↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
こはる行政書士見習帖 〜 昭和に転生して許認可に振り回されると試験知識が骨身にしみます 〜  作者: 条文小説
〈民法 配点76点/300点〉 債権

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
497/606

[詐害行為取消権]現場編 「財産は全部、弟に売りました」の嘘。借金逃れの偽装売買と、民法424条が暴く兄弟の悪知恵

挿絵(By みてみん)

 借金を踏み倒す人間は、ときどき財産まで消してしまいます。


 もちろん。


 本当に消えるわけではありません。


 土地も。


 建物も。


 預金も。


 どこかに存在しています。


 ただし。


 名義だけが、別の人間に変わっているのです。


 そして、借金を返してほしい債権者に向かって、こう言います。


「もう俺には財産がない。差し押さえたければ、好きにしろ」


 ……。


 好きにしろ、ですか。


 いいでしょう。


 それなら。


 その財産を移した契約そのものを、裁判所で取り消してもらうことを考えましょう。


 昭和六十三年。


 片桐行政書士事務所。


 その日の私は、民法の中でも、とびきり物騒な名前の権利に出会うことになります。


 ――詐害行為取消権。


 読んで字のごとく。


 債権者を害するために行われた財産処分を、取り消すための権利です。


 ただし。


 この権利には、一つだけ大きな落とし穴がありました。


 内容証明を送っただけでは。


 絶対に、取り消せないのです。


「三百万円を、返してもらえないんです」


 朝九時。


 事務所を訪れた女性は、両手で風呂敷包みを抱えていました。


 名前は、杉山春江さん。


 五十六歳。


 駅前商店街で、小さな食堂を営んでいます。


 ご主人を亡くしてから十年。


 一人で店を切り盛りしてきたそうです。


「三百万円……ですか」


 私は思わず聞き返しました。


「はい」


「誰に貸したんですか?」


「大村さんという方です」


 大村義雄。


 四十八歳。


 町で建材商を営んでいる男性でした。


「去年の春、工事の支払いが間に合わないから、半年だけ貸してくれって頼まれたんです」


「それで三百万円を?」


「はい」


 春江さんは風呂敷を開きました。


 中から出てきたのは、一枚の借用証書。


 ――借入金額 金参百萬圓也。


 ――返済期限 昭和六十二年十月三十一日。


 ――借主 大村義雄。


 署名。


 実印。


「ちゃんと書類があるんですね」


「主人が生きていた頃からの知り合いだったので……」


 春江さんは申し訳なさそうに笑いました。


「信用してしまったんです」


「でも、返済期限はとっくに過ぎていますよね」


「そうなんです」


 何度催促しても、


「来月には払う」


「大きな仕事が入る」


「もう少し待ってくれ」


 そればかり。


 そして先週。


 とうとう義雄は、こう言い放ったそうです。


「もう俺には何もない。裁判したって一円も取れないぞ」


 ……。


 私は眉をひそめました。


「ひどいですね」


「でも……」


 春江さんが声を震わせました。


「あの人、立派な家を持っているんです」


「家?」


「はい。町外れに、広い土地と二階建ての家があって」


「それなら、不動産がありますよね」


「そう思っていたんですけど……」


 春江さんは、もう一枚の紙を取り出しました。


 法務局で取得した、不動産登記簿の謄本。


 私は目を通しました。


 土地。


 宅地。


 面積、三百二十平方メートル。


 建物。


 木造瓦葺二階建。


 そして。


 所有権移転。


 原因。


 昭和六十三年六月十五日売買。


 新しい所有者。


 ――大村正志。


「大村……」


 私は顔を上げました。


「もしかして、親戚ですか?」


「弟さんです」


 弟。


 借金を返さない兄。


 土地と建物を買い取った弟。


 私は嫌な予感がしました。


「春江さん。売買代金は分かりますか?」


「それが……」


 春江さんは唇を噛みました。


「二百万円だそうです」


「二百万円?」


 私はもう一度、登記簿を見ました。


 土地が三百二十平方メートル。


 建物もある。


 町外れとはいえ、住宅地です。


「ちょっと待ってください。それ、本当に二百万円ですか?」


「はい」


「土地と建物、全部で?」


「そう聞きました」


 私は思わず立ち上がりました。


「安すぎませんか!?」


 相馬先輩が新聞を下ろしました。


「おい、こはる」


「はい!」


「声がでかい」


「だって先輩! 土地と家を二百万円ですよ!」


「まず時価を調べろ」


「あ」


「相場も知らずに、安すぎると決めつけるな」


 ……正論。


 悔しい。


 片桐所長が静かに口を開きました。


「杉山さん」


「はい」


「大村さんには、ほかに財産があると聞いていますか」


「いいえ。仕事もほとんどなくなって、預金もないと言っています」


「土地と家を売った代金は?」


「もう使ってしまった、と」


 所長は頷きました。


「なるほど」


 そして一言。


「調べる価値はある」


 私は、所長の横顔を見ました。


 あ。


 この顔。


 いつもの顔です。


 何かに気づいたときの、あの静かな顔。


 きっと。


 法律が動き始めています。


「所長! 詐害行為取消権ですよね!」


 春江さんが帰ったあと。


 私は勢いよく六法を開きました。


「民法四百二十四条!」


 債務者が債権者を害することを知ってした行為。


 その取消しを裁判所に請求できる。


 まさに今回です。


「義雄さんは三百万円の借金があるのに、土地と建物を弟に売った!」


「うん」


「しかも二百万円!」


「うん」


「ほかに財産がない!」


「そうだな」


「だったら、詐害行為取消請求です!」


 私は興奮して続けました。


「被保全債権は、売買前の貸金債権です! 無資力で、財産権を目的とする行為で、詐害意思があれば――」


「待て」


 相馬先輩が遮りました。


「はい?」


「お前、また妙な条文を読んでないか?」


「え?」


「被保全債権が行為前の原因に基づくことを明文化した、四百二十四条三項がどうしたって?」


