[民法・相殺]法理編 こはるノート
借金は、必ずしも現金で返す必要はありません。
相手が自分に借金をしているなら。
互いの債権を、帳消しにできることがあります。
ただし。
百二十万円と七十万円を引き算して、五十万円。
それだけでは、法律上の相殺を理解したことにはなりません。
誰が相殺するのか。
いつ相殺できるのか。
何を相殺できるのか。
そして。
なぜ、相殺してはいけない債権があるのか。
この四つを理解して初めて、相殺という制度の本当の意味が見えてきます。
昭和六十三年。
夕方の片桐行政書士事務所。
私は机に向かい、ノートを開いていました。
表紙には大きく、
――こはるノート・民法編。
と書いてあります。
「……百二十万円、引く、七十万円」
私は鉛筆を動かしました。
「答えは五十万円!」
「小学生か」
相馬先輩が新聞から顔を上げました。
「違います!」
「何がだ」
「民法の勉強です!」
「引き算してただけだろ」
「それが大事なんです!」
私は胸を張りました。
「相殺は、引き算の法律なんです!」
相馬先輩は煙草をくわえました。
「じゃあ聞くぞ」
「はい!」
「百二十万円と七十万円があれば、必ず相殺できるのか?」
「……え?」
「答えろ」
私は固まりました。
……。
そうでした。
数字だけでは駄目なのです。
相馬先輩が笑いました。
「ほらな」
「くっ……!」
「昨日の事件、もう忘れたのか?」
忘れるわけがありません。
森田澄江さん。
小さな菓子店を営む女性。
湖西観光物産に百二十万円分のお菓子を納めたのに、代金を払ってもらえなかった。
ところが。
相手の黒岩源造は、澄江さんに七十万円のオーブン代金を請求してきた。
自分は百二十万円を払わない。
でも、相手には七十万円を払わせる。
そんな理不尽な要求でした。
そこで私たちは。
民法五百五条と五百六条を使い、相殺通知書を作成しました。
その結果。
七十万円のオーブン代金債務は消滅。
菓子代金債権は五十万円の元本が残った。
黒岩は残額を支払い、澄江さんは店を続けられることになったのです。
「よし!」
私は鉛筆を握りました。
「今日は、相殺を完全攻略します!」
「毎回言ってるな、それ」
「今回は本気です!」
「いつも本気だろ」
そのとき。
奥から片桐所長が声をかけました。
「相馬」
「はい」
「昨日の資料を使ってやれ」
「……また勉強会ですか」
「そうだ」
私は拳を握りました。
よし。
今日も、強制勉強会の始まりです。
◇
「まず、相殺とは何か!」
私はノートに大きく書きました。
――相殺。
二人が互いに同種の債権を持ち、一定の要件を満たすとき、対当額で債権債務を消滅させる制度。
「つまり!」
私は言いました。
「互いにお金を払う義務があるなら、実際にお金を行ったり来たりさせずに帳消しにできるんです!」
「そうだな」
相馬先輩が頷きました。
「今回の事件で考えてみろ」
「はい!」
私はノートに書きました。
森田澄江さん。
黒岩の会社に対する菓子代金債権。
百二十万円。
一方。
黒岩の会社。
森田さんに対するオーブン代金債権。
七十万円。
「この二つを、そのまま別々に支払うとどうなります?」
私が聞くと、相馬先輩が答えました。
「森田が七十万円払う」
「はい」
「黒岩の会社が百二十万円払う」
「そうです」
「でも、黒岩は払う気がなかった」
「そこなんです!」
私は机を叩きました。
ここが相殺の重要なところ。
仮に澄江さんが七十万円を払ってしまったら。
そのあと黒岩が倒産したらどうなるでしょう。
澄江さんは、百二十万円を回収できなくなるかもしれません。
でも。
相殺できれば。
澄江さんは、七十万円を実際に支払わずに済みます。
そして。
百二十万円のうち七十万円分は、相殺によって回収したのと同じ経済的な結果になる。
「なるほど……」
私は頷きました。
「相殺には、支払いを簡単にするだけじゃなく、自分の債権を守る意味もあるんですね」
「そうだ」
片桐所長が言いました。
「相手の資力が悪化しても、相殺できる状態なら、一定の範囲で回収不能の危険を減らせる」
私はノートに書き加えました。
――相殺には、簡易決済と担保的機能がある。
「担保的機能……」
「難しいか?」
「いえ!」
私は首を振りました。
「澄江さんの七十万円を守った仕組みだと思えば、分かります!」
