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こはる行政書士見習帖 〜 昭和に転生して許認可に振り回されると試験知識が骨身にしみます 〜  作者: 条文小説
〈民法 配点76点/300点〉 債権

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510/594

[民法・弁済]法理編 こはるノート

挿絵(By みてみん)

 お金を返そうとしたのに、相手が受け取ってくれなかった。


 それでも、借金を返さなかったことになるのでしょうか。


 答えは。


 返済する義務が残っていることと、返済が遅れた責任を負うことは、別の問題です。


 そして。


 民法には、もう一つ大切なルールがあります。


 借金は、本人以外の人が返すこともできる。


 ただし。


 誰でも、勝手に返していいわけではありません。


 昭和六十三年。


 夕方の片桐行政書士事務所。


 私は机に向かい、ノートを開いていました。


 表紙には大きく、


 ――こはるノート・民法編。


 と書いてあります。


「……先輩」


「何だ」


「借金って、返すのも大変なんですね」


 相馬先輩が新聞から顔を上げました。


「いきなり何だ」


「借りるときは百万円。返すときも百万円。それで終わりだと思ってたんです」


「普通はそうだな」


「でも、相手が受け取らなかったら?」


「昨日やっただろ」


「じゃあ、息子が代わりに払ったら?」


「事情による」


「違う人に渡しちゃったら?」


「もっと事情による」


「百万円のうち五十万円だけ払ったら?」


「それも事情による」


 私は机を叩きました。


「事情による、ばっかりじゃないですか!」


「民法ってのは、そういう法律だ」


「もう!」


 相馬先輩が笑いました。


「だったら昨日の事件を思い出せ」


 私は鉛筆を握りました。


 藤野春江さん。


 五十四歳。


 駅前で三十年以上、洋裁店を営んでいる女性。


 三年前に借りた百万円を返そうとしたのに、貸主の黒田金次郎が受領を拒絶した。


 そして。


 返済期限が過ぎたことを理由に、担保に入れた店を奪おうとした。


 でも。


 私たちが作成した内容証明によって、黒田は法的な危険を悟った。


 結局、百万円を受領し、借金は完済。


 担保権の抹消も完了した。


「あの事件、弁済の基本が全部詰まってましたね」


「全部じゃねえぞ」


「え?」


「もっと面倒なのが残ってる」


 ……嫌な予感。


 そこへ。


 片桐所長が奥から出てきました。


「こはる」


「はい!」


「今日は、何を整理する」


「弁済です!」


「なら、最初に一つ聞こう」


「はい!」


「弁済の提供をすれば、債務は消滅するか」


 私は勢いよく答えかけました。


「はい!」


 ……あ。


「いえ!」


 所長が眉を上げました。


「どっちだ」


「消滅しません!」


「正確には?」


「弁済の提供だけでは、当然には債務は消滅しません!」


「よし」


 危ない。


 いきなり昨日と同じ間違いをするところでした。


 相馬先輩が笑います。


「じゃあ、そこから始めろ」


「はい!」


 こうして。


 本日の強制民法勉強会が始まりました。


 ◇


「まず、弁済とは何か!」


 私はノートの中央に書きました。


 ――弁済。


 債務の本旨に従って、義務を履行すること。


「つまり、約束した義務を果たすことです」


「そうだ」


「たとえば百万円を借りたなら、百万円を返す」


「うん」


「三百万円の車を買ったなら、買主は三百万円を支払う」


「そうだな」


「売主は、約束した車を引き渡す」


 私は頷きました。


 弁済。


 という言葉を聞くと、どうしても借金返済だけを思い浮かべます。


 でも、違う。


 民法でいう弁済は、金銭の支払だけではありません。


 約束した物を引き渡すこと。


 約束した仕事を完成させること。


 そうした債務の履行も、広い意味では弁済です。


「ここで一つ、時代錯誤があります!」


 私は言いました。


 相馬先輩が嫌そうな顔をしました。


「またか」


「はい!」


 現代民法。


 第四百七十三条。


 債務者が債権者に対して債務の弁済をしたとき、その債権は消滅する。


 現在は、弁済の基本的な効果が条文で明確に示されています。


「でも、昭和六十三年の民法四百七十三条は、現在と違います!」


「ほう」


 私は古い六法を開きました。


「当時の四百七十三条は、無記名債権の譲渡に関する規定なんです!」


 相馬先輩が頷きました。


「そうだな」


「現代の四百七十三条を、そのまま昭和に持ち込んだら大変です」


