[民法・相殺]現場編 「借金は借金、別々に払え」の罠。百二十万円を踏み倒す悪徳商人と、七十万円の請求書を消し去る相殺の刃
借金は、足し算だけではありません。
ときには。
引き算で、人を救うこともあるのです。
たとえば。
あなたが誰かに百二十万円を貸している。
ところが、その相手に七十万円の借金もしている。
そんなとき。
相手から、
「俺への七十万円を先に払え。お前への百二十万円は、そのうち払う」
と言われたら。
素直に七十万円を払わなければならないのでしょうか。
しかも。
相手は、百二十万円を返すつもりがない。
そんな理不尽を許さないために、民法には一つの武器があります。
相殺。
そうさい。
互いの借金を、対当額で帳消しにする制度です。
ただし。
何でもかんでも帳消しにできるわけではありません。
弁済期。
債権の種類。
相殺禁止。
そして、誰が相殺を主張するのか。
そこを間違えると。
助かるはずの人が、逆に財産を失ってしまうことがあります。
昭和六十三年。
片桐行政書士事務所。
その日、私は初めて知ることになります。
借金を消すために必要なのは、必ずしもお金ではない。
ときには。
たった一通の内容証明郵便なのです。
◇
「七十万円、払えって言われたんです」
朝。
事務所に飛び込んできた女性は、そう言いました。
「でも、あの人は私に百二十万円も払っていないんですよ!」
「……はい?」
私は思わず聞き返しました。
女性の名前は、森田澄江さん。
四十五歳。
駅前商店街で、小さな菓子店を営んでいます。
店の名前は、
――菓子工房もりた。
ご主人を五年前に亡くし、一人娘と二人で切り盛りしているそうです。
商店街では評判のお店。
とくに、栗まんじゅうが人気なのだとか。
「百二十万円というのは?」
私が尋ねると、澄江さんは鞄から一冊の帳簿を取り出しました。
「春に、駅前の観光物産会社から頼まれたんです」
「観光物産会社?」
「はい。湖西観光物産という会社です」
駅前再整備に合わせ、観光客向けの土産物を販売する会社。
社長は、黒岩源造。
五十二歳。
商店街では強引な商売で知られる男でした。
「新しい観光案内所で、うちのお菓子を売りたいって」
「いい話じゃないですか」
「そう思ったんです」
澄江さんは寂しそうに笑いました。
「だから、三か月かけて、栗まんじゅうを大量に納めたんです」
納品額。
百二十万円。
支払期限。
昭和六十三年六月三十日。
「でも、六月三十日を過ぎても、お金が入らなくて」
「催促は?」
「何度もしました」
澄江さんが一枚の手紙を差し出します。
黒岩からの返事です。
――売上金の回収が遅れているため、代金支払を猶予されたい。
日付は七月十日。
「それから?」
「八月になっても払ってくれませんでした」
「今は九月ですよね」
「はい」
三か月近く。
百二十万円が未払い。
小さな菓子店にとっては、致命的な金額です。
材料代。
包装代。
電気代。
従業員への支払い。
どれも待ってはくれません。
「それなのに……」
澄江さんの声が震えました。
「あの人、今度は私に七十万円を払えって」
「七十万円?」
「お菓子を作る機械の代金です」
事情を聞くと、こうでした。
黒岩は以前、業務用の中古オーブンを販売していた。
澄江さんは今年五月、その会社から七十万円でオーブンを購入した。
代金は後払い。
支払期限は八月三十一日。
機械は問題なく納品され、現在も使用している。
つまり。
澄江さんは黒岩の会社に七十万円を支払う義務がある。
一方。
黒岩の会社は澄江さんに百二十万円を支払う義務がある。
どちらも金銭債権。
しかも、支払期限は両方とも過ぎている。
私は思いました。
あれ?
