[民法・贈与]現場編 「タダでやったんだから返せ」の罠。口約束でも成立する贈与契約と、取り消せない『引き渡し済み』の贈り物
人にあげたものは、気が変わったら取り返せるのでしょうか。
誕生日のプレゼント。
結婚祝い。
親から子への贈り物。
どれも、お金を払って買ったものではありません。
だからこそ。
「タダでやったんだから、返せ!」
そう言われたとき。
もらった側は、何も言い返せないのでしょうか。
昭和六十三年。
片桐行政書士事務所。
その日、私は知ることになります。
民法には、お金を払わない契約にも、ちゃんと法律上の効力があること。
そして。
一度あげたものを取り返せるかどうかは、たった一つの事実で、大きく変わることがあるのです。
その事実とは。
――もう、渡したのか。
それとも。
――まだ、渡していないのか。
たった、それだけ。
でも。
この違いを知らなかった男は、最後に、自分の書いた一枚の紙を見て青ざめることになりました。
◇
「窯を、返せと言われたんです」
朝九時。
事務所を訪れた女性は、膝の上で両手を握りしめていました。
二十七歳。
名前は、藤野真紀さん。
町外れで、小さな陶芸工房を営んでいるそうです。
「窯?」
私は聞き返しました。
「陶芸の、焼き物を焼く窯ですか?」
「はい」
「それを返せって、誰が?」
「……叔父です」
また親族ですか。
民法の相談って、どうしてこう、身内から始まる事件が多いんでしょう。
真紀さんは、一枚の写真を差し出しました。
古い作業場。
その奥に、大きな電気窯。
傍らには、素焼きの湯呑みが並んでいます。
「これは?」
「叔父が昔使っていた窯です。もう陶芸をやめるから、私にくれるって」
「もらったんですか?」
「はい。半年前に」
「それなら、もう真紀さんのものですよね?」
私が言うと、真紀さんは目を伏せました。
「そう思っていたんです。でも……」
彼女は鞄から封筒を取り出しました。
中には、一枚の通知書。
差出人は、
――藤野源蔵。
真紀さんの叔父。
地元で陶器の卸売業を営む、六十二歳の男性です。
私は通知書を読みました。
――先般、貴殿に無償で貸与した電気窯について、返還を求める。
――当該設備は私の所有物であり、書面による贈与契約は存在しない。
――よって、今月末までに返還されたい。
さらに。
――返還なき場合、当方にて搬出する。
「……無償で貸与?」
私は顔を上げました。
「借りたんですか?」
「違います!」
真紀さんが、初めて強い声を出しました。
「叔父は、確かに『あげる』って言ったんです!」
その声が震えました。
「私がずっと陶芸を続けていたのを知っていて……。去年、母が亡くなって、工房を閉めようか悩んでいたときに」
彼女は写真を見つめました。
「『俺はもう使わん。真紀、お前が使え。窯も、ろくろも、全部やる』って」
「ろくろも?」
「はい。でも、ろくろは倉庫に置いたままで……」
なるほど。
窯と、ろくろ。
二つの贈り物です。
「窯は、いつ工房に運ばれたんですか?」
「半年前です。叔父が運送屋さんを手配してくれました」
「運送料は?」
「叔父が払いました」
「それから、ずっと使っている?」
「はい。叔父も何度か工房に来て、焼き上がった器を見てくれました」
私は頷きました。
これは。
明らかに贈与でしょう。
少なくとも、真紀さんの説明どおりなら。
「それなのに、どうして今になって返せって?」
真紀さんは唇を噛みました。
「私の作品が、県の工芸展に入選したんです」
「えっ!」
私は身を乗り出しました。
「おめでとうございます!」
「あ、ありがとうございます……」
少しだけ笑顔。
でも、すぐに消えました。
「そのあと、陶器店から注文が入って。まとまった数を作ることになったんです」
「すごいじゃないですか!」
「そうしたら、叔父が……」
真紀さんは、俯きました。
「その窯がなければ、お前は商売できないだろうって」
私は嫌な予感がしました。
「……はい」
「だから、売上げの三割を寄こせって」
「は?」
「断ったら、窯を返せって言われました」
……。
なるほど。
贈り物をしたときは、親切な叔父。
相手が成功したら、突然、所有者に逆戻り。
そして利益を要求。
「それ、ひどくないですか!」
私は思わず立ち上がりました。
相馬先輩が新聞を下ろします。
「こはる」
「はい!」
「座れ」
「でも!」
「まだ話が終わってねえ」
「……はい」
私は座りました。
真紀さんが小さな声で言いました。
