[民法・売買と手付解除]現場編 「手付金を倍にして返せば終わり」の嘘。二百万円の古い家を奪おうとした地主と、昭和の民法五百五十七条が突きつける履行の壁
お金を倍にして返せば、約束を破ってもいい。
もし、そんな理屈がいつでも通るなら。
世の中の契約は、お金持ちの気分ひとつでひっくり返ってしまいます。
十万円の手付金。
それを二十万円にして返す。
だから、売買契約はなかったことにする。
確かに。
民法には、そんな解除の仕組みがあります。
でも。
その権利は、いつまでも使えるわけではありません。
そして。
契約を破ろうとした地主は、知らなかったのです。
買主がすでに約束を果たし始めていた場合。
手付金を倍にしただけでは、取り返せないものがあることを。
昭和六十三年。
片桐行政書士事務所。
その日、私は初めて知ることになります。
売買契約を守るために、民法がどれほど厳しい顔をするのかを。
◇
「家を返せと言われたんです」
朝九時。
事務所を訪れた女性は、両手で茶封筒を握りしめていました。
「返せ?」
私は聞き返しました。
「借りている家ですか?」
「いいえ」
女性は首を振りました。
「買った家です」
「……買った家?」
「はい。二百万円で」
相談者は、森田春江さん。
四十三歳。
駅から少し離れた商店街で、洋裁の仕事をしている女性でした。
夫とは五年前に死別。
中学生の娘さんと二人暮らし。
現在は小さな借家で生活しています。
そんな春江さんが、長年の貯金を使って購入したのが、駅裏にある古い平屋でした。
「築三十年くらいの家なんですけど」
春江さんは言いました。
「庭もあって、仕事場にできる部屋もあって……」
「いいですね」
「娘が、そこにミシンを置いていいよって」
少しだけ笑顔になりました。
「私も大きな作業台を置けると思って、楽しみにしていたんです」
ところが。
その笑顔は、すぐに消えました。
「昨日、売主さんから手紙が届きました」
春江さんは封筒を開きます。
中から出てきたのは、一枚の便箋。
私は読みました。
――先般の不動産売買契約については、手付金の倍額を返還することにより解除する。
――手付金二十万円の倍額である四十万円を支払う用意がある。
――よって、本件売買は終了したものとして取り扱う。
差出人。
大沢不動産。
代表・大沢源蔵。
「……手付金の倍返し?」
私は顔を上げました。
「はい」
「春江さん、売買契約書はありますか?」
「あります」
茶封筒から、もう一枚。
今度は収入印紙が貼られた契約書でした。
――土地建物売買契約書。
売主・大沢源蔵。
買主・森田春江。
売買代金・金二百万円。
手付金・金二十万円。
残代金・金百八十万円。
引渡予定日・昭和六十三年十月三十一日。
登記手続・残代金受領後、速やかに行う。
私は頷きました。
「なるほど。解約手付ですね」
知っています。
民法五百五十七条。
買主が手付を放棄するか、売主が倍額を償還することで、契約を解除できる制度です。
つまり。
春江さんが契約をやめたければ、二十万円を諦める。
売主の大沢がやめたければ、四十万円を返す。
……あれ?
「これ、売主さんから解除できるんじゃ……」
私が呟くと。
「こはる」
相馬先輩が声をかけました。
「はい?」
「最後まで読め」
「え?」
「五百五十七条だ」
私は慌てて六法を開きました。
民法第五百五十七条。
手付。
そして、そこには。
――当事者の一方が契約の履行に着手するまでは。
と書かれていました。
「……履行に着手?」
「そうだ」
相馬先輩が春江さんを見ました。
「森田さん。代金は、どこまで払いました?」
「全部です」
……。
「え?」
「二百万円。もう全部払いました」
私は思わず立ち上がりました。
「全部!?」
「はい」
「残りの百八十万円も?」
「先週、振り込みました」
春江さんは通帳を取り出しました。
そこには。
大沢源蔵名義の口座への振込記録。
百八十万円。
さらに。
大沢の署名押印がある領収書まで。
――土地建物売買代金残額として、金百八十万円を確かに受領した。
私は通帳を見ました。
領収書を見ました。
契約書を見ました。
そして。
相馬先輩を見ました。
「……先輩」
「何だ」
「これって」
「ああ」
「もう、契約の履行が始まってますよね?」
「始まってるどころじゃねえ」
先輩は領収書を指で叩きました。
「買主は、代金を全部払ってる」
その瞬間。
私は理解しました。
