[詐害行為取消権]法理編 こはるノート
財産は、名前を変えただけでは消えません。
土地の登記名義を弟に移しても。
家を親戚に売ったことにしても。
借金を返すための財産を、不当に逃がしたという事実まで消せるわけではないのです。
ただし。
民法には、ちょっと意地悪なところがあります。
「悪いことをしたんだから、契約は全部無効!」
……とは、ならないのです。
取り消すためには、条件がある。
相手方にも、守られるべき事情がある。
そして何より。
詐害行為取消権は、裁判所で行使しなければなりません。
昭和六十三年。
夕方の片桐行政書士事務所。
私は机に向かって、ノートを開いていました。
表紙には、大きくこう書いてあります。
――こはるノート・民法編。
今日のテーマは。
詐害行為取消権。
民法第四百二十四条。
「……名前からして悪そうですよね」
私が呟くと、相馬先輩が新聞から顔を上げました。
「何がだ」
「詐害行為ですよ。詐欺みたいな名前じゃないですか」
「詐欺とは別だぞ」
「分かってます!」
「本当か?」
「……たぶん」
「おい」
私は慌てて鉛筆を握りました。
「今日は完璧に整理します!」
「昨日も言ってたな」
「昨日は現場です! 今日は法理です!」
「はいはい」
相馬先輩は煙草を灰皿に置きました。
「じゃあ、あの大村兄弟を思い出せ」
私はノートをめくりました。
杉山春江さん。
食堂を営む五十六歳の女性。
大村義雄に三百万円を貸したのに、返してもらえなかった。
義雄は、ほぼ唯一のまとまった財産だった土地建物を、弟の正志へ売却した。
時価は、およそ二千万円。
ところが売買代金は、たった二百万円。
しかも、その二百万円さえ、全額支払われていなかった。
弟は、兄の借金も、差押えのおそれも知っていた。
それなのに。
「登記は終わっている。もう兄の財産じゃない」
と、開き直ったのです。
「でも結局、内容証明を受け取った弟さんが弁護士に相談して、売買を解消したんですよね」
「ああ」
「土地の名義も戻って、春江さんの三百万円も返済された」
「そうだ」
相馬先輩が頷きました。
「じゃあ聞くぞ」
「はい!」
「俺たちが内容証明で詐害行為を取り消したのか?」
「違います!」
私は即答しました。
「詐害行為取消権は、裁判所に請求して行使する権利です!」
「よし」
「今回は、法律上の問題を指摘された兄弟が、自分たちの意思で売買を解消したんです!」
「そうだ」
私はノートに赤線を引きました。
――詐害行為取消権は、裁判で行使する。
これは絶対に忘れてはいけません。
内容証明郵便には、強い証拠上の意味があります。
いつ。
誰が。
誰に。
どんな通知をしたのか。
それを残せます。
でも。
内容証明そのものに、裁判所の判決と同じ効力があるわけではありません。
「先輩」
「何だ」
「内容証明って、相手の家に届いた瞬間、法律効果が爆発する必殺技じゃないんですね」
「何だその物騒な例えは」
「だって、名前が強そうですから!」
「郵便だぞ」
「……そうでした」
片桐所長が帳簿を閉じました。
「こはる」
「はい」
「法律上の権利と、権利を実現する手続を分けて考えろ」
私は頷きました。
ここが、今日の出発点です。
「では、まず定義です!」
私はノートに大きく書きました。
――詐害行為取消権。
債務者が、債権者を害することを知って行った一定の財産処分について、債権者が裁判所に取消しを請求できる権利。
「つまり、借金逃れの財産処分を取り消すための制度ですね」
「大筋ではそうだ」
相馬先輩が言いました。
「だが、何でも取り消せるわけじゃねえぞ」
「はい」
私は三人の名前を書きました。
A――杉山春江。
B――大村義雄。
C――大村正志。
「春江さんは債権者です」
「うん」
「義雄さんは債務者です」
「そうだ」
「弟の正志さんは、売買によって利益を受けた受益者です」
「よし」
私は矢印を引きました。
AからBへ、三百万円の貸付け。
BからCへ、土地建物の売却。
すると。
Bには、三百万円を返すだけの財産がなくなってしまった。