相馬先輩が笑いました。
「それでいい」
そうです。
丸暗記ではなく、事件を思い出す。
相殺を認めなかったら、澄江さんは七十万円を支払ったうえで、百二十万円の回収を待つことになる。
そんな危険を避けるための制度でもある。
だからこそ、相殺は重要なのです。
◇
「次は、自働債権と受働債権です!」
私はノートの真ん中に、大きく二つの言葉を書きました。
自働債権。
受働債権。
「先輩」
「何だ」
「この二つ、名前が意地悪だと思いませんか?」
「法律に文句を言うな」
「だって!」
私は鉛筆を振りました。
「自働と受働って、どっちがどっちか分からなくなるんです!」
「昨日も間違えてたな」
「その話は忘れてください!」
「自働債権を七十万円だって言ってたな」
「忘れてくださいってば!」
相馬先輩が笑いました。
私は気を取り直しました。
「まず、自働債権です」
相殺を主張する人が持っている債権。
「今回、相殺したのは誰ですか?」
「森田さんだ」
「はい」
「だったら?」
「森田さんが持っている百二十万円の債権が、自働債権!」
私は大きく丸をつけました。
「では、受働債権は?」
「相手が持ってる債権だろ」
「そうです!」
黒岩の会社が持っている七十万円のオーブン代金債権。
これが受働債権。
私はノートに矢印を書きました。
――自働債権は、相殺する側の武器。
――受働債権は、その武器によって消される相手側の債権。
「これなら覚えられます!」
「物騒な覚え方だな」
「先輩がいつも、内容証明は武器だって言うからです!」
「俺のせいかよ」
でも。
私はここで、一つ気づきました。
「先輩」
「何だ」
「同じ二つの債権でも、相殺する人が逆になったら、呼び方も逆になりますよね?」
相馬先輩が頷きました。
「そうだ」
たとえば。
黒岩の会社が、七十万円のオーブン代金債権を使って相殺する場合。
自働債権は七十万円。
受働債権は百二十万円。
つまり。
どちらが自働債権になるかは、金額で決まるわけではありません。
大きい方が自働。
小さい方が受働。
ではない。
「相殺を主張する人を先に決めるんですね」
「そういうことだ」
私は頷きました。
これは重要です。
試験問題で、
AがBに対して相殺を主張した。
と書いてあったら。
まずAの持つ債権が自働債権。
Bの持つ債権が受働債権。
ここを間違えないこと。
私はノートの端に書きました。
――自働・受働は、金額ではなく、相殺を言い出す人で決まる。
◇
「さて」
相馬先輩が新聞を畳みました。
「次が本題だ」
「相殺適状ですね!」
「そうだ」
私は大きく書きました。
――相殺適状。
相殺できる法律上の状態。
「今回、澄江さんが相殺できたのは、なぜですか?」
私が聞くと、先輩が指を一本立てました。
「まず、互いに債権を持っている」
「はい!」
森田さんは百二十万円の債権を持っている。
黒岩の会社も七十万円の債権を持っている。
しかも、同じ当事者同士。
「もし百二十万円の債務者が黒岩個人で、七十万円の債権者が会社だったら?」
相馬先輩が聞きました。
「……そのままでは相殺できません」
「何でだ?」
「債権者と債務者の対応関係が違うからです!」
そうです。
黒岩個人と、黒岩の経営する会社は別の法律主体。
たとえ社長が同じでも。
個人の借金と会社の借金を、勝手にまとめて帳消しにはできません。
「そこを確認したのが、昨日の契約書ですね」
「そうだ」
私は頷きました。
次。
互いの債権が、同種の目的を持っていること。
「今回、両方ともお金でした!」
「そうだな」
百二十万円。
七十万円。
どちらも金銭債権。
だから、同種の目的。
「じゃあ、相手にピアノを引き渡す義務があって、自分にはお金を払う義務がある場合は?」
相馬先輩が聞きました。
「普通は相殺できません!」
「何でだ?」
「お金を払うことと、ピアノを引き渡すことは、同じ種類の給付じゃないからです!」
「正解」
私は大きく頷きました。
相殺は、何でも消せる魔法ではありません。
互いに同種の給付をする義務があるから、対当額で打ち消せる。
そして。
三つ目。
弁済期。
私はノートをめくりました。
「ここが、昨日の昼休み事件ですね!」
相馬先輩が顔をしかめました。
「何だ、その事件名」
「五百円と三百円の相殺事件です!」
「事件にするな」
