[債権譲渡]現場編 「先にハンコを押した俺が勝ち」の嘘。百万円の二重譲渡と、確定日付に隠された決定的な落とし穴
お金を受け取る権利は、目に見えません。
財布にも入らない。
金庫にもしまえない。
けれど。
その権利は、人に売ることができます。
そして恐ろしいことに。
同じ権利を、二人に売りつける人間までいるのです。
昭和六十三年。
片桐行政書士事務所。
私はその日、たった一日の違いで百万円の行方が変わる事件に出会いました。
いいえ。
正確には、一日ですらありません。
決め手になったのは。
郵便配達員が、封筒を届けた時刻だったのです。
◇
「私が買った百万円が、他人のものになったと言うんです!」
朝九時。
事務所に飛び込んできた女性は、開口一番そう叫びました。
「……百万円を買った?」
私は思わず聞き返しました。
百万円を百万円で買う。
それでは意味がありません。
ところが、女性は真剣でした。
「七十万円払ったんです。それなのに、百万円を受け取る権利がないって!」
「少し落ち着いてください」
私は椅子を勧めました。
女性の名前は、藤野春江さん。
四十二歳。
駅前で小さな洋裁店を営んでいます。
ご主人を三年前に亡くし、中学生の娘さんと二人暮らし。
その春江さんが、七十万円を支払って購入したもの。
それは。
百万円の売掛金債権でした。
「なるほど……債権譲渡ですね」
私が言うと、春江さんは頷きました。
「知り合いの時計屋さんから買ったんです」
時計屋。
名前は、大沢時計店。
店主は大沢源治。
駅前の老舗でした。
源治さんは先月、市内の旅館「松風館」に百万円の高級置時計を納品しました。
旅館の開業記念品として、特注で仕入れた時計です。
代金は百万円。
支払期限は今月末。
つまり。
大沢時計店には、松風館から百万円を受け取る権利がある。
これが代金債権です。
「でも、時計屋さんは仕入れ代金の支払いに困っていたそうなんです」
「それで?」
「私に、その百万円の権利を七十万円で買わないかって」
私は頷きました。
将来受け取る百万円。
それを今すぐ七十万円に換える。
資金繰りに困っている事業者には、そうした取引が必要になることがあります。
もちろん、買う側には代金が回収できない危険もあります。
「春江さんは七十万円を払ったんですね」
「はい」
「債権譲渡契約書は?」
「あります」
春江さんが鞄から取り出したのは、一枚の契約書でした。
――債権譲渡契約書。
譲渡人。
大沢源治。
譲受人。
藤野春江。
譲渡対象。
大沢時計店が松風館に対して有する、置時計売買代金百万円の債権。
譲渡代金。
七十万円。
双方の署名押印。
日付は、五月十日。
「きちんと書いてありますね」
「でしょう?」
春江さんが少し安心した顔をしました。
「それに、時計屋さんから旅館へ通知も出してもらいました」
「通知?」
「内容証明郵便です」
私は顔を上げました。
おお。
これは大事です。
債権譲渡では、債権を売った人が債務者へ通知することが重要になります。
しかも内容証明郵便。
確定日付のある証書として、第三者との優劣にも関係します。
「それなら、かなりしっかりしていますね!」
私は勢いよく言いました。
ですが。
春江さんは首を横に振りました。
「昨日、知らない男が店に来たんです」
「知らない男?」
「黒田金融という金融業者の社長です」
嫌な予感がしました。
「何と言われたんですか?」
春江さんは唇を噛みました。
「その百万円は、俺のものだって」
……。
私は固まりました。
「俺の方が先に譲り受けた。お前には一円も受け取る権利がない。そう言われたんです」
そして。
春江さんはもう一枚の紙を取り出しました。
――債権譲渡通知書。
そこにも、大沢源治の名前。
譲受人は、黒田金融株式会社。
譲渡された債権は。
松風館に対する、同じ百万円の売掛金債権。
「……二重譲渡!」
私は叫びました。
相馬先輩が新聞から顔を上げました。
「朝からうるせえな」
「先輩! 同じ百万円の債権が、二人に売られてます!」
「ほう」
「しかも相手は金融業者です!」
相馬先輩は煙草を灰皿に置きました。
「そいつは厄介だな」
私は春江さんの書類を見比べました。
同じ債権。
同じ金額。
違う譲受人。
そして。
二つの通知書には、異なる日付がありました。
春江さん側。
五月十二日。
黒田金融側。
五月十一日。
……あれ?
