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こはる行政書士見習帖 〜 昭和に転生して許認可に振り回されると試験知識が骨身にしみます 〜  作者: 条文小説
〈民法 配点76点/300点〉 債権

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496/701

[債権者代位権]法理編 こはるノート

挿絵(By みてみん)

 借金を返さない人間が、別の誰かに百万円を請求できるとしたら。


 その百万円は、誰のものでしょうか。


 借金を返してもらえない債権者?


 それとも、請求する権利を持っている債務者?


 そして。


 債務者がわざと請求しない場合、債権者はその権利を動かせるのでしょうか。


 答えは。


 ――動かせる場合がある。


 ただし。


 他人の権利を勝手に使うのですから、何でも許されるわけではありません。


 昭和六十三年。


 夕方の片桐行政書士事務所。


 私は机に向かい、ノートを開いていました。


 表紙には、


 ――こはるノート・民法編。


 と書いてあります。


「……先輩」


「何だ」


「債権者代位権って、やっぱり名前がややこしいです」


「また始まったな」


「だって、債権者が債務者の債権を行使して、第三債務者に請求するんですよ?」


「そうだな」


「債権者と債務者が、途中で入れ替わるじゃないですか!」


「入れ替わってねえよ」


「頭の中では入れ替わるんです!」


 相馬先輩は新聞を畳みました。


「じゃあ、昨日の百万円を思い出せ」


 私は手を止めました。


 藤田春江さん。


 亡くなったご主人が、時計商の黒川正造に貸した百万円。


 返済期限は過ぎている。


 黒川は、


「金がない」


 と言って返さない。


 ところが。


 黒川自身は、宝飾店の大森商会に百万円の時計を売っていた。


 代金は未払い。


 黒川は、その代金を請求しようとしない。


 そこで登場したのが、債権者代位権。


 相手が持っている権利を、債権者が自己の名で行使する制度です。


 あの事件では、結局、どうなったのか。


 私たちは黒川の財産関係を可能な範囲で整理し、売買代金債権に関する資料を集めました。


 片桐所長が、春江さんの意思に基づく内容証明郵便の原案を作成。


 そこには、被保全債権、黒川の無資力、売掛金の存在、代位行使の法的根拠が、事実とともに記されていました。


 黒川にも、請求権を放置していることが財産保全の問題になると知らせる書面を送りました。


 すると。


 最初は余裕だった黒川が、血相を変えて事務所へ電話してきたのです。


『俺の売掛金にまで手を出す気か!』


 私は受話器越しに驚きました。


『あれは俺の権利だろう!』


 そのとおり。


 だからこそ、債権者代位権なのです。


 所長は法律紛争の代理交渉を引き受けず、必要な手続は弁護士に相談するよう春江さんに説明しました。


 その後、黒川は自分の弁護士に相談したらしく、態度を変えました。


 大森商会への代金請求を放置し続けても、債権者から代位行使を受け得る。


 訴訟になれば、売掛金の存在も無資力も問題になる。


 しかも、藤田さんへの借金そのものが消えるわけではない。


 それを理解したのでしょう。


 黒川は自ら大森商会へ売掛金を請求し、支払を受けたうえで、春江さんへ百万円を返済しました。


 春江さん本人が入金を確認し、返済済みの確認書も取り交わしています。


 法律書面が、止まっていたお金を動かした。


 ただし。


 内容証明だけで財産を差し押さえたわけではありません。


 相手が自ら履行することを選んだから、裁判になる前に解決できたのです。


「よし!」


 私は鉛筆を握りました。


「今日は、あの百万円で債権者代位権を完全攻略します!」


「昨日も完全攻略とか言ってなかったか」


「昨日は実戦です。今日は復習です!」


「都合のいい奴だな」


 そこへ、片桐所長が奥から声をかけました。


「相馬」


「はい」


「まず、誰の権利を動かしたのか、そこから教えてやれ」


「分かりましたよ」


 よし。


 本日の民法勉強会。


 開幕です。


