[債務引受]現場編 「借金は全部、あいつに引き継がせた」の嘘。債務者を消したつもりの悪徳経営者と、二人の財布を逃がさない内容証明
借金は、人に押しつければ消えるものではありません。
百万円を借りた人がいます。
その人が、別の誰かに言いました。
「俺の借金を引き受けてくれ」
相手は答えました。
「分かった」
さて。
最初に借りた人は、もう返さなくていいのでしょうか。
それとも。
二人とも、返さなければならないのでしょうか。
この違い。
たった一文字の違いで、決まることがあります。
免責的債務引受。
併存的債務引受。
昭和六十三年。
片桐行政書士事務所。
その日、私は知ることになります。
借金の「引き受けます」という言葉ほど。
信用してはいけないものはない、と。
「うちの店を潰す気なんでしょうか……」
朝一番。
事務所を訪れた女性は、そう言って一枚の請求書を握りしめました。
名前は、森田澄江さん。
五十二歳。
駅前で小さな印刷店を営んでいます。
店の名前は、森田印刷。
夫と二人で始めた店でしたが、三年前に夫が亡くなり、今は息子と二人で切り盛りしているそうです。
「どうされました?」
私が尋ねると、澄江さんは請求書を差し出しました。
「印刷代を、払ってもらえないんです」
「いくらですか?」
「百八十万円です」
「……百八十万円!?」
思わず声が大きくなりました。
小さな印刷店にとっては、相当な金額です。
「何を印刷されたんですか?」
「駅前の大東商事という会社から頼まれた、観光案内のパンフレットと商店街の宣伝チラシです」
大東商事。
名前を聞いたことがあります。
最近、駅前の再開発に絡んで、派手に商売を広げている会社です。
社長は、大東剛。
四十代半ば。
金回りがよく、町では少しばかり有名な男でした。
「全部納品されたんですか?」
「はい。先月末までに」
「請求書も?」
「出しました」
「支払期限は?」
「もう二週間も過ぎています」
「それは困りますね……」
ところが。
澄江さんの話には、さらに厄介な続きがありました。
「大東社長に電話したんです。そしたら……」
澄江さんは唇を噛みました。
「もう、うちの会社には借金がないって言うんです」
「……え?」
「別の会社に引き継がせたから、そっちへ請求しろって」
私は首をかしげました。
「別の会社?」
「はい。北村企画という会社です」
「北村企画……」
「大東社長が、広告事業をそこへ譲ったそうなんです」
なるほど。
事業の譲渡。
それに伴う債務の引受け。
私は、頭の中で民法の知識を整理しました。
これは。
行政書士試験でも、なかなかややこしい論点です。
「澄江さん、その会社には請求されたんですか?」
「しました」
「どうでした?」
「払えないと言われました」
「……はい?」
「会社にお金がないそうです」
私は固まりました。
つまり。
大東商事は、
「もう俺の借金じゃない」
と言う。
北村企画は、
「お金がないから払えない」
と言う。
そして。
実際に印刷をした森田印刷だけが、百八十万円を受け取れない。
「そんなの、おかしいです!」
私は思わず立ち上がりました。
「二つの会社が勝手に話を決めて、澄江さんだけが損をするなんて!」
澄江さんが小さく頷きました。
「息子が言うんです」
「何と?」
「もう店を畳んだ方がいいんじゃないかって」
私は言葉を失いました。
澄江さんは、膝の上で手を握りしめました。
「でも……」
「はい」
「主人が残してくれた店なんです」
その声が震えます。
「印刷機だって、まだ使えるんです。息子も頑張ってくれているんです」
「……はい」
「ただ、仕事をした分のお金を払ってほしいだけなのに」
私は請求書を見つめました。
百八十万円。
その数字の向こうに。
インクの匂いが染みついた、小さな印刷工場が見えた気がしました。
「大丈夫です!」
私は六法を取り出しました。
「債務引受ですね!」
澄江さんが顔を上げました。
「さいむ……?」
「債務引受です。借金や代金支払義務などの債務を、別の人が引き受けることです」
私は説明しました。
「債務引受には、大きく二種類あります」
ひとつ。
免責的債務引受。
元の債務者が抜けて、新しい債務者だけが責任を負う。
もうひとつ。
併存的債務引受。
元の債務者と新しい債務者が、同じ債務を負う。
「今回、大東商事が責任を免れたかどうかは、そこが重要なんです!」
「本当ですか?」
「はい! 民法四百七十条と四百七十二条を確認すれば――」
「こはる」
背後から声がしました。
相馬先輩です。
「はい?」
「今、何条って言った?」
「四百七十条と四百七十二条です」
「……何の条文だ?」
「併存的債務引受と免責的債務引受です!」
先輩は黙りました。
そして。
私の六法を取り上げました。
「お前、また妙なことを言ってるな」
「え?」
「四百七十条を開いてみろ」
「はい!」
私は昭和六十三年の六法を開きました。
四百七十条。
そこに書かれていたのは。
債務引受ではありませんでした。
「……あれ?」
「何だ」
「違う……」
「当たり前だ」
私は青ざめました。
しまった。
またです。
現代の民法!
