[民法・契約解除]法理編 こはるノート
約束を破られたからといって、いつでも契約を解除できるわけではありません。
けれど。
約束を守ってもらえないのに、いつまでも契約に縛られる必要もありません。
たとえば。
結婚式の花。
十月九日の午前九時までに届けるという約束。
それを、業者が守らなかった。
翌日になって、
「今から届けます」
と言われても。
結婚式は、もう終わっています。
では。
そんな場合、もう一度、
「一週間以内に届けてください」
と催告しなければならないのでしょうか。
答えは、原則として必要ありません。
なぜなら。
その約束は、特定の日時に履行されなければ意味がないからです。
ただし。
昭和六十三年の民法と、現代の改正民法では。
解除できる条件も、条文の置き方も違います。
そして。
その違いを知らないと。
行政書士試験の知識が、昭和の実務では思わぬ落とし穴になるのです。
昭和六十三年。
夕方の片桐行政書士事務所。
私は机に向かい、ノートを開いていました。
表紙には、大きくこう書いてあります。
――こはるノート・民法編。
「……先輩」
「何だ」
「私、契約解除を甘く見てました」
相馬先輩が新聞から顔を上げました。
「今さらか」
「だって、現代のテキストだと、五百四十一条と五百四十二条を覚えれば、かなり整理できるじゃないですか」
「何の話だ」
「催告解除と無催告解除です!」
「お前、また妙な言葉を使ってるな」
私は慌てて口を閉じました。
そうでした。
昭和六十三年。
民法大改正前。
今の五百四十二条は、定期行為の解除についての規定。
現代のように、無催告解除の事由が五つ並んでいるわけではありません。
「でも先輩」
「何だ」
「今回の結婚式の花の事件、教材にしたらすごく分かりやすいと思うんです」
「教材?」
「あ、いえ、事件の復習です!」
危ない。
また受験生の癖が出ました。
私は鉛筆を握りました。
「今日は、契約解除を完全に理解します!」
「昨日も似たようなことを言ってなかったか」
「昨日は現場編です。今日は法理編です!」
「何だ、その区別は」
「私の中で大事なんです!」
奥から、片桐所長が声をかけました。
「相馬」
「はい」
「付き合ってやれ」
「……所長まで」
よし。
今日も強制勉強会、開催です。
「まず、契約解除って何ですか?」
私はノートの一番上に書きました。
――契約解除。
契約によって生じた拘束を、解除権の行使によって解消する制度。
「難しいな」
相馬先輩が言いました。
「簡単に言え」
「約束が守られなかったとき、一定の条件で、その契約から離れることです」
「それなら分かる」
私は頷きました。
今回の事件を思い出します。
村瀬和子さん。
村瀬佳代さん。
二人で四十八万円を出し合い、結婚式の装花を注文した。
相手は、東海ブライダル装花。
社長の黒田源一。
契約では、十月九日午前九時までに、披露宴会場の装花一式を設置することになっていました。
ところが。
黒田社長は、名古屋の大口注文を優先。
村瀬さんたちの花は届かなかった。
そして。
結婚式が終わってから、こう言ったのです。
――明日届ければいいだろ。
「……思い出しても腹が立ちます」
「怒るのは後だ」
「はい」
私はノートに書きました。
契約を解除する目的。
履行されない契約から解放されること。
そして、解除に伴う原状回復によって、受け渡した財産の清算を図ること。
「ここ、大事ですね」
「何がだ」
「解除って、相手を罰する制度ではないんです」
相馬先輩が頷きました。
「そうだな」
「相手が約束を破ったから仕返しする、じゃない」
「うん」
「もう契約の目的を達成できないから、その契約に縛られ続けないようにする」
片桐所長が、静かに言いました。
「それが基本だ」
私は赤鉛筆を取りました。
――解除は、契約の拘束からの解放。
よし。
ここから始めます。
「次は、催告による解除です!」
私は大きく書きました。
――民法第五百四十一条。
「先輩、催告って何ですか?」
「約束どおりにやれと求めることだ」
「そうです!」
私は頷きました。
たとえば。
十月一日までに、店の机を納入する契約。
ところが、十月一日になっても机が届かない。
でも。
机は、十月三日に届いても使える。
そんな場合です。
「いきなり解除できるんですか?」
私が尋ねると、相馬先輩が首を振りました。
「原則として、まず履行を求める」