「もう一つ、困っていることがあるんです」
「何でしょう」
「叔父が、来週、運送屋さんを連れて窯を取りに来るって……」
彼女は両手を握り直しました。
「今、窯の中には、注文を受けた器が入っているんです」
「……え?」
「来週、焼き上げる予定で」
私は絶句しました。
窯がなくなれば。
注文は作れない。
納期にも間に合わない。
せっかく軌道に乗り始めた小さな工房が、止まってしまう。
「所長」
私は振り向きました。
「これは、すぐ何とかしないと!」
片桐所長は、真紀さんの通知書を見つめていました。
そして、静かに聞きました。
「藤野さん」
「はい」
「窯をもらったとき、契約書は作りましたか」
「……いいえ」
「贈与すると書いた手紙は?」
「ありません」
「では、口約束ですね」
「はい……」
真紀さんの顔が曇ります。
私は慌てて言いました。
「でも、大丈夫です!」
そうです。
民法。
贈与契約。
これは、現代の行政書士試験でも基本中の基本。
「贈与は、あげる側と、もらう側の意思が合致すれば成立するんです!」
真紀さんが顔を上げました。
「口約束でも?」
「はい!」
私は勢いよく続けました。
「民法五百四十九条です! しかも、もう窯を受け取っているなら、履行が終わった部分については解除できません!」
よし。
完璧。
現代の民法知識が、見事に役立ちました。
……と思った瞬間。
「こはる」
相馬先輩の低い声。
「はい?」
「今、何て言った?」
「解除できません!」
「……解除?」
「はい!」
先輩は、机の上の六法を私に向けました。
「五百五十条。読め」
「え?」
私は六法を開きました。
民法第五百五十条。
そこには。
――書面によらない贈与は、各当事者が撤回することができる。
……。
撤回。
私は固まりました。
「あれ?」
「どうした」
「解除、じゃない……?」
「何を寝ぼけてる」
しまった。
またです。
また、未来の民法を持ち込んでしまいました。
令和の民法五百五十条は、『解除』。
でも。
昭和六十三年の民法五百五十条は、『撤回』。
意味の近い言葉でも、条文の表現が違う。
「……先輩」
「何だ」
「民法って、昭和と令和で、言葉まで変わるんですね」
「令和って何だ」
「い、いえ! 独り言です!」
危ない。
未来人であることがバレます。
相馬先輩は怪訝な顔をしましたが、それ以上追及しませんでした。
「いいか、こはる」
「はい」
「口約束の贈与でも、契約は成立する」
「はい」
「だが、書面によらない贈与には、撤回できるという特殊な規定がある」
「はい」
「そして、例外がある」
私は五百五十条の続きを読みました。
――ただし、履行の終わった部分については、この限りでない。
「……あっ」
「気づいたか」
「窯は、もう渡されています!」
「そうだ」
「でも、ろくろは?」
相馬先輩は笑いました。
「まだ渡されてねえんだろ」
私は真紀さんを見ました。
「はい。叔父の倉庫にあります」
なるほど。
二つとも口約束。
二つとも、贈与契約自体は成立し得る。
でも。
窯は引き渡し済み。
ろくろは未引渡し。
この二つは、同じ扱いにはならない。
「……所長」
私は呟きました。
「今回、そこが急所ですか?」
片桐所長は小さく頷きました。
「まず、窯の引渡しを証明する」
「はい」
「それができれば、相手の主張は崩れる」
私は通知書を見つめました。
叔父は、
――書面がないから返せ。
と言っている。
でも。
書面がないことだけを理由に、既に履行が終わった贈与まで自由に撤回できるわけではない。
そうです。
法律は、そんなに単純ではありません。
◇
「タダでやったものに、権利なんかあるか!」
翌日。
私たちは藤野源蔵の経営する陶器卸店を訪れていました。
ただし。
目的は、交渉ではありません。
片桐所長の指示で、事実関係を確認するためです。
店の奥には、大きな棚。
湯呑み。
皿。
花瓶。
そして、年季の入った帳簿。
その前で、藤野源蔵は腕を組んでいました。
「行政書士?」
源蔵は、私たちの名刺を見て鼻で笑いました。
「弁護士じゃねえのか」
「そうです」
相馬先輩が答えます。
「贈与に関する事実関係を確認したいのですが」
「贈与?」
源蔵は鼻を鳴らしました。
「そんなもの、してねえよ」
「真紀さんには、窯をあげるとおっしゃったそうですが」
「昔の話だ」
「では、あげるという意思表示はされた?」
「……まあ、言ったかもしれんな」
私は心の中で叫びました。
言ったんですね!
認めましたね!
