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こはる行政書士見習帖 〜 昭和に転生して許認可に振り回されると試験知識が骨身にしみます 〜  作者: 条文小説
〈民法 配点76点/300点〉 債権

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508/614

[債務引受]法理編 こはるノート

挿絵(By みてみん)

 借金を引き受けることと、借金から解放されることは、同じではありません。


 誰かが、


「あなたの借金を、私が払います」


 と言ったとしても。


 それだけで、最初に借りた人の責任が消えるとは限らないのです。


 むしろ。


 借金を返す人が、一人から二人に増えることもあります。


 そして。


 その違いを知らないと。


 百八十万円もの代金が、誰からも払ってもらえなくなるかもしれない。


 昭和六十三年。


 夕方の片桐行政書士事務所。


 私は机に向かい、ノートを開いていました。


 表紙には、大きく。


 ――こはるノート・民法編。


 今日のテーマは。


 債務引受。


 そして。


 免責的債務引受と、併存的債務引受。


「……先輩」


「何だ」


「債務引受って、名前が似ているのに、結果が全然違うんですよね」


 相馬先輩が新聞から顔を上げました。


「そりゃそうだ」


「免責的と併存的」


「ああ」


「どっちも借金を引き受けるのに、一方は元の債務者が消えて、もう一方は残る」


「そういうことだ」


「ひっかけ問題のために存在しているような制度ですね」


「法律は試験のためにあるんじゃねえ」


「分かってます!」


 私は鉛筆を握りました。


 頭に浮かんだのは、森田印刷の澄江さんでした。


 印刷代金百八十万円。


 大東商事から仕事を受注し、約束どおりに納品したのに、代金が払われなかった。


 大東商事の社長は言いました。


「北村企画に借金を引き継がせた。もううちには責任がない」


 ところが。


 北村企画には、支払うお金がない。


 このままでは、森田印刷が倒産しかねない。


 そんな事件でした。


「でも、結局は大東商事が全額払いましたね」


「ああ」


「決め手は、債務引受の種類を見極めたことでした」


 相馬先輩が頷きました。


「そうだな」


 私はノートの一番上に、大きく書きました。


 ――債務引受とは、元の債務と同じ内容の債務を、第三者が引き受けること。


「先輩!」


「何だ」


「今日は、この二つを完全に区別します!」


「また勉強会か」


「はい!」


「俺の仕事が増えるんだが」


 そこへ、片桐所長が奥から声をかけました。


「相馬」


「はい」


「付き合ってやれ」


「……所長まで」


 よし。


 今日も強制勉強会、開催です。


 まず、私はノートに三つの名前を書きました。


 債権者A。


 債務者B。


 引受人C。


「この三人が基本ですね」


「そうだ」


「Aはお金を請求できる人。Bは払う義務がある人。そしてCが、その債務を引き受ける人です」


 私は、実際の事件に当てはめました。


 A=森田印刷。


 B=大東商事。


 C=北村企画。


 金額は、百八十万円。


「最初は、森田印刷が大東商事に百八十万円を請求できる状態でした」


「うん」


「そこへ、北村企画が登場します」


「そうだな」


「北村企画が、百八十万円の支払義務を引き受ける」


 私は矢印を書きました。


 そして。


「ここから、二つの道に分かれるんですね」


 相馬先輩が頷きました。


「そうだ」


 私はノートを二つに分けました。


 一方に。


 ――併存的債務引受。


 もう一方に。


 ――免責的債務引受。


「先輩、まずは併存的からです!」


「おう」


「どういう意味ですか?」


「元の債務者が残ったまま、引受人も債務を負うことだ」


「つまり……」


 私は鉛筆で書きました。


 大東商事。


 百八十万円の支払義務あり。


 北村企画。


 百八十万円の支払義務あり。


「二社とも、払う責任がある!」


「そうだ」