私は続けました。
「相殺では、原則として双方の債権が弁済期にある必要があります」
「そうだ」
民法五百五条一項。
双方の債務が弁済期にあるとき。
その対当額について、相殺によって債務を免れることができる。
「でも、先輩!」
「何だ」
「自働債権と受働債権では、扱いに違いがあります!」
私はノートに書きました。
自働債権。
原則として、弁済期の到来が必要。
受働債権。
相殺する側が期限の利益を放棄できる場合、弁済期前でも相殺できることがある。
「なぜですか?」
相馬先輩が聞きました。
私は少し考えました。
「自働債権は、相手に支払いを請求するための債権だからです」
「うん」
「まだ支払期限が来ていないのに、勝手に相手へ支払いを強制するようなことはできません」
「そうだな」
「でも、受働債権については、自分が期限の利益を放棄して早く支払うことができる場合があります」
相馬先輩が頷きました。
「だから、弁済期前でも相殺できる余地がある」
「はい!」
ただし。
ここは大切です。
受働債権の弁済期がまだ来ていないのに、何もしなくても最初から相殺適状だったことになるわけではありません。
期限の利益の放棄などによって、実際に弁済期が到来した状態にする必要があります。
また、期限の利益を放棄することで相手方の利益を害する場合には、その問題も考えなければなりません。
「つまり」
私は言いました。
「自働債権は、相手に請求できる時期か。受働債権は、自分が今払える状態にできるか。そこが重要なんですね」
「そういうことだ」
片桐所長が頷きました。
今回の百二十万円と七十万円は、両方とも既に弁済期が来ていました。
だから、話が簡単だった。
でも。
弁済期の違う債権が出てきたら、慎重に確認する必要があるのです。
◇
「では、四つ目」
私は書きました。
――債務の性質が相殺を許すこと。
「これは何ですか?」
相馬先輩が尋ねます。
「債権が二つあって、同じ種類で、弁済期も来ていれば、何でも相殺できるわけじゃないということです」
「例えば?」
私は考えました。
「同時履行の抗弁権が問題になる場合です!」
相馬先輩が頷きました。
たとえば。
AがBに対して、商品代金十万円を請求できる。
でもA自身も、Bに商品を引き渡さなければならない。
しかも。
Aはまだ商品を引き渡していないし、引渡しの提供もしていない。
そのため、Bは同時履行の抗弁権を持っている。
「ここでAが、別の十万円の債権を持っていたとして、Bへの代金債務と相殺できるかどうかを考える場面ですね」
私は言いました。
「相手の同時履行の抗弁権を、一方的に奪うような相殺は問題になります」
「そうだ」
片桐所長が言いました。
「抗弁権の付いた債権を、自働債権として使う場合には注意が必要だ」
「はい!」
私はノートに書きました。
――同時履行の抗弁権が付着した債権を自働債権とする相殺は、原則として許されない。
私は少し考えました。
「つまり、相殺という制度を使って、相手の正当な権利を踏み潰してはいけないんですね」
「そうだ」
所長が頷きました。
なるほど。
相殺は公平のための制度。
だからこそ、相殺によって逆に不公平が生じる場合には、制限される。
法律って、なかなかよくできています。
◇
「さて、こはる」
相馬先輩が煙草を灰皿に押しつけました。
「相殺禁止だ」
「来ました!」
私はノートに大きく書きました。
――相殺禁止。
「ここ、昭和六十三年と現代で大きく違うところがあります!」
「何がだ?」
私は六法を開きました。
民法五百九条。
「先輩、昨日も見ましたよね」
「ああ」
昭和六十三年の民法五百九条。
不法行為によって生じた損害賠償債務の債務者は、相殺をもって債権者に対抗できない。
私は大きく頷きました。
「これ、現代の条文とは違うんです」
「……また未来の話か」
「大事なんです!」
私はノートを二つに分けました。
昭和六十三年。
不法行為による損害賠償債務を負う側からの相殺を広く禁止。
令和。
悪意による不法行為に基づく損害賠償債務。
人の生命または身体の侵害による損害賠償債務。
この二つを中心に、相殺禁止の対象が整理されている。
「なぜ変わったんですか?」
私は自分で問いかけました。
そこが重要です。
昔の民法五百九条は、不法行為による損害賠償債務について、加害者側からの相殺を広く禁止していました。