「まず、三人を並べろ」


 相馬先輩が言いました。


「三人?」


「あの百万円だ」


 私はノートに名前を書きました。


 藤田春江。


 黒川正造。


 大森隆一。


「まず、春江さんと黒川さんの関係です」


 私は説明しました。


「春江さんは、相続によって取得した貸金債権を持っています」


「うん」


「黒川さんは、百万円を返す義務を負っています」


「そうだ」


「だから春江さんが債権者、黒川さんが債務者です」


「よし」


 ここまでは簡単です。


 ところが。


「次に、黒川さんと大森さんの関係です」


 黒川は、大森商会に時計を百万円で売った。


 代金はまだ支払われていない。


「つまり、今度は黒川さんが債権者、大森さんが債務者になります」


「そうだ」


「ほら!」


 私は鉛筆を机に置きました。


「黒川さんが債務者から債権者に変わりました!」


「相手が違うんだから当たり前だろ」


「それがややこしいんです!」


 相馬先輩は呆れた顔をしました。


「だから、関係を二本に分けて考えろ」


 私はノートに書きました。


 ――春江 → 黒川:百万円の貸金債権。


 ――黒川 → 大森:百万円の売買代金債権。


「ここで春江さんが守りたいのは?」


「黒川さんに対する貸金債権です」


「それを何と呼ぶ?」


「被保全債権!」


「じゃあ、春江さんが代わりに行使しようとしたのは?」


「黒川さんが大森さんに持っている売買代金債権!」


「名称は?」


「被代位権利!」


 私は大きく丸をつけました。


 被保全債権。


 守りたい自分の債権。


 被代位権利。


 代わりに行使する、債務者の権利。


「なるほど……」


 私は頷きました。


「先輩。これ、名前だけ見ると難しいですけど、二本の矢印にすると簡単ですね」


「そういうことだ」


「春江さんは、黒川さんの代金請求権を使って、自分の貸金債権を守ろうとしたんですね」


「そのとおり」


 私はノートに大きく書きました。


 ――債権者代位権は、他人の権利を使って、自分の債権を守る制度。


 ただし。


「先輩」


「何だ」


「春江さんは、黒川さんの代理人になるわけではないんですよね」


「そこが大事だ」


 相馬先輩が頷きました。


「黒川の代理人として請求するんじゃねえ。春江さんが自己の名で、黒川の権利を行使するんだ」


「はい!」


 ここは試験でも狙われそうです。


 債権者代位権。


 債権者が自己の名で行使。


 債務者の代理人ではない。


 私は二重線を引きました。


「では次です!」


 私はページをめくりました。


 ――債権者代位権の要件。


「これ、五つあるんですよね」


「説明してみろ」


「はい!」


 私は指を一本立てました。


「まず、守るべき債権が存在すること」


 春江さんの場合、百万円の貸金債権。


 借用書があり、貸付けの事実も確認できた。


 相続関係も戸籍で確認した。


「ここで貸金債権そのものが存在しなかったら?」


 相馬先輩が聞きました。


「代位権を使えません!」


「そうだ」


 次。


「原則として、被保全債権の履行期が到来していること」


 今回の返済期限は、昭和六十三年三月三十一日。


 相談を受けたのは六月。


 だから期限は到来済み。


「でも先輩」


「何だ」


「返済期限が来ていなかったら、絶対に何もできないんですか?」


「保存行為は別だ」


「そうでした!」


 たとえば。


 債務者の権利が時効で失われそうなときに、権利を保存するための行為をする場合。


 履行期前でも認められる余地があります。


「ただし、昭和六十三年の条文には、今とは違う部分があります」


 私は六法を開きました。


 旧民法第四百二十三条第二項。


 債権者は、債権の期限が到来しない間は、裁判上の代位によらなければ、前項の権利を行使することができない。


 ただし、保存行為はこの限りでない。


「裁判上の代位……?」


 私は首をかしげました。


「令和の制度と違いますね」


 片桐所長が頷きました。


「現在のように、履行期前は保存行為を除いて原則行使できないと整理された条文とは、書き方が違う」


「昭和には、裁判上の代位という仕組みがあったんですね」