これって……。
「相殺できるじゃないですか!」
思わず声を上げました。
澄江さんが顔を上げます。
「そうさい?」
「はい!」
私は紙に数字を書きました。
百二十万円。
七十万円。
差額。
五十万円。
「お互いにお金を払う義務があるなら、同じ金額の部分を帳消しにすることができるんです!」
「そんなことが?」
「あります!」
よし。
今回の民法。
いけそうです。
相殺。
民法五百五条。
これは現代でも基本的な考え方が残っています。
しかも。
相手の承諾はいらない。
一方的な意思表示でできる。
だったら。
「澄江さん! 七十万円は相殺して、残り五十万円を請求しましょう!」
私は勢いよく立ち上がりました。
そのとき。
「こはる」
相馬先輩の声。
「はい!」
「お前、何を確認した?」
「え?」
「相殺できると思った理由だ」
「お互いにお金の債権があって、支払期限も来ているからです!」
「それだけか?」
「……え?」
先輩が帳簿を指差しました。
「契約した相手は誰だ」
「黒岩源造さんです」
「個人か?」
「……会社です」
「なら、七十万円の売主も同じ会社なのか、契約書で確かめろ」
「あっ」
私は慌ててオーブンの売買契約書を確認しました。
売主。
株式会社湖西観光物産。
代表取締役、黒岩源造。
栗まんじゅうの発注書も。
株式会社湖西観光物産。
よかった。
同じ会社です。
「先輩、両方とも同じ法人です!」
「なら一つ目は通ったな」
「一つ目?」
相馬先輩が笑いました。
「相殺ってのは、数字だけ合わせりゃいいってもんじゃねえ」
そして。
机の上に六法を置きました。
「まず、誰が誰に何を請求できるのか。そこからだ」
◇
「でも、先輩」
私は首をかしげました。
「今回、もう支払期限は両方とも来ていますよね」
「ああ」
「だったら相殺適状です」
「そうだな」
「相手の同意も不要です」
「そうだ」
「じゃあ、何が問題なんですか?」
相馬先輩は、澄江さんが持参したもう一枚の紙を指差しました。
「これだ」
私は手に取りました。
黒岩からの督促状。
――中古オーブン売買代金七十万円を、直ちに支払われたい。
――代金支払がなされない場合、遅延損害金を加算し、法的手段を講ずる。
そこまでは普通です。
問題は次の一文。
――なお、当社が貴殿に負担する菓子納入代金百二十万円については、本件オーブン売買契約とは別個の債務である。
――したがって、両者を相殺することは認めない。
……。
私は目を細めました。
「先輩」
「何だ」
「何か、すごいこと書いてあります」
「何がだ」
「別々の契約だから相殺できないって」
「そうだな」
「それって、相殺の意味がないじゃないですか!」
そうです。
別々の契約だからこそ、互いに債権と債務が発生することだってある。
相殺は、必ずしも同じ契約から生じた債権同士で行うものではありません。
なのに。
「別々の契約だから相殺できない」
そんな理屈が通るなら。
相殺という制度は、随分と使いにくくなってしまいます。
「こはる」
片桐所長が口を開きました。
「相殺禁止の特約はあるか」
「あっ」
私は契約書を確認しました。
オーブン売買契約書。
納品契約書。
注文書。
取引約款。
どこにも相殺を禁止する記載はありません。
「ありません!」
「双方の債権に争いは?」
「菓子代金百二十万円は、黒岩が七月十日の手紙で支払猶予を求めています。債務自体は認めています」
「オーブン代金は?」
「澄江さんも七十万円の未払いを認めています」
「納品は?」
「どちらも完了しています」
所長が頷きました。
「では、相殺適状を検討できる」
私は大きく息を吐きました。
よかった。
でも。
そのとき、澄江さんが不安そうに言いました。
「あのう……」
「はい?」
「黒岩さん、言っていたんです」
「何をですか?」
「相殺なんて勝手にしたら、契約違反で訴えるって」
私は固まりました。
澄江さんは続けます。
「それに、百二十万円を返すのは会社の都合がついてからだって」
「……」
「でも、私の七十万円は今すぐ払えって」
私は思わず拳を握りました。
自分の支払期限は無視する。
相手の支払期限だけは守らせる。
それは。
随分と都合のいい話です。
「大丈夫です!」
私は言いました。
「相殺は相手の承諾がなくてもできます!」
ところが。
「待て」
また相馬先輩。
「何ですか!」
「相殺するって言うなら、どっちの債権を使うんだ」
「どっち?」
「自働債権と受働債権だ」
……。
出ました。
行政書士試験で、毎回頭がこんがらがる言葉。
自働債権。
受働債権。
「ええと……」
私は紙を見ました。
百二十万円。
七十万円。
「自働債権は、七十万円?」
「何でだ」
「帳消しにしたいのが七十万円だから……」
相馬先輩は黙って六法を閉じました。
嫌な予感。
「こはる」
「はい」
「逆だ」
「……ですよね!」
「自信満々に間違えるな!」
私は頭を抱えました。
またやりました。
自働債権。
相殺を主張する側が持っている債権。
受働債権。
相殺を主張される側が持っている債権。
今回は澄江さんが相殺を主張する。
だから。
澄江さんの持っている百二十万円の菓子代金債権。
これが自働債権。
黒岩の会社が持っている七十万円のオーブン代金債権。