「……!」


 私は固まりました。


 あ。


 しまった。


 またです。


 また、やってしまいました。


 私の頭に入っているのは、現代の改正民法。


 でも。


 ここは昭和六十三年。


 民法四百二十四条は、今のように細かな規定が並んでいるわけではありません。


「お前な」


 相馬先輩が呆れた声を出しました。


「どこの六法から来たんだよ」


「未来……じゃなくて、予習です!」


「何を予習したんだ」


「いろいろです!」


「怪しい奴だな」


 私は慌てて昭和六十三年の六法を開き直しました。


 そこには、古めかしい言葉が並んでいます。


 ――債権者ハ債務者カ其債権者ヲ害スルコトヲ知リテ為シタル法律行為ノ取消ヲ裁判所ニ請求スルコトヲ得。


 ……。


 読みにくい!


 漢字とカタカナ!


 句読点も少ない!


 現代の民法に慣れた私には、ちょっとした暗号です。


「先輩」


「何だ」


「意味は同じ方向なんですけど、文章が読みにくいです」


「読め」


「厳しい!」


「昭和の法律で仕事するんだから当たり前だろ」


 私はため息をつきました。


 でも。


 詐害行為取消権の基本的な考え方は、昭和にも存在しています。


 借金を返さないために、債務者が財産を不当に逃がした。


 それを放置すれば、債権者は回収できなくなる。


 だから、一定の要件のもとで、裁判所にその行為の取消しを求める。


 なるほど。


 法律の根っこは変わっていません。


「ところで、こはる」


 片桐所長が聞きました。


「はい」


「誰を相手に訴えるつもりだ」


「もちろん、大村義雄さんです!」


「……」


「借金を返さない本人ですから!」


 所長は黙りました。


 相馬先輩が、にやりと笑いました。


 ……嫌な予感。


「こはる」


「はい」


「それ、誰が財産を持ってるんだ?」


「弟の正志さんです」


「じゃあ、取り戻すべき財産は誰の名義だ?」


「弟さんです」


「だったら?」


「……あ」


 私は口を押さえました。


 そうです。


 詐害行為取消しの訴訟。


 そこで取消しや財産の回復を求める相手は、通常、受益者や転得者です。


 今回なら。


 土地と建物を取得した弟。


 大村正志。


「義雄さんは債務者ですけど、詐害行為取消訴訟の被告は弟さんになるんですね」


「そうだ」


 相馬先輩が頷きました。


「債務者本人に金を払えと請求する訴訟と、逃がした財産を取り戻すための訴訟は別だ」


「はい!」


「混同するなよ」


 私はノートに書きました。


 債権者――杉山春江。


 債務者――大村義雄。


 受益者――大村正志。


 それぞれに矢印を引きます。


 ……よし。


 これで見えてきました。


「所長!」


「何だ」


「さっそく内容証明で売買契約を取り消しましょう!」


 その瞬間。


 所長の鉛筆が止まりました。


「こはる」


「はい?」


「それはできん」


「……え?」


「詐害行為取消権は、裁判所に請求して行使する権利だ」


 私は瞬きしました。


 ……そうでした。


 知っていたはずなのに。


 完全に舞い上がっていました。


 内容証明郵便で、


「契約を取り消します!」


 と宣言したところで。


 詐害行為取消権を行使したことにはならない。


 裁判が必要なのです。


「じゃあ、行政書士には何もできないんですか?」


 私が尋ねると、相馬先輩は鼻で笑いました。


「馬鹿言え」


「え?」


「裁判が必要なら、その裁判に必要な証拠を揃えるんだよ」


 先輩は六法を閉じました。


「俺たちは裁判で戦えねえ。だが、裁判になる前に相手へ事実と法律を示す書面は作れる」


「はい」


「その書面を見て、相手が自分から財産を戻すなら、それはそれだ」


 片桐所長が続けました。


「ただし、こちらから代理人として示談交渉はしない。依頼人の意思を確認して、本人名義の通知書を作る。訴訟が必要なら弁護士へ引き継ぐ」


「……なるほど」


 私は頷きました。


 詐害行為取消権。


 それ自体は裁判所で行使する。


 でも、その前段階で。


 証拠を集める。


 事実を整理する。


 法律上の問題を正確に指摘する。


 そうして、相手が自発的に財産処分を見直すきっかけを作ることはできる。


「よし!」


 私は鉛筆を握りました。


「まずは、証拠ですね!」


「そうだ」


 相馬先輩が立ち上がりました。


「行くぞ」


「どこへですか?」


「現場だ」


 ……。


 出ました。


 昭和の法律実務。


 六法だけでは終わりません。


 足を使え。


 目で見ろ。


 耳で聞け。


 そして、全部紙に残せ。


 これが、片桐事務所の流儀なのです。


 翌日。


 私たちは、大村義雄の所有していた家を確認するため、町外れへ向かいました。


 正確には。


 もう義雄名義ではありません。


 弟の正志名義です。


 でも。


「……先輩」


「何だ」


「あの人、普通に住んでません?」


 門の前。


 表札には、


 ――大村義雄。


 と書かれています。


 庭には軽トラック。


 物干し竿には作業着。


 そして。


 窓から見えるのは、義雄本人。


 新聞を読んでいます。


「売った家に、まだ住んでるんですね」


「そうだな」


「賃貸借契約でも結んでるんでしょうか」


「確認しなきゃ分からん」


 先輩は手帳を開きました。


 売却後も居住継続。


 表札変更なし。


 使用状況、従前と同様。


 私は頷きました。


 これだけで偽装売買だと断定はできません。


 土地を売った後、元の所有者が借りて住むことだってあります。


 でも。


 調べるべき事情にはなります。


 そこへ。


「おい!」


 門の向こうから、男の声がしました。


「何を見てる!」


 義雄です。


 四十八歳。


 角刈り。


 太い腕。


 いかにも建材商という風貌です。


「片桐行政書士事務所の相馬です」


「行政書士?」


 義雄は顔をしかめました。


「何の用だ」


「杉山さんからご相談を受けています。資料確認のため伺いました」


「……あの食堂のおばさんか」


 義雄は舌打ちしました。


「まだ三百万、三百万って騒いでるのか」


 私は眉をひそめました。


 騒いでいる?