「そうだ」


 私はノートに書きました。


 昭和六十三年。


 履行期前には、原則として裁判上の代位が問題となる。ただし保存行為は別。


 現代。


 履行期前の代位行使は、原則不可。ただし保存行為は可能。


「また制度が違う……」


 私は頭を抱えました。


「未来の民法を覚えていると、昭和で事故ります!」


「今の六法を読め」


「はい……」


 相馬先輩は笑いました。


「三つ目は?」


「保全の必要性です!」


 私は書きました。


 ――債務者の無資力。


「今回、黒川さんは借金を返せる財産が十分にありませんでした」


「うん」


「だから、黒川さんが大森さんに持っている売掛金を保全する必要があったんです」


「そうだ」


 でも。


 ここで疑問が出てきました。


「先輩。もし黒川さんが、自宅も預金もたくさん持っていたら?」


「どう思う?」


「春江さんは普通に貸金を回収できる可能性があります」


「そうだな」


「だったら、他人の売掛金にまで介入する必要はありません!」


「正解」


 つまり。


 債権者代位権は、債権者が便利だから使う制度ではない。


 債務者の責任財産を保全する必要があるから使えるのです。


「ここで重要な判例があります」


 私は得意になって言いました。


「昭和四十九年十一月二十九日の最高裁判決です!」


 相馬先輩が顔を上げました。


「ほう」


「金銭債権を保全するための債権者代位権では、原則として債務者に十分な資力がないことが必要とされます」


「そうだ」


「損害賠償債権であっても、金銭債権なら同じ方向で考えるんですね」


 私はノートに丸をつけました。


「でも、例外もあるんですよね」


「あるな」


「登記請求権などを保全する場合です!」


 たとえば。


 AがBから土地を買った。


 ところが、登記名義はまだCのまま。


 BはCに対して登記を請求できるのに、何もしない。


 この場合。


 Aが自分の登記請求権を実現するため、BのCに対する登記請求権を代位行使することが問題になります。


「ここでは、Bがお金持ちかどうかは本質ではありません」


「そうだな」


「Aが欲しいのは、お金じゃなくて登記だからです!」


 私は大きく頷きました。


 なるほど。


 無資力要件の意味が見えてきました。


 金銭債権の保全では、責任財産が不足しているかどうかが重要。


 一方。


 特定の権利を実現するための代位行使では、無資力が不要となる場合がある。


「これを、債権者代位権の転用型と呼ぶことがあるんですよね」


「よく勉強してるじゃねえか」


「褒めましたね!」


「まだだ」


 またですか。


「四つ目!」


 私は指を立てました。


「債務者が権利を行使していないこと!」


 今回の黒川さん。


 大森商会に対して、百万円の売掛金を持っていました。


 なのに。


 請求しなかった。


「これが重要だったんですね」


「そうだ」


 相馬先輩が言いました。


「本人がきちんと取り立てていれば、原則として債権者が代わりに動く必要はない」


「つまり、放置していることが問題なんですね」


「そういうことだ」


「では五つ目!」


 私は書きました。


 ――一身専属権や差押禁止債権など、代位行使できない権利ではないこと。


「一身専属権というのは、その人自身にしか行使できない性質の権利ですね」


「例えば?」


「夫婦間の契約取消権です!」


 相馬先輩が頷きました。


「他には?」


「財産分与請求権なども、身分関係に密接に結び付いた権利として問題になります。ただし、具体的な権利の性質や確定状況は区別が必要です」


「そうだ」


 私は続けました。


「慰謝料請求権も、本人が請求する意思を表明する前などには、一身専属的な性質が問題になります」


「うん」


「それから、法律上差押えが禁止される年金受給権や生活保護の受給権なども、勝手に代位行使できません」


「そのとおり」


 なるほど。


 債権者代位権は、他人のあらゆる権利を奪い取れる制度ではない。


 人の生活や人格に密接に関わる権利は、別に守られる。


「所長」


「何だ」


「民法って、債権者だけを守っているわけじゃないんですね」