「お前、前にもやってたな」


「……はい」


 私は肩を落としました。


 でも、重要です。


 弁済すれば債務が消滅する。


 この基本的な考え方は、昭和六十三年にも存在していました。


 ただし、現代の四百七十三条のような形で規定されていたわけではありません。


「つまり」


 私は書きました。


 ――法律上の考え方が同じでも、条文番号や条文の構造まで同じとは限らない。


 これです。


 転生受験生にとって、最大の落とし穴。


 所長が頷きました。


「条文を覚えるだけでは足りん」


「はい」


「その条文で、何を守ろうとしているかを考えろ」


 私は大きく丸をつけました。


 ◇


「次は、昨日の事件で一番大事だったところです」


 私はページをめくりました。


 ――弁済の提供。


「春江さんは、百万円を用意して、黒田の営業所へ持っていきました」


「そうだ」


「でも、黒田は受け取らなかった」


「うん」


「このとき問題になるのが、弁済の提供ですね」


 民法第四百九十三条。


 弁済の提供には、原則と例外があります。


「まず、原則は現実の提供です!」


 私は鉛筆を立てました。


 現実の提供。


 債務の本旨に従って、現実に履行を提供すること。


 たとえば。


 百万円を返す約束なら、約束された日時と場所で、百万円を実際に差し出す。


「これが基本です」


「そうだ」


 相馬先輩が頷きました。


「ただし、注意しろよ」


「はい?」


「現実の提供と、弁済の完了は同じじゃねえ」


「あ!」


 そうでした。


 現実の提供とは、相手が受け取れる状態にして、現実に履行を申し出ること。


 相手が受け取れば、通常は弁済が完了します。


 でも、相手が拒絶すれば。


 適切な現実の提供は成立しても、債務そのものが消滅したとは限りません。


「春江さんが百万円を持参しても、黒田が受け取らなかった以上、百万円の支払債務は残っていたんですね」


「そうだ」


「でも、債務不履行の責任を免れることはある」


「そこだ」


 民法第四百九十二条。


 弁済の提供をすれば、その時から、債務を履行しないことによって生じる責任を免れる。


「これが重要なんですね」


 私はノートに書きました。


 ――弁済の提供は、債務消滅と同じではない。


「ところで、先輩」


「何だ」


「もし黒田が、春江さんに『今は受け取らない』と事前に伝えていたら?」


「どうすると思う?」


「百万円を持って、わざわざ行く必要があるんでしょうか」


「そこが例外だ」


 私は頷きました。


 ――口頭の提供。


 債権者があらかじめ受領を拒んでいる場合。


 または。


 履行について、債権者の協力が必要な場合。


 そのときは、弁済の準備ができたことを通知して、受領を催告すれば足ります。


「つまり!」


 私は言いました。


「百万円を準備できています。受け取ってください、と通知するんですね」


「そうだ」


「これが口頭の提供!」


「うん」


 もっとも。


 口頭の提供という名称でも、通知は必ず口頭でなければならないわけではありません。


 書面で通知することもできます。


「だから内容証明を作ったんですね!」


「そうだ」


 相馬先輩が頷きました。


「実際に通知したことを、後から証明できるようにな」


 私は大きく丸をつけました。


 なるほど。


 民法の知識が、実務で生きる瞬間です。


 そして。


「ここから、さらに例外があります!」


 私は判例集を開きました。


 最高裁判所。


 昭和三十二年六月五日。


 大法廷判決。


「これです!」


 相馬先輩が覗き込みます。


「何の判例だ」


「弁済の受領拒絶が明確な場合です!」


 債権者が契約の存在を否定するなど、弁済を受領しない意思が明確であると認められる場合。


 そのときには、口頭の提供をしなくても、債務不履行の責任を免れると判断されたのです。


「つまり」


 私は言いました。


「相手が絶対に受け取らないと言っているのに、何度も『受け取ってください』と言わせるのは無意味なんですね」


「そうだ」


「民法って、無駄なことを強制しないんですね!」


 片桐所長が静かに言いました。


「ただし、何でも不要になるわけではない」


「はい」


「受領拒絶の意思が、本当に明確だったか。そこが問題になる」


 私は頷きました。


 黒田の場合。


 今さら現金など受け取らない。


 何度持ってきても同じだ。


 そう言っていました。


 しかし。


 その発言を後から争われる可能性があった。


 だから、内容証明によって、春江さんの準備と受領催告の事実を残した。


「判例が口頭の提供を不要と認める場合でも、証拠を作ることには意味があるんですね」