「これが併存的債務引受ですね」


「ああ」


 併存。


 つまり、一緒に存在する。


 元の債務者は消えません。


 新しい債務者が加わる。


「昔の法律用語では、重畳的債務引受とも言うんですよね」


「そうだ」


「重畳って、難しい漢字です」


「重なってるって意味だろ」


「だったら最初から『重なり債務引受』にしてくださいよ!」


「俺に言うな!」


 私は笑いました。


 でも、この言葉は覚えやすい。


 重畳。


 重なっている。


 二人の責任が重なる。


 ただし、ここで重大な注意点があります。


「先輩!」


「今度は何だ」


「大東商事と北村企画は、それぞれ九十万円ずつ払えばいいんですか?」


「違う」


「ですよね!」


「それぞれが百八十万円の債務について、連帯して責任を負う」


 私は赤鉛筆を取りました。


 ――連帯債務。


 これです。


 併存的債務引受の決定的な効果。


 債権者は、原則として、元の債務者にも引受人にも全額を請求できる。


「じゃあ、森田印刷は大東商事に百八十万円を請求できます」


「そうだ」


「北村企画にも百八十万円を請求できます」


「そうだな」


「でも、両方から百八十万円ずつ受け取って、三百六十万円を手に入れることはできません」


「当たり前だ」


 債務が二倍になるわけではありません。


 百八十万円という同じ債務について、責任を負う人が増えるのです。


 たとえば。


 大東商事が百万円を払った。


 その場合、残りは八十万円。


 森田印刷は、残り八十万円について請求できる。


 そして。


 大東商事が百八十万円を全額払った。


 その場合、森田印刷の債権は弁済によって消滅します。


 北村企画から、もう一度百八十万円を取ることはできません。


「これ、連帯債務の考え方とつながりますね」


「そうだ」


「債務者が増えても、債権者の取り分が増えるわけじゃない」


「そのとおり」


 片桐所長が静かに言いました。


「債権者が回収できる可能性を増やす仕組みだ」


 私は頷きました。


 ああ。


 だから、森田印刷の事件では大事だったんですね。


 北村企画がお金を払えなくても。


 大東商事の責任が残っていれば。


 森田印刷は、そこへ請求できます。


「つまり、併存的債務引受は、債権者にとって請求先が増える制度なんですね」


「そういうことだ」


 私は大きく丸をつけました。


 ――併存的債務引受=元の債務者も残る。引受人も加わる。連帯債務になる。


「でも先輩」


「何だ」


「誰が債務引受を決めるんですか?」


「そこが次の問題だな」


 私はノートをめくりました。


 併存的債務引受の成立方法。


 現代の改正民法では、契約の組合せによって整理されています。


「まず、一つ目!」


 私は書きました。


 ――債権者・債務者・引受人の三者契約。


「森田印刷、大東商事、北村企画の三社が、みんなで契約する形ですね」


「そうだ」


「これは分かりやすいです」


 三社が集まって、


「大東商事は今までどおり払う」


「北村企画も一緒に払う」


「森田印刷もそれでいい」


 と合意する。


 これなら、誰が責任を負うか明確です。


「でも、全員が集まらなければ成立しないんですか?」


「そんなことはねえ」


「ですよね!」


 私は二つ目を書きました。


 ――債権者と引受人の契約。


 森田印刷と北村企画。


 この二社だけで契約する形です。


「現代の民法四百七十条二項ですね」


 私はそう言ってから、慌てて口を押さえました。


 しまった。


 またです。


 昭和六十三年。


 この条文は、まだ存在しません。


 相馬先輩が怪訝な顔をしました。


「四百七十条?」


「あ、いえ!」


「またそれか」


「すみません!」


「今の六法に書いてあることだけ言え」


「はい……」


 私は咳払いしました。


「この時代でも、債権者と引受人の契約による重畳的債務引受は認められていますよね」


「ああ」


「しかも、元の債務者の同意が必ず必要というわけではない」


「そうだ」


 私は判例集を開きました。


 大正十五年三月二十五日。


 大審院判決。