たとえば。
AがBに十万円を貸していた。
そのあと。
Aが誤ってBの自転車を壊し、十万円の損害を与えた。
AはBに十万円の損害賠償義務を負う。
「昭和六十三年だと?」
相馬先輩が聞きました。
「Aは、自分の貸金債権十万円を使って、不法行為による損害賠償債務を一方的に相殺することはできません!」
「そうだ」
でも、なぜでしょう。
私は考えました。
「被害者に、現実の賠償を受けさせるためです」
「うん」
「それから、加害者が相殺で済ませられると思って、安易に不法行為をすることを防ぐ意味もあります」
相馬先輩が頷きました。
ところが。
現代の改正民法では、相殺禁止の対象が整理されました。
人の生命や身体を侵害した場合。
あるいは、積極的に他人の権利を侵害する意思による、悪意の不法行為の場合。
そうした重大な場面では、被害者を保護する必要性がとくに強い。
一方。
単なる過失による物損事故まで、常に相殺を禁止する必要があるのか。
そこには議論がありました。
「だから、現代では相殺禁止の範囲が絞られたんですね」
「なるほどな」
相馬先輩が頷きました。
私は続けました。
「しかも、人の生命や身体を侵害した場合は、不法行為だけでなく、債務不履行に基づく損害賠償にも相殺禁止が及ぶ場合があります」
「ほう」
「例えば、契約上の安全配慮義務違反によって人がけがをした場合などです」
私はノートに書き加えました。
――現代の民法五百九条は、被害者保護の必要性が高い損害賠償債権を重視している。
「でも先輩」
「何だ」
「昭和六十三年では、まだ旧法です」
「当たり前だ」
「だから今の事件には、現代の五百九条を持ち込めません!」
「そうだな」
私は苦笑しました。
転生者のつらいところです。
現代の条文を覚えていても。
昭和では、昔の条文で判断しなければならない。
ただし。
相殺禁止について、絶対に忘れてはいけないことがあります。
「誰が相殺するのか、です」
私は言いました。
「たとえば、不法行為の被害者が、自分の損害賠償請求権を自働債権として使う場合は、話が違います」
相馬先輩が頷きます。
「そうだ」
加害者が一方的に賠償を帳消しにすることを防ぐ。
そのための規定です。
被害者自身が、自分の債権を使って相殺することまで、一律に禁止する趣旨ではありません。
「だから、自働債権と受働債権の区別が大切なんですね!」
「ようやく分かったか」
「はい!」
私は大きく丸をつけました。
なるほど。
受験で間違えやすい理由が、よく分かりました。
◇
「次は差押禁止債権です」
私は書きました。
民法五百十条。
「差押禁止債権って、何ですか?」
相馬先輩が聞きました。
「法律で、差押えが禁止されている債権です」
「例えば?」
「扶養請求権です!」
私は頷きました。
扶養請求権。
生活を支えるための権利。
これを自由に差し押さえられたら、扶養を受ける人が生活できなくなるかもしれません。
「だから、相殺によって一方的に消されることも制限されるんですね」
「そうだ」
所長が言いました。
「差押えが禁止されている債権を、債務者の側から相殺で消してしまえば、差押禁止の意味が失われる」
私は頷きました。
なお。
給料についても、民事執行法上、原則として一定の範囲が差押禁止となっています。
給料全額が常に差押禁止というわけではありませんが、労働者の生活を守るための制限があります。
「つまり、生活を支えるためのお金を、何でも帳消しにしてはいけないんですね」
「そういうことだ」
相馬先輩が頷きました。
私はノートに書きました。
――差押禁止債権は、債務者側からの相殺による対抗が制限される。
ここでも。
相殺は便利だから、何でも認める。
ではない。
法律が守ろうとしている生活の利益を、相殺で奪ってはいけないのです。
◇
「さて、次」
片桐所長が口を開きました。
「差押えと相殺だ」
「民法五百十一条ですね!」
私は頷きました。
ここも、行政書士試験で重要なところです。
たとえば。
AがBに百万円を貸している。
つまりAは、Bに対する百万円の債権を持っている。
ところが。
CがAに対する債権を回収するため、Aの持つ百万円の貸金債権を差し押さえた。
「このとき、Bがどうするかですね」
「そうだ」
相馬先輩が頷きました。
