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こはる行政書士見習帖 〜 昭和に転生して許認可に振り回されると試験知識が骨身にしみます 〜  作者: 条文小説
〈民法 配点76点/300点〉 債権

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509/604

[民法・弁済]現場編 「金を返さなかったことにしてやる」の罠。受取りを拒む悪徳貸主と、百万円を守る内容証明の刃

挿絵(By みてみん)

 借りたお金を返さないのは、悪いことです。


 では。


 返そうとしたお金を、相手が受け取らなかったら。


 それでも、返さなかった人が悪いのでしょうか。


 しかも。


 相手が最初から、お金を受け取らないつもりだったとしたら。


 そこには、単なる借金の問題ではない。


 もっと恐ろしい罠が潜んでいるのかもしれません。


 昭和六十三年。


 片桐行政書士事務所。


 その日の私は、民法の基本中の基本である一つの言葉に、思い切り足をすくわれることになります。


 弁済。


 つまり、債務を履行すること。


 お金を借りたなら、お金を返す。


 物を売ったなら、約束どおり引き渡す。


 簡単です。


 簡単なはずです。


 ところが。


「金を持ってきたって、受け取ってやらねえよ」


 そんな一言で、人の生活を奪おうとする男がいたのです。


「先生……私、ちゃんと百万円を用意したんです」


 朝九時。


 事務所を訪れた女性は、両手で茶色い封筒を握りしめていました。


 名前は、藤野春江さん。


 五十四歳。


 駅前商店街で、三十年以上、小さな洋裁店を営んでいるそうです。


 その指先には、いくつもの針の跡がありました。


「それなのに……あの人は、私が借金を返さなかったと言うんです」


「……どういうことですか?」


 私は首をかしげました。


 片桐所長が静かに椅子を勧めます。


「最初から、お話しください」


 春江さんは、小さく頷きました。


「三年前、主人が亡くなりまして」


 私は手を止めました。


「店の修繕費が必要になったんです。雨漏りがひどくて、このままじゃミシンも布地も駄目になるって」


「それで借金を?」


「はい。百万円です」


 貸主は、駅前で貸金業を営む黒田金次郎。


 五十八歳。


 不動産の売買も手掛けている男でした。


「利息は毎月きちんと払ってきました。元金は、今年の九月末に一括して返す約束だったんです」


「返済期限は過ぎていますね」


「はい。でも、九月三十日に、ちゃんと持っていったんです」


 春江さんが封筒を差し出しました。


 中には、一冊の預金通帳。


 銀行の払戻伝票。


 それから、借用証書の写し。


「銀行で百万円を下ろして、黒田さんの事務所へ行きました」


「受け取ってくれなかったんですか?」


「はい」


「理由は?」


 春江さんは唇を震わせました。


「今は忙しい。来週にしろって」


「……え?」


「だから次の週に、もう一度持っていったんです」


「それで?」


「今度は、もう期限を過ぎていると言われました」


 私は目を丸くしました。


「いやいやいや!」


 思わず声が大きくなります。


「最初に受け取らなかったの、黒田さんですよね!」


「はい……」


「だったら、春江さんが悪いわけじゃないでしょう!」


 当然です。


 返そうとした。


 相手が拒んだ。


 なのに、返済期限を過ぎたから債務不履行。


 そんな理屈が通るなら。


 貸主は、わざとお金を受け取らなければいいことになります。


 ……あれ?


