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こはる行政書士見習帖 〜 昭和に転生して許認可に振り回されると試験知識が骨身にしみます 〜  作者: 条文小説
〈民法 配点76点/300点〉 債権

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499/592

[民法・連帯債務]現場編 「半分しか借りてないから払わない」の嘘。千万円の連帯債務と、六百万円を背負った兄を救う内容証明の刃

挿絵(By みてみん)

 借金を二人で背負ったからといって、請求書が半分になるとは限りません。


 一千万円。


 二人で借りたなら、一人五百万円。


 普通は、そう考えたくなります。


 でも。


 契約書に「連帯して支払う」と書かれていたら。


 話は変わります。


 債権者は、一人に対して一千万円全額を請求できる。


 片方が支払わなければ、もう片方が支払うことになる。


 しかも。


 その一人が六百万円を支払ったとき。


 もう一人に、いくら請求できるのか。


 昭和六十三年。


 片桐行政書士事務所。


 その日の私は、二つの意味で驚くことになります。


 一つ。


 連帯債務は、思った以上に恐ろしい。


 そして、もう一つ。


 令和の民法で覚えた知識を、そのまま昭和の契約に当てはめると。


 とんでもない間違いをするのです。


「弟が、借金を全部私に押しつけたんです」


 朝九時。


 事務所を訪れた男性は、そう言いました。


 四十六歳。


 作業着の袖口が擦り切れています。


 手には、使い込まれた革の鞄。


 名前は、長谷川修一さん。


 町外れで木工所を営む職人さんです。


「弟さんが?」


 私が聞き返すと、修一さんは頷きました。


「三年前、弟と一緒に土地を買ったんです」


「土地ですか」


「ええ。工場を建てるつもりで」


 修一さんは鞄から一枚の契約書を取り出しました。


 ――土地売買契約書。


 売主。


 藤田不動産株式会社。


 買主。


 長谷川修一。


 長谷川和彦。


 売買代金。


 金一千万円。


 私は目を通しました。


 そして、ある一文で手が止まりました。


 ――買主両名は、売買代金債務につき、連帯して支払義務を負う。


 ……あ。


 連帯債務。


 今日の主役です。


「弟さんと、半分ずつ出す約束だったんですか?」


「はい」


 修一さんは頷きました。


「私が五百万円。弟が五百万円。そういう約束でした」


「書面はありますか?」


「これです」


 修一さんが取り出したのは、もう一枚の紙。


 ――共同購入に関する覚書。


 そこには、こう書かれていました。


 ――本件土地代金一千万円の内部負担割合は、修一及び和彦がそれぞれ二分の一とする。


 二人の署名。


 実印。


 印鑑登録証明書の控え。


 なるほど。


 外に対しては、連帯債務。


 内側では、五百万円ずつ負担する約束。


「それで、何が起きたんですか?」


 私が尋ねると、修一さんは苦しそうに顔を伏せました。


「弟が、払わなくなったんです」


 最初は順調だったそうです。


 兄弟で工場を大きくする。


 修一さんは家具を作る。


 弟の和彦さんは、木材の仕入れと販売を担当する。


 夢のある計画でした。


 ところが。


 土地を買って間もなく、弟が独立を言い出しました。


「兄貴のやり方じゃ儲からない」


 そう言って、木材の卸売業を始めた。


 工場の共同経営は頓挫。


 それでも、土地の代金は残りました。


「弟は言ったんです」


 修一さんの声が震えました。


「自分の負担は五百万円なんだから、それ以上は知らないって」


「それは、内部の約束ですよね」


「ええ。でも、もっとひどいんです」


 修一さんは、銀行の払込控えを並べました。


 百万円。


 二百万円。


 さらに三百万円。


 合計。


 六百万円。


「……修一さんが、全部払ったんですか?」


「はい」


 私は思わず声を上げました。


「六百万円も!」


「売主から何度も催促されまして」


 修一さんは疲れたように笑いました。


「払わなければ裁判になると言われて……。木工所の運転資金まで使いました」


「弟さんは?」


