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こはる行政書士見習帖 〜 昭和に転生して許認可に振り回されると試験知識が骨身にしみます 〜  作者: 条文小説
〈民法 配点76点/300点〉 債権

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506/582

[債権譲渡]法理編 こはるノート

挿絵(By みてみん)

 ハンコを押した日が早くても、お金を受け取る権利まで先に取れるとは限りません。


 契約書がある。


 確定日付もある。


 だから自分が勝つ。


 そんな理屈で百万円を奪おうとした金融業者がいました。


 けれど。


 その男は、たった一つの事実を見落としていたのです。


 ――通知が、いつ相手に届いたのか。


 昭和六十三年。


 夕方の片桐行政書士事務所。


 私は机に向かい、ノートを開いていました。


 表紙には、大きくこう書いてあります。


 ――こはるノート・民法編。


「……先輩」


「何だ」


「民法って、郵便配達員さんが最強だったりしません?」


 新聞を読んでいた相馬先輩が、顔を上げました。


「いきなり何を言ってる」


「だって、今回の百万円ですよ!」


「ああ」


「金融業者の社長が、確定日付は俺の方が早いって威張っていたのに」


「そうだったな」


「結局、郵便が届いた順番で負けたじゃないですか!」


 相馬先輩は煙草を置きました。


「郵便配達員が勝ったんじゃねえ」


「じゃあ誰が勝ったんです?」


「法律上の対抗要件を先に備えた奴だ」


 ……。


 出ました。


 対抗要件。


 行政書士試験で、何度も出てくる言葉です。


 不動産登記。


 動産の引渡し。


 そして、債権譲渡。


 権利を取得したことと、その権利を他人に主張できることは、必ずしも同じではありません。


「でも先輩」


「何だ」


「私は最初、黒田金融の方が勝つと思いかけました」


「確定日付が早かったからか」


「はい……」


 私は鉛筆を握りました。


 五月十一日。


 黒田金融側の確定日付。


 五月十二日。


 春江さん側の確定日付。


 ところが。


 松風館に通知が届いたのは。


 春江さん側が五月十二日午後二時十分。


 黒田金融側が五月十三日午前十時三十五分。


 先に届いたのは、春江さん側。


 だから、春江さんが優先した。


「よし!」


 私はノートを開きました。


「今日は債権譲渡を、完全に理解します!」


「昨日もそんなこと言ってなかったか」


「昨日は事件です。今日は試験対策です!」


「お前、毎日忙しいな」


 そこへ、片桐所長が奥から声をかけました。


「相馬」


「はい」


「付き合ってやれ」


「……所長まで」


 よし。


 今日も強制勉強会、開催です。


 ◇


「まず、債権譲渡そのものからです!」


 私はノートの真ん中に書きました。


 ――債権譲渡。


 債権者が、持っている債権を別の人に移転すること。


「今回の事件で説明してみろ」


 相馬先輩が言いました。


「はい!」


 私は三人の名前を書きました。


 大沢源治。


 松風館。


 藤野春江。


「大沢さんは、松風館に百万円の置時計を売りました」


「うん」


「時計を引き渡したので、大沢さんは代金百万円を請求する権利を持っています」


「そうだ」


「その百万円の代金債権を、春江さんへ七十万円で譲渡したんです」


 私は矢印を描きました。


 大沢源治。


 百万円の代金債権。


 ↓


 藤野春江。


「つまり、百万円そのものを渡したわけではないんですね」


「当たり前だ」


「百万円を受け取る権利を渡したんです!」


 ここ、大事です。


 債権は、物ではありません。


 お札でもありません。


 誰かに何かを請求できる権利です。


 たとえば。


 お金を返してもらう権利。


 商品代金を受け取る権利。


 家賃を受け取る権利。


 こうした権利は、原則として別の人に譲渡できます。


「でも先輩」


「何だ」


「松風館は、譲渡契約を結んでいませんよね?」


「そうだな」


「それなのに、支払う相手が変わるんですか?」


「そこが債権譲渡だ」


 相馬先輩が言いました。


「債権を譲る契約は、基本的には譲渡人と譲受人の間でする」


「はい」