 私は、ふと嫌な予感がしました。


「春江さん。黒田さんは、返済期限が過ぎたと言って、何を要求しているんですか?」


 春江さんは震える手で、もう一枚の紙を取り出しました。


「これです」


 私は受け取りました。


 ――債務不履行に関する通知書。


 そこには、こう書かれていました。


 ――元金百万円につき、昭和六十三年九月三十日までに弁済がなされなかった。


 ――よって、担保として差し入れられた藤野洋裁店の土地建物について、法的措置を検討する。


 ……。


 私は紙を見つめました。


「担保?」


「はい」


「お店を?」


 春江さんは頷きました。


「あの店は、主人と二人で三十年かけて守ってきた店なんです」


 声が震えます。


「百万円は用意できました。ちゃんと返せるんです。それなのに……」


 私は通知書の最後を読みました。


 ――なお、土地建物については、当社による任意買取りにも応じる用意がある。


 ……なるほど。


 これは。


 単なる借金の取立てではありません。


 黒田は、金が欲しいわけではない。


 春江さんの店が欲しいのです。


「それで、春江さん」


 相馬先輩が口を開きました。


「金を持っていったとき、誰か一緒にいましたか?」


「いいえ。一人です」


「受け取りを断られた証拠は?」


「……ありません」


「黒田の事務所で、何か書いてもらいましたか?」


「いいえ」


「金を持参した日付が分かるものは?」


「銀行の払戻伝票なら……」


「それだけじゃ、黒田に差し出した証拠にはならねえな」


 春江さんがうつむきました。


「やっぱり……駄目なんでしょうか」


「まだ駄目とは言ってねえ」


 相馬先輩は借用証書を広げました。


「金を払う約束と、払おうとした事実。まずは分けて考える」


 私は頷きました。


 そうです。


 ここは民法。


 しかも、テーマは弁済。


 私は頭の中で、現代の行政書士試験の知識を引っ張り出しました。


「大丈夫です!」


 私は勢いよく言いました。


「春江さんは、弁済の提供をしています!」


「ほう」


 相馬先輩がこちらを見ます。


「続きを言ってみろ」


「民法四百九十二条です!」


 私は六法を開きました。


「弁済の提供をすれば、その時から債務不履行による責任を免れます!」


「そこは合ってる」


「ですよね!」


 私は得意になりました。


「しかも、相手が受領を拒絶している場合には、口頭の提供で足りるんです!」


「そうだな」


「そして、相手が明確に受領を拒絶しているなら、口頭の提供すら不要になる場合があります!」


 ここまで言って。


 相馬先輩が少し笑いました。


「じゃあ、お前は何を根拠に、今回の債務が消えたと言うんだ?」


「え?」


「金はまだ春江さんの手元にあるんだろ?」


「はい」


「黒田は受け取ってねえ」


「はい」


「じゃあ、借金そのものは?」


 ……あ。


 私は固まりました。


 弁済。


 弁済の提供。


 弁済による債務の消滅。


 ……似ている。


 でも。


 同じではない。


「こはる」


 片桐所長が低い声で言いました。


「提供と、履行の完了を混同するな」


「……はい」


「弁済の提供をしたからといって、それだけで当然に債務が消えるわけではない」


 私は唇を噛みました。


 そうでした。


 弁済の提供は、債務を履行するために必要なことを行い、相手に受領を求める行為。


 適切な提供をすれば、原則として債務不履行による責任を免れる。


 でも。


 百万円を返す義務そのものは、まだ残り得る。


「つまり……」


 私は呟きました。


「遅れた責任を負わないことと、借金が消えることは別なんですね」


「そうだ」


 所長が頷きました。


「だから、残った債務をどう消すかまで考えろ」


 なるほど。


 お金を受け取らない相手に対して。


 どうやって、法的に支払を完成させるのか。


 そこまで考えなければ、事件は終わらないのです。


「ところで」


 私は借用証書を読み直しました。


 そこには、こんな一文がありました。


 ――元金は昭和六十三年九月三十日限り、貸主の営業所に持参して支払うものとする。


「……あ!」


 私は顔を上げました。


「弁済場所!」


 相馬先輩が頷きます。


「そうだ」


「契約で黒田さんの営業所と決めているんですね」


「うん」


「だったら、そこへ持っていけばいい」