「ここで春江さんは困るわけです」
「そうだな」
「義雄さんを相手に裁判で勝っても、差し押さえる財産がなければ、回収できない」
「そのとおり」
私は鉛筆を止めました。
なるほど。
これが、詐害行為取消権の出発点。
債権という権利が存在していても。
債務者に財産がなければ、現実の回収は難しくなる。
そこで民法は、債務者が不当に逃がした財産を、一定の条件で回復させる道を用意しているのです。
「先輩」
「何だ」
「これ、債権者代位権と似てませんか?」
「お。気づいたか」
私は頷きました。
債権者代位権。
債務者が自分の権利を行使しないとき、一定の要件のもとで、債権者が代わってその権利を行使する制度です。
一方。
詐害行為取消権は、債務者が債権者を害する財産処分をしてしまった場合に、その取消しを求める制度。
「つまり!」
私は鉛筆を立てました。
「債権者代位権は、債務者が権利を行使しない問題!」
「うん」
「詐害行為取消権は、債務者が財産を不当に逃がした問題!」
「そうだ」
相馬先輩が頷きました。
「前者は、債務者が行使しない権利を代わりに動かす。後者は、債務者がした財産処分を問題にする」
「なるほど!」
私は二つの言葉を並べました。
――代位は、行使しない権利。
――詐害取消しは、逃がした財産。
よし。
この違いなら、忘れません。
「さて、次だ」
相馬先輩が言いました。
「はい!」
「詐害行為取消権が認められるために、何が必要だ?」
私はノートを開き直しました。
「大きく分けて、債権の存在、財産処分の内容、債務者の財産状態、当事者の認識です」
「具体的に言ってみろ」
「はい!」
まず。
春江さんには、三百万円の貸金債権がありました。
借用証書がある。
振込記録もある。
返済期限も過ぎている。
だから、守るべき債権の存在を示せます。
「では先輩」
「何だ」
「もし春江さんが、義雄さんに一円も貸していなかったら?」
「何を取り消すんだよ」
「ですよね!」
私は笑いました。
債権者ではない人が、他人の財産処分を気に入らないというだけで、詐害行為取消権を使えるわけではありません。
次に大切なのは。
債権と財産処分の前後関係。
「春江さんがお金を貸したのは昭和六十二年四月です」
「ああ」
「土地建物を売ったのは昭和六十三年六月」
「そうだ」
「だから、債権の発生原因が財産処分より先にあるんです」
私は日付に丸をつけました。
これも重要。
現代の民法四百二十四条三項では、詐害行為前の原因に基づく債権であることが明文化されています。
昭和六十三年には、現在の三項のような規定はありません。
でも、従来から判例・解釈上、基本的に先行する債権を保護する仕組みとして考えられていました。
「つまり、こはる」
片桐所長が言いました。
「後からできた債権を理由に、過去の財産処分を何でも覆せるわけではない」
「はい」
私は頷きました。
次。
無資力。
これが、今回の事件で非常に大きな問題でした。
義雄さんには土地建物がありました。
それが、ほぼ唯一のまとまった財産。
その土地建物を弟へ移した。
代金も残っていない。
すると。
春江さんが三百万円を回収するための財産が不足する。
「ここが、無資力の問題ですね」
「そうだ」
ただし。
相馬先輩が釘を刺しました。
「本人が『金がない』と言っただけで、無資力と決めるなよ」
「はい」
実際にどんな財産があるのか。
預金。
不動産。
売掛金。
ほかの債務。
担保権の有無。
そうした事情を調べる必要があります。
「じゃあ、先輩」
「何だ」
「もし義雄さんが、土地建物のほかに一億円の預金を持っていたら?」
「三百万円の債権を回収するのに、普通は困らねえだろ」
「そうですよね」
土地を売ったことだけで、詐害行為取消権が当然に成立するわけではありません。
債権者を害する財産状態にあるのか。
そこが問題になるのです。
「次は、対象となる行為です」
私はノートに書きました。
――財産権を目的とする行為。
「今回は土地建物の売買でした」
「ああ」