「債務者の承諾が、常に譲渡契約の成立要件になるわけじゃねえ」


 なるほど。


 今回なら。


 譲渡人は大沢さん。


 譲受人は春江さん。


 債務者は松風館。


 大沢さんと春江さんの間で、債権を譲渡する契約を結ぶ。


 それが基本です。


 ただし。


 松風館に対して、


「これから私に払ってください」


 と主張するためには、別の要件が必要になる。


「それが民法四百六十七条ですね!」


「そうだ」


 私は大きく丸をつけました。


 債権譲渡契約の成立。


 そして。


 債務者や第三者に対する対抗要件。


 これは、別の話。


「……やっと分かりました」


「まだ始まったばかりだぞ」


「先輩、少しは達成感を味わわせてください!」


 ◇


「では、債権は何でも譲渡できるんですか?」


 私は自分で問いかけました。


 相馬先輩が答えます。


「原則は自由だ」


「民法四百六十六条一項ですね!」


 債権は、譲り渡すことができる。


 これは、昭和六十三年でも現代でも変わらない基本原則です。


「じゃあ、例外は?」


 相馬先輩が聞きました。


「債権の性質上、譲渡が許されない場合です!」


 私はノートに書きました。


 たとえば。


 ある画家に、自分の肖像画を描いてもらう契約。


 私は説明を続けます。


「有名な画家さんに、私の肖像画を描いてもらう約束をしたとします」


「うん」


「ところが、私がその権利を勝手に別の人へ譲渡したら……」


「画家は困るだろうな」


「ですよね!」


 その画家が、私という特定の人物を描くことを約束していた場合。


 誰を描くかという相手方の個性が、契約の重要な内容になっていることがあります。


 そんな場合、他人に勝手に入れ替えることはできません。


「つまり、債権の内容や性質によって、譲渡できないことがあるんですね」


「そうだ」


 ただし、私は注意書きをしました。


 肖像画を描いてもらう権利が、いつでも絶対に譲渡できないわけではない。


 契約の内容や当事者の合意によって、結論は変わり得る。


 重要なのは、給付が特定の人との関係に結びついているかどうかです。


「ほかには?」


 相馬先輩が聞きました。


「法律で譲渡が禁止されている債権です」


 たとえば。


 扶養を受ける権利。


 民法八百八十一条。


 扶養を受ける権利は、処分することができない。


「これを他人に売れたら、大変ですよね」


「どう大変なんだ?」


「生活を支えるための権利なのに、お金に困った人がそれを売ってしまったら、将来の生活が守れなくなります」


 相馬先輩が頷きました。


「そういうことだ」


 私はノートを囲みました。


 債権譲渡は原則自由。


 ただし、性質上譲渡できない債権や、法律上処分できない権利がある。


「でも、今回の時計代金は普通の金銭債権でした」


「そうだな」


「だから、譲渡自体は原則として可能だったんですね」


「そのとおり」


 私は大きく頷きました。


 ここまでは、昭和と令和で大きな違いはありません。


 問題は。


 ここからです。


 ◇


「さて」


 相馬先輩が六法を開きました。


「例の時代錯誤を片付けるか」


「……あ」


 私は嫌な予感がしました。


「譲渡禁止特約だ」


 出ました。


 今回、私が危うく未来の条文を使いかけたところです。


「こはる。昭和六十三年の民法四百六十六条二項を読め」


「はい!」


 私は六法を開きました。


 そこには。


 ――前項ノ規定ハ当事者カ反対ノ意思ヲ表示シタル場合ニハ之ヲ適用セス。


 ……。


「先輩」


「何だ」


「やっぱり読みにくいです」


「またそれか」


「片仮名と漢字が多すぎます!」


「意味を言え」


「はい……」


 私は条文を見直しました。


 債権は、原則として譲渡できる。


 しかし。


 当事者が譲渡を禁止する合意をしていた場合には、その原則が制限される。


 これが、昭和六十三年の制度です。


「例えばですね」


 私は言いました。


「大沢時計店と松風館の売買契約書に、こう書かれていたらどうでしょう」


 ――本契約から生じる代金債権は、第三者に譲渡してはならない。


「譲渡禁止特約だな」


「はい!」


 では、大沢さんがその特約に違反して、春江さんへ債権を譲渡したらどうなるのか。


 ここが、昭和と現代で大きく違います。