「一円も払っていません」


「ええっ!」


 私は契約書を見直しました。


 千万円の連帯債務。


 兄が六百万円弁済。


 弟はゼロ円。


 残債務は四百万円。


 そして。


「弟さんには、返してもらうよう言ったんですか?」


「言いました」


 修一さんは、鞄から封筒を取り出しました。


「そうしたら、こんな手紙が来たんです」


 私は封を開きました。


 差出人。


 長谷川和彦。


 そこには、信じられないことが書かれていました。


 ――兄貴が勝手に六百万円を払ったのであって、俺には関係ない。


 ――そもそも俺の負担は五百万円だ。


 ――兄貴が六百万円を払ったなら、兄貴の五百万円はもう済んでいる。


 ――残り百万円は兄貴が余計に払った金だ。俺が頼んだわけではない。


 ――俺はまだ一円も払っていないのだから、俺から兄貴に返す金はない。


 ……。


 私は手紙を置きました。


「先輩」


「何だ」


「これ、すごいですね」


「何が」


「自分が一円も払っていないことを、堂々と認めています」


「ああ」


「なのに、払わなくていいって言ってます」


「そうだな」


「どういう計算なんですか!」


 相馬先輩は鼻で笑いました。


「計算じゃねえよ」


「え?」


「踏み倒すための屁理屈だ」


 ……ですよね。


 私は修一さんを見ました。


「大丈夫です。求償権があります!」


「きゅうしょうけん?」


「はい!」


 ようやく。


 現代の行政書士試験で勉強した知識が役に立ちます。


 連帯債務者の一人が弁済した場合、他の連帯債務者に対して負担割合に応じた償還を求められる。


 民法四百四十二条。


「修一さんが六百万円支払ったなら、弟さんの負担割合は二分の一ですから――」


「待て」


 相馬先輩が遮りました。


「はい?」


「お前、今、いくら請求しようとした?」


「三百万円です!」


「ほう」


 先輩が少し笑いました。


「正解だ」


「やった!」


「だが、まだ終わりじゃねえぞ」


「え?」


「その六百万円、払う前に弟へ知らせたか?」


 ……。


 私は修一さんを見ました。


「どうでしたか?」


「はい。売主から請求されたとき、弟に手紙を出しました」


「控えは?」


「あります」


 出てきました。


 ――藤田不動産から代金支払の催告を受けている。


 ――連帯債務者として支払を求められている。


 ――期限までに支払がない場合、私が一部を弁済する。


 ――支払後は、内部負担割合に従って精算したい。


 弟からの返事もありました。


 ――兄貴が払えるなら払えばいい。


 私は顔を上げました。


「先輩。これは!」


「ああ」


「弟さん、知っていたんですね」


「そういうことだ」


 相馬先輩が頷きました。


「求償は、払った金額だけ見りゃいいってもんじゃねえ。通知をしたか、相手に対抗できる事情がなかったか、そこまで調べる」


 私は六法を開こうとしました。


 よし。


 求償権。


 四百四十二条。


 通知。


 四百四十三条。


 ここまでは大丈夫。


 今日は、未来人の地雷を踏まずに済みそうです。


 ……そう思っていました。


「ただ、所長」


 私は片桐所長を見ました。


「もう一つ心配なことがあります」


「何だ」


「売主が弟さんに請求していなかった場合です」


 所長が顔を上げました。


「続けろ」


「令和の民法では、連帯債務者の一人に対する履行の請求は、原則として他の連帯債務者に影響しませんよね」


 私は得意になって続けました。


「ですから、請求を受けていない弟さんには、その請求の効力は及ばないはずです」


 沈黙。


 相馬先輩が、ゆっくりこちらを向きました。


「……令和?」


「あっ」


 しまった。


 心の声が漏れました。


「い、いえ! 最近読んだ解説書で!」


「どんな解説書だ」


「その、ものすごく先進的な……」


「こはる」


 片桐所長が低い声で言いました。


「六法を開け」


「はい……」


「四百三十四条だ」


 私はページをめくりました。


 民法。


 第四百三十四条。


 そこには。


 ――連帯債務者の一人に対する履行の請求は、他の連帯債務者に対しても、その効力を生ずる。


 ……。


 え?