手付解除には、期限がある。
単なる日付の期限ではありません。
契約の履行に着手したかどうか。
そこが、勝負を分けるのです。
◇
「でも……」
春江さんが不安そうに尋ねました。
「契約書には、手付金を倍にして返せば解除できるって書いてあるんです」
私は確認しました。
確かに、そう書かれています。
――売主は手付金の倍額を償還することにより本契約を解除できる。
ただし、その後ろには。
――契約の履行に着手するまで。
という文言がありました。
「これです!」
私は指差しました。
「ここが大事なんです!」
「……履行?」
「はい。契約で決めた約束を、実際に果たし始めることです」
春江さんは首をかしげました。
「私は、お金を払っただけですけど……」
「それが重要なんです!」
私は思わず声を大きくしました。
「売買契約って、売主が財産を移転することを約束して、買主が代金を支払うことを約束する契約なんです!」
民法五百五十五条。
売買。
この条文。
私は好きです。
なぜなら、難しいようで、とても単純だからです。
売主は、売る。
買主は、払う。
その約束が合致すれば、売買の効力が生じる。
原則として、品物をまだ引き渡していなくても。
代金をまだ全部払っていなくても。
契約そのものは成立します。
「つまり、春江さんは買主としての約束を果たしたんです」
「はい……」
「それを売主が勝手になかったことにするのは、おかしいです」
そこへ。
「少し違う」
片桐所長が口を開きました。
「え?」
「おかしいから認めない、では足りん」
「……はい」
「解除できない理由を、条文と事実で示せ」
私は背筋を伸ばしました。
そうでした。
ここは行政書士事務所。
正義感だけでは仕事になりません。
必要なのは。
相手が反論できないだけの法的根拠です。
「まず、手付の性質を確認しろ」
所長が言いました。
「はい」
私は契約書を見ました。
手付金二十万円。
解約手付として扱う旨の記載。
違約時の別途没収条項なし。
「解約手付です」
「そうだ」
「手付には、ほかにも証約手付や違約手付がありますよね」
「ある」
「でも、今回の問題は解約手付による解除です」
相馬先輩が頷きました。
「じゃあ、解除できる条件は?」
「契約の履行に着手する前までです!」
「そうだ」
「買主はすでに残代金を支払っています」
「うん」
「売主も受領しています」
「そうだ」
「だから、売主は今さら手付の倍額を返すだけでは解除できません!」
片桐所長が頷きました。
「その筋で調べろ」
よし。
見えました。
今回の争点。
手付金を倍にして返すという形式ではありません。
その解除権が、まだ残っているのか。
そこなのです。
◇
ところが。
事件には、もう一つ厄介な問題がありました。
「春江さん」
相馬先輩が聞きました。
「どうして売主は、急に売らないと言い出したんです?」
「それが……」
春江さんは視線を落としました。
「駅前の開発会社が、あの辺りの土地を買い集めているそうなんです」
「開発会社?」
「はい」
話を聞くと。
駅裏に小さな商業施設を建てる計画が持ち上がっているらしいのです。
その会社が、大沢に持ちかけた価格。
四百五十万円。
……。
二百万円で売った土地建物が。
四百五十万円で売れる。
差額。
二百五十万円。
「なるほどな」
相馬先輩が低い声で言いました。
「手付を倍返ししても、まだ大儲けだ」
確かに。
春江さんに四十万円を返す。
別の買主に四百五十万円で売る。
契約を破っても、大沢には十分な利益が残ると考えたのでしょう。
「ひどい……」
私は呟きました。
でも、大沢の計算には致命的な穴があります。
民法五百五十七条。
解約手付。
履行の着手。
そして。
さらに調べると、もっと大きな穴が見つかったのです。
「所長」
私は契約書に添付された登記簿謄本を見ました。
「これ……」
「どうした」
「売主の名前が、一人じゃありません」
そこには。
所有者。
持分二分の一。
大沢源蔵。
持分二分の一。
大沢清一。
と記されていました。
「……共有?」
私は目を丸くしました。
「大沢源蔵が全部持っているわけじゃない!」
相馬先輩が覗き込みました。
「ああ。弟と共有だな」
「でも、契約書には土地建物全部を売るって……」
「そうだ」
「自分の持分しかないのに、全部売ったんですか!?」
私は頭を抱えました。
手付解除。
履行の着手。
それだけでも大変なのに。
今度は。
他人物売買!