「昭和六十三年では、譲渡禁止特約の効力が強いんですね」


「そうだ」


「しかも、譲受人がその特約を知っていたかどうかが重要になる」


 私は書きました。


 譲渡禁止特約の存在を知っていた。


 つまり悪意。


 または、重大な過失によって知らなかった。


 つまり重過失。


 このような譲受人への譲渡は、当時の判例法理では原則として無効と扱われる。


「じゃあ、春江さんが特約を知らなかったら?」


 相馬先輩が聞きました。


「善意で、重大な過失もなければ保護されます!」


「そうだ」


「でも、普通に注意すれば分かるのに、ひどく不注意で見落とした場合は?」


「重過失が問題になるな」


「はい!」


 私はノートに二本の線を引きました。


 昭和六十三年。


 譲渡禁止特約あり。


 善意・無重過失の譲受人は保護される。


 悪意・重過失の譲受人への譲渡は、原則として無効。


「……現代と違いますね」


「あ?」


 相馬先輩が顔を上げました。


 私は慌てて言い直しました。


「あ、いえ、ちょっと将来の制度を想像してまして!」


「妙な想像だな」


 ……危ない。


 でも、ここは読者の皆さんにも知ってほしいところです。


 現代の改正民法四百六十六条二項では、譲渡禁止や譲渡制限の合意があっても、債権譲渡自体の効力は妨げられません。


 原則として譲渡は有効。


 ただし、金銭債権について、譲渡制限を知っていた譲受人や、重大な過失によって知らなかった譲受人には、債務者が履行を拒絶できるなどの保護があります。


 さらに。


 その譲受人が相当の期間を定めて、債務者に対し譲渡人への履行を催告し、その期間内に履行がなければ、債務者はその譲受人に対して履行拒絶を続けられなくなる仕組みもあります。


 ……複雑!


「こはる」


 片桐所長が言いました。


「何を難しい顔で考えている」


「いえ、その……」


「今の事件に必要なのは?」


「松風館との契約に、譲渡禁止特約があったかどうかです!」


「そうだ」


「今回はありませんでした!」


「うん」


 所長が頷きました。


「だったら、存在しない特約をめぐって争う必要はない」


 ……。


 私は鉛筆を止めました。


 なるほど。


 試験勉強では、制度を全部覚える必要があります。


 でも、実務では。


 事件に存在しない問題まで、無理に持ち込む必要はない。


「だから最初に契約書を確認したんですね」


「そうだ」


 私はノートに書きました。


 ――旧法では譲渡禁止特約と譲受人の善意・悪意が重要。現代では譲渡自体は原則有効とし、債務者の履行拒絶などで調整する。


 そして、その下にもう一行。


 ――条文を知る前に、特約があるか調べる。


 これも、忘れないようにしておきます。


 ◇


「では、いよいよ本題です!」


 私はノートをめくりました。


 ――債権譲渡の対抗要件。


「今回、春江さんが百万円を守れた理由ですね」


「ああ」


「民法四百六十七条です!」


 私は勢いよく書きました。


 まず。


 債務者に対する対抗要件。


 次に。


 第三者に対する対抗要件。


「同じ債権譲渡なのに、二種類あるんですよね」


「そうだ」


「ここを混同すると、黒田金融みたいになります!」


「そこまでひどくなるかは知らねえがな」


 相馬先輩が苦笑しました。


「まず、債務者に対して説明しろ」


「はい!」


 私は三人の名前を並べました。


 大沢さん。


 春江さん。


 松風館。


「大沢さんが春江さんへ百万円の債権を譲渡しました」


「うん」


「でも、松風館はそのことを知らないかもしれません」


「そうだな」


「知らないまま、大沢さんに百万円を払ってしまったら大変です」


 そう。


 債権は、目に見えません。


 時計なら、持ち主が変わったことに気づく場合があります。


 でも。


 百万円を受け取る権利。


 それが人から人へ移ったとしても、債務者には分からない。


「だから、債務者に知らせる必要があるんですね」


「そうだ」


 民法四百六十七条一項。


 譲渡人から債務者への通知。


 または。


 債務者の承諾。


 このどちらかが必要になります。


「先輩、ここで注意点があります!」


「何だ」


「通知するのは、原則として譲渡人なんです!」


 私は大きく書きました。


 ――譲渡人から通知!