相手の方が、一日早い。
「春江さん」
「はい」
「黒田金融の通知書の方が、日付が早いんですけど……」
「だから言われたんです!」
春江さんの目に涙が浮かびました。
「先に日付がついている方が勝ちだって!」
私は思わず黙りました。
百万円。
七十万円。
たった一枚の紙。
そして、一日の違い。
これは、思った以上に厄介な事件でした。
◇
「でも、大丈夫です!」
私は六法を開きました。
「民法四百六十七条です!」
債権譲渡の対抗要件。
これは行政書士試験の重要論点。
現代の受験生である私にとって、何度も過去問で見たところです。
「債権譲渡は、原則として自由にできます」
民法四百六十六条。
債権は、譲り渡すことができる。
時計屋さんが持っていた百万円の代金債権。
それを春江さんに譲渡する。
この取引自体は、原則として可能です。
「しかも今の民法では、譲渡禁止特約があっても――」
「待て」
相馬先輩が言いました。
「はい?」
「今の民法?」
「……あ」
しまった。
私は口を閉じました。
やってしまいました。
またです。
令和の民法を、昭和に持ち込んでしまいました。
現代の民法四百六十六条二項。
譲渡制限の意思表示があっても、債権譲渡の効力は妨げられない。
だから、譲渡禁止特約があっても譲渡は有効。
ただし、悪意や重大な過失のある譲受人に対しては、債務者が履行を拒めるなどの調整がある。
……というのが、現代の制度です。
でも。
昭和六十三年では違います。
「お前、六法を見ろ」
「はい……」
相馬先輩が指差したのは、当時の民法四百六十六条二項でした。
そこには、こう書いてあります。
――前項ノ規定ハ当事者カ反対ノ意思ヲ表示シタル場合ニハ之ヲ適用セス。
……。
読みにくい!
「先輩!」
「何だ」
「漢字が多いです!」
「法律に文句を言うな」
「送り仮名も難しいです!」
「読め」
「はい……」
私は条文を見直しました。
要するに。
債権者と債務者が譲渡を禁止する合意をしていた場合、原則自由というルールには例外がある。
そして当時の判例では、譲渡禁止特約の存在を知っている譲受人や、重大な過失で知らなかった譲受人への譲渡は、無効と扱われる。
一方、善意で重大な過失のない譲受人は保護される。
「……現代と違う!」
「当たり前だ」
相馬先輩が言いました。
「今は昭和六十三年だぞ」
「分かってます!」
「分かってねえから妙なこと言うんだろ」
私は唇を尖らせました。
でも、これは重要です。
現代では、譲渡制限特約があっても譲渡自体は有効。
昭和では、譲渡禁止特約と譲受人の悪意・重過失によって、譲渡の効力そのものが問題になる。
似ているようで。
決定的に違います。
「所長!」
私は奥に声をかけました。
「まず、松風館との売買契約に譲渡禁止特約がないか確認ですね!」
片桐所長が帳簿から顔を上げました。
「そうだ」
「もしあったら、双方の譲受人が知っていたかどうかも問題になります!」
「うん」
「令和の四百六十六条三項を持ち出したら駄目なんですね!」
「令和?」
「……いえ、何でもありません」
相馬先輩が呆れた顔をしました。
「お前、たまに百年先の法律を読んでるみたいなこと言うよな」
……。
惜しい。
百年ではなく、三十年以上です。
◇
「で、問題はそこじゃねえ」
相馬先輩が言いました。
「今回、一番大事なのは二重譲渡だ」
「はい!」
私は書類を並べました。
五月十日。
春江さんが債権を購入。
五月十一日。
黒田金融側の通知書に確定日付。
五月十二日。
春江さん側の通知書に確定日付。
「……やっぱり黒田金融が先ですね」
私は呟きました。
すると。
「馬鹿」
相馬先輩が即答しました。
「えっ!」
「日付だけ見て何が分かる」
「でも、確定日付の早い方が優先するんじゃ……」
「違う」
先輩は机を指で叩きました。
「二重譲渡の優劣は、確定日付の先後だけで決まるんじゃねえ」
「……え?」
「通知が、いつ債務者に届いたかだ」
私は目を見開きました。
「到達した時刻……!」
「そうだ」
債権譲渡。
債務者に対抗するには、譲渡人からの通知か、債務者の承諾。
しかし。
ほかの譲受人など第三者に対抗するためには、原則として確定日付のある証書による通知または承諾が必要です。
そして。
二重譲渡で通知が競合した場合。
優劣を決めるのは、確定日付そのものの古さではありません。
確定日付のある通知が、債務者に到達した時刻の先後です。
「つまり……」
私は顔を上げました。
「黒田金融の通知書が十一日付でも、旅館に届いたのが後なら……!」
「春江さん側が先に届いていれば、勝負になる」
相馬先輩が言いました。
「まず、それを調べろ」
私は春江さんを見ました。
「旅館から、通知を受け取ったという連絡はありましたか?」
「はい。十二日の午後に届いたそうです」
「何時ですか?」
「そこまでは……」
「では、黒田金融の通知は?」
「十三日に届いたと聞いています」
……。
え?
私は立ち上がりました。
「十三日!?」
相馬先輩がにやりとしました。
「面白くなってきたな」
五月十一日付の通知。
到達は五月十三日。
五月十二日付の通知。
到達は五月十二日。
つまり。
日付が後の通知が、先に届いている!