民法の試験範囲が、次々と襲いかかってきます。
「これは他人物売買ですね!」
私は六法を開きました。
「民法五百六十一条です! 他人の権利の売買における売主の義務!」
その瞬間。
相馬先輩の眉が動きました。
「……何条だ?」
「五百六十一条です!」
「こはる」
「はい!」
「六法をよく見ろ」
「え?」
「今は昭和六十三年だ」
……。
しまった。
またです。
また未来の民法です。
現代の民法では、五百六十一条が他人の権利を取得して移転する義務について定めています。
でも。
昭和六十三年。
その条文番号は違います。
「五百六十条……!」
私は六法を見つめました。
旧民法五百六十条。
――他人の権利を売買の目的としたときは、売主は、その権利を取得して買主に移転する義務を負う。
「こっちだ!」
相馬先輩が笑いました。
「お前、五百六十一条ばっかり探してたら、違う話になるぞ」
「……はい」
私は隣の条文を確認しました。
旧民法五百六十一条。
他人の権利を取得して移転できなかった場合の、買主の解除などを定める規定です。
「現代だと五百六十条は登記や登録などの対抗要件を備えさせる義務なのに……!」
「何をぶつぶつ言ってる」
「いえ、条文番号の恐ろしさを噛みしめています」
「変な奴だな」
でも。
番号が変わっても。
根本にある理屈は、同じ方向を向いていました。
他人の権利を売る契約。
それ自体が、当然に無効になるわけではない。
ただし。
売主は、その権利を取得して買主へ移転しなければならない。
「つまり」
私は言いました。
「大沢さんは、弟さんの持分についても、取得して春江さんに移す義務があるんですね」
「そうだ」
所長が頷きました。
「全部を売ると約束した以上、全部を移転できるようにしなければならん」
「でも弟さんが絶対に売らないと言ったら?」
「そこで初めて、履行できない場合の責任が問題になる」
なるほど。
契約をした。
しかし、他人の物だった。
だから契約は無効。
ではありません。
売主は、約束した権利を取得してでも、買主に渡す義務を負う。
そんな厳しさがあるのです。
私は契約書を見つめました。
大沢源蔵。
この人。
手付金を倍返しするだけで、全部逃げ切れると思っている。
でも実際には。
契約解除の制限。
代金全額受領。
他人物売買。
権利移転義務。
いくつもの問題を抱えている。
「先輩」
「何だ」
「これ、相手はかなり危ないですよね」
「ああ」
相馬先輩は笑いました。
「本人が思ってるより、ずっとな」
◇
翌日。
私と相馬先輩は、大沢不動産の事務所を訪れました。
駅前通りから一本入ったところにある、二階建ての古い建物。
入口には、
――土地建物売買・仲介。
と書かれた看板。
その奥に。
大きな机。
革張りの椅子。
そして。
「何だ、行政書士か」
金縁眼鏡の男が、こちらを見ました。
大沢源蔵。
五十六歳。
地元では古くから土地を扱っている業者です。
「片桐行政書士事務所の相馬です。契約関係の事実確認で伺いました」
「弁護士じゃないんだろ」
「そうです」
「なら、裁判もできねえな」
出ました。
この発言。
民法編の悪役は、どうしてこうも行政書士を軽く見たがるのでしょう。
「で?」
大沢は椅子にもたれました。
「あの女が何か言ってるのか?」
「森田さんから、契約書類の確認を依頼されています」
「契約書に書いてあるだろ」
大沢は鼻で笑いました。
「手付金を倍にして返せば解除できるんだよ」
「契約書には、履行着手前という条件もあります」
私が言いました。
大沢は笑みを深くしました。
「まだ家は渡してねえぞ」
「ですが、代金はすでに全額支払われています」
「知ってるよ」
「受領されていますよね?」
「ああ」
「では、買主はすでに――」
「お嬢ちゃん」
大沢が私の言葉を遮りました。
「不動産の取引ってのはな、鍵を渡して、登記を変えて、それで終わりなんだよ」
「……」
「まだ鍵は俺が持ってる。登記だって俺のままだ」
大沢は机を指で叩きました。
「だから、まだ終わってない。手付を倍返しすればいいんだ」
私は息を吸いました。
違います。
確かに、引渡しも登記も終わっていません。
でも。
だからといって、買主の履行がなかったことにはならない。
「買主は代金を全額支払っているんです」
「だから返すって言ってるだろ!」
「全額の返還と手付解除の効力は、別の問題です」
大沢が眉をひそめました。
「何?」
「お金を返すと言っただけで、すでに制限された解除権が復活するわけではありません」
「生意気なことを……」
大沢は立ち上がりました。
「俺は二十年以上、この商売をやってるんだ!」
机を叩く。
「小娘に商売を教わる筋合いはない!」