 今回なら、大沢さんです。


 春江さんが勝手に、


「私が債権を買いました。だから私に払ってください」


 と手紙を出す。


 それだけでは、原則として四百六十七条の通知にはなりません。


「なぜだ?」


 相馬先輩が聞きました。


「……知らない人が、突然『私が債権者です』と言ってきても、債務者は信用できないからです!」


「そうだな」


「そんなことが通ったら、詐欺が簡単になってしまいます」


 たとえば。


 私が突然、松風館に手紙を出す。


 ――大沢さんの百万円の債権は、私が買いました。


 ――私に払ってください。


 これだけで払わなければならないとしたら。


 松風館は困ります。


「だから、元の債権者である大沢さんから通知してもらうんですね」


「そういうことだ」


「または、松風館が債権譲渡を承諾する」


 私は頷きました。


 そしてもう一つ。


 譲渡人の代理人が、適法に代理権を与えられて通知することはあり得ます。


 しかし、譲受人が自分の資格だけで勝手に通知することとは違う。


「つまり、通知する人にも注意が必要なんですね」


「そうだ」


 私はノートに赤線を引きました。


 ――債務者対抗要件は、譲渡人の通知か、債務者の承諾。


「では、次!」


 私は声を張りました。


「第三者に対する対抗要件です!」


 ◇


「ここからが、今回の百万円事件の核心ですね」


 私は黒田金融の名前を追加しました。


 大沢さん。


 春江さん。


 黒田金融。


 そして松風館。


「大沢さんが、同じ債権を二人に譲渡しました」


「うん」


「春江さんも、黒田金融も、自分が百万円を受け取る権利を持っていると主張した」


「そうだ」


「では、誰が優先するのか!」


 私は机を叩きました。


 相馬先輩が顔をしかめます。


「机を壊すな」


「すみません!」


 ここで必要になるのが。


 第三者対抗要件です。


 単なる通知や承諾では足りません。


 確定日付のある証書による通知、または承諾が必要になります。


「先輩、確定日付って何ですか?」


「その証書が、その日付の時点で存在したことを公的に証明する仕組みだ」


「そうですよね!」


 私はノートに書きました。


 確定日付のある証書。


 たとえば。


 確定日付の付与された私署証書。


 公正証書。


 内容証明郵便など。


「内容証明郵便なら、郵便局が文面などを証明してくれます」


「そうだ」


「だから、後から都合のいい日付に書き換えたような通知とは違うんですね」


 もっとも、内容証明郵便が証明するのは、記載された内容などです。


 書かれた債権譲渡が本当に有効かどうかまで、郵便局が保証するわけではありません。


 また、確定日付と到達の証明も区別が必要です。


 今回、私たちが配達記録まで確認したのは、そのためでした。


「こはる」


 片桐所長が声をかけました。


「はい」


「確定日付は、何のために必要だ」


「第三者との関係で、通知や承諾を確かな証拠にするためです」


「では、早い確定日付を取った方が必ず勝つのか」


「いいえ!」


 私は即答しました。


「そこが、今回の最大の落とし穴です!」


 ◇


 私はノートに、事件の日付を書き並べました。


 ――五月十一日。


 黒田金融側の通知書に確定日付。


 ――五月十二日。


 春江さん側の通知書に確定日付。


 ――五月十二日、午後二時十分。


 春江さん側の通知が松風館に到達。


 ――五月十三日、午前十時三十五分。


 黒田金融側の通知が松風館に到達。


「この場合、誰が優先する?」


 相馬先輩が聞きました。


「春江さんです!」


「なぜだ」


「確定日付のある通知が、先に債務者へ到達したからです!」


 私は判例集を開きました。


 最高裁判所。


 昭和四十九年三月七日判決。


 この判例が、重要です。


 二重譲渡があった場合。


 双方が確定日付のある譲渡通知をしたときは、原則として通知の到達日時の先後によって優劣を決めます。


 確定日付そのものが古いかどうかではありません。


「でも先輩」


「何だ」


「どうして確定日付が早い方じゃないんですか?」


「考えてみろ」


「はい」


 相馬先輩は二枚の紙を取りました。


 一枚には、五月十一日。


 もう一枚には、五月十二日。


「五月十一日に確定日付を取った通知を、引き出しにしまっておく」


「はい」


「五月十二日に確定日付を取った通知は、その日のうちに債務者へ届く」


「はい」


「最初の通知は、五月二十日に届いたとする」


 私は考えました。


 もし確定日付だけで決めるなら。


 五月十一日の通知が優先する。


 でも。


 その通知は、九日間も引き出しにしまわれていた。


 一方、五月十二日の通知は、きちんと債務者に届いていた。


「……あ!」


「気づいたか」


「確定日付だけで決めたら、通知を実際に届けることが軽視されてしまいます!」


「そうだ」


 第三者との優劣を決める制度なのに。


 債務者には何も届いていない。


 それでも、早い日付を押さえただけで勝てる。


 そんな結論は、通知を対抗要件とした趣旨に合いません。


「だから、確定日付のある通知が実際に届いた時点を比べるんですね」


「そういうことだ」


 私は大きく書きました。


 ――確定日付は資格。到達時刻が順位。


「これです!」


 相馬先輩が覗き込みました。


「お、短くなったな」


「褒めましたね!」


「まだだ」


「またそれですか!」


 でも。


 やっと分かりました。


 確定日付があるかどうかは、第三者への対抗要件を備えるための重要な条件。


 そして、複数の通知が競合したとき。


 その優劣を決めるのが、通知の到達の先後なのです。


 なお、債務者の承諾による場合には、確定日付のある証書による承諾がなされた時点が問題になります。


 通知と承諾が競合する場合にも、それぞれの対抗要件を備えた時点を比較します。


「先輩!」


「何だ」


「これ、試験で『確定日付の先後で優劣が決まる』って出たら?」


「どうする」


「迷わずバツです!」


「よし」


 ◇


「さて、次の問題だ」


 相馬先輩が言いました。


「はい!」


「二通の通知が、まったく同じ時刻に届いたらどうなる?」


 私は鉛筆を止めました。


「……同時到達ですね」


「そうだ」


 今回は春江さん側が先に届きました。


 だから優劣がついた。


 でも。


 もし二通とも五月十二日午後二時十分に届いていたら?