これが受働債権。
「つまり、百二十万円を武器にして、七十万円を消すんですね!」
「そういうことだ」
「なるほど!」
私はノートに大きく書きました。
――相殺を言い出す人の債権が、自働債権。
相馬先輩が横から覗き込みます。
「受働債権も書け」
「はい!」
――相殺される側が持っている債権が、受働債権。
よし。
今度こそ。
頭に入りました。
でも、そのとき。
片桐所長が静かに言ったのです。
「相馬。黒岩は、今日も来るそうだな」
「ああ。午前十一時です」
「えっ?」
私は顔を上げました。
「黒岩さん、来るんですか?」
相馬先輩が鼻で笑いました。
「七十万円を取り立てに来るそうだ」
「ここに?」
「ああ」
「……すごい度胸ですね」
「相手が法律を知らねえと思ってるからな」
先輩は時計を見ました。
「さて。どう出るか」
◇
午前十一時。
事務所の扉が乱暴に開きました。
「おう、森田さん」
大きな声。
黒い背広。
金色の腕時計。
腹の出た中年男。
黒岩源造でした。
「話は聞いたぞ。行政書士なんかに相談してるんだって?」
澄江さんが小さく身を縮めました。
「黒岩さん……」
「七十万円、いつ払うんだ」
「でも、そちらも百二十万円を……」
「それはそれ!」
黒岩が机を叩きました。
「菓子の代金とオーブンの代金は別だろうが!」
私は思わず立ち上がりかけました。
しかし。
相馬先輩が私の肩を押さえました。
「座ってろ」
「でも!」
「口論しても意味がねえ」
黒岩は私たちを見回しました。
「何だ? 行政書士が何か言いたいのか?」
相馬先輩は静かに答えました。
「契約関係について、確認させてください」
「何をだ」
「菓子納入代金百二十万円は、まだお支払いになっていませんね」
「ああ」
「支払期限は六月三十日でしたね」
「そうだ」
「オーブン代金七十万円の支払期限は八月三十一日ですね」
「だから何だ」
「相殺禁止の合意はありませんね」
黒岩が鼻で笑いました。
「そんなもの必要ねえだろ」
「契約書を確認しただけです」
先輩は淡々と続けました。
「御社は菓子代金百二十万円の債務を認めている」
「ああ」
「森田さんもオーブン代金七十万円の債務を認めている」
「そうだ」
「両方とも金銭債権です」
「だから?」
「分かりました」
先輩は質問を止めました。
黒岩が眉をひそめます。
「何が分かったんだ」
「事実関係です」
「そんなもん、最初から分かってるだろ」
黒岩は勝ち誇ったように笑いました。
「いいか。俺は七十万円を請求してるんだ。お前らが何を言おうが、森田さんの借金は消えねえぞ」
そのとき。
片桐所長が初めて口を開きました。
「黒岩さん」
「あ?」
「森田さんの百二十万円は、いつ支払われますか」
「だから、資金繰りがついたらだ」
「具体的な日付は?」
「決まってねえ」
「そうですか」
所長はそれだけ言いました。
黒岩が笑いました。
「何だ。行政書士ってのは、そんなことしか聞けねえのか」
腹が立ちました。
ものすごく。
でも。
所長の表情は変わりません。
「本日は、お話を伺いました」
「それだけか?」
「はい」
「じゃあ、七十万円の支払いを待ってるぞ」
黒岩は澄江さんを睨みました。
「来週までに払わなかったら、裁判だからな」
そう言い残して、事務所を出ていきました。
扉が閉まります。
私は立ち上がりました。
「所長!」
「何だ」
「悔しくないんですか!」
「何がだ」
「あんなに馬鹿にされて!」
相馬先輩が煙草を取り出しました。
「こはる」
「はい!」
「相手が大声で喋ってるときは、よく聞いておけ」
「……え?」
「後で自分の首を絞めることを、勝手に喋ってくれるからな」
私は瞬きしました。
先輩は続けました。
「今ので、百二十万円の債務も、期限も、認めた」
「はい」
「相殺禁止の合意もない」
「はい」
「必要な書類も揃っている」
片桐所長が静かに言いました。
「森田さん」
「はい……」
「あなたは、相殺することを希望されますか」
澄江さんは、少し考えました。
そして。
「はい」
はっきり答えました。
「七十万円を払って、それから百二十万円をいつ返してもらえるか分からないなんて……もう、耐えられません」
所長が頷きました。
「では、あなたの意思に基づいて、相殺通知書を作成しましょう」
◇
午後。
片桐行政書士事務所。
私は六法を開いていました。
「民法五百五条!」
声に出します。
相殺の要件。
互いに同種の目的を持つ債権。
弁済期。
相殺を許さない性質ではないこと。
「今回、全部満たしています!」
私が言うと、相馬先輩が頷きました。
「そうだな」
「だから、相殺できます!」
「うん」
「では、内容証明を書きます!」
私は原稿用紙に向かいました。
――私は、貴社に対する金百二十万円の債権と、貴社が私に対して有する金七十万円の債権を相殺することを希望します。
「できました!」
所長が読みました。
そして。
赤鉛筆。
……嫌な予感。
「ここ」
「はい」
「『希望します』」
「はい」
「書き直しだ」
「ええっ!」
所長が静かに言いました。
「相殺は、希望を伝えるだけでは足りない」
「……あっ」
「意思表示だ」
そうでした。
相殺は、一方的な意思表示によって行うことができる。