「Bが、差押えを受けたあとでAに対する別の債権を取得したら?」
「原則として、その債権を使った相殺を、差押債権者Cに対抗できません!」
私は答えました。
「なぜだ?」
「差押えのあとで、わざと反対債権を手に入れて相殺できるとしたら、差押債権者の利益が害されるからです」
「そうだな」
でも。
ここには、さらに重要な違いがあります。
「差押えより前から反対債権を持っていた場合です!」
私はノートに書きました。
現代の民法五百十一条では、差押え前に取得した反対債権による相殺について、差押債権者に対抗できることが明文化されています。
さらに。
差押え後に取得した債権でも、差押え前の原因に基づいて生じた場合には、一定の範囲で相殺を対抗できる。
ただし。
差押え後に他人から債権を譲り受けた場合などには、例外があります。
「……ややこしい!」
私は頭を抱えました。
相馬先輩が笑います。
「だから、条文を丸暗記するなってことだ」
「はい……」
「何を守る制度か考えろ」
私は少し考えました。
差押債権者の利益。
そして。
差押え前から反対債権を持っていた人の、相殺できるという期待。
「この二つを調整しているんですね」
「そうだ」
片桐所長が頷きました。
ここで、私はふと思い出しました。
昭和六十三年の民法五百十一条。
あれは、現在の条文よりもずっと短かったはずです。
「所長!」
「何だ」
「この時代の五百十一条は、今より簡潔ですよね」
「そうだな」
昭和六十三年の旧法では。
差押え後に取得した債権による相殺をもって、差押債権者に対抗できない。
その基本が規定されていました。
ただし。
差押え前から存在する反対債権をどう扱うかについては、判例の積み重ねが重要でした。
「現代では、判例で形成された考え方が条文に整理された部分もあるんですね」
「そういうことだ」
私は頷きました。
なるほど。
民法改正は、単に新しい制度を作るだけではない。
昔から判例によって認められてきたルールを、分かりやすく条文にすることもある。
その意味が、少し分かった気がしました。
◇
「では、次!」
私は鉛筆を握りました。
「相殺禁止の特約です!」
相馬先輩が首をかしげました。
「昨日の黒岩の契約書には、なかったな」
「そうです」
今回の事件では、相殺を禁止する特約がありませんでした。
だから、黒岩が一方的に、
「別々の契約だから相殺できない」
と主張しても、それだけでは相殺を妨げる理由にならなかった。
でも。
最初から当事者が、
――互いの債権は相殺しない。
と合意していたらどうなるでしょう。
「原則として、当事者間では相殺禁止の合意が効力を持ちます」
「そうだ」
私はノートに書きました。
――相殺禁止特約があれば、原則としてその合意に拘束される。
「でも、第三者が関係すると話が違うんですよね」
相馬先輩が頷きました。
旧民法五百五条二項。
当事者が反対の意思表示をした場合、相殺の規定は適用しない。
ただし、その意思表示は、善意の第三者に対抗できない。
「昭和六十三年では、こういう規定なんですね」
「そうだ」
私は続けました。
「現代では、善意というだけでなく、重大な過失によって知らなかった場合も問題になります」
現代の改正民法では。
相殺禁止や制限の意思表示は、第三者がそれを知っていた場合、または重大な過失によって知らなかった場合に限って、第三者に対抗できる。
「つまり」
私は言いました。
「相殺禁止の合意を知らなかった第三者でも、知らなかったことに重大な落ち度があれば、保護されない場合があるんですね」
「そういうことだ」
私は頷きました。
契約した当事者同士の約束。
そして、第三者の取引の安全。
その両方を調整しているのです。
ここも、現代の民法で明確化された部分でした。
◇
「ところで、先輩」
私はノートをめくりました。
「相殺って、時効で消滅した債権でもできることがあるんですよね?」
「おっ」
相馬先輩が顔を上げました。
「そこに気づいたか」
私は少し嬉しくなりました。
民法五百八条。
時効によって消滅した債権であっても。
時効消滅する前に相殺適状になっていた場合には、その債権を使って相殺できる。
「これ、面白いですよね」
「何でだ?」
「普通、時効によって消滅した債権は使えないはずなのに、相殺なら使える場合があるからです」