「そうだ」


 私はノートにまとめました。


 現実の提供。


 口頭の提供。


 そして、受領拒絶が明確な場合の判例。


 三段階で考える。


「覚えやすい!」


 私が言うと、相馬先輩が笑いました。


「じゃあ、間違えるなよ」


「はい!」


 ……たぶん。


 ◇


「でも、先輩」


 私は首をかしげました。


「相手が絶対に受け取らないなら、いつまでたっても借金が消えませんよね」


「そうだな」


「その場合は?」


「昨日やっただろ」


「弁済供託です!」


 私は勢いよく答えました。


 民法第四百九十四条。


 債権者が弁済の受領を拒む場合など、法律上の要件を満たすとき。


 債務者は、弁済の目的物を供託することができます。


「適法な弁済供託によって、債務を消滅させることができるんですね」


「そうだ」


 私は想像しました。


 春江さん。


 百万円を用意する。


 黒田に受領を拒まれる。


 そして。


 供託所に、適法に百万円を供託する。


「これなら、黒田が受け取らなくても、法律上は債務を消せる場合がある!」


「そういうことだ」


 相馬先輩が頷きました。


 ただし。


 金額が足りない。


 供託原因が認められない。


 供託すべき債務の内容を間違えている。


 そんな場合には、有効な弁済供託にならないことがあります。


「つまり、供託さえすれば何でも解決、ではないんですね」


「当たり前だ」


 片桐所長が言いました。


「債務の内容を確定させることが先だ」


「はい」


「今回、春江さんは百万円の現実の支払によって完済した」


「そうです」


「供託は検討したが、実行する必要はなくなった」


 私は頷きました。


 内容証明によって、黒田が受領する意思を示したからです。


 そして。


 春江さんが実際に百万円を支払い、受取証書を受け取った。


 借金は消滅しました。


「弁済の提供で責任から守り、実際の弁済や適法な供託で債務を終わらせる」


 私は小さく呟きました。


「この二段階が大事なんですね」


 所長が頷きました。


「そうだ」


 ◇


「次は弁済の場所です!」


 私はノートをめくりました。


 ――どこで返すのか。


「これ、意外と重要ですよね」


「そうだな」


 相馬先輩が言いました。


「金を返すと言っても、どこで返すのか分からなきゃ困る」


 私は頷きました。


 民法第四百八十四条。


 弁済をすべき場所について、別段の意思表示がない場合。


 特定物の引渡しは、債権が発生したときに、その物が存在した場所。


 それ以外の弁済は、原則として、債権者の現在の住所で行います。


「たとえば」


 私は言いました。


「ある人が、特定の中古ピアノを買ったとします」


「うん」


「そのピアノを引き渡す場所について、特別な約束がなかった」


「それで?」


「その場合には、売買による引渡債務が発生したとき、そのピアノが存在した場所が基準になります」


「そうだ」


 これが特定物。


 どの物を渡すのかが具体的に決まっている物です。


「じゃあ百万円の返済は?」


 相馬先輩が聞きました。


「原則として、債権者の現在の住所です!」


「そうだ」


「でも、契約で別の場所を決めていれば、その約束が優先します!」


「よし」


 春江さんの借用証書には、黒田の営業所へ持参すると明記されていました。


 だから。


 そこが弁済場所だったのです。


「所長!」


 私は顔を上げました。


「何だ」


「弁済の場所って、債務者が好き勝手に決められるわけじゃないんですね」


「そうだ」


「自分の家まで取りに来い、と一方的に言っても駄目なんですね」


「契約や法律上の定めによる」


 私は頷きました。


 そして。


「では、時間はどうでしょう!」


 相馬先輩が嫌そうな顔をしました。


「お前、今日は随分元気だな」


「試験に出ますから!」


 弁済の時間。


 これも重要です。


 取引時間が法令や慣習で定まっている場合、その時間の範囲内で弁済や請求をすることができます。


「たとえば、銀行の窓口が閉まった真夜中に、お金を持っていった場合」


「うん」


「それで受け取らなかったからといって、当然に相手が悪いとは言えません」


「そうだな」


 ただし。


 ここで、また時代錯誤に注意。


 現代民法では、第四百八十四条第二項に、取引時間についての規定があります。


 でも、昭和六十三年の第四百八十四条を開いても、現在の第二項は存在しません。


「先輩!」


「何だ」


「私、また現代の条文を読みそうになりました!」


「読みそうになっただけなら、黙って直せ!」


「はい!」


 私は苦笑しました。


 昭和六十三年には昭和六十三年の条文。