令和の改正民法では、債務引受について四百七十条以下に明文の規定があります。
でも。
昭和六十三年には。
債務引受について、現在のように整理された条文が存在しないのです。
「せ、先輩……」
「何だ」
「債務引受って、この時代にはないんですか?」
「あるに決まってんだろ」
「ですよね!」
「ただし、今のお前が言ったような条文はねえ」
相馬先輩は古い判例集を机に置きました。
「昔から契約と判例で認められてきた仕組みだ」
「判例……」
「そうだ」
私は額を押さえました。
現代なら、条文を開けば基本的な要件と効果が整理されています。
でも昭和六十三年。
条文だけでは答えが出ない。
契約の文言。
当事者の意思。
判例。
それらを組み合わせなければならない。
「……民法って、改正前の方が難しくありません?」
「今頃気づいたのか」
「先輩!」
「何だ」
「私、令和の民法が恋しいです!」
「知らねえよ」
相馬先輩は澄江さんに向き直りました。
「森田さん」
「はい」
「大東商事から、何か書類は届いていますか?」
「あります」
澄江さんは鞄から封筒を出しました。
「これです」
相馬先輩が中身を取り出しました。
そして。
口元を歪めました。
「……なるほどな」
私は覗き込みました。
そこには、大きな文字で。
――債務引受に関する通知書。
と書かれていました。
通知書には、次のような内容がありました。
――大東商事株式会社は、広告事業を北村企画株式会社に譲渡した。
――これに伴い、森田印刷に対する印刷代金債務百八十万円は、北村企画株式会社が引き受けるものとする。
――今後、当該債務については北村企画株式会社に請求されたい。
そして最後に。
――大東商事株式会社は、当該債務について一切の責任を負わない。
「……すごいですね」
私は呟きました。
「何がだ?」
相馬先輩が聞きました。
「最後の一行です」
「だろうな」
「自分で『責任を負わない』って書いたら、責任が消えるんですか?」
「消えると思ってるんだろうよ」
私は首を振りました。
「そんな魔法みたいな……」
片桐所長が、奥から静かに言いました。
「こはる」
「はい」
「誰が、その債務引受に同意した」
私は通知書を見ました。
署名。
大東商事株式会社。
北村企画株式会社。
二つの会社の代表者印。
でも。
「……森田印刷の名前がありません」
「そうだ」
「澄江さん、これに承諾しましたか?」
「いいえ」
「大東商事の支払義務をなくしていい、と伝えましたか?」
「そんなこと、言うはずがありません!」
当然です。
代金を受け取っていないのに、支払う責任のある会社を勝手に一社減らされる。
そんな不利益を、誰が喜んで受け入れるでしょうか。
「所長」
「何だ」
「これは、免責的債務引受として問題があります」
「なぜだ」
「元の債務者を免責させるには、債権者である森田印刷の意思が重要だからです」
「そうだ」
所長が頷きました。
「債務者同士が勝手に『免責』と書いても、それだけで債権者に不利益を押しつけることはできん」
私は大きく頷きました。
よし。
未来の条文番号は使えなくても。
民法の考え方は使えます。
ただし。
相馬先輩は、そこで別の紙を取り出しました。
「だが、面白いのはこっちだ」
「何ですか?」
「森田さん。これも届いていたんですよね」
「はい。先に北村企画から」
それは、一か月前の日付が入った書面でした。
――印刷代金債務引受確認書。
差出人。
北村企画株式会社。
宛先。
森田印刷。
内容は、こうでした。
――当社は、大東商事株式会社が貴店に負担する印刷代金債務百八十万円につき、同社とともに支払の責任を負うことを承諾いたします。
――本書面により、当社も貴店に対して直接支払義務を負うものといたします。
北村企画の代表者印。
その下には。
澄江さんが書いた受領確認の署名。
さらに、澄江さんから北村企画へ送った手紙の控えもありました。
――貴社が大東商事とともに支払責任を負うことを確認しました。期日までのお支払いをお願いいたします。
「……あれ?」
私は首をかしげました。
「さっきの通知書と、内容が違います」
「そうだな」
「さっきは『大東商事は責任を負わない』」