私は思わず言い返しそうになりました。
でも。
「こはる」
相馬先輩が低い声で言いました。
「はい」
「もういい」
「でも!」
「相手の見解は確認した」
先輩は大沢を見ました。
「もう一点。登記簿上、本件不動産は弟さんとの共有ですね」
大沢の動きが止まりました。
「……何だ、それが」
「売買契約は土地建物全部を目的としています」
「ああ」
「弟さんの持分については、どのように権利移転を予定していたのでしょう」
「弟には話をつけてある」
「書面はありますか」
「口約束だよ」
「そうですか」
相馬先輩は手帳に書きました。
「弟さんの協力が得られるというご説明ですね」
「そうだ!」
「承知しました」
それ以上、何も言いません。
私たちは事務所を出ました。
「先輩!」
私は歩きながら言いました。
「何であそこで反論しなかったんですか!」
「反論してどうする」
「だって、向こうが完全に間違っているじゃないですか!」
「そうだな」
「だったら!」
相馬先輩は足を止めました。
「こはる」
「はい」
「俺たちは弁護士じゃねえ」
「……はい」
「依頼人の代わりに、紛争の示談交渉をする仕事じゃねえんだ」
「分かってます」
「だったら、口喧嘩で勝とうとするな」
先輩は手帳を見せました。
「残代金を受領したことは認めた」
「はい」
「引渡しも登記もまだだと言った」
「はい」
「弟の持分を取得するつもりだったとも言った」
「はい」
「十分だ」
「……十分?」
「ああ」
先輩がにやりとしました。
「これで、何を争っているのかが明確になった」
私は黙りました。
「世の中、声がでかい奴じゃなくて、書面にハンコを押させた奴が勝つんだよ」
いつもの言葉。
でも。
今日は、その意味が少し違って聞こえました。
相手を怒鳴り負かす必要はありません。
相手が何を認め、何を拒んでいるのか。
それを整理する。
そして。
動かせない証拠を集める。
行政書士の仕事は、そこから始まるのです。
◇
「まず、昭和六十三年の条文で書き直せ」
事務所へ戻るなり、片桐所長が言いました。
「はい!」
私は原案を机に置きました。
題名。
――売買契約の履行請求及び解除通知に対する回答書。
「待て」
所長が赤鉛筆を取りました。
「はい?」
「今回は解除するのか?」
「……しません」
「誰が解除を主張している」
「売主です」
「依頼人は何を求めている」
「家を引き渡してほしい、と」
「なら、その意思を明確にしろ」
私は書き直しました。
――売買契約の履行を求める通知書。
「よし」
所長が頷きました。
そこからが大変でした。
契約書。
手付金の領収書。
残代金の振込記録。
大沢の領収書。
登記簿謄本。
解除通知。
私は全部を机に並べました。
「所長」
「何だ」
「今回、契約が成立した時点って、いつですか?」
「当事者が売買の内容について合意したときだ」
「ですよね」
私は民法五百五十五条を確認しました。
売買は、財産権を移転する約束と、代金を支払う約束によって効力が生じる。
つまり。
契約書にハンコがあるから初めて成立する、というわけではありません。
原則として、口頭でも売買契約は成立し得ます。
もっとも、不動産の売買では、内容を明確にするため契約書が極めて重要です。
「今回は書面があります」
「あるな」
「だから成立した契約の内容も明確です」
「そうだ」
「しかも代金全額受領まで証明できる!」
「そこが強い」
次。
民法五百五十七条。
解約手付。
私は条文を確認しました。
昭和六十三年の旧民法では、
――当事者の一方が契約の履行に着手するまでは。
という文言です。
現代の民法とは、少し書き方が違います。
「先輩」
「何だ」
「昔の条文だと、『当事者の一方』って書いてあるんですね」
「そうだ」
「現代は『その相手方が契約の履行に着手した後』という形に整理されているのに……」
「また未来の話か」
「すみません!」
でも。
これも大切な違いでした。
昭和の条文を読むと、一見、売主自身が履行を始めた場合にも解除できなくなるように見えます。
しかし、判例は、自分が履行に着手した者が、そのことだけを理由に自分の手付解除権を失うわけではないと解しています。
今回、問題になるのは、もっと明確です。
売主が解除を主張している。
その相手方である買主は、代金を全額支払っている。
だから。
相手方の履行着手という制限に、正面から当たるのです。
「判例も確認しろ」
所長が言いました。
「はい!」
相馬先輩が古い判例集を取り出しました。
「これだ」
昭和四十年十一月二十四日。
最高裁大法廷判決。
履行の着手とは何か。
私は判例の解説を読みました。