「ただし、営業時間も確かめろ」


「はい!」


 春江さんに尋ねると、黒田の事務所は午前九時から午後五時まで営業。


 春江さんが訪れたのは、九月三十日の午後二時。


 営業時間内です。


「場所も、日時も、契約に合っています」


「そうだな」


 私は嬉しくなりました。


 でも、相馬先輩が言いました。


「契約書に弁済場所が書かれていなかったら?」


「え?」


「どこで払う?」


 私は現代民法の知識を思い出しました。


「特定物の引渡しなら、債権発生時にその物が存在した場所です!」


「ほう」


「それ以外の弁済なら、原則として債権者の現在の住所です!」


「そうだ」


「でも今回は契約に場所が書いてあるので、その場所が優先します!」


「正解」


 私は拳を握りました。


 よし。


 今回は時代錯誤なし。


 ……と思ったのですが。


 相馬先輩が六法を覗き込みました。


「お前、さっきから条文の並びを妙に気にしてるな」


「えっ」


「四百八十四条の次の項でも探してるのか?」


 ぎくっ。


 現代の民法では、弁済の時間についても四百八十四条第二項に規定があります。


 でも。


 昭和六十三年の六法を、現代と同じ構造だと思ってはいけません。


「……法律って、改正されると条文の位置も変わるんですよね」


「何を当たり前のこと言ってる」


「いえ、その……」


「こはる」


 片桐所長が言いました。


「大事なのは何条の何項と唱えることではない」


「はい」


「契約で場所を決めているか。取引の時間はどうか。費用は誰が負担するか。事実を確認しろ」


「はい!」


 私は慌てて相談票に書き込みました。


 支払場所。


 支払時間。


 支払金額。


 受領拒絶の事実。


 そして。


 現在も百万円を支払える状態にあること。


 ただ「返すつもりでした」と言うだけでは足りない。


 実際に返済できる準備が整っていたのか。


 そこが重要なのです。


「でも、所長」


 私は首をかしげました。


「何だ」


「相手がわざと受け取らないなら、いつまでもお金を返せないんじゃありませんか?」


「そうだな」


「それって、困りません?」


「だから法律には、別の仕組みがある」


 所長は六法を閉じました。


「供託だ」


「……供託!」


 私は思わず声を上げました。


 弁済供託。


 債権者が受領を拒絶するなど、法律上の要件を満たす場合に、債務者が金銭などを供託所に供託する制度。


 適法に供託すれば、債務を消滅させることができる。


「そうか!」


 私は机を叩きかけました。


「黒田さんが受け取らないなら、供託すればいいんですね!」


「条件を確認したうえでな」


 所長が言いました。


「はい!」


「供託したという事実だけで、どんな場合でも有効な弁済になるわけではない。金額、債権者、供託原因を間違えるな」


「はい」


「まず、債務の内容を確定させる」


 相馬先輩も頷きました。


「黒田が欲しがってるのは、金じゃなくて店だ。なら、借金をきっちり消すことが一番効く」


 私は春江さんを見ました。


「お店、守れますよ」


「……本当ですか?」


「少なくとも、黒田さんが言うように、返済を拒んでおいて一方的に不履行だと決めつけることはできません」


 所長が静かに付け加えました。


「担保の内容や、利息の支払状況なども確認する必要があります。まだ結論を急いではいけません」


「はい……」


 春江さんは目を伏せました。


「でも、少し安心しました」


 その言葉を聞いて。


 私は初めて気づきました。


 借金というのは。


 借りた人が返せなくなることだけが、怖いのではありません。


 返せるのに、返させてもらえない。


 そんな罠もあるのです。


 翌日。


 私たちは黒田の事務所を訪れました。


 もちろん。


 代理人として示談交渉をするためではありません。


 春江さんから依頼を受けた書類作成に必要な、相手方の主張と事実関係の確認です。


 駅前通り。


 銀行の二軒隣に、黒い看板がありました。


 ――黒田金融不動産。


 中に入ると、革張りの椅子に大柄な男が座っていました。


 金の腕時計。


 分厚い指輪。


 そして、人を値踏みするような目。


「何だ、あんたら」


 黒田金次郎です。


 相馬先輩が名刺を差し出しました。


「片桐行政書士事務所の相馬です。藤野春江さんの件について、書類作成のため事実を確認させていただけますか」