「うん」
「こっちは『大東商事とともに責任を負う』」
「そうだ」
私は二枚の紙を並べました。
大東商事と北村企画の間では、
――大東商事は免責。
ところが。
北村企画と森田印刷の間では、
――大東商事とともに責任を負う。
「……先輩」
「何だ」
「これ、完全に話が違いますよね」
「ああ」
「じゃあ、森田印刷から見たら……」
私は顔を上げました。
「二社とも債務者になる可能性がある!」
相馬先輩が笑いました。
「ようやく気づいたか」
片桐所長が静かに言いました。
「併存的債務引受だ」
その言葉を聞いて。
私は、事件の形が一気に変わるのを感じました。
午後。
私たちは大東商事から届いた書類を整理しました。
澄江さんから事情を確認し、事実関係を一枚ずつ記録していきます。
元の契約書。
印刷物の発注書。
納品書。
請求書。
支払期限。
北村企画の債務引受確認書。
澄江さんの返書。
そして。
大東商事と北村企画の通知書。
「証拠は、かなり揃っていますね」
私が言うと、相馬先輩が頷きました。
「だからこそ、向こうも妙な書面を出してきたんだろうな」
「妙な書面?」
「『責任を負わない』ってやつだ」
相馬先輩は通知書を指で叩きました。
「こいつは、森田さんが法律を知らねえと思ってる」
「はい」
「北村企画へ全部押しつければ、請求を諦めると踏んだんだろう」
「ひどいですね……」
「もっとひどいこともあるぞ」
「え?」
「北村企画の資金繰りが悪いと知ってて、そっちへ債務を移したのかもしれねえ」
私は黙りました。
ただし。
それはまだ推測です。
証拠もなく断定してはいけません。
でも、ひとつ確かなことがあります。
大東商事は、百八十万円の仕事を発注した。
森田印刷は、それを完成させて納品した。
大東商事は、まだ払っていない。
そして北村企画は、自分も一緒に払うと森田印刷に約束している。
「先輩」
「何だ」
「北村企画が債務を引き受けたら、元の債務は消えるんですか?」
「いや」
「ですよね」
「債務引受ってのは、元の債務の内容を引き継ぐ話だ」
所長が口を開きました。
「こはる。免責的と併存的の違いを言ってみろ」
「はい!」
私は机の上に三人の名前を書きました。
債権者。
森田印刷。
元の債務者。
大東商事。
引受人。
北村企画。
「免責的債務引受なら、大東商事が抜けて、北村企画が債務を負います」
「うん」
「併存的債務引受なら、大東商事は残ったまま、北村企画も同じ債務を負います」
「そうだ」
「だから、債権者は二社に対して請求できることになるんですね」
相馬先輩が頷きました。
「原則として連帯債務の関係になる」
「連帯債務……!」
私は思わず手を叩きました。
「つまり、二社がそれぞれ半分ずつ払えばいい、という話ではないんですね!」
「そうだ」
「大東商事にも百八十万円を請求できるし、北村企画にも百八十万円を請求できる」
「ただし、二重取りはできねえぞ」
「もちろんです!」
一方から全額払われれば、その範囲で同じ債務は消える。
でも。
どちらも払わないうちは。
どちらも責任を負う。
「なるほど……」
私は思わず笑いました。
「『借金を引き受けた』だけじゃ、元の人が抜けるとは限らないんですね」
「そういうことだ」
所長が頷きました。
「誰が債務を負うか。それと、誰が債務を免れるか。別々に確認するんだ」
私は、そこに二重線を引きました。
これです。
今日の急所。
債務を引き受けること。
元の債務者が免責されること。
この二つは、同じではないのです。
「そんなもの、契約書に書いてあるだろ!」
その翌日。
澄江さんから、新しい電話が入りました。
大東商事の大東社長が、印刷店に直接やってきたそうです。
どうやら、北村企画への請求がうまく進まないことを知ったらしい。
大東社長は、店先で大声を上げたといいます。
「俺の会社には、もう借金はねえんだよ!」
澄江さんは、震える声で状況を説明してくれました。
「書類に書いてあるだろって……」
「はい」
「北村企画が引き受けたんだから、そっちから取れって……」
「はい」
「それでも払ってもらえなければ、諦めろと言われました」
私は思わず拳を握りました。
諦めろ?