「所長!」
「何だ」
「これは、春江さんが優先する可能性があります!」
「可能性、だ」
所長は静かに言いました。
「到達の証拠を取れ」
私は頷きました。
そうです。
本人の記憶だけでは足りません。
いつ、誰が、どの封筒を受け取ったのか。
その事実を固めなければ。
相手は必ず、そこを突いてきます。
◇
翌日。
私と相馬先輩は、松風館へ向かいました。
駅から歩いて十五分。
古い木造旅館です。
玄関には立派な松の盆栽。
ロビーの奥には、大きな置時計が飾られていました。
金色の針。
黒檀の台座。
美しい振り子。
「あれが百万円の時計か……」
私は思わず見とれました。
「高そうですね」
「百万円だろ」
「見れば分かります!」
「だったら言うな」
相馬先輩は相変わらずです。
旅館の支配人は、小野寺信一さん。
五十三歳。
事情を説明すると、困った顔で奥から書類箱を持ってきました。
「こちらも困っているんですよ」
「何がですか?」
私が尋ねると、支配人は二通の封筒を並べました。
「同じ百万円について、二人から請求が来ているんです」
なるほど。
債務者である旅館も被害者です。
誰に払えばいいか分からない。
間違って払えば、もう一人から請求される危険がある。
「どちらも内容証明郵便です」
支配人は言いました。
「ただ、届いた日は違います」
私は息を呑みました。
「受け取った記録はありますか?」
「ありますよ」
支配人が差し出したのは、旅館の郵便物受領簿でした。
従業員が毎日、届いた書留郵便などを記録しています。
そして。
そこには、はっきりと書いてありました。
五月十二日。
午後二時十分。
差出人、大沢源治。
内容証明郵便一通受領。
五月十三日。
午前十時三十五分。
差出人、大沢源治。
内容証明郵便一通受領。
「……!」
私は思わず息を止めました。
さらに、支配人が郵便の配達記録に関する資料も見せてくれました。
日付は一致。
私は封筒と通知書の内容を見比べました。
十二日に届いたのは、春江さんへの債権譲渡通知。
十三日に届いたのは、黒田金融への債権譲渡通知。
間違いありません。
「先輩!」
「分かった」
相馬先輩が頷きました。
「これで、到達の順番はかなりはっきりしたな」
私は胸が熱くなりました。
春江さん。
助かるかもしれない。
七十万円。
ご主人が亡くなってから、少しずつ貯めてきたお金。
それを守れるかもしれない。
ですが。
支配人はまだ不安そうでした。
「でも、黒田金融の社長は言うんです」
「何と?」
「自分の通知書の方が、確定日付が早い。だから自分に払えって」
私は頷きました。
「それは、法律上の優劣を決める基準とは違います」
「本当ですか?」
「はい。ただ、こちらも慎重に確認する必要があります」
私は相馬先輩を見ました。
先輩が続けます。
「まず、時計の売買契約書を見せていただけますか」
「はい」
支配人は書類を取り出しました。
大沢時計店と松風館の売買契約書。
そこには。
商品。
代金。
納品日。
支払期限。
それぞれの記載があります。
そして、重要なことに。
債権譲渡を禁止する特約はありませんでした。
「よし」
相馬先輩が短く言いました。
「今回は譲渡禁止特約の壁はねえ」
私は頷きました。
「でも先輩、確認するのはそれだけですか?」
「いや」
「支払済みじゃないかとか、代金について争いがないかとか……」
「そうだ」
相馬先輩が言いました。
「債権を譲り受けたからといって、元の債権が何でも完全なものになるわけじゃねえ」
なるほど。
譲渡された債権は、魔法で生まれ変わるわけではありません。
もともと百万円の代金債権が存在しているか。
既に弁済されていないか。
相殺などの問題がないか。
債務者が譲渡人に対して持っていた抗弁を、譲受人に主張できる場合もあります。
だから、そこまで確認する。
「支配人さん」
私は尋ねました。
「時計の代金は、まだ一円も払っていませんね?」
「はい」
「時計に問題は?」
「ありません。予定どおり納品されています」
「相殺などの話は?」
「今のところ、ありません」
よし。
私は確認事項をノートに書きました。
百万円の債権は存在する。
未払い。
譲渡禁止特約なし。
譲渡通知は春江さん側が先に到達。
そして。
大沢源治は、同じ債権について二通の通知を出している。
「……ひどい話ですね」
私が言うと、支配人がため息をつきました。
「大沢さんには長年世話になっていたんですが……」
そこで。
相馬先輩が妙なことを尋ねました。
「ところで、二通の通知は本当に大沢さん本人が出したものですか?」
「え?」
支配人が首をかしげました。
「内容証明ですから、本人が出したんじゃないんですか?」
「内容証明だからといって、書いてあることが全部真実になるわけじゃありません」
先輩は淡々と言いました。
「差出人として誰の名前があるかと、本当に本人の意思による通知かは、確認すべき事実です」
私ははっとしました。
そうです。
内容証明郵便は、郵便物の文面や差出しなどを証明する仕組み。
書かれた内容が法律上正しいと、郵便局が保証してくれるわけではありません。
まして。
内容証明郵便を受け取っただけで、直ちに相手に支払義務が確定するわけでもない。
大事なのは。
書面の中身。
差出人。
譲渡の事実。
そして、届いた時刻です。