「財産を移す行為なので、詐害行為取消権の対象になり得ます」
「そうだ」
では。
婚姻や離婚など、身分関係そのものを形成する行為はどうでしょう。
原則として、財産権を目的とする行為とは区別されます。
「だから、借金がある人が結婚したという理由だけで、債権者が婚姻を取り消せるわけじゃないんですね」
「当たり前だろ」
「でも、試験ではそこを聞いてくるんですよ!」
私は鉛筆で線を引きました。
婚姻そのものと、財産の移転は別問題。
たとえば財産分与についても、離婚に伴うものだから一切取消しの対象にならない、と単純には言えません。
相当な範囲を著しく超える財産分与などについては、詐害行為取消しが問題となることがあります。
「つまり」
私は言いました。
「名前だけで決めるんじゃなくて、実際にどんな財産行為が行われたかを見るんですね」
「そうだ」
片桐所長が頷きました。
「法律行為の性質と、財産への影響を見ろ」
なるほど。
ここでも結局、事実が大切なのです。
「じゃあ、いよいよ悪意ですね!」
私はノートの中央に大きく書きました。
――詐害意思。
債務者が、債権者を害することを知っていたこと。
「今回の義雄さんは、どうでしたか?」
相馬先輩が聞きました。
「借金があることを知っていました」
「うん」
「返済期限が過ぎていることも知っていました」
「そうだ」
「さらに、土地建物が借金返済の裏付けになることを、春江さんへの手紙で自分から説明していました」
「そうだったな」
私は続けました。
「それなのに、弟へ著しく安い価格で売却し、返済できる財産がなくなった」
「うん」
「だから、債権者を害する認識があったと考える重要な事情になるんです」
「正解」
私は嬉しくなりました。
でも。
相馬先輩は、まだ続けます。
「じゃあ、弟の正志は?」
「受益者です!」
「それは知ってる。何が問題になる?」
「……受益者の悪意です」
「そうだ」
旧民法四百二十四条は、受益者が債権者を害すべき事実を知らなかった場合の保護を定めていました。
現代でも、受益者の善意・悪意は重要です。
ただし、単に兄弟だから悪意だというわけではありません。
売買の際に、債権者を害する事情を知っていたかが問題になります。
「今回、決め手になった資料がありましたね」
私はノートから一枚の写しを取り出しました。
正志が春江さんへ送った手紙。
売買契約の五日前。
そこには、こう書かれていました。
――兄が土地を所有したままでは、債権者から差押えを受けるおそれがあることも理解しております。
「これは強かったですね……」
「ああ」
相馬先輩が頷きました。
「契約前から借金と差押えの危険を知っていた。その証拠になる」
「しかも、売買代金の支払いまで怪しかった」
「そうだ」
もちろん、手紙一枚だけであらゆる要件が証明されたわけではありません。
でも。
知らなかった。
何も分からなかった。
普通の売買だと思っていた。
そうした主張をするには、正志は多くの事情について説明しなければならなくなったのです。
「先輩」
「何だ」
「悪意って、法律用語では『嫌な性格』って意味じゃないんですよね」
「そうだ」
「必要な事実を知っていたかどうか、という意味ですね」
「そのとおり」
私は赤線を引きました。
――悪意は、原則として知っていること。善意は、知らないこと。
性格診断ではありません。
法律用語は、日常語と意味が違うことがある。
ここも、行政書士試験で気をつけたいところです。
「ところで先輩」
「何だ」
「もし弟さんが、土地をさらに別の人へ売っていたら?」
相馬先輩がこちらを見ました。
「昨日も聞いたな」
「気になって眠れませんでした!」
「大げさだな」
私はノートに新しい人物を書きました。
D――第三者。
義雄から正志へ土地建物が移る。
さらに正志からDへ売却される。
「このDが、転得者ですね」
「そうだ」
私は頷きました。
詐害行為取消権では、受益者だけでなく、転得者も問題になることがあります。
ただし。
ここが重要です。
転得者なら誰でも相手にできるわけではありません。