「行政書士?」


 黒田は鼻で笑いました。


「弁護士でもねえのに、何しに来た」


 ……。


 またです。


 この手の人、どうして行政書士と聞くと急に強気になるのでしょう。


「藤野さんは九月三十日に、元金百万円の返済を申し出たと話しています」


 相馬先輩が言いました。


「それについて、確認したいんですが」


「知らねえな」


 黒田は煙草をくわえました。


「金なんか受け取ってねえよ」


「受け取っていないことは争いません」


「だったら、返してねえってことだろ」


「受領を拒んだ事実はありませんか」


「忙しかったんだよ」


 ……。


 私は思わず黒田を見ました。


 今、言いましたよね。


 忙しかった。


 つまり、春江さんが来たことは認めています。


「では、九月三十日に来所したこと自体は覚えていらっしゃるんですね」


 私が尋ねると。


 黒田は顔をしかめました。


「ああ、来たかもしれねえな」


「そのとき、お金を持っていたことは?」


「さあな」


「受け取らなかったんですか?」


「だから、忙しかったって言ってんだろ!」


 黒田が机を叩きました。


 私は肩をすくめました。


 怖い。


 でも。


 この人、肝心なところを自分で喋っています。


「それでよ」


 黒田は椅子にもたれました。


「契約書に書いてあるだろ。九月三十日までに返済しなければ、債務不履行だ」


「はい」


「だから、こっちは担保の処分を考えてるんだよ」


 相馬先輩は、表情を変えません。


「担保権の実行には所定の手続が必要ですね」


「分かってるよ」


「藤野さんは現在も支払う意思をお持ちです」


「もう遅えよ」


 黒田は笑いました。


「期限を過ぎた金なんか、今さら受け取る義理はねえ」


 私は思いました。


 ……なるほど。


 この人。


 最初から、百万円を受け取る気がありません。


 返済期限が過ぎたことにして。


 不履行を理由に。


 店を手放させようとしている。


「ところで」


 相馬先輩が尋ねました。


「今後、藤野さんが元金と正当に支払うべき金額を用意しても、受領する意思はないということですか」


「ねえよ」


 即答でした。


「何度持ってきても同じだ」


「そうですか」


「こっちは不動産の話を進めてるんだ。今さら現金なんか持ってくるな」


「分かりました」


 相馬先輩は、それ以上何も言いませんでした。


 私たちは事務所を出ました。


 外へ出た瞬間。


「先輩!」


「何だ」


「今の、すごくないですか!」


「何が」


「相手、自分で受領拒絶を認めましたよ!」


「ああ」


「しかも、今後も受け取らないって!」


「そうだな」


「だったら、もう勝ちじゃないですか!」


 相馬先輩は立ち止まりました。


「こはる」


「はい」


「言った言わねえになったら、どうする?」


 ……あ。


「証拠……」


「そうだ」


 私は肩を落としました。


「録音できていません」


「だろうな」


 スマートフォン。


 ボイスレコーダー。


 現代なら、もっと簡単に証拠を残せたかもしれません。


 でも、ここは昭和六十三年。


 携帯電話ですら、一般の人にはまだ遠い存在です。


「だから」


 先輩は言いました。


「今の話も、日時と内容をすぐ記録する」


「はい!」


「だが、それだけを頼りにするな」


「え?」


「相手が後から何を言っても、書面と客観的な資料で確認できる形にするんだ」


 私は頷きました。


 なるほど。


 黒田の言葉を引き出して終わりではない。


 その主張に対して。


 春江さん本人の意思を、正式な書面として残す。


 それが内容証明の出番です。


 事務所へ戻ると、片桐所長が待っていました。


「どうだった」


「受領拒絶です!」


 私は報告しました。


「黒田は、今後も返済を受け取らないと明言しました!」


「そうか」


「しかも、最初から店を狙っています!」


 所長は、静かに頷きました。


「なら、書面を作ろう」


「はい!」


 私は原案を書き始めました。


 ――貴殿は正当な理由なく弁済を拒絶した。


 ――よって本件債務は既に消滅した。


「待て」


 相馬先輩が赤鉛筆を取りました。


「はい?」


「二行目」


「はい」


「消滅してねえだろ」


 赤線。


 ……ああっ!