印刷代百八十万円を?
仕事を完成させた側が?
冗談ではありません。
「森田さん」
片桐所長が受話器を受け取りました。
「はい」
「今後、相手方とのやり取りは、日時と発言内容を記録してください」
『分かりました』
「こちらでは、ご本人の意思を確認したうえで、通知書の作成を進めます」
『お願いします……』
電話が切れました。
私は所長を見ました。
「所長!」
「何だ」
「もう、内容証明ですよね!」
「そうだ」
「大東社長、完全に開き直っています!」
「うん」
「こっちも直接行って、法律を説明して――」
「こはる」
相馬先輩が遮りました。
「はい」
「俺たちは、何屋だ?」
「行政書士です」
「弁護士か?」
「違います」
「なら、依頼人の代理人として支払交渉するわけにはいかねえ」
「……はい」
私は口を閉じました。
「法律の話が分かってるからって、相手のところへ押しかけて示談交渉していいわけじゃねえ」
「分かりました」
「本人が請求するための書類を、正確に作るんだ」
片桐所長も頷きました。
「相手が争うなら、弁護士に引き継ぐ。その準備もしておけ」
「はい!」
そうです。
私たちの武器は、口喧嘩ではない。
そして。
相手を怖がらせるための脅し文句でもない。
事実。
契約。
法律。
判例。
それらを、矛盾なく並べた書面です。
「こはる」
所長が言いました。
「原案を書け」
「はい!」
「ただし、昭和六十三年の民法でな」
「……はい!」
先に釘を刺されました。
悔しい。
でも、当然です。
未来の条文番号を書いた内容証明なんて。
送った瞬間に、こちらが恥をかくところでした。
その日の午後。
机の上には、判例集が積み上がっていました。
相馬先輩が開いたのは、昭和四十年代の最高裁判例です。
「こはる。ここを読め」
「はい」
私は指で文章を追いました。
重畳的債務引受。
反対に解すべき特段の事情がない限り。
原債務者と引受人との間には。
連帯債務関係が生ずる。
「……あ!」
私は声を上げました。
「これ!」
「何だ」
「併存的債務引受の判例ですね!」
「そうだ」
昭和四十一年十二月二十日。
最高裁判所の判決。
重畳的債務引受をした場合の、原債務者と引受人の関係について判断したものです。
「これなら、この時代でも使えます!」
「当たり前だ。もう出てる判決だからな」
「ですよね!」
「お前は何を基準に法律を勉強してるんだ」
未来です。
もちろん言えません。
私は判例集を読み直しました。
重畳的債務引受。
現在なら、併存的債務引受という言葉でも説明される制度です。
この事件で重要なのは。
北村企画が、新たに支払義務を負うこと。
そして。
大東商事が、その義務から抜けたとはいえないこと。
「先輩、でも……」
「何だ」
「北村企画と森田印刷との契約が有効でも、大東商事が『免責だ』と主張してきたら?」
「もうしてるだろ」
「あ、そうでした」
「だから、その主張の根拠を潰すんだ」
相馬先輩は書類を二枚並べました。
一枚目。
北村企画が森田印刷に約束した書面。
――大東商事とともに支払責任を負う。
二枚目。
大東商事と北村企画が作成した通知書。
――大東商事は一切の責任を負わない。
「こはる」
「はい」
「どっちの書面にも、森田さんが関わってるか?」
「いいえ。後から来た免責の通知書には、森田さんの承諾がありません」
「そうだ」
「しかも、森田さんが受け入れたのは、二社がともに支払うという内容です」
「そうだな」
私は鉛筆を握りました。
「つまり、森田印刷の権利を減らすような免責は、認められない!」
「そこだ」
片桐所長が、静かに頷きました。
「債権者にとって、誰が払ってくれるかは重要だ」
「はい」
「資力のある債務者が、資力の乏しい第三者に債務を押しつければ、それだけで債権者が不利益を受ける」
「だから、勝手に免責できないんですね」
「そうだ」
私は、ようやく理解しました。
債務引受の制度は。
債務者が借金から逃げるためだけの制度ではありません。
事業を引き継ぐ。
親族が借金を肩代わりする。
第三者が支払責任を負う。
そんな場面を、法律的に整理する仕組みです。
そのとき。
債権者の利益を、無視してはいけない。
「所長」
「何だ」
「これなら、書けます」
「書いてみろ」
私は原稿用紙を引き寄せました。
そして。
森田澄江さん名義の内容証明郵便の原案を書き始めました。