でも、相馬先輩は表情を変えません。
「真紀さんが、それを受け取ると答えたことは?」
「あいつは喜んでたよ。何度も礼を言ってた」
「そうですか」
先輩は手帳に記録しました。
「窯は、どなたが運ばせたんですか?」
「俺だ」
「運送業者は?」
「駅南の丸山運送」
「運送料は?」
「俺が払った」
「窯は、今も真紀さんの工房にありますね」
「ああ。だから返せと言ってるんだ」
相馬先輩は頷きました。
「事情は分かりました」
ここで。
源蔵が、机を叩きました。
「いいか!」
大声。
「タダでもらったものなんて、元の持ち主が返せと言えば返すもんだ!」
私は思わず口を開きました。
「でも、民法では――」
「嬢ちゃん」
源蔵は私を見下ろしました。
「世の中はな、教科書どおりにはいかねえんだよ」
……。
出ました。
法律を知らない人ほど、法律を教科書扱いする現象。
「俺は窯を買うのに、昔、百万円以上払ったんだ」
「はい」
「それをタダで使わせてやった」
「はい」
「だったら俺のものだろうが!」
相馬先輩が、静かに聞きました。
「貸したんですか?」
「ああ?」
「それとも、あげたんですか?」
「……同じようなもんだろ」
「違います」
先輩の声が、少しだけ低くなりました。
「貸すのと、あげるのは違います」
「何だと?」
「貸すなら、返すことが前提です」
「……」
「あげるなら、財産を相手に移すことが前提です」
源蔵は、不機嫌そうに鼻を鳴らしました。
「だから契約書なんかないんだよ!」
「それは承知しています」
「書面がなけりゃ、俺が取り消せるんだろ!」
私は顔を上げました。
……あ。
この叔父。
まったく法律を知らないわけではない。
どうやら、誰かから中途半端な知識を聞いているようです。
「口約束は取り消せる。そう聞いたぞ」
源蔵は得意げに笑いました。
「だから返せ!」
なるほど。
間違った知識ほど、厄介な武器はありません。
「相馬先輩……」
私が小声で言うと、先輩は手で制しました。
「藤野さん」
「何だ」
「事情は確認できました」
「じゃあ返せと伝えろ!」
「私どもは、真紀さんの代理人として返還交渉をする立場にはありません」
「だったら何しに来た!」
「事実関係を確認しに来ました」
相馬先輩は手帳を閉じました。
「このあと、必要な書類を作成します」
源蔵は笑いました。
「書類?」
「ああ」
「そんな紙切れで、俺から窯を奪えると思ってるのか!」
相馬先輩は、少しだけ笑いました。
「どうでしょうね」
そして、店を出ました。
私はたまらず聞きました。
「先輩!」
「何だ」
「あれで終わりですか!」
「終わりだ」
「でも、あの人!」
「よく喋ってくれたな」
「……え?」
相馬先輩は手帳を軽く叩きました。
「自分であげると言った」
「はい」
「真紀さんが喜んで受け取った」
「はい」
「自分で運送屋を手配した」
「はい」
「運送料まで払った」
「……はい!」
「これ以上、何を喋らせる必要がある」
私は目を丸くしました。
なるほど。
先輩は、相手を言い負かそうとしていたのではありません。
贈与の成立と履行。
その事実を確認していたのです。
「こはる」
「はい」
「世の中、声がでかい奴じゃなくて、書面にハンコを押させた奴が勝つんだよ」
「またそれですか!」
「今回は相手に、受け渡しの記録まで残ってるはずだ」
「……記録?」
先輩が笑いました。
「運送屋だよ」
あ。
私は思わず足を止めました。
運送屋。
荷物を運べば、伝票が残る。
受取人の署名も、あるかもしれない。
「先輩!」
「何だ」
「それ、証拠になるじゃないですか!」
「だから調べるんだよ」
なるほど。
贈与契約書がなくても。
贈与の存在を裏づける資料は、ほかにもある。
私は思いました。
これは、面白くなってきました。
◇
その日の午後。
片桐行政書士事務所には、三つの資料が揃いました。
一つ目。
丸山運送の配送伝票の写し。
――品名 電気窯一基。
――発送人 藤野源蔵。
――届け先 藤野真紀。
――昭和六十三年三月十五日搬入。
受領欄には、真紀さんの署名。
二つ目。
工房の写真。
窯を搬入した日の記念写真です。
真紀さん。
運送屋の人。
そして。
腕を組んで笑う、源蔵本人。
三つ目。
一枚のはがき。
これが、決定的でした。
「……所長!」
私は思わず声を上げました。
「これ!」
片桐所長が目を上げます。
「何だ」
「叔父さんからのはがきです!」
そこには、達筆な文字でこう書かれていました。
――真紀へ。
――古い窯だが、お前にやった以上、大事に使え。
――これからは、お前自身の作品を焼くために役立ててくれ。
――源蔵。
私は震えました。
「……書いてある!」
相馬先輩も覗き込みます。