「そうですね」
私はノートに書きました。
――相当の期間を定めて履行を催告する。
そして。
その期間内に履行されなければ、解除する。
「ここで大事なのが、相当の期間です」
「そうだな」
「一分以内に机を持ってこい、なんて言っても、普通は無理です」
「当たり前だ」
「だから、履行するために合理的に必要な期間を考えるんですね」
たとえば。
机を近くの倉庫から運ぶだけなら、数日で足りるかもしれない。
特注品を製作するなら、もっと時間が必要なこともある。
相当の期間は、契約内容や履行の状況によって変わります。
「ただし、先輩」
「何だ」
「催告期間を少し短く書いてしまったら、解除は絶対に無効なんですか?」
相馬先輩が眉を上げました。
「いいところに気づいたな」
「褒めました?」
「まだだ」
「何でですか!」
片桐所長が答えました。
「催告自体は有効で、その後に客観的に相当な期間が経過しても履行がなかったなら、解除が認められる場合がある」
「なるほど!」
つまり。
催告書に書いた日数が短いからといって、常に全部やり直しになるとは限らない。
ただし、実務では最初から適切な期間を定め、到達日と経過日を証拠で確認することが大切です。
「そして、もう一つ」
私は書きました。
――催告しただけでは、原則として解除は完成しない。
「どういうことだ」
相馬先輩が聞きました。
「たとえば、『七日以内に机を納入してください』という催告だけをした場合です」
「うん」
「七日経過したからといって、その催告だけで必ず契約が解除されるわけではありません」
私は続けました。
「原則として、解除するという意思表示が必要なんです」
もっとも。
催告書に、
――期限内に履行しない場合には、本契約を解除する。
と明確に記載し、条件付きの解除意思表示を併せて行う方法もあります。
「でも、曖昧な文章だと争いになりますよね」
「そうだ」
相馬先輩が頷きました。
「催告なのか。解除なのか。はっきりさせろ」
私は赤線を引きました。
――催告と解除の意思表示は、別のもの。
なるほど。
書面は、言葉を一つ間違えるだけで、意味が変わるのです。
「さて、こはる」
相馬先輩が言いました。
「お前、さっきから現代の五百四十一条がどうとか言ってるな」
「はい」
「何が違うんだ?」
私は待ってましたとばかりに、ノートをめくりました。
――昭和六十三年と令和の違い。
「最大の違いの一つが、軽微な不履行です!」
「軽微?」
「ほんの小さな契約違反という意味です」
たとえば。
家具屋に、事務机十台を注文した。
十台とも期日どおりに届いた。
ところが、一台の目立たない部分に、ごく小さな傷があった。
家具屋は、すぐに補修すると申し出ている。
「こんな場合、机全部の契約を解除できると思いますか?」
「普通は難しいだろうな」
「そうなんです!」
私は頷きました。
現代の民法五百四十一条。
催告による解除には、重要なただし書があります。
――催告期間が経過した時点の不履行が、契約及び取引上の社会通念に照らして軽微であれば、解除できない。
「つまり、ほんの小さな違反を口実に、何でも契約を解除できるわけではないんです」
「当たり前に聞こえるな」
「ですよね」
私は赤鉛筆を取りました。
現代の五百四十一条。
原則として、相当期間を定めて催告し、それでも履行がなければ解除できる。
ただし、不履行が軽微なら解除できない。
「でも、昭和六十三年の五百四十一条には、このただし書がないんですよね」
「ねえな」
相馬先輩が頷きます。
「じゃあ、昭和なら、どんな小さな契約違反でも解除できたんですか?」
「そんなわけねえだろ」
「そうなんです!」
私は判例集を開きました。
昭和三十六年十一月二十一日。
最高裁判所の判決。
契約の主たる目的を達成するうえで重要でない付随的な義務については、その違反だけで解除できるとは限らない。
「つまり!」
私は言いました。
「昭和にも、些細な違反による解除を制限する考え方があったんです」
「そうだ」
「ただし、現代のように、五百四十一条のただし書で明文化されていたわけではない」
片桐所長が頷きました。
「条文にないことも、判例を調べなければならん」
私は鉛筆を止めました。
なるほど。
ここに、民法改正の意味があります。
それまで判例や学説で考えられてきたルールを、条文からも分かりやすくする。