 そして、当時の取引慣習や一般原則も踏まえて考える。


 法律の内容を理解することと、存在しない条文を引用しないこと。


 両方が大切なのです。


 ◇


「次は費用です」


 私はノートに書きました。


 ――弁済の費用。


「お金を返すのに、費用がかかる場合がありますよね」


「ああ」


「送金費用とか、運搬費用とか」


「そうだな」


 民法第四百八十五条。


 弁済の費用は、別段の意思表示がなければ、原則として債務者が負担します。


「これは分かります」


 私は頷きました。


「自分が負っている義務を履行するための費用ですから、基本的には自分で負担するんですね」


「そうだ」


「でも、例外があります!」


 債権者が住所を移転するなどして、弁済の費用を増加させた場合。


 その増加額は、債権者の負担になります。


「たとえば」


 私は言いました。


「最初は近所に住んでいた貸主が、遠くへ引っ越した」


「うん」


「そのせいで、弁済の費用が余分にかかる」


「そうだ」


「増加した費用まで、全部債務者に負担させるのは不公平です」


 相馬先輩が頷きました。


「そういうことだ」


 私はノートに書きました。


 ――原則は債務者負担。ただし、債権者の行為による増加分は債権者負担。


「この条文、優しいですね」


「優しい?」


 相馬先輩が首をかしげました。


「はい」


「そうか?」


「だって、自分が原因で余分に費用をかけさせたなら、その増加分は自分で負担する。公平じゃないですか」


 片桐所長が頷きました。


「民法には、そういう調整が多い」


「はい」


 私は少し嬉しくなりました。


 民法。


 単に義務を押しつける法律ではない。


 誰が、どの負担を引き受けるべきか。


 そこまで考えているのです。


 ◇


「さて」


 相馬先輩が新聞を畳みました。


「ここからが面倒だぞ」


「え?」


「第三者弁済だ」


 私は鉛筆を握り直しました。


 ――第三者弁済。


 本人以外の者が、債務を弁済すること。


「これ、原則として認められるんですよね」


「ああ」


 たとえば。


 父親が百万円を借りている。


 息子が、その百万円を代わりに支払う。


「これも第三者弁済です」


「そうだ」


 私は頷きました。


 でも。


 ここで重要なのが、昭和六十三年と現代の違いです。


 私は古い六法を開きました。


「昭和六十三年の民法第四百七十四条!」


 第三者も、債務を弁済することができる。


 ただし、その債務の性質が許さないときや、当事者が反対の意思を表示したときは別。


 また、利害関係を有しない第三者は、債務者の意思に反して弁済することができません。


「先輩」


「何だ」


「ここ、現代とは条文が違います」


「またか」


「はい!」


 現代民法では、第三者弁済の制限が、より細かく規定されています。


 正当な利益を有しない第三者。


 債務者の反対意思。


 債権者の反対意思。


 債務者からの委託。


 債権者が何を知っていたか。


 そうした条件が、現在の第四百七十四条に整理されています。


「でも、昭和六十三年の条文には、現在の第三項や第四項はありません!」


「そのとおりだ」


「これ、間違えて現代の条文を引用したら大変ですね」


「大変どころじゃねえ」


 相馬先輩が言いました。


「存在しない条文を持ち出して、相手に何を主張するつもりだ」


「……はい」


 私は頭を下げました。


 でも。


 ここで大切なのは、法律が第三者弁済をどう考えているかです。


「先輩、どうして本人以外の人でも返済できるんですか?」


「金銭債務なら、誰が支払っても債権者が満足を得られる場合が多いからだ」


「なるほど」


「だが、債務の性質によっては、そうはいかねえ」


「たとえば?」


「特定の画家本人に絵を描かせる約束をしたのに、別人が勝手に描いても同じとは限らねえだろ」


「あ!」


 私は頷きました。


 誰が履行するかが重要な債務。


 そういう場合には、第三者弁済が許されないことがあります。


「つまり、債務の性質も重要なんですね」


「そうだ」


 さらに。


 保証人。


 抵当不動産の第三取得者など。


 自分の法的な利益を守るために弁済する立場の人もいます。


「保証人は、債務者が返さなければ自分が支払義務を負う場合がありますからね」


「そうだ」


「だから、全く関係のない人とは違う」


「そういうことだ」


 私は頷きました。


 昭和六十三年の条文でいう、利害関係の有無。


 これは、第三者弁済を考える大切な区別です。


 そして。


「所長!」


 私は顔を上げました。


「何だ」


「第三者が借金を払ったら、その人はお金を失うだけなんですか?」


