買における売主の義務。


 ここで。


 私は一度、深呼吸しました。


「先輩」


「何だ」


「現代の民法だと、これが五百六十一条なんですよね」


「また未来か」


「はい!」


「胸を張るな」


 でも、本当に重要なのです。


 現代の民法五百六十条は、登記や登録などの対抗要件を備えさせる義務について規定しています。


 そして、他人の権利を取得して移転する義務は、五百六十一条。


 一方、昭和六十三年の旧民法では。


 他人物売買の義務が五百六十条。


 その後に、売主が他人の権利を取得して移転できなかった場合の規定が続いていました。


「つまり」


 私は言いました。


「現代の五百六十一条を、そのまま昭和六十三年の事件に持ち込んではいけない!」


「ようやく覚えたか」


「覚えました!」


 私はノートに大きく書きました。


 昭和六十三年。


 他人物売買の売主の取得・移転義務は、五百六十条。


 令和。


 他人の権利を取得して移転する義務は、五百六十一条。


「これで間違えません!」


「昨日もそんなこと言ってなかったか」


「昨日は昨日です!」


「都合のいい頭だな」


 私は笑いました。


 でも。


 もう一つ、確認したいことがありました。


「所長」


「何だ」


「大沢さんの弟さんが、最後まで持分を売るのを拒否していたら、どうなったんですか?」


 片桐所長が答えました。


「売主が権利を取得して移転できなければ、旧法の担保責任や債務不履行に関する問題が生じる」


「はい」


「買主による解除や損害賠償が認められるかどうかは、当時の規定と具体的事情によって判断することになる」


 私は頷きました。


 旧民法では、売主が他人の権利を移転できなかった場合について、買主の善意・悪意などによって救済に違いが設けられていたのです。


 一方、現代の改正民法では、契約内容に適合する権利を移転する義務や、一般的な債務不履行の規定との関係が整理されています。


「つまり、昔はもっと細かく場合分けされていたんですね」


「そうだ」


「買主が事情を知っていたかどうかも重要だった」


「ああ」


 片桐所長が続けました。


「ただし今回、弟の持分が移転できないことを前提に話を進める必要はなかった」


「そうですね」


「実際には弟が協力し、予定どおり登記ができた」


「はい」


 私は写真を思い出しました。


 春江さんの新しい家。


 庭。


 縁側。


 足踏みミシン。


 あの家が無事に引き渡されたのは、大沢の弟が持分移転に協力したからでもあります。


「もし弟さんが拒んでいたら、もっと大きな紛争になっていたかもしれませんね」


「そうだな」


 相馬先輩が言いました。


「だから契約前に登記簿を調べるんだよ」


「……!」


 私は顔を上げました。


「先輩!」


「何だ」


「それ、今回の事件の大きな教訓ですね!」


「当たり前だろ」


「不動産を買うときは、売主が本当に権利を持っているか確認する!」


「そうだ」


「共有者がいるかどうかも!」


「そうだ」


「登記簿は大切!」


「ようやく分かったか」


 私は頷きました。


 他人物売買が有効だからといって、安心して何でも買っていいわけではありません。


 売主が他人の権利を取得できなければ、買主は大きなトラブルに巻き込まれることがあります。


 有効な契約であること。


 約束どおりに履行されること。


 この二つは、同じではないのです。


 ◇


「次は登記だ」


 相馬先輩が言いました。


「はい!」


 私はノートに書きました。


 ――権利移転と対抗要件。


「先輩、売買契約が成立したら、買主はもう安心していいんですか?」


「いいわけねえだろ」


「ですよね」


 今回の春江さんも、代金は全部払っていました。


 けれど。


 最初に相談に来たときには、まだ登記が移転していなかったのです。


「ここで民法百七十七条ですね」


 私は言いました。


「不動産の物権変動は、登記をしなければ、原則として第三者に対抗できません」


「そうだ」


 例えば。


 大沢が春江さんへ土地を売った。


 ところが、春江さんへの登記が済んでいない。


 その間に、大沢が別の買主にも売ってしまったら。


 いわゆる二重譲渡の問題が生じます。


「だから、登記が大切なんですね」


「そうだ」


「売買契約が成立したことと、第三者に対抗できることは別問題です」


 私は丸をつけました。


 そして。