法律を使う人が、予測しやすくなる。
「だから現代では、軽微な不履行という例外が書かれているんですね」
「そういうことだ」
私はノートに大きく丸をつけました。
――軽微な不履行では、催告解除できない。
そして。
今回の結婚式の花。
装花一式が届かなかった。
結婚式そのものが終わった。
契約の中心となる目的を失っている。
「これは、軽微なんて言えませんね」
「当たり前だ」
先輩が答えました。
「花瓶に小さな傷があったって話じゃねえんだからな」
確かに。
結婚式に花が届かない。
それは、契約の目的そのものに関わる不履行だったのです。
「次は、催告しなくても解除できる場合です!」
私はノートに書きました。
――無催告解除。
「今回の事件ですね」
「ああ」
相馬先輩が頷きました。
「ただし、昭和と現代を混ぜるなよ」
「もちろんです!」
私は六法を二冊、机に並べるつもりで説明を始めました。
実際に置いてあるのは、昭和六十三年の六法だけ。
現代の条文は、私の頭の中です。
未来から持ってきた知識。
便利です。
ただし。
口を滑らせると、また怒られます。
「まず、昭和の五百四十二条は定期行為です」
「そうだな」
「特定の日時までに履行しなければ契約目的を達成できない場合、履行されないままその時期が過ぎれば、催告なしで解除できます」
私は結婚式の花を思い出しました。
十月九日。
午前九時。
披露宴会場への搬入と設置。
これが契約の中心でした。
「先輩、もし業者が、翌日の午前九時に花を届けていたら?」
「遅えな」
「はい。もう結婚式は終わってます」
「そうだ」
「だから、もう一週間待つ意味がないんです」
私は頷きました。
催告というのは、相手にもう一度履行する機会を与える仕組み。
でも。
もう履行しても契約目的が達成できない場合にまで、催告を要求するのは合理的ではありません。
「つまり、無催告解除って、相手がひどいから特別に罰しているわけじゃないんですね」
「そうだな」
「待っても意味がない場合に、催告を省略できるんです」
私はノートに書きました。
――催告が不要なのは、履行の機会を与える意味がない、または乏しいから。
「ただし、現代では、定期行為以外にも無催告解除の事由が整理されているんです」
相馬先輩が首をかしげました。
「ほう?」
「五つあります!」
「また始まったな」
「大事なんです!」
私は一つずつ考えました。
まず。
債務の全部が履行不能になった場合。
「たとえば、売買契約の目的物である一点物の絵画が、引渡し前に焼失してしまった場合です」
「もう渡せねえな」
「はい」
修理も交換もできない。
そんな場合。
もう一度渡してくださいと催告しても意味がありません。
現代の民法五百四十二条一項一号です。
「ただし、昭和ではどうですか?」
私は先輩に尋ねました。
「履行不能による解除は、五百四十三条だ」
「そうです!」
しかも昭和の五百四十三条には、債務者の責めに帰することのできない事由による履行不能なら解除できないという、重要なただし書がありました。
ここは後で詳しく整理します。
次。
債務者が、債務全部の履行を明確に拒絶した場合。
「先輩、家具屋がこう言ったらどうですか?」
「何だ」
「注文した机は、一台も納入しません。今後も絶対に納入しません!」
「そりゃ履行拒絶だな」
「はい!」
そんな相手に、
「七日以内に届けてください」
と催告しても、通常は意味がありません。
ただし。
単に納期の相談をしているだけなのか。
履行を明確に拒んでいるのか。
そこは区別しなければなりません。
「だから『少し待ってください』と『絶対に渡しません』は違うんですね」
「そういうことだ」
三つ目。
一部が履行不能になったり、その履行を明確に拒絶されたりして、残りだけでは契約目的を達成できない場合。
私は少し考えました。
「たとえば、結婚式で使う二つ一組の特注装飾です」
「二つ一組?」
「はい。新郎と新婦の席を一体として飾るために作ったもので、片方だけでは演出の目的を果たせないとします」
そのうち一つが、引渡し前に壊れて修復不能になった。
残り一つだけでは、契約の目的を達成できない。
「そんな場合、全部の解除が問題になるんです」
相馬先輩が頷きました。
「残りだけもらっても、役に立たねえわけだな」
「そうです」
四つ目。
定期行為。
「これが村瀬さんの事件ですね!」
「ああ」