相馬先輩が頷きました。
私は具体例を書きました。
AはBに百万円を貸している。
BもAに百万円を貸している。
両方とも弁済期が来ている。
つまり、相殺適状。
ところが。
Aは相殺の意思表示をしないまま、長い年月が過ぎた。
そして、自働債権として使いたかった貸金債権について、消滅時効が完成した。
「この場合ですね」
私は言いました。
「時効によって消滅する前に、相殺適状になっていたなら、五百八条によって相殺できる場合があります」
「そうだ」
では、なぜでしょう。
私は考えました。
「相殺適状になった時点で、お互いの借金を帳消しにできるという期待が生まれていたからです」
「そのとおり」
片桐所長が頷きました。
ただし。
時効によって消滅する前に、一度も相殺適状になっていなかった場合には、原則として五百八条による救済は受けられません。
「つまり、何でも時効を無視して相殺できるわけじゃないんですね」
「そうだ」
相馬先輩が言いました。
「ここでも重要なのは、相殺適状になった日だ」
私は大きく頷きました。
なるほど。
相殺適状。
この言葉。
最初はただの難しい法律用語でした。
でも。
弁済期。
遡及効。
遅延損害金。
消滅時効。
いろいろな問題につながっているのです。
◇
「さて」
相馬先輩が立ち上がりました。
「そろそろ最後だな」
「まだあります!」
「まだあるのかよ!」
「相殺の方法と効果です!」
私はノートに書きました。
民法五百六条。
相殺は、当事者の一方から相手方に対する意思表示によって行う。
相手の承諾は不要。
条件や期限を付けることはできない。
「今回、私が最初に書いた内容証明、覚えてます?」
「ああ」
相馬先輩が笑いました。
「相殺することを希望します、だったな」
「……はい」
「交渉のお願いになってたな」
「……はい」
私は赤面しました。
でも。
今なら違いが分かります。
相殺をお願いする。
これは、相手の同意を求める言い方。
一方。
相殺する。
これは、法律上の相殺の意思表示。
「だから、通知書では明確に相殺する旨を書いたんですね」
「そうだ」
さらに。
相殺の意思表示に条件や期限を付けることはできません。
たとえば。
――来月になったら相殺する。
――相手が承諾した場合に相殺する。
このような条件や期限を付けた相殺の意思表示は認められない。
「相殺するなら、はっきり相殺する!」
私は言いました。
「そうだな」
相馬先輩が頷きました。
ただし。
内容証明郵便を送ったから、必ず相殺が有効になるわけではありません。
法律上の要件を満たしていなければ、相殺の意思表示をしても、期待どおりの効果は生じません。
また。
内容証明郵便は、記載した内容や差出しの事実を証明するための手段であって、記載した債権が本当に存在することまで証明するものではありません。
「だから、納品書や契約書が必要だったんですね」
「そうだ」
片桐所長が頷きました。
「法律の要件と、事実の証拠。両方が揃って初めて、強い書面になる」
私はその言葉を書き留めました。
そして。
最後の重要論点。
相殺の遡及効。
「先輩!」
「何だ」
「今回、相殺適状になった日はいつですか?」
「八月三十一日だ」
「相殺通知を送ったのは?」
「九月だ」
「では、相殺の効果は?」
「八月三十一日にさかのぼる」
「正解!」
私は満足げに頷きました。
民法五百六条二項。
相殺の意思表示は、双方の債務が互いに相殺に適するようになった時にさかのぼって効力を生ずる。
私はノートに書きました。
八月三十一日。
相殺適状。
九月。
相殺通知。
でも。
法律上の効果は、八月三十一日にさかのぼる。
「だから!」
私は言いました。
「黒岩さんが請求していた、九月以降の七十万円に対する遅延損害金は、相殺によって消滅した部分について発生しないんですね!」
「そうだ」
相馬先輩が頷きました。
ただし。
相殺適状になる前の遅延損害金まで、当然に消えるわけではありません。
今回なら、菓子代金百二十万円の支払期限は六月三十日。
相殺適状になったのは八月三十一日。
その間の遅延損害金については、別に考える必要があります。
「つまり、相殺の遡及効は、何でも過去に戻って消せる魔法じゃないんですね」
「そうだ」
私は笑いました。
転生者としては。
過去に戻るという言葉に、つい反応してしまいます。