「ええええっ!?」


 私は思わず立ち上がりました。


「絶対効!?」


「そうだ」


 相馬先輩が呆れた声を出しました。


「連帯債務者の一人に対する履行の請求は、他の連帯債務者にも効力が及ぶ」


「で、でも!」


「何だ」


「履行請求は相対効じゃ……!」


「何を言ってる」


 相馬先輩が六法を指で叩きました。


「今は昭和六十三年だぞ」


「……はい」


「今の民法四百三十四条を見ろ。どこに相対効だなんて書いてある?」


「ありません……」


 やってしまいました。


 令和の知識。


 完全に地雷です。


 現代の民法では、原則として連帯債務者の一人への履行請求の効力は他の連帯債務者に及びません。


 しかし。


 昭和六十三年。


 旧民法では違います。


 履行請求は、絶対効。


「こはる」


 所長が言いました。


「条文番号だけ覚えて、時代を間違えるな」


「はい……」


「四百三十四条という番号も、後の時代まで同じ内容とは限らん」


 私は青ざめました。


 そうなんです。


 現代では連帯債務の規定が整理され、条文番号も変わっています。


 私の頭の中の民法。


 この机の上の民法。


 似ているけれど。


 同じではない。


「相馬」


「はい」


「売主からの請求書を確認しろ」


「分かりました」


 先輩が修一さんに尋ねました。


「藤田不動産からの請求書は、全部残っていますか?」


「はい」


 修一さんは頷きました。


「弟には直接来ていないと思います。私にばかり届いていました」


「なるほどな」


 先輩は封筒の日付を確認しました。


「それでも、連帯債務の一人に対する履行請求が、もう一人にも効力を及ぼす場合がある。今の法律ではな」


 私は小さく頷きました。


 連帯債務。


 一人に起きたことが、もう一人にも影響する。


 でも、全部がそうなるわけではない。


 相対効。


 絶対効。


 その区別が、時代によって変わっている。


 ……これは。


 危険です。


 試験勉強なら、一問間違えて終わり。


 でも実務で間違えたら。


 人の財産を失わせるかもしれない。


「所長」


「何だ」


「民法って怖いですね」


「怖いのは法律じゃない」


「え?」


「確認せずに使うことだ」


 ……はい。


 肝に銘じます。


 その日の午後。


 事態は、さらに動きました。


「修一さん!」


 相馬先輩が声を上げました。


「弟さんの店、どこです?」


「駅南の材木問屋です」


「景気は?」


「最近はいいらしいです。新しいトラックを二台買ったと聞いています」


「ほう」


 先輩が薄く笑いました。


「金がねえわけじゃなさそうだな」


 そのとき。


 事務所の扉が開きました。


「兄貴!」


 大きな声。


 振り向くと、派手な背広を着た男が立っていました。


 四十歳前後。


 金色の腕時計。


 磨かれた革靴。


 修一さんの弟。


 長谷川和彦でした。


「こんなところにいたのか!」


「和彦……」


「聞いたぞ。行政書士に相談してるんだって?」


 和彦は私たちを見回しました。


「へえ。行政書士ねえ」


 嫌な笑い方です。


「弁護士でもないくせに、何ができるんだよ」


 ……。


 出ました。


 悪役定番の台詞。


「俺は何も悪いことしてねえぞ」


 和彦は椅子に腰を下ろしました。


 呼んでませんけど。


「兄貴が勝手に六百万円払ったんだ。自分の金でな」


「和彦、お前も払う約束だっただろ」


「俺の負担は五百万円だろ!」


「だから、半分を……」


「まだ残り四百万円あるじゃねえか!」


 和彦は机を叩きました。


「俺はその四百万円を売主に払えばいいんだろ! 兄貴に払う金なんかねえ!」


 私は思わず口を開きました。


「ちょっと待ってください」


「何だ、小娘」


「それだと、修一さんが六百万円、和彦さんが四百万円を負担することになりますよね」


「そうだ」


「でも、負担割合は半分ずつですよね」


「だから何だよ」