「……どっちが優先するんでしょう?」


「そこが問題だ」


 私は判例集を開きました。


 最高裁判所。


 昭和五十五年一月十一日判決。


「これですね!」


 私は声を上げました。


 確定日付のある債権譲渡通知が同時に債務者へ到達した場合。


 各譲受人は、債務者に対して、それぞれ債権全額の弁済を請求できる。


 そして。


 債務者は、一方の譲受人から請求を受けたとき、ほかにも譲受人がいるという理由だけで弁済を拒絶することはできない。


「……ええっ!」


 私は思わず叫びました。


「先輩、それって変じゃないですか!?」


「何がだ」


「春江さんも百万円を請求できる!」


「そうだ」


「黒田金融も百万円を請求できる!」


「そうだ」


「じゃあ、松風館は二百万円払うんですか!?」


「払わねえよ」


 先輩が即答しました。


「え?」


「同じ百万円の債権だぞ」


「ですよね……」


 私は混乱しました。


 でも、ここは正確に理解しなければなりません。


 同時到達だからといって、債権が二つに増えるわけではありません。


 また、二人で五十万円ずつ分けると決まるわけでもありません。


 各譲受人が全額を請求できることと、債務者が二重に支払う義務を負うことは別です。


「じゃあ、松風館はどうすればいいんですか?」


「一方に有効な弁済をすれば、債務は消滅する」


「はい」


「だが、誰に払うべきか分からず、適法な弁済が難しい場合もある」


「……供託ですね!」


 私は顔を上げました。


 供託。


 一定の要件のもとで、金銭などを供託所へ預ける制度です。


 債権者を確知できないなどの事情がある場合、債務者が供託によって債務を免れることが問題になります。


「ただし、同時到達だったら何も考えず供託すればいい、というわけではありません」


「そうだ」


「供託の要件や事情を確認する必要がありますね」


 所長が頷きました。


「そのとおり」


 私はノートに書きました。


 ――二重譲渡・同時到達。


 ――各譲受人は全額請求可能。


 ――債務者は、他にも譲受人がいるというだけでは拒絶できない。


 ――ただし、債務が二倍になるわけではない。


「なるほど……」


 私は鉛筆を止めました。


「先輩」


「何だ」


「民法って、一つ分かると次の問題が出てきますね」


「だから勉強するんだろ」


「終わりが見えません!」


「まだまだあるぞ」


 ……。


 怖い。


 民法、怖い。


 ◇


「では、もう一つ確認します!」


 私はノートをめくりました。


「譲渡禁止特約が付いている債権は、差し押さえられるんでしょうか?」


 相馬先輩が顔を上げました。


「ほう」


「試験に出そうですよね!」


「出そうだな」


 私は考えました。


 債権譲渡を禁止する約束。


 だから、第三者へ譲ることが制限される。


 ならば。


 差押えも禁止できる?