そのとき。
旅館の入口から、低い声が響きました。
「おい。何をこそこそ調べてやがる」
振り返ると。
黒い背広の男が立っていました。
太い金の腕時計。
派手なネクタイ。
整髪料で固めた髪。
黒田金融の社長。
黒田剛三。
四十八歳。
いかにも嫌な予感しかしない男でした。
◇
「行政書士だと?」
黒田は私たちを見るなり、鼻で笑いました。
「弁護士でもねえのに、何ができる」
あ。
また言いました。
全国の行政書士が聞いたら、六法を閉じて深呼吸したくなる発言です。
「黒田さん」
相馬先輩が落ち着いて言いました。
「本件債権の譲渡について、事実を確認しています」
「確認?」
「はい」
「馬鹿馬鹿しい」
黒田は鞄から一枚の紙を取り出しました。
「これを見ろ」
確定日付のある債権譲渡通知書。
五月十一日。
「俺の方が先だろうが!」
黒田は机を叩きました。
「五月十一日だ! あの女のは五月十二日! 先の日付が勝つんだよ!」
私は口を開きかけました。
ですが。
相馬先輩が私の肩を軽く押さえました。
「こはる」
「はい」
「今は聞くだけだ」
……。
私は黙りました。
黒田は勝ち誇った顔で続けます。
「こっちは金融業だぞ。債権譲渡くらい分かってるんだ」
「そうですか」
「時計屋は金に困ってた。俺が債権を買い取ってやったんだ」
「いくらで?」
「五十万円だ」
私は眉をひそめました。
五十万円。
百万円の債権を半額で買った。
しかも。
それは既に春江さんへ七十万円で売られたはずの債権です。
「譲渡契約を結んだのは、いつですか?」
相馬先輩が聞きました。
「五月十一日だ」
「なるほど」
「公証人に確定日付も付けてもらった」
「はい」
「これ以上、何を調べるっていうんだ?」
相馬先輩は少し考えました。
「通知書が旅館へ届いたのは、十三日ですね」
黒田の表情が一瞬止まりました。
「……だから何だ」
「春江さん側の通知は十二日に届いています」
「だから!」
黒田は声を荒らげました。
「俺の確定日付は十一日なんだよ!」
私は思いました。
ああ。
この人、本当に勘違いしている。
確定日付が早い。
それだけで勝てると思っている。
しかも金融業者を名乗って。
法律を知らない女性から、百万円を奪おうとしている。
「相馬さん」
黒田は薄笑いを浮かべました。
「悪いことは言わねえ。あの女に諦めろと伝えてくれ」
……。
私は拳を握りました。
相馬先輩は表情を変えません。
「そのような伝言を引き受ける立場ではありません」
「あ?」
「私は行政書士です。依頼人の代理人として争いを交渉するために来たわけではありません」
「だったら帰れ」
「事情は確認できました」
相馬先輩は立ち上がりました。
「こはる。行くぞ」
「えっ!」
「必要な資料は揃った」
「でも先輩!」
「いいから」
私は納得できませんでした。
あの男。
あれだけ偉そうにしているのに。
ここで帰るんですか?
旅館を出ると、私は我慢できずに言いました。
「先輩!」
「何だ」
「どうして言い返さないんですか!」
「何をだ」
「確定日付の早い方が勝つんじゃないって!」
「言ったところで、あいつが納得すると思うか?」
「……思いません」
「だろ」
「でも!」
「こはる」
相馬先輩が足を止めました。
「俺たちは、喧嘩を売りに来たんじゃねえ」
「……はい」
「事実を集めに来たんだ」
先輩は鞄を叩きました。
「相手の主張は分かった。確定日付の先後で勝負が決まると思っている」
「はい」
「じゃあ、その勘違いを法律と判例で示せばいい」
「内容証明ですか?」
「ああ」
相馬先輩はにやりとしました。
「世の中、声がでかい奴じゃなくて、書面にハンコを押させた奴が勝つんだよ」
出ました。
先輩のいつもの台詞。
ただし。
今回の私は、少しだけ意味が分かってきました。
大声で正義を叫ぶより。
言い逃れできない事実を、一つずつ並べる。
それが、この事務所の戦い方なのです。
◇
午後。
私たちは大沢時計店を訪れました。
店主の大沢源治は、ひどく憔悴していました。
「……すみません」
開口一番。
源治は頭を下げました。
「本当に、申し訳ありません」
私は厳しい声で言いました。
「春江さんから七十万円を受け取ったんですよね」
「はい」
「それなのに、同じ債権を黒田金融にも売ったんですか?」
「……はい」
「どうして!」
源治は俯きました。
「仕入れ先への支払いが迫っていて……」
「だからって!」
「黒田さんから五十万円を借りていたんです」
「え?」
私は目を見開きました。
「借金?」
「はい。返せなくなって……」
話を聞くと、事情はこうでした。
源治は以前から黒田金融に五十万円の借金があった。
返済期限が迫っていた。
黒田は、松風館への百万円の債権を譲り渡せば、借金の返済に充ててやると言った。
源治は困り果て、五月十一日に契約書へ署名押印した。
そして、黒田の指示で債権譲渡通知書も作成した。
「でも、その百万円は、十日に春江さんへ譲渡していたんですよね?」
「……はい」
「黒田さんにも、それを話したんですか?」
源治は小さく頷きました。
「話しました」
……。
私は息を呑みました。
「それで、黒田さんは?」
「そんなもの、関係ないって」
源治は震える声で言いました。
「確定日付を先に取れば、俺の方が勝つんだって」
……!