私は大きく丸をつけました。
結婚式の花。
当日に使うことが契約の目的。
その日を過ぎてしまえば、明日の履行では目的を達成できない。
現代では五百四十二条一項四号。
昭和六十三年では旧五百四十二条。
「番号は違っても、基本的な考え方は共通しているんですね」
「そうだな」
五つ目。
催告しても、契約目的を達成できるだけの履行がされる見込みがないことが明らかな場合。
「これは、少し難しいですね」
私は鉛筆を止めました。
たとえば。
店舗の開業に必要な特注設備を作る契約をした。
ところが業者の工場は閉鎖。
必要な設計資料も失われた。
代わりに製作する体制もなく、相当期間を与えても、目的にかなう設備を納入できる見込みがないことが明らかだった。
「そんな場合です」
「なるほどな」
「この五つ目は、先ほどの四つにぴったり当てはまらない場合を含めて、催告しても意味がない状況を考えるんです」
私は頷きました。
そして、もう一つ書き加えました。
――一部解除。
現代の五百四十二条二項。
債務の一部が履行不能だったり、一部の履行を明確に拒絶されたりした場合には、催告なしでその部分の契約を解除できることがあります。
「全部解除と、一部解除も分けるんですね」
「当たり前だろ」
相馬先輩が言いました。
「百個注文した商品のうち、一個だけ納入不能だからって、残り九十九個まで必ず解除できるわけじゃねえ」
「そうです!」
残りだけで契約目的を達成できるか。
その部分について契約関係を切り離せるか。
そして、全部を解除するための要件が満たされるか。
そこを考える。
「……先輩」
「何だ」
「無催告解除って、丸暗記するより、何で催告がいらないのか考えた方が覚えやすいですね」
「ようやく勉強らしくなってきたな」
私は笑いました。
そのとおりです。
全部履行不能。
全部履行拒絶。
一部不履行で目的達成不能。
定期行為。
催告しても目的達成の見込みなし。
そして、一部解除。
それぞれに共通するのは。
催告を要求する意味がない、または十分にないということだったのです。
「さて」
片桐所長が、静かに言いました。
「次は、旧法と新法の大きな違いだ」
「……帰責事由ですね」
私は背筋を伸ばしました。
ここ。
契約解除の中でも、重要な改正点です。
――債務者の責めに帰すべき事由。
「先輩、これって要するに、債務者側に責任を負わせられる事情があるか、ということですよね」
「そうだ」
私は頷きました。
旧民法の考え方では、契約解除に際して、債務者の帰責事由が重要な問題になりました。
特に、旧五百四十三条。
履行不能による解除。
ここには、債務者の責めに帰することのできない事由による履行不能なら解除できないという制限が、明文で存在していました。
また、旧五百四十一条や旧五百四十二条についても、伝統的な通説では、帰責事由が必要と考えられていました。
「つまり、昭和の契約解除では、誰に責任があるのかという問題が大切だったんです」
「そうだな」
相馬先輩が頷きました。
私は今回の事件を思い出します。
東海ブライダル装花。
黒田源一。
名古屋の大口注文を優先した。
村瀬さんの結婚式は後回し。
納期変更の承諾も得ていない。
「この事実なら、業者側の帰責事由を否定するのは難しいですね」
「そうだ」
「だから、旧法のもとでも解除を主張する根拠が強かった」
片桐所長が頷きました。
「そういうことだ」
では。
現代では、なぜルールが変わったのでしょう。
私はノートに、新しい見出しを書きました。
――令和の契約解除。
現代では、債務不履行による解除について、債務者の帰責事由は原則として必要ありません。
「え?」
相馬先輩が顔を上げました。
「責任がなくても解除できるのか?」
「はい。そこが大きな改正点なんです」
「妙な話だな」
「そう思いますよね」
私は少し考えてから、例を出しました。
「先輩、こんな場合はどうでしょう」
町工場が、特注機械を注文した。
ところが、納入業者の工場が、誰にも予測できない大規模災害で倒壊してしまった。
特注機械は完成せず、もう納入できない。
注文した町工場にも、災害について責任はない。
「そんな場合です」
「気の毒な話だな」
「はい」
業者が悪いとは限りません。
でも。
注文した町工場としては。
機械が手に入らない。
工場を動かせない。
別の業者に頼まなければならない。
