[行政手続法10条・公聴会の開催等]現場編 「許可を申請したのは業者です。住民は関係ありません」の罠。申請者だけを見る窓口と、許可要件の中にいる“第三者”
役所で「あなたは申請者じゃありません」と言われると、人は急に、自分が部外者になったような気がします。
申請したのは業者。
審査するのは役所。
なら、その間に立っている住民は関係ない。
――そんなわけ、あるでしょうか。
窓の真下に排気口ができる人が。
毎日、家の前を大型車が通ることになる人が。
商売に使っている井戸のすぐ上流で、新しい施設が動き始める人が。
紙の上で申請者ではないからといって、現実の外へ消えてくれるはずがありません。
昭和六十三年六月。
片桐行政書士事務所に、その女性がやってきたのは、朝から蒸し暑い日のことでした。
「話くらい聞いてほしいんです」
最初の一言は、それだけでした。
怒鳴り声でもない。
泣き声でもない。
むしろ、ずいぶん静かでした。
だからこそ、私は手を止めました。
こういう声の人は、だいたいもう何度か追い返されています。
「どうぞ」
私は応接机の椅子を引きました。
女性は四十代半ばくらい。
白いブラウスの袖を肘までまくり、使い込んだ買い物籠を膝の上に置いています。
籠の中から出てきたのは、野菜でも財布でもありませんでした。
市役所の封筒。
自治会の回覧。
手書きの地図。
そして一枚の新聞折り込み。
「これです」
女性が指さしました。
駅北地区・観光バス整備センター建設計画。
大型観光バス二十五台収容。
整備工場併設。
早朝五時より運行可能。
「……朝五時」
思わず声が出ました。
「うち、この裏なんです」
女性は手書きの地図を広げました。
建設予定地。
道路。
住宅。
小さな豆腐店。
女性の指は、その豆腐店の上で止まりました。
「三好豆腐店です。私、三好佳代っていいます」
「こちらがお店?」
「はい。家も一緒です」
予定地との距離は、地図で見る限りかなり近い。
一本細い市道を挟んだだけです。
「今でも朝は静かなんです。豆腐屋だから、こっちは四時には起きますけどね」
「四時」
「豆腐屋を甘く見ちゃ駄目ですよ」
「すみません」
何に謝ったのか自分でも分かりません。
昭和の豆腐屋さん、行政書士受験生より早起きです。
「でも、こっちが起きてるのと、バスが二十五台動くのは別でしょう?」
「それは……そうですね」
「それに、この道」
佳代さんが細い市道を叩きました。
「小学校の通学路なんです」
私は顔を上げました。
「通学路?」
「朝七時半から八時くらい、子どもがぞろぞろ歩きます。バスが出る時間とかぶるんじゃないかって」
なるほど。
音だけではない。
排気ガス。
交通。
安全。
商売。
生活。
一枚の計画図の外側に、いろいろなものがぶら下がっています。
「それで市役所へ?」
「行きました」
「何と言われました?」
佳代さんは少し黙ってから、困ったように笑いました。
「『許可申請をしているのは観光会社ですから』って」
「はい」
「『審査は会社と市の間の手続です。住民の方は申請の当事者ではありません』って」
私は、机の下でつま先を丸めました。
嫌な感じがします。
非常に嫌な感じです。
言っていることの前半だけなら、間違っていない。
申請者は観光会社です。
佳代さんではありません。
でも。
「それで?」
「私が、じゃあ意見を言う場所はないんですかって聞いたら」
佳代さんは、役所の職員の口調を真似するように言いました。
「『今のところ、住民説明会を開く決まりはありません』って」
あ。
私は頭の奥で、何かが引っかかりました。
説明会を開く決まりはない。
だから住民から意見を聴かなくていい。
それ、同じ話でしょうか。
「こはる」
背後から声がしました。
いつの間にか相馬先輩が立っています。
「お前、変な顔してるぞ」
「元からですか?」
「今日は特にだ」