私は相馬先輩を見ました。
先輩の顔から、笑みが消えていました。
黒田は知っていた。
春江さんに既に譲渡された債権だと。
それでも、源治に二重譲渡をさせた。
さらに。
確定日付だけ先に取れば、奪えると思っていた。
「大沢さん」
片桐所長から事前に指示された確認事項に従い、私は尋ねました。
「黒田さんとの契約日と、通知を出した日は同じですか?」
「いいえ」
「いつ出しました?」
「十二日の夕方です」
「……え?」
「十一日に確定日付を付けたんですが、黒田さんが、郵便は翌日でいいと言って……」
なるほど。
五月十一日。
黒田金融側の通知書に確定日付。
しかし郵送は、五月十二日夕方。
だから旅館への到達は十三日。
一方。
春江さん側の通知は、五月十二日午後二時十分に到達済み。
つまり。
黒田は、確定日付を早く取ることにはこだわった。
けれど。
本当に重要だった、通知の到達時刻を軽視していた。
「先輩……」
「ああ」
相馬先輩は短く言いました。
「自分で落とし穴を掘ったな」
私は口元を押さえました。
笑ってはいけません。
相談者にとっては大事件です。
でも。
あれだけ偉そうにしていた黒田が。
日付の意味を取り違えたまま、堂々と勝ち誇っていた。
その事実に、どうしても少しだけ笑いそうになってしまいました。
◇
事務所に戻ると、片桐所長が資料を並べました。
「こはる」
「はい!」
「まず、法律関係を説明しろ」
私は深呼吸しました。
「大沢さんは、松風館に対して百万円の代金債権を持っていました」
「うん」
「五月十日、その債権を春江さんへ譲渡しました」
「うん」
「ところが五月十一日、黒田金融にも同じ債権を譲渡した」
「そうだ」
「いわゆる二重譲渡です」
所長が頷きました。
「次」
「春江さん側の譲渡通知は、五月十二日午後二時十分に到達」
「うん」
「黒田金融側は、五月十三日午前十時三十五分に到達」
「それで?」
「どちらも確定日付のある通知なので、原則として到達の先後で優劣が決まります」
「根拠は?」
「民法四百六十七条と、最高裁判例です!」
私は書棚から判例集を取り出しました。
そして、該当箇所を開きます。
最高裁判所。
昭和四十九年三月七日判決。
債権の二重譲渡で、確定日付のある通知が競合した場合。
優劣を決める基準は。
確定日付そのものの先後ではなく、通知が債務者に到達した日時の先後。
「これです!」
私は判例集を机に置きました。
「黒田金融の確定日付が十一日でも、旅館への到達は十三日です!」
「そうだな」
「春江さん側は十二日に届いています!」
「だから?」
「先に第三者対抗要件を備えたのは、春江さんです!」
所長が静かに頷きました。
「よし」
私は思わず拳を握りました。
やった!
……と思った瞬間。
「ただし」
所長が言いました。
「はい?」
「確認が一つ残っている」
「え?」
「同時到達だったらどうなる」
……。
私は固まりました。
「同時、ですか?」
「そうだ」
相馬先輩がにやりとしました。
「同じ時刻に二つの通知が届いたら、どっちが勝つ?」
「ええと……」
私は考えました。
確定日付のある通知。
同時に到達。
到達時刻で優劣を決めるなら。
同じ時刻。
優劣がつかない。
「……どちらも優先できない?」
「それだけか?」
相馬先輩が聞きました。
私は判例集をめくりました。
そして。
見つけました。
最高裁判所。
昭和五十五年一月十一日判決。
「あっ!」
私は声を上げました。
「同時に届いた場合、各譲受人は債務者に対して、それぞれ債権全額の弁済を請求できるんです!」
「そうだ」
「債務者は、もう一人の譲受人がいるというだけでは、弁済を拒めない!」
……怖い!
私は思わず身震いしました。
「先輩、これ、百万円が二つに増えたみたいじゃないですか!」
「増えてねえよ」
「でも二人から百万円ずつ請求されるんですよね!?」
「請求されることと、二重に払う義務があることは別だ」
相馬先輩が言いました。
「一方に有効な弁済をすれば、債務は消える。問題は、誰に払えば適切な弁済になるかだ」
「なるほど……」
「だから同時到達みたいな場合は、債務者だって慎重になる。供託が問題になることもある」
私は頷きました。
今回、松風館の支配人が困っていた理由が、少し分かった気がしました。
債務者は、ただお金を払えばいいわけではない。
正しい相手に払わなければならない。
もし間違えば。
既に支払ったのに、別の人からもう一度請求される危険がある。
「だから、通知の到達時刻をきちんと調べたんですね」
「そうだ」
所長が言いました。
「今回は同時ではない」
「はい」
「春江さん側の通知が先に届いている」
「はい!」
「その事実を証拠で示せ」
私は大きく頷きました。
◇
その日の夕方。
私たちは内容証明郵便の原案を作り始めました。
宛先。
黒田金融株式会社。
代表取締役、黒田剛三。
差出人。
藤野春江。
もちろん、春江さん本人の意思を確認したうえで作成する書面です。
私は鉛筆を握りました。
「では!」
まず、事実。
次に、法律。
最後に、結論。