 またやりました。


「すみません!」


「さっき所長に言われたばっかりだろ」


「はい……」


「弁済の提供と、債務の消滅は別だ」


「そうでした」


 私は慌てて書き直しました。


 ――通知人は、本件元金百万円につき、約定の期日に履行の準備を整えて弁済を申し出た。


 ――貴殿は、右弁済の受領を拒絶した。


 ――通知人は現在も履行の準備を維持している。


 相馬先輩が頷きました。


「そこまではいい」


「はい」


「次は四百九十三条だ」


 私は六法を開きました。


 民法四百九十三条。


 弁済の提供は、原則として、債務の本旨に従って現実にしなければならない。


 ただし。


 債権者があらかじめ受領を拒んでいる場合。


 または、履行に債権者の行為が必要な場合。


 そのときには、弁済の準備ができたことを通知し、受領を催告すれば足りる。


「つまり」


 私は言いました。


「今回、黒田が今後の受領を拒否している以上、現金を持って何度も事務所へ行く必要はないんですね」


「そうだ」


「ただ、書面で弁済の準備を通知して、受け取るよう催告する」


「うん」


 そこで、片桐所長が口を開きました。


「こはる。昭和三十二年六月五日の最高裁大法廷判決を調べてみろ」


「昭和三十二年……?」


「受領拒絶が明確な場合の判例だ」


 私は判例集を引っ張り出しました。


 ページをめくります。


 そして。


「あっ!」


 思わず声が出ました。


「所長、これ!」


 判決の要旨。


 債権者が契約の存在を否定するなど、弁済を受領しない意思が明確と認められる場合には、債務者は口頭の提供をしなくても債務不履行の責任を免れる。


「すごい!」


 私は声を上げました。


「相手が絶対に受け取らないと分かっているのに、何度も受け取りを求める必要はない、ということですね!」


「そうだ」


 所長が頷きます。


「ただし、判例の射程と事実関係を考えろ」


「はい」


「単に相手が一度受領を断ったことと、受領拒絶の意思が明確であることは、同じではない」


「なるほど」


「だからこそ、書面にしておく」


 私は頷きました。


 黒田は。


 今さら現金など受け取らない。


 何度持ってきても同じだ。


 そう言っている。


 ならば。


 その態度を前提に、弁済の準備と受領の催告を記載する。


 仮に口頭の提供が不要と認められる場合でも、証拠を残しておく価値がある。


「しかも!」


 私は気づきました。


「昭和三十二年の判例なら、昭和六十三年でも使えます!」


 相馬先輩が呆れた顔をしました。


「当たり前だろ」


「いや、そうなんですけど!」


 現代の知識を持っている私には、これが嬉しいのです。


 二〇二〇年の改正民法を持ち込むわけではない。


 昭和六十三年の時点で、既に存在していた判例。


 その武器が使える。


「先輩!」


「何だ」


「未来の条文じゃなくて、昭和の判例で戦えます!」


「最初からそうしろ!」


 ……はい。


 反省しています。


「もう一つ確認するぞ」


 相馬先輩が言いました。


「はい」


「百万円を用意したのは春江さん本人か?」


「はい」


「誰かから借りた金じゃねえのか?」


「銀行の定期預金を解約したそうです」


「そうか」


 先輩は頷きました。


「第三者弁済の問題はなさそうだな」


「第三者弁済……」


 私は顔を上げました。


「そういえば、他人が代わりに借金を返すこともできるんですよね!」


「ああ」


「保証人とか!」


「そうだ」


「じゃあ、春江さんの娘さんが代わりに百万円を払ってもいいんですね!」


「事情による」


「え?」


 相馬先輩が六法を開きました。


「債務者本人じゃなくても弁済できる。それが原則だ」


「はい」


「だが、誰でもどんな場合でも、勝手に他人の借金を消せるわけじゃねえ」


 昭和六十三年の民法四百七十四条。


 第三者による弁済を認めつつ、債務の性質や当事者の意思による制限を置いている。


 さらに。


 利害関係を有しない第三者は、債務者の意思に反して弁済することができない。


「たとえば」


 相馬先輩が言いました。


「全く関係のねえ奴が、本人の嫌がる借金を勝手に払って、後から恩を売ろうとしたらどうする?」


「……嫌ですね」


「だろ」


「でも、保証人なら事情が違いますよね」


「そうだ。保証人は自分も支払義務を負う立場だからな」


 私は頷きました。


 そして。


 思わず、現代民法の四百七十四条第三項を思い出しました。


「あ、あと、正当な利益がない第三者は、債権者の意思に反して弁済することも原則できないんですよね。ただし債務者から委託を受けていて、そのことを債権者が知っていれば――」


「待て」


 相馬先輩が遮りました。


「はい?」


「お前、今どこの条文を読んだ?」


「四百七十四条第三項です!」


「……第三項?」


 先輩が六法をこちらへ向けました。


 ……。


 あ。


 ありません。


 私が思い浮かべたのは、二〇二〇年施行の改正民法です。


 昭和六十三年の条文とは、項の数も、第三者弁済を制限する仕組みも異なります。


「こはる」


 相馬先輩が言いました。


「お前は何十年先の民法で仕事してるんだ?」


「あ、いえ……その……」


「今は昭和六十三年だ」


「はい……」


「将来どう変わるか知らねえが、今ある条文を使え」


「はい!」


 危ない。


 また未来人の地雷です。


 でも。


 今回の春江さんのケースでは、そもそも本人が弁済しようとしている。


 第三者弁済の問題を持ち出す必要はありません。


「こはる」


 片桐所長が言いました。


「関係のない論点で書面を膨らませるな」


「はい」


「使える法律を全部書くことと、必要な法律を正確に書くことは違う」


 私は原案を見直しました。


 なるほど。


 強い内容証明は、条文が多い書面ではない。


 相手の主張を崩すために必要な事実と法律が、過不足なく並んでいる書面なのです。


 夕方。


 ようやく内容証明郵便の原案が完成しました。


 宛先。


 黒田金次郎。


 差出人。


 藤野春江。


 題名。


 ――借入金債務に関する弁済提供及び受領催告通知書。


 私は声に出して読みました。


「第一。本件借入金元本百万円の弁済期は、昭和六十三年九月三十日である」


「うん」


「第二。通知人は、右期日に現金百万円を準備し、契約所定の場所である貴殿営業所に持参して弁済を申し出た」


「うん」


「第三。貴殿は、右金員の受領を拒絶した」


 相馬先輩が頷きました。


「続けろ」


「第四。貴殿はその後も、通知人による弁済を受領しない意思を明らかにしている」


「うん」


「第五。通知人は本件債務につき、現在も弁済の準備を整えており、本通知をもって改めて受領を催告する」


 私は一度、息を吸いました。


「第六。貴殿の受領拒絶のもとで、通知人に履行遅滞の責任が当然に生じるものではない。民法第四百九十二条及び第四百九十三条、並びに最高裁判所昭和三十二年六月五日大法廷判決の趣旨に照らし、本件について弁済の提供の効果を主張する」


 相馬先輩が頷きます。


「よし」


「第七。貴殿が引き続き受領を拒絶する場合、通知人は、法定の要件を確認のうえ、弁済供託の手続を検討する」


 私は続けました。


「第八。通知人の債務不履行を前提とする請求、担保権の実行その他の法的措置については、その根拠を争うことがある。また、紛争が解決しない場合には、弁護士への相談及び適切な法的手続を検討する」