完成したのは、夕方でした。
宛先。
大東商事株式会社。
代表取締役 大東剛。
差出人。
森田印刷 森田澄江。
表題。
――印刷代金支払請求及び債務引受に関する通知書。
私は深呼吸しました。
「読みます!」
「読め」
相馬先輩が腕を組みました。
「第一。通知人は、貴社の発注に基づき、観光案内パンフレット及び商店街宣伝用印刷物を製作し、約定の期日までに納品した」
「うん」
「第二。右印刷代金百八十万円は、支払期限を経過した現在も未払いである」
「うん」
「第三。北村企画株式会社は、通知人に対し、右債務について貴社とともに支払責任を負う旨を書面により約し、通知人もこれを受け入れている」
相馬先輩が頷きました。
「続けろ」
「第四。右合意は、既存債務を維持したまま、北村企画株式会社を新たな債務者として加える重畳的債務引受に当たる」
「うん」
「第五。重畳的債務引受においては、特段の事情のない限り、原債務者と引受人との間に連帯債務関係が生ずると解される」
「判例は?」
「昭和四十一年十二月二十日、最高裁判所判決です」
「よし」
私は続きを読みました。
「第六。貴社と北村企画株式会社との間で免責的債務引受の合意がなされたとしても、通知人は貴社を免責することについて何ら承諾していない」
「うん」
「第七。したがって、貴社間の合意のみをもって、通知人に対する貴社の既存債務が消滅したとすることはできない」
私は一度、息を吸いました。
「第八。よって通知人は、貴社に対し、未払印刷代金百八十万円の支払を請求する」
そして。
最後の一文。
「本通知到達後十四日以内に支払がなされない場合には、弁護士への相談のうえ、訴訟その他適切な法的措置を検討する」
読み終わりました。
事務所が静かになりました。
「……どうでしょう」
私は、おそるおそる所長を見ました。
片桐所長は書面を受け取りました。
ゆっくり読んでいます。
そして。
「一か所、直せ」
「はい!」
「第六項だ」
「え?」
「免責を承諾していないことはいい。だが、北村企画と大東商事の間で、どのような合意が実際に成立したかは、こちらで全部確認できているわけではない」
「あ……」
「通知書に記載された内容として扱え」
「はい」
私は修正しました。
――貴社の通知書には、北村企画株式会社への債務引受により貴社が免責される旨の記載があるが、通知人はそのような免責について何ら承諾していない。
さらに。
所長は別紙の証拠一覧を見ました。
「納品書。請求書。引受確認書。返書。全部、写しを保管しておけ」
「はい」
「相手から争いが出たとき、いつでも弁護士に渡せるように」
「はい!」
相馬先輩が、完成した書面を眺めました。
「悪くねえな」
「本当ですか!」
「ただし」
「はい」
「一番大事なものを忘れるな」
「何ですか?」
「森田さん本人の意思だ」
私は澄江さんを見ました。
夕方、書類の確認に来てもらっていました。
「澄江さん」
「はい」
「この内容で、大東商事に支払を請求したいですか?」
澄江さんは、ゆっくり頷きました。
「はい」
「北村企画だけでなく、大東商事にも請求するという内容です」
「はい」
「もし相手が争えば、弁護士に相談する必要もあります」
「分かっています」
澄江さんは、書類を受け取りました。
そして。
「主人なら、きっと同じことをしたと思います」
そう言って、署名しました。
森田澄江。
赤い印鑑が、紙の上に押されました。
私はその印影を見つめました。
大東社長が勝手に書いた、
――責任を負わない。
という一文。
それに対して。
森田さん本人が、自分の権利を守るために署名した一枚。
同じ紙。
同じハンコ。
でも。
法律上の意味は、まるで違うのです。
内容証明郵便を発送した三日後。
大東商事の社長室では、一人の男が青ざめていました。
「……何だ、これは」
大東剛。
あの強気な社長です。
机の上には、森田澄江さんから届いた内容証明。
その隣には、顧問弁護士に確認してもらった書類がありました。
「先生……」
大東は受話器に向かって言いました。
「本当に、うちにも払う義務が残るんですか?」
『書類を見る限り、その可能性は高いですね』
「でも、北村企画が引き受けたんですよ!」
『それは分かっています』
「大東商事は免責されるって、通知書にも書いたんです!」
『その免責について、森田印刷は承諾したんですか?』
「……」