「……いや、違いますよね」


「どうしてだ」


「もし当事者同士が譲渡禁止特約を結ぶだけで差押えを防げるなら、借金を返さない人が財産を隠すのに使えてしまいます!」


 相馬先輩が頷きました。


「そうだ」


 たとえば。


 大沢さんが、別の人から借金をしていたとします。


 返済しない。


 債権者が裁判上の手続を経て、大沢さんの持つ売掛金債権を差し押さえようとする。


 そのとき。


 大沢さんと松風館が、


 ――この売掛金債権は譲渡禁止です。


 という特約を結んでいた。


「だから差押えもできません、では困りますね」


「そういうことだ」


 譲渡禁止特約がある債権でも、差押えの対象となり得ます。


 現代では、この点が民法四百六十六条の四などで明文化され、譲渡制限と差押えの関係が整理されています。


 昭和六十三年でも、譲渡禁止特約だけで差押債権者を排除できるわけではない、という判例法理がありました。


「つまり、先輩」


「何だ」


「譲渡と差押えは、同じではないんですね」


「そうだ」


 任意の債権譲渡。


 裁判上の強制執行による差押え。


 この二つは、法律上の性質が違います。


 私は書きました。


 ――譲渡禁止特約があるからといって、差押えまで禁止されるわけではない。


「これも覚えました!」


「よし」


 ◇


「ところで、先輩」


「何だ」


「債権譲渡って、まだ発生していない債権でもできるんですか?」


 相馬先輩が眉を上げました。


「例えば?」


「来月、松風館に時計を納品する予定があるとします」


「うん」


「でも、まだ時計を売っていないので、代金債権は発生していません」


「そうだな」


「それを今のうちに譲渡することは?」


 相馬先輩は少し考えました。


「将来債権の譲渡か」


「はい!」


 現代の改正民法では、四百六十六条の六に、将来債権の譲渡について明文の規定があります。


 しかし。


 昭和六十三年には、まだその条文はありません。


 だからといって、将来発生する債権を譲渡する合意が、すべて無効というわけでもありません。


 将来債権については、譲渡対象の特定などが問題になります。


 その後の判例の蓄積を経て、現代では明文化されたのです。


「所長」


 私は聞きました。


「今の時代に、来年発生する予定の売掛金債権を譲渡する契約書を作るなら、何が大切ですか?」


 片桐所長は短く答えました。


「何を譲るのか、明確にすることだ」


「……対象の特定ですね」


「そうだ」


 まだ存在しない債権だからこそ。


 どの取引から発生するのか。


 誰に対する債権なのか。


 どの期間の債権なのか。


 そうしたことが分からなければ、後で争いになります。


「なるほど!」


 私は頷きました。


 債権譲渡は、ただ、


「百万円の権利をあげます」


 と言えば済む話ではない。


 誰の、どんな債権なのか。


 それを明確にすることが大切なのです。


 ◇


 窓の外が、夕焼けに染まり始めていました。


 私は、ここまでのノートを見直しました。


 債権譲渡。


 譲渡禁止特約。


 対抗要件。


 確定日付。


 到達時刻。


 同時到達。


 差押え。


 将来債権。


「……多いですね」


 私が呟くと、相馬先輩が笑いました。


「民法だからな」


「でも、少しずつつながってきました」


「そうか」


「はい!」


 私はノートを閉じかけました。


 すると。


 片桐所長が言いました。


「こはる」


「はい!」


「最後に確認するぞ」


「お願いします!」


 所長は帳簿を置きました。


「債権は、原則として譲渡できるか」


「できます!」


「性質上譲渡を許さない債権は?」


「譲渡できません!」


「扶養を受ける権利は?」


「処分できません!」


「昭和六十三年、譲渡禁止特約がある債権を、特約を知っている者へ譲渡したら?」


「当時の判例法理では、原則として無効になります!」


「現代では?」


「譲渡制限があっても譲渡自体は原則有効です。ただし、悪意・重過失の譲受人に対する債務者の履行拒絶などの規定があります!」


 所長が頷きました。


「よし」


 次。


「債務者に対抗するには?」


「譲渡人の通知か、債務者の承諾です!」


「第三者に対抗するには?」


「確定日付のある証書による通知か承諾です!」


「確定日付の早い方が優先するか」


「いいえ!」


 私は勢いよく答えました。


「二重譲渡で通知が競合するときは、確定日付のある通知が債務者に到達した日時の先後で決まります!」


「同時なら?」


「各譲受人は全額請求できます。債務者はほかの譲受人の存在だけを理由に弁済を拒めません!」


「債権が二倍になるのか」


「なりません!」


 所長が頷きました。


「よし」


 私は思わず拳を握りました。


 完璧!


 ……と思った瞬間。


「では最後だ」


 所長が言いました。


「春江さんは、いつ債権者になった?」


 ……。


 私は固まりました。


「え?」


「答えろ」


「ええと……」


 五月十二日。


 通知が届いた日?