単なる準備行為では足りない。
契約上の債務の履行行為そのもの、または履行に必要な前提行為をした場合などに問題となる。
そして、解除される相手方が履行に着手したときには、手付解除が制限される。
「……すごい」
私は呟きました。
「何がだ」
「手付金を倍にすればいつでも解除できるって、そういう単純な制度じゃないんですね」
「当たり前だ」
相馬先輩が言いました。
「相手が約束を信じて動き始めたあとに、勝手に全部ひっくり返されたら困るだろ」
「はい」
「今回なんか、もう二百万円払ってる」
「そうです」
「それを四十万円の手付解除で消せると思ってるなら、甘すぎる」
私は頷きました。
契約を信じて行動した人を守る。
そこに、履行着手という線引きがある。
なるほど。
手付解除は自由を認める制度であると同時に、自由の限界を定める制度でもあるのです。
◇
「さて、もう一つだ」
片桐所長が言いました。
「はい」
「弟の持分について、誰が移転する義務を負う」
「売主の大沢源蔵です!」
「根拠は?」
「旧民法五百六十条!」
「そうだ」
私は大きく頷きました。
昭和六十三年。
旧民法五百六十条。
他人の権利の売買における売主の義務。
現代では、同趣旨の規定が五百六十一条に置かれています。
「大沢さん、二分の一しか持っていないのに、全部売るって契約したんですよね」
「そうだ」
「だから弟さんの持分を取得して、買主に移転する義務がある」
「そういうことだ」
「自分の物じゃなかったから契約は無効、とはならない!」
「そのとおり」
所長は頷きました。
私は手を止めました。
「でも所長」
「何だ」
「弟さんがどうしても売らない場合は?」
「移転できなければ、売主の責任が問題になる」
「契約を解除できる場合もあるんですね」
「ああ。ただし今回は、買主が履行を求めている」
私は書面を見ました。
春江さんが望んでいるのは。
お金を返してもらうことではありません。
家を手に入れることです。
だから。
今必要なのは、解除通知ではない。
契約どおりに引き渡すよう求める通知なのです。
そこへ相馬先輩が言いました。
「登記のことも忘れるなよ」
「はい!」
「土地建物の所有権を取得しても、第三者に対抗するには登記が問題になる」
「民法百七十七条ですね!」
「そうだ」
「でも今の契約では、まだ登記が移っていません」
「そういうことだ」
相手が別の買主に売り、登記まで移してしまえば、権利関係はさらに複雑になります。
「だから、早急に対応しなければいけないんですね」
「ああ」
「登記手続は、司法書士の先生と連携ですね」
「そうだ。紛争がこじれれば弁護士だ」
私は頷きました。
行政書士だから、何もできないわけではありません。
でも。
何でもできるわけでもない。
契約書と事実関係を整理する。
本人名義の内容証明を作成する。
証拠を残す。
そして必要に応じて、弁護士や司法書士へ引き継ぐ。
それぞれの役割があるのです。
「こはる」
所長が言いました。
「通知書を完成させろ」
「はい!」
私は原稿用紙に向かいました。
昭和六十三年。
まだワープロも、今ほど身近ではありません。
スマートフォンもありません。
メールもありません。
内容証明郵便の書式を意識して、一字ずつ整える。
誤字を書けば、やり直し。
条文番号を間違えれば、やり直し。
事実を断定しすぎても、やり直し。
私は何度も書き直しました。
そして。
ようやく。
一通の通知書が完成しました。
◇
――通知書。
通知人。
森田春江。
被通知人。
大沢源蔵。
第一。
通知人と貴殿は、昭和六十三年九月二十日、本件土地建物につき売買代金二百万円とする売買契約を締結した。
第二。
通知人は、同日、手付金二十万円を支払い、さらに同年十月五日、残代金百八十万円を支払った。貴殿はこれを受領し、領収書を発行している。
第三。
貴殿は同年十月十日付書面により、手付金の倍額を償還して本件契約を解除する旨を通知した。
第四。
しかしながら、通知人はすでに売買代金全額を支払っており、契約の履行に着手している。
したがって、民法第五百五十七条第一項所定の解約手付による解除は認められず、右解除通知によって本件契約は終了しない。
第五。
本件土地建物には、貴殿以外の共有者の持分が存在する。
貴殿は本件土地建物全体を売買の目的とした売主として、旧民法第五百六十条に基づき、他人に属する権利を取得して通知人に移転する義務を負う。
第六。
よって、通知人は、本件売買契約の履行を引き続き求め、契約所定の引渡期日である昭和六十三年十月三十一日までに、土地建物の引渡し及び所有権移転登記に必要な手続がなされるよう請求する。
第七。