 読み終えました。


 静寂。


 私は恐る恐る所長を見ました。


「……どうでしょう」


 片桐所長は書面を読み直しました。


 そして。


「悪くない」


 短く言いました。


「本当ですか!」


「ただし」


 ……来ました。


「費用と利息の確認は終わったか」


「はい!」


 私は別紙を出しました。


 借用証書。


 利息の支払記録。


 元金百万円。


 契約で定めた利息は、九月分まで支払済み。


 現在確認できる未払元金は、百万円。


「今のところ、ほかに正当に支払うべき金額は確認されていません」


「そうか」


「ただ、費用や残額について追加の主張があるなら、根拠を明らかにしてもらう必要があります」


「うん」


 所長は頷きました。


「弁済する額を間違えれば、相手に争う口実を与える」


 相馬先輩が言いました。


「それにな、こはる」


「はい」


「金を払うとき、元本だけ見てりゃいいわけじゃねえ」


「え?」


「費用、利息、元本。充当の順序って問題がある」


 私は頷きました。


 弁済の充当。


 たとえば、元本のほかに費用や利息が残っている場合。


 当事者の合意などによる別段の処理がなければ、支払った金額をどう割り当てるかが問題になる。


 ここも、現代と昭和六十三年とで、条文の規律をそのまま同一視してはいけない部分です。


「でも今回は、利息の支払記録が揃っています」


「そうだ」


「元金百万円を中心に、金額の根拠を明確にできます」


「よし」


 所長は書面を机に置きました。


「春江さんに最終確認をしてもらえ」


「はい!」


「本人の意思で発送する」


 私は頷きました。


 行政書士が勝手に相手方と和解交渉をするのではありません。


 依頼人自身の意思を、正確な書類にする。


 それが仕事です。


 そして。


 たった一枚の内容証明が。


 時には、大きな財産を守る刃になるのです。


 三日後。


 黒田金次郎のもとに、内容証明郵便が届きました。


 その翌日。


 事務所の電話が鳴りました。


「はい、片桐行政書士事務所です!」


『……片桐さんはいるか』


 低い声。


 黒田です。


「少々お待ちください」


 私は受話器を所長に渡しました。


「片桐です」


『あの書面だが……』


「はい」


『あんたら、供託まで考えてるのか』


「通知人の意思は、書面に記載されているとおりです」


『……』


 電話の向こうが静かになりました。


『こっちも弁護士に相談した』


「そうですか」


『返済を拒んだだけで、こっちが不利になる場合があるって……』


 私は耳を澄ませました。


 黒田の声。


 明らかに、最初とは違います。


『それに、適法に供託されれば、金を受け取らなくても債務が消える可能性があるんだろ』


「法律上の要件を満たす供託については、そういう効果があります」


『……』


 長い沈黙。


『だったら、うちが金を受け取らない意味がねえじゃないか』


 私は思わず、相馬先輩を見ました。


 先輩は新聞を読んでいます。


 でも。


 口元が少し笑っていました。


『あの女が金を返さなかったって話も、争いになるって言われた』


「そうでしょうね」


『九月三十日に持ってきたかどうか、証拠がないだろ』


「その点は事実関係の問題です」


『……』


「ただ、今後の受領拒絶については、通知書でも明確にしております」


『分かってるよ!』


 黒田の声が少し荒くなりました。


 けれど。


 すぐに小さくなりました。


『……受け取る』


 私は顔を上げました。


『百万円、受け取るから』


 ……!


