[連帯保証]現場編 「借りた本人から先に取り立てろ」の罠。逃げ場のない連帯保証と、六百万円の請求を消し去った二枚の領収書
お金を借りた人より、貸してもいない人のほうが、先に財産を失うことがあります。
そんな理不尽な話があるのでしょうか。
あります。
しかも。
契約書に、たった四文字が書かれているだけで。
――連帯保証。
この四文字は、恐ろしい。
借金をした本人に財産があっても。
本人が逃げていなくても。
本人に一円も請求していなくても。
債権者は、連帯保証人に直接、全額を請求できるのです。
ただし。
連帯保証人だからといって、何でも支払わなければならないわけではありません。
昭和六十三年。
片桐行政書士事務所。
その日、私は六百万円の借金をめぐって、民法の恐ろしさと優しさを、同時に知ることになります。
そして。
たった二枚の領収書が、強欲な金融業者の顔色を真っ青に変えたのです。
◇
「家を売れと言われたんです」
朝九時。
事務所を訪れた女性は、震える手で一通の封筒を差し出しました。
名前は、佐伯澄江さん。
五十八歳。
夫を亡くして十年。
駅から少し離れた商店街で、小さな洋裁店を営んでいます。
「私が借りたお金じゃないんです。それなのに……」
私は封筒を開きました。
差出人。
東海商事金融株式会社。
表題。
――連帯保証債務履行請求通知書。
請求金額。
六百万円。
「ろ、六百万円!?」
思わず声が裏返りました。
澄江さんはうつむきました。
「甥が借りたお金なんです」
「甥御さん?」
「はい。佐伯和夫といいます。三十二歳で、町工場をやっていて……」
話を聞くと、こうでした。
三年前。
甥の和夫さんは、工場の設備資金として東海商事から六百万円を借りた。
その際、澄江さんに保証人になってほしいと頼んだ。
「親を早くに亡くした子でしてね」
澄江さんは小さく笑いました。
「私が母親代わりみたいなものでした」
和夫さんは頭を下げたそうです。
――おばさん、絶対に迷惑はかけない。
――工場が軌道に乗れば、すぐ返す。
澄江さんは断れなかった。
そして契約書に署名押印した。
「でも、和夫は逃げていません」
「え?」
「工場も続けています。機械だって、土地だってあります。お金も少しずつ返しているはずなんです」
私は首をかしげました。
「じゃあ、どうして澄江さんに六百万円も?」
「東海商事の社長が言うんです」
澄江さんは唇を噛みました。
「和夫から取り立てるより、私の家を売らせたほうが早いって」
……。
私は一瞬、言葉を失いました。
そんな理由で?
「家は、主人が残してくれたものなんです」
澄江さんの目が潤みます。
「あの家を売ったら、洋裁店も続けられません」
小さな家。
一階が洋裁店。
二階が住居。
夫婦で何十年も守ってきた場所。
それを。
自分が借りてもいない六百万円のために、売れというのです。
「大丈夫です!」
私は立ち上がりました。
「保証人には、催告の抗弁権と検索の抗弁権があります!」
澄江さんが顔を上げます。
「……何ですか、それは?」
「まず本人に請求してください、と言える権利です!」
そう。
民法四百五十二条。
催告の抗弁権。
そして四百五十三条。
検索の抗弁権。
「和夫さんに財産があって、そこから容易に取り立てられるなら、まず本人の財産から回収するよう求めることもできます!」
よし。
民法。
今回は完璧です。
私は胸を張りました。
「連帯保証の契約書さえ確認すれば――」
「こはる」
相馬先輩の声がしました。
「はい?」
「今、何て言った?」
「催告の抗弁権と検索の抗弁権です!」
「その前だ」
「連帯保証の契約書を……」
「そこだ」
先輩が机を指で叩きました。
「お前、今の話、普通保証と連帯保証を混同してねえか?」