「ほう」
「お前にやった以上、って!」
「ああ」
「しかも、これ、本人の筆跡ですよね!」
「そうらしいな」
私ははがきを持ち上げました。
「これなら、贈与した証拠になります!」
片桐所長は頷きました。
「そうだ」
そして。
少し間を置いてから言いました。
「ただし、注意しろ」
「え?」
「そのはがき自体が、民法五百五十条にいう『書面』に当たるかは、文面や作成事情も踏まえて検討する必要がある」
「……あ」
「今回は、そこだけに頼る必要はない」
所長は配送伝票を指差しました。
「窯は既に引き渡されている」
「はい」
「だから、仮に書面によらない贈与だったとしても、履行済みの部分は撤回できない」
私は頷きました。
そうか。
ここが強い。
はがきが法律上の贈与の書面に当たるかどうかを、無理に断定しなくてもいい。
窯は現実に引き渡されている。
しかも。
本人が運ばせている。
受領記録もある。
はがきもある。
贈与だったことも、履行が終わっていることも、複数の証拠が支えているのです。
「でも、所長」
「何だ」
「ろくろの方はどうなりますか?」
所長は静かに答えました。
「まだ引き渡されていないんだろう」
「はい」
「書面によらない贈与で、履行も終わっていないなら、撤回できる」
私は少し肩を落としました。
「……じゃあ、ろくろは無理なんですね」
「直ちに決めつけるな。どんな合意や書面があったかは調べる必要がある」
「はい」
「だが、窯とろくろを同じ理屈で請求するな」
なるほど。
相手が悪人だからといって。
こちらの言い分が、全部正しくなるわけではない。
守れるもの。
守れないかもしれないもの。
それを分ける。
法律は、味方だからといって、何でも認めてくれるわけではありません。
「……分かりました」
私は六法を閉じかけました。
そのとき。
相馬先輩が、別の紙を差し出しました。
「こはる。もう一つ見てみろ」
「何ですか?」
それは、真紀さんが持参した古いメモでした。
源蔵の言葉を、彼女が書き留めたものです。
――窯とろくろは真紀に譲る。
――その代わり、毎年、母親の命日には墓の掃除をしてくれ。
……。
私は首をかしげました。
「その代わり?」
「そうだ」
「これ、もしかして……」
相馬先輩がにやりとしました。
「気づいたか?」
私は息を吸いました。
「負担付贈与!」
「そういうことだ」
負担付贈与。
単に財産をあげるだけではなく。
もらう側にも、一定の義務を負わせる贈与です。
「でも先輩、真紀さんは墓掃除をしているんですか?」
「ああ。確認した」
「毎年?」
「去年も今年も、墓地の管理者に確認してもらってる」
私はメモを見つめました。
叔父は。
ただ親切で窯をあげたというだけではない。
亡くなった妹の墓を大事にしてほしい。
そんな気持ちも、あったのかもしれません。
もっとも、その約束が法的な負担として合意されたのかは、慎重に確かめる必要があります。
でも。
真紀さんが実際に墓を掃除してきたことは、事実でした。
「所長」
「何だ」
「負担付贈与って、負担を果たさなかったら、解除が問題になるんですよね」
「そうだ」
「でも真紀さんは、約束を守っています」
「うん」
「叔父さんが売上げの三割を要求できるという話でもありません」
「そのとおりだ」
片桐所長が、私を見ました。
「昭和五十三年の最高裁判決を調べろ」
「え?」
「負担付贈与についての判例だ」
相馬先輩が続けました。
「昭和五十三年二月十七日。負担が履行されない場合の解除について判断した最高裁判決だ」
私は慌てて判例集を開きました。
負担付贈与。
受贈者が負担を履行しない場合。
一定の要件のもと、贈与者による解除が認められる。
「なるほど……!」
私は顔を上げました。
「でも、今回の真紀さんは、負担を果たしている!」
「ああ」
「しかも、窯はもう受け取っている!」
「そうだ」
「だったら叔父さんは、勝手に売上げの三割なんて条件を後から足せません!」
片桐所長が頷きました。
「そこまで整理できればいい」
私は鉛筆を握りました。
贈与。
書面によらない贈与の撤回。
履行の完了。
負担付贈与。
負担の不履行による解除。
全部、つながってきました。
「こはる」
相馬先輩が言いました。
「内容証明の原案、書いてみろ」
「はい!」
「ただし」
「はい」
「真紀さんの言い分を全部書けばいいってもんじゃねえぞ」
「……はい」
「裁判になったとき、説明できる事実だけを積み上げろ」
私は大きく頷きました。
今度こそ。
昭和の民法で、戦います。
◇
三時間後。
机の上には、内容証明郵便の原案がありました。
差出人。
藤野真紀。
宛先。
藤野源蔵。
私は、一行ずつ読み上げました。