「修一さんが三百万円を求償し、その後あなたが残り四百万円を支払えば、今度は修一さんとの間でその支払分の精算が必要になります」


「……は?」


「それぞれの支払は、二人の共通の債務を減らすんです」


 和彦の眉が動きました。


 私は続けました。


「誰が債権者に払ったか、という問題と、最後に兄弟でいくらずつ負担するかは、別なんです」


「うるせえ!」


 和彦が立ち上がりました。


「法律なんて、そんな細かいもんじゃねえだろ!」


 ……。


 いえ。


 法律は。


 ものすごく細かいです。


「それにな!」


 和彦は修一さんを睨みました。


「兄貴は五百万円払うつもりだったんだろ! 六百万円払ったって、余計なのは百万円だけじゃねえか!」


「……!」


 私は固まりました。


 あ。


 そこです。


 この事件の、本当の急所。


 修一さんが六百万円支払った。


 自己負担部分は五百万円。


 超過額は百万円。


 だから求償できるのは百万円だけ。


 ……ではない。


「相馬先輩」


「分かってる」


 先輩が低い声で言いました。


「和彦さん」


「何だよ」


「一つ聞く」


「ああ?」


「兄貴が六百万円払ったことで、あんたの連帯債務はいくら減った?」


「……六百万円だろ」


「そうだ」


「だから?」


「残りは?」


「四百万円だ」


「一千万円から六百万円を引いたら、四百万円しか残らねえ。それは誰にとっても同じだ」


 和彦は黙りました。


 先輩が続けます。


「連帯債務ってのはな、一人が払えば、他の奴もその分だけ債権者から請求されなくなる仕組みなんだよ」


「……」


「なのに、払った奴が求償したら『勝手に払った』で逃げられると思うか?」


 和彦は鼻を鳴らしました。


「じゃあ裁判でも起こせばいいだろ!」


 相馬先輩は頷きました。


「法律上の争いになれば、弁護士に引き継ぐ」


「ほら見ろ! 行政書士じゃ何もできねえ!」


「ただし」


 先輩の声が低くなりました。


「その前に、事実は全部書面に残す」


 和彦の笑みが止まりました。


「……何?」


「契約書。覚書。弁済の領収書。通知の控え。あんたからの返事」


 相馬先輩は机の書類を、一枚ずつ指差しました。


「全部ある」


「だから何だ」


「裁判になったら、弁護士が最初から調べ直す必要がねえようにしておくんだ」


 先輩は和彦をまっすぐ見ました。


「世の中、声がでかい奴じゃなくて、書面にハンコを押させた奴が勝つんだよ」


 和彦の顔が引きつりました。


「……脅しか?」


「いいや」


 先輩は首を振りました。


「記録の話だ」


 それ以上、先輩は議論しませんでした。


 和彦は舌打ちをして出ていきました。


 扉が乱暴に閉まります。


 私は拳を握りました。


「先輩!」


「何だ」


「今の、悔しくないんですか!」


「別に」


「完全に舐めてましたよ!」


「そうだな」


「だったらもっと!」


「こはる」


 先輩が私の言葉を遮りました。


「俺たちは、依頼人の代わりに債務の支払交渉をする弁護士じゃねえ」


「……はい」


「必要なのは、喧嘩に勝つことじゃない」


「はい」


「本人の権利を、正確な書面にすることだ」


 私は黙りました。


 そうです。


 行政書士は、訴訟代理人ではありません。


 相手方との法的紛争について、依頼人の代理人として示談交渉を引き受けることもできません。


 でも。


 依頼人本人の意思を確認し、事実を調査し、権利義務に関する書類を整える。


 その仕事には、意味があります。


「こはる」


 片桐所長が言いました。


「修一さんの意思を確認したうえで、本人名義の通知書の原案を作れ」


「はい!」


「ただし」


「はい」


「六百万円払ったから、五百万円全部を弟に請求できる、などと書くなよ」


「もちろんです!」


「じゃあ、いくらだ」


「三百万円です!」


 所長が頷きました。


「理由も書け」


 よし。


 始まりました。


 昭和の民法で。


 連帯債務の、本当の反撃です。


 翌朝。


 私は机いっぱいに書類を広げていました。