「……え?」
私は固まりました。
相馬先輩は澄江さんに尋ねました。
「保証契約書はお持ちですか」
「はい」
茶色い封筒から、一枚の契約書が出てきました。
先輩はそこを指差しました。
――連帯保証人 佐伯澄江。
「読め」
「……連帯保証人」
「もう一度」
「連帯保証人」
「じゃあ、民法四百五十四条を開け」
嫌な予感がしました。
私は六法を開きます。
民法四百五十四条。
連帯保証の場合の特則。
そこには。
保証人が主たる債務者と連帯して債務を負担したときは、前二条の権利を有しない。
……。
「ない?」
「ああ」
「催告の抗弁権が?」
「ない」
「検索の抗弁権も?」
「ない」
「……両方?」
「両方だ」
私は椅子に崩れ落ちました。
「そんなあああ!」
相馬先輩がため息をつきます。
「何を勉強してきたんだ、お前は」
「勉強しました! だから普通保証と連帯保証の違いも知っていたはずなんです!」
「なら、最初から区別しろ」
「はい……」
澄江さんが青ざめました。
「じゃあ、和夫にお金があっても?」
「はい」
相馬先輩が答えます。
「連帯保証人である以上、債権者は、原則として和夫さんへの取立てを先にする必要がありません」
「工場を持っていても?」
「そうです」
「機械があっても?」
「そうです」
「じゃあ……」
澄江さんの声が震えました。
「私は、家を売らなければならないんですか?」
相馬先輩は即答しませんでした。
片桐所長が、静かに口を開きます。
「まだ、そう決まったわけではありません」
「……え?」
「請求できることと、請求した金額が正しいことは、別です」
私は顔を上げました。
所長は続けます。
「まず、六百万円という数字を確かめましょう」
◇
その日の午後。
私と相馬先輩は、東海商事の事務所を訪れました。
駅前通りにある、立派な鉄筋コンクリートの建物。
入口には磨かれた真鍮の看板。
応接室に通された私たちの前に、でっぷり太った男が現れました。
「何だ、行政書士か」
東海商事社長。
黒田源一。
五十二歳。
金色の腕時計をちらつかせながら、革張りの椅子に腰を下ろしました。
「佐伯澄江さんの件か?」
相馬先輩が答えます。
「ご本人の書類作成に必要な事実関係を確認したく、お伺いしました」
「弁護士じゃねえんだろ?」
「そうですが」
黒田は鼻で笑いました。
「だったら何もできねえじゃねえか」
……出ました。
この台詞。
悪役が自分で敗北フラグを立てるの、本当に好きですね。
「六百万円。連帯保証人なんだから、払ってもらう。それだけの話だ」
黒田は契約書の写しを机に置きました。
「ちゃんと署名もある。実印も押してある。文句あるか?」
「主たる債務者の返済状況を確認できますか」
相馬先輩が尋ねます。
「何でだ?」
「請求額の根拠を確認するためです」
「六百万借りたんだから、六百万だろ」
……。
私は思わず口を開きました。
「返済していれば、その分は減るんじゃないですか?」
黒田が私を睨みます。
「小娘が口を挟むな」
むっ。
「保証人が六百万と書いたんだ。六百万を払うんだよ」
「でも、主たる債務が減っているなら――」
「うるせえ!」
黒田は机を叩きました。
「連帯保証人には催告の抗弁権も検索の抗弁権もない! 民法四百五十四条だ!」
……。
あ。
この男。
意外と法律を知っています。
しかも正しいことを言っている。
「先に甥から取れなんて言い訳は通用しねえ!」
黒田は勝ち誇りました。
「裁判になったって同じだ!」
悔しい。
そこは正しい。
連帯保証には補充性がない。
主たる債務者に資力があろうと、連帯保証人は債権者から直接請求を受ける。
それ自体は否定できません。
でも。
だから六百万円をそのまま支払え?