 所長が少し笑いました。


「そこが次の論点だ」


 ……来ました。


 民法。


 本当に、次から次へと問題が出てきます。


 ◇


「第三者が弁済した場合、今度は求償と代位が問題になります」


 私はノートを開きました。


 ――弁済による代位。


「たとえば」


 私は図を描きました。


 AさんがBさんに百万円を貸した。


 Bさんは、自分の土地に抵当権を設定した。


 そして。


 Cさんが、Bさんの代わりに百万円を弁済した。


「ここでCさんは、当然に百万円を損するだけなんでしょうか?」


「そうとは限らねえな」


 相馬先輩が答えました。


「はい」


 私は頷きました。


 第三者が弁済した場合、債務者に対する求償権が認められることがあります。


 そして。


 一定の要件を満たすと、弁済をした第三者は、債権者が有していた権利に代位できます。


「つまり!」


 私は言いました。


「Aさんが持っていた貸金債権や抵当権を、Cさんが求償権を確保するために利用できる場合があるんですね!」


「そうだ」


 ただし。


 ここでも昭和と現代の違いがあります。


 現代では、弁済をするについて正当な利益を有する者は、弁済によって当然に債権者に代位します。


 一方。


 昭和六十三年の民法では、法定代位の対象となる者や、任意代位の手続について、旧法の規定を確認しなければなりません。


「昔の民法では、任意代位についても債権者の承諾などが問題になったんですよね」


「そうだ」


「そして、正当な利益があるかどうかで、法定代位も考える」


 私は書き込みました。


 ――第三者が払ったからといって、何でも自動的に同じ結論になるわけではない。


「これも大事ですね」


「そうだな」


 さらに。


 代位できる範囲は、求償できる範囲との関係で考えなければならない。


 第三者が一部だけ弁済した場合。


 債権者に残った権利との関係も問題になる。


 抵当権があれば、対抗要件や関係者の保護にも注意が必要です。


「……先輩」


「何だ」


「第三者弁済って、ただのお節介じゃ済まないんですね」


「そりゃそうだ」


「他人の借金を払った結果、今度はその人が債権者の立場に近づくこともある」


「そうだ」


「つまり、人間関係まで変わるんですね」


 相馬先輩が笑いました。


「だから、頼まれてもいねえ借金を勝手に払う前に、法律を調べろってことだ」


 私は深く頷きました。


 善意で払ったつもりでも。


 本人が望んでいなかったら。


 あるいは、当事者間に第三者弁済を認めない約束があったら。


 思わぬ紛争になる可能性があります。


 法律は。


 支払う人の善意だけで、すべてを決めるわけではないのです。


 ◇


「次は、ちょっと怖い話です」


 私は言いました。


 相馬先輩が顔を上げました。


「何だ」


「百万円を、間違った人に渡してしまったら?」


「そりゃ怖いな」


「ですよね!」


 私はノートに書きました。


 ――受領する権限のない者への弁済。


 たとえば。


 黒田から借りた百万円。


 春江さんが返済しようとする。


 そこへ、別の男が現れる。


 その男は、黒田の受取証書らしきものを持っている。


 そして。


「黒田に頼まれて、代わりに受け取りに来た」


 と言った。


「……先輩」


「何だ」


「この人に百万円を渡したら、どうなります?」


「本当に受領権限があるかどうかだな」


「ですよね」


 でも。


 世の中には、受領権限があるように見えてしまう人がいます。


 現代民法第四百七十八条。


 受領権者としての外観を有する者に対する弁済。


 受領権者ではなくても、社会通念上、受領権者らしい外観を持つ者に弁済した場合。


 弁済した人が善意無過失であれば、その弁済が有効とされることがあります。


「ただし!」


 私は六法を掲げました。


「昭和六十三年は、条文の言葉が違います!」


 相馬先輩が笑いました。


「何て書いてある?」


「債権の準占有者です!」


 ……。


 沈黙。


「……何ですか、その名前」


 思わず自分で言ってしまいました。


 債権の準占有者。


 現代の受験生には、なかなか馴染みのない言葉です。


「準占有って何ですか!」


「俺に怒るな」


「だって、急に難しくなるんです!」


 昭和六十三年の民法第四百七十八条は、債権の準占有者に対する弁済について規定していました。


 そして、受取証書の持参人については、旧第四百八十条にも特別な規定がありました。


「つまり、当時は条文が分かれていたんですね」


「そうだ」


 相馬先輩が頷きました。


「じゃあ、善意無過失って何だ」


「相手に受領権限がないことを知らず、知らなかったことについて過失もないことです!」