 土地売買契約書。


 共同購入の覚書。


 弁済領収書。


 銀行の払込控え。


 弟への通知。


 弟からの返書。


 さらに。


 売主である藤田不動産から取り寄せた、入金確認書。


 ――売買代金一千万円のうち、長谷川修一より合計六百万円を受領済み。


 ――本日現在の残額は四百万円。


 これで、数字は確定しました。


「先輩」


「何だ」


「まず、千万円のうち六百万円が消えたんですよね」


「そうだ」


「修一さんの債務も、和彦さんの債務も、債権者との関係では六百万円分減っています」


「ああ」


「だから、売主は同じ六百万円を二重に取れない」


「そのとおり」


 私は契約書を見ました。


 連帯債務者が二人いるからといって、債権者が千万円ずつ、合計二千万円を取れるわけではありません。


 債務は、同じ一千万円。


 ただし。


 どちらに対しても、全額を請求できる。


 一人が払えば、共通の債務はその分だけ消える。


 ここが大事です。


「では、求償額です」


 私は紙に数字を書きました。


 六百万円。


 負担割合は二分の一。


 三百万円。


「……できた!」


「早えな」


「先輩!」


「何だ」


「修一さんが自己負担の五百万円を超えたかどうかで、求償を百万円に制限しちゃ駄目なんですよね!」


「そうだ」


 相馬先輩が頷きました。


「六百万円払って、共通の債務を六百万円減らした。内部の負担割合が半分ずつなら、原則として、その支払額の半分を相手に求償できる」


「はい!」


 私は勢いよく書きました。


 ただし。


 ここで忘れてはいけないものがあります。


「通知ですね」


「ああ」


 相馬先輩が机を叩きました。


「連帯債務者同士の求償では、通知を怠ったことで問題が起きる場合がある」


「はい」


「今回は、兄貴が払う前に知らせている。弟も手紙で返事をしている」


「それが証拠になる」


「そういうことだ」


 所長が口を開きました。


「もう一つ確認しろ」


「何でしょう」


「和彦さんが、藤田不動産に対して相殺できる債権などを持っていなかったか」


 あ。


 相殺。


 連帯債務における絶対効。


「所長、それも大事ですね!」


「そうだ」


 例えば、弟が売主に対して別の貸金債権を持っていて、適法に相殺できる状態だったなら。


 兄が何も知らせずに支払った場合、後で求償をめぐる争いが生じることがあります。


 でも。


 今回は、事前通知がある。


 弟の返事もある。


 売主への債権があるという主張も、これまで出ていない。


「確認できる範囲では、相殺などの事情は見当たりません」


 私は答えました。


「よし」


 所長が頷きました。


「ただし、存在しないと断言するな。相手方に事情がある可能性は残る」


「はい」


 なるほど。


 法律の書面は、強く書けばいいというものではありません。


 証明できることは、はっきり書く。


 まだ分からないことは、勝手に決めつけない。


 その区別が大切なのです。


 三時間後。


 私の原案が完成しました。


 題名。


 ――連帯債務に係る求償金支払請求通知書。


 差出人。


 長谷川修一。


 宛先。


 長谷川和彦。


 私は読み上げました。


「第一。本件土地売買契約に基づき、通知人及び貴殿は、藤田不動産株式会社に対して売買代金一千万円の連帯債務を負担している」


「うん」


「第二。通知人と貴殿との間には、本件売買代金の内部負担割合を各二分の一とする旨の合意が存在する」


「うん」


「第三。通知人は、昭和六十三年某月某日までに、本件連帯債務の履行として合計六百万円を弁済した」


 相馬先輩が頷きました。


「続けろ」


「第四。右弁済により、通知人及び貴殿の藤田不動産株式会社に対する共通の債務は、六百万円の限度で消滅した」


「よし」


「第五。右弁済については、事前に貴殿に通知しており、貴殿からも回答を受領している」


「うん」


「第六。民法第四百四十二条に基づき、通知人は、右弁済額六百万円のうち貴殿の内部負担割合二分の一に相当する金三百万円について、求償を求める」