『承諾していないんですね』
「だって、北村企画の社長とは話がついてます!」
『債権者である森田印刷の承諾がないまま、二社だけで元の債務者を免責することはできません』
大東は黙りました。
『しかも、北村企画が森田印刷に送った書面には、大東商事とともに支払責任を負うと書いてあります』
「……」
『森田印刷も、その内容を受け入れている』
「……はい」
『これは、重畳的債務引受として扱われる可能性が高いでしょう』
大東は、内容証明を見つめました。
重畳的債務引受。
連帯債務。
最高裁判例。
そして。
百八十万円。
『このまま争えば、納品済みの印刷代金について訴訟を起こされる可能性があります』
「……負けますか?」
『今ある資料では、大東商事が免責されたと認めてもらうのは難しいでしょう。ほかに支払を拒める事情がなければ、代金請求を認められる可能性は高いです』
「……」
『判決などの債務名義を取られ、任意に支払わなければ、預金債権などの強制執行を受けることもあります』
大東の額に汗が浮かびました。
取引先への支払。
銀行口座。
会社の信用。
そして。
たった百八十万円を踏み倒そうとした結果、訴訟になった場合の負担。
大東は唇を噛みました。
「……北村企画が払う予定だったんです」
『その会社との内部関係は、別途整理してください。ただ、森田印刷に対する支払義務は、それだけでは消えません』
「……分かりました」
大東は受話器を置きました。
そして。
内容証明の最後の一文を、もう一度読みました。
――未払印刷代金百八十万円の支払を請求する。
「……くそっ」
男は、紙を机に置きました。
そこには。
怒鳴り声もありません。
脅しもありません。
ただ、逃げられない事実と法律が並んでいました。
翌日。
片桐行政書士事務所に、一本の電話が入りました。
「はい、片桐行政書士事務所です!」
私が電話に出ました。
『……大東商事の大東ですが』
「はい?」
私は一瞬、動きを止めました。
大東剛。
本人です。
『森田印刷さんの件で……』
「はい」
『あの、片桐先生は……』
私は所長に受話器を渡しました。
「片桐です」
『あの通知書なんですが……』
「はい」
『こちらでも弁護士に確認しました』
「そうですか」
『……支払のことで、森田さんに連絡したいんですが』
所長は静かに答えました。
「ご本人同士でご確認ください。当事務所は、支払条件について代理交渉する立場ではありませんので」
『分かりました』
少し沈黙がありました。
それから。
『……うちから支払う方向で考えています』
私は思わず顔を上げました。
『北村企画との話は、こちらで何とかします』
「そうですか」
『その……裁判になるのは、避けたいので』
所長は答えました。
「支払がなされたかどうかは、森田さんに確認していただくことになります」
『はい……』
電話が切れました。
「所長!」
「何だ」
「払うって言いましたよね!」
「ああ」
「やりましたね!」
相馬先輩が鼻で笑いました。
「まだだ」
「え?」
「電話で払うって言うだけなら、誰でもできる」
「……あ」
「金が入って、初めて一段落だ」
私は頷きました。
そうでした。
言葉だけでは、まだ終わりません。
百八十万円。
それが実際に支払われてこそ、森田印刷は救われるのです。
それから五日後。
森田澄江さんが事務所を訪れました。
今度は、泣いていません。
代わりに。
通帳を両手で抱えていました。
「……入りました」
小さな声でした。
「え?」
「百八十万円です」
私は立ち上がりました。
「本当ですか!?」
「はい!」
澄江さんは通帳を開きました。
入金欄。
大東商事。
百八十万円。
私は思わず、机を叩きそうになりました。
「よかった……!」
澄江さんは何度も頷きました。
「大東社長から、直接電話がありました」
「はい」
「今まで悪かったって……」
「謝ったんですか?」
「はい」
私は驚きました。
あの社長が。
店先で怒鳴っていた男が。
「北村企画に全部任せたつもりだったけれど、それで私たちに支払わなくていいという話にはならなかった、と」
澄江さんが微笑みました。
「それから、こう言われたんです」
「何と?」
「契約書を、よく読んでいなかったって」
私は思わず苦笑しました。
契約書を盾にしていた人が。
その契約書を、よく読んでいなかった。
何という皮肉でしょう。