「ひどい」
相馬先輩は佳代さんに向き直りました。
「役所で、どの部署と話しました?」
「商工振興課です」
「許可する部署もそこ?」
「たぶん……」
「たぶん?」
「何か、駅前整備の担当だからって」
うーん。
また役所迷路の匂いがします。
相談者を一つの窓口へ座らせている間に、実際の権限は別の課にいるやつです。
相馬先輩が紙をめくります。
「この施設、ただ土地買って建てりゃ終わりじゃない。用途もあるし、出入口もある。整備設備もある。市の独自条例にも引っかかるかもしれん」
「独自条例?」
私が聞くと、先輩は机の端に置かれた分厚い条例集を顎で指しました。
「駅北地区の大規模事業所設置条例。去年できたやつ」
「去年?」
「再整備絡みだよ」
来ました。
この町の縦軸。
駅前再整備。
観光客を呼びたい。
大型バスも入れたい。
でも土地は突然広がりません。
だから町の人の暮らしと、開発計画がじわじわ擦れ始めている。
「条例、見てもいいですか」
「見ろ」
分厚い条例集を開きます。
ページを探す。
目が滑る。
昭和の法令集、検索機能がない。
令和の受験生が失って初めて知る文明、それは全文検索です。
「ここだ」
相馬先輩が指で示しました。
一定規模以上の事業施設について、市長の設置承認を要する。
そして審査に当たっては、
周辺住民の生活環境。
道路交通への影響。
地域の安全。
その他周辺地域との調和。
そういった事情を考慮する。
「……あれ?」
私は思わず声を上げました。
「何だ」
「これ」
条例の文面をもう一度読みます。
「許可――じゃなくて設置承認を出すとき、周辺住民への影響を考えるって書いてありますよね」
「ああ」
「じゃあ、佳代さんって本当に“関係ない人”なんですか?」
相馬先輩の目が、少し細くなりました。
「続けろ」
なんで皆、こういうときだけ先生みたいになるんでしょう。
私は条例を指さしました。
「申請した人ではないです。でも、審査の中で周辺住民への影響を考えるなら、その周辺住民がどういう影響を受けるのか知らないと、考慮できなくないですか?」
佳代さんがこちらを見ました。
「そう。それです」
「え?」
「私が役所で言いたかったの、それです」
佳代さんは初めて少し声を強くしました。
「工事をやめろって言ってるんじゃないんです。バス会社を追い出せとも言ってない。ただ、朝何時に何台出るのか。子どもが歩く時間はどうするのか。エンジンかけっぱなしにするのか。そういう話を聞いて、その上で決めてほしいんです」
なるほど。
反対運動ではない。
その前です。
ただ、自分たちの暮らしを審査材料の中へ戻してほしい。
なのに役所は、
申請者ではない。
説明会を開く決まりはない。
その二つで話を閉じてしまった。
頭の中で、見覚えのある条文が浮かびました。
――行政庁は、申請に対する処分であって、申請者以外の者の利害を考慮すべきことが……
「……十条」
「何だ?」
相馬先輩が聞きました。
「いえ!」
危ない。
まだありません。
行政手続法。
平成五年制定。
平成六年施行。
今は昭和六十三年。
私は未来の条文を口走るところでした。
タイムスリップ受験生、条文の施行時期で自爆しかける。
シャレになりません。
「何でもないです」
「怪しいな」
「受験生特有の独り言です」
「便利な病気だな」
でも。
未来の私は知っています。
後になって法律は、まさにこういう場面に言葉を与える。
申請者以外の者の利害を考慮すべき許認可なら。
必要に応じて、公聴会などの方法で、その人たちの意見を聴く機会を設けるよう努める。
公聴会。
意見聴取。
努力義務。
あの眠かった条文が、今、目の前の豆腐屋さんの顔をしています。
でも私は、それを使えません。
まだ存在しない法律は、さすがに所長でも提出できません。
「所長」
相馬先輩が奥へ声をかけました。
片桐所長が帳簿から顔を上げます。