そんなはずはありません。
「黒田社長」
相馬先輩が言いました。
「和夫さんがこれまでに支払った金額を記録した台帳はございますか」
「……さあな」
「お答えいただけないということですね」
「貸付金があることは契約書で証明できる」
黒田はにやりと笑いました。
「それが嫌なら裁判でも何でもしろ」
またそれですか。
でも。
先輩は言い返しませんでした。
「分かりました。ご説明ありがとうございます」
「何だ、もう帰るのか?」
「はい」
「保証人に伝えとけ。来週までに六百万持ってこいってな」
私たちは席を立ちました。
店を出たところで、私は我慢できなくなりました。
「先輩!」
「何だ」
「ひどいですよ、あの社長!」
「そうだな」
「連帯保証人には抗弁権がないって、そこだけ知ってるんですよ!」
「知識の使い方が悪党なんだよ」
「だったら何で言い返さなかったんですか!」
相馬先輩は立ち止まりました。
「こはる」
「はい」
「俺たちは弁護士じゃねえ」
「……はい」
「依頼人の代理人として、相手と借金の減額交渉や示談交渉をするわけにはいかねえ」
「それは分かっています」
「だから、必要な事実だけ確認する」
先輩は煙草を取り出しました。
「相手が出さない記録は、こっちで探す」
「どうやって?」
「本人に聞くんだよ」
「……本人?」
「借りた本人だ」
なるほど。
佐伯和夫さん。
主たる債務者です。
「こはる」
「はい」
「連帯保証人に催告の抗弁権がないからって、主たる債務者が払った金まで、もう一度払わなきゃならねえと思うか?」
「……いいえ!」
「そうだろ」
先輩は口元を上げました。
「なら、勝負はこれからだ」
◇
翌朝。
佐伯和夫さんが事務所にやってきました。
三十二歳。
油の染みた作業着姿。
目の下には濃い隈があります。
「おばさんに迷惑をかけて、本当にすみません」
和夫さんは深く頭を下げました。
「東海商事から六百万円借りたのは事実です。でも……」
「でも?」
「もう四百万円、返しています」
私は顔を上げました。
「四百万円!?」
「はい」
和夫さんは鞄から分厚い封筒を取り出しました。
中には古い銀行振込の控え。
それから東海商事の領収書。
「三年前に六百万円借りました。契約で決めた利息も含め、支払期限が来た分をずっと払ってきたんです」
相馬先輩が尋ねます。
「この四百万円は、元金に充当されたものですか」
「はい。利息は別に支払っています」
「元金残額は?」
「二百万円です」
私は書類を確認しました。
元金六百万円。
返済済み元金四百万円。
元金残額二百万円。
元金残額と利息などの扱いは分けて調べる必要がありますが、少なくとも元金六百万円が丸ごと残っているわけではありません。
「じゃあ、東海商事の請求は……!」
「おかしい」
相馬先輩が言いました。
「ただし、まだ終わりじゃねえ」
「え?」
「元金二百万も残っているだろ」
「あ……」
そうでした。
連帯保証人は、その残債務について直接請求され得る。
四百万円返した。
だから全部解決。
そうはいきません。
ところが。
和夫さんが、さらに意外なことを言いました。
「実は、東海商事には、まだ僕に払っていないお金があるんです」
「……え?」
「ちょうど二百万円」
私は固まりました。
二百万円。
残っている借金と、同じ金額です。
「どういうことですか?」
「去年、うちの工場で、東海商事の倉庫用に特注の金属棚を製作したんです」
和夫さんは別の封筒を取り出しました。
納品書。
請求書。
注文書。
そして。
東海商事の社印が押された検収書。
「代金二百万円。納品も終わっています。支払期日も過ぎました。でも黒田社長が払わないんです」
私は書類を見ました。
すべて、揃っています。
注文書に品目と価格。
納品書に受領印。
検収書に社印。
請求書に支払期日。
和夫さんは続けました。
「黒田社長には、何度も支払ってくださいと言いました」
「何と?」
「今は資金繰りが苦しい。待ってくれ、と」
……。
私は息を吸いました。
待って。
ちょっと待って。
和夫さんは東海商事に二百万円の借金を負っている。
一方。
東海商事も和夫さんに二百万円の代金債務を負っている。
互いに。
同じ金額の金銭債務を負っている。
しかも、双方とも弁済期が到来している。
これは。
「先輩!」
「気づいたか」
「相殺です!」
私は叫びました。
「民法五百五条!」
相殺。
互いに同種の債務を負っている場合、一定の要件を満たせば、対当額で債務を消滅させる制度。