 債務者の意思に反する重畳的債務引受も認められるという考え方です。


「ええっ……」


 私は、改めて驚きました。


「借金をしている人が嫌がっていても、別の人が債権者と契約して、同じ債務を引き受けられるんですか?」


「そういう場合もある」


「不思議ですね!」


 でも、考えてみると理由があります。


 元の債務者の責任は消えない。


 そのうえで、新しい人が支払責任を負う。


 債権者にとっては、請求できる相手が増えることになります。


「借金を勝手に消すわけじゃないからですね」


「そうだ」


「ただし、引き受けた人が本当に自分の債務を負う意思を示しているかは、契約内容を確認しないといけませんね」


「そのとおり」


 私は頷きました。


 単に、


「困ったら助けるよ」


 と励ましただけでは、直ちに債務引受とはいえません。


 法的な支払義務を負う合意なのか。


 それとも、単なる援助の約束なのか。


 ここは慎重に見なければなりません。


「では三つ目!」


 私は書きました。


 ――債務者と引受人の契約。


「大東商事と北村企画が契約する場合ですね」


「そうだ」


「この場合、現代の民法では、債権者が引受人に承諾したときに併存的債務引受の効力が生じます」


 相馬先輩が言いました。


「それは、今の事件でも重要だったな」


「はい!」


 大東商事と北村企画が勝手に、


「北村企画も払う」


 と決めただけでは。


 森田印刷が北村企画に対して直接請求できる権利を取得したか、確認が必要です。


 現代法では、債権者の承諾によって効力が生じると明文化されています。


 昭和の旧法では、第三者のためにする契約という考え方も使いながら整理していました。


「森田印刷の事件では?」


 片桐所長が聞きました。


「はい!」


 私は書類の控えを取り出しました。


 北村企画は、森田印刷に直接、こう書いていました。


 ――大東商事とともに支払責任を負う。


 そして。


 森田印刷も、その内容を受け入れる返書を出していました。


「つまり、債権者と引受人との直接の合意を裏づける書類がありました」


「そうだ」


「だから、北村企画の支払責任を主張する根拠が明確だったんですね」


 片桐所長が頷きました。


「口約束だったら、どうだ」


「何を合意したのか、争いになります」


「そうだ」


「債務を引き受けたのか、単に支払を手伝うつもりだったのか。証拠が必要になります」


 所長が言いました。


「だから書面を残す」


 私は、その言葉に二重線を引きました。


「さて」


 相馬先輩が煙草を灰皿に置きました。


「次は免責的債務引受だ」


「はい!」


 私は新しいページを開きました。


 ――免責的債務引受。


「これは、元の債務者が責任から解放される制度ですね」


「そうだ」


 私は事件に当てはめました。


 森田印刷。


 債権者。


 大東商事。


 元の債務者。


 北村企画。


 引受人。


「免責的債務引受が有効に成立すると、北村企画が百八十万円の債務を負います」


「うん」


「そして大東商事は、森田印刷に対するその債務を免れます」


「そうだ」


 つまり。


 元の債務者が抜ける。


 新しい債務者に責任が移る。


 これが免責的債務引受です。


「でも、先輩」


「何だ」


「もし北村企画にお金がなかったら?」


「森田印刷は困るな」


「ですよね!」


 ここです。


 免責的債務引受が、債権者にとって重大な意味を持つ理由。


 たとえば。


 大東商事には、十分な預金がある。


 北村企画には、ほとんど資産がない。


 そんなとき。


 大東商事が勝手に、


「北村企画へ債務を移した。俺はもう関係ない」


 と言えたら。


 森田印刷は、資力のある債務者を失ってしまうことになります。


「だから、元の債務者を免責するには、債権者の意思が重要なんですね」


「そうだ」


 私は現代の条文を思い出しました。


 民法四百七十二条。


 免責的債務引受の要件と効果を定める規定です。


 その内容を、ノートに書きました。


「まず、債権者・債務者・引受人の三者契約」


「うん」