でも。
相殺の遡及効は、時間旅行ではありません。
相殺できる状態になった時点を基準として、債権債務の消滅を認める法律上の仕組みなのです。
◇
窓の外は、すっかり夕暮れでした。
私はここまでのノートを見直しました。
相殺。
自働債権。
受働債権。
相殺適状。
弁済期。
相殺禁止。
遡及効。
最初は、たくさんの難しい言葉でした。
でも。
森田澄江さんの事件を思い出すと、全部つながります。
「所長」
「何だ」
「確認問題を出してもらっていいですか?」
「いいだろう」
所長は帳簿を閉じました。
「AがBに百万円の債権を持ち、BもAに六十万円の債権を持っている」
「はい!」
「Aが相殺を主張する場合、自働債権は?」
「Aの百万円の債権です!」
「受働債権は?」
「Bの六十万円の債権です!」
「相殺できれば、どうなる?」
「六十万円分が消滅して、Aの債権が四十万円残ります!」
「よし」
所長が続けました。
「相殺には相手の承諾が必要か」
「必要ありません!」
「条件を付けられるか」
「付けられません!」
「期限は?」
「付けられません!」
「効果はいつ生じる」
「相殺適状になった時にさかのぼります!」
よし。
完璧。
所長がさらに聞きました。
「自働債権の弁済期がまだ来ていない場合は?」
「原則として、相殺できません!」
「受働債権の弁済期がまだ来ていない場合は?」
「相殺する人が期限の利益を放棄できる場合には、弁済期を到来させて相殺できることがあります!」
「よし」
私は拳を握りました。
そして。
相馬先輩が口を挟みました。
「じゃあ俺からも一問」
「はい!」
「昭和六十三年の民法五百九条と、現代の五百九条の違いは?」
来ました。
時代錯誤問題。
「昭和六十三年は、不法行為による損害賠償債務を負う側からの相殺を広く禁止しています!」
「うん」
「現代では、悪意による不法行為と、人の生命・身体の侵害による損害賠償債務を中心に、禁止範囲が整理されています!」
「よし」
「さらに!」
私は続けました。
「現代の五百十一条では、差押え前に取得した債権による相殺や、差押え前の原因に基づく債権について、規定が整理されています!」
「……お前、本当に勉強してるな」
相馬先輩が少し驚いた顔をしました。
私は胸を張りました。
「当然です!」
「珍しい」
「ひどい!」
でも。
私は嬉しかったのです。
単に条文を覚えるだけではなく。
その意味が分かるようになってきた。
相殺は、互いの債権債務を公平に整理する制度。
でも。
不法行為の被害者や、生活を支えるための債権を持つ人を守る必要もある。
そして。
差押債権者と、相殺を期待していた人の利益も調整しなければならない。
法律は。
一方だけを守ればいい、というものではないのです。
◇
「ところで、こはる」
相馬先輩が言いました。
「はい?」
「今日の勉強会、もう終わりか?」
「はい!」
「じゃあ、机を片付けろ」
「え?」
「六法も戻せ」
「はい」
「それから、湯呑みを洗え」
「……また雑用ですか」
「見習いだろ」
私は腕を組みました。
「先輩」
「何だ」
「私、昨日の弁当代五百円を払いましたよね?」
「ああ」
「でも、先輩は私に今日の掃除当番を代わるって約束してましたよね?」
相馬先輩が眉をひそめました。
「……いつだ?」
「今朝です!」
「そうだったか?」
「はい!」
私はにやりと笑いました。
「つまり、先輩は私に掃除当番を代わる義務を負っています!」
「……それがどうした」
「だから、私が先輩に負っている雑用の義務と相殺します!」
沈黙。
相馬先輩が、ゆっくり私を見ました。
「こはる」
「はい!」
「それ、相殺できると思ってるのか?」
「え?」
「民法五百五条、何て書いてあった?」
私は固まりました。
……。
同種の目的を持つ債務。
……。
「あ」
相馬先輩が笑いました。
「掃除当番を代わる義務と、湯呑みを洗う義務。どっちも労務だからって、当然に相殺できるわけじゃねえぞ」
「……ですよね」
「内容も条件も違う。相殺で消せるかどうかは、債務の性質まで考えなきゃならねえ」
「はい……」
私は肩を落としました。
相殺。
便利な制度。
でも。
何でも帳消しにできるわけではない。
法律は、そんなに甘くありません。
「分かりました!」
私は湯呑みを手に取りました。