和夫さんが東海商事に負う残債務二百万円。
東海商事が和夫さんに負う売買代金債務二百万円。
これを相殺すれば。
残額は。
「ゼロです!」
相馬先輩が頷きました。
「そういうことだ」
私は拳を握りました。
やった。
これです。
民法の反撃。
ところが。
片桐所長が、静かに言いました。
「こはる」
「はい!」
「その相殺をするのは、誰だ」
「え?」
「債権を持っているのは誰だ」
私は和夫さんを見ました。
「……和夫さんです」
「そうだ」
「では、和夫さん本人が相殺の意思表示をする必要がありますね」
「うん」
相馬先輩が補足します。
「内容証明は、こちらで作成できる。だが、意思表示をするのは本人だ」
「はい!」
私は書類を引き寄せました。
でも。
ここで、もう一つ疑問が生まれました。
「所長」
「何だ」
「和夫さんが相殺すれば、澄江さんの連帯保証債務も消えるんですか?」
所長が頷きました。
「主たる債務が消えれば、それを担保する保証債務も、その範囲で消える」
「普通保証でも、連帯保証でも?」
「そうだ」
……なるほど。
保証人だからといって、主たる債務より大きな責任を無制限に負うわけではない。
連帯保証には、催告と検索の抗弁権がない。
でも。
主たる債務が消えたのに、保証人だけに借金が残る。
そんなことにはならない。
「連帯保証って……」
私は呟きました。
「厳しいけど、ちゃんと限界があるんですね」
所長は短く答えました。
「ああ」
◇
その日の午後。
私は内容証明郵便の原案を書き始めました。
宛先。
東海商事金融株式会社。
代表取締役 黒田源一。
差出人。
佐伯和夫。
表題。
――相殺通知書。
私は一気に書きました。
――通知人は、貴社に対して有する売買代金債権二百万円をもって、貴社に対して負担する借入金残債務二百万円と相殺する。
相馬先輩が覗き込みます。
「待て」
「はい?」
「いきなり結論から入るな」
「ええっ!」
「元の債務と、返済と、相手の債務を特定しろ」
「……はい」
赤鉛筆。
出ました。
恐怖の添削です。
「まず、金銭消費貸借契約の日付と金額」
「はい」
「次に、返済済み元金四百万円の内訳」
「はい」
「その次が、売買代金債権二百万円の発生原因と支払期日」
「はい」
「最後に、相殺の意思表示だ」
私は必死に書き直しました。
契約日。
借入金額。
返済日。
領収書番号。
納品年月日。
売買代金。
支払期日。
どれも、証拠資料と一致させます。
相馬先輩が言いました。
「こはる」
「はい」
「書面ってのはな、相手に『そんな話は知らない』と言わせないために作るんだ」
「……はい」
「法律を知らない奴でも、日付とハンコは読める」
「なるほど」
「それから、六百万円全額について相殺したような書き方をするな」
「はい!」
そうです。
四百万円は、既に弁済によって消えている。
残り二百万円を、相殺によって消す。
消滅原因が違う。
そこを混ぜてはいけないのです。
片桐所長が書面を読みました。
しばらく沈黙。
そして。
「よし」
……!
所長の「よし」。
これほど嬉しい二文字はありません。
「ただし、もう一通」
「え?」
「澄江さんの通知書も作る」
「連帯保証人の?」
「そうだ」
所長は別の用紙を取り出しました。
「主たる債務者の返済と相殺によって、保証の対象となる債務が消滅する。その関係を、保証人本人からも書面で明らかにしておく」
私は頷きました。
書面は二通。
和夫さんの相殺通知書。
澄江さんの連帯保証債務に関する通知書。
さらに。
四百万円の返済を証明する領収書と振込控え。
二百万円の売買代金債権を証明する注文書、納品書、検収書。
これらを整理した事実確認資料。
完璧に揃えます。
「しかし……」
私はふと手を止めました。
「どうしました?」
澄江さんが尋ねます。
「相殺が成立する前に、黒田社長が『連帯保証人に請求した』と言い張ったら、どうなるんでしょう?」
相馬先輩が笑いました。
「それで債務が増えるわけじゃねえよ」
「ですよね」
「ただし」
「はい」
「連帯保証人に対する請求が、ほかにどんな効力を持つかは、別問題だ」
先輩は六法を開きました。
民法四百五十八条。
「昭和六十三年の条文を見ろ」
私は読みました。
連帯債務に関する第四百三十四条から第四百四十条までの準用。
……。
私は眉をひそめました。
「あれ?」
「どうした」
「現代の四百五十八条と、準用している条文が違います」
「現代?」
「あっ!」
