[民法・契約解除]現場編 「明日届ければ契約違反じゃない」の嘘。結婚式に間に合わなかった花と、催告なしで契約を終わらせる昭和の民法
約束には、明日では遅すぎるものがあります。
たとえば。
結婚式の花。
誕生日のケーキ。
祭りの日に飾る提灯。
どれも、一日遅れたからといって、物そのものの価値がなくなるわけではありません。
でも。
その日に届かなければ、意味がない。
そんな約束も、世の中にはあるのです。
昭和六十三年。
片桐行政書士事務所。
その日、私は一つの恐ろしい言葉を覚えることになりました。
――定期行為。
決められた日時を過ぎれば、契約の目的そのものが失われてしまう約束。
そして。
そんな約束を平気で破った業者が、笑いながら言ったのです。
「契約ってのはね、そう簡単に解除できないんですよ」
……。
その自信。
あとで、きっちり民法に折られることになります。
「結婚式が、台無しになったんです」
朝九時。
事務所を訪れた女性は、膝の上でハンカチを握りしめていました。
名前は、村瀬佳代さん。
二十六歳。
隣には、母親の村瀬和子さん。
五十四歳。
二人とも、疲れ切った顔をしています。
「結婚式……ですか?」
私が尋ねると、佳代さんは小さく頷きました。
「一昨日、娘の結婚式だったんです」
和子さんが答えました。
「娘?」
「あ、この子じゃなくて、私の長女です。佳代は妹で、式の準備を手伝ってくれたんです」
なるほど。
結婚したのは、長女の美紀さん。
母親と妹が、結婚式の飾りつけを担当していたそうです。
「花が、届かなかったんです」
佳代さんが言いました。
「花?」
「披露宴会場に飾る花です。入口の大きな花飾りと、高砂席の装花。それに各テーブルの花も全部」
「全部ですか?」
「はい」
私は思わず声を上げました。
結婚式で、花が一輪もない。
それは、かなり寂しい。
「業者には、ちゃんと頼んでいたんです」
和子さんが、封筒から契約書を出しました。
――婚礼装花一式請負契約書。
代金。
四十八万円。
「よ、四十八万円!」
私は驚きました。
昭和六十三年。
四十八万円といえば、かなり大きなお金です。
「娘のために、ずっと貯めてきたんです」
和子さんが言いました。
「主人が亡くなってから、私一人で二人の娘を育ててきましたから」
私は口を閉じました。
「美紀には、立派な結婚式をしてあげたくて」
和子さんは、少し笑いました。
「私、花屋で働いていたことがあるんです。だから花だけは、いいものを飾ってあげたかった」
……。
そういう四十八万円でしたか。
契約書には、こう書かれていました。
――納入日時 昭和六十三年十月九日 午前九時まで。
――納入場所 湖西グランド会館 二階鳳凰の間。
――使用目的 同日午前十一時開始の結婚披露宴に使用するため。
――装花一式の搬入及び設置を含む。
私は顔を上げました。
「これ、納入日時がはっきり書いてありますね」
「はい」
「午前九時まで」
「はい」
「それで、届かなかったんですか?」
佳代さんが唇を噛みました。
「九時になっても来なくて、十時になっても来なくて……」
「電話は?」
「何度もしました」
「業者は何と?」
「もうすぐ行く、と」
私は眉をひそめました。
「それで?」
「十一時になって、ようやく電話がつながったんです」
佳代さんは、涙を堪えるように言いました。
「そしたら……」
声が震えました。
「『今日の納入は無理です。明日なら届けられます』って」
……。
明日。
結婚式の翌日。
「それじゃ意味ないじゃないですか!」
思わず叫んでしまいました。
「そうなんです!」
佳代さんも声を上げました。
「もう披露宴が始まるんですよ! 明日って何ですか!」
和子さんは、俯いたままでした。
「仕方がないので、会館の方が急いで花を集めてくださって」
「間に合ったんですか?」
「入口の花瓶と、高砂席に小さな花束を置くのが精いっぱいでした」
佳代さんが言いました。
「お姉ちゃん、ずっと楽しみにしてたんです。白い百合のアーチの下で、お母さんと写真を撮るって」
白い百合。
母親と娘。
結婚式の日の、一枚の写真。
それが。
業者の一言で、消えてしまった。
「それで、お金は返してもらえたんですか?」
私が尋ねると、和子さんは首を振りました。
「いいえ」
「……え?」
「全額払ってあるんです。でも、返金はしないって」
「どうしてですか!」
佳代さんが、一枚の紙を差し出しました。
業者から届いた通知です。
私は読みました。
――花材の仕入れは完了しており、当社には既に相応の費用が発生している。
――納入が一日遅延することは認めるが、履行自体は可能である。
――契約解除には応じない。
――なお、契約書記載のキャンセル料条項により、発注者都合の解約については代金全額を申し受ける。
……。
私は、ゆっくり顔を上げました。
「先輩」
「何だ」
「これ、結婚式が終わったのに、明日花を持ってくるから金は返さないって話ですよね」
「そう書いてあるな」
「何ですか、それ!」
相馬先輩は煙草を灰皿に置きました。
「悪徳業者の得意技だな」
「得意技?」
「契約書の都合のいい部分だけ読ませるんだよ」
片桐所長が、初めて口を開きました。
「業者の名前は」
「東海ブライダル装花です」
「代表者は」
「黒田源一という方です」