 私は一度、息を吸いました。


「第七。ついては、本通知到達後十四日以内に、右金三百万円を通知人指定の銀行口座に支払われたい」


 読み終わりました。


「どうですか!」


 相馬先輩は少し考えました。


「悪くねえ」


「やった!」


「でも、直す」


「ええっ!」


 先輩は赤鉛筆を取りました。


「まず、弁済の日付と金額を一件ずつ特定しろ」


「はい」


「次に、事前通知をした日付。弟の返書の日付。それを明記しろ」


「はい」


「それから、残額四百万円については、まだ藤田不動産から請求される可能性がある」


「……そうですね」


「今回の三百万円は、あくまで既に支払われた六百万円についての求償だ。残額の扱いまで決着したかのような書き方はするな」


 私は頷きました。


 なるほど。


 兄が六百万円を払った。


 弟に三百万円を求償する。


 でも。


 債権者に対する四百万円の債務は、まだ残っている。


 その後、誰がいくら払うかによって、兄弟間の最終的な精算額も変わる。


 今回の通知書だけで、全部終わるわけではありません。


「所長」


「何だ」


「これ、思った以上に複雑ですね」


「だから書面にする」


「……はい」


 所長は原案を受け取りました。


「最後に一文、加えろ」


「何でしょう」


「回答が得られない場合は、弁護士に相談のうえ、法的手段を検討する旨だ」


「はい!」


 私は書きました。


 ――本請求について支払又は合理的な回答がない場合、通知人は弁護士への相談のうえ、訴訟その他の法的措置を検討する。


 そして。


 所長が言いました。


「これで、ようやく相手に送る書面になる」


 私は完成した原案を見つめました。


 派手な言葉はありません。


 脅迫めいた表現もありません。


 ただ。


 契約。


 弁済。


 負担割合。


 通知。


 民法。


 そのすべてが、日付と金額でつながっています。


「先輩」


「何だ」


「これを受け取ったら、弟さん、どうするでしょう」


「さあな」


「払いますかね」


「分からん」


 相馬先輩は肩をすくめました。


「だが、無視して裁判になれば、この書類と証拠を弁護士が使える」


「はい」


「弟が『知らなかった』『頼んでない』『払っていない』と言っても、何が争点なのかはっきりする」


 先輩は完成した書面を指差しました。


「相手が一番嫌なのは、怒鳴られることじゃねえ」


「何ですか?」


「自分の言い訳が、証拠で通らなくなることだ」


 私は、しばらく黙りました。


 ……なるほど。


 声で押し切る相手に。


 声で対抗する必要はない。


 事実を並べる。


 法律を当てはめる。


 逃げようとしたとき、どこにも嘘を書けない状態にする。


 それが。


 片桐事務所の戦い方なのです。


 通知書は、修一さん本人の確認と署名押印を経て、内容証明郵便で発送されました。


 そして。


 四日後。


 事務所の電話が鳴りました。


「はい、片桐行政書士事務所です!」


『……長谷川和彦です』


 ……。


 来ました。


 あの弟です。


「少々お待ちください」


 私は相馬先輩を見ました。


「先輩!」


「何だ」


「弟さんです!」


 先輩は受話器を受け取りました。


「相馬です」


『あの……内容証明が届いたんですが』


「はい」


『これ、兄貴が本当に請求できるんですか?』


「具体的な争いになっている請求について、私が代理人として交渉することはできません。通知書は修一さんご本人の意思に基づくものです」


『……そうですか』


「法律上の主張に疑問があれば、弁護士に確認されるのがよいでしょう」


 和彦は黙りました。


 それから、声を落としました。


『……もう確認しました』


 私は思わず顔を上げました。


『顧問に見せたんです。契約書も、兄貴からの通知も、全部』


 相馬先輩は黙って聞いています。


『そしたら……』


 和彦の声がかすれました。


『兄貴が払った六百万円について、俺に三百万円を求償する根拠があるって』


 ……!