「洗います!」
「よし」
「でも先輩!」
「何だ!」
「明日の掃除当番は、約束どおり代わってくださいね!」
相馬先輩が顔をしかめました。
「……覚えてたのか」
「もちろんです!」
私は笑いました。
これも民法。
約束は守らなければならない。
ただし。
その約束を、何でも相殺で消せるわけではない。
なるほど。
勉強したことが、すぐに日常生活で役に立ちました。
◇
湯呑みを洗い終えたあと。
私はもう一度、ノートを開きました。
今日の最後の一行。
何を書こう。
少し考えて。
私は鉛筆を走らせました。
――相殺は「自分の債権で相手の債権を消す」。ただし、相殺適状・禁止事由・遡及効を忘れるな。
「……できた!」
私はノートを閉じました。
相馬先輩が覗き込みます。
「まあ、いいんじゃねえか」
「褒めましたね!」
「気のせいだ」
「またそれですか!」
私は笑いました。
でも。
この一行は、たぶん忘れません。
百二十万円と七十万円。
最初は、ただの数字でした。
でも。
その数字を正しく整理することで。
一つのお店が救われた。
澄江さんが、お菓子を作り続けられることになった。
娘さんが、安心して店を手伝えるようになった。
それは。
民法が、ただの計算式ではない証拠です。
相殺は。
誰かを得させるためだけの制度ではありません。
互いの債権を公平に整理し、不必要な支払いと回収不能の危険を減らすための制度です。
そして。
相殺してはいけない場面を定めることで、被害者や生活を守る必要のある人も保護している。
法律は。
ただ借金を消すだけではなく。
その向こうにいる人間の暮らしまで、考えているのです。
「所長」
「何だ」
「今日、相殺が少し好きになりました」
「そうか」
「はい」
私は窓の外を見ました。
夕暮れの商店街。
菓子工房もりたの灯りが、遠くに見えます。
あの店では今も、栗まんじゅうが焼かれているのでしょう。
甘い香り。
温かい店。
笑顔のお客さん。
そういう日常を。
民法五百五条と五百六条が、静かに支えている。
私は微笑みました。
「法律って、やっぱり面白いですね」
相馬先輩が笑いました。
「面白がってる暇があったら、次の相談票を取れ」
「はい!」
そのとき。
電話が鳴りました。
「はい、片桐行政書士事務所です!」
『あのう……』
女性の声。
『息子が、知り合いにお金を貸しているんですけど……』
「はい」
『その知り合いが、息子にけがをさせたんです』
私は姿勢を正しました。
『治療費を請求したら、貸したお金と帳消しにすると言われて……』
……。
来ました。
今度は。
不法行為。
しかも、人の身体の侵害です。
「先輩!」
「何だ!」
「次、五百九条です!」
「聞こえてるよ!」
「しかも昭和六十三年の旧法です!」
「当たり前だろ!」
私は受話器を握り直しました。
「すみません。まず、どなたが誰に、どのような債権を持っているのか、詳しく教えてください」
昭和六十三年。
民法の世界は、今日も奥が深い。
お金を払う。
お金を返す。
そして。
お金を帳消しにする。
そのどれにも、法律上の理由がある。
でも。
相殺という便利な制度を、誰かを傷つけた責任から逃れるために使えるとは限りません。
私は今日、それを学びました。
だから。
次の相談でも、きっと間違えません。
誰の債権か。
どちらが自働債権か。
どちらが受働債権か。
そして、相殺を禁止する理由はないか。
そこを確認してから、判断する。
だって。
百二十万円の借金を帳消しにできる法律がある一方で。
けがをさせた責任を、勝手に帳消しにさせない法律もあるのです。
私はノートの最後の一行を、もう一度読みました。
――相殺は「自分の債権で相手の債権を消す」。ただし、相殺適状・禁止事由・遡及効を忘れるな。
よし。
完璧。
「こはる!」
「はい!」
「相談票!」
「あっ!」
相馬先輩の声が飛びました。
「今、取ります!」
「ノートばっかり見てるな!」
「復習してたんです!」
「復習は後だ!」
……なるほど。
相殺の勉強をどれだけ頑張っても。
見習いの仕事が、勝手に帳消しになるわけではないようです。
残念ながら。
そこだけは、昭和六十三年でも現代でも、変わらないのでした。
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