「そうだ」


 所長が頷きました。


「債務者にも、守られるべき領域がある」


 私は少し考えました。


 春江さんを守る。


 でも、黒川さんのすべての権利を自由に処分させるわけではない。


 それが公平ということなのでしょう。


 私はノートに書きました。


 ――他人の権利を動かすからこそ、必要性と限界がある。


「さて」


 相馬先輩が煙草を灰皿に押しつけました。


「次は金額だ」


「金額?」


「あの時計が、百五十万円だったらどうなる?」


 私は考えました。


 春江さんの貸金債権は百万円。


 黒川さんが大森商会に持つ売買代金債権が百五十万円だった場合。


「令和の民法なら、第四百二十三条の二です!」


「また未来か」


「でも、重要なんです!」


 私は説明しました。


「現代では、被代位権利の目的が可分なら、原則として自分の債権額の限度で代位行使します」


「だから?」


「百万円の債権を守るために、百五十万円全部を請求することはできません」


「そうだな」


「でも……」


 私は昭和の六法を見ました。


 第四百二十三条の二。


 ありません。


 ……はい。


 また未来の条文でした。


「昭和六十三年には、代位行使の範囲を定める独立した条文がないんですね」


 片桐所長が頷きました。


「当時は判例や解釈で扱われていた問題だ」


 私はノートに書きました。


 昭和六十三年。


 代位行使の範囲は、旧法の条文と判例法理によって判断。


 現代。


 可分な権利については、自己の債権額を限度とすることが民法第四百二十三条の二に明文化。


「改正で、限界が分かりやすくなったんですね」


「そうだ」


「ただ、昔と今の結論を全部同じにしてはいけない……」


 私は小さく呟きました。


 古い判例法理を、そのまま現代の条文と同一視してはいけない。


 法律は、改正によって明文化されるだけでなく、ルール自体が整理・変更されることもあるのです。


「じゃあ、次が私の好きなところです!」


 私はノートをめくりました。


 ――第三債務者への直接請求。


「春江さんが大森さんに対して、直接百万円を自分へ支払うよう求めることができるか!」


「おう」


 相馬先輩が頷きました。


「昭和六十三年でも、金銭債権について、債権者への直接の支払請求を認める判例法理がある」


「はい!」


 私は嬉しくなりました。


 債権者代位権の本来の考え方は、債務者の責任財産を保全すること。


 でも。


 金銭を請求する場合、いったん債務者に支払わせるだけでは、債務者が受け取ったお金を隠してしまうおそれもあります。


 そこで。


 債権者に対する直接の支払請求が認められてきたのです。


「現代では、それが第四百二十三条の三に書かれています!」


 私は六法の未来のページを頭の中で開きました。


 金銭の支払。


 または動産の引渡し。


 そのような権利を代位行使するときは、債権者自身への支払や引渡しを求められる。


 ただし。


「先輩」


「何だ」


「大森さんが春江さんに百万円を支払ったら、黒川さんの大森さんに対する債権は消えるんですよね」


「そうだ」


「じゃあ、春江さんの黒川さんに対する貸金債権も、その瞬間に当然消えるんですか?」


「そこが違う」


 相馬先輩が言いました。


「大森が払ったのは、黒川が持っていた売買代金債権についてだ」


「はい」


「春江さんの貸金がどうなるかは、別に考える必要がある」


 私は頷きました。


 第三債務者による直接支払。


 これで消滅するのは、まず被代位権利。


 春江さんの貸金債権が当然に消滅するわけではありません。


 受領した金銭と債務者との関係を整理し、相殺などによって自己の債権の満足を図ることが問題になります。


「つまり、代位権は他人の債権を使う制度であって、債権を自分へ譲り受ける制度ではないんですね」


「そのとおり」


 私は二重線を引きました。


 ――代位行使と債権譲渡は違う。


 ――直接受領と被保全債権の弁済も区別する。


 ここ、かなり大切です。


「さて、こはる」


 片桐所長が声をかけました。


「はい!」


「大森商会に、別の事情があった場合はどうなる」