 現代の民法五百六十条。


 売主は、買主が登記・登録その他の対抗要件を備えられるようにする義務を負う。


「これは、現代の民法で明文化されているんですね」


 私が言うと、相馬先輩が怪訝な顔をしました。


「また現代か」


「すみません!」


 でも。


 昭和六十三年でも、売主が登記に必要な手続をする義務を負うという考え方は、当然に重要でした。


 不動産売買では、契約内容に従い、売主が買主の登記手続に協力する必要があります。


 現代の民法では、こうした対抗要件を備えさせる義務が条文上も明確に整理されました。


「つまり、令和の民法五百六十条は、昔の実務でも重要だった考え方を明文化しているんですね」


「そういう理解でいい」


 所長が頷きました。


 私は書きました。


 ――売買契約の成立と、第三者に権利を主張できることは別。登記などの対抗要件を忘れない。


 なるほど。


 春江さんは、家を買った。


 代金も払った。


 でも、登記が移るまでは、別の危険が残っていた。


 だからこそ。


 片桐所長は、返金ではなく契約の履行を求める通知書を作った。


 そして。


 司法書士と連携して、登記が完了するまで確認したのです。


「法律って、契約書を作れば終わりじゃないんですね」


「当たり前だ」


 相馬先輩が言いました。


「契約した権利を、実際に確保するところまで考えろ」


 私は大きく頷きました。


 ◇


「さて、次は費用だ」


 相馬先輩が言いました。


 私は六法をめくりました。


 民法第五百五十八条。


 売買契約に関する費用。


「これも春江さんから質問がありましたね」


「ああ」


 春江さんは、大沢から契約書作成費用や印紙代を全部負担するように言われていました。


 でも。


 民法五百五十八条は、売買契約に関する費用を、当事者双方が等しい割合で負担すると定めています。


「つまり、原則は折半ですね」


「そうだ」


 私はノートに書きました。


 売買契約に関する費用。


 原則、双方が等しい割合で負担。


「ただし、契約で別の負担割合を決めている場合は、その合意も問題になる」


「そうだ」


「それに、何でも全部半分という意味ではないですね」


「ああ」


 例えば。


 契約書の作成に必要な費用。


 収入印紙の費用。


 公正証書による契約をする場合の公証人費用。


 こうしたものが、売買契約に関する費用として問題になります。


 一方。


 所有権移転登記の費用や、実際の引渡しに関する費用などは、すべて当然に五百五十八条による折半になるとは限りません。


 それぞれの性質や合意を確認する必要があります。


「なるほど……」


 私は頷きました。


「試験だと『売買契約の費用は折半』って覚えますけど、実務では何の費用なのかが大切なんですね」


「そうだ」


 相馬先輩が笑いました。


「試験で一行の知識でも、現場じゃ請求書一枚の話になる」


「確かに!」


 私はノートに書きました。


 ――民法五百五十八条。売買契約に関する費用は、原則として折半。ただし、費用の種類と当事者の合意を確認。


「よし!」


「これで全部か?」


 相馬先輩が聞きました。


「まだです!」


「まだあるのかよ」


「民法五百五十九条!」


 私は勢いよく六法を開きました。


 ――有償契約への準用。


 売買以外の有償契約にも、その性質が許す限り、売買に関する規定が準用される。


「つまり」


 私は言いました。


「売買だけではなく、対価を伴う別の契約でも、売買の規定が関係することがあるんですね」


「そうだ」


「ただし、その契約の性質に合わないものまで無理に適用するわけではない」


「うん」


 私は頷きました。


 売買の規定。


 五百五十五条。


 五百五十六条。


 五百五十七条。


 五百五十八条。


 五百五十九条。


 五百六十条。


 五百六十一条。


 それぞれ、独立した暗記事項のように見えます。


 でも。


 実際には、すべてつながっている。


 契約の成立。


 予約。


 手付解除。


 費用。


 有償契約への準用。


 対抗要件。


 他人の権利の売買。


 これが、売買をめぐる民法の仕組みなのです。


 ◇


「さて、こはる」


 片桐所長が帳簿を閉じました。


「はい!」


「確認問題だ」


「来ましたね!」


 私は鉛筆を構えました。


 所長は静かに言いました。