「現代の民法では、四百二十四条の五があるんですよね」
私は思わず口にしました。
「……また未来の条文か」
相馬先輩が顔をしかめました。
「あっ」
しまった。
令和の知識です。
現代では、転得者についての要件が詳しく明文化されています。
直接の転得者なら、その転得者が取得時に債権者を害する事実を知っていたか。
転得が何段階にも重なった場合には、その途中の取得者たちの認識も問題になります。
そして、昭和六十三年。
当時は、転得者への請求について、判例によって積み重ねられた考え方が重要でした。
「つまり」
私は言いました。
「弟から買った人が善意だったら、その人まで当然に土地を返さなければいけない、とは言えないんですね」
「そうだ」
先輩が頷きました。
「取引の安全も守らなきゃならねえからな」
私は少し考えました。
債権者を守る。
でも。
何も知らずに財産を買った人も守る。
その両方を考える。
「民法って、片方の味方だけをする法律じゃないんですね」
「そういうことだ」
片桐所長が言いました。
「公平を考えるというのは、関係者全員の立場を見ることだ」
私は、その言葉をノートに書きました。
「さて、こはる」
相馬先輩が言いました。
「はい!」
「一番大事なところを忘れてねえか?」
「何でしょう?」
「裁判の相手だ」
「あっ!」
私はノートをめくりました。
詐害行為取消訴訟。
債権者が原告。
では、被告は誰か。
「義雄さん……ではありません!」
「よし」
「今回なら、受益者である弟の正志さんです!」
「そうだ」
私は頷きました。
ここは本当に重要。
借金を返していない本人が義雄だからといって、詐害行為取消訴訟の被告も義雄だとは限らない。
財産を取得した受益者や、要件を満たす転得者が、取消請求の相手になります。
現代の民法四百二十四条の七では、その被告について明確に規定されています。
そして。
現代では、訴訟を提起した債権者が、債務者に訴訟告知をする必要があることも定められています。
「でも昭和六十三年には、今の四百二十四条の七はありません」
「そうだ」
「だから当時の制度と判例に従って、訴訟の相手方を考える必要があるんですね」
「うん」
私は赤線を引きました。
――貸金返還請求の相手と、詐害行為取消訴訟の被告は区別する。
これなら覚えられます。
「ちなみに先輩」
「何だ」
「行政書士が、その訴訟を代理することは?」
「できねえ」
「ですよね!」
私は頷きました。
私たちができること。
借用証書を確認する。
登記簿を調べる。
事実関係を整理する。
内容証明郵便など、業務範囲内の書類を作成する。
そして。
紛争の代理交渉や訴訟が必要になれば、弁護士へ引き継ぐ。
行政書士が法律紛争の代理人として示談交渉をすることはできません。
「つまり」
私は言いました。
「相手を口論で負かすのが、私たちの仕事じゃないんですね」
「そうだ」
相馬先輩が笑いました。
「必要な事実を残して、必要な専門家につなぐ。それが仕事だ」
私は頷きました。
片桐事務所の書類が強い理由。
それは、威圧的な言葉が並んでいるからではありません。
事実と法律の対応関係が、きちんと整理されているからなのです。
「次は、取消しの範囲です!」
私はノートに数字を書きました。
三百万円。
二千万円。
「春江さんの債権は三百万円でした」
「ああ」
「でも、土地建物の時価は二千万円前後でした」
「そうだ」
「では、三百万円の債権を守るために、二千万円の土地建物の売買全部を取り消せるんでしょうか?」
相馬先輩が頷きました。
「いい問題だな」
私は少し嬉しくなりました。
「ありがとうございます!」
「まだ答えてねえぞ」
「……はい」
私は考えました。
現代の民法四百二十四条の八。
詐害行為の目的が可分である場合には、原則として自己の債権額を限度に取消しを請求する。
たとえば。
債務者が友人に現金一千万円を贈与した。
債権者の債権は三百万円。
金銭は分けられます。
だから、可分な行為については債権額による制限が問題になります。
では土地建物は?