「第一。本件電気窯につき、貴殿は通知人に対し、無償で譲渡する旨の意思を表示し、通知人はこれを承諾した」
相馬先輩が頷きます。
「続けろ」
「第二。民法第五百四十九条により、右当事者間には贈与契約が成立している」
「うん」
「第三。貴殿は昭和六十三年三月十五日、丸山運送を通じ、本件電気窯を通知人の工房に搬入し、通知人はこれを受領した」
「証拠は?」
「配送伝票、搬入写真、受領記録です」
「よし」
私は続けました。
「第四。本件贈与について、仮に書面によらない贈与であるとしても、本件電気窯の引渡しは既に完了している」
「うん」
「第五。したがって、民法第五百五十条ただし書により、右履行済みの部分について、書面によらないことを理由とする撤回は認められない」
私は一度、息を吸いました。
「第六。貴殿が通知人に送付した返還要求書には、本件電気窯が貸与物である旨の記載がある。しかし、貴殿が贈与を認める趣旨で作成したはがきその他の資料は、右記載と整合しない」
相馬先輩が、わずかに笑いました。
「いいぞ」
私は嬉しくなりました。
さらに続けます。
「第七。本件贈与に関連し、通知人が亡母の墓所を清掃する旨の約束があったが、通知人は現にこれを履行している」
「うん」
「第八。貴殿が新たに求める売上金の三割の支払について、通知人がこれを承諾した事実はない」
最後。
「よって、通知人は、本件電気窯の返還義務を負うものではなく、貴殿による一方的な搬出には同意しない。今後、返還を求める法的根拠があるとお考えの場合には、その内容を書面により明らかにされたい」
私は読み終わりました。
「……どうでしょう!」
片桐所長が、原案を受け取ります。
しばらく沈黙。
そして。
「悪くない」
「本当ですか!」
「ただし」
赤鉛筆。
来ました。
「ここ」
「はい」
「『既に履行が終わったから、いかなる理由でも解除できない』」
「……あ」
私は、自分で書き足していた別の一文を見ました。
所長は首を振りました。
「広すぎる」
「はい……」
「第五百五十条ただし書は、書面によらない贈与を撤回する権利に関する規定だ」
「はい」
「負担の不履行など、別の解除原因まで、すべて消してしまう規定ではない」
私は頷きました。
そうです。
いったん引き渡したら、絶対に何があっても取り返せない。
そんな単純なルールではない。
今回、重要なのは。
書面がないという理由だけでは、履行済みの窯を撤回によって取り戻せないこと。
そして。
真紀さんが約束した負担を履行しており、源蔵の後出しの要求にも応じていないこと。
「……修正します!」
「うん」
所長は続けました。
「それから、ろくろの件はどうする」
「……通知書には、窯の返還要求に対する回答を中心に書きます」
「そうだ」
「ろくろについては、書面や履行状況の確認が必要ですから、窯と同じようには断定しません」
所長が頷きました。
「よし」
相馬先輩は腕を組みました。
「こはる」
「はい」
「悪党を負かしたいからって、法律を大きく書くな」
「……はい」
「一行でも嘘があれば、ほかの百行まで疑われる」
私は原案を見つめました。
確かに。
内容証明郵便は、魔法ではありません。
送っただけで相手の財産を差し押さえられるわけでもない。
こちらの言い分が、全部真実になるわけでもない。
でも。
事実。
証拠。
条文。
判例。
それらを正確に積み重ねれば。
相手が、
「口約束だから!」
「タダだから!」
と叫んでも、逃げられない論点が見えてきます。
「所長」
「何だ」
「これ、相手は嫌でしょうね」
「そうだろうな」
「贈与じゃないって言っても、はがきがある」
「うん」
「引き渡してないって言っても、運送伝票がある」
「そうだ」
「負担を果たしてないって言っても、墓掃除の記録がある」
「うん」
「三割払えって言っても、そんな約束はない」
片桐所長は、静かに言いました。
「相手が説明できないところまで、こちらが無理に責め立てる必要はない」
「……はい」
「事実を並べればいい」
私は、完成した原案を見ました。
なるほど。
これが、書類の力。
感情的に怒鳴るよりも。
淡々と並んだ事実の方が、よほど重い。
そして。
真紀さんが書面の内容を確認し、署名押印しました。
差出人は、真紀さん本人。
私たちは、彼女の意思に基づいて書面作成を支援したのです。
内容証明郵便は、発送されました。
◇
三日後。
藤野源蔵の店。
その机の上には、郵便局から届いた封筒がありました。
「……何だ、これは」
源蔵は封を切りました。
そして読み始めます。
最初は、鼻で笑っていました。
「贈与契約だと?」
次に。
「口約束なんだから撤回できるはずだろ」
しかし。