所長は頷きました。
「まず、契約の当事者を確認しよう」
私は契約書を見ました。
発注者欄。
村瀬和子。
そして。
その下に、もう一つ名前がありました。
村瀬佳代。
「あれ?」
私は首をかしげました。
「お二人とも署名されているんですか?」
「はい」
佳代さんが答えました。
「お母さんと私、二人でお願いしたので」
契約書には、二人を共同発注者とする旨が明記されていました。
支払いも。
和子さんが三十万円。
佳代さんが十八万円。
合計四十八万円。
「なるほど……」
私は頷きました。
この二人。
ただ付き添いで来たわけではありません。
二人とも、契約の当事者なのです。
そして。
それが後で、とても大切な意味を持つことになります。
「解除しましょう!」
私は勢いよく言いました。
「こんなの、すぐ解除できます!」
和子さんが顔を上げました。
「本当ですか?」
「はい!」
私は六法を開きました。
「民法五百四十二条です!」
よし。
得意分野。
現代の行政書士試験で勉強したところです。
履行不能。
明確な履行拒絶。
契約目的を達成できない一部不履行。
定期行為。
催告しても目的を達成できる履行が見込めない場合。
これらは、催告なしで解除できる。
「今回、結婚式は終わっています。もう契約目的を達成できません!」
私は言いました。
「しかも、業者は当日の納入を拒んでいる!」
相馬先輩が、こちらを見ました。
「おい、こはる」
「はい!」
「五百四十二条に、何が書いてあるって?」
「催告によらない解除です!」
「……何だそれ」
……。
私は固まりました。
あ。
やった。
またです。
「先輩、まさか……」
「まさか、じゃねえ。六法を見ろ」
私は昭和六十三年の六法を開きました。
民法第五百四十二条。
そこには。
――定期行為の履行遅滞による解除権。
と書かれていました。
「あれっ!」
私は思わず声を上げました。
「条文の見出しが違う!」
「当たり前だろ」
「ええっ!」
私は慌てて読みました。
契約の性質。
または、当事者の意思表示。
それによって、特定の日時や期間内に履行されなければ契約目的を達成できない場合。
その時期を過ぎても履行がなければ、催告なしで解除できる。
「……あ」
私は顔を上げました。
「定期行為!」
「そうだ」
相馬先輩が頷きます。
「今の五百四十二条は、定期行為についての規定だ」
「じゃあ、履行不能は?」
「五百四十三条だ」
「五百四十三条!?」
私は思わず天井を見ました。
現代の五百四十三条は、債権者の責めに帰すべき事由による解除の制限。
でも、昭和六十三年は違う。
五百四十三条は、履行不能による解除権。
しかも。
債務者の責めに帰すことのできない事由による履行不能なら、解除できないというただし書がある。
私は頭を抱えました。
「先輩……」
「何だ」
「同じ条文番号なのに、中身が違います」
「何を今さら」
「受験生殺しです!」
「受験するなら、その時代の六法を読め」
「ごもっともです……」
片桐所長が静かに言いました。
「こはる」
「はい」
「今回、何が一番重要だ」
私は考えました。
履行不能?
いや。
花そのものは、まだ届けられる。
債務の全部の履行が物理的に不可能という話ではない。
では。
結婚式の日。
午前九時まで。
この日時に意味があった。
「……定期行為です」
所長が頷きました。
「そうだ」
相馬先輩が机を指で叩きました。
「花が腐ったから解除するんじゃねえ」
「はい」
「業者が嫌いになったからでもねえ」
「はい」
「十月九日、午前九時までに会場へ設置する。それが契約の肝だったんだ」
私は、契約書をもう一度見ました。
納入日時。
午前九時。
使用目的。
午前十一時からの結婚披露宴。
なるほど。
この契約。
単なる花の売買ではありません。
結婚式に間に合うよう、会場を花で飾る契約だったのです。
「……先輩」
「何だ」
「これ、明日持ってくればいいって話じゃないですね」
「ようやく分かったか」
私は頷きました。
約束の物を渡す。
それだけが履行ではない。
いつ。
どこで。
何のために。
その条件まで含めて、約束なのです。
翌日。
相馬先輩と私は、東海ブライダル装花の店舗を訪ねました。
ただし。
依頼人の代理人として示談交渉をするためではありません。
契約の経緯と納入できなかった理由を、事実関係として確認するためです。
駅前通りから一本入った場所。
白い看板に、
――婚礼装花・式場演出 東海ブライダル装花。
と書かれていました。
店内には、色とりどりの造花。
リボン。
装飾用の燭台。
そして奥には、大量の花を入れる冷蔵庫がありました。
「何だ、あんたら」
奥から男が出てきました。
五十歳前後。
派手なネクタイ。
金色の腕時計。
黒田源一。
東海ブライダル装花の社長です。
「片桐行政書士事務所の相馬です」
「行政書士?」
黒田は鼻で笑いました。
「弁護士じゃないんだな」
「そうです」
「じゃあ、契約解除の交渉でもしに来たのか?」
「いいえ。契約の事実関係について、確認に伺いました」
黒田は肩をすくめました。
「何でも聞けばいい」
余裕です。
ものすごく余裕です。
私は少し腹が立ちました。
「十月九日の装花ですが」
相馬先輩が言いました。
「午前九時までに納入、設置する契約でしたね」
「ああ」