「よし」


 私は頷きました。


 ここが重要です。


 受領権限があると思った。


 それだけでは足りません。


 普通に注意していれば偽物だと分かった。


 そんな場合にまで、弁済を有効にしてしまうと、本当の債権者が不当に損をすることになります。


「だから善意だけではなく、無過失も必要なんですね」


「そうだ」


 私はノートに書きました。


 ――本物らしく見えたとしても、確認できることは確認する。


「でも先輩」


「何だ」


「もし、全然権限がない人に払ってしまったら?」


「それで当然に借金が消えるわけじゃねえ」


 現代民法第四百七十九条。


 受領権者以外の者に対する弁済は、原則として、債権者が利益を受けた限度で効力を生じます。


 昭和六十三年にも、受領権限のない者に対する弁済について、同じ基本的な方向の規定がありました。


「たとえば」


 私は言いました。


「偽物に百万円を渡したけれど、そのうち三十万円が本当の債権者に渡って利益になった場合」


「うん」


「他の要件に問題がなければ、その利益を受けた三十万円について弁済の効力が認められることがあります」


「そうだ」


「でも、残り七十万円については、なお返済義務が残る可能性がある」


「そういうことだ」


 私は頭を抱えました。


「怖い!」


「怖いだろ」


「百万円払ったのに、また七十万円請求されるなんて!」


 相馬先輩が笑いました。


「だから、金を渡す相手を確かめろ」


「はい!」


 私は大きく丸をつけました。


 弁済は。


 いくら払うか。


 どこで払うか。


 いつ払うか。


 だけではありません。


 誰に払うか。


 そこも重要なのです。


 ◇


「さて、こはる」


 片桐所長が声をかけました。


「はい」


「昨日の百万円を思い出せ」


「はい!」


「もし春江さんに、未払利息が三万円、正当に負担すべき弁済費用が二万円残っていたら?」


「え?」


「そして、春江さんが百万円だけ支払ったら?」


 私は考えました。


 元金百万円。


 利息三万円。


 費用二万円。


 合計百五万円。


 でも、支払ったのは百万円。


「……五万円足りません」


「そうだ」


「でも、百万円払ったんだから、元金は全部消えたんじゃありませんか?」


 相馬先輩が笑いました。


「そこが次の論点だ」


 私は鉛筆を握り直しました。


 ――弁済の充当。


「一つの債務について、元本以外に費用や利息も払わなければならない場合があります」


「そうだ」


「そして、全部を払うには足りない金額を支払った場合、どこから消えるのかが問題になります」


 私はノートに書きました。


 原則的な順序。


 費用。


 利息。


 元本。


「つまり、まず二万円の費用を支払う」


「うん」


「次に三万円の利息を支払う」


「そうだ」


「残った九十五万円が、元本に充当される」


 私は目を丸くしました。


「ええっ!」


 相馬先輩が笑いました。


「どうした」


「百万円払ったのに、元本が五万円残るんですか!」


「そういうことになる場合がある」


「怖い!」


「だから、支払う前に債務の総額を確認するんだ」


 私は頷きました。


 そして。


「所長!」


「何だ」


「ここも昭和と現代で条文番号が違います!」


 現代では民法第四百八十九条に、費用、利息、元本の充当に関する規定があります。


 一方。


 昭和六十三年の民法では、その順序について、旧第四百九十一条を確認する必要があります。


「つまり、現代の四百八十九条を、昭和の内容証明にそのまま書いたら駄目なんですね」


「そうだ」


 片桐所長が頷きました。


「ただし、今回の春江さんは?」


「支払済みの利息を確認していました!」


「うん」


「正当に支払うべき費用や利息が別に残っていないことも確認しました!」


「そうだ」


 だから。


 百万円を支払えば、借金を完済できる状況だった。


 もし未払利息が残っていたら。


 また違う計算になっていたかもしれません。


「なるほど……」


 私は小さく呟きました。


「内容証明で百万円と書く前に、百万円で本当に足りるのか確認する必要があったんですね」


「そうだ」


 相馬先輩が頷きました。


「債務額の計算を間違えたら、どんな立派な法律論も台無しだ」


 私は深く頷きました。


 法律の武器は、条文だけではありません。


 数字も。


 証拠も。


 約束の内容も。


 全部揃って、初めて力を持つのです。


 ◇


 気がつけば、窓の外は暗くなっていました。


 私はノートを見直しました。


 弁済。


 弁済の提供。


 現実の提供。


 口頭の提供。