「何だ」
「市役所行ってきます」
「論点は」
相馬先輩が私を見る。
なぜ私。
「えっと」
私は姿勢を正しました。
「申請者じゃない住民だから意見を聞かなくていい、という話なのか」
「うん」
「それとも、承認要件として周辺住民の生活や安全への影響を考えなきゃいけない以上、必要な事情を把握する方法として住民の話を聞くべき場合があるのか」
所長が短く頷きました。
「行ってこい」
それだけ。
昭和の行政書士事務所、出撃命令が簡潔です。
市役所の商工振興課では、見慣れた顔が書類に埋もれていました。
倉田係長。
以前、別の件で「課内の申し合わせ」を法律のように掲示して、私たちに突っ込まれた人です。
こちらを見るなり、顔が曇りました。
「……また片桐さんですか」
「またって言われました」
「最近、あなた方が来ると嫌な予感がするんですよ」
「光栄です」
「褒めてません」
でも完全に追い返さないあたり、少しずつ関係ができている。
相馬先輩が計画書を机に置きました。
「駅北の観光バス整備センター」
「ああ」
「三好さんから相談受けてる」
倉田係長の顔が少し固くなりました。
「住民の方には、まだ正式に説明する段階では――」
「その前に確認」
相馬先輩が切りました。
「設置承認の審査、どこがやってる?」
「最終的には市長決裁です。事務はうちと都市整備課、それから道路管理課などで協議しています」
「条例の審査項目に、周辺住民の生活環境と道路交通への影響があるな?」
「あります」
「その資料は?」
「事業者から提出させています」
私は思わず口を挟みました。
「事業者から?」
「ええ」
「周辺住民への影響について、事業者が出した資料だけで見るんですか?」
倉田係長が眉を上げました。
「基本的にはそうです。必要ならこちらで確認します」
「確認って、現地を見るとか?」
「そうですね」
「住んでいる人には?」
「……今のところ、個別に意見聴取する手続は定めていません」
出ました。
手続が定められていない。
だからしない。
でも、それは本当に同じでしょうか。
「係長」
「何です」
「説明会を必ず開かなきゃいけないって規定は、ないんですよね」
「ありません」
「公聴会を必ず開け、という規定も?」
「ありません」
「でも」
私は条例集のコピーを置きました。
「周辺住民への影響を考える、とは書いてあります」
「それは審査基準です」
「だったら、なおさらじゃないですか?」
倉田係長が黙りました。
私は続けます。
「たとえば事業者が、『朝の交通量に問題ありません』って書いたとします」
「はい」
「でも実際には七時半から小学生がたくさん通る」
「……」
「事業者の資料にそれが書いてなかったら、市はどうやって気づくんですか」
「道路管理課から情報を――」
「じゃあ騒音は?」
「……」
「排気ガスは?」
「それは環境担当と」
「早朝にエンジンをかけたとき、住宅側ではどれくらい聞こえるのかは?」
倉田係長が少し苛立った顔をしました。
「朝比奈さん」
「はい」
「全部、住民に聞かなければ審査できないと言うんですか?」
「言ってません」
ここは大事です。
私は首を振りました。
「全件で説明会を開けとも、全住民から聴取しろとも言ってません」
未来の条文が、頭の中で静かに光ります。
必要に応じ。
公聴会の開催その他の適当な方法により。
意見を聴く機会を設けるよう努める。
そう。
絶対ではない。
でも、ゼロでもない。
「じゃあ何を言ってるんです?」
倉田係長が聞きました。
「審査する内容の中に、申請者以外の人の生活への影響が入っているなら」
私は言いました。
「その人たちは、“申請者じゃないから関係ない”では切れないんじゃないですか」
空気が止まりました。
相馬先輩が、口元だけで少し笑います。
よし。
たぶん論点は外していません。
「住民に意見を言わせろ、ってことか」