 自分のお金を返してほしいと言っているだけなのに。


「借用証書に、返済期限が記載されています」


 私は言いました。


「ああ、あるな」


「期限は過ぎています」


「知ってるよ」


「それなら――」


「金がないんだよ!」


 義雄が怒鳴りました。


「ないものは払えないだろ!」


 ……。


 私は深呼吸しました。


 ここで言い返しても仕方ありません。


 でも。


「では、土地と建物を弟さんに売ったのは事実ですか?」


「ああ」


「二百万円で?」


「そうだ」


「その代金は?」


「使った」


「何にですか?」


「何だっていいだろ!」


 義雄は腕を組みました。


「俺の財産を誰に売ろうが、俺の勝手だ」


 そして。


 にやりと笑いました。


「登記も終わってる。もう俺の家じゃない」


「……」


「差押え? 好きにしろよ」


 義雄は笑い続けました。


「俺名義の土地なんか、一坪もねえぞ」


 私は拳を握りました。


 くっ。


 腹が立つ。


 そこへ、家の奥から別の男が出てきました。


「兄貴、何だよ騒がしいな」


 三十代後半。


 痩せた男性。


 大村正志。


 義雄の弟でした。


「正志」


 義雄が言いました。


「例の借金取りだ」


「借金取りじゃありません!」


 私は反射的に言い返しました。


「行政書士事務所です!」


 正志は鼻で笑いました。


「ああ、代書屋さん?」


 ……。


 出た。


 この時代の敵役。


 行政書士を見ると、とりあえず代書屋と呼んで舐めてかかるタイプです。


「契約書ならあるよ」


 正志は言いました。


「兄貴から俺が買った。売買代金も払った。登記も済んだ」


「代金を支払った証拠はありますか?」


 相馬先輩が尋ねました。


「領収書がある」


「そうですか」


「何だよ。不満なのか?」


「いえ。確認しただけです」


 正志は勝ち誇った顔をしました。


「俺の土地と家なんだから、関係ない奴は帰ってくれ」


 相馬先輩は頷きました。


「分かりました」


「……え?」


 私は驚きました。


 もう帰るんですか?