『それで借金は終わりにする』


 所長は落ち着いた声で言いました。


「その内容については、ご本人に直接、書面でお伝えください」


『……分かった』


「なお、担保権の抹消など、必要な手続についても専門家に確認なさるとよいでしょう」


『ああ……』


 電話が切れました。


「所長!」


「何だ」


「受け取るって言いましたよね!」


「ああ」


「やりましたね!」


 私は思わず拳を握りました。


 でも。


 相馬先輩が言いました。


「まだだ」


「え?」


「前にも言っただろ」


「……書面ですか?」


「そうだ」


 先輩は新聞を畳みました。


「世の中、声がでかい奴じゃなくて、書面にハンコを押させた奴が勝つんだよ」


 ……また、それですか。


 でも。


 今回は、その意味がよく分かりました。


 翌週。


 春江さんは、黒田から届いた書面を持って事務所へ来ました。


 ――本件元金百万円を受領する意思があることを確認する。


 ――受領後、本件貸付けに関する債務が全額消滅したことを確認し、担保権の抹消に必要な手続に協力する。


 黒田金次郎。


 署名。


 押印。


「……本当に、これで大丈夫なんでしょうか」


 春江さんが尋ねました。


 片桐所長が言いました。


「まだ、支払そのものは終わっていません。受領時には必ず受取証書を受け取り、担保権の抹消手続も確認してください」


「はい」


「書面の確認と必要な手続の準備はこちらでお手伝いします。登記については司法書士と連携しましょう」


 春江さんは何度も頷きました。


 その後。


 春江さんは、銀行の応接室で黒田本人に百万円を支払いました。


 その場で発行された受取証書には、元金百万円を受領し、利息その他の残債務がないことが記されました。


 借用証書も返還されました。


 さらに後日。


 司法書士の手続により、担保権の抹消登記も完了しました。


 もう。


 黒田は、あの百万円の借金を理由に店を奪うことはできません。


 弁済が完了したのです。


 一週間後。


 春江さんが、事務所に小さな包みを持ってきました。


「これ、よかったら」


 中には、手作りの布巾が入っていました。


 綺麗な刺繍。


 小さな花の模様。


「お礼なんて、そんな」


 私が言うと、春江さんは笑いました。


「お金は全部返してしまったから、今はこんなものしか作れないんですけど」


「十分です!」


 私は布巾を手に取りました。


「すごく綺麗です!」


 春江さんは嬉しそうに笑いました。


 それから、少しだけ目を潤ませました。


「主人がね」


「はい」


「あの店だけは、何があっても守ろうって言っていたんです」


 私は黙って聞きました。


「借金をしたのも、店を続けたかったからで……」


 春江さんは手を見つめました。


「でも、まさか、返そうとしたお金を受け取ってもらえないなんて思わなくて」


「……そうですよね」


「お金を借りた人間は、弱い立場ですから」


 私は首を振りました。


「でも、返す義務があるからといって、何をされてもいいわけじゃありません」


 春江さんが顔を上げました。


「え?」


「春江さんには、ちゃんと返す権利というか……返そうとしたことを、法律上正しく扱ってもらう立場があります」


 私は少し言葉を探しました。


「お金を借りた人だって、法律に守られているんです」


 春江さんの目から、涙が一粒落ちました。


「……そうなんですね」


「はい」


「私、借金をした自分が悪いんだと思ってました」


「借りたものを返す責任はあります。でも、今回、春江さんはその責任を果たそうとしたんです」


 私は笑いました。


「だから、胸を張ってください」


 春江さんは何度も頷きました。


「ありがとうございます」


 そして。


「今度、お洋服がほつれたら持ってきてくださいね」


 と笑いました。


「直してあげますから」


 私は思わず自分の袖を見ました。


 あ。


 ちょうどほつれています。


 ……どうして分かったんでしょう。


 洋裁店の人、恐るべし。


 春江さんが帰ったあと。


 私は机の上に広げた六法を眺めていました。


「相馬先輩」


「何だ」


「弁済って、もっと簡単なものだと思ってました」


「ほう」


「借りたお金を返す。それだけの話だと思ってたんです」


「普通はそうだな」


「でも、返すためには、相手の協力が必要になることもあるんですね」


「そうだ」


「そして、相手がわざと協力しなかったら、法律が別の道を用意している」


 相馬先輩が頷きました。


「そういうことだ」


 私は指を折りました。


「現実の提供」


「うん」


「口頭の提供」


「うん」


「受領拒絶が明確な場合の判例」


「そうだ」


「弁済供託」


「うん」


「それから、第三者弁済」


「それは今回使わなかっただろ」


「でも勉強しました!」


「まあな」


 私は笑いました。


 でも。


 一番大事だったのは。


 弁済の提供と、債務の消滅を区別すること。


 それができなければ、今回の事件は途中で止まっていたかもしれません。


 返そうとしたから、もう借金はない。


 そう思い込んでしまえば。


 本当に債務を消すための供託や、適切な受領手続を見落とす。


 逆に。


 まだ債務が残っているから、相手の言いなりになるしかない。


 そう考えてしまえば。


 黒田の思うつぼです。


「所長」


 私は顔を上げました。


「何だ」


「今日、弁済の意味が少し変わりました」


「どう変わった」


「借金を返すことだけじゃなくて、きちんと終わらせることが大事なんですね」


 所長が頷きました。


「そうだ」


「債務を負った人が、いつまでも不当に縛られないようにする」