倉田係長。
「必要なら、です」
「必要かどうか、誰が決めるんです」
「審査する側でしょう」
「だったら、市が必要ないと判断すれば終わりじゃないですか」
おお。
返してきた。
この係長、最近ちゃんと反撃するようになっています。
私は一瞬詰まりました。
そのとき。
「その判断の前提は何だ」
片桐所長の声がしました。
「所長?」
振り返ると、いつの間にか入口に立っています。
来てたんですか。
こういう登場をされると、少しだけ時代劇の家老みたいです。
倉田係長が立ち上がりました。
「片桐さん」
「倉田さん。住民の意見を聞く必要がないと判断する。その判断自体はあり得る」
「でしょう」
「だが、聞く必要があるかどうかを、申請者が出した資料だけで判断するのか」
倉田係長の口が止まりました。
所長は続けます。
「この条例は、業者の経営能力だけを見るためのものじゃない。周辺地域への影響を審査するための規定も置いている」
「はい」
「なら、審査する側は必要な事実を集めるべきだ」
「……」
「公聴会でなければならないとは言わん」
所長は机の計画図を指しました。
「自治会長から事情を聞く。学校へ通学時間を確認する。近隣店舗から早朝営業への影響を聞く。方法はいくらでもある」
あ。
それです。
私は頭の中で未来の条文と重ねました。
公聴会の開催「等」。
公聴会だけが答えではない。
適当な方法でいい。
大事なのは、利害を考慮すると言いながら、その利害を持つ人間の存在を消さないこと。
倉田係長が椅子に座り直しました。
「しかし、そんなことを始めると、反対意見ばかり集まりますよ」
相馬先輩が鼻で笑いました。
「意見聞いたら反対されるから聞かないって、それ審査か?」
「そういう意味じゃないですよ」
「じゃあどういう意味だ」
「行政は、全部の不満を拾えないってことです」
「それはそうだ」
相馬先輩はあっさり認めました。
「だから全部拾えなんて言ってない」
「……」
「考慮すべき利害があるなら、それを知るための最低限の耳くらい作れって話だ」
倉田係長は腕を組みました。
悪人ではありません。
むしろ、困っている顔でした。
「駅前再整備を進めろって上から言われる。観光バスの受入れも急げと言われる。事業者には早く結論を出してくれと言われる」
「住民からは?」
私が聞きました。
「今みたいに、話を聞いてくれと言われる」
「大変ですね」
「他人事みたいに言わないでください」
「すみません」
本当に大変だと思います。
でも。
だからこそ、手続が必要なのかもしれません。
声の大きい人にだけ説明する。
役所へ来た人だけ聞く。
忙しいから全部切る。
それでは、担当者の体力がそのまま公平さになります。
所長が静かに言いました。
「倉田さん」
「はい」
「話を聞くことは、反対意見に従うことじゃない」
倉田係長が顔を上げました。
「聞いた結果、承認することもある。条件を付けることもある。計画を修正させることもある」
「……はい」
「聞くことと、決めることを混ぜるな」
短い。
でも、きれいに刺さりました。
住民の意見を聞いたら、その住民に拒否権を与える。
そうではない。
聞く。
材料にする。
そのうえで行政庁が決める。
別々の話です。
倉田係長は、しばらく黙って計画書を見ていました。
やがて内線電話を取りました。
「都市整備課?」
少し間。
「駅北のバス整備センターの件。承認前に近隣の状況をもう少し拾いたい」
私は相馬先輩と顔を見合わせました。
『説明会ですか?』
電話の向こうの声が、かすかに聞こえます。
「いや、そこまではまだ決めない。自治会と小学校、それから近隣事業者。必要なら事業者同席で話を聞く場を作る」
そこで倉田係長は、こちらを一度見ました。
「公聴会なんて大げさなものじゃありませんよ」
「誰も大げさにしろとは言ってません」
私が答えると、係長はため息をつきました。