「三者が合意して、大東商事を免責する形ですね」


「そうだ」


 次に。


 ――債権者と引受人との契約。


「現代の民法四百七十二条二項では、債権者と引受人の契約で免責的債務引受ができます」


「うん」


「ただし、その契約をしたことを債権者が元の債務者に通知したときに、効力が生じます」


 ここが、併存的債務引受とは違うところです。


 併存的債務引受では、元の債務者は残る。


 しかし免責的債務引受では、元の債務者が抜ける。


 そのため、債権者と引受人だけで契約した場合には、元の債務者への通知が効力発生の条件になっています。


「じゃあ三つ目は?」


 相馬先輩が聞きました。


「債務者と引受人の契約です!」


 私は答えました。


「ただし、現代の民法四百七十二条三項では、債権者が引受人に対して承諾する必要があります」


「そうだな」


「つまり、大東商事と北村企画が二社だけで免責を決めても、それだけでは森田印刷に対して効力を生じない!」


「そこだ」


 私は大きく頷きました。


 これが、前回の事件の核心でした。


 大東商事と北村企画は、書類にこう書いていました。


 ――大東商事は一切の責任を負わない。


 でも。


 森田印刷は、その免責に承諾していなかった。


 むしろ。


 北村企画から受け入れたのは、


 ――大東商事とともに支払責任を負う。


 という約束でした。


「だから、二社の勝手な取り決めだけで、大東商事の支払義務を消すことはできなかったんですね」


「そうだ」


 私は思わず笑いました。


「社長、自分で責任がないって書けば、本当に消えると思ってたんでしょうか」


「そう思わせれば、森田さんが諦めると踏んだんだろ」


「ひどい話ですね」


 相馬先輩が肩をすくめました。


「だから、書面を読まなきゃならねえんだ」


 私は頷きました。


 同じ「債務引受」という言葉でも。


 誰が契約したのか。


 誰が承諾したのか。


 誰に通知したのか。


 何を引き受けたのか。


 そして、元の債務者を免責する合意が有効に成立しているのか。


 それによって、結果が変わるのです。


「ところで、先輩」


「何だ」


「どうして昭和六十三年には、債務引受の条文がないんでしょう?」


「何だ、急に」


「だって、こんなに重要な制度なのに!」


 私は六法をめくりました。


 現代の民法には、四百七十条以下に債務引受の規定があります。


 しかし。


 昭和六十三年の民法には、債務引受についての独立した明文規定がありません。


「昔は、契約と判例によって制度が発展してきたんですよね」


「そうだ」


「じゃあ、試験勉強では、判例を知らないと困りますね」


「当然だ」


 そこで私は、前回の事件で使った判例集を開きました。


 昭和四十一年十二月二十日。


 最高裁判所判決。


 重畳的債務引受について、特段の事情がない限り、元の債務者と引受人の間に連帯債務関係が生じるという判断です。


「これ、前回の内容証明でも使いました!」


「そうだな」


「つまり、併存的債務引受をした場合、原則として連帯債務になるという考え方は、昭和の時代からあるんですね」


「そうだ」


「それが現代では、民法四百七十条一項に明文化された」


 私は赤鉛筆で囲みました。


 昭和六十三年。


 契約と判例を中心に債務引受を判断。


 令和。


 民法四百七十条以下に要件と効果を明文化。


「法律って、改正されるたびに、全部新しい制度を作っているわけじゃないんですね」


 私が言うと、所長が頷きました。


「それまでの実務を条文に整理する改正もある」


「はい」


 債務引受も、その一つです。


 昔から商取引で使われていた。


 判例も積み重ねられていた。


 でも、明文の規定がないため、制度の全体像をつかみにくかった。


 そこで、二〇一七年成立、二〇二〇年施行の債権法改正によって、要件や効果が整理されました。


「つまり、現代では制度の仕組みが、条文から分かりやすくなったんですね」


「そういうことだ」


 私はノートに書きました。


 ――昔の判例法理が、現代の条文へ。


 なるほど。


 民法改正というのは。


 法律の考え方を変えるだけでなく。