「第一問。AがBに自動車を二百万円で売る約束をした。Bも二百万円を払うと約束した。自動車の引渡しも支払いもまだだ。売買契約は成立しているか」


「成立しています!」


「理由は?」


「売買は原則として諾成契約だからです。財産権の移転と代金支払について意思が合致すれば成立します!」


「よし」


 私は拳を握りました。


「第二問」


 所長が続けます。


「AはBから二十万円の解約手付を受け取った。Bはまだ履行に着手していない。Aが適法に手付解除するには?」


「手付の倍額である四十万円を現実に提供して解除します!」


「よし」


「第三問」


 所長は少し考えました。


「Bがすでに売買代金二百万円を全額支払った。そのあとAが手付を倍返しすると言った。解除できるか」


「原則としてできません!」


「なぜだ」


「相手方であるBがすでに履行に着手しているからです!」


「よし」


 私は頷きました。


 ここは、もう間違えません。


「第四問」


 所長が言いました。


「Aが、自分の物ではない土地をBに売る契約をした。この契約は当然に無効か」


「いいえ!」


「理由は?」


「他人物売買も有効に成立し得るからです。売主は他人の権利を取得して買主に移転する義務を負います!」


「昭和六十三年の条文は?」


「旧民法五百六十条!」


「現代では?」


「民法五百六十一条!」


 所長が頷きました。


「第五問。売買契約に関する費用の原則は?」


「双方が等しい割合で負担します!」


「条文は?」


「民法五百五十八条!」


「よし」


 私は思わず立ち上がりました。


「全部正解!」


 相馬先輩が新聞を下ろしました。


「まだ俺の問題があるぞ」


「えっ」


「最終問題だ」


 先輩がにやりとします。


「売主Aが履行に着手した。買主Bはまだ履行に着手していない。A自身は手付解除できるか?」


 ……。


 私は一瞬、固まりました。


 昭和六十三年の条文。


 当事者の一方が履行に着手するまで。


 その文言だけを見れば、できないように思えます。


 でも。


 最高裁昭和四十年十一月二十四日判決。


 自分が履行に着手したからといって、そのことだけで自分の解除権を失うわけではない。


「……はい!」


 私は答えました。


「A自身が履行に着手したというだけでは、Aの手付解除権は失われません!」


「ほう」


「相手方Bが履行に着手しているかどうかが重要です!」


「正解」


「やった!」


 私は両手を上げました。


 相馬先輩が笑いました。


「ようやく判例まで頭に入ったか」


「はい!」


「じゃあ、もう未来の条文を間違って使うなよ」


「……努力します」


「そこは断言しろ!」


「だって、民法って改正が多いんですもん!」


「法律のせいにするな!」


 私は笑いました。


 でも。


 今日の勉強は、本当に意味があったと思います。


 ◇


 窓の外は、もう薄暗くなっていました。


 駅の方から、自転車のベルが聞こえます。


 商店街の店先には、夕方の明かり。


 私はノートを見つめました。


 売買。


 手付。


 履行の着手。


 他人物売買。


 対抗要件。


 契約費用。


 どれも、試験のテキストでは短い見出しです。


 でも。


 あの古い平屋の事件を思い出すと、全部に意味があります。


 春江さんは、二百万円の家を買いました。


 契約書も作りました。


 手付金も払いました。


 残代金も払いました。


 それなのに。


 売主は、もっと高く買ってくれる相手が現れた途端、契約を破ろうとした。


 そして。


 手付金を倍にして返せばいい。


 そう主張した。


 でも、民法はそれを無条件には認めなかった。


「先輩」


「何だ」


「手付解除って、最初は変な制度だと思ったんです」


「どうしてだ」


「約束を破ってもいい制度みたいに見えたので」


 相馬先輩は煙草を灰皿に押しつけました。


「まあ、そう思う奴もいるだろうな」


「でも、違ったんですね」


「どう違う」


 私は少し考えました。


「まだお互いが本格的に履行を始めていない段階では、一定の代償を払って契約から離れる自由を認めている」


「うん」


「でも、相手が約束を信じて履行を始めたあとは、その自由に制限がかかる」


「そうだ」


 私は頷きました。


「つまり、自由と信頼のバランスなんですね」


 片桐所長が、静かに顔を上げました。


「そうだ」


 短い一言。