「あなた、妙に嬉しそうですね」
「気のせいです」
未来の法律が、まだ生まれていない町で芽を出したような気がしただけです。
もちろん言えません。
その日の夕方。
三好佳代さんが、もう一度事務所へ来ました。
「市役所から電話がありました」
「早いですね」
「来週、話を聞かせてほしいって」
佳代さんは、まだ不安そうでした。
「これで建設、中止になるんですか?」
「いえ」
私は答えました。
そこは曖昧にしてはいけません。
「話を聞くことと、中止することは別です」
「そうですよね」
「市が承認する可能性もあります」
「……はい」
「でも、そのときに」
私は地図を広げました。
「朝の運行時間を調整するとか」
「ええ」
「通学時間帯だけ出入口を変えるとか」
「そんなことも?」
「事業者と市が必要だと判断すれば、計画を工夫する余地はあります」
相馬先輩が横から言いました。
「アイドリングの場所変えるとか、遮音壁つけるとか、やりようはあるだろ」
「じゃあ、反対するだけじゃないんですね」
佳代さんが言いました。
「たぶん」
私は頷きました。
「反対か賛成かの二択にする前に、“何が困るのか”を具体的に伝えた方がいいと思います」
「何が困るのか」
「はい」
佳代さんは少し考えました。
「子どもの通学」
「はい」
「朝のバスの音」
「はい」
「排気ガス」
「はい」
「店の前にバスが並ぶのは困る」
「それも」
「あと」
佳代さんは急に真顔になりました。
「豆腐は朝が早いから、運転手さんが腹減るでしょう」
「……はい?」
「売れますかね」
相馬先輩が吹き出しました。
「商売人だな、あんた」
「建つなら建つで、こっちも考えないと」
強い。
生活者というのは、行政法のテキストよりずっとしぶとい。
そのとき、佳代さんが買い物籠から白い包みを出しました。
「これ、持ってきました」
「何ですか?」
「がんもどき」
「おお」
相馬先輩の反応が早い。
「先輩、まだ開けちゃ駄目です」
「何でだ」
「相談中です」
「冷める」
「元から冷たいですよ、たぶん」
「がんもは温めても美味い」
「論点をずらさないでください」
佳代さんが声を上げて笑いました。
最初に来たときより、ずっといい顔です。
建設計画は消えていない。
承認されるかどうかも分からない。
佳代さんの希望が全部通る保証もない。
でも。
昨日まで彼女は、
申請者ではない。
だから関係ない。
という一言で、審査の外へ出されていました。
今は違う。
申請者ではない。
でも、その許可を決めるときに考えなければならない利害を持っている。
だから、少なくともその存在は、審査の中にいる。
この違いは大きい。
「こはる」
片桐所長が言いました。
「はい」
「今日、何が分かった」
また始まりました。
事務所名物、抜き打ち口頭試問。
私は少し考えます。
「申請手続だからって、見る相手が申請者だけとは限らない」
「うん」
「許可の要件の中に、周りの人への影響が入っているなら、その人たちの事情も審査材料になる」
「それから?」
「……意見を聞くことと、その意見どおりに決めることは別」
所長が頷きました。
「それでいい」
相馬先輩が、もうがんもどきの包みに手をかけています。
「先輩」
「何だ」
「まだ今日の話、終わってません」
「終わっただろ」
「私の中では今、ものすごく大事なところなんです」
「俺の中では今、がんもが大事だ」
「利害対立が発生してます」
「じゃあ意見を聞いてやる。何だ」
「私にも一個残してください」
「却下」
「聞いただけ!」
「意見聴取と決定は別だからな」
「今日の学習を悪用しないでください!」
佳代さんがまた笑いました。
所長まで、ほんの少し口元を緩めています。
私は自分の机に戻りました。
外では夕方の商店街を、自転車に乗った小学生が走っていきます。
来週、市役所はあの子たちの通学時間も確認するでしょう。