「それなのに、最初の契約にずっと拘束されるのは困りますよね」
「そりゃそうだ」
「だから現代の解除制度では、債務者を罰するためではなく、履行を受けられない債権者を契約の拘束から解放することが重視されているんです」
相馬先輩が、少し考えました。
「なるほどな」
ただし。
ここには、大きな注意点があります。
「先輩。帰責事由がいらないからといって、債権者が自分で履行を妨害しても解除できるわけじゃないんです」
「そりゃそうだろ」
現代の民法五百四十三条。
債権者の責めに帰すべき事由によって債務不履行が生じた場合には、五百四十一条・五百四十二条による解除はできません。
たとえば。
買主が商品を納入する場所を用意すると約束した。
ところが、買主が勝手に倉庫を閉鎖し、売主が納入できないようにした。
それなのに。
「納入しなかったから解除する!」
とは、原則として言えないわけです。
「自分で邪魔しておいて、相手の不履行を理由に解除するのはおかしいですからね」
「当たり前だな」
私は頷きました。
そして、もう一つ。
「解除と損害賠償は、要件を分けて考える必要があります」
相馬先輩が顔を上げました。
「どういうことだ」
「現代では、債務者に帰責事由がなくても解除が認められる場合があります。でも、だからといって損害賠償まで当然に認められるわけではありません」
損害賠償については、民法四百十五条などに基づき、責任を免れる事由の有無や損害との因果関係などが問題になります。
「つまり」
私は言いました。
「解除できるかという問題と、損害賠償を請求できるかという問題は別なんです」
片桐所長が、短く言いました。
「重要だな」
「はい!」
私は大きく書きました。
――解除は契約からの解放。損害賠償は損害の填補。要件を混同しない。
この違い。
行政書士試験でも、間違えやすいところです。
「次は、解除権の行使です!」
私は新しいページを開きました。
――民法第五百四十条。
契約または法律の規定によって解除権を持つ者は、相手方に対する意思表示によって解除する。
「ここは昭和と現代で、基本的な仕組みは同じですね」
「そうだ」
「解除って、相手の同意が必要なんですか?」
「法律上の解除権があるなら、原則として必要ねえ」
「そうです!」
私は、黒田社長を思い出しました。
――契約解除には応じない。
あの人は、堂々とそう言いました。
「先輩、黒田社長って、解除を拒否すれば契約が続くと思ってたんですよね」
「そうだろうな」
「でも、法律上の解除権が成立していれば、相手の承諾がなくても、解除の意思表示で契約を解除できる」
ただし。
意思表示が、相手方に到達する必要があります。
だから。
内容証明郵便。
配達証明。
これらが重要になってくる。
「内容証明って、解除を自動的に有効にする魔法ではないんですよね」
「そうだ」
「書面の内容と発送の記録を残す手段であって、解除の要件がなければ意味がない」
相馬先輩が頷きました。
「法律上の根拠がねえのに、立派な紙を送ったって駄目だ」
そのとおりです。
そして。
民法五百四十条二項。
解除の意思表示は、撤回することができません。
「これも大事ですね」
「何がだ」
「相手に解除を通知した後で、気軽に『やっぱり解除しません』とは言えないんです」
もちろん、解除後に当事者が改めて合意して、契約関係を作り直すことなどは考えられます。
でも。
一方的に解除の意思表示を撤回することはできない。
「だから所長は、和子さんと佳代さんに、解除の意思を丁寧に確認したんですね」
「そうだ」
私は頷きました。
内容証明は、相手を怖がらせるための脅迫状ではありません。
依頼人の法律上の意思を、正確に届けるための書面なのです。
「さて、こはる」
相馬先輩が言いました。
「今回、お前が最初に間違えそうになったところは?」
「……解除権の不可分性です」
「そうだ」
私は少し恥ずかしくなりました。
内容証明の原案。
最初、差出人を村瀬和子さん一人にしてしまったのです。
でも。
契約書には、もう一人。
村瀬佳代さんの名前がありました。
二人とも共同発注者。
そこで登場したのが。
民法第五百四十四条。
解除権の不可分性。
「先輩。これ、どうして全員で解除しなければいけないんですか?」
「お前ならどう思う」
私は少し考えました。
例えば。
AとBが共同で機械を購入した。
相手方はC。
ところが、Aだけが契約解除を主張。