「実際には、設置されませんでしたね」
「そうだ」
「理由は?」
「ちょっと手違いがあってな」
「どんな手違いですか」
黒田は、面倒くさそうに答えました。
「同じ日に、名古屋の大きなホテルから急な注文が入ったんだ」
「……名古屋?」
「ああ。金払いのいい客でな」
私は嫌な予感がしました。
「それで?」
「うちの職人と車を、そっちへ回した」
……。
「じゃあ、村瀬さんの結婚式は?」
「翌日に回せばいいと思ったんだよ」
……。
私は一瞬、言葉を失いました。
「翌日って……」
黒田は笑いました。
「一日くらい、どうってことないだろ」
「結婚式ですよ!?」
思わず声が出ました。
「一日くらいって、結婚式は一日しかないんですよ!」
「お嬢ちゃん」
黒田が、こちらを見ました。
「商売ってのはな、予定どおりにいかないこともあるんだよ」
「だからって!」
「こっちは花を仕入れてる。材料代も払ってる。人件費だってかかってる」
黒田は机を叩きました。
「それを、客が勝手に解除すると言い出したからって、全額返すわけにはいかねえんだ」
勝手に解除。
……。
この人。
本当に分かっていないのでしょうか。
それとも。
分かったうえで、押し切ろうとしているのでしょうか。
「契約書を見ろよ」
黒田は、コピーを取り出しました。
「ここだ」
指差したのは、キャンセル料条項。
――発注者都合により契約を解約する場合、納入予定日から七日以内の解約については、代金全額をキャンセル料とする。
「ほらな」
黒田は勝ち誇りました。
「結婚式が終わってからキャンセルしたんだろ。だったら全額だ」
私は深呼吸しました。
発注者都合。
……本当に?
「黒田さん」
私は言いました。
「村瀬さんは、気が変わって花をいらなくなったわけじゃありません」
「だから?」
「約束どおりに届かなかったから、解除しようとしているんです」
「同じだろ」
「違います!」
黒田は笑いました。
「じゃあ、裁判でもすればいい」
来ました。
悪徳業者の定番。
裁判でもすればいい。
「俺は契約書を持ってる。客も署名してる。花は翌日に届けられた」
黒田が続けます。
「契約を破ったわけじゃねえ。ちょっと遅れただけだ」
そのとき。
相馬先輩が口を開きました。
「黒田さん」
「何だ」
「十月九日の午前九時までに、会場の装花を完成させなければならないことは、承知していましたね」
「ああ」
「その日が結婚式であることも」
「当たり前だろ」
「翌日では、披露宴に使えないことも」
「そりゃそうだが」
「では、もう一点だけ」
先輩は手帳を開きました。
「名古屋の仕事を優先したのは、御社の判断ですね」
「ああ」
「村瀬さんから、納入を翌日に延期してよいという承諾は得ましたか」
「そんなもの、取ってねえよ」
「分かりました」
先輩は手帳を閉じました。
「確認は以上です」
黒田は拍子抜けした顔をしました。
「何だ、それだけか?」
「はい」
「契約解除はどうするんだ」
「それは、ご本人の意思を確認して、必要な書面を作成します」
「ふん」
黒田が笑いました。
「せいぜい頑張るんだな」
私たちは店を出ました。
私は我慢できませんでした。
「先輩!」
「何だ」
「あんな言い方、許せません!」
「そうだな」
「もっと言ってやればよかったのに!」
「何を?」
「結婚式に明日なんかないって!」
先輩は立ち止まりました。
「こはる」
「はい」
「相手は、自分で言ったんだ」
「何をですか?」
「名古屋の仕事を優先した。翌日に延期する承諾も得ていない。結婚式の日を知っていた」
「……はい」
「十分だ」
私は口を閉じました。
「法律の仕事で大事なのは、怒りをぶつけることじゃねえ」
先輩は、手帳を軽く叩きました。
「どんな事実を、相手自身が認めたかだ」
……。
なるほど。
「それに、俺たちは弁護士じゃねえ。依頼人の代理人として、法的紛争の示談交渉を引き受けることはできねえ」
「はい」
「こっちが口で解除を迫るんじゃない。依頼人本人が、法律上の意思表示をするための書面を整える」
先輩は、いつものように笑いました。
「世の中、声がでかい奴じゃなくて、書面にハンコを押させた奴が勝つんだよ」
私は頷きました。
そうです。
これから作るのは。
ただの苦情の手紙ではありません。
契約を終わらせるための、法律上の意思表示なのです。
「まず、解除の要件を確認する」
事務所へ戻ると、片桐所長が六法を開きました。
「こはる。通常の履行遅滞なら、どうする」
「民法五百四十一条です」
「うん」
「相当の期間を定めて、履行を催告します」
「それで?」
「その期間内に履行されなければ、解除できます」
「そうだ」
私は頷きました。
例えば。
十月九日までに、事務所の机を納入する約束だった。
ところが届かなかった。
でも、数日遅れても、その机は使える。
そんな場合。
まず、相当の期間を定めて履行を求める。
それでも履行されなければ、解除する。
「ただし、先輩」
「何だ」
「現代の五百四十一条には、軽微な不履行なら解除できないというただし書がありますよね」
「……軽微?」
相馬先輩が眉をひそめました。
「何の話だ」
しまった。
また未来の法律です。
「えっと……」
私は慌てて六法を確認しました。
昭和六十三年の五百四十一条。