観光バス会社は、朝の運行計画を説明することになる。
三好豆腐店の前でどんな音がするのか。
道路は本当に大型車と子どもがすれ違えるのか。
役所の書類だけでは見えなかったことが、少しずつ審査の机に載っていく。
私はノートを開きました。
書きかけて、手を止めます。
頭の中には、未来の条文がありました。
行政手続法第十条。
申請者以外の者の利害を考慮すべきことが許認可等の要件とされている場合。
必要に応じて。
公聴会の開催その他の適当な方法により。
申請者以外の者の意見を聴く機会を設けるよう努めなければならない。
でも。
今は昭和六十三年です。
そんな法律は、まだありません。
それなのに今日、私たちは同じ場所へたどり着きました。
周辺住民の利害を考えろと制度が言うなら。
その利害がどんなものなのか、知ろうとしなければ審査にならない。
意見を聞く方法は、一つではない。
大きな公聴会でなくてもいい。
自治会から聞く。
学校から聞く。
近隣の店から聞く。
必要な人に、必要な範囲で耳を作る。
そして。
聞くことは、従うことではない。
行政は最後に決める。
でも、決める前に外の声へ耳を向けることには意味がある。
未来では。
これに、ちゃんと条文番号が付く。
「……法律って」
私は小さく呟きました。
「何だ」
相馬先輩ががんもを食べながら聞きます。
「後から名前がつくこともあるんですね」
「何の話だ」
「独り言です」
「最近多いな」
そりゃそうでしょう。
未来から来た受験生なんですから。
私はノートの一番上に、
――申請者以外の人の意見。
とだけ書きました。
詳しい整理は、もう少し後でいい。
今日はまだ、教科書の言葉にしてしまうのが惜しい気がしました。
佳代さんが最初に言った、
話くらい聞いてほしいんです。
その一言の方が、今はずっと分かりやすい。
行政は、申請書だけを見て仕事をしているわけではありません。
その一枚の向こうには、人がいる。
申請する人。
許可を待つ人。
その隣で暮らす人。
影響を受ける人。
そして法律が、
その人たちの利害も考えて決めなさい、
と求めることがあります。
そんなとき。
「あなたは申請者じゃありません」
という一言だけで、外へ押し出してしまっていいわけではない。
もちろん。
誰でも何でも口を挟めるわけではありません。
意見を聞けば、必ずそのとおりになるわけでもない。
公聴会だって、いつも開かなければならないわけではない。
だから難しい。
でも、その曖昧さを理由に、
最初から耳を塞ぐのは違う。
条文は冷たい。
でも。
冷たいからこそ、
「この人の話は面倒だから聞かなくていい」
という空気にも、
「この人の利害は審査に入っていますよ」
と線を引くことができる。
私はノートの端に、小さく書きました。
申請者じゃない。
だから無関係。
――ではない。
「こはる」
「はい?」
「がんも、あと一個」
相馬先輩が皿を指しました。
「じゃんけんします?」
「俺が先輩だ」
「それ、何の考慮要素ですか」
「職場秩序」
「内部ルールを外部的効力みたいに使わないでください」
「じゃあ所長に決めてもらうか」
片桐所長が新聞から目も上げずに言いました。
「こはる」
「はい!」
「よし!」
私は皿へ手を伸ばします。
相馬先輩が目をむきました。
「所長、理由は?」
「昨日、相馬が団子を二本食った」
「それ関係あります?」
「公平を図った」
「行政庁みたいな顔して食い物配分しないでください!」
私は笑いながら、最後のがんもどきを取りました。
少なくとも、この事務所では。
意見を聞いたうえで決めてもらえるだけ、市役所より少し先を走っているようです。
たぶん。
ほんの少しだけ。
以下に私の作品へのリンク貼ってます。是非、手に取って頂ければと思います。また、ついでに評価ブックマーク頂ければ幸いです。