貴殿が本件不動産を第三者に処分し、または本件契約の履行を拒否する場合には、通知人は、弁護士への相談のうえ、所有権移転登記請求、損害賠償請求その他適切な法的措置を検討する。
以上。
私は読み終わりました。
事務所に静寂が落ちました。
「……どうでしょう」
相馬先輩は腕を組んでいました。
片桐所長は、書面をもう一度読み返しました。
「よし」
短い一言。
私は思わず拳を握りました。
「やった!」
「浮かれるな」
相馬先輩が言いました。
「え?」
「まだ送ってもいねえ」
「あっ」
「それに」
先輩は書面を指差しました。
「これだけで全部解決するとは限らねえ」
「はい」
「相手が本当に争ってきたら、弁護士に引き継ぐ」
「そうですね」
「登記手続は司法書士にも確認する」
「はい」
片桐所長が言いました。
「書面は武器だ。しかし、判決ではない」
私は頷きました。
内容証明郵便。
それは、郵便局が書面の内容や差出しを証明してくれる制度です。
書いたことが全部正しいと、郵便局が保証するわけではありません。
送っただけで、相手の財産を差し押さえられるわけでもありません。
でも。
相手が逃げようとしたとき。
いつ、誰が、何を請求したのか。
その記録を残せます。
そして。
今回は。
売買契約書。
代金の領収書。
解除通知。
登記簿謄本。
これだけの証拠が揃っていました。
「所長」
「何だ」
「この通知書、相手にはかなり怖いですよね」
「そうだな」
「なぜですか?」
所長は静かに答えました。
「相手が、履行を認めてしまっているからだ」
私は領収書を見ました。
確かに。
大沢自身が、百八十万円を受領したと署名押印している。
その書面が。
大沢の手付解除の主張を、真っ向から崩しているのです。
「……自分のハンコが、自分を追い詰めるんですね」
「ああ」
相馬先輩が笑いました。
「世の中、声がでかい奴じゃなくて、書面にハンコを押させた奴が勝つんだよ」
今日、二回目です。
でも。
今回は本当に、その言葉が胸に刺さりました。
◇
三日後。
大沢不動産から、片桐行政書士事務所へ電話が入りました。
「……片桐先生はおられるか」
声は、大沢源蔵。
私は受話器を握ったまま驚きました。
あの威勢のよさがありません。
「所長に代わります」
片桐所長が電話に出ました。
「片桐です」
『……例の内容証明なんですが』
「はい」
『弁護士に見せましてな』
私は耳を澄ませました。
『手付を倍返しすれば解除できると思っていたんですが……』
「はい」
『残代金をもう受け取っている以上、そう簡単にはいかんと』
所長は黙って聞いています。
『判例もあるとかで……』
私は思わず、相馬先輩を見ました。
先輩が小さく頷きました。
『それに、弟の持分の件も』
「はい」
『こちらが全部を売る約束をした以上、取得して移転する義務がある、と……』
大沢は言葉を濁しました。
『……あの、裁判なんかにはしたくないんです』
片桐所長は落ち着いて答えました。
「森田さんは、契約どおりの履行を希望されています」
『はい』
「その意思は通知書に記載したとおりです」
『分かりました』
しばらく沈黙。
そして。
『……売ります』
私は目を見開きました。
『予定どおり、森田さんに引き渡します』
……!
『弟にも、すぐ正式な書類を書かせます。あいつは最初から売却に賛成していたんで……』
「そうですか」
『登記の手続も進めます』
片桐所長は頷きました。
「具体的な履行日程については、ご本人に書面でお示しください」
『はい』
電話が切れました。
私は飛び上がりそうになりました。
「所長!」
「何だ」
「売るって言いましたよね!」
「ああ」
「やりましたね!」
相馬先輩が言いました。
「まだだ」
「え?」
「家が引き渡されて、登記が済むまで安心するな」
「……はい」
そうでした。
勝利宣言は、まだ早い。
法律の仕事は。
相手が折れたと言っただけで終わるわけではありません。
実際に約束が果たされる。
そこまで確認しなければならないのです。
◇
その後。
大沢源蔵から、春江さん宛てに一通の書面が届きました。
――先般通知した手付解除の主張を撤回し、昭和六十三年九月二十日付売買契約を履行する。
――本件土地建物について、予定どおり引渡し及び所有権移転登記に必要な手続を行う。
署名。
大沢源蔵。
押印。
さらに。
弟の大沢清一からも、自己の持分について権利移転に協力する旨の書面が提出されました。
司法書士が登記関係書類を確認し、所定の手続が進められました。
そして。
十月三十一日。
春江さんは、とうとう家の鍵を受け取ったのです。
登記も、必要な手続を経て、春江さんの名義になりました。
引渡しの数日後。