「大東商事は、北村企画にも払う義務があることを確認しているそうです」
「はい」
「でも、私たちには自分の会社から全額払うと」
相馬先輩が頷きました。
「なら、森田印刷に対する百八十万円の債務は、それで弁済されたことになりますね」
「はい」
「二社から二回取るわけじゃありませんから」
「もちろんです」
澄江さんは少し笑いました。
「私たちは、一回払ってもらえれば十分です」
私はその言葉を聞いて、胸が温かくなりました。
そうです。
債務引受。
免責。
併存。
連帯債務。
難しい法律用語が並びました。
でも、森田さんが望んでいたことは。
最初から、たったひとつ。
仕事をした分のお金を、払ってもらうこと。
それだけだったのです。
「これで、息子にも給料を払えます」
澄江さんは、通帳を閉じました。
「取引先への支払も、間に合いそうです」
「本当によかったです」
「それに……」
澄江さんは少し照れたように笑いました。
「新しい紙も、注文できるんです」
「新しい紙?」
「はい。来月、商店街の秋祭りがあるでしょう?」
「ああ!」
「そのポスターを頼まれているんです」
私は笑いました。
秋祭り。
駅前商店街。
赤や黄色の提灯が並ぶ、あの祭りです。
「今度は、きちんと前金も決めておこうと思います」
「それがいいですね」
片桐所長が頷きました。
「新しい取引条件も、書面にしておくといいでしょう」
「はい」
澄江さんは深く頭を下げました。
「本当に、ありがとうございました」
私は慌てました。
「いえ、私たちは書類を作っただけですから!」
澄江さんは首を振りました。
「その書類がなかったら、私は諦めていたと思います」
「……」
「借金を引き継いだって言われたら、もう元の会社には請求できないんだと思っていました」
私は何も言えませんでした。
「でも、違ったんですね」
澄江さんは微笑みました。
「法律って、ちゃんと分かれば、弱い方の味方にもなってくれるんですね」
私は頷きました。
「はい」
そうです。
法律は。
大きな会社だけのものではありません。
高い契約書を作れる人だけのものでもありません。
小さな印刷店にも。
一生懸命に働く人にも。
守られるべき権利があります。
そして。
それを守るために、債務引受という仕組みがあるのです。
澄江さんが帰ったあと。
私は机の上に、三枚の紙を並べました。
一枚目。
大東商事の発注書。
二枚目。
北村企画の債務引受確認書。
三枚目。
森田澄江さんが出した内容証明の控え。
「相馬先輩」
「何だ」
「これ、すごく勉強になりました」
「そうか」
「最初は、債務引受って、借金を別の人に移すだけだと思ってました」
「うん」
「でも、違うんですね」
私はノートを開きました。
「免責的債務引受なら、元の債務者は抜ける」
「そうだ」
「併存的債務引受なら、元の債務者も残る」
「そうだな」
「そして、引受人が加わったからといって、債権者が二倍のお金をもらえるわけでもない」
「当たり前だ」
「だけど、請求できる相手は増える」
「そういうことだ」
私は鉛筆を握りました。
「これって、債権者にとって大きいですね」
「ああ」
「だって、元の債務者が払えなくても、引受人に請求できるかもしれない」
「そうだ」
「逆に、免責的債務引受なら、元の債務者には請求できなくなる」
「そのとおり」
相馬先輩は、煙草を一本取り出しました。
「だから、免責ってのは軽い話じゃねえんだ」
「はい」
「金を貸した相手や、代金を請求できる相手が変わるってのは、債権者にとっちゃ大問題だからな」
私は頷きました。
百八十万円。
それを払う人が。
二社いるのか。
一社しかいないのか。
その違いで。
森田印刷という店の運命が変わりかけたのです。
「所長」
「何だ」
「今日、ひとつ分かりました」
「言ってみろ」
「債務を引き受けることと、元の債務者が免責されることは、別なんですね」
「そうだ」
「それを、ちゃんと分けて考えないといけない」
所長が頷きました。
「それでいい」
私はノートの最後に、一行だけ書きました。
――債務引受は「誰が加わるか」、免責は「誰が抜けるか」。引き受けただけで、元の責任は消えない。
今日の教訓。
これなら、もう忘れません。
「ところで、こはる」
相馬先輩が言いました。
「はい?」
「さっきから、何をニヤニヤしてる」
「いえ!」
「気持ち悪いな」
「ひどい!」
私はノートを掲げました。