つまり。
「相殺していただけませんか」
ではない。
「相殺する」
と通知する。
「民法五百六条ですね!」
「そうだ」
私は慌てて書き直しました。
――通知人は、本書面をもって、民法第五百五条及び第五百六条に基づき、下記債権債務を対当額において相殺する旨の意思表示をする。
「これならどうですか!」
「いい」
よし。
と思ったところで。
「こはる」
相馬先輩が口を挟みました。
「何ですか」
「さっきの下書き、もう一つ間違いがあったぞ」
「ええっ!」
「ここだ」
先輩が指差したのは、消しゴムで薄くなった一文。
――貴社が本通知を承諾した場合、相殺する。
「……あ」
「承諾を条件にするつもりだったのか?」
「いえ、その……丁寧かなって」
「法律の意思表示に、余計な親切はいらねえ」
相殺は。
原則として、相手方の承諾を必要としない。
しかも。
相殺の意思表示に、条件や期限を付けることはできない。
「相手が承諾したら相殺します、じゃ駄目なんですね」
「そうだ」
「来月になったら相殺します、というのも?」
「相殺の意思表示に期限を付けることはできねえ」
私は頷きました。
なるほど。
相殺は交渉のお願いではない。
法律上の要件を満たしたうえで行う、確定的な意思表示なのです。
「所長」
「何だ」
「相殺って、思っていたより強いですね」
「強いからこそ、使えるかどうかを慎重に確認する」
所長は言いました。
「何でも帳消しにできるわけではない」
「はい」
「例えば、不法行為による損害賠償債務を負う者には、相殺で対抗できない場合がある」
「あっ」
私は思わず顔を上げました。
「民法五百九条!」
「そうだ」
私は現代の知識を思い出しました。
悪意による不法行為。
人の生命または身体の侵害。
たしか、現代の民法五百九条では、この二つが中心だったはず。
「じゃあ、財産だけの過失による不法行為なら、現在は……」
「現在?」
相馬先輩がこちらを見ました。
しまった。
「いえ、何でもありません!」
「また妙なこと考えてるな」
片桐所長が六法を開きました。
「昭和六十三年の五百九条を読んでみろ」
私は条文を探します。
そして。
「……えっ」
固まりました。
そこには、こう書かれていました。
――債務が不法行為によって生じたときは、その債務者は、相殺をもって債権者に対抗することができない。
「……不法行為って、全部?」
私は呟きました。
相馬先輩が言います。
「今の条文はそういう書き方だ」
「悪意とか、生命身体とか、限定されていないんですね」
「何でそんなこと気にするんだ?」
「あ、いえ!」
危ない。
また未来の法律を持ち込みかけました。
現代の改正民法では、相殺禁止の範囲が整理されています。
でも昭和六十三年は違う。
旧民法五百九条は、不法行為による損害賠償債務について、加害者側からの相殺を広く禁止している。
もっとも。
被害者が、自分の損害賠償請求権を使って相殺することまで、一律に禁止しているわけではありません。
誰が相殺するか。
どちらの債権が受働債権になるか。
それによっても結論が変わる。
「……難しい」
私は頭を抱えました。
「今回は普通の売買代金同士だから、問題ないですね」
「そうだ」
相馬先輩が頷きました。
「だが、一つ覚えとけ」
「はい」
「相殺ってのは便利な制度だ。だが、他人に現金で賠償を受けさせる必要がある場面まで、好き勝手に帳消しにはできねえ」
私は小さく頷きました。
なるほど。
相殺は公平のための制度。
でも。
相殺を認めることで、逆に被害者を苦しめる場合もある。
だから、禁止される場合があるのです。
◇
「ところで、もう一つ」
片桐所長が言いました。
「相殺の効力は、いつ発生する」
「通知した日です!」
私は即答しました。
そして。
所長が無言で私を見ました。
……あれ?
「違います?」
「民法五百六条二項だ」
私は条文を読みました。
――前項の意思表示は、双方の債務が互いに相殺に適するようになった時にさかのぼってその効力を生ずる。
「……さかのぼる?」
「そうだ」
相馬先輩が、机に二枚の紙を置きました。
一枚目。
菓子代金百二十万円。
支払期限、六月三十日。
二枚目。
オーブン代金七十万円。
支払期限、八月三十一日。
「こはる。この二つが、そろって弁済期に達したのはいつだ」
「八月三十一日です」
「そうだ」
「だから?」
「九月に相殺通知をしても、原則として八月三十一日の相殺適状時にさかのぼって効力が生じる」
「……え?」
私は目を丸くしました。
「じゃあ!」
「何だ」
「黒岩さんが請求している、九月に入ってからの七十万円に対する遅延損害金は?」
相馬先輩が笑いました。
「その七十万円が八月三十一日に相殺で消滅した扱いになるなら、九月以降の遅延損害金は生じねえ」
「すごい!」
私は机を叩きました。
「相殺って、過去に戻れるんですか!」
「未来人みたいな言い方すんな」
……未来人です。
言えませんけど。
でも、本当に驚きました。
相殺の意思表示をしたのは九月。
ところが、その効力は、両方の債権が相殺できる状態になった八月三十一日へさかのぼる。
つまり。
その時点で帳消しにできた範囲については、その後の遅延損害金まで請求できない。