 これまで認められてきた考え方を、誰にも分かる形にする役割もあるのです。


「でも先輩」


「まだあるのか」


「大事な疑問があります!」


「何だ」


「債務を引き受けた人って、元の債務者が主張できたことも引き継げるんですか?」


 相馬先輩が、少しだけ目を細めました。


「ほう」


「例えば、森田印刷の印刷物に重大な問題があって、大東商事が支払を拒める事情があった場合です」


「続けろ」


「北村企画は、債務を引き受けたからという理由だけで、無条件に百八十万円を払わなければならないんでしょうか?」


 所長が言いました。


「元の債務と同じ内容の債務を引き受けた、という点を思い出せ」


「……あ!」


 私は気づきました。


 債務引受は、全く別の新しい債務を作る話ではありません。


 元の債務の同一性を維持しながら、債務を引き受ける。


 だから。


 元の債務について主張できた抗弁が、引受人にも認められる場合があります。


「現代の民法四百七十一条ですね!」


 私はノートに書きました。


 ――併存的債務引受における引受人の抗弁。


 引受人は、債務引受の効力が生じた時点で元の債務者が主張できた抗弁を、債権者に対抗できる。


「たとえば?」


 相馬先輩が聞きました。


「大東商事が既に百万円払っていたのに、森田印刷が百八十万円全額を請求してきた場合です」


「うん」


「北村企画は、既に百万円が支払われていることを主張できます」


「そうだ」


「元の債務が八十万円しか残っていないなら、引き受ける債務も原則としてその範囲になります」


 私は頷きました。


 それから。


 元の債務者に、債務の履行を拒める抗弁があった場合も問題になります。


 さらに、取消権や解除権がある場合には、現代法上、引受人が一定の範囲で履行を拒める規定もあります。


「ただし、北村企画が当然に大東商事の契約解除権そのものを自由に行使できる、という意味ではないんですよね」


「そうだ」


「そこも区別が必要です」


 私は書き足しました。


 ――抗弁を主張することと、元の債務者の取消権・解除権を自分で行使することは別。


 そして、免責的債務引受についても。


 現代の民法四百七十二条の二に、引受人の抗弁などに関する規定があります。


「なるほど……」


 私は鉛筆を止めました。


「債務引受って、引き受けたら何でも無条件に払う制度ではないんですね」


「そうだ」


 相馬先輩が言いました。


「もともと支払わなくていい理由がある債務まで、勝手に有効な請求に変えられたら困るだろ」


「確かに!」


 私は笑いました。


 でも、これも大事な考え方です。


 債務を引き受けたからといって。


 元の債務の内容を無視していいわけではない。


 債務の存在。


 金額。


 弁済の有無。


 支払を拒める理由。


 そこまで確かめる必要があるのです。


「さて」


 相馬先輩が言いました。


「もう一つ、ややこしい話があるぞ」


「何ですか?」


「求償だ」


「……きゅうしょう?」


 私は首をかしげました。


 求償権。


 他人のために支払った人が、一定の場合に、その負担を他人へ請求する権利。


 保証債務や連帯債務でも登場した言葉です。


「例えば、北村企画が大東商事の借金を全額払ったとします」


「うん」


「そのあと北村企画は、大東商事に百八十万円を返せと言えるんでしょうか?」


 相馬先輩は言いました。


「引受けの種類と、当事者間の約束による」


「ですよね」


 私は現代の民法を思い出しました。


 免責的債務引受。


 民法四百七十二条の三。


 そこには、重要な規定があります。


 ――免責的債務引受の引受人は、債務者に対して求償権を取得しない。


「これ、最初に見たとき驚きました!」


「何がだ」


「だって、誰かの借金を代わりに払ったんですよ!」


「そうだな」


「だったら、元の債務者に返してもらえそうじゃないですか!」


 でも。


 免責的債務引受は、引受人が自分自身の債務として引き受ける仕組みです。


 元の債務者は、その債務から解放されます。


 だから、免責的債務引受をしたという事実だけで、引受人に求償権が生じるわけではありません。