 私は思わず拳を握りました。


『俺は、百万円だけの話だと思ってたんです』


「そうでしたか」


『しかも、兄貴が払う前に知らせていた手紙まで残っていて……』


 電話の向こうで、和彦がため息をつきました。


『裁判になったら、あの覚書と領収書が証拠になるって言われました』


 私は机の上を見ました。


 覚書。


 六百万円の入金確認。


 事前通知。


 返書。


 全部あります。


『払わなかったら、本当に財産を差し押さえられるんでしょうか……』


 先輩は落ち着いた声で答えました。


「内容証明だけで差押えができるわけではありません。裁判などの手続を経て、強制執行が問題になることはあります。詳しくは顧問の方に確認してください」


『……そうですよね』


 和彦はしばらく黙りました。


 それから。


『兄貴に伝えます』


「はい」


『三百万円、支払う方向で考えています。残りの土地代金のことも、ちゃんと相談したいって』


 相馬先輩は、ただ言いました。


「その意思は、ご本人に直接お伝えください」


『……分かりました』


 電話が切れました。


 私は立ち上がりました。


「先輩!」


「何だ」


「三百万円!」


「ああ」


「払うって!」


「まだ払ってねえ」


「……はい」


「金が動くまでは、分からん」


 さすがです。


 相馬先輩。


 最後まで冷静。


 でも。


 少しだけ、口元が緩んでいました。


 翌週。


 修一さんが、再び事務所を訪れました。


 今度は、顔つきが違います。


「ありがとうございました」


 そう言って、深く頭を下げました。


「弟から、三百万円が振り込まれました」


「本当ですか!」


「はい」


 通帳の写し。


 そこには。


 ――振込 ハセガワカズヒコ 3,000,000円。


 確かに。


 三百万円。


 私は思わず笑顔になりました。


「よかった……!」


 修一さんも、少し笑いました。


「これで、木工所の支払いができます」


 修一さんは続けました。


「実は、職人への給料も、遅らせるところだったんです」


「……え?」


「六百万円を払ってしまったものですから。材料代も、銀行への返済も、ぎりぎりで」


 修一さんの手が、膝の上で握られました。


「でも、これで何とか持ちこたえられます」


 私は胸が熱くなりました。


 三百万円。


 数字だけ見れば、大きなお金です。


 でも。


 その三百万円には、もっとたくさんのものが詰まっている。


 職人の給料。


 工場の材料。


 家族の生活。


 修一さんが、何十年も守ってきた仕事。


「弟さんとは、その後どうなりましたか?」


 私が尋ねると、修一さんは少し困った顔をしました。


「まだ、仲直りまではできていません」


「そうですか……」


「でも、残り四百万円については、弟が売主と話すと言っています」


 修一さんは頷きました。


「今度は、私にも連絡するよう約束しました。二人の間の最終的な負担も、支払を確認してから精算するつもりです」


「よかったです」


「それに……」


 修一さんは、少し笑いました。


「弟が、初めて謝ったんです」


 私は顔を上げました。


「何て?」


「兄貴が六百万円を払ったから、自分が助かっていたんだな、って」


 ……。


 私は、しばらく言葉が出ませんでした。


 連帯債務。


 一人が払えば、他の債務者もその分だけ責任を免れる。


 でも。


 払った本人だけが損をするようでは、不公平です。


 だから。


 求償権がある。


 払った人と、払わなかった人。


 その間の負担を、もう一度公平に整える。


 修一さんが六百万円支払ったとき。


 弟の和彦さんも、債権者に対する債務を六百万円分減らしてもらっていた。


 その利益を、なかったことにはできません。


「修一さん」


 私は言いました。


「よかったですね」


「ええ」


 修一さんは微笑みました。


「弟を訴えずに済んで、本当によかった」


 その言葉に。


 私は、少し胸が締めつけられました。


 そうなんです。


 修一さんは、弟を破滅させたかったわけではない。


 ただ。


 自分一人だけが犠牲になるのは、違う。


 そう思っただけなのです。


 修一さんが帰ったあと。


 私は机に向かっていました。


 六法を開きます。


 連帯債務。


 第四百三十二条。


 第四百三十四条。


 第四百四十二条。


 ……ややこしい。


 しかも。


 昭和と令和で、条文番号も絶対効の範囲も違う。


「相馬先輩」


「何だ」


「今日、二つ学びました」


「ほう」


「まず、連帯債務は、一人に全額請求できる」


「そうだ」


「でも、一人が払えば、その分だけ全員の共通の債務が減る」


「うん」


「そして、払った人は、負担割合に応じて他の連帯債務者に求償できる」


「よし」


 私は得意になりました。


「六百万円払って、負担割合が半分なら、三百万円!」


「そうだ」


「自己負担部分の五百万円を超えていなくても、求償できる!」


「正解」


 相馬先輩が頷きました。


 よし。


 今日の論点。


 しっかり理解できました。


「ただし!」


 私は自分で言いました。


 先輩が眉をひそめます。


「何だ、今度は」


「昭和六十三年と現代で、絶対効と相対効の範囲が違う!」