 でも、その声には確かな重みがありました。


 民法は、契約を絶対に取り消せないものにはしていません。


 人には、事情が変わることもあります。


 考え直すこともあります。


 だから、手付解除という仕組みがある。


 けれど。


 相手がその約束を信じて、現実に動き始めたあとまで、自由に裏切れるわけではありません。


 その境界線に、民法五百五十七条がある。


「……なるほど」


 私は鉛筆を取りました。


 今日の最後の一行。


 ここに書きます。


 ゆっくり。


 ――売買は約束で成立し、手付は解除の道を残す。でも、相手が履行を始めたら、その道は原則として閉ざされる。


「できました!」


 私はノートを掲げました。


 相馬先輩が覗き込みます。


「長くねえか?」


「今日は論点が多かったんです!」


「一行の覚え書きだろ」


「一行に収まってます!」


「字が小せえ!」


「そこは努力です!」


 先輩は呆れたように笑いました。


 でも。


 私は満足でした。


 あの春江さんの家を思い出せば。


 この一行を忘れることはないでしょう。


 ◇


「ところで、こはる」


 相馬先輩が言いました。


「はい?」


「今日の勉強会は終わりか?」


「はい!」


「じゃあ、机を片付けろ」


「え?」


「六法も戻せ」


「はい」


「床も掃け」


「……また掃除ですか?」


「見習いだろ」


 私は腕を組みました。


「先輩」


「何だ」


「今日は民法を勉強したので、契約で考えてみたいと思います」


「嫌な予感しかしねえな」


「私が事務所の掃除をする代わりに、先輩が夕飯をごちそうしてください!」


「は?」


「有償契約です!」


「勝手に契約を成立させるな!」


「じゃあ、予約でもいいです!」


「何の予約だ!」


「先輩が後日、私にラーメンをごちそうする予約!」


「何で俺だけ義務を負うんだよ!」


 私は笑いました。


「民法五百五十六条です!」


「予約した覚えはねえ!」


「では、今ここで予約してください!」


「しねえよ!」


 ……。


 残念。


 どうやら。


 契約は、相手の意思が合致しないと成立しないようです。


 民法五百五十五条。


 身をもって確認しました。


「先輩」


「今度は何だ」


「じゃあ、手付金を払います」


「何?」


「ラーメン代の手付です!」


「何でそんなにラーメンが食いてえんだよ!」


「おなかが空いたからです!」


 相馬先輩は、しばらく私を見つめました。


 それから。


「……しょうがねえな」


「え?」


「掃除が終わったら、一杯おごってやる」


「本当ですか!」


「ああ」


「約束ですよ!」


「分かったよ」


 私は大喜びしました。


「では売買契約成立!」


「違うだろ!」


「えっ」


「ただでおごってやるって話だ。売買じゃねえ」


「……あ!」


 しまった。


 またです。


 売買は、財産権の移転と代金支払の約束。


 今回のラーメンは、先輩がただでおごってくれる話。


 つまり。


 売買ではありません。


「……贈与?」


「そういうことだ」


 相馬先輩が笑いました。


「民法、まだまだ勉強が足りねえな」


「くっ……!」


 悔しい。


 でも。


 ラーメンが食べられるなら、今日はそれでよしとします。


「所長!」


 私は奥へ向かって声をかけました。


「何だ」


「先輩がラーメンをごちそうしてくれるそうです!」


「そうか」


「所長も行きませんか!」


 片桐所長は帳簿を閉じました。


「いいだろう」


「やった!」


 その瞬間。


 相馬先輩が固まりました。


「……待て」


「はい?」


「所長の分も俺が払うのか?」


 私は首をかしげました。


「先輩がごちそうするんじゃないんですか?」


「お前にだ!」


「所長も一緒の方が楽しいですよ!」


「人数を勝手に増やすな!」


 片桐所長が静かに言いました。


「相馬」


「はい」


「私の分は自分で払う」


「……ですよね」


「ただし」


「はい?」


「こはるの分は、お前が約束したんだろう」


 ……。


 相馬先輩が天井を見上げました。


 私は思わず吹き出しました。


「先輩!」


「何だ!」


「約束は守りましょうね!」


「分かってるよ!」


「民法です!」


「うるせえ!」


 私は笑いながら箒を手に取りました。


 夕暮れの事務所。