「そのまま三百万円分だけを切り離せるとは限りません」
「そうだ」
「不可分な不動産の処分については、全部の取消しが認められる場合があるんですよね」
「そうだな」
私は頷きました。
昭和六十三年にも、取消しの範囲について判例・解釈上の整理がありました。
現代では、その考え方が条文として明確にされている部分があります。
ただし。
「ここを間違えちゃいけません」
私は強調しました。
「土地建物の売買全部を取り消せる場合があることと、春江さんが二千万円の土地建物を自分のものにできることは、別です!」
相馬先輩が笑いました。
「そのとおり」
詐害行為取消権は、債権者に思いがけない利益を与えるための制度ではありません。
責任財産を回復させ、債権の実現を図るための制度なのです。
私はノートに書きました。
――全部を取り消せることと、全部をもらえることは違う。
うん。
これなら分かりやすい。
「じゃあ、取消しの効果です」
私は続けました。
「土地を取り戻したら、どうなるんでしょう?」
相馬先輩が聞きました。
「債務者の責任財産として、回収を図れる状態にすることが目的です」
「うん」
「でも、詐害行為取消しに勝ったからといって、春江さんの三百万円が自動的に口座へ振り込まれるわけではありません」
「そうだ」
私は頷きました。
今回。
正志は、法律上の問題を知って売買を解消しました。
その後。
土地建物の名義が義雄へ戻った。
そして、弁護士が関与する中で返済が進んだ。
でも、仮に詐害行為取消訴訟になっていたとしても。
取消しを認める判決だけで、春江さんの貸金債権そのものが満足されるとは限りません。
「ここで、民法四百二十五条ですね」
私はノートを開きました。
昭和六十三年の民法四百二十五条には、詐害行為の取消しが、すべての債権者の利益のために効力を生ずるという規定がありました。
「だから、春江さんだけで財産を独占できるわけじゃないんですね」
「そうだ」
ただし、ここにも制度ギャップがあります。
旧法下では、詐害行為取消判決の効力について、債務者との関係などをめぐり、判例上の相対的取消しという考え方が重要でした。
一方、現代の民法四百二十五条では、取消しを認める確定判決が、債務者及びすべての債権者にも効力を有することが明文化されています。
「……なるほど」
私は鉛筆を止めました。
「昔は判例や解釈で整理していた複雑な問題を、現代では条文で分かりやすくした部分があるんですね」
「そういうことだ」
片桐所長が頷きました。
「制度の効果が誰に及ぶかは、実務では非常に重要だ」
私は少し考えました。
たしかに。
裁判に勝った。
その判決は誰に効くのか。
誰が財産を返すのか。
ほかの債権者はどうなるのか。
そこが曖昧では、権利の実現にも困ります。
「改正民法って、ただ言葉を新しくしただけじゃないんですね」
私は呟きました。
昔から積み重ねられた判例や解釈を整理し、取引の安全と債権者保護の調整を、より明確にした面があるのです。
「ここで、もう一問だ」
相馬先輩が言いました。
「はい!」
「もし、逃がされた財産が土地じゃなくて現金だったら?」
「現金?」
「ああ。義雄が弟に五百万円を贈与した場合だ」
私は考えました。
「詐害行為取消しが認められれば、金銭の返還が問題になります」
「うん」
「そして現代では、一定の場合に、債権者が自分への支払いを求めることができるんですよね」
私はノートに書きました。
――現代民法四百二十四条の九。
受益者に金銭の支払いを求める場合。
一定の要件のもとで、債権者自身への支払いを求めることができます。
また、動産の引渡しや価額償還についても、条文上の定めがあります。
「でも先輩」
「何だ」