相馬先輩がいつも言っている順番です。
私は原案を書きました。
――通知人は、昭和六十三年五月十日、大沢源治より、同人が松風館に対して有する百万円の売買代金債権を譲り受けた。
――右債権譲渡については、大沢源治名義の確定日付のある通知書が、同年五月十二日午後二時十分、債務者松風館に到達している。
――一方、貴社への債権譲渡に関する通知書は、同月十三日午前十時三十五分に到達したものである。
――したがって、本件各債権譲渡が競合する場合、通知人が先に第三者対抗要件を備えたことになる。
「うん」
相馬先輩が頷きました。
「続けろ」
私は書きました。
――民法第四百六十七条第二項に関する最高裁昭和四十九年三月七日判決は、確定日付のある債権譲渡通知の競合について、確定日付自体の先後ではなく、通知が債務者に到達した日時の先後を基準とする。
――貴社の通知書に付された確定日付が同月十一日であることは、前記結論を左右しない。
私はここで、一度鉛筆を止めました。
……怖い。
相手が一番自信を持っていた部分を。
たった数行で崩している。
しかも。
感情的な言葉は、一つもありません。
相手を罵倒しない。
悪党とも書かない。
ただ。
法律と判例。
そして到達時刻。
それだけです。
「所長」
「何だ」
「これ、黒田さんが読んだら怒りませんか?」
「怒るだろうな」
「ですよね……」
「だが、怒ったところで到達時刻は変わらん」
……。
私は思わず笑いました。
確かに。
黒田が百回机を叩いても。
五月十三日に届いた通知が、五月十二日に届いたことにはなりません。
「最後は?」
相馬先輩が聞きました。
私は続きを書きました。
――通知人は、本件債権につき貴社に優先する第三者対抗要件を備えている。
――よって、貴社において通知人の優先する地位を争い、又は松風館に対して自己への弁済を要求する場合には、その法的根拠を明示した書面による回答を求める。
――本件について解決が得られない場合、通知人は弁護士への相談のうえ、必要な法的措置を検討する。
読み終えると、相馬先輩が言いました。
「悪くねえ」
「本当ですか!」
「だが、もう一枚必要だ」
「え?」
「春江さんが、松風館に対して送る書面だ」
私ははっとしました。
そうです。
黒田金融を黙らせることだけが目的ではありません。
春江さんの本当の目的は。
百万円を受け取ること。
そのためには、債務者である松風館にも、権利関係を正確に示す必要があります。
「でも先輩」
「何だ」
「私たちが春江さんの代わりに、旅館と支払いの交渉をするわけにはいきませんよね」
「当たり前だ」
「はい」
「依頼人の代理人として、紛争の示談交渉を業務として引き受けることはできねえ」
相馬先輩は書面を指差しました。
「だから、本人が自分の権利を通知するための書類を作る」
「はい!」
「争いが続けば、弁護士に引き継ぐ」
私は頷きました。
行政書士は裁判官でも弁護士でもありません。
内容証明を出しただけで、判決と同じ効力が生まれるわけでもありません。
相手の財産を、いきなり差し押さえられるわけでもない。
でも。
法律上の権利関係と、それを裏付ける証拠を示す。
何が争点で、どちらの主張に無理があるのかを明らかにする。
そして、争いが深まれば弁護士につなぐ。
それが、私たちにできる仕事です。
「こはる」
片桐所長が言いました。
「書面は刃物だ」
「……はい」
「振り回すな」
所長は完成した原案を机に置きました。
「必要なところだけ、正確に切れ」
私は、その言葉を忘れないようにノートへ書きました。
◇
内容証明郵便を発送して三日後。
黒田金融から、春江さんの店に電話がありました。
その日の午後。
春江さんが事務所へ駆け込んできました。
「先生!」
私は顔を上げました。
「どうしました!?」
「黒田さんから電話が!」
「えっ!」
私は思わず身構えました。
また脅されたのでしょうか。
それとも。
何か新しい証拠でも持ち出してきたのでしょうか。
ところが。
春江さんは目を丸くしたまま言いました。
「……謝られました」
「え?」
「黒田さんに、謝られたんです」
……。
私は固まりました。
「あの黒田さんが?」
「はい」
「机を叩いていた?」
「はい」
「俺の方が確定日付が早いって?」
「はい!」
私は相馬先輩を見ました。
先輩は、黙って新聞を畳みました。
「何て言ってた?」
春江さんは説明しました。
黒田は内容証明を受け取ったあと、知り合いの弁護士に相談したそうです。
そして。
最高裁昭和四十九年三月七日判決のことを指摘された。
確定日付が早いだけでは、優先しない。
通知の到達日時が重要。
しかも。
旅館の受領簿には、春江さん側の通知が先に届いたことが記録されている。
黒田の主張は、根本から崩れてしまったのです。
「それで……」
春江さんが続けました。
「黒田さん、こう言ってました」
私は息を呑みました。
「確定日付が十一日でも、十二日に届いた通知には勝てないんですね、って」
……。
私は思わず机に手をつきました。
ああ。
やっと。
やっと分かったんですね!