しまった。
またです。
現代の改正民法では、連帯債務の絶対効と相対効の整理が変わっています。
連帯保証人に対する請求についても、昭和の民法と現代の民法では扱いに違いがある。
「こはる」
先輩が睨みました。
「はい……」
「今、何年だ?」
「昭和六十三年です」
「なら、この六法を使え」
「はい!」
危ない。
危ない。
民法は、用語が同じでも、改正前後で効力が違うことがあります。
しかも。
連帯保証は、単なる連帯債務とも違う。
保証としての附従性がある。
主たる債務者に生じた事由と、連帯保証人に生じた事由を、同じように扱ってはいけない。
……ああ。
頭が痛い。
「先輩」
「何だ」
「民法って、時代をまたぐと急に難しくなりますね」
「お前が勝手に時代をまたいでるだけだろ」
ごもっともです。
◇
二通の内容証明郵便が発送されたのは、翌朝でした。
和夫さんは自分の名義で相殺の意思表示をしました。
澄江さんも、自分の名義で連帯保証債務の消滅を通知しました。
それぞれが内容を確認し、署名押印した書面です。
私たちが作成を手伝ったものですが、意思表示の主体は、あくまで本人たちです。
そして。
三日後。
東海商事の社長室で、黒田源一は二通の内容証明を読んでいました。
「……何だ、これは」
最初に読んだのは、和夫さんの相殺通知書。
六百万円の貸付け。
元金四百万円の弁済。
残元金二百万円。
そして。
東海商事が和夫さんに負っていた二百万円の売買代金債務。
黒田は顔をしかめました。
「相殺だと……?」
その視線が、添付資料の控えに移ります。
注文書。
納品書。
検収書。
そして。
自社の社印。
「……ちっ」
黒田は舌打ちしました。
そうです。
自分で注文して。
品物を受け取って。
検収まで済ませて。
代金を踏み倒していた。
それが、今になって自分の請求を消す材料になったのです。
さらに。
澄江さんの通知書。
そこには、淡々とこう記されていました。
――本件借入金元金六百万円のうち、四百万円は既に弁済済みである。
――残元金二百万円については、主たる債務者による相殺の意思表示がなされている。
――従って、上記各債務消滅の事実を前提として、通知人に対する連帯保証債務の履行請求には応じられない。
――なお、貴社の請求に異議がある場合には、その根拠及び計算書を書面にて明示されたい。
そして、最後。
――なお、本件につき紛争が継続する場合には、弁護士への相談のうえ、債務不存在確認請求その他の適切な法的手段を検討する。
黒田の顔から、血の気が引きました。
「馬鹿な……」
借金六百万円。
その全額を、連帯保証人に請求する。
連帯保証人には催告の抗弁権も検索の抗弁権もない。
だから簡単に取り立てられる。
そのはずだった。
ところが。
既に四百万円は返済されていた。
残り二百万円は、自分が支払っていなかった代金債務との相殺によって消されていた。
このまま訴訟を起こせば。
返済を示す領収書。
相殺の根拠となる売買契約書。
検収書。
そして内容証明。
それらすべてが証拠として提出される。
借金が残っていると主張する側として、その計算と根拠を説明しなければならない。
しかも。
自分が支払うべき二百万円を放置していたことまで明らかになる。
「……くそっ!」
黒田は机を叩きました。
しかし。
いくら机を叩いても。
支払済みの四百万円が復活するわけではありません。
相殺によって消滅した二百万円が、戻ってくるわけでもありません。
法律は、声の大きさでは変わらないのです。
◇
翌日。
事務所の電話が鳴りました。
「片桐行政書士事務所です」
私が受話器を取ります。
『……東海商事の黒田だ』
あ。
来ました。
黒田社長です。
『片桐所長はいるか』
「少々お待ちください」
私は所長に受話器を渡しました。
「片桐です」
『……書類を確認した』
「はい」
『うちの経理にも調べさせた』
「はい」
『四百万円の返済は、確かに記録があった』
私は思わず拳を握りました。
よし。
『それから……二百万円の売買代金も、未払いだった』
「そうですか」
『相殺通知も受け取った』
黒田の声は、以前のように大きくありません。
『……六百万円の請求は撤回する』
私は思わず顔を上げました。
所長は落ち着いた声で言いました。
「その旨は、ご本人宛ての書面で通知していただくのがよろしいと思います」
『分かった』
黒田が沈黙しました。
それから。
『連帯保証人の家に手を出すつもりも、もうない』
所長が答えます。