「まだそれを言ってんのか」


「大事なんです!」


 私はノートを開きました。


 昭和六十三年。


 連帯債務者の一人への履行請求は、他の連帯債務者にも効力を及ぼす。


 令和の改正民法。


 原則として、他の連帯債務者には効力を及ぼさない。


 それだけではありません。


 旧法では、債務の免除や時効の完成についても、一定の範囲で他の連帯債務者に効力が及ぶ仕組みがありました。


 一方、現代では。


 それらも原則として相対効。


 ……怖い。


 同じ「連帯債務」なのに。


 一人に起きたことが、もう一人にどう影響するか。


 その答えが変わっているのです。


「先輩」


「何だ」


「民法改正って、ただ条文を読みやすくしただけじゃないんですね」


「そりゃそうだろ」


「法律効果そのものが変わっているんです」


「当たり前だ」


 ……そうでした。


 未来人の私は、知識を持っているぶん、つい油断してしまう。


 でも。


 ここは昭和六十三年。


 この時代の人たちは、この時代の民法で契約しています。


 未来の法律を、勝手に持ち込むわけにはいかない。


「こはる」


 片桐所長が帳簿を閉じました。


「今日の教訓は何だ」


 私は少し考えました。


 千万円。


 二人の連帯債務。


 六百万円を払った兄。


 一円も払わなかった弟。


 そして。


 三百万円の求償。


 私は、ゆっくり答えました。


「連帯債務は、一人が払えば全員が助かる。でも、払った人だけが損をする仕組みじゃない」


 所長が頷きました。


「そうだ」


 私はノートの最後に、一行を書きました。


 ――連帯債務は『外には全額、内では分担』。一人が払えば共通の債務が減り、負担割合に応じて求償できる。


「……できた!」


 私はノートを掲げました。


「どうですか!」


 相馬先輩がちらりと見ました。


「まあ、悪くねえ」


「褒めましたね!」


「気のせいだ」


「またそれですか!」


 私は笑いました。


 そのとき。


 所長が一枚の封筒を机に置きました。


「こはる」


「はい?」


「次の相談だ」


「もうですか!」


「今度は、連帯債務者の一人が、債権者から借金を免除されたらしい」


「……免除?」


「ああ」


 私は首をかしげました。


「それなら、その人は払わなくていいんですよね?」


「そうだな」


「じゃあ、もう一人は?」


 相馬先輩が、にやりと笑いました。


「いい質問だ」


「え?」


「昭和六十三年の民法四百三十七条、開いてみろ」


 私は六法をめくりました。


 連帯債務者の一人に対する免除。


 そして、そこには。


 ――その連帯債務者の負担部分についてのみ、他の連帯債務者の利益のためにも、その効力を生ずる。


 ……。


 え?


「他の人にも効くんですか!?」


「昔はな」


「えええっ!」


 私は思わず机を叩きました。


「ちょっと待ってください!」


「何だ」


「一人に対する免除が、もう一人にも影響するんですか!」


「そういう規定だ」


「でも、現代では原則として相対効で……!」


「また未来の話か!」


 相馬先輩が頭を抱えました。


 私は六法を見つめました。


 履行請求。


 免除。


 相殺。


 時効。


 混同。


 更改。


 連帯債務には、一人に起きたことが全員に及ぶ場合と、そうでない場合がある。


 しかも、時代によって整理が違う。


 ……なるほど。


 これは。


 覚えがいがありますね。


「先輩!」


「何だ!」


「連帯債務、思った以上に奥が深いです!」


「分かったから六法を読め!」


「はいっ!」


 私は笑いながら、ページをめくりました。


 昭和六十三年。


 民法の世界は、今日も容赦がありません。


 でも。


 どれほど複雑な条文でも。


 その向こうには、人の暮らしがあります。


 借金を押しつけられた兄。


 自分だけ助かろうとした弟。


 そして。


 二人の間にあった約束を、もう一度公平に整えるための法律。


 連帯債務。


 それは、債権者を守るための制度であると同時に。


 債務者同士の公平を考えなければならない制度でもあるのです。


 私は、今日のノートをそっと閉じました。


 一千万円の借金は、二人だから五百万円ずつしか請求されないわけではない。


 けれど。


 一人が六百万円を支払ったからといって、その人が六百万円を一人で背負うべきだとも限らない。


 外の関係と、内の関係。


 その両方を見て、初めて答えが出る。


 ――誰か一人が全部を背負える約束だからこそ、最後の負担は公平に。


 今日の教訓。


 これなら、忘れません。


「こはる!」


「はい!」


「感動してるところ悪いが、次の相談票を取れ!」


「はいっ!」


 ……。


 どうやら。


 連帯債務の勉強は、まだまだ終わりそうにありません。


 ただし。


 次に誰かが、


「俺は半分しか借りてない!」


 と言い出したら。


 私は、真っ先に契約書を確認することにします。


 そこに。


 たった四文字。


 ――連帯債務。


 と書かれているだけで。


 その人が背負っている責任は、想像よりずっと重いかもしれないのです。

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