そこには、現代のような軽微な不履行についてのただし書はありません。
ただし。
私は知っていました。
昔なら、些細な契約違反でも何でも解除できた。
そういうわけでもないことを。
「所長。昭和でも、軽い違反だけで解除できるとは限らないんですよね」
所長が頷きました。
「そうだ」
「契約の主たる目的に関係のない、付随的な義務違反だけでは解除が認められない場合がある」
「うん」
相馬先輩が本棚へ向かいました。
古びた判例集を抜き取ります。
「昭和三十六年十一月二十一日の最高裁判決だ」
「……!」
「契約の目的を達成するうえで重要でない付随的な義務の不履行だけでは、解除原因にならないという考え方が示されている」
私は目を輝かせました。
「判例!」
「嬉しそうにするな。仕事だぞ」
「はい!」
なるほど。
現代の民法では、軽微な不履行による解除の制限が明文化されています。
でも。
昭和六十三年にも、契約の目的を無視した理不尽な解除が何でも認められるわけではない。
条文に書かれていなくても、判例が大切な役割を果たしていたのです。
「今回の件はどうだ」
所長が尋ねました。
私は即答しました。
「軽微ではありません!」
「理由は?」
「結婚式の装花一式が、まったく納入されていません」
「うん」
「しかも、納入日時そのものが契約目的の中心です」
「そうだ」
「飾りのリボンが一本足りなかったという話じゃありません」
所長が頷きました。
「では、今回は催告が必要か」
「……必要ありません」
「なぜだ」
「定期行為だからです!」
私は六法を指差しました。
民法五百四十二条。
昭和六十三年の規定。
特定の日時または一定の期間内に履行されなければ、契約目的を達成できない場合。
その時期を過ぎれば、催告なしで解除できる。
「今回の契約目的は、十月九日の結婚披露宴を花で飾ること」
「うん」
「その日が過ぎた以上、翌日に花を届けても、約束された目的は達成できません」
「そうだ」
私は拳を握りました。
「だから、もう一週間待ってください、なんて催告は必要ない!」
「正解だ」
相馬先輩が笑いました。
「相手に、もう一度履行する機会を与えたところで、結婚式は戻ってこねえからな」
その言葉に。
私は少し、胸が痛くなりました。
そうです。
時間だけは、返せない。
結婚式の日は、もう過ぎてしまったのです。
「だが、こはる」
片桐所長が言いました。
「もう一つ、昭和の民法で気をつけることがある」
「何でしょう」
「債務者の責めに帰すべき事由だ」
私は、はっとしました。
帰責事由。
現代の改正民法では。
債務不履行を理由とする解除に、原則として債務者の帰責事由は必要ありません。
解除は、約束された履行を得られない債権者を、契約の拘束から解放する制度だからです。
でも。
昭和六十三年では。
「……帰責事由が問題になるんですね」
所長が頷きました。
「当時の解除法理では、そこを外せん」
旧五百四十三条の履行不能による解除では、帰責事由について明文の制限がありました。
そして、旧五百四十一条や五百四十二条についても、従来の通説では、債務者の帰責事由が必要と考えられていたのです。
「所長」
「何だ」
「もし台風で道路が全部通れず、業者がどうしても花を運べなかったら?」
「その場合は、事情が変わる」
「ですよね」
私は頷きました。
誰の責任なのか。
どのような事情で履行できなかったのか。
昭和の解除制度では、その確認が重要になります。
「でも、今回は……」
私は手帳を開きました。
黒田の発言。
――名古屋の大口客を優先した。
――職人と車を、そちらに回した。
――村瀬さんの承諾は取っていない。
「完全に、業者自身の判断ですね」
「そうだ」
相馬先輩が言いました。
「手違いじゃねえ。儲かる仕事を優先したんだ」
「帰責事由を否定するのは難しいですね」
「そのとおり」
私は大きく頷きました。
なるほど。
昭和の解除で問題になり得る要件も、今回の事実なら固められる。
しかも。
納入日時が重要であることは、契約書に明記されている。
契約目的が達成できないことも明白。
そして、催告なしの解除を認める旧五百四十二条がある。
……。
これは。
強い。
「先輩!」
「何だ」
「解除できます!」
「ああ」
「絶対に!」
「絶対なんて言葉は、軽々しく使うな」
「あっ」
「裁判の結論を決めるのは、俺たちじゃねえ」
「はい……」
先輩は少し笑いました。
「だが、相手が争うには相当苦しい事実が揃ってる」
私は頷きました。
それで十分です。
書面で、事実と法理を明確に示す。
相手が、自分の立場の危うさを理解できるように。
そこが、私たちの仕事なのです。
「さて、通知書を作るぞ」
相馬先輩が言いました。
「はい!」
私は原稿用紙を取り出しました。
宛先。
東海ブライダル装花。
代表者 黒田源一。
差出人。
村瀬和子。
私は書き始めました。
すると。
「待て」
先輩が言いました。
「はい?」
「差出人が一人足りねえ」
「……え?」
「契約書を見ろ」
私は契約書を確認しました。
発注者。
村瀬和子。
村瀬佳代。
共同発注者。
「あ!」
私は声を上げました。
「二人!」
「そうだ」
片桐所長が、六法を開きました。
民法第五百四十四条。
解除権の不可分性。
契約当事者の一方が数人いる場合、解除は原則として、その全員から、またはその全員に対して行わなければならない。