「承知しました」
電話が切れました。
「所長!」
「何だ」
「撤回するって!」
「ああ」
「六百万円の請求、全部!」
「そうだな」
私は飛び上がりそうになりました。
「やりましたね!」
相馬先輩が煙草を消しました。
「まだだ」
「え?」
「書面が届くまでは終わりじゃねえ」
あ。
またそれですか。
でも。
確かにそうです。
電話で撤回すると言っただけ。
それでは、あとから別の担当者が同じ請求をしてくる可能性もあります。
「世の中、声がでかい奴じゃなくて……」
相馬先輩が言いかけました。
「書面にハンコを押させた奴が勝つ!」
私は先回りして叫びました。
「分かってるじゃねえか」
「毎回聞いてますから!」
先輩は笑いました。
◇
一週間後。
東海商事から、正式な確認書が届きました。
社名。
代表取締役名。
社印。
そして。
――本件金銭消費貸借契約に基づく元金六百万円については、既払金四百万円及び相殺額二百万円により、全額消滅したことを確認する。
――本件貸付けに係る利息その他の付随債務についても、未払残額のないことを確認する。
――佐伯澄江に対する本件連帯保証債務履行請求を撤回し、今後、本件に関する金銭請求を行わない。
相馬先輩が確認書を机に置きました。
「これで一段落だ」
「はい!」
私は嬉しくなりました。
でも、ふと気づきました。
「先輩」
「何だ」
「最初に黒田社長が言っていたこと、間違いじゃなかったんですよね」
「ああ」
「連帯保証人に催告の抗弁権がない」
「そうだ」
「検索の抗弁権もない」
「そうだ」
「だから、主たる債務者より先に請求すること自体はできる」
「そのとおり」
私は確認書を見つめました。
「でも、それと六百万円全額が残っているかどうかは、別の問題」
「そういうことだ」
先輩は頷きました。
「悪党はな、正しい法律を一つだけ持ち出して、残りの事実を隠すことがある」
「……なるほど」
「だから一つの条文だけ見て、全部分かった気になるな」
片桐所長が口を開きました。
「連帯保証人に補充性はない」
「はい」
「だが、保証債務には主たる債務に従う性質がある」
「附従性ですね」
「そうだ」
「主たる債務が弁済や相殺で消えれば、その範囲で保証債務も消える」
所長は頷きました。
「それを忘れるな」
私はノートを開きました。
連帯保証。
怖い制度です。
でも。
怖いからこそ、正確に理解しなければいけない。
◇
夕方。
澄江さんと和夫さんが、二人で事務所を訪れました。
「ありがとうございました」
澄江さんは深く頭を下げました。
「主人が残してくれた家を、守れました」
その声は、最初に来たときとはまるで違いました。
柔らかくて。
明るくて。
少し泣きそうで。
「本当によかったです」
私は笑いました。
和夫さんも頭を下げました。
「おばさんには、二度とこんな思いをさせません」
澄江さんは甥の肩を叩きました。
「工場、頑張るんだよ」
「うん」
「でも、もう借金の保証人にはならないからね」
和夫さんが苦笑しました。
「……分かってる」
私はそのやり取りを見て、少しだけ胸が温かくなりました。
連帯保証。
たった四文字。
でも、その四文字が、家族の生活を丸ごと揺さぶることがあります。
誰かを助けたい。
その気持ちだけで署名した紙が、思いもしない責任を生む。
だからこそ。
法律を知らずにハンコを押すのは怖い。
そして。
法律を知らないまま、相手の言いなりになるのも怖い。
「こはるさん」
澄江さんが私を見ました。
「はい」
「私、最初は思ったんです」
「何をですか?」
「連帯保証人なんて、ならなければよかったって」
私は黙って聞きました。
「でも、和夫を助けたいと思った気持ちまで、間違いだったとは思いたくないんです」
「……はい」
「ただ、もう少しちゃんと知っていれば、あんなに怖い思いをせずに済んだのかなって」
私は頷きました。
「そうですね」
法律は。
善意だけでは守ってくれないことがあります。
でも。
正しく知れば、守れるものがあります。
澄江さんの家も。
洋裁店も。
亡くなったご主人との思い出も。
今回は、民法の条文と書類が守ってくれたのです。
◇
二人が帰ったあと。
私は机に向かっていました。
「相馬先輩」
「何だ」
「連帯保証って、本当に怖いですね」
「ああ」
「普通保証なら、まず本人に請求してくださいって言えるのに」
「うん」
「連帯保証だと、それが言えない」
「そうだ」
「本人に財産があると証明しても、先にそこから取ってくれとは要求できない」