「ただし、別途、元の債務者と引受人の間で負担について約束している場合は、その契約に基づく請求が問題になります」


「そうだ」


「民法四百七十二条の三は、あらゆる場合にお金を返してもらえない、という意味ではないんですね」


「そこを間違えるな」


 私は大きく頷きました。


 なるほど。


 これも行政書士試験で引っかかりそうです。


 免責的債務引受をした。


 だから当然に求償権がある。


 これは間違い。


 一方で。


 引受人と元の債務者との間に、別の契約上の約束がある場合まで、一切の請求が排除されるわけではない。


「うう……」


 私は頭を抱えました。


「どうした」


「民法って、似ている制度が多すぎません?」


「今さらだな」


「保証、連帯保証、連帯債務、債務引受……」


「うん」


「全部、お金を払う人が増えたり変わったりする話じゃないですか!」


「だから、どういう立場で責任を負ってるのかが大事なんだろ」


 私は、はっとしました。


 そうです。


 保証人なら、他人の債務を担保する立場。


 連帯債務者なら、それぞれが債務全体について責任を負う。


 併存的債務引受なら、元の債務者が残り、引受人も同一内容の債務を負う。


 免責的債務引受なら、元の債務者が抜け、引受人がその債務を負う。


「先輩!」


「何だ」


「この四つ、まとめて考えると覚えやすいですね!」


「ようやく整理できたか」


「はい!」


 私はノートに書きました。


 ――誰の債務か。誰が残るか。誰が抜けるか。誰に請求できるか。


 この四つを確認する。


 それだけで、かなり見通しがよくなります。


 窓の外は、もう薄暗くなっていました。


 私は今日のノートを読み返しました。


 併存的債務引受。


 免責的債務引受。


 契約の組合せ。


 承諾。


 通知。


 連帯債務。


 抗弁。


 求償権。


 ……多い。


 多すぎます。


「先輩」


「何だ」


「確認問題を出してください」


「またか」


「はい!」


 相馬先輩が笑いました。


「じゃあ、一問目」


「はい!」


「AがBに百万円を貸した。Cが併存的債務引受をした。Bの債務はどうなる?」


「残ります!」


「Cは?」


「Bと連帯して、同一内容の債務を負います!」


「よし」


 先輩が続けます。


「AはBに百万円を請求できるか」


「できます!」


「Cには?」


「百万円を請求できます!」


「じゃあ、二人から百万円ずつ取れるか?」


「取れません!」


「なぜだ?」


「同じ百万円の債務だからです。二重取りはできません!」


「正解」


 私は拳を握りました。


 よし。


 まずは完璧。


「二問目」


「はい!」


「AがBに百万円を貸した。Cが免責的債務引受をした。Bはどうなる?」


「有効に成立していれば、債務を免れます!」


「Aは誰に請求する?」


「Cです!」


「よし」


 先輩が続けました。


「三問目」


「はい!」


「BとCが勝手に、Bの借金を全部Cへ移すと決めた。Aは承諾していない。Bは当然に免責されるか?」


「されません!」


「正解」


 私は勢いよく答えました。


「四問目!」


 相馬先輩が言いました。


「はい!」


「昭和六十三年の民法四百七十条には、併存的債務引受の規定があるか?」


「ありません!」


「よし!」


「債務引受の明文規定が整備されるのは、二〇二〇年施行の改正民法からです!」


「……お前、また未来の話をしてるな」


「勉強です!」


「便利な言い訳だな」


 私は笑いました。


 でも。


 この違いは大切です。


 昭和六十三年の民法では、債務引受は判例や契約解釈によって認められていました。


 それが現代では、条文として整理されています。


 だからこそ。


 昔の判例を知ることで、現在の民法の条文が何を守ろうとしているのか、理解できるのです。


「じゃあ、最後の問題だ」


 片桐所長が言いました。


「はい!」


「森田印刷の事件で、一番重要だった事実は何だ」


 私は少し考えました。


 北村企画がお金を払えなかったこと。


 大東商事が責任を否定したこと。