「自分への支払いを求められるからといって、無条件に優先弁済を受けられる制度というわけではないんですよね」
「そうだ」
詐害行為取消権の基本は、債務者の責任財産を保全すること。
債権者一人のために特別な優先権を創設する制度ではありません。
旧法下でも、判例上、金銭について取消債権者への直接の支払いが認められる場面がありました。
現代では、その取扱いの一部が明文化されています。
「なるほど……」
私は頷きました。
土地なら、原状回復のための登記などが問題になる。
金銭なら、支払いが問題になる。
動産なら、引渡しが問題になる。
財産の種類によって、回復の方法も変わるのです。
「法律って、本当に細かいですね」
「細かくなきゃ困るだろ」
「それもそうですけど!」
相馬先輩が笑いました。
「金と土地を同じように扱ったら、おかしくなるからな」
確かに。
三百万円の現金なら、分けられます。
でも、土地建物は、いつでも自由に三百万円分だけ切り出せるわけではありません。
だからこそ。
取消しの範囲も。
財産の返還方法も。
法律で整理する必要があるのです。
「さて」
片桐所長が声をかけました。
「こはる」
「はい!」
「期間は覚えたか」
私は背筋を伸ばしました。
「はい!」
来ました。
今回の最大の時代錯誤ポイント。
私はノートに二つの数字を書きました。
――二年。
――二十年。
「昭和六十三年の民法四百二十六条です!」
まず。
債権者が取消しの原因を知った時から二年。
そして。
行為の時から二十年。
「そうだ」
相馬先輩が頷きました。
「お前、最初は何年って言ってた?」
「……十年です」
「何でだ?」
「現代では十年だからです!」
「またそれか」
私は頭を抱えました。
本当に。
転生者には、民法改正が最大の敵です。
現代の民法四百二十六条では。
債務者が債権者を害することを知って行為をしたことを、債権者が知った時から二年。
または、行為の時から十年。
この期間を経過すると、詐害行為取消請求の訴えを提起できなくなります。
「つまり!」
私は鉛筆を立てました。
「知った時からの二年は、昭和と現代で共通!」
「うん」
「でも、行為時からの長期期間は、昭和では二十年!」
「そうだ」
「現代では十年!」
「よし」
私は二重線を引きました。
なお、旧法では四百二十六条が取消権の消滅時効として定められていたのに対し、改正後は訴えを提起できる期間の制限として規定されています。
単に数字が変わっただけではありません。
規定の仕組みにも違いがあるのです。
「先輩」
「何だ」
「もし昭和六十三年に、令和の民法だけを覚えて試験を受けたら、大変ですね」
「そりゃ大変だろうな」
「十年と書いて間違える!」
「そうだな」
「三項とか四項とか言っても、条文が違う!」
「ああ」
「四百二十四条の七なんて、当時は存在しない!」
「お前、未来の民法に詳しすぎるだろ」
「……予習です!」
相馬先輩は呆れた顔をしました。
危ない。
また未来人だと疑われるところでした。
でも。
この改正の違いは、現代の行政書士試験を勉強する人にも重要です。
昔の判例問題と。
現在の条文問題。
同じ「詐害行為取消権」というテーマでも、適用される時代の法律を確認しなければならない。
法律を勉強するときは。
いつの法律なのか。
いつの判例なのか。
そこまで意識する必要があるのです。
「ところで、所長」
私は顔を上げました。
「何だ」
「どうして現代では、詐害行為取消権の規定がこんなに詳しくなったんでしょう?」
所長は少し考えました。
「古い条文だけでは、実務上の問題を十分に説明しきれなかったからだろうな」
「なるほど……」
私はノートを見ました。
昭和六十三年の旧民法。
詐害行為取消権についての条文は、現在と比べると非常に簡潔です。