 いや。


 違う。


 私は慌ててノートをめくりました。


 債権譲渡契約。


 五月十日。


 大沢さんと春江さんが、百万円の債権を譲渡する契約を結んだ日。


「あ!」


 私は顔を上げました。


「五月十日です!」


 所長が頷きました。


「そうだ」


「譲渡契約で債権が移転し、五月十二日の通知到達で第三者対抗要件を備えたんです!」


「その区別だ」


 私は息を吐きました。


 危なかった。


 また、混同するところでした。


 債権の移転。


 債務者への対抗。


 第三者への対抗。


 似ているけれど、違う。


 これを一緒くたにすると。


 どこかで必ず間違える。


「所長」


「何だ」


「債権譲渡って、三段階で考えると分かりやすいんですね」


「言ってみろ」


 私は指を一本立てました。


「まず、債権が譲渡されたか」


 二本目。


「次に、債務者に対抗できるか」


 三本目。


「最後に、ほかの譲受人など第三者に対抗できるか」


 相馬先輩が頷きました。


「それでいい」


「やった!」


 私は笑いました。


 難しかった債権譲渡が、少しだけ身近になった気がしました。


 ◇


 そのとき。


 相馬先輩が、机の上に二枚の封筒を置きました。


「こはる」


「はい?」


「最後に、一問やるぞ」


「まだあるんですか!?」


「実務の問題だ」


 先輩は二枚の封筒を指差しました。


「こっちは五月一日付の内容証明郵便。五月五日に債務者へ届いた」


「はい」


「こっちは五月三日付の内容証明郵便。五月四日に債務者へ届いた」


 私は頷きました。


「どっちが勝つ?」


「五月四日に届いた方です!」


「正解」


 簡単です。


 もう騙されません。


「では」


 先輩が続けました。


「五月一日付の内容証明郵便は、五月五日に届いた」


「はい」


「五月三日付の通知書は、普通郵便で五月四日に届いた」


「……え?」


 私は止まりました。


 普通郵便。


 確定日付のある証書ではない。


 つまり。


「五月四日に届いた普通郵便の通知だけでは、原則として第三者に対抗できません!」


「そうだ」


「じゃあ、確定日付のある通知が五月五日に届いた方が、第三者対抗要件を備えるんですね!」


 相馬先輩が頷きました。


「そういうことだ」


 ……なるほど。


 到達が早いだけでも駄目。


 確定日付があるだけでも駄目。


 その両方を、正しく組み合わせなければならない。


「先輩!」


「何だ」


「これ、すごくいい問題ですね!」


「そうか」


「引っかけ問題として完璧です!」


「褒めてるのか?」


「もちろんです!」


 私は笑いました。


 でも、本当に。


 これならもう、確定日付の問題を間違えません。


 確定日付のある証書による通知。


 その到達。


 そして先後関係。


 全部、今回の事件に結びついているからです。


 ◇


 日が沈み、町の明かりが灯り始めました。


 私はノートの最後のページを開きました。


 そこに。


 今日の一行を書きます。


 鉛筆の先を整えて。


 ゆっくり。


 ――債権は契約で譲り、通知・承諾で対抗する。二重譲渡は「確定日付の古さ」より「対抗要件を備えた順番」。


「……できた!」


 私はノートを掲げました。


「どうですか!」


 相馬先輩が覗き込みました。


「まあ、いいんじゃねえか」


「褒めましたね!」


「気のせいだ」


「またそれですか!」


 私は笑いました。


 でも。


 この一行は、たぶん忘れません。


 藤野春江さん。


 百万円の代金債権を七十万円で買った女性。


 黒田金融の社長に、


「俺の方が先に確定日付を取った」


 と脅された。


 でも。


 本当に大切だったのは、通知がいつ松風館に届いたのか。


 その事実を、旅館の受領簿が証明していた。


 そして。


 法律と判例を正確に組み合わせた内容証明によって、黒田は自分の主張が通らないと悟った。


 結果。


 春江さんは百万円を受け取ることができました。


 もし、あのとき。


 私たちが確定日付だけを見ていたら。


 もし、相手が金融業者だからと信じていたら。


 もし、到達記録を確認していなかったら。


 結果は違っていたかもしれません。


「所長」


「何だ」


「法律って、知っているだけじゃ足りないんですね」


 所長が顔を上げました。


「どういう意味だ」


「条文を知っていても、事実を調べなければ使えない」


「そうだな」


「逆に、事実を集めても、それが法律上どういう意味を持つか分からなければ、守れないものがある」


 片桐所長が頷きました。


「そのとおりだ」


 私はノートを閉じました。


 今日の百万円は。


 難しい法律用語だけで守られたわけではありません。


 郵便受領簿。


 契約書。


 確定日付。


 最高裁の判例。


 そして。


 それらをつなげる、正確な理解。


 その全部があったから、守れたのです。


「先輩!」


「何だ」


「やっぱり行政書士って、かっこいいですね!」


「急にどうした」


「裁判で戦わなくても、事実と書類で人の財産を守る手助けができるんですから!」


 相馬先輩は少し黙りました。


 それから。


「まあな」


 短く言いました。


「ただし、勘違いすんなよ」