五百五十条ただし書。
――履行の終わった部分については、この限りでない。
その一文で、手が止まりました。
「……ん?」
源蔵は、もう一度読みました。
履行の終わった部分。
つまり。
渡し終えたもの。
「……何だと?」
さらに。
搬入日。
運送会社。
受領記録。
写真。
そして、自分が書いたはがき。
――お前にやった以上、大事に使え。
源蔵の顔から、少しずつ血の気が引いていきました。
「……まずい」
その日の午後。
源蔵は、付き合いのある弁護士の事務所にいました。
「先生、この窯、取り返せるんですよね?」
弁護士は、資料を一枚ずつ確認しました。
「藤野さん」
「はい」
「このはがき、あなたが書いたんですか」
「……はい」
「窯も、あなたが運送屋を手配して届けた?」
「はい」
「相手は、既に半年以上使用している?」
「……はい」
弁護士は、静かに言いました。
「贈与が成立し、引渡しも終わっていると判断される可能性が高いですね」
「でも!」
源蔵は机に身を乗り出しました。
「契約書なんかないんですよ!」
「書面によらない贈与には、確かに撤回の規定があります」
「でしょう!」
「しかし、履行の終わった部分には、その規定による撤回はできません」
「……」
「今回の窯は、もう引き渡されています」
源蔵は黙りました。
弁護士が続けます。
「それに、あなた自身が、贈与を認める趣旨のはがきを出していますね」
「……」
「貸しただけだったと主張するなら、その説明も必要になります」
「……」
「墓掃除という負担についても、相手は実際に履行しているようです」
源蔵の額に、汗が浮かびました。
「じゃあ、売上げの三割は……」
「最初からそのような約束があったのですか?」
「……ありません」
「後から一方的に要求しても、相手に支払義務が生じるわけではありません」
沈黙。
長い沈黙。
そして。
「先生……」
源蔵が、小さな声で言いました。
「俺、来週、運送屋に取りに行かせるつもりだったんですが……」
弁護士の表情が変わりました。
「相手の同意なしに、勝手に搬出するつもりですか?」
「……はい」
「それはやめてください」
「え?」
「所有権をめぐって争いがあるからといって、自分の判断で相手の工房から物を持ち出してよいことにはなりません」
「……」
「仮に搬出を強行して、工房の設備や製品を傷つけたり、営業に損害を与えたりすれば、損害賠償の問題にもなります」
源蔵は、椅子の背にもたれました。
そして。
絞り出すように言いました。
「……じゃあ、俺はどうすれば」
弁護士は答えました。
「事実関係を踏まえて、返還要求を撤回するかどうか、慎重に判断してください」
源蔵は、机の上の内容証明を見つめました。
たかが紙一枚。
そう思っていました。
でも。
そこには、自分が軽い気持ちで口にした言葉と、自分で残した証拠が並んでいたのです。
◇
翌朝。
片桐行政書士事務所に、一通の速達が届きました。
差出人。
藤野源蔵。
私は封筒を開きました。
中には、短い文書。
――本件電気窯に関する返還要求を撤回します。
――今後、同設備の返還を求めず、無断で搬出することもいたしません。
――また、売上金の三割の支払要求についても撤回します。
署名。
藤野源蔵。
押印。
私は目を見開きました。
「……先輩!」
「何だ」
「来ました!」
「何が」
「叔父さん、返還要求を撤回しました!」
相馬先輩は、書面を受け取りました。
そして、にやりと笑いました。
「ほう」
「しかも、三割要求も撤回です!」
「よかったじゃねえか」
「やりましたね!」
私は思わず拳を握りました。
そのとき。
片桐所長が、静かに言いました。
「真紀さんに知らせよう」
「はい!」
私は電話を取りました。
数分後。
受話器の向こうから、かすれた声。
『……本当ですか?』
「はい!」
『窯を、返さなくていいんですか?』
「叔父さんから、返還要求を撤回するという書面が届きました」
『……そうですか』
沈黙。
そして。
『よかった……』
その声は、泣いていました。
『母が亡くなってから、ずっと、あの窯だけが頼りで……』
私は受話器を握りしめました。
『叔父も、最初は応援してくれていたんです』
「……はい」
『あのとき、本当に嬉しかったんです』
少しだけ、声が震えました。
『だから、叔父のことを嫌いになりたくなかった』
私は何も言えませんでした。
ただ。
その気持ちは、分かる気がしました。
贈り物。
それは、物だけではありません。
誰かが自分を応援してくれた。
大事に思ってくれた。
そういう気持ちも、一緒に受け取るものです。
だからこそ。
後から、
「返せ」
と言われると。
物を失う以上に、傷つくことがあるのです。