 百八十万円が未払いだったこと。


 どれも重要です。


 でも。


 決定的だったのは。


「……森田印刷が、大東商事を免責していなかったことです」


 所長が頷きました。


「それから?」


「北村企画は、大東商事とともに支払責任を負うと約束していました」


「そうだ」


「つまり、二社とも支払責任を負うという合意があったんです」


「うん」


「だから、大東商事が一方的に『責任はない』と言っても、その主張は通らなかった」


 所長が頷きました。


「よし」


 私は、ようやく理解しました。


 債務引受の事件では。


 誰かが、


「引き受けました」


 と言った事実だけを見るのでは足りません。


 その言葉が。


 元の債務者を残す約束なのか。


 元の債務者を免責する約束なのか。


 そして、それが誰との間で有効に成立したのか。


 そこを見なければならない。


「所長」


「何だ」


「前回の事件、最初はただの踏み倒しだと思ってました」


「うん」


「でも、本当の争点は債務引受の法的な効果だったんですね」


「そうだ」


「誰が払う責任を負うのか。それを、書類と法律で確かめた」


 所長は静かに言いました。


「法律問題は、相手の言い分だけで決めるな」


「はい」


「書類に何と書いてあるか。そして、その書類に法律上どんな効力があるか。両方見ろ」


 私は頷きました。


 大東社長は、


「免責されると書いてある」


 と言いました。


 でも。


 書いてあることと、法的に有効であることは違う。


 だからこそ。


 内容証明で、事実と法律を一つずつ示したのです。


 私は、ノートの最後のページを開きました。


 ここに。


 今日の一行を書きます。


 鉛筆の先を整えて。


 ゆっくり。


 ――併存は「元の債務者も残る」、免責は「元の債務者が抜ける」。債権者の権利を勝手に減らすな。


「……できました!」


 私はノートを掲げました。


「どうですか!」


 相馬先輩が覗き込みました。


「まあ、覚えやすいんじゃねえか」


「褒めましたね!」


「気のせいだ」


「またそれですか!」


 私は笑いました。


 でも。


 この一行は、たぶん忘れません。


 森田印刷。


 百八十万円。


 大東商事。


 北村企画。


 二社が勝手に話を決め、元の債務者が責任を逃れようとした。


 けれど。


 民法は、そんな一方的な責任逃れを当然には認めません。


 なぜなら。


 債務というものは、債務者だけの問題ではないからです。


 その向こうには。


 代金を受け取る権利を持つ人がいる。


 生活を支えるお金を待つ人がいる。


 そして。


 その人の権利も、法律は守らなければならないのです。


「ところで、こはる」


 相馬先輩が言いました。


「はい?」


「さっきの求償権の話、覚えてるか?」


「もちろんです!」


「じゃあ、質問だ」


「はい!」


「お前が俺の借金を免責的に引き受けたとする」


「はい」


「その場合、お前は当然に俺へ求償できるか?」


「できません!」


「おお」


「現代の民法四百七十二条の三です!」


「……また未来か」


「ただし、別の契約があれば、それに基づく請求は問題になります!」


「よし」


 私は得意になりました。


「先輩!」


「何だ」


「じゃあ、試しに先輩の借金を引き受けてみましょうか!」


「は?」


「実践です!」


「何を実践するんだよ」


「債務引受です!」


 相馬先輩は眉をひそめました。


「お前、俺に借金があると思ってんのか?」


「え?」


「誰にいくら借りてるってんだ」


「……」


 私は黙りました。


 そうでした。


 引き受ける債務が存在しなければ、話になりません。


「こはる」


 片桐所長が静かに言いました。


「まず、債務の存在を確認しろ」


「……はい」


 相馬先輩が大笑いしました。


「お前、また基本から間違えてんじゃねえか!」


「うう……!」


「債務引受の前に、債務があるかどうかだろ!」


「分かってます!」


 私は頬を膨らませました。


 でも。


 そのとき、ふと思いつきました。


「先輩」