「つまり……」
私は言いました。
「お母さんだけが解除通知を出しても、問題になるんですね」
「そうだ」
「娘さんも共同発注者だから」
「うん」
「二人そろって、解除の意思表示をする必要がある!」
所長が頷きました。
「相手方が複数なら、相手方全員への意思表示も確認しなければならん」
「はい!」
危なかった。
内容は完璧でも。
誰が解除するのかを間違えれば、書面の効力自体が争われかねない。
しかも。
相手は、契約書を盾にしてくる業者です。
そんな隙を残すわけにはいきません。
「先輩」
「何だ」
「内容証明って、怖いですね」
「まだ怖がるのは早い」
「え?」
「解除の効果が残ってる」
先輩は六法のページをめくりました。
民法第五百四十五条。
解除の効果。
「解除したら、どうなる」
「原状回復義務です」
「そうだ」
契約を解除したら。
双方が、原則として契約前の状態に戻す義務を負います。
今回。
村瀬さんたちは、四十八万円を支払った。
でも。
花は受け取っていない。
設置もされていない。
「だから、支払った四十八万円の返還を求めます」
「それだけか」
……。
私は首をかしげました。
「え?」
「金銭を返すときは?」
あ。
「利息!」
「そうだ」
私は慌てて六法を読みました。
民法五百四十五条二項。
返還する金銭には、その受領時から利息を付さなければならない。
「……受領したときから!」
相馬先輩が頷きました。
「解除通知が届いた日から、じゃねえぞ」
「はい!」
「金を受け取った日を確認しろ」
私は領収書を並べました。
八月二十日。
三十万円。
九月一日。
十八万円。
どちらも、東海ブライダル装花の領収印があります。
「つまり、それぞれの受領日から利息が問題になるんですね」
「そうだ」
昭和六十三年当時、民事の法定利率は原則として年五分。
私は、そこにも線を引きました。
ただし、どの利率を適用するかは契約や債務の性質も確認する必要があります。
「所長」
「何だ」
「返してもらうのは、元金だけじゃないんですね」
「そうだ」
「じゃあ、結婚式の日に急いで買った花の代金は?」
和子さんたちは、当日の応急的な装花に八万円を支払っていました。
会館から、その領収書も受け取っています。
片桐所長が頷きました。
「損害賠償の問題だ」
「解除とは別に?」
「そうだ」
民法五百四十五条。
解除権の行使は、損害賠償の請求を妨げない。
「つまり!」
私は顔を上げました。
「契約を解除したから、損害賠償を請求できなくなるわけじゃない!」
「そのとおり」
もっとも、実際に損害賠償が認められるかは、損害の内容や因果関係などを確認しなければなりません。
解除さえすれば、あらゆる損害が自動的に支払われるわけではない。
でも。
今回の八万円。
本来の装花が届かなかったため、やむを得ず会館に依頼して支払った費用です。
領収書もある。
事情を証明する会館担当者の書面もある。
「……所長」
「何だ」
「解除したら四十八万円が返ってきて終わり、じゃないんですね」
「そうだ」
私は鉛筆を握り直しました。
契約解除。
原状回復。
利息。
損害賠償。
一つひとつ。
意味が違う。
でも。
全部つながっている。
法律は、約束を破られた側が、ただ我慢することを求めているわけではないのです。
午後三時。
机の上には、内容証明郵便の原案が完成していました。
片桐所長が、赤鉛筆を手に取ります。
「読むぞ」
「はい!」
私は背筋を伸ばしました。
所長は、静かに読み始めました。
――契約解除通知書。
――通知人 村瀬和子、村瀬佳代。
――被通知人 東海ブライダル装花 黒田源一殿。
――通知人らは、昭和六十三年八月二十日、貴殿との間で、同年十月九日午前九時までに湖西グランド会館における婚礼装花一式の搬入及び設置を完了することを内容とする契約を締結した。
――本契約の目的は、同日午前十一時から開催される結婚披露宴の会場を装花することにあり、所定の時刻までの履行が不可欠であることは、契約書上も明示されている。
所長は一度、顔を上げました。
「ここが重要だ」
「はい」
「日時が単なる目安ではなく、契約目的に不可欠だったことを示す」
私は頷きました。
所長は続けます。
――しかし、貴殿は、右納入日時までに本件装花一式を搬入及び設置せず、結婚披露宴終了後に至っても履行していない。
――また、貴殿は、他の受注業務を優先したため当日の履行ができなかった旨を説明しており、通知人らが納入日時の変更を承諾した事実はない。
――本契約は、所定の日時に履行されなければ契約目的を達成することができない定期行為に該当する。
――したがって、通知人らは、民法第五百四十二条に基づき、催告することなく、本通知をもって本契約を解除する旨の意思表示をする。
私は思わず息を吸いました。
来ました。
契約解除。
しかも。
ただ「解除したい」とお願いしているのではない。
――解除する。
という意思表示です。
「所長」
「何だ」
「相手が承諾しなくても、解除できるんですよね」
「法律上の解除権が成立していれば、な」
所長が答えました。
「解除は、相手方の承諾を求める申し込みではない」
「はい」
「ただし、意思表示が相手に到達することは必要だ」
なるほど。