「義雄さん」


 先輩が言いました。


「杉山さんへの借金は、今も未払いですね」


「ああ」


「土地と建物は、弟さんへ売却された」


「そうだ」


「売買代金は使い切った」


「ああ」


「それで、返済に充てられるほかの財産はないと」


「何度も言わせるな」


 先輩は手帳を閉じました。


「分かりました」


 そして、こちらを見ました。


「こはる。帰るぞ」


「はい……」


 私たちは家を後にしました。


 背中に、義雄の笑い声が響きます。


「何だよ! もう終わりか!」


 ……。


 悔しい。


 ものすごく悔しい。


 でも。


 相馬先輩は平然としていました。


「先輩!」


「何だ」


「何で言い返さないんですか!」


「何を?」


「詐害行為取消権です!」


「それを今、俺たちが交渉で振り回してどうする」


「でも!」


 先輩は足を止めました。


「こはる」


「はい」


「今日、何が分かった」


「……義雄さんが、まだ家に住んでいること」


「うん」


「二百万円で売ったことを認めたこと」


「うん」


「売却代金は使い切ったと言っていること」


「そうだ」


「ほかに返済できる財産がないと言っていること」


「それから?」


 私は少し考えました。


「弟さんが、売買契約の存在を主張していること」


「よし」


 先輩は手帳を指で叩きました。


「必要なことは聞いた」


「でも、まだ勝ってません」


「当たり前だ」


 先輩は笑いました。


「勝負はこれからだよ」


 その顔を見て。


 私はようやく気づきました。


 相馬先輩は、言い負かすために行ったわけではありません。


 相手の主張を確認しに行ったのです。


 どんな理屈で財産を移したのか。


 どんな事情を認めるのか。


 どこに説明の食い違いがあるのか。


 その全部が。


 後で書面を作るための材料になる。


「先輩」


「何だ」


「……法律って、推理小説みたいですね」


「は?」


「相手の発言から、矛盾を探していくところが」


 先輩は煙草を取り出しました。


「推理じゃねえよ」


「え?」


「証拠だ」


 火をつけながら、言いました。


「証拠がなきゃ、どんな名推理でも裁判所じゃ通らねえ」


 ……。


 それも、正論でした。


 三日後。


 片桐行政書士事務所の机には、資料が山積みになっていました。


 まず、不動産の評価。


 地元の不動産業者に、土地建物の概算時価について参考意見を求めました。


 結果。


 土地と建物を合わせて、およそ二千万円前後。


「二千万円!?」


 私は叫びました。


「二百万円で売ったんですよね!?」


「ああ」


 相馬先輩が答えました。


「約十分の一です!」


「そうだな」


「これ、明らかにおかしいでしょう!」


「おかしい。だが、それだけで売買が当然に無効になるわけじゃねえ」


「はい……」


 先輩は机の上の資料を並べました。


「次だ」


 地元の信用金庫から取り寄せた、春江さんの振込記録。


 三百万円。


 貸付時の振込先は、義雄の事業用口座。


 借用証書の日付とも一致しています。


「貸金債権の存在は、かなり固いですね」


「そうだ」


「次は?」


「登記簿だ」


 義雄から正志への所有権移転。


 原因は売買。


 日付は、返済期限から半年以上後。


「借金が先、土地の売買が後ですね」


「そういうことだ」


 私は頷きました。


 さらに。


 相馬先輩が一枚の紙を出しました。


「これは?」


「義雄が、去年の年末に春江さんへ寄越した手紙だ」


 私は読みました。


 ――三百万円は必ず返済いたします。


 ――所有する土地建物もありますので、どうかご安心ください。


 ……。


 私は目を見開きました。


「自分で書いてる!」


「ああ」


「土地建物を持っているから安心してくださいって!」


「そうだ」


 ところが。


 その半年後。


 弟に二百万円で売却。


 しかも代金は使い切った。


 借金は返さない。


「ひどすぎる……」


 私が呟くと、片桐所長が言いました。


「問題は、そこからだ」


「はい?」


「詐害行為取消権を考えるには、債務者が債権者を害することを知っていたかが重要になる」


「詐害意思ですね」


「そうだ」


 私は頷きました。


 義雄は三百万円の借金を知っていた。


 返済期限も知っていた。


 土地建物が債権者にとって重要な回収財産になることも、手紙の内容からうかがえる。


 それを、弟へ著しく低い価格で売却した。


 しかも、返済に充てる財産がなくなった。


 これは。


 かなり強い事情です。


「でも所長」


「何だ」


「弟さんが、そんな事情を知らなかったら?」


 所長が頷きました。


「そこだ」


 私は六法を見ました。


 旧民法四百二十四条。


 受益者が、債権者を害すべき事実を知らなかった場合。


 その保護が問題になります。


「つまり、兄が悪いことを考えていても、弟が善意なら、簡単には取り消せないんですね」


「そうだ」


「兄弟というだけで、悪意だと決めつけることもできない」


「そのとおりだ」


 私は唇を噛みました。


 ……難しい。


 財産を弟に移した。


 価格も安い。


 でも、それだけで詐害行為取消しが確実に認められるとは限らない。


 弟が何を知っていたのか。


 その点も調べなければなりません。


 すると。


 相馬先輩が、もう一枚の紙を出しました。


「これを見ろ」


「何ですか?」


「正志が、春江さんに送った手紙だ」


「え?」