彼女は娘さんと一緒に、事務所へやってきました。
「本当に、ありがとうございました」
春江さんは深く頭を下げました。
「家が、私たちのものになりました」
「よかったです!」
私は笑いました。
「娘さんも喜んでますか?」
「はい」
春江さんは一枚の写真を取り出しました。
古い平屋。
小さな庭。
縁側。
そして。
部屋の真ん中に置かれた、足踏みミシン。
「これ、仕事場なんです」
「わあ!」
「娘が、ここに机を置いたらって」
写真の隅には、中学生くらいの女の子が写っていました。
笑っています。
「新しい家で、最初に何を縫おうかって話してるんです」
「何にするんですか?」
「娘の冬服です」
春江さんは少し照れたように笑いました。
「お店で買うより、私が作ったほうがいいって言うものですから」
私は胸が温かくなりました。
二百万円。
数字だけ見れば、売買代金です。
でも。
春江さんにとって、そのお金は。
何年も仕事をして貯めたお金。
娘さんと暮らす家。
これからの仕事場。
そして、亡くなった夫と話していた、小さな夢の続き。
そういうものだったのです。
それを。
手付金を倍にして返せば終わり。
そんな一言で奪われていたら。
たまったものではありません。
「ところで」
春江さんが言いました。
「所長先生。もう一つ、お聞きしてもいいですか?」
「どうぞ」
「契約書を作る費用なんですが……」
私は顔を上げました。
「契約書の費用?」
「はい。大沢さんから、書類代や印紙代を全部こちらで払うよう言われていて」
……。
相馬先輩が、ゆっくり六法を開きました。
「こはる」
「はい」
「民法五百五十八条」
私はすぐに答えました。
「売買契約に関する費用ですね!」
「そうだ」
民法五百五十八条。
売買契約に関する費用は、当事者双方が等しい割合で負担する。
つまり。
原則は折半です。
「ただし、別の合意があるか確認が必要です」
私は契約書を見ました。
費用負担についての特約はありません。
「今回なら、原則として契約費用は売主と買主が半分ずつですね」
春江さんが驚きました。
「そうなんですか?」
「はい。ただし、登記費用など、何でも全部が自動的に折半になるという意味ではありません。費用の性質や合意を確認する必要があります」
「なるほど……」
春江さんは頷きました。
「じゃあ、そのことも大沢さんに確認してみます」
相馬先輩が笑いました。
「今度は、契約費用のことで揉める気か」
「いえいえ!」
私は慌てて言いました。
「確認するだけです!」
「そうか」
「はい!」
しかし。
民法は本当に細かいところまで考えているものです。
売る約束。
買う約束。
手付金。
契約解除。
他人の権利。
登記。
そして契約費用。
一つの売買契約の中に、これだけの問題が詰まっている。
なるほど。
行政書士試験で売買が重要なのも、よく分かります。
◇
春江さんたちが帰ったあと。
私は机の上に六法を広げていました。
「先輩」
「何だ」
「今日の事件、すごく勉強になりました」
「そりゃよかったな」
「売買って、簡単な契約だと思ってたんです」
「ほう」
「売る。買う。お金を払う。それで終わり」
「まあ、基本はそうだ」
「でも、そこからが大変なんですね」
私は指を折りました。
「まず、売買契約は財産権の移転と代金支払の約束で成立する」
「うん」
「手付金を渡していれば、解約手付による解除が問題になる」
「そうだ」
「でも、相手方が履行に着手すると、勝手に手付解除できなくなる」
「そうだな」
「さらに、他人の権利を売った場合でも、売主にはその権利を取得して移転する義務がある」
「そうだ」
「売買契約に関する費用は、原則として折半!」
「よく覚えたな」
私は笑いました。
「だって、全部事件で出てきましたから!」
相馬先輩は煙草をくわえました。
「机の上で覚えた条文は忘れても、痛い目を見た条文は忘れねえからな」
「今回は、痛い目を見たのは大沢さんですけど」
「違いねえ」
先輩は笑いました。
片桐所長が帳簿を閉じます。
「こはる」
「はい」
「今日、一番大切だったのは何だ」
私は少し考えました。
売買契約。
手付。
履行の着手。
他人物売買。
登記。
契約費用。
どれも大切です。
でも。
今回の春江さんを守ったのは。
結局、何だったのでしょう。
「……約束を信じて行動した人を、簡単に裏切らせないことです」
所長が頷きました。
「続けろ」
「手付解除は、契約から自由になるための仕組みです」
「うん」
「でも、相手がもう契約を果たし始めているのに、いつまでも自由に解除できたら不公平です」
「そうだ」
「春江さんは、二百万円を全部払いました」
「うん」