 机の上には、今日のノート。


 民法五百五十五条から五百六十一条。


 売買の成立。


 予約。


 手付解除。


 費用負担。


 有償契約への準用。


 権利移転の義務。


 そして、他人物売買。


 最初は、数字の並んだ難しい条文でした。


 でも。


 今は違います。


 二百万円の家を買った春江さん。


 手付金を倍返しすれば逃げられると思った大沢源蔵。


 領収書に残された署名と印影。


 そして、無事に戻ってきた家族の笑顔。


 それらを思い出せば。


 売買契約が、ただのお金と物の交換ではないことが分かります。


 その約束の向こうには。


 仕事がある。


 生活がある。


 家族がいる。


 未来がある。


 だから。


 民法は、約束を守るための仕組みを用意しているのです。


 私は箒を止め、ノートの最後の一行をもう一度読みました。


 ――売買は約束で成立し、手付は解除の道を残す。でも、相手が履行を始めたら、その道は原則として閉ざされる。


 よし。


 これなら忘れません。


「こはる!」


 相馬先輩の声が飛びました。


「はい!」


「ノート見てねえで掃除しろ!」


「今、学習内容を確認してたんです!」


「確認は後だ!」


「先輩!」


「何だ!」


「掃除が終わったら、ラーメンですよね!」


「ああ!」


「約束ですよ!」


「分かったって!」


「代金は先輩持ち!」


「分かってる!」


「私は履行に着手します!」


 私は勢いよく箒を動かしました。


 相馬先輩は、しばらく黙っていました。


 それから。


「……こはる」


「はい?」


「掃除を始めたからって、俺がおごる約束を撤回できなくなる、なんて言うつもりじゃねえだろうな」


 私はにっこり笑いました。


「先輩」


「何だ」


「今日、何を勉強したと思ってるんですか?」


「……お前なあ!」


 事務所に笑い声が響きました。


 もっとも。


 手付も交付していないラーメンのおごりの約束に、民法五百五十七条の手付解除がそのまま適用されるわけではありません。


 そこは、ちゃんと区別しなければなりません。


 ……ええ。


 分かっています。


 分かっていますとも。


 でも。


 先輩には、約束を守ってもらいます。


 だって。


 私たちは今日、学んだのですから。


 契約というものは。


 相手を信じて交わすものだと。


 そして。


 その信頼を守るために、民法があるのだと。


 昭和六十三年。


 片桐行政書士事務所。


 今日も私は、法律を一つ覚えました。


 ただし。


 ラーメンの約束については。


 手付金を渡す前に、さっさと食べに行くことにします。

 以下に私の作品へのリンク貼ってます。是非、手に取って頂ければと思います。また、ついでに評価ブックマーク頂ければ幸いです。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
さくら司法書士補助者の法務帳 〜 昭和に転生して泥沼の争いを収めたら、実務と試験知識が完全にリンクしました 〜
こはる行政書士見習帖 〜 昭和に転生して許認可に振り回されると試験知識が骨身にしみます 〜
宅建見習い栞の人情事件簿 〜転生したら昭和の不動産屋だったので、巻き込まれているうちに宅建過去問が解けるようになりました〜
名探偵 藤原彰子の宮中事件簿 ――『転生皇后 藤原彰子』スピンオフ外伝
転生皇后 藤原彰子 〜 欠けることのない望月の世は私が創る 〜
新訳 太閤記 ~ 転生 豊臣秀吉、未来を識る僕は史実の道を静かに歩む 〜
新訳 三河物語 〜 徳川家康と家臣団の戦国サバイバル 〜 with 逆行転生犬シロ
新訳 北条五代記 〜 近所の隠居が書いたメモがガチの戦記だった件〜
美しき女帝 北条政子 〜 婚約破棄どころか強制結婚!? 平家のエリートに嫁がされそうになったので、豪雨の山を越えて愛する無職の元へ走ってみた 〜
新訳 曽我物語 〜 復讐系なろうの原点、父を殺された兄弟の二十年の復讐譚〜
箴言・格言・名言集 〜頑張るあなたへ、今日を乗り越えるための一言〜
拝啓、愛読者様。― 想いを少しだけ 謹呈 条文小説
六道輪廻抄 〜 戦国転生記 〜
コミックス「六道輪廻抄〜戦国転生記〜」
動画生成AIが作成したイメージビデオ
動画生成AIが作成したなろう小説イメージビデオ
動画生成AIが作成したなろう小説イメージビデオ
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。