「そのとおり」
私は鉛筆を置きました。
「でも、先輩」
「何だ」
「今回の事件で、もう一つ分かったことがあります」
「ほう」
「保証人の責任は重くても、存在しない借金まで支払う義務はないんですね」
相馬先輩が、少しだけ笑いました。
「そうだ」
所長も帳簿を閉じました。
「こはる」
「はい」
「今日の教訓は何だ」
私は少し考えました。
普通保証。
連帯保証。
催告の抗弁権。
検索の抗弁権。
補充性。
附従性。
弁済。
相殺。
たくさんの言葉が頭に浮かびました。
でも。
最後に残ったのは、一つの考え方でした。
「連帯保証人には、先に本人から取り立てろとは言えない。でも、本人が返した借金まで、もう一度払う必要はない」
所長が頷きました。
「それでいい」
私はノートに書きました。
――連帯保証は「先に本人へ」と言えない。しかし、主たる債務が消えれば、保証も消える。
よし。
今日の教訓。
これなら忘れません。
ところが。
「こはる」
相馬先輩が、新聞を畳みながら言いました。
「はい?」
「まだ一つ、面倒なのが残ってるぞ」
「……何ですか?」
「連帯保証人に生じた事由が、主たる債務者にどこまで影響するかだ」
「あ」
私は六法を見ました。
民法四百五十八条。
連帯保証人について生じた事由の効力。
そうでした。
今回の事件では、主たる債務者である和夫さんが弁済し、相殺した。
だから澄江さんの保証債務が消えた。
でも。
もし逆だったら?
連帯保証人である澄江さんが、東海商事に二百万円を支払ったら?
あるいは。
澄江さんが東海商事に対して、自分自身の二百万円の債権を持っていて、それで相殺したら?
さらに。
債権者が連帯保証人だけに請求した場合、その効果は主たる債務者にも及ぶのか?
……。
私はゆっくり顔を上げました。
「先輩」
「何だ」
「連帯保証って、まだ続きがあるんですね」
「当たり前だ」
「しかも、昭和と令和で絶対効の範囲が違うんですよね」
「お前、また未来の法律を持ち出す気か」
「だって、試験に出るんです!」
「なら、まず今の条文を覚えろ!」
「はいっ!」
私は慌てて六法を開き直しました。
昭和六十三年の民法四百五十八条。
そこには、連帯債務の規定を準用する仕組みが置かれています。
現代の条文とは、参照している条文の範囲が違う。
それはつまり。
同じ「連帯保証」という言葉でも。
誰に何が起きたかによって。
そして、どの時代の法律が適用されるかによって。
借金が残るか、消えるか。
結論が変わり得るということです。
「……先輩」
「何だよ」
「六百万円の事件が終わったのに、私の頭の中には、まだ借金が残っている気分です」
「お前の頭の借金は、自分で返せ」
「どうやってですか!」
「勉強だ」
「ひどい!」
片桐所長が、珍しく小さく笑いました。
私はため息をつきながら、ノートの新しいページを開きました。
――連帯保証における絶対効と相対効。
……うわ。
難しそう。
でも。
今日の六百万円を思い出せば、きっと理解できます。
主たる債務者が払った。
だから連帯保証人も助かった。
では。
連帯保証人に何かが起きたときは?
その答えを知らないまま、誰かの財産を守ることはできません。
「よし!」
私は鉛筆を握りました。
「次は絶対効と相対効ですね!」
「そうだ」
「相馬先輩!」
「何だ!」
「今度こそ、昭和の民法で完璧に覚えます!」
「最初からそうしろ!」
窓の外。
商店街には夕暮れの明かりが灯り始めていました。
佐伯澄江さんの洋裁店にも、きっと明かりがついているのでしょう。
ミシンの音。
布を裁つ音。
針と糸で、誰かの服を直す音。
あの小さな暮らしを守ったのは。
大声でも、脅しでもありませんでした。
四百万円の返済を示す領収書。
二百万円の相殺を示す内容証明。
そして。
連帯保証の本当の意味を、正確に読み解く力。
民法は、連帯保証人に厳しい。
けれど。
債権者に、存在しない借金まで取り立てる権利を与えているわけではないのです。
私はノートの最後に、もう一度書きました。
――「連帯して払う」と「二重に払う」は、まったく違う。
今日の教訓。
これは、絶対に忘れません。
だって。
誰かを助けようとして押したハンコが、人生を壊すことはあっても。
既に消えた借金まで復活させる魔法のハンコなど。
民法のどこにも、存在しないのです。
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