「黒岩さん、遅延損害金も取るって言ってましたよね」
「言ってたな」
「でも、相殺すれば……」
「その部分は取れねえ」
相馬先輩は続けました。
「ただし、六月三十日から八月三十一日までの菓子代金の支払遅延については、別に考える必要があるぞ」
「あっ」
そうでした。
黒岩の会社は、六月三十日の支払期限を過ぎても、百二十万円を払っていない。
その間に発生した遅延損害金が、相殺によって当然に全部消えるわけではありません。
私は改めて帳簿を確認しました。
今回の通知では、元本七十万円を対当額で相殺し、菓子代金の残元本五十万円を明示する。
遅延損害金については、契約内容と法定利率、相殺時点での権利関係を別途確認して整理する。
「……なるほど」
私は鉛筆を置きました。
「単純に引き算すればいいって話でもないんですね」
所長が頷きました。
「日付を間違えれば、金額も間違える」
そして。
「相殺適状になった日を、必ず確認しろ」
私は大きく頷きました。
◇
夕方。
ついに、相殺通知書が完成しました。
差出人。
森田澄江。
宛先。
株式会社湖西観光物産。
代表取締役、黒岩源造。
私は読み上げました。
――相殺通知書。
――通知人は、貴社に対し、昭和六十三年三月から五月にかけて納品した菓子の売買代金として、金百二十万円の債権を有する。
――右債権の弁済期は昭和六十三年六月三十日であり、既に到来している。
――一方、貴社は通知人に対し、中古業務用オーブン売買代金として金七十万円の債権を有し、その弁済期は昭和六十三年八月三十一日である。
――以上の両債権は、いずれも金銭債権であり、相殺を妨げる特約その他の事情は認められない。
私は息を吸いました。
ここからが本番。
――よって、通知人は、本書面をもって、民法第五百五条及び第五百六条に基づき、通知人の貴社に対する菓子売買代金債権を自働債権とし、貴社の通知人に対するオーブン売買代金債権を受働債権として、金七十万円の対当額において相殺する旨の意思表示をする。
――右相殺は、両債権が相殺適状となった昭和六十三年八月三十一日にさかのぼって効力を生ずる。
――これにより、オーブン売買代金債務は全額消滅し、菓子売買代金債権の元本残額は金五十万円となる。
――なお、既に発生した遅延損害金等については、別途法令及び契約に従って整理するものとする。
――貴社に対しては、上記相殺の結果を確認し、残存する債務について速やかに履行するよう求める。
――なお、支払がなされない場合には、弁護士に相談のうえ、訴訟その他の法的措置を検討する。
読み終わりました。
静寂。
私は所長を見ました。
「……どうでしょう」
片桐所長は原稿を読み返しました。
相馬先輩も覗き込みます。
「自働債権、受働債権、間違えてねえな」
「はい!」
「期限も確認したな」
「はい!」
「相殺の意思表示も明確だな」
「はい!」
所長が頷きました。
「いいだろう」
「やった!」
私は思わず拳を握りました。
ですが。
片桐所長は最後に一言、付け加えました。
「こはる」
「はい」
「内容証明は、勝訴判決ではない」
私は姿勢を正しました。
「はい」
「相手が反論してくることもある。相殺適状や債権の存在に争いが生じれば、裁判で判断されることもある」
「はい」
「だから、根拠資料を全部残しておけ」
所長は帳簿を指差しました。
納品書。
請求書。
受領印。
黒岩の支払猶予を求める手紙。
オーブン売買契約書。
納品確認書。
すべて、写しを取りました。
これだけ揃っていれば。
黒岩が相殺を否定しようとしても。
何を根拠に否定するのか、具体的に説明しなければならない。
「相馬」
所長が言いました。
「発送の準備を」
「はい」
相馬先輩が立ち上がりました。
「こはる」
「はい!」
「内容証明、郵便局に持っていくぞ」
「はい!」
「配達証明も付けろ」
「分かりました!」
こうして。
黒岩源造に対する、反撃の一通が発送されたのです。
◇
三日後。
電話が鳴りました。
「はい、片桐行政書士事務所です!」
『……黒岩だ』
私は受話器を落としそうになりました。
あの黒岩源造。
でも。
声が違います。
以前のような威勢がない。
『片桐先生はいるか』
「少々お待ちください」
私は所長に受話器を渡しました。
「片桐です」
『……あの通知書の件だ』
「はい」
『うちの顧問にも確認した』
「そうですか」
『相殺ってのは……本当に、相手の承諾がなくてもできるのか』
所長は静かに答えました。
「法律上の要件を満たしていれば、そうです」
『別々の契約なのに?』
「別々の契約から生じた債権であることは、それだけで相殺を妨げる理由にはなりません」
電話の向こうで、息を呑む音。
『……七十万円は、もう請求できないのか』
「通知書記載の相殺が有効であれば、対当額で消滅しています」
『遅延損害金も?』
「八月三十一日の相殺適状時にさかのぼる範囲については、その後の遅延損害金は生じません」
長い沈黙。
私は、そっと相馬先輩を見ました。
先輩は黙って腕を組んでいます。
『……分かった』
黒岩が低い声で言いました。
『七十万円は、もう請求しない』
私は思わず口を押さえました。
『残りの五十万円も払う』
……!