でも、現実の事件は複雑です。
債務者が土地を売った。
売却代金を使ってしまった。
受益者がさらに転売した。
複数の債権者がいる。
担保権も付いている。
金銭で返すべきか。
現物を返すべきか。
誰が訴訟の相手になるか。
判決は誰に効くのか。
そうした問題に、昔の裁判所は判例を積み重ねながら対応してきました。
その後。
平成二十九年の債権法改正。
令和二年四月一日の施行。
詐害行為取消権についても、要件、行使方法、効果などが詳しく整理されました。
「つまり」
私は言いました。
「法律の考え方をゼロから作り直したんじゃなくて、長年の裁判実務を踏まえて、ルールを明確にしたんですね」
「そうだな」
相馬先輩が頷きました。
「昔の条文は短い。でも、実際に使うには判例を知らなきゃ困ることが多い」
「はい」
「今も判例は重要だが、明文化された部分が増えたというわけだ」
私は頷きました。
昔の法律を学ぶことには、意味があります。
なぜ現代の条文に細かい規定があるのか。
なぜ受益者や転得者の保護が必要なのか。
なぜ判決の効力まで決める必要があるのか。
それが見えてくるからです。
「所長」
「何だ」
「現代の民法がちょっと好きになりました」
「そうか」
「でも、昭和の民法も面白いです」
「うん」
「ただし、カタカナの条文は読みにくいです!」
相馬先輩が吹き出しました。
「そこは我慢しろ!」
「はい!」
窓の外は、すっかり夕暮れでした。
私はノートを見直しました。
詐害行為取消権。
最初は、ただの借金逃れを取り消す制度だと思っていました。
でも。
実際には、いくつもの条件があります。
債権があること。
財産処分より前の原因に基づく債権であること。
債務者の責任財産が不足すること。
財産権を目的とする行為であること。
債権者を害すること。
債務者に詐害意思があること。
受益者や転得者の認識について、法律上の要件を満たすこと。
そして。
裁判所で行使すること。
「……多いですね」
私が呟くと、相馬先輩が言いました。
「だから、現場の事件で覚えろ」
「はい」
私は頷きました。
春江さんの三百万円。
義雄の土地建物。
弟の正志。
二百万円の売買代金。
差押えを恐れていたことを示す手紙。
内容証明。
弁護士への相談。
そして、自主的な売買の解消。
あの事件を思い出せば。
条文が、一つずつ意味を持ちます。
「先輩」
「何だ」
「確認問題を出してください!」
「またかよ」
「お願いします!」
相馬先輩は煙草を消しました。
「じゃあ、一問目」
「はい!」
「債務者が財産を売ったら、必ず詐害行為になるか?」
「なりません!」
「理由は?」
「正常な財産処分もありますし、債権者を害するかどうか、無資力や当事者の認識など、必要な要件を確認しなければならないからです!」
「よし」
私は拳を握りました。
「二問目」
「はい!」
「債権者が、内容証明だけで詐害行為取消権を行使できるか?」
「できません! 裁判所に請求する必要があります!」
「よし」
「三問目」
「はい!」
「債務者Bが受益者Cに土地を売った。詐害行為取消訴訟の被告は、普通は誰だ?」
「受益者Cです!」
「正解」
「四問目」
「はい!」
「債権額が三百万円なら、二千万円の土地建物の売買全部を取り消すことは絶対にできないか?」
「いいえ! 不可分な財産処分では、全部の取消しが認められる場合があります!」
「じゃあ、土地建物全部を債権者がもらえるのか?」
「もらえません!」
「よし」
「五問目」
「はい!」
「昭和六十三年の民法四百二十六条。長期期間は?」
「二十年!」
「現代は?」
「十年!」
「知った時からは?」
「二年!」
相馬先輩が頷きました。
「よし。そこまで覚えりゃ上出来だ」
……!
やった!