「今度は何だ」


「そういえば、昨日のお昼代……」


「お前、また借金したのか?」


「違います!」


「じゃあ何だ」


「昨日、六百円を返しましたよね」


「ああ」


「つまり、私の債務は弁済によって消滅しました!」


「そうだな」


「なら、もう先輩は請求できません!」


「当たり前だろ!」


 私は満足して頷きました。


「ということは……」


「何だ」


「今日のお昼代も、先輩が貸してくれれば、新しい債務が発生しますね!」


「発生させるな!」


「でも先輩!」


「何だ!」


「新しい債務があれば、また債務引受の勉強ができます!」


「俺の財布を教材にするな!」


 私は笑いながら、六法を閉じました。


 そのとき。


 片桐所長が、机の上に一枚の相談票を置きました。


「こはる」


「はい?」


「次の相談だ」


「何でしょう!」


「父親の借金を、息子が肩代わりしたいそうだ」


「おお!」


「ただし、銀行は父親の免責を認めるかどうか、まだ決めていない」


 私は、すぐにノートを開きました。


「つまり!」


「何だ」


「息子さんが支払責任を負うことと、お父さんが借金から解放されることは、別問題ですね!」


「そうだ」


「銀行が元の債務者を免責する意思を示しているか、確認する必要があります!」


「よし」


 相馬先輩が頷きました。


「ようやく、分かってきたな」


「はい!」


 私は大きく息を吸いました。


 昭和六十三年。


 民法には、まだ債務引受の独立した明文規定がありません。


 それでも。


 契約と判例を積み重ねて。


 人々は、誰が責任を負うべきかを考えてきました。


 そして現代。


 その仕組みは、民法四百七十条以下に整理されています。


 制度は変わっても。


 守ろうとしているものは、同じです。


 債務者の自由。


 引受人の意思。


 そして。


 債権者の権利。


 そのすべてを、きちんと考えること。


 私はノートの最後の一行を、もう一度読みました。


 ――併存は「元の債務者も残る」、免責は「元の債務者が抜ける」。債権者の権利を勝手に減らすな。


 よし。


 完璧です。


「こはる!」


 相馬先輩が呼びました。


「はい!」


「ノートを閉じろ!」


「え?」


「次の相談者が来るぞ!」


「はい!」


 私は立ち上がりました。


 債務引受。


 難しい言葉です。


 免責的。


 併存的。


 重畳的。


 覚えることも多い。


 でも。


 あの森田印刷の印刷機が、今日も動いていることを思えば。


 この制度の意味を、忘れることはないでしょう。


 誰かが借金を引き受けたからといって。


 元の責任が、必ず消えるわけではない。


 そして。


 誰かの生活を支えるはずのお金を。


 当事者の一方的な言葉だけで、消してよいわけでもない。


 それが、今日学んだ民法の大切な考え方でした。


「相馬先輩!」


「何だ!」


「私、債務引受が好きになりました!」


「変な趣味だな!」


「だって、責任を逃げようとする人を、法律で止められるんですよ!」


「そういうときもあるな」


「民法って、やっぱり面白いですね!」


 相馬先輩は、少しだけ笑いました。


「面白がってる暇があったら、相談票を取れ!」


「はいっ!」


 私は鉛筆を握り直しました。


 次の相談者は、父親の借金を肩代わりしたいという息子さん。


 今度は、誰かが借金から逃げようとしているのではありません。


 誰かが、家族を助けようとしている。


 同じ債務引受でも。


 そこに込められた気持ちは、まるで違います。


 だからこそ。


 まず確かめなければなりません。


 誰が残るのか。


 誰が加わるのか。


 誰が抜けるのか。


 そして。


 誰の同意が必要なのか。


 それが分かれば。


 家族を助けたいという善意を、思わぬ借金の罠に変えずに済むかもしれません。


 私は、事務所の扉へ向かいました。


 今日もまた。


 民法が、誰かの暮らしを守るために動き始めます。

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