『だが、少し時間をくれ。来週の金曜日には用意できる』
所長は言いました。
「支払日については、森田さんご本人に書面でお伝えください」
『ああ』
「当事務所は、相手方との示談交渉を代理する立場にはありませんので」
『分かってる』
黒岩は小さく息を吐きました。
『……あの書面、よくできてたよ』
「そうですか」
『七十万円を請求して、百二十万円は払わない。それが通ると思っていた』
所長は何も言いません。
『でも、あれを裁判所で争うことになったら……』
黒岩の声が、さらに小さくなりました。
『俺の方が、分が悪いんだろうな』
所長は答えました。
「裁判の見通しを断定することはできません。ただ、通知書に記載した法律関係と証拠資料については、ご確認いただけたと思います」
『……ああ』
そして。
電話は切れました。
私は立ち上がりました。
「所長!」
「何だ」
「折れましたよね!」
「ああ」
「七十万円、払わなくてよくなったんですよね!」
「相殺が有効であればな」
相馬先輩が笑いました。
「こはる」
「はい!」
「相手、何て言ってた?」
「裁判で分が悪いって」
「そうだ」
先輩は煙草を一本取り出しました。
「裁判になれば、自分が七十万円を取り立てるどころか、五十万円を払う側だって分かったんだろうな」
私は頷きました。
黒岩が最後まで支払いを拒めば。
澄江さんは弁護士に相談し、訴訟を検討することになる。
裁判で支払義務が認められ、それでも履行しなければ、債務名義を得たうえで強制執行に進む可能性もある。
黒岩は、そこまで考えたのでしょう。
もちろん、内容証明だけで財産を差し押さえることはできません。
でも。
書面を受け取った黒岩は、その先にある法的リスクを理解した。
だから、自分から請求を取り下げたのです。
「世の中な」
相馬先輩が言いました。
「声がでかい奴じゃなくて、書面にハンコを押させた奴が勝つんだよ」
「……またそれですね」
「今回は、まだ最後のハンコが残ってるぞ」
「え?」
「返事だけで終わらせるな。実際に金が入るまで確認しろ」
私は頷きました。
そうでした。
法律の戦いは、相手が口で折れたところが終点ではありません。
約束したとおりに履行されて。
初めて、依頼人の生活が守られるのです。
◇
翌週の金曜日。
澄江さんから電話がありました。
『こはるさん!』
「はい!」
『入金されました!』
私は椅子から立ち上がりました。
「本当ですか!」
『五十万円です!』
約束どおり。
黒岩の会社から、残った菓子代金の元本五十万円が振り込まれたのでした。
さらに。
黒岩は、自分の署名押印を入れた確認書も送ってきました。
――昭和六十三年八月三十一日を相殺適状時とする、金七十万円の相殺を確認する。
――これにより、中古オーブン売買代金債権について、今後請求しない。
――菓子売買代金の元本残額五十万円については、本日支払済みである。
遅延損害金など残る論点については、澄江さんが資料を確認したうえで、必要に応じて弁護士に相談できるよう整理しました。
少なくとも。
黒岩が請求していた七十万円のオーブン代金。
そして。
未払いだった百二十万円の菓子代金の元本。
その関係は、はっきりと決着したのです。
澄江さんは、受話器の向こうで泣いていました。
『これで……』
「はい」
『これで、来月もお店を開けられます』
私は何も言えなくなりました。
『材料屋さんにも払えます。娘にも、もう心配しなくていいって言えます』
「……よかったです」
声が少し震えました。
『本当に、ありがとうございました』
電話を切ったあと。
私は、机の上に置かれた帳簿を見つめました。
百二十万円。
七十万円。
五十万円。
ただの数字です。
でも。
その数字の向こうには、生活がある。
お菓子を作る人。
材料を届ける人。
店を手伝う娘さん。
そのお菓子を楽しみにしているお客さん。
百二十万円を踏み倒され、さらに七十万円を払わされていたら。
澄江さんの店は、本当に潰れていたかもしれません。
私は静かに思いました。
相殺って。
借金を帳消しにするだけの制度じゃないんですね。
お金を払えない人を、一方的に追い詰めるためのものでもない。
互いの債権を公平に整理して、不必要なお金の往復や取り立てを防ぐ。
そして。
誰かの生活を守る。
そういう制度なのです。
◇
数日後。
澄江さんが事務所を訪れました。
手には大きな紙袋。
「これ、皆さんで食べてください」
「何ですか?」
「栗まんじゅうです」
「わあ!」
私は思わず顔を輝かせました。
紙袋の中には、丁寧に包装された栗まんじゅうが並んでいました。
「お店、続けられることになったんです」
澄江さんが笑いました。
「娘が、新しい包装紙を考えてくれて」
「素敵ですね!」
「来月から、商店街のお祭りでも売る予定なんです」
私は嬉しくなりました。
本当によかった。
澄江さんは、少し照れくさそうに言いました。
「私、法律って怖いものだと思っていました」
「怖いもの?」
「はい。裁判とか、取り立てとか、借金とか」
私は黙って聞きました。
「でも、今回初めて知ったんです」
「何をですか?」