Bは契約を続けたいと言っている。
「……困りますね」
「だろ」
「一つの契約について、Aとの関係だけ解除して、Bとの関係だけ残すと、法律関係が複雑になります」
「そうだ」
もちろん、契約の内容によっては可分的な契約関係として別に検討する余地もあります。
でも。
民法五百四十四条が適用される場合には、解除は原則として当事者全員から、または当事者全員に対して行う必要があります。
「だから、今回の解除通知も二人から出したんですね」
「そのとおり」
私は頷きました。
さらに。
五百四十四条二項。
当事者の一方が数人いる場合、その一人について解除権が消滅すると、他の者についても解除権が消滅する。
「……えっ」
私は思わず声を上げました。
「一人の解除権が消滅すると、他の人も?」
「そういう規定だ」
「厳しいですね!」
ただし、その規定が適用される事情なのかは、具体的な契約関係を確認する必要があります。
私は赤線を引きました。
――解除権の不可分性は、行使するときだけでなく、消滅するときにも注意。
なるほど。
解除権がある。
それだけでは十分ではありません。
誰が。
誰に対して。
その意思表示をするのか。
ここまで確認して初めて、正確な解除通知になるのです。
「では、解除した後です」
私はページをめくりました。
――民法第五百四十五条。
解除の効果。
「先輩。契約を解除したら、どうなるんですか?」
「原状回復だ」
「そうです!」
私は村瀬さんの事件を思い出しました。
四十八万円を支払った。
花は届かなかった。
契約を解除した。
だから、業者は受け取った代金を返還する義務を負う。
「ここで重要なのが、原状回復です」
私は言いました。
「単に『これから先は契約を守らなくてもいい』という話だけじゃありません」
「そうだな」
すでに受け渡したものがある場合には、原則としてそれを返還する。
契約に基づいて移転した財産関係を、清算するのです。
たとえば。
AがBから中古の機械を百万円で買った。
Aは百万円を支払った。
Bは機械を引き渡した。
その後、適法に契約が解除された。
「どうなります?」
私は先輩に尋ねました。
「Aは機械を返す」
「はい」
「Bは百万円を返す」
「正解です!」
私は書きました。
――解除後は、原則として双方に原状回復義務が生じる。
「ただし、第三者がいる場合は注意が必要です」
相馬先輩が顔を上げました。
「第三者?」
「はい」
民法五百四十五条一項ただし書。
解除によって、第三者の権利を害することはできない。
例えば。
売主Aが買主Bに土地を売った。
Bは土地を取得した後、第三者Cにその土地を売った。
その後、AがBとの契約を解除した。
「この場合、Aは当然にCから土地を取り戻せるんですか?」
「第三者の権利を考えなきゃならねえな」
「そうなんです」
解除前に権利を取得した第三者については、民法五百四十五条一項ただし書が問題になります。
不動産では、第三者が権利を主張するための登記の有無も重要です。
また、解除後に現れた第三者との関係では、登記の先後など別の対抗関係の問題が生じます。
「つまり、解除したからといって、第三者の権利まで何でも消せるわけではないんですね」
「そういうことだ」
私は頷きました。
法律は。
契約当事者だけを見ているわけではありません。
その契約を前提に、権利を取得した第三者の利益も考えているのです。
「そして、お金の返還です!」
私は声を上げました。
相馬先輩が顔をしかめます。
「急に元気になったな」
「お金は重要です!」
「そりゃそうだ」
民法五百四十五条二項。
金銭を返還するときは、受領時から利息を付けなければなりません。
「ここ、間違えやすいですね」
「何がだ」
「解除通知が届いた日からじゃないんです」
私は村瀬さんたちの領収書を思い出しました。
八月二十日。
三十万円。
九月一日。
十八万円。
「それぞれの受領時から、返還の利息を考えるんです」
「そうだ」
昭和六十三年当時。
民事の法定利率は原則として年五分。
現代の民法では、法定利率は改正され、変動する仕組みも導入されています。
「また時代が違うんですね」
「お前はどうして、そんな未来のことばかり気にするんだ」
「試験に出るからです!」
「何の試験だよ」
……行政書士試験です。
ただし、未来の。
私は苦笑しました。
そして、もう一つ。