相手が嫌だと言えば解除できない。
そんな制度ではありません。
必要な要件を満たし。
解除の意思表示を相手方に到達させる。
それによって、法律上の効果が生じるのです。
所長は、さらに読みました。
――本契約の解除に伴い、民法第五百四十五条第一項及び第二項に基づき、既払代金四十八万円及び各金員の受領時からの所定の利息の返還を求める。
――なお、本解除は損害賠償請求を妨げるものではなく、当日の代替装花費用等については、証拠資料を整理のうえ、別途請求を検討する。
――本通知到達後七日以内に、返還方法及び返還予定日を書面により回答されたい。
――誠実な対応がない場合には、弁護士への相談及び訴訟その他の法的措置を検討する。
読み終わると。
相馬先輩が腕を組みました。
「よし」
「よし、ですか!」
「ああ」
私は嬉しくなりました。
でも。
「こはる」
先輩が言いました。
「一つ、勘違いするなよ」
「何でしょう」
「通知書に書いた七日間は、解除前の催告期間じゃねえ」
「……あ!」
「解除の意思表示は、通知が到達すれば効力を生じる」
「はい」
「七日間は、金の返還について回答を求める期限だ」
私は慌てて頷きました。
危ない。
せっかく無催告解除の事案なのに、解除まで七日間待つと誤解してはいけません。
今回の契約。
結婚式が終わった以上、今さら履行を催告する必要はない。
旧五百四十二条による解除の意思表示をする。
それとは別に。
解除後の返還について、回答期限を設ける。
「意味が違うんですね」
「そうだ」
所長が頷きました。
「そして、もう一つ」
「はい」
「解除の意思表示は、撤回できない」
私は六法を確認しました。
民法第五百四十条二項。
解除の意思表示は、撤回することができない。
……。
私は、少し緊張しました。
これは。
相手に脅しをかけるだけの紙ではありません。
本当に、契約を終わらせる意思表示なのです。
だからこそ。
和子さんと佳代さん、二人の意思をきちんと確認しなければならない。
そして。
その通知を出した後で、気軽に「やっぱり解除しません」と撤回することはできない。
所長が言いました。
「依頼人に、そこまで説明して確認を取れ」
「はい!」
私は、原案を見つめました。
怖い。
でも。
必要な怖さです。
法律上の意思表示には、それだけの重みがあるのです。
翌朝。
和子さんと佳代さんが事務所に来ました。
内容証明の原案を、二人に確認してもらいます。
「これで、契約を解除することになるんですね」
和子さんが尋ねました。
「はい。お二人が解除する意思を示し、その通知が相手に到達することで、法的な効果が生じます」
私は説明しました。
「ただし、相手が争う可能性はあります。その場合の判断や訴訟対応は弁護士の仕事になります」
「分かりました」
和子さんは静かに頷きました。
その隣で。
佳代さんが、書面を見つめていました。
「……これ」
「はい?」
「二人の名前があるんですね」
「はい。お二人とも契約の当事者ですから」
佳代さんが母親を見ました。
「お母さん」
「何?」
「一緒に、解除しよう」
和子さんは、少し驚いた顔をしました。
佳代さんが続けます。
「お姉ちゃんの結婚式のために、二人でお金を出したんだもん」
「……そうね」
「返してもらおう。ちゃんと」
和子さんは、ゆっくり頷きました。
「そうね」
二人は、それぞれ署名しました。
村瀬和子。
村瀬佳代。
そして。
それぞれ印鑑を押しました。
赤い印影が、二つ。
私はそれを見ながら思いました。
解除権の不可分性。
教科書では、少し分かりにくい言葉です。
でも。
こうして見ると。
二人で交わした約束は、二人で終わらせる。
法律が求めているのは、契約当事者全員の意思をきちんと扱うことなのです。
内容証明郵便は、その日のうちに発送されました。
三日後。
事務所に電話が鳴りました。
「はい、片桐行政書士事務所です!」
『……黒田だ』
私は固まりました。
東海ブライダル装花。
黒田源一。
あの社長です。
でも。
声が違いました。
前のような、偉そうな調子ではありません。
『片桐先生は、いるか』
「少々お待ちください」
私は受話器を所長へ渡しました。
「片桐です」
『あの……村瀬さんからの通知書が届いたんだが』
「はい」
『あれは、本当に契約解除になるのか?』
所長は落ち着いて答えました。
「通知書には、通知人ご本人たちの解除の意思表示が記載されています」
『いや、だから……』
電話の向こうで、紙をめくる音がしました。
『五百四十二条って……』
「はい」
『あれ、定期行為の解除って書いてあるんだな』
「そうですね」
『うちの顧問にも見せたんだ』
私は息を呑みました。
『そしたら……』
黒田の声が小さくなりました。
『結婚式に使う花を、わざわざ翌日に納入したところで、契約目的は達成できないだろうって』
所長は黙って聞いています。
『しかも、こっちの判断で名古屋の仕事を優先したことまで分かってる』
「はい」
『……契約書のキャンセル料条項も、今回は発注者都合の解約じゃないから、そのまま使えるとは思うなって言われた』
私は、思わず相馬先輩を見ました。
先輩は机で書類を整理しています。
でも。
口元が、少し笑っていました。
『あのな』
黒田が言いました。
『四十八万円は返す』
……!