 春江さんは以前、義雄本人だけでなく、弟にも返済について事情を尋ねていたそうです。


 その返事。


 私は読みました。


 ――兄の借金の件は承知しております。


 ――兄が土地を所有したままでは、債権者から差押えを受けるおそれがあることも理解しております。


 ――しかし、土地建物は私が正当に買い受けたものであり、杉山様には関係ありません。


 ……。


 私は固まりました。


「先輩」


「何だ」


「これ……」


「ああ」


「本人が、自分で書いてますよね」


「そうだ」


「差押えを受けるおそれがあることも、理解しているって」


「そうだな」


 私は紙を握りしめました。


 もちろん。


 この手紙だけで、売買時点での悪意が完全に立証されたとは限りません。


 でも。


 弟が兄の借金や差押えの危険を認識していたことを示す、重要な手掛かりです。


「しかも、この手紙の日付……」


 私は目を凝らしました。


 昭和六十三年六月十日。


 売買契約の五日前。


「……!」


 つまり。


 弟は、土地建物を取得する前から。


 兄の借金も。


 差押えのおそれも。


 知っていた可能性が極めて高い。


 私は顔を上げました。


「所長!」


「うん」


「これ、すごく重要ですよね!」


「ああ」


 所長は静かに言いました。


「本人が、必要な事実を書き残している」


 ……。


 怖い。


 法律って。


 本当に怖い。


 自分は賢く立ち回ったつもりでも。


 何気なく出した一通の手紙が、後から自分の主張を崩してしまうことがあるのです。


「先輩」


「何だ」


「弟さん、どうしてこんなこと書いたんでしょう」


「知らねえよ」


「だって、明らかに不利じゃないですか」


「自分が悪いことをしてると思ってなかったんじゃねえか」


「え?」


 先輩は肩をすくめました。


「登記さえ済ませりゃ安全だと思ってたんだろ」


 なるほど。


 名義を変えれば、財産は守れる。


 契約書があれば、誰も文句を言えない。


 そんな思い込み。


 でも。


 民法は、そこまで単純ではありません。


「よし。内容証明を作るぞ」


 午後三時。


 片桐所長が言いました。


「はい!」


 私は勢いよく原稿用紙を取り出しました。


「まず、詐害行為取消権を行使します、と――」


「待て」


 相馬先輩が遮りました。


「……はい」


「さっき教えただろ」


「あっ!」


 しまった。


 またです。


 詐害行為取消権は、裁判所に請求して行使するもの。


 内容証明郵便だけでは、売買を取り消せません。


「じゃあ、何を書くんですか?」


 私が尋ねると、片桐所長は静かに答えました。


「事実と、法的な問題点だ」


「はい」


「そして、相手が自発的に財産を戻すかどうかを、本人名義の書面で確認する」


 なるほど。


 内容証明は。


 魔法の取消通知ではない。


 でも。


 相手に、自分の置かれた法的な危険を理解させる力はある。


 私は原稿用紙に向かいました。


 宛先。


 大村正志。


 差出人。


 杉山春江。


 件名。


 ――不動産売買に関する通知書。


 私は書き始めました。


 第一。


 通知人は、大村義雄に対し、昭和六十二年四月、金三百万円を貸し付けたこと。


 第二。


 返済期限は昭和六十二年十月三十一日であり、現在まで弁済を受けていないこと。


 第三。


 義雄は、昭和六十三年六月十五日、所有していた土地建物を貴殿へ売却し、所有権移転登記を行ったこと。


 第四。


 当該土地建物は、概算時価約二千万円と見込まれる一方、申告された売買代金は二百万円であり、その価格には著しい隔たりがあること。


 第五。


 義雄は売却後、ほかに十分な返済財産を有しない旨を述べていること。


 第六。


 貴殿は、売買前の昭和六十三年六月十日付書簡において、義雄の借金及び差押えのおそれを認識していた旨を記載していること。


 ……。


 私は鉛筆を止めました。


「所長」


「何だ」


「これ、もう十分じゃありませんか?」


「まだだ」


「ええっ!」


 所長は原案を見ました。


「相手が二百万円を本当に支払ったのかは、まだ確認できていない」


「はい」


「ほかの債権者がいるかも分からない」


「はい」


「土地建物に担保権が付いていたか、売買代金がどこへ流れたかも、確認が必要だ」


「……」


「無資力の判断も、手持ちの資料だけで断定するな」


 私は頷きました。


 なるほど。


 安く売った。


 借金がある。


 弟が知っていた。


 それだけで、自動的に取消しが認められるわけではない。


 詐害行為取消権は、要件を丁寧に確認する必要があるのです。


「じゃあ、法的な評価はどう書きますか?」


 相馬先輩が言いました。


「断定できる事実と、裁判所で争う必要のある評価を分けろ」


「はい!」


 私は書き直しました。


 ――以上の事情に照らし、本件売買は、債務者が債権者を害することを知ってした法律行為として、民法第四百二十四条に基づく詐害行為取消しの対象となる可能性が高いものと考えます。


 ――本通知は、詐害行為取消権そのものを裁判外で行使する趣旨ではありません。


 ――通知人は、貴殿において本件売買の経緯を再確認し、自発的な原状回復を検討されるよう求めます。


 ――応じられない場合には、弁護士への相談のうえ、詐害行為取消訴訟その他の適切な法的手段を検討する予定です。


 私は読み終わりました。


「……どうでしょう」


 相馬先輩が黙って紙を受け取りました。


 読みます。


 そして。


「悪くねえ」


 ……!