「それから?」
相馬先輩が聞きました。
「大沢さんへの貸金は、大沢さん本人に請求することにするそうです」
私は頷きました。
当然です。
黒田が大沢に対して持っている貸金債権と。
松風館に対する時計代金債権。
それは別の問題です。
大沢に貸したお金を取り戻したいからといって。
既に春江さんが第三者対抗要件を備えた百万円を、当然に奪えるわけではありません。
「黒田さんから、こんな書面も届きました」
春江さんが封筒を差し出しました。
中には、黒田金融の署名押印がある確認書。
――当社は、松風館に対する本件百万円の売買代金債権について、藤野春江が当社に先立ち第三者対抗要件を具備したことを確認する。
――当社は、本件債権について、松風館に対する自己への弁済請求を行わない。
私は息を止めました。
「先輩……!」
「ああ」
相馬先輩がにやりとしました。
「ようやくハンコを押したな」
私は思わず笑ってしまいました。
最初は。
確定日付が早い。
契約書がある。
金融業者だから法律を知っている。
そんな理屈で、百万円を奪おうとしていた黒田。
でも。
到達の記録。
民法四百六十七条。
昭和四十九年の最高裁判例。
それらを突きつけられた瞬間。
黒田は、自分の主張が通らない危険を理解した。
もし争えば。
弁護士費用もかかる。
裁判で不利な判断を受ける可能性も高い。
さらに、源治との間で行われた二重譲渡の経緯まで問題になる。
それを避けるため。
黒田は、自分から引き下がったのです。
「所長!」
私は奥へ向かって叫びました。
「黒田金融が折れました!」
片桐所長は帳簿を閉じました。
「そうか」
「はい!」
「松風館からの入金は?」
……。
私は止まりました。
「あ」
相馬先輩が鼻で笑いました。
「まだ終わってねえぞ」
そうでした。
黒田が折れても。
春江さんが百万円を受け取ったわけではありません。
勝負は、まだ途中です。
◇
それから一週間後。
五月末。
松風館の支払期限が来ました。
黒田金融からの確認書も届き、旅館側でも権利関係を確認できたため、春江さんは自分の名義で代金の支払いを求めました。
そして。
旅館から、春江さんの口座へ百万円が振り込まれたのです。
「先生!」
春江さんが事務所にやって来ました。
手には、銀行の通帳。
「入りました!」
私は立ち上がりました。
「本当ですか!?」
「はい!」
通帳には、確かに記載がありました。
百万円。
春江さんは通帳を胸に抱きました。
「よかった……」
その声が震えました。
「本当に、よかったです……」
私は胸がいっぱいになりました。
七十万円。
春江さんが大切に貯めてきたお金。
それを使って、百万円の債権を購入した。
けれど。
同じ債権が別の男にも売られていた。
契約書がある。
確定日付がある。
先に押したハンコが勝つ。
そう言われて。
春江さんは、自分が間違っていたのかと思いかけた。
でも。
違いました。
大切だったのは。
誰が先に大声を出したかではない。
誰の契約書の日付が早かったかでもない。
法律が定めた方法で、いつ対抗要件を備えたか。
その一点だったのです。
「実は……」
春江さんが少し恥ずかしそうに笑いました。
「娘に言われたんです」
「何て?」
「お母さん、もう知らない人から百万円を買っちゃ駄目だよって」
私は思わず笑いました。
「それは……心配しますよね」
「ええ」
「でも、債権を買うこと自体は悪いことではないんですよ」
「そうなんですか?」
「はい」
私は頷きました。
債権譲渡。
それは、現代の経済活動にとって大切な仕組みです。
お金を受け取る権利を、人に譲る。
そのおかげで、急いで資金が必要な人は、入金を待たずにお金を調達できることがある。
譲り受けた側も、その債権を回収できれば利益を得られる。
ただし。
債務者が本当に支払えるのか。
債権に問題はないか。
譲渡禁止特約はないか。
ほかの人に既に譲渡されていないか。
そうした確認を怠れば、大きな損害を受けることもあります。
「春江さん」
私は言いました。
「今回、助かったのは、きちんと通知を出してもらっていたからです」
「そうなんですね」
「はい。それに、いつ届いたかを確認できたことも大きかったです」
春江さんは通帳を見ました。
「たった一日なのに……」
「そうですね」
「その一日で、百万円が守られたんですね」
私は頷きました。
「法律って、不思議ですね」
春江さんが言いました。
「はい?」
「難しい言葉ばっかりなのに」
春江さんは少し笑いました。
「ちゃんと知っていれば、私みたいな普通のおばさんでも、お金を守れるんですね」
私は一瞬、言葉を失いました。
普通のおばさん。
そんなことはありません。
自分で店を切り盛りして。
娘さんを育てて。
ご主人が亡くなってからも、一生懸命に働いて。
そのお金を、守ろうとした人です。
「春江さん」
「はい」
「法律は、金融業者だけのものじゃありません」
私は言いました。
「もちろん、私たち行政書士だけのものでもありません」
「……はい」
「春江さんのように、自分のお金を守ろうとしている人のためにもあるんです」
春江さんは、しばらく黙っていました。
それから。
「ありがとうございます」
深く頭を下げました。
◇
夕方。
私は机に向かい、今回の事件の書類を整理していました。
五月十日。
債権譲渡契約。
五月十一日。
黒田金融側の確定日付。
五月十二日。
春江さん側の通知到達。
五月十三日。
黒田金融側の通知到達。
たった四日間。
その間に、百万円の運命が決まっていたのです。
「相馬先輩」
「何だ」
「今回、すごく勉強になりました」