『利息も、計算して返す』
私は思わず拳を握りました。
『それから……』
黒田の声が、さらに小さくなりました。
『結婚式当日の八万円の件も、こちらで資料を確認した。村瀬さん本人に、支払う意向を伝えたい』
……。
やった。
私は声を上げそうになりました。
でも。
所長は、まだ淡々としています。
「返還の意思があるのでしたら、通知人ご本人へ書面でお伝えください」
『ああ』
「具体的な金額と期日も明記してください」
『分かった』
「なお、当事者間で紛争が続くようであれば、弁護士にご相談ください」
『……分かったよ』
電話が切れました。
私は飛び上がりました。
「所長!」
「何だ」
「返すって!」
「ああ」
「四十八万円!」
「そうだな」
「利息まで!」
「ああ」
「すごいです!」
相馬先輩が鼻で笑いました。
「まだ終わってねえぞ」
「え?」
「入金の確認が先だ」
「あ……」
「金を返すと言うのと、実際に返すのは別だ」
私は頷きました。
そうでした。
相手の口約束に振り回されて、ここまで来たのです。
最後まで、証拠を残す。
そこまでやって、初めて一段落。
「先輩」
「何だ」
「でも、黒田社長、すごく慌ててましたね」
「そりゃそうだろ」
相馬先輩が言いました。
「自分で契約目的を潰しておいて、代金だけはもらえると思ってたんだからな」
「はい」
「裁判になって解除と返還義務が認められれば、金を返すだけじゃ済まねえ可能性もある」
「損害賠償ですね」
「そうだ」
先輩は、机に置かれた内容証明の控えを叩きました。
「しかも、判決を取られて、任意に支払わなければ、強制執行の問題になる」
私は頷きました。
内容証明そのものに、財産を差し押さえる力はありません。
でも。
裁判で権利が認められ、執行に必要な手続きを踏めば、相手の財産に強制執行が及ぶこともある。
黒田が恐れたのは。
紙そのものではない。
そこに書かれた事実と法律が、裁判でも問題になることだったのでしょう。
「先輩」
「何だ」
「契約書があるって威張ってた人が、契約書で負けそうになるんですね」
「そういうことだ」
先輩は笑いました。
「契約書ってのは、自分に都合のいいところだけ読んでも、助けてくれねえんだよ」
それから五日後。
和子さんと佳代さんが、事務所を訪れました。
二人とも、前より少し明るい顔をしています。
「ありがとうございました」
和子さんが深く頭を下げました。
「代金、戻ってきました」
「本当ですか!」
私は思わず立ち上がりました。
「はい。四十八万円と、計算された利息です」
佳代さんが言いました。
「それに、当日の代わりのお花の八万円も、黒田さんが自分から支払ってくれました」
業者は、二人に対して書面で返還額を通知し、指定口座へ振り込みました。
和子さんたちは、入金の記録を確認しました。
相馬先輩が頷きます。
「よし。これで金の返還は確認できたな」
「はい!」
私は嬉しくなりました。
でも。
和子さんは、少し寂しそうに笑いました。
「ただ……」
「はい?」
「美紀の結婚式は、戻らないんですよね」
私は言葉を失いました。
そうです。
四十八万円が戻ってきた。
利息も。
追加費用も。
でも。
披露宴で飾るはずだった白い百合のアーチは、もう戻ってこない。
美紀さんが、お母さんと撮りたかった写真。
それは。
もう撮れないのです。
「私、あの日……」
和子さんが、ぽつりと言いました。
「美紀に申し訳なくて」
膝の上で、手を握りしめました。
「主人が生きていたら、もっと立派な式にしてやれたのかなって」
私は胸が苦しくなりました。
「そんなこと……」
言いかけたとき。
佳代さんが、母親の肩に手を置きました。
「お母さん」
「何?」
「お姉ちゃん、そんなこと思ってないよ」
佳代さんは、鞄から一枚の写真を取り出しました。
「これ、見て」
そこには。
白いウェディングドレス姿の美紀さん。
その隣に、和子さん。
二人が笑っています。
大きな花のアーチは、ありません。
背景には、会館の白い壁。
小さな花瓶が一つ。
でも。
二人とも、幸せそうでした。
「お姉ちゃんが言ってたんだ」
佳代さんが続けました。
「花がなくても、お母さんがいてくれたからいいって」
和子さんの目から、涙が落ちました。
「それにね」
佳代さんが笑いました。
「返ってきたお金で、お母さんとお姉ちゃんと私、三人で旅行に行こうって」
「旅行?」
「うん。お父さんと昔行った温泉に」
和子さんは、写真を見つめました。
それから。
ゆっくり頷きました。
「……そうね」
私は、その光景を見ながら思いました。
民法は。
時間を巻き戻すことはできません。
結婚式の日を、もう一度やり直させることもできない。
でも。
失ったもののすべてを取り戻せなくても。
不当に拘束された契約を終わらせることはできる。
払ったお金を取り戻すこともできる。
そして。
次の幸せのために、そのお金を使う自由を取り戻すことはできるのです。
二人が帰ったあと。
私は、机の上の六法を眺めていました。
「所長」
「何だ」
「契約解除って、最初は怖い制度だと思ってました」
「そうか」
「はい」
私は言いました。
「せっかく結んだ契約を、一方的に終わらせるんですよね」
「そうだな」
「だから、契約を破った相手を罰する制度だと思ってました」
片桐所長が、帳簿から顔を上げました。
「それだけか」
「……違いますね」