「その事実が、売主の身勝手な解除を止めたんです」
所長は短く言いました。
「それでいい」
私はノートを開きました。
今日の教訓。
ここに、一行だけ書きます。
――手付は約束から降りるための切符。でも、相手が履行を始めたら、勝手には降りられない。
「……できました!」
私はノートを掲げました。
「どうですか!」
相馬先輩が覗き込みました。
「まあ、悪くねえな」
「褒めましたね!」
「気のせいだ」
「またそれですか!」
私は笑いました。
でも。
この一行は、きっと忘れません。
二百万円の古い家。
庭のある平屋。
足踏みミシン。
冬服を楽しみにしている娘さん。
その全部を守ったのが。
民法五百五十七条。
たった一つの条文だったのです。
いや。
正確には。
条文だけではありません。
契約書。
領収書。
銀行の振込記録。
登記簿謄本。
判例。
そして、春江さんが諦めなかったこと。
それらが揃って初めて、契約を守る力になったのです。
「ところで、こはる」
相馬先輩が言いました。
「はい?」
「今日、お前が最初に言ったこと、覚えてるか」
「何ですか?」
「手付を倍返しすれば解除できるんじゃないか、って」
「……!」
私は固まりました。
「言いましたっけ?」
「言ったな」
「そんな昔の話は忘れました」
「今朝だろうが!」
「細かいことはいいんです!」
「よくねえよ!」
相馬先輩が笑いました。
「じゃあ確認だ」
「はい!」
「売主が二十万円の手付を受け取った。相手がまだ履行に着手していない。売主が適法に手付解除するなら、いくら償還する?」
「四十万円です!」
「買主が解除するなら?」
「二十万円を放棄します!」
「買主がすでに残代金を全部払っていたら?」
「売主は、原則として手付の倍返しだけでは解除できません!」
「よし」
先輩が頷きます。
「じゃあ次だ。自分の物じゃない土地を売る契約は、当然に無効か?」
「いいえ!」
「何でだ」
「他人物売買も有効です。売主は他人の権利を取得して買主に移転する義務を負います!」
「昭和の条文は?」
「民法五百六十条!」
「よし」
私は得意になりました。
「現代だと五百六十一条です!」
「余計な未来知識を付け足すな!」
「大事なんです!」
「今は昭和だ!」
「分かってます!」
相馬先輩は呆れた顔で新聞を広げました。
私は笑いながら、六法を閉じようとしました。
そのとき。
電話が鳴りました。
「はい、片桐行政書士事務所です!」
『あのう……』
男性の声です。
『土地を買う約束をしたんですが……』
「はい」
『売主さんから、まだ正式な売買契約じゃないって言われまして』
「……え?」
『予約だから、いつでもやめられるって』
私は動きを止めました。
予約。
売買の予約。
……。
民法五百五十六条!
「先輩!」
「何だ!」
「今度は売買の予約です!」
「聞こえてるよ!」
「予約完結権です!」
「まず事情を聞け!」
「はい!」
私は受話器を握り直しました。
「すみません。その予約というのは、どちらか一方が売買を成立させる意思表示をすれば契約が成立する、という内容でしたか?」
『ええ。そういう約束だったと思います』
「書面はありますか?」
『あります』
「では、まずその内容を確認させてください」
昭和六十三年。
民法の世界は、今日も一筋縄ではいきません。
売買契約。
売買の予約。
解約手付。
履行の着手。
他人物売買。
似たような言葉でも、意味は違う。
そして。
契約書一枚。
領収書一枚。
たったそれだけの違いで、誰かの暮らしが守られることがある。
私は今日、確信しました。
民法は、約束を破るための抜け道を教える法律ではありません。
約束を信じて生きる人が、不当に踏みにじられないようにする法律なのです。
「相馬先輩!」
「今度は何だ!」
「やっぱり売買って面白いですね!」
「面白がる前に相談票を書け!」
「はいっ!」
私は鉛筆を握りました。
窓の外。
夕暮れの町には、家々の明かりが灯り始めています。
そのどこかで。
春江さんは、娘さんの冬服を縫っているのでしょう。
新しく手に入れた家の中で。
足踏みミシンを動かしながら。
もう誰にも、勝手に約束をひっくり返される心配をすることなく。
たった二百万円の古い家。
でも。
そこに詰まった人生の価値は、二百万円では測れません。
そして。
それを奪おうとした男が、最後に青ざめた理由も。
私は忘れないと思います。
手付金を倍にして返せば、何でも許される。
そんな甘い理屈は。
民法の前では、いつまでも通用するわけではないのです。
以下に私の作品へのリンク貼ってます。是非、手に取って頂ければと思います。また、ついでに評価ブックマーク頂ければ幸いです。