「払わなければならないお金があっても、相手が私に払うべきお金があるなら、ちゃんと考える方法があるんですね」
私は頷きました。
「はい」
「一方的に、言われたとおりに払うしかないわけじゃない」
「そうです」
澄江さんは、少し目を潤ませました。
「法律って、強い人のためだけにあるんじゃないんですね」
その言葉に。
私は胸が熱くなりました。
「はい」
私は答えました。
「そうなんです」
民法。
相殺。
五百五条。
五百六条。
自働債権。
受働債権。
相殺適状。
受験勉強では、難しい漢字の塊でした。
でも。
今なら、分かります。
百二十万円と七十万円。
その二つを正しく整理するだけで。
一つのお店を守れることがある。
法律の知識が。
本当に、人の生活を支えているのです。
◇
澄江さんが帰ったあと。
私は栗まんじゅうを一つ手に取りました。
「いただきます!」
「待て」
相馬先輩が言いました。
「何ですか!」
「所長の分を先に取っとけ」
「ちゃんと取ってあります!」
「ならいい」
私は包み紙を開きました。
甘い香り。
ほくほくした栗。
しっとりした皮。
「おいしい……!」
思わず笑顔になります。
「先輩!」
「何だ」
「相殺って、すごいですね!」
「今度は何だ」
「借金を帳消しにする制度なのに、お金を一円も動かさずに七十万円の債務を消せるなんて!」
「そうだな」
「しかも、相手の承諾もいらない!」
「そうだ」
「さらに、相殺適状のときにさかのぼる!」
「分かった分かった」
私は興奮して続けました。
「先輩! 相殺を主張する側の債権が自働債権!」
「うん」
「相殺される側の債権が受働債権!」
「そうだ」
「今回は百二十万円が自働債権で、七十万円が受働債権!」
「正解」
「やった!」
私は栗まんじゅうをもう一口食べました。
そのとき。
ふと、思いつきました。
「先輩」
「何だ」
「私、先輩に五百円貸してましたよね?」
相馬先輩の手が止まりました。
「……ああ」
「昨日のお昼、立て替えた分です」
「そうだったな」
「でも、私も先輩に三百円借りてますよね?」
「……ああ」
私はにやりと笑いました。
「じゃあ!」
机を叩きます。
「五百円と三百円、相殺しましょう!」
相馬先輩が眉を上げました。
「ほう」
「相殺を主張する私の五百円が自働債権!」
「うん」
「先輩の三百円が受働債権!」
「そうだな」
「差額二百円!」
「それで?」
「先輩、二百円払ってください!」
完璧。
民法五百五条。
日常生活でも使える法律知識です。
……と思ったのですが。
相馬先輩が、にやりと笑いました。
「こはる」
「はい?」
「お前、俺に借りてる三百円、いつ返す約束だった?」
「え?」
「昨日、何て言った?」
私は思い出しました。
昨日。
先輩から三百円を借りたとき。
私は確かに言いました。
――来月のお給料が出たら返します!
……。
「あ」
固まりました。
相馬先輩が笑います。
「俺の三百円の債権は、まだ弁済期が来てねえな」
「……はい」
「じゃあどうする?」
私は考えました。
あれ?
でも。
現代の民法でも。
相殺を主張する側の自働債権は、原則として弁済期が来ていなければならない。
一方。
受働債権については、相殺する側が期限の利益を放棄できる場合、弁済期前でも相殺できる。
今回。
私の五百円は、今日返してもらう約束。
自働債権の弁済期は到来しています。
先輩の三百円は、来月が返済期限。
でも。
その期限は、借りた私の利益のためにある。
だったら。
「先輩!」
「何だ」
「私、三百円を来月まで払わなくていい利益を放棄します!」
「……ほう?」
「自分の期限の利益を放棄して、今、相殺します!」
相馬先輩の笑みが消えました。
私は続けました。
「先輩の三百円を、今すぐ返すことにしても、先輩が困る事情はありませんよね?」
「……まあな」
「では、五百円と三百円を相殺!」
私は右手を突き出しました。
「差額二百円、お願いします!」
相馬先輩は、しばらく黙っていました。
そして。
「……ちっ」
財布を取り出しました。
百円玉。
二枚。
机の上に置かれます。
「ほらよ」
「やったあ!」
私は二百円を受け取りました。
「民法、勝利です!」
「たかが二百円で大騒ぎすんな」
「二百円でも立派な債権です!」
相馬先輩が呆れた顔をしました。
「お前、変なところだけ覚えるの早えな」
「実生活に役立ちますから!」
すると。
奥から片桐所長が口を開きました。
「こはる」
「はい!」
「一つ確認する」
「何でしょう!」
「今の相殺で、三百円の借金はどうなった」
「消滅しました!」
「五百円の債権は?」
「三百円分が消滅して、二百円が残りました!」
「では、その二百円は?」
「先輩から受け取りました!」
「よし」
私は満足げに頷きました。
完璧。
今日の相殺、日常でも応用できました。
ところが。
片桐所長が続けます。
「では、こはる」
「はい?」
「今度は、俺から問題だ」
「えっ」
「相殺が禁止される債権には、どんなものがある」
私は固まりました。
「……ええと」
相馬先輩が笑っています。
「ほら、答えろよ」
「不法行為による損害賠償債権を受働債権とする場合!」
「うん」
「ただし、昭和六十三年の五百九条と現代の五百九条では、禁止範囲が違います!」