「現代では、物を返すときの果実についても、五百四十五条三項に明文があります」
「果実?」
「はい」
法律上の果実。
例えば、賃料などの法定果実や、物から生じる天然果実です。
解除に伴って金銭以外の物を返す場合、受領後に生じた果実も返還しなければならないという規定です。
「じゃあ、昭和にはなかったのか?」
「現代のような五百四十五条三項の明文はありません」
私は答えました。
「ただし、解除に伴う果実の返還が、まったく問題にならなかったわけではありません」
改正前から、判例や解釈によって返還関係が考えられていました。
そして。
二〇二〇年施行の改正で、果実返還の規律が明文化されたのです。
「なるほどな」
相馬先輩が頷きました。
私はノートに書きました。
――昭和の五百四十五条三項は、損害賠償請求を妨げないという規定。
――現代では、果実返還が三項に新設され、損害賠償の規定は四項。
「これも、条文番号の地雷ですね!」
「お前、地雷ばっかり踏んでるな」
「未来人には厳しい世界です!」
私は笑いました。
でも。
これで整理できました。
解除。
原状回復。
金銭には受領時からの利息。
物には果実の返還も問題となる。
そして。
解除しても、損害賠償請求は妨げられない。
「今回、村瀬さんたちは、代金四十八万円と利息を取り戻しました」
「そうだな」
「それに、当日の代わりの花の八万円も支払ってもらいました」
「そうだ」
「でも、その八万円は、解除したら自動的に発生するお金ではないんですよね」
片桐所長が頷きました。
「損害賠償としての根拠を確認する必要がある」
「はい」
私は書きました。
――原状回復と損害賠償は、法律上の意味が違う。
代金返還は、解除に伴う原状回復。
追加費用の賠償は、債務不履行による損害賠償の問題。
だから、分けて考える。
「解除したから賠償できない、というのも間違いですし」
「うん」
「解除したから何でも賠償してもらえる、というのも間違いですね」
「そのとおり」
私は、大きく頷きました。
窓の外が、少し暗くなってきました。
私はノートを見直しました。
契約解除。
催告解除。
無催告解除。
定期行為。
帰責事由。
解除権の行使。
不可分性。
原状回復。
損害賠償。
……。
「先輩」
「何だ」
「契約解除って、覚えることが多すぎません?」
「今さらだな」
「だって、昭和と現代で条文まで違うんですよ!」
「だから六法を読めって言ってるだろ」
「はい……」
私は少し考えました。
でも。
事件を思い出せば、全部つながります。
村瀬和子さん。
村瀬佳代さん。
結婚式の花。
四十八万円。
十月九日午前九時。
業者の不履行。
結婚式の日が過ぎてしまった。
だから、催告なしで解除できる。
二人で契約したから、二人で解除の意思表示をした。
業者が受け取った代金は、利息を付けて返還する。
代替装花費用については、別に損害賠償を検討する。
「……あれ?」
私は呟きました。
相馬先輩が顔を上げます。
「何だ」
「全部、事件の中にありました」
「当たり前だろ」
「でも、試験のテキストだと別々に書いてあるんです」
「そうだろうな」
「五百四十条、五百四十一条、五百四十二条……って」
私は言いました。
「でも現場では、一つの契約を解除するために、全部つながるんですね」
片桐所長が、静かに頷きました。
「そうだ」
私は少し嬉しくなりました。
法律は。
条文を一つずつ覚えるだけでは、使えません。
誰が契約したのか。
何を約束したのか。
いつ履行すべきだったのか。
履行されなかった理由は何か。
契約目的は達成できるのか。
解除の意思表示を誰が誰にするのか。
解除した後、何を返すのか。
それらを全部つないで考える。
「……所長」
「何だ」
「民法って、すごいですね」
「そうか」
「はい」
私は、村瀬さんたちの写真を思い出しました。
白いウェディングドレス。
花のない会場。
母親と娘の笑顔。
法律は。
あの日を戻すことはできませんでした。
でも。
結婚式に使えなかった花の代金を、業者が握り続けることは許さなかった。
相手の承諾がなくても、法定の要件を満たせば契約を解除できる。
そのうえで、財産関係を清算する。
「解除って、過去を消す制度じゃないんですね」
私が言うと、片桐所長が頷きました。
「そうだ」
「約束どおりにならなかった現実を受け止めて、契約関係を清算する制度なんですね」