 受領拒絶。


 弁済供託。


 第三者弁済。


 弁済による代位。


 受領権限。


 弁済の充当。


「……多いですね」


 私は呟きました。


 相馬先輩が笑いました。


「何が」


「ただ借金を返すだけの話なのに、こんなに論点があるんですよ」


「だから民法は面白いんだろ」


「先輩!」


「何だ」


「今、面白いって言いましたね!」


「言ったが?」


「先輩も民法が好きなんですね!」


「仕事だからな」


「素直じゃない!」


「うるせえ!」


 私は笑いました。


 でも。


 今日の勉強で、一つ大切なことが分かりました。


 弁済というのは、単にお金を渡すことではありません。


 正しい相手に。


 正しい場所で。


 正しい金額を。


 正しい方法で。


 そして。


 誰が弁済するのかまで考える。


 その一つひとつが、人の財産に関わっています。


「所長」


「何だ」


「昔の民法って、どうしてこんなに難しい言葉が多かったんでしょう」


 片桐所長は少し考えました。


「長い間、法律の世界で使われてきた言葉だからだろうな」


「でも、現代では変わるんです」


 私は言いました。


「債権の準占有者という言葉も、受領権者としての外観を有する者、という表現に変わります」


「ほう」


「第三者弁済のルールも、当事者の意思や第三者の正当な利益を踏まえて、より細かく整理されるんです」


「そうか」


「改正には、従来の判例や実務の考え方を条文に取り込んで、分かりやすくする意味もあったんですね」


 所長が頷きました。


「そういう改正は、昔からある」


「はい」


 私は少し考えました。


 法律は変わります。


 言葉も。


 条文番号も。


 制度も。


 でも。


 根底にある考え方は、昔も今もつながっています。


 義務を果たそうとした人を、不当に責めない。


 本人の知らないところで、勝手に法律関係を変えられないようにする。


 間違った相手に支払ったときは、取引の安全と本当の債権者の保護を調整する。


 支払った金額が足りない場合には、公平な順序で処理する。


 その考え方を。


 長い年月をかけて、整理し直してきたのです。


 ◇


「さて」


 相馬先輩が椅子から立ち上がりました。


「最後に確認問題だ」


「はい!」


「百万円を借りた奴が、百万円をきちんと返して、債権者が受け取った」


「はい」


「原則としてどうなる?」


「弁済によって債務が消滅します!」


「よし」


「債権者が、事前に受領を拒んでいたら?」


「原則的な現実の提供に代えて、弁済の準備を通知し、受領を催告する口頭の提供で足りる場合があります!」


「よし」


「債権者が、受領しない意思を明確にしていたら?」


「昭和三十二年六月五日の最高裁判例です! 事案によっては口頭の提供すら不要となり、債務不履行責任を免れます!」


「よし」


「でも、弁済の提供だけで借金が消えるか?」


「消えません!」


「おお」


「適法な弁済供託などによって消滅させる方法もあります!」


「正解」


 相馬先輩が頷きました。


「じゃあ、別の問題」


「はい!」


「全く関係のない第三者が、本人の意思に反して勝手に返済したいと言ったら?」


「昭和六十三年の民法第四百七十四条第二項! 利害関係を有しない第三者は、債務者の意思に反して弁済できません!」


「よし」


「保証人が弁済したら?」


「求償や弁済による代位が問題になります!」


「正解」


「受領権限があるように見える偽物に払ったら?」


「善意無過失などの要件を確認します! 昭和では債権の準占有者という用語です!」


「よし」


「元本百万円、費用二万円、利息三万円。合意などによる別段の処理がなく、百万円を払ったら?」


「原則的な充当順序は費用、利息、元本! だから元本は五万円残ります!」


「正解」


 私は拳を握りました。


「やりました!」


 相馬先輩が笑いました。


「なかなか覚えたじゃねえか」


「ありがとうございます!」


 そして。


 片桐所長が静かに言いました。


「では、最後だ」


「はい!」


「弁済の一番大切な意味は何だ」


 私は少し考えました。


 法律用語。


 条文番号。


 判例。


 いろいろ頭に浮かびます。


 でも。


 最後に思い出したのは。


 藤野春江さんの顔でした。


 百万円を用意したのに、受け取ってもらえなかった。


 返済期限を過ぎたから、店を奪うと言われた。


 それでも。


 法律によって、守られた。


 私は答えました。


「義務を果たした人が、きちんとその義務から解放されることです」


 所長が頷きました。


「そうだ」


「そして、果たそうとした人が、相手の不当な受領拒絶によって責任を負わされないこと」