「……また妙なこと言ってるな」
所長は頷きました。
「ほかには?」
「差押禁止債権!」
「例えば?」
「扶養請求権などです!」
「ほかには?」
「差押えられた債権について、差押え後に取得した反対債権で相殺する場合!」
所長が頷きました。
「ただし、差押え前後の取得時期だけで機械的に判断できない場合もある。判例も確認しておけ」
「はい!」
「それから」
「まだあるんですか!」
「相殺禁止の合意がある場合だ」
「あっ!」
そうでした。
当事者が相殺を禁止する合意をしている場合。
原則として、その当事者間では自由に相殺できません。
また、第三者に対抗できるかどうかについては、昭和六十三年の民法五百五条二項と、現代の改正条文で文言が違います。
「……先輩」
「何だ」
「相殺って、思っていたより奥が深いです」
「そうだな」
「簡単に帳消しにできると思っていたのに」
「要件を満たして、初めてできるんだ」
私は頷きました。
便利な制度。
だからこそ、制限がある。
相手の承諾が不要という強い効力を持つからこそ、法律は慎重に要件を定めている。
なるほど。
相殺は。
ただの引き算ではない。
法律上の公平を守るための、精密な仕組みなのです。
◇
夕暮れ。
事務所の窓から、商店街が見えました。
菓子工房もりた。
店の前には、赤い暖簾が揺れています。
今日は、店を閉めずに済んだ。
明日も、お菓子を作れる。
来月も、お客さんを迎えられる。
そんな当たり前の生活が。
民法五百五条と五百六条によって、守られたのです。
私はノートを開きました。
今日の教訓。
何を書こう。
少し考えて。
私は鉛筆を走らせました。
――相殺は、互いの債権を対当額で消す一方的な意思表示。ただし、自働債権・受働債権と相殺適状を見誤るな。
「……よし!」
私はノートを閉じました。
「先輩!」
「何だ!」
「今日の民法、覚えました!」
「そりゃよかったな」
「相殺は引き算です!」
「それだけじゃねえだろ」
「条件と期限にも注意です!」
「そうだな」
「相手の承諾はいりません!」
「うん」
「でも何でも消せるわけじゃありません!」
「そのとおりだ」
私は笑いました。
今日も、一つ賢くなりました。
昭和六十三年。
現代とは条文も制度も違う時代。
けれど。
互いに負っている債務を公平に整理する。
不必要な取り立てで人を苦しめない。
そんな民法の考え方は、昔も今も生きています。
そのとき。
相馬先輩が、ふと思い出したように言いました。
「ところで、こはる」
「はい?」
「さっきの二百円だけどな」
「はい!」
「俺、お前にまだ別の貸しがあるんだよ」
「……え?」
「先週、俺の昼飯を勝手に食っただろ」
私は固まりました。
「……あれ、先輩のだったんですか?」
「そうだ」
「名前、書いてありませんでしたよ!」
「机の上に置いてあっただろ!」
「事務所の差し入れかと!」
相馬先輩が腕を組みました。
「五百円の弁当だった」
「……」
「どうする?」
私は少し考えました。
そして。
にっこり笑いました。
「先輩!」
「何だ」
「不法行為による損害賠償請求権の話ですね!」
「……あ?」
「昭和六十三年の民法五百九条では、不法行為による損害賠償債務を負う側からの相殺は禁止されています!」
「それがどうした」
「だから、もし私に不法行為による損害賠償債務があるとしても、先輩が私に負う別の借金を、私の側から勝手に相殺して済ませることはできません!」
相馬先輩が、じろりと私を見ました。
「……お前」
「はい!」
「弁当を食った事実は認めるんだな?」
……。
しまった。
余計なことを言いました。
「え、ええと……」
「じゃあ、まず謝れ」
「……ごめんなさい」
「よし」
先輩は笑いました。
「法律を覚えるのはいいが、人の弁当を勝手に食うな」
「はい……」
片桐所長が、奥で小さく笑いました。
私は思いました。
民法って。
本当に、油断できません。
百二十万円と七十万円なら、お店を救える。
五百円と三百円なら、昼休みのお金を整理できる。
でも。
人の弁当を勝手に食べたことまで、都合よく帳消しにはできない。
当たり前です。
法律は、人を守るためにある。
自分の失敗をごまかすためにあるわけではないのです。
「こはる!」
「はい!」
「弁当代、どうすんだ!」
「ちゃんと払います!」
「よし!」
「でも先輩!」
「何だ!」
「来月のお給料が出てからでもいいですか!」
「また期限の利益か!」
事務所に笑い声が響きました。
窓の向こうでは。
菓子工房もりたの暖簾が、夕風に揺れていました。
借金は、ただ払うだけのものではない。
正しく整理すれば、消せるものもある。
そして。
誰かの暮らしを守れることもある。
今日、私はそれを覚えました。
ただし。
相殺できるかどうかは、きちんと法律で確認すること。
自働債権。
受働債権。
相殺適状。
そして相殺禁止。
この四つを忘れたら。
百二十万円の事件だけでなく。
昼休みの五百円でも。
痛い目を見るかもしれないのです。
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