◇
数日後。
真紀さんが、事務所を訪れました。
両手には、大きな紙袋。
「これ、よかったら」
「……何ですか?」
「湯呑みです」
袋の中には、三つの湯呑みがありました。
淡い青。
薄い緑。
そして、白。
どれも、少しずつ形が違います。
「私が焼いたものです」
「えっ!」
私は思わず手に取りました。
「きれい……!」
指先に、ざらりとした土の感触。
でも、飲み口は滑らかで、優しい。
「真紀さん、これ、売り物じゃないんですか?」
「そうですけど」
「いいんですか?」
真紀さんは、少し笑いました。
「お礼です。これ、差し上げます」
私は顔を上げました。
「……差し上げる?」
「はい」
「私たちに?」
「はい」
……。
贈与。
私は思わず固まりました。
「先輩!」
「何だ」
「今、贈与契約の申込みがありました!」
「は?」
「真紀さんが、湯呑みを無償で差し上げるって!」
「……ああ」
「私が『いただきます』って言えば、受諾ですよね!」
「そうだな」
私は真紀さんを見ました。
「いただきます!」
「はい、どうぞ」
湯呑みを受け取ります。
そして。
「……成立!」
相馬先輩が、呆れた顔をしました。
「何がだ」
「贈与契約です!」
「分かってるよ」
「しかも、もう湯呑みを受け取りました!」
「そうだな」
「履行完了です!」
「だから何だ!」
私は湯呑みを大切に抱えました。
「もう、書面がないからという理由では撤回できません!」
真紀さんが、きょとんとしました。
そして。
ふふっ、と笑いました。
「そうですね」
相馬先輩は額を押さえました。
「こはる……」
「はい!」
「贈り物をもらって、いちいち民法五百五十条を思い浮かべる奴があるか」
「ここにいます!」
「胸を張るな!」
私は笑いました。
でも。
本当に、少し嬉しかったのです。
贈与契約。
試験では、無償契約。
諾成契約。
そして、書面によらない贈与の撤回。
そんな硬い言葉が並びます。
でも、目の前にある湯呑みは。
誰かの感謝の気持ちが、形になったものです。
法律は、その気持ちを無理に数値に換算したりしません。
ただ。
人と人との間で成立した約束を、一定のルールで守っている。
それだけです。
「ところで」
私は、ふと思いました。
「真紀さん」
「はい?」
「ろくろの方は、どうなりました?」
真紀さんは、少し困ったように笑いました。
「叔父が、あれはもう渡せないって」
「……そうですか」
「でも、いいんです」
「え?」
「窯があれば、仕事は続けられますから」
私は頷きました。
ろくろについては、別の問題が残っています。
口約束の贈与。
まだ引き渡されていない財産。
書面によらない贈与の撤回が認められる可能性。
そして。
負担付贈与だった場合、その負担と贈与の関係をどう考えるか。
簡単には割り切れない問題です。
でも。
真紀さんは、自分で決めました。
「新しいろくろは、自分で買います」
そう言って笑いました。
「今度は、自分で稼いだお金で」
私は、少し胸が熱くなりました。
法律が守ったのは、古い窯だけではありません。
その窯を使って、これからも仕事を続けていける可能性。
自分の力で、前に進むための足場だったのです。
◇
夕方。
片桐行政書士事務所。
私は、真紀さんからもらった湯呑みにお茶を注いでいました。
ほのかに立ち上る湯気。
手のひらに伝わる温かさ。
「……贈与って、不思議ですね」
私は呟きました。
相馬先輩が新聞から顔を上げます。
「何がだ」
「お金を払ってないのに、契約になるんですよ」
「当たり前だろ」
「でも、タダなんですよ?」
「だから贈与だろ」
「そうなんですけど!」
私は湯呑みを見つめました。
「タダだから、何でも取り返せるってわけじゃないんですね」
「そうだな」
「口約束でも契約は成立する」
「ああ」
「でも、書面によらない贈与なら、撤回できる場合がある」
「そうだ」
「ただし、履行が終わった部分については、その撤回はできない」
相馬先輩が頷きました。
「そこだ」
私は続けました。
「しかも、負担付贈与なら、また別の問題が出てくる」
「ああ」
「受贈者が負担を履行しなければ、解除が問題になることもある」
「そうだ」
「でも、勝手に後から条件を増やしていいわけじゃない」
「そういうことだ」
私は、大きく息を吐きました。
「贈与って、思ったより奥が深いですね」
「そりゃそうだ」
相馬先輩が言いました。
「タダって言葉ほど、人間の本性が出るもんはねえからな」
「……え?」
「もらう側は、タダだから文句を言うなと思われる」
「はい」
「やる側は、タダでやったんだから俺の言うことを聞けと思い始める」
「……」
「でもな」