「先輩!」


「何だ」


「褒めましたね!」


「まだだ」


「ええっ!」


 先輩は原案の最後を指で叩きました。


「詐害行為取消しの効果は、春江さん一人だけのためとは限らねえ」


「あ」


 私は頷きました。


 民法四百二十五条。


 詐害行為の取消しは、すべての債権者の利益のために効力を生ずる。


 つまり。


 春江さんが三百万円を貸したからといって、二千万円の土地建物を丸ごと春江さんの財産にできるわけではありません。


 守ろうとしているのは、債務者の責任財産。


 債権者が、そこから正当に回収できる状態です。


「なるほど……」


 私は呟きました。


「相手の財産を奪うための権利じゃないんですね」


「そうだ」


 片桐所長が頷きました。


「不当に逃がした財産を、債権者の回収対象へ戻すための仕組みだ」


 私は、原案を見つめました。


 三百万円。


 春江さんにとっては、十年近く働いて蓄えた大切なお金です。


 それを取り戻すために。


 他人名義に変えられた土地建物を、もう一度、法の目で見直す。


 ……民法。


 こういうところが、面白いのです。


「ところで」


 私は六法を開き直しました。


「所長、もう一つ気になることが」


「何だ」


「期間です」


 詐害行為取消権。


 いつまでも無期限に使えるわけではありません。


 私は、現代の知識を思い出しました。


 債権者が詐害行為を知った時から二年。


 行為の時から十年。


「今回の売買は今年ですから大丈夫そうですけど、絶対的な期間は十年ですよね?」


 相馬先輩が、ぴたりと動きを止めました。


「……十年?」


「はい」


「何の十年だ」


「詐害行為取消権の期間です」


 先輩は無言で六法を開きました。


 民法四百二十六条。


 そして。


「こはる」


「はい」


「二十年だ」


 ……。


 私は固まりました。


「……え?」


「行為の時から二十年」


「二十年!?」


「ああ」


 私は慌てて条文を確認しました。


 ――債権者が取消しの原因を知った時から二年間。


 ――行為の時から二十年間。


 ……本当だ。


 二十年。


 令和の民法では十年。


 でも昭和六十三年では二十年。


「うわあ……」


 私は頭を抱えました。


「また改正民法の地雷……」


「何だそりゃ」


「いえ、こちらの話です!」


 相馬先輩が呆れました。


「お前、本当に妙なところで間違えるな」


「すみません……」


「期間を間違えるのは致命傷になるぞ」


「はい」


「しかも、知った時からの二年だってある」


 私は頷きました。


 民法の権利。


 内容を知っているだけでは駄目。


 いつまで行使できるのか。


 そこも重要です。


 もし、二年の期間を見落としたら。


 どれだけ立派な証拠を揃えても、救済を得られなくなるおそれがある。


「所長」


「何だ」


「法律の期限って、本当に怖いですね」


「ああ」


 所長は静かに答えました。


「だから、最初に日付を確認する」


 私は、売買契約の日付をもう一度見ました。


 昭和六十三年六月十五日。


 まだ間に合う。


 でも。


 安心して放置していい理由にはなりません。


 証拠が散逸する前に。


 財産がさらに第三者へ移る前に。


 必要な準備を進めなければならないのです。


 翌朝。


 春江さんが事務所へ来ました。


 私は、完成した通知書を差し出しました。


「こちらをご確認ください」


 春江さんは、ゆっくり読みました。


 途中で、何度か目を拭きました。


「……こんなに調べてくださったんですね」


「はい」


「でも、これで土地が戻るんでしょうか?」


 私は少し考えました。


 そして答えました。


「この書面だけで、売買を取り消すことはできません」


 春江さんの顔が曇りました。


「そうなんですか……」


「はい。詐害行為取消権は、裁判所に請求して行使する必要があります」


 私は続けました。


「ただ、この通知書には、法律上問題となる事実と、今後検討する手続が書いてあります」


「……はい」


「相手が自分から売買を見直す可能性はあります。でも、応じなければ弁護士さんに引き継ぎます」


 春江さんは、しばらく黙っていました。


 やがて。


「分かりました」


 そう言って、鉛筆を持ちました。


「私の名前で出してください」


 その声は、小さいけれど。


 しっかりしていました。


「はい」


 私は頷きました。


 通知人。


 杉山春江。


 本人の意思に基づいて作成する内容証明。


 それは、春江さんが自分の権利を守るための、最初の一歩です。


 書面を確認し、署名してもらいます。


 そして。


 その日の午後。


 内容証明郵便が発送されました。


 四日後。


 片桐行政書士事務所の電話が鳴りました。


「はい、片桐行政書士事務所です!」


『……あの』


 男の声。


『大村正志ですが』


 私は思わず背筋を伸ばしました。


「あ、大村さん」


『片桐さんは、いらっしゃいますか』


「少々お待ちください」


 私は受話器を片桐所長に渡しました。


「所長。大村正志さんです」


 所長は頷きました。


「片桐です」


『あの……内容証明の件で』


「はい」


『弁護士に見せました』


「そうですか」


『……あの契約、問題があるって言われまして』


 私は耳を澄ませました。


『兄貴に借金があるって知っていたことも、あの手紙で分かるだろうって』


「はい」


『それから……』


 正志の声が小さくなりました。


『二百万円っていう売買代金なんですが……』


 所長は黙って聞いています。


『実は、全部は払ってないんです』


 ……!