「そうか」
「でも、ちょっと怖かったです」
「何がだ」
「確定日付が早い方が勝つって、私も最初に思いかけました」
相馬先輩が鼻で笑いました。
「過去問のひっかけだな」
「そうです!」
私は鉛筆を握りました。
「確定日付は必要。でも、早い日付の方が必ず勝つわけじゃない」
「ああ」
「通知の到達時刻を見る」
「そうだ」
「しかも同時到達だったら、また別の問題になる!」
「そのとおり」
私は首を振りました。
「民法って、意地悪ですね」
「法律が意地悪なんじゃねえ」
「え?」
「人間が、見たいところだけ見ようとするんだ」
相馬先輩が言いました。
「黒田は、確定日付しか見てなかった」
「はい」
「春江さんは、契約書があるから安心だと思ってた」
「はい」
「でも、本当に大事なのは、それぞれの書類がどんな法的意味を持つかだ」
私は黙りました。
なるほど。
契約書。
通知書。
確定日付。
到達記録。
それぞれ役割が違います。
契約書があれば、それだけで第三者に勝てるわけではない。
確定日付があれば、それだけで優先するわけでもない。
そして。
通知の内容が正しくても、債務者に届いていなければ、対抗要件を備えたことにはならない。
「所長」
私は奥を見ました。
「債権譲渡って、目に見えないから難しいんですね」
片桐所長が顔を上げました。
「そうだな」
「時計なら、誰が持ってるか見れば分かることがありますけど」
「うん」
「百万円を受け取る権利は、誰のものか見ただけでは分からない」
所長が頷きました。
「だから通知が要る」
「はい」
「債務者に知らせる。第三者との優劣を決める。それぞれ必要な要件がある」
私は考えました。
そうか。
債権は、目に見えない。
だからこそ。
誰が債権者なのか。
いつ債権が譲渡されたのか。
いつ債務者に知らされたのか。
そうしたことを、法律上の手続で明らかにする必要があるのです。
「所長」
「何だ」
「今日の教訓、分かりました」
「言ってみろ」
私はノートを開きました。
そして。
一行だけ書きました。
――債権譲渡は、契約で移り、通知で示し、第三者との優劣は確定日付のある通知の到達で決まる。
「……どうですか!」
相馬先輩が覗き込みました。
「長えな」
「ええっ!」
「一行に詰め込みすぎだ」
「でも全部大事です!」
「まあな」
先輩は煙草をくわえました。
「だったら最後に、これも書いとけ」
「何ですか?」
「ハンコの日付を見て勝ち誇る奴ほど、配達記録を見せられると青ざめる」
……。
私は吹き出しました。
「それ、法律の教訓ですか!?」
「実務の教訓だ」
「確かに!」
私は笑いながら、ノートの隅に書き足しました。
――ハンコより、到達。
よし。
これなら絶対に忘れません。
そのとき。
電話が鳴りました。
「はい、片桐行政書士事務所です!」
『あのう……』
今度は男性の声。
『親父が亡くなったんですが、知り合いから、昔貸したお金を返せと言われてまして……』
「借金ですか?」
『はい。ただ、相手は昔の債権者じゃないんです』
私は眉をひそめました。
「債権を譲り受けた方ですか?」
『そうです。でも、うちの親父が昔、もう返したって言ってたらしくて……』
……。
私は受話器を握り直しました。
債権譲渡。
今度は。
譲り受けた債権に、既に弁済されていたという問題があるかもしれない。
相手が変わったからといって。
消えた借金が、勝手に復活するわけではありません。
「先輩!」
「今度は何だ!」
「債権譲渡の次の問題です!」
「何があった」
「もう返したはずの借金を、新しい債権者が請求しているそうです!」
相馬先輩は煙草を灰皿に押しつけました。
「……なるほどな」
「どうしましょう!」
「まず、いつ誰に、いくら返したか調べろ」
「はい!」
「それから、債権譲渡の通知や承諾がどうなってるかだ」
「分かりました!」
私は相談票を取り出しました。
昭和六十三年。
民法の世界は、まだまだ奥が深い。
権利は人に譲れる。
でも。
譲ったというだけで、何でも自由になるわけではない。
契約がある。
通知がある。
確定日付がある。
そして。
その一つ一つに、人の生活を守るための意味がある。
私は今日、ようやく分かりました。
法律で重要なのは。
誰が先に「俺のものだ」と叫んだかではありません。
誰が、いつ、どんな権利を取得し。
それを、どんな方法で他人に主張できるようにしたのか。
そこを間違えれば。
確定日付が一日早くても。
百万円を失うことがある。
逆に。
そこを正しく押さえていれば。
強面の金融業者に脅されても。
大切なお金を守れることがあるのです。
「相馬先輩!」
「何だ!」
「私、内容証明郵便が好きになりました!」
「変な趣味だな!」
「だって、紙一枚で百万円を守れるんですよ!」
「紙一枚じゃねえ」
先輩が言いました。
「え?」
「その紙の裏に、事実と証拠と法律が揃ってるからだ」
私は、はっとしました。
片桐所長が静かに頷きました。
「それを忘れるな」
「……はい!」
私はノートの最後に、もう一度だけ書きました。
――ハンコより、到達。
昭和六十三年。
郵便配達員が運んだ、たった二通の封筒。
その到着順が。
一人の女性の百万円を守ったのです。
そして。
どれほど立派なハンコを押していても。
どれほど大きな声で権利を主張しても。
法律上の順番まで、思いどおりに変えられるわけではない。
それが今日、私が覚えた民法の強さでした。
以下に私の作品へのリンク貼ってます。是非、手に取って頂ければと思います。また、ついでに評価ブックマーク頂ければ幸いです。