「うん」


「借金をした人だって、法律に守られているんですね」


 所長は短く答えました。


「そのとおりだ」


 私は笑いました。


 そして、ノートの最後のページを開きました。


 ここに。


 今日の一行を書きます。


 鉛筆の先を整えて。


 ゆっくり。


 ――弁済は「義務を終わらせること」。弁済の提供は「義務を果たそうとした人を、不当な責任から守ること」。


「……できた!」


 私はノートを掲げました。


「どうですか!」


 相馬先輩が覗き込みました。


「まあ、悪くねえな」


「褒めましたね!」


「気のせいだ」


「またそれですか!」


 私は笑いました。


 でも。


 この一行は、たぶん忘れません。


 あの洋裁店のことを思い出せばいい。


 三十年守り続けた店。


 雨漏りを直すために借りた百万円。


 返そうとしたのに、受け取ってもらえなかったお金。


 そして。


 その不当な受領拒絶を、法的に乗り越えたこと。


 民法は。


 返さない人を追い詰めるためだけの法律ではありません。


 返そうとする人が、きちんと返せるようにする法律でもあるのです。


 ◇


「ところで、こはる」


 相馬先輩が言いました。


「はい?」


「今日の勉強会、もう終わりか?」


「はい!」


「じゃあ、その書類を棚に戻せ」


「はい」


「机を片付けろ」


「はい」


「掃除も頼む」


「……はい?」


 私は顔を上げました。


「先輩」


「何だ」


「私、今日はかなり勉強しましたよね」


「そうだな」


「だったら、掃除くらい免除してくれても……」


「何だ、債務不履行か?」


「違います!」


 私は腕を組みました。


「そもそも、掃除は私の債務なんですか?」


「所長から頼まれた業務だろ」


「ぐっ……」


 相馬先輩が笑いました。


「じゃあ、第三者弁済でも頼むか?」


「第三者弁済?」


「ああ。俺が代わりに掃除してやる」


 私は目を輝かせました。


「本当ですか!」


「ただし、百円だ」


「えっ」


「掃除代、百円」


「先輩!」


「何だ」


「それ、弁済じゃなくて、新しい契約ですよね!」


 相馬先輩が一瞬黙りました。


 そして。


「……よく分かったじゃねえか」


 と笑いました。


 私は得意になりました。


「当然です!」


「じゃあ、自分で掃除しろ」


「ええっ!」


「俺との契約は成立してねえからな」


「そんな!」


 私は頭を抱えました。


 ……なるほど。


 法律を理解しても、掃除が免除されるわけではないようです。


 残念ながら。


 民法には、勉強を頑張った見習いの掃除義務を自動的に消滅させる規定は存在しないのでした。


 私は箒を手に取りました。


「分かりましたよ!」


「いい返事だ」


「掃除します!」


「そうしろ」


 私は床を掃き始めました。


 窓の外。


 夕暮れの町に、家々の明かりが灯っています。


 あのどこかで。


 藤野春江さんは、今日もミシンを踏んでいるのでしょう。


 百万円の借金を、きちんと返し終えて。


 三十年守ってきた店で。


 また明日も、布を縫う。


 弁済。


 難しい言葉です。


 でも。


 その意味を知っているだけで、守れる生活がある。


 そして。


 その意味を間違えるだけで、失ってしまう財産がある。


 私は箒を止め、ノートの一行をもう一度読みました。


 ――弁済は「義務を終わらせること」。弁済の提供は「義務を果たそうとした人を、不当な責任から守ること」。


 よし。


 完璧。


「こはる!」


 相馬先輩の声が飛びました。


「はい!」


「ノート見てねえで掃除しろ!」


「今、学習内容を確認してたんです!」


「確認は後だ!」


「先輩!」


「何だ!」


「私、第三者弁済の意味も分かりました!」


「だから何だ!」


「先輩が代わりに掃除してくれるなら、私は大歓迎です!」


「俺はやらねえ!」


「債権者の意思に反してるんですか!」


「そもそも俺が弁済するって言ってねえだろ!」


 ……なるほど。


 第三者弁済は、本人以外の人が履行する制度です。


 ですが。


 第三者本人に、その気がなければ始まりません。


 法律って、難しいですね。


 私はため息をつきながら、もう一度箒を動かしました。


 そして。


 今日もまた、ひとつ確信しました。


 民法を勉強すると。


 借金を返すことの意味は、よく分かるようになります。


 けれど。


 掃除を誰かに代わってもらう方法まで、都合よく見つかるわけではないのでした。


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