私は首を振りました。
約束が守られなかった。
それでも。
いつまでも契約に縛られ続ける。
代金も取り戻せない。
次の仕事も頼めない。
そんなことになれば。
約束を守った側が、かえって苦しんでしまう。
「解除って……」
私は、ゆっくり言いました。
「もう目的を果たせない契約から、人を解放するための制度でもあるんですね」
所長が頷きました。
「そうだ」
相馬先輩が、横から口を挟みました。
「もっとも、昭和の民法じゃ、帰責事由だの、催告だの、面倒な壁があるがな」
「はい」
「だから、事情をよく調べる」
「はい」
「ただ『契約違反だ、解除だ』って騒いでも駄目だ」
「分かりました」
私はノートを開きました。
そこに、今日の事件のことを書き始めます。
十月九日。
午前九時。
結婚披露宴。
花は届かなかった。
翌日では意味がない。
契約目的の達成不能。
定期行為。
無催告解除。
原状回復。
利息。
損害賠償。
そして。
契約当事者が複数いる場合の解除の不可分性。
「……うわ」
私は思わず声を漏らしました。
相馬先輩が顔を上げます。
「何だ」
「今回、一つの結婚式の花だけで、こんなに民法の論点が出てきました」
「そりゃそうだ」
「契約解除って、奥が深いですね」
「今ごろ気づいたか」
「はい!」
私は笑いました。
でも。
一番覚えたのは、条文番号ではありません。
あの黒田社長の言葉です。
――明日届ければいいだろ。
そして。
それに対する、民法の答え。
――明日では、契約目的を達成できないことがある。
「先輩」
「何だ」
「今日の教訓、できました」
「聞いてやる」
私はノートの最後に、大きく一行を書きました。
――契約解除は、破られた約束に縛られ続けないための権利。『いつ履行するか』までが、約束の中身になる。
「どうですか!」
相馬先輩は、しばらくそれを見ていました。
「……まあ、悪くねえな」
「褒めましたね!」
「気のせいだ」
「またそれですか!」
私は笑いました。
そのとき。
片桐所長が、静かに言いました。
「こはる」
「はい」
「もう一つ覚えておけ」
「何でしょう」
「解除できるということと、何でも自由に解除していいということは違う」
私は頷きました。
「はい」
「契約は、本来守るものだ」
「はい」
「だが、守られない契約に、相手を永久に縛りつけるためのものでもない」
私は、所長の言葉を胸に刻みました。
契約自由。
約束は守る。
けれど。
約束が守られなかったときには、そこから離れる自由もある。
民法は、その両方を大切にしているのです。
夕方。
事務所の電話が鳴りました。
「はい、片桐行政書士事務所です!」
『あのう……』
男性の声。
『実は、家具屋に注文した机が、三日遅れて届いたんですが……』
「はい」
『腹が立ったので、契約を解除して、代金を全部返してもらいたいんです』
私は、ぴくりとしました。
机。
三日遅れ。
契約解除。
……。
「先輩」
「何だ」
「今度は机です」
「聞こえてる」
「三日遅れです」
「そうだな」
「結婚式の花とは、違いますよね」
相馬先輩が、にやりと笑いました。
「そうだな」
私は受話器を握り直しました。
「すみません。まず、その机を使う目的と、納入日時について、契約でどのように約束されていたか教えていただけますか?」
電話の向こうで、男性が少し驚いたようでした。
『え? 目的ですか?』
「はい」
『普通の事務机です。店を開くために買ったんですが……』
「お店は、もう開店されたんですか?」
『ええ。昨日から使ってます』
……。
なるほど。
すでに机は届いている。
しかも使っている。
では。
その三日の遅れは、契約を解除できるほど重大なものだったのか。
そもそも、解除の前にどんな経緯があったのか。
まだ確認しなければなりません。
私は、ノートの端に書きました。
――履行遅滞。
――催告。
――契約目的。
――軽微な不履行。
また、新しい事件です。
昭和六十三年。
民法の世界。
ここでは、契約書に書かれた約束を破ったからといって、必ず解除できるわけではありません。
逆に。
物を届けられるからといって、いつまでも契約を続けさせられるわけでもありません。
大事なのは。
何を。
いつまでに。
何のために。
約束したのか。
そして。
その約束が守られなかったことで、契約の目的がどうなったのか。
そこなのです。
「先輩!」
「今度は何だ!」
「私、契約解除が好きになってきました!」
「契約を破るなよ」
「破りません!」
「じゃあ仕事しろ」
「はいっ!」
私は受話器を握り直しました。
窓の外には、秋の夕暮れ。
商店街の店先には、花が並んでいます。
赤いバラ。
白い百合。
黄色い菊。
あの結婚式に届かなかった花は、今、どこにあるのでしょう。
でも。
もう、それを考えても仕方がありません。
結婚式の日は戻らない。
だからこそ。
法律は、終わってしまった約束から、人を解放することができる。
そして。
次の幸せに向かうための、お金と自由を取り戻す手助けをしてくれる。
私は、今日の教訓をもう一度見ました。
――契約解除は、破られた約束に縛られ続けないための権利。
うん。
これは、忘れません。
だって。
結婚式の花は。
翌日に届いても、もう結婚式には間に合わないのですから。
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