「うん」
私は鉛筆を握り直しました。
いよいよ。
今日の一行です。
――契約解除は、催告が原則、目的達成が無理なら無催告。解除したら原状回復、損害賠償は別に考える。
「……できた!」
私はノートを掲げました。
「先輩!」
「何だ」
「どうですか!」
相馬先輩が覗き込みました。
「まあ、悪くねえな」
「褒めましたね!」
「気のせいだ」
「またそれですか!」
私は笑いました。
でも。
これなら忘れません。
催告解除。
相当期間を定めて履行を求める。
無催告解除。
催告しても意味がない場合などに認められる。
解除の意思表示。
法律上の解除権があれば、相手の承諾は原則不要。
原状回復。
渡したものを、法律に従って清算する。
損害賠償。
解除とは別に、要件を満たすか確認する。
そして。
昭和と現代で、条文や要件が違う。
「よし!」
私は満足して六法を閉じました。
「さて」
相馬先輩が新聞を畳みました。
「今日の勉強は終わりか?」
「はい!」
「じゃあ、そこの書類を片付けろ」
「え?」
「机に積んであるだろ」
私は見ました。
確かに。
私が広げた六法。
判例集。
ノート。
契約書の見本。
机が、紙だらけです。
「……先輩」
「何だ」
「私、ちょっと疲れました」
「だから?」
「今日の片付け、解除できませんか?」
相馬先輩が、ぴたりと止まりました。
「……は?」
「片付け義務の解除です!」
「何を言ってるんだ、お前は」
私は得意げに言いました。
「民法五百四十一条!」
「おい」
「先輩が片付けを手伝ってくれないので、私の片付け義務を解除します!」
相馬先輩は、しばらく私を見つめていました。
それから。
「こはる」
「はい!」
「誰と誰の契約だ?」
「……え?」
「その片付け義務は、どの契約から生じたんだ?」
「えっと……」
「俺が何の債務を負ってる?」
「……あ」
しまった。
「それから、相当期間の催告はしたのか?」
「……してません」
「俺は手伝う約束をしたのか?」
「……してません」
相馬先輩が、にやりと笑いました。
「じゃあ、解除する契約がねえな」
「ぐっ……!」
片桐所長が、奥から静かに言いました。
「こはる」
「はい」
「片付けを頼む」
「……はい」
私は、しぶしぶ六法を抱えました。
「先輩!」
「何だ!」
「じゃあ、片付けは何分以内に終わらせればいいですか!」
「十分だ!」
「相当の期間ですね!」
「違う!」
「十分以内に終わらなかったら、先輩が片付けてくれるんですか!」
「何でそうなる!」
「定期行為です!」
「どこがだ!」
私は笑いながら、六法を棚に戻しました。
なるほど。
法律用語を覚えただけでは、何でも都合よく解除できるわけではありません。
そもそも、解除する対象となる契約があるのか。
誰がどんな義務を負っているのか。
どんな解除原因があるのか。
そこから考えなければならない。
……。
やっぱり、民法は奥が深いです。
窓の外。
夕暮れの町に、家々の明かりが灯っていきます。
あのどこかで。
村瀬さんたちは、返ってきたお金で旅行の計画を立てているのでしょう。
結婚式の日は戻らない。
白い百合のアーチも、もう飾れない。
でも。
次の約束は、これから作ることができます。
私は、ノートの最後の一行をもう一度読みました。
――契約解除は、催告が原則、目的達成が無理なら無催告。解除したら原状回復、損害賠償は別に考える。
よし。
完璧。
「こはる!」
相馬先輩の声が飛びました。
「はい!」
「片付けの途中でノートを読むな!」
「復習です!」
「復習は後だ!」
「先輩!」
「今度は何だ!」
「私、分かりました!」
「何が!」
「約束って、守ってもらうためにあるんですよね!」
「当たり前だ!」
「でも、守ってもらえない約束に、ずっと縛られる必要はない!」
「そうだ!」
「だから、解除がある!」
「分かったから片付けろ!」
「はいっ!」
私は笑いながら、最後の判例集を棚に戻しました。
昭和六十三年。
片桐行政書士事務所。
今日もまた。
古い民法の条文が、一つ。
私の中で、ただの暗記項目ではなくなりました。
約束は守るもの。
けれど。
守られない約束から離れることも、法律が認めた大切な権利。
そのことを。
結婚式に届かなかった花が、教えてくれたのです。
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