 私は目を見開きました。


『領収書はあるんですけど……』


「そうですか」


『兄貴が、形だけ作ればいいって』


 私は息を呑みました。


 やっぱり。


 やっぱりです。


 売買代金二百万円。


 その支払いさえ、実態が怪しい。


『でも、俺も本当に土地をもらったつもりで……』


 正志は言葉を詰まらせました。


『登記さえ済めば、借金取りに持っていかれないと思ってたんです』


 ……。


 それを。


 本人が。


 言ってしまいました。


 相馬先輩が、私の顔を見ました。


 その目が言っています。


 ――聞いたか。


 はい。


 聞きました。


 でも、所長は落ち着いていました。


「大村さん」


『はい』


「その点は、弁護士さんに正確に説明してください」


『はい……』


「こちらは、杉山さんのご意思に基づいて通知書を作成した立場です。具体的な権利関係や紛争の解決については、それぞれ弁護士さんへご相談いただくのが適切でしょう」


『分かりました』


 正志は一度、息を吸いました。


 そして。


『……兄貴と話して、土地と家の名義を元に戻す方向で考えます』


 私は、思わず拳を握りました。


『こんなことで裁判になったら、俺まで大変なことになるって、弁護士に言われました』


 所長は短く答えました。


「承知しました。具体的な手続は専門家と確認してください」


『はい……』


 電話が切れました。


「所長!」


「何だ」


「戻すって言いましたよね!」


「ああ」


「やりました!」


 私は思わず立ち上がりました。


 その瞬間。


「まだだ」


 相馬先輩の声が飛びました。


 ……。


 またですか。


「先輩!」


「何だ」


「ちょっとくらい喜ばせてください!」


「口だけなら、何とでも言える」


 ……。


 確かに。


「登記が実際に戻るまで、分からねえだろ」


「はい……」


 先輩は笑いました。


「それに、名義が戻っただけで三百万円が返ってくるわけじゃねえ」


「あ」


 そうでした。


 詐害行為取消しの問題が解決しても。


 貸金債権そのものは、まだ残っています。


 財産が債務者の名義へ戻れば、そこから回収を図れる可能性が生まれる。


 でも。


 支払いがなければ、必要に応じて訴訟や強制執行の手続を検討することになる。


 しかも。


 他の債権者や担保権者の存在も、確認しなければなりません。


「こはる」


 片桐所長が言いました。


「はい」


「この件、春江さんには弁護士へ相談してもらう」


「はい」


「登記を戻すなら、その手続も司法書士が担当することになる」


「はい」


「俺たちは、ここまでの事実と証拠を整理して引き継ぐ」


 私は頷きました。


 行政書士は、裁判の代理人にはなれません。


 登記申請の代理も、原則として司法書士の仕事です。


 でも。


 必要な事実を調べ。


 書類を整え。


 問題の所在を明らかにする。


 そこにも、大切な仕事があります。


 それから二週間後。


 義雄と正志は、それぞれ弁護士に相談したうえで、当初の売買について合意による解消を進めました。


 相馬先輩が確認した登記簿には、再び大村義雄の名前が記されていました。


「……戻った」


 私は呟きました。


「本当に戻った……」


 しかも。


 その後、春江さんの貸金債権についても、弁護士が関与した手続の中で話が進みました。


 義雄は、土地建物を適正な価格で売却する方向に切り替え、代金から債務を整理することになったのです。


 売却には時間がかかりました。


 ほかの債務の確認も必要でした。


 決して、内容証明一通ですべてが終わったわけではありません。


 それでも。


 義雄が、


「もう財産はない」


 と言い張っていた頃とは、状況がまるで違いました。


 そして、秋の終わり。


 春江さんの三百万円は、約束された返済手続に従って全額支払われたのです。


「本当に、ありがとうございました」


 十一月。


 春江さんが、事務所へやって来ました。


 手には、小さな紙袋。


「これ、店のコロッケなんです」


「あっ!」


 私は思わず声を上げました。


「春江さんの食堂の!」


「はい」


 紙袋から、いい匂いがしました。


 揚げたて。


 ほくほくのじゃがいも。


 少し甘い玉ねぎ。


「お金、戻ってきました」


 春江さんは笑いました。


 でも、その目には涙が浮かんでいました。


「三百万円って……」


 少し声が震えます。


「うちみたいな小さな食堂には、本当に大きなお金なんです」


「はい」


「主人が亡くなってから、少しずつ貯めたお金でした」


 私は黙って聞きました。


「毎日、朝から仕込みをして」


「……はい」


「お客さんが少ない日も、店を閉めずに頑張って」


 春江さんは、ぎゅっと紙袋を握りました。


「それで貯めたお金だったんです」


 ……。


 三百万円。


 数字にすれば、たった三文字です。


 でも。


 その中には、何年もの労働が詰まっている。


 朝の寒さ。


 油の熱さ。


 閉店後の片付け。


 常連さんの笑顔。


 亡くなったご主人との思い出。


 そういうものが全部、三百万円という数字の中に入っていたのです。


「もう戻ってこないと思ってました」


 春江さんは言いました。


「でも、法律って……」


 少し笑います。


「ちゃんと見てくれるんですね」


 私は頷きました。


「はい」


 詐害行為取消権。


 名前は、なんだか恐ろしい。


 詐害。


 取消し。


 どちらも、物騒な言葉です。


 でも。


 その目的は、決して誰かを罰することではありません。


 借金を返すべき人が、財産を不当に逃がしてしまったとき。


 債権者が、正当に回収できる機会を守る。


 そのための制度なのです。


「春江さん」


「はい」


「これからも食堂、続けてくださいね」


 春江さんは笑いました。


「もちろんです」


 そして。


「今度、食べに来てください」


「行きます!」


 私は即答しました。


「コロッケ定食!」


「ふふ。お待ちしてます」


 事務所に、久しぶりに明るい笑い声が響きました。


 春江さんが帰ったあと。


 私は机に向かいました。


 ノートを開きます。


 ――詐害行為取消権。


 その下に、三人の名前を書きました。


 杉山春江。


 大村義雄。


 大村正志。


 債権者。


 債務者。


 受益者。


 私は、今回の事件を思い返しました。


 三百万円を貸した人。


 返さなかった人。


 財産を移された人。


 最初は、単純な借金の踏み倒しに見えました。


 でも。


 調べてみると。


 借用証書。


 振込記録。


 登記簿。


 売買価格。


 財産状況。


 弟への手紙。


 次々と、事実がつながっていった。


「先輩」


「何だ」


「詐害行為取消権って、すごいですね」


「何がだ」


「登記まで終わっている売買でも、場合によっては裁判所に取り消してもらえるんですよね」


「ああ」


「財産を移したから、それで絶対安全ってわけじゃない」


「そうだ」


 先輩は煙草を消しました。


「ただし、こはる」


「はい」


「勘違いするなよ」


「何をですか?」


「借金がある人間は、財産を売っちゃいけねえって話じゃない」


「あ……」


 私は頷きました。


 そうです。


 借金がある人でも。


 土地を売ることはあります。


 家を売ることもあります。


 売却代金で借金を返すために、財産を処分することだってある。


 そんな正常な取引まで、全部取り消せるわけではありません。


「今回、何が問題だった?」


 相馬先輩が聞きました。


「義雄さんが、債権者を害することを知りながら、財産を逃がしたと考えられることです」


「うん」


「売買価格も極端に低くて、代金の支払いにも疑いがありました」


「そうだ」


「しかも弟さんは、借金や差押えのおそれを、売買前から知っていた」


「そこだ」


 先輩が頷きました。


「だから、法律上の問題を具体的に指摘できた」


 私はノートを見つめました。


 詐害行為取消権。


 使えば必ず勝てる万能の武器ではありません。


 債権があること。


 その債権が、問題の財産処分より前の原因に基づくこと。


 債務者の責任財産が不足すること。


 財産権を目的とする行為であること。


 債権者を害すること。


 債務者が、その害を知っていたこと。


 受益者が善意か悪意か。


 そうした事情を、一つずつ確認する必要があります。


 そして。


 何より。


 裁判所に請求しなければ、詐害行為取消権そのものは行使できない。


「所長」


「何だ」


「今回、内容証明だけで取り消したわけじゃないんですよね」


「そうだ」


「相手が法律上の問題を理解して、自分たちで売買を解消した」


「うん」


「もし応じなければ、弁護士さんにお願いして、裁判所で取消しを求める必要があった」


「そのとおりだ」


 所長は帳簿を閉じました。


「こはる」


「はい」


「今日、何を覚えた」


 私は少し考えました。


 そして。


 ノートの最後に、一行を書きました。


 ――財産を逃がすために名義を変えても、民法は債権者の回収の道を守る。ただし、詐害行為の取消しは裁判所で。


「……できました!」


 私はノートを掲げました。


 相馬先輩が覗き込みます。


「長えな」


「大事なことが多いんです!」


「一行に詰め込みすぎだろ」


「でも、忘れません!」


 先輩は苦笑しました。


「まあ、いい」


 そこで私は、ふと思いました。


「先輩」


「何だ」


「もし、弟さんがあの土地を、さらに別の人へ売っていたらどうなるんですか?」


 相馬先輩の動きが止まりました。


「……ほう」


「え?」


「いい質問だな」


 ……!


 褒められた!