「民法って、本当に面白いなって思いまして!」
「またそれか」
「だって、たった一文字ですよ!」
「何が?」
「免責的と、併存的!」
「一文字じゃねえだろ」
「細かいことはいいんです!」
「よくねえよ!」
私は笑いました。
そして。
「先輩」
「何だ」
「もし、先輩が私の借金を引き受けてくれたら、どうなるんでしょう?」
「は?」
「免責的なら、私は借金から解放されるんですよね」
「そうだな。必要な合意があればな」
「じゃあ、先輩!」
「何だ」
「私のお昼ご飯代、免責的債務引受してください!」
相馬先輩が固まりました。
「……お前な」
「お願いします!」
「いくらだ」
「昨日のラーメン代、六百円です!」
「自分で払え!」
「でも先輩!」
「何だ!」
「免責的債務引受は、債務者にとって夢のような制度ですよ!」
「夢を見てるのはお前だけだ!」
私は笑いながら、ノートを閉じました。
そのとき。
片桐所長が、静かに言いました。
「こはる」
「はい!」
「昨日のラーメン代は、誰に借りた」
「……相馬先輩です」
「そうか」
「はい」
「では、相馬が債権者だな」
「……あ」
私は固まりました。
そうでした。
相馬先輩に六百円借りているなら。
先輩は債権者です。
債務者ではありません。
そんな相馬先輩が、
「自分で借金を引き受ける」
という話にはなりません。
「こはる」
所長が言いました。
「誰が債権者で、誰が債務者か。最初に整理しろ」
「……はい」
相馬先輩が大笑いしました。
「お前、基本から間違えてんじゃねえか!」
「うう……!」
「六百円の債務引受より、先に六百円返せ!」
「はい……」
私は財布を取り出しました。
六百円。
硬貨を机に並べます。
相馬先輩が受け取って言いました。
「これで弁済完了だな」
「はい」
「免責的債務引受なんかしなくても、借金は消えただろ」
「……確かに!」
「当たり前だ!」
また笑われました。
でも。
私は、少しだけ嬉しくなりました。
難しい法律を覚えなくても。
六百円の借金を返せば、それで終わる。
それが普通です。
けれど。
普通に払われるはずのお金が、払われないとき。
誰が責任を負うのか。
誰に請求できるのか。
誰が責任から解放されるのか。
その違いを見極めるために、民法がある。
私は窓の外を見ました。
夕暮れの駅前商店街。
遠くに、森田印刷の看板が見えます。
きっと今頃。
印刷機が動いているのでしょう。
ガタン、ガタンと音を立てながら。
新しい祭りのポスターを、一枚ずつ刷っているのでしょう。
百八十万円。
そのお金は、ようやく本来あるべき場所に戻りました。
そして私は。
債務引受という、少し難しい民法の仕組みを。
もう単なる試験用語だとは思えなくなっていました。
借金を引き受ける。
その一言には。
誰かを助ける力もあれば。
誰かを騙す口実にもなる危うさがある。
だからこそ。
誰が残って。
誰が加わって。
誰が抜けるのか。
そこを間違えてはいけないのです。
「こはる!」
相馬先輩が呼びました。
「はい!」
「次の相談だ!」
「今度は何ですか?」
「親父の借金を息子が肩代わりしたいらしい」
「おお!」
「ただし、銀行が親父を免責するかは、まだ決まってねえ」
私はノートを開きました。
「……つまり!」
「何だ」
「今度は、免責的債務引受ができるかどうかですね!」
「そうだ」
「銀行が承諾しなければ、親子二人の約束だけでお父さんを免責することはできません!」
「よし」
私は勢いよく立ち上がりました。
「先輩!」
「何だ!」
「私、分かってきました!」
「何が?」
「借金って、押しつける相手だけじゃなくて、請求する側の権利まで考えないといけないんですね!」
相馬先輩は、少しだけ笑いました。
「やっと民法らしくなってきたな」
私は胸を張りました。
「はい!」
昭和六十三年。
古い民法には、まだ債務引受の明文規定がありません。
それでも。
契約と判例を積み重ねて。
人々は、誰が責任を負うべきかを考えてきました。
そして。
私は今日、確信しました。
借金の責任は。
「引き継がせた」
という一言で、消えるほど軽いものではありません。
だって。
その向こうには。
仕事をして、代金を待っている人の生活があるのですから。
以下に私の作品へのリンク貼ってます。是非、手に取って頂ければと思います。また、ついでに評価ブックマーク頂ければ幸いです。