先輩は、湯呑みを持ち上げました。
「一度成立した約束は、相手の人生に関わることがある」
私は、真紀さんの顔を思い出しました。
亡くなった母親。
閉めようか悩んでいた工房。
叔父から贈られた窯。
そして。
ようやく届いた、陶器店からの注文。
「……そうですね」
相馬先輩はお茶を飲みました。
「だから法律があるんだよ」
私は頷きました。
贈り物だから、軽い約束。
お金を払っていないから、守られなくても仕方がない。
そうではない。
無償の約束でも。
成立する契約があり。
守られる財産がある。
ただし。
贈与には贈与特有のルールがあり、履行前と履行後で結論が変わることもある。
民法は、その違いをきちんと見ているのです。
「こはる」
片桐所長が、帳簿を閉じました。
「はい」
「今日、何を覚えた」
私は少し考えました。
そして、答えました。
「タダでも、契約は契約です」
「うん」
「口約束でも、贈与は成立します」
「そうだ」
「でも、書面によらない贈与は、履行が終わっているかどうかが大きな分かれ道になります」
所長が頷きました。
「それでいい」
私はノートを開きました。
そして、一行だけ書きました。
――贈与はタダでも契約。口約束でも成立し、渡し終えた部分は簡単には取り返せない。
よし。
今日の教訓。
これなら、忘れません。
そのとき。
相馬先輩が、ふと思い出したように言いました。
「そういや、こはる」
「はい?」
「贈与には、まだ種類があるぞ」
「……え?」
「定期贈与」
「はい」
「死因贈与」
「はい」
「それから負担付贈与も、まだ細かい論点が残ってる」
私は鉛筆を止めました。
「……先輩」
「何だ」
「贈与って、ただ『あげる』『もらう』だけの話じゃないんですね」
「今さら気づいたのか」
「だって!」
私は指を折りました。
「毎月お金をあげるって約束も、贈与!」
「ああ」
「死んだら土地をあげるって約束も、贈与!」
「そうだ」
「でも、遺言で財産をあげる遺贈とは、成立の仕方が違う!」
「うん」
「しかも、昭和の条文と現代の条文で、言葉も変わってる!」
相馬先輩が眉をひそめました。
「また妙なこと言ってるな」
「あっ」
しまった。
未来の話は禁句でした。
私は慌てて湯呑みを持ち上げました。
「と、とにかく!」
「何だ」
「贈与は、思ったより試験に出そうですね!」
「そりゃ出るだろ」
「勉強しなきゃ!」
「今からやるのか?」
「はい!」
私は六法を開きました。
民法五百四十九条。
五百五十条。
五百五十一条。
五百五十二条。
五百五十三条。
五百五十四条。
……多い!
たった六条。
でも。
その中には、いくつもの人間ドラマが詰まっている。
贈り物をした人の気持ち。
受け取った人の期待。
約束した負担。
死亡によって終わる約束。
死亡によって初めて効力が生じる約束。
そして。
渡したものと、まだ渡していないもの。
「……先輩」
「今度は何だ」
「民法、また好きになりました」
「毎回言ってるな」
「だって面白いんです!」
相馬先輩は、真紀さんの作った湯呑みを見つめました。
「まあな」
そして、小さく笑いました。
「少なくとも、もらった湯呑みを取り返されずに済むのはありがてえ」
「そうですよ!」
私は勢いよく言いました。
「この湯呑み、もう私のものですから!」
「分かってるよ」
「もし返せと言われても、履行が終わっています!」
「はいはい」
「書面によらない贈与の撤回は――」
「こはる!」
「はい!」
「お茶が冷めるぞ!」
「……あ」
私は湯呑みを見ました。
せっかくの熱いお茶。
もう、少しぬるくなっています。
……なるほど。
法律を勉強するのも大事ですが。
もらった贈り物を、ちゃんと楽しむことも大切ですね。
私は湯呑みに口をつけました。
温かい。
真紀さんが、土をこねて、形を作り、窯で焼いたもの。
叔父から贈られた、あの窯で。
人から人へ。
物が渡る。
気持ちが渡る。
そして、ときには。
人生を変えるきっかけまで、渡っていく。
贈与とは。
単なる『無料の契約』ではないのかもしれません。
私は、もう一度ノートの一行を見ました。
――贈与はタダでも契約。口約束でも成立し、渡し終えた部分は簡単には取り返せない。
昭和六十三年。
小さな行政書士事務所。
今日も、ひとつの暮らしが守られました。
その武器になったのは。
高価な契約書でも、派手な裁判でもなく。
一枚の配送伝票。
一枚のはがき。
そして。
「履行の終わった部分については、この限りでない」
民法五百五十条の、たった一つのただし書だったのです。
以下に私の作品へのリンク貼ってます。是非、手に取って頂ければと思います。また、ついでに評価ブックマーク頂ければ幸いです。