「うん」


「そのために、弁済のルールがあるんですね」


 所長は帳簿を閉じました。


「借りた者には、返す義務がある」


「はい」


「だが、貸した者に、返済を不当に妨げて相手を追い詰める権利があるわけじゃない」


 私は静かに頷きました。


 借金を返す。


 それは、約束を守ること。


 そして。


 約束を守った人が、きちんとその義務から解放される。


 そこまで守って初めて。


 民法の公平さが生きるのです。


「ところで、こはる」


 相馬先輩が言いました。


「はい?」


「お前、弁済したら何が起こる?」


「債務が消滅します!」


「じゃあ、弁済の提供をしたら?」


「債務不履行による責任を免れます! ただし、それだけで当然に債務が消えるわけではありません!」


「よし」


「債権者があらかじめ受領を拒んでいる場合は?」


「準備したことを通知し、受領を催告する口頭の提供で足りる場合があります!」


「じゃあ、相手が絶対に受け取らない意思を明確にしていたら?」


「昭和三十二年六月五日の最高裁判例です! 口頭の提供すら不要となる場合があります!」


「おお」


 相馬先輩が少し驚いた顔をしました。


「ちゃんと覚えたじゃねえか」


「えへへ」


 私は得意になりました。


 すると。


 先輩がにやりと笑いました。


「じゃあ、最後に一問」


「何でもどうぞ!」


「俺がお前に千円貸してたとする」


「はい」


「お前が千円返そうとした」


「はい」


「俺は受け取らなかった」


「はい」


「だからお前は、俺に返さなくていいと思って千円を使っちまった」


「……はい?」


「そのあと俺が、やっぱり受け取ると言った」


 私は固まりました。


「……あ」


 先輩が笑いました。


「どうする?」


「……千円、必要です」


「そうだな」


「弁済の提供をしただけでは、債務は消えていませんから……」


「そうだ」


「だから、千円を使っちゃ駄目なんです!」


「正解」


 私は頭を抱えました。


「なんて意地悪な問題!」


「現場じゃ、もっと意地悪な奴が出てくる」


「確かに……」


 黒田金次郎。


 あの男を思い出します。


 金を受け取らない。


 返済していないことにする。


 そして、店を奪おうとする。


 でも。


 民法は、その罠を許さなかった。


 弁済の提供。


 受領拒絶。


 債務不履行責任。


 弁済供託。


 それらを正しく組み合わせることで、春江さんは三十年守ってきた店を失わずに済んだのです。


 夕方。


 私はノートを開きました。


 今日の教訓。


 何を書こう。


 少し考えて。


 鉛筆を走らせました。


 ――弁済は「義務を果たして債務を消すこと」。弁済の提供は「果たそうとした者を、不当な不履行責任から守ること」。


「……よし!」


 私は満足してノートを閉じました。


 窓の外では、商店街の明かりが灯り始めています。


 藤野洋裁店も、きっと今頃は営業しているのでしょう。


 ミシンの音。


 布を切る鋏の音。


 常連客の笑い声。


 そして。


 三十年間守り続けてきた、小さな店の明かり。


 百万円という金額は、決して小さくありません。


 でも。


 春江さんにとって、守りたかったのは百万円ではなかった。


 その先にある暮らしでした。


 法律は。


 お金の数字だけを守るものではない。


 人が、きちんと責任を果たしたとき。


 その責任から解放され、また明日を生きていけるようにする。


 そんな役割も持っているのです。


「こはる!」


 相馬先輩の声が飛びました。


「はい!」


「今日の郵便、出したか?」


「出しました!」


「帳簿は?」


「つけました!」


「六法は?」


「片付けました!」


「じゃあ、そこの封筒を確認しろ」


「はい!」


 私は机の上の封筒を取りました。


 差出人。


 知らない男性。


 中には、一枚の手紙。


 ――父親の借金を、息子である私が代わりに返そうとしたところ、貸主から受領を拒絶されました。


 私は眉を上げました。


「……先輩」


「何だ」


「また弁済です」


「そうか」


「でも、今度は第三者弁済です」


「ほう」


「しかも、息子さんが代わりに返そうとしたら、貸主が拒否したって……」


 相馬先輩が顔を上げました。


「債務者本人は何て言ってる?」


「え?」


「父親は、息子に払ってもらうことを望んでいるのか?」


「あ……」


 私は手紙を読み直しました。


 そこには、まだ事情が詳しく書かれていません。


「それと」


 先輩が続けました。


「その息子は、保証人なのか?」


「書いてありません」


「じゃあ、まずそこからだ」


「……はい!」


 第三者弁済。


 債務者の意思。


 利害関係の有無。


 当事者の反対の意思表示。


 同じ借金の返済なのに。


 誰が払うのかによって、また別の問題が出てくる。


「先輩!」


「何だ!」


「民法って、借金を返すだけでも大変ですね!」


「当たり前だ!」


「しかも、誰が返すかまで問題になるなんて!」


「だから六法を読めって言ってんだろ!」


 私は笑いました。


 そして、相談票を取り出しました。


 昭和六十三年。


 片桐行政書士事務所。


 今日も民法は、私に新しい問題を突きつけてきます。


 でも。


 ひとつだけ、確信したことがあります。


 お金を返せなかった人を責めるのは、簡単です。


 けれど。


 返そうとした人を、誰が守るのか。


 その答えまで用意しているからこそ。


 民法は、ただの借金取立ての法律ではないのです。

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