「先輩!」
「何だ」
「今日は褒めましたね!」
「まあな」
「珍しい!」
「調子に乗るな!」
私は笑いました。
でも。
今日は少しだけ、民法に勝てた気がします。
「では最後に」
片桐所長が声をかけました。
「こはる」
「はい」
「今回、法律が守ったものは何だ?」
私は少し考えました。
三百万円。
春江さんのお金。
でも。
それだけではありません。
「……約束を守ってもらえるという信頼です」
私は答えました。
所長が顔を上げます。
「ほう」
「春江さんは、義雄さんを信用してお金を貸しました」
「うん」
「でも、義雄さんは借金を返さず、財産まで弟に移してしまった」
「そうだ」
「そんなことが自由にできるなら、約束を信じた人だけが損をすることになります」
私は続けました。
「だから民法は、債務者が財産を不当に逃がした場合に、一定の条件で取り消す手段を用意しているんだと思います」
片桐所長は、静かに頷きました。
「そうだ」
私はノートの最後のページを開きました。
ここに。
今日の一行を書きます。
鉛筆を整えて。
ゆっくり。
――詐害行為取消権は「債務者が不当に逃がした責任財産を、裁判所の力で取り戻すための権利」。
「……できました!」
私はノートを掲げました。
相馬先輩が覗き込みます。
「今回は分かりやすいな」
「本当ですか!」
「ああ」
「やりました!」
私は笑いました。
でも。
この一行を覚えるたびに、きっと思い出します。
春江さんの食堂。
朝早くから揚げていたコロッケ。
十年近くかけて貯めた三百万円。
そして。
「財産は弟に売ったから、もう返せない」
と言い放った、義雄の顔。
登記を変えれば。
契約書を作れば。
誰にも手を出せない。
そんな思い込みを。
民法は、必ずしも許しません。
ただし。
取引の安全も大切にする。
知らずに財産を取得した人の保護も考える。
だから、要件がある。
だから、裁判が必要になる。
その慎重さこそが、民法の公平さなのだと思います。
「ところで、こはる」
相馬先輩が言いました。
「はい?」
「昨日のコロッケの件、覚えてるか?」
「もちろんです!」
「所長の分まで食っちまったからな」
「そうでしたね!」
私はにやりとしました。
「先輩、今日は買ってきたんですよね?」
「ああ」
相馬先輩は机の上に紙袋を置きました。
中には、コロッケが六個。
「おお!」
私は拍手しました。
「さすが先輩!」
「うるせえな」
片桐所長が紙袋を見ました。
「相馬」
「はい」
「俺の分は?」
「二個です」
「こはるは?」
「二個」
「お前は?」
「二個です」
所長が頷きました。
「公平だな」
「はい!」
私はコロッケを一つ取りました。
すると。
相馬先輩が、もう一つの紙袋を取り出しました。
「……?」
私は首をかしげました。
「先輩、それは?」
「俺の夜食だ」
「え?」
中を覗くと。
さらにコロッケが四個。
「ずるい!」
「何がだ!」
「私たちには二個なのに、先輩は六個じゃないですか!」
「自分の金で買ったんだよ!」
……。
私は考えました。
そして。
「先輩!」
「何だ!」
「その四個、私の目から逃がしましたね!」
「何をだよ!」
「詐害行為です!」
「違うわ!」
相馬先輩が机を叩きました。
「お前は俺に対して何の債権を持ってるんだ!」
「コロッケを食べたいという気持ちです!」
「それは債権じゃねえ!」
……。
なるほど。
また一つ、勉強になりました。
詐害行為取消権。
何でも取り消せるわけではありません。
まず、守るべき債権が必要なのです。
「じゃあ先輩!」
「まだ何かあるのか!」
「明日、私にコロッケを二個買ってくれるって約束してください!」
「何でだよ!」
「約束すれば、債権が発生するかもしれません!」
「そんな約束しねえよ!」
私は笑いました。
片桐所長も、少しだけ口元を緩めました。
窓の外。
昭和六十三年の町に、夕暮れの明かりが灯っていきます。
春江さんの食堂からも、きっと揚げ物のいい匂いが漂っているのでしょう。
借金を返してもらえない人。
財産を逃がされてしまった人。
そんな人たちの権利を守るために、民法は今日も働いています。
私はノートを閉じました。
詐害行為取消権。
民法第四百二十四条。
難しい名前。
複雑な要件。
昭和と令和で異なる条文。
でも。
今日の一行は、きっと忘れません。
――詐害行為取消権は、債務者が不当に逃がした責任財産を、裁判所の力で取り戻すための権利。
「こはる!」
相馬先輩の声が飛びました。
「はい!」
「ノートは終わったか!」
「はい!」
「じゃあ茶を入れろ!」
「分かりました!」
私は立ち上がりました。
ただし。
今度は、先輩のコロッケには手を出しません。
だって。
自分のものでない財産を、勝手に動かしてはいけない。
そんな当たり前のことを。
今日は、民法四百二十四条から学んだのです。
……もっとも。
コロッケを一個くらい分けてほしいという気持ちまで。
民法が取り消してくれるわけではありませんでした。
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