「その場合は、転得者の問題になる」


「転得者!」


「ああ」


「じゃあ、その人が何を知っていたかも問題になるんですね!」


「そうだ」


 私は目を輝かせました。


「なるほど! 受益者だけじゃなく、転得者も!」


「おい」


「はい!」


「もう今日は終わりだ」


「ええっ!」


「明日やれ」


「でも気になります!」


「六法は逃げねえよ」


 私は口を尖らせました。


 まったく。


 法律って、一つ分かると、次が気になるんです。


 債務者。


 受益者。


 転得者。


 善意。


 悪意。


 取消しの範囲。


 訴訟の相手方。


 効果。


 期間。


 ……。


 やっぱり。


 行政書士試験って、覚えることが多すぎませんか?


 そのとき。


 片桐所長が、静かに言いました。


「こはる」


「はい」


「法律は、逃げ道を塞ぐためだけにあるんじゃない」


「……え?」


「正当に約束を守った人が、馬鹿を見ないためにもある」


 私は黙りました。


 窓の外。


 夕暮れの商店街。


 どこかで、揚げ物の匂いがしているのでしょう。


 春江さんは今日も、食堂の台所に立っているはずです。


 何年もかけて貯めたお金が戻ってきた。


 だから、また明日も店を開けられる。


 新しい鍋も買える。


 古くなった暖簾も取り替えられる。


 そして。


 常連さんに、いつものコロッケ定食を出せる。


 法律が守ったのは。


 三百万円という数字だけではありません。


 そのお金を貯めるために生きてきた、一人の女性の日々でした。


「……所長」


「何だ」


「やっぱり民法って、温かいですね」


 所長は少しだけ笑いました。


「そうかもしれんな」


 私はノートを閉じました。


 今日の教訓。


 詐害行為取消権。


 財産を隠した人間が、必ず逃げ切れるわけではない。


 ただし、取消しを実現するには、裁判所という正式な手続が必要。


 そして。


 行政書士ができるのは、その前に事実と証拠を揃え、依頼人の権利を守るための書面を作ること。


 ……よし。


 忘れません。


「ところで、こはる」


 相馬先輩が言いました。


「はい?」


「さっきのコロッケ、食うか?」


「食べます!」


「じゃあ茶を入れろ」


「はい!」


「所長の分もな」


「はい!」


 私は台所へ向かいました。


 その途中。


 ふと思いついて、振り返ります。


「先輩!」


「何だ!」


「もし先輩が、私のコロッケを勝手に誰かへあげたら!」


「は?」


「それって、詐害行為になりますか!?」


 相馬先輩は、しばらく私を見つめました。


 そして。


「お前、誰に何を貸してるんだよ」


「……あ」


「債権は?」


「ありません!」


「じゃあ何を保全するんだ!」


「コロッケです!」


「普通に返せって言え!」


 ……。


 なるほど。


 詐害行為取消権。


 便利そうですが、何にでも使えるわけではないようです。


「相馬先輩!」


「今度は何だ!」


「私のコロッケは、私が守ります!」


「誰も取らねえよ!」


 片桐所長が、静かに湯呑みを置きました。


「相馬」


「はい」


「俺のコロッケは?」


「……あ」


 先輩の顔が止まりました。


 机の上には。


 空っぽの紙袋。


 ……。


「先輩」


「何だ」


「全部食べたんですか?」


「……」


「所長の分まで?」


「……」


 沈黙。


 片桐所長が、ゆっくり六法を閉じました。


「相馬」


「はい……」


「明日、杉山食堂へ行ってこい」


「……はい」


「コロッケを買ってこい」


「はい……」


 私は思わず吹き出しました。


 なるほど。


 民法四百二十四条を持ち出すまでもありません。


 悪いことをした人には。


 まず、自分のしたことの責任を取ってもらえばいいのです。


 ただし。


 今回だけは。


 相馬先輩にも、財産を隠す暇はなさそうでした。

 以下に私の作品へのリンク貼ってます。是非、手に取って頂ければと思います。また、ついでに評価ブックマーク頂ければ幸いです。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
さくら司法書士補助者の法務帳 〜 昭和に転生して泥沼の争いを収めたら、実務と試験知識が完全にリンクしました 〜
こはる行政書士見習帖 〜 昭和に転生して許認可に振り回されると試験知識が骨身にしみます 〜
宅建見習い栞の人情事件簿 〜転生したら昭和の不動産屋だったので、巻き込まれているうちに宅建過去問が解けるようになりました〜
名探偵 藤原彰子の宮中事件簿 ――『転生皇后 藤原彰子』スピンオフ外伝
転生皇后 藤原彰子 〜 欠けることのない望月の世は私が創る 〜
新訳 太閤記 ~ 転生 豊臣秀吉、未来を識る僕は史実の道を静かに歩む 〜
新訳 三河物語 〜 徳川家康と家臣団の戦国サバイバル 〜 with 逆行転生犬シロ
新訳 北条五代記 〜 近所の隠居が書いたメモがガチの戦記だった件〜
美しき女帝 北条政子 〜 婚約破棄どころか強制結婚!? 平家のエリートに嫁がされそうになったので、豪雨の山を越えて愛する無職の元へ走ってみた 〜
新訳 曽我物語 〜 復讐系なろうの原点、父を殺された兄弟の二十年の復讐譚〜
箴言・格言・名言集 〜頑張るあなたへ、今日を乗り越えるための一言〜
拝啓、愛読者様。― 想いを少しだけ 謹呈 条文小説
六道輪廻抄 〜 戦国転生記 〜
コミックス「六道輪廻抄〜戦国転生記〜」
動画生成AIが作成したイメージビデオ
動画生成AIが作成したなろう小説イメージビデオ
動画生成AIが作成したなろう小説イメージビデオ
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。