「はい?」


「書類を書けば必ず相手が折れるわけじゃねえ」


「……はい」


「争いが続けば、弁護士の仕事だ」


「はい!」


「俺たちは、事実を整理して、依頼人の権利を正確に書面へ落とす」


 私は頷きました。


「分かりました!」


「それで十分、人の役に立てる」


 相馬先輩は煙草を消しました。


 私は少し、胸が熱くなりました。


 法律を勉強する意味。


 それがまた一つ、分かった気がしたのです。


 ◇


「さて、こはる」


 相馬先輩が言いました。


「はい?」


「勉強会は終わりだ」


「はい!」


「じゃあ、郵便物を整理しろ」


「……え?」


 先輩が机の隅を指差しました。


 そこには、朝から届いていた郵便物が積まれています。


 封筒。


 葉書。


 書留。


 雑誌。


 請求書。


「これ全部ですか?」


「そうだ」


「先輩!」


「何だ」


「私、今日一日、債権譲渡を勉強したんですよ!」


「知ってるよ」


「頭がいっぱいです!」


「それで?」


「少し休憩する権利を……」


 相馬先輩がにやりとしました。


「その権利、俺に譲渡できるか?」


 ……。


 私は止まりました。


「え?」


「休憩する権利だ。譲ってみろ」


「いや、それは……」


 私は考えました。


 休憩する権利。


 労働関係に基づく本人の休憩。


 これを、他人に自由に譲渡できる?


 ……。


「あ!」


 私は叫びました。


「性質上、譲渡できません!」


「ほう」


「私自身が休むためのものです! 先輩に譲渡しても、私が休んだことにはなりません!」


 相馬先輩が笑いました。


「正解」


「やりました!」


「じゃあ、整理しろ」


「何でですか!」


「休憩する権利と、郵便物を整理する仕事は別問題だ」


「ぐっ……!」


 ……なるほど。


 債権譲渡が分かっても、仕事は減らないようです。


 私は渋々、封筒を仕分け始めました。


 普通郵便。


 書留。


 内容証明。


 そのとき。


 手が止まりました。


「あれ?」


「何だ」


「先輩、これ……」


 私は一通の封筒を持ち上げました。


 内容証明郵便。


 差出人は、町の材木店。


 宛先は、片桐行政書士事務所。


「相談者さんからの資料ですか?」


「ああ。明日の件だ」


「明日?」


 相馬先輩が答えました。


「債権を譲り受けた男が、借金を返せって請求してるそうだ」


「はい」


「でも元の債権者には、もう返済したらしい」


 私は目を見開きました。


「……弁済済みの債権?」


「そうだ」


 債権譲渡。


 譲り受けた人が、新しい債権者になる。


 でも。


 だからといって。


 既に返済された借金が、魔法のように復活するわけではありません。


 いつ返したのか。


 誰に返したのか。


 債権譲渡の通知や承諾との前後関係はどうなっているのか。


 そうした事実が、新たな問題になります。


「先輩!」


「何だ」


「明日も民法ですね!」


「そうだな」


「債権譲渡、まだ続くんですね!」


「当たり前だ」


 相馬先輩が笑いました。


「債権を譲ったからって、元の債権に付いていた問題まで全部消えるわけじゃねえんだ」


 私はノートを抱えました。


 ……なるほど。


 債権を譲ること。


 債権者が変わること。


 そして。


 その債権に対して、債務者がどんな主張をできるのか。


 民法は、まだまだ続いているのです。


「よし!」


 私は大きく頷きました。


「明日も頑張ります!」


「その前に郵便物を片付けろ!」


「はいっ!」


 私は笑いながら、封筒を仕分けました。


 窓の外。


 昭和六十三年の町に、夕闇が広がっていきます。


 郵便配達員が、自転車で通り過ぎていきました。


 あの人が運んでいるのは。


 ただの紙かもしれません。


 でも、その一通が。


 誰かの百万円を守ることもある。


 誰かの権利を、確かなものにすることもある。


 そんなことを考えながら。


 私は、ノートの最後の一行をもう一度読みました。


 ――債権は契約で譲り、通知・承諾で対抗する。二重譲渡は「確定日付の古さ」より「対抗要件を備えた順番」。


 よし。


 今度こそ、忘れません。


「先輩!」


「今度は何だ!」


「確定日付が一日早いからって、威張っちゃ駄目ですね!」


「そうだな!」


「本当に大事なのは、いつ届いたかです!」


「分かったから仕事しろ!」


「はい!」


 ……。


 どうやら。


 法律の知識は、私の仕事を減らしてはくれないようです。


 でも。


 誰かの財産を守る力にはなる。


 それなら、勉強する価値は十分あります。


 たとえ。


 今日の私に、郵便物を整理する仕事が残っていたとしても。


 百万円を守った、あの一通の封筒を思い出せば。


 少しくらいは、楽しく仕分けができる。


 ……はずです。


「こはる!」


「はい!」


「確定日付を調べてねえで、普通郵便も片付けろ!」


「今、復習してたんです!」


「復習は終わりだ!」


 ……なるほど。


 民法四百六十七条を完璧に覚えても。


 先輩の小言に対抗するための要件は、まだ見つからないのでした。

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