「別の事情?」


「時計に重大な欠陥があり、代金の支払を拒める事情があったとしたら?」


 私は固まりました。


 ……あ。


 そうでした。


 債権者代位権を使うからといって、黒川さんが持っている権利以上のものを請求できるわけではありません。


「大森さんは、黒川さんに対して主張できる抗弁を、春江さんにも主張できます!」


「そうだ」


「現代の民法第四百二十三条の四ですね!」


 相馬先輩が笑いました。


「本当に未来の条文が好きだな」


「覚えてるんですから仕方ありません!」


 例えば。


 大森商会が既に代金を弁済していた。


 あるいは。


 黒川との売買契約に基づいて、適法に支払を拒める抗弁があった。


 そんな場合。


 春江さんが代位権を行使したからといって、それらの抗弁が消えるわけではありません。


「当然ですよね」


 私は言いました。


「黒川さんに払わなくてよい理由があるなら、春江さんに請求された途端、支払義務が増えるのはおかしいです」


「そのとおり」


 相馬先輩が頷きました。


「代位する者は、債務者の権利をそのまま行使する。相手方に不当な不利益を押し付ける制度じゃねえ」


 私はノートに書きました。


 ――第三債務者は、債務者に対して主張できる抗弁を、代位債権者にも主張できる。


 なるほど。


 法律関係が、きれいにつながりました。


「さて」


 相馬先輩が、少し悪い顔をしました。


「最後に、一番ややこしい問題だ」


「何でしょう」


「春江さんが債権者代位権を行使したあと、黒川が勝手に大森へ代金を請求したら?」


 私は勢いよく答えました。


「現代の民法第四百二十三条の五です!」


「……またか」


「債務者は自分で取立てや処分ができます! 第三債務者も債務者に支払えます!」


 相馬先輩が、じっと私を見ました。


 ……あれ?


 何でしょう。


 この沈黙。


「こはる」


「はい」


「今は何年だ」


「昭和六十三年です」


「じゃあ、その答えは?」


 私は止まりました。


 ……。


 あ。


「違うんですか?」


「違う」


 相馬先輩は六法を閉じました。


「ここが、昭和と令和の大きな違いだ」


 私は慌てて鉛筆を握り直しました。


「教えてください!」


 相馬先輩は言いました。


「旧法下の判例では、債権者が代位権を行使したことを債務者に通知するなどして、その行使を債務者が知った場合、債務者はその権利について独自の取立てや処分をすることが制限されると考えられていた」


「ええっ!」


 私は目を丸くしました。


「自分の権利なのに?」


「そうだ」


「債権者が代位権を使ったら、債務者は自分で取立てできなくなるんですか?」


「当時の判例法理では、通知等によって債務者が代位行使を知った場合に、そうした制限が問題になる」


 私は驚きました。


 なるほど。


 昭和の債権者代位権は、債権者による行使と、債務者自身の権限との関係が、現在とは違っていたのです。


「でも、現代では違います!」


「そうだな」


 私は勢いよく書きました。


 現代の民法第四百二十三条の五。


 債権者が代位権を行使しても、債務者自身が取立てその他の処分をすることは妨げられない。


 第三債務者も、債務者に対して履行できる。


「つまり、令和では債務者自身の権限を残すことが明文化されたんですね」


「そうだ」


「どうして変わったんでしょう?」


 片桐所長が答えました。


「債権者代位権は、債務者から権利そのものを取り上げる制度ではないからだ」


 私は顔を上げました。


「債務者の権利なのに、債権者が行使しただけで本人の取立権限まで奪うのは、行き過ぎになる場合がある」


「なるほど……」


「現代の改正では、債務者の財産管理の自由と、債権者による保全の必要性を整理したわけだ」


 私は頷きました。


 昭和では、代位行使を知った債務者の処分権限に制限が生じるという判例法理。


 令和では、代位行使後も債務者が自分の権利を行使できるという明文規定。


 これは、単に条文番号が増えたという話ではありません。


 制度のあり方そのものが変わったのです。


「先輩!」


「何だ」


「これは試験に出されたら、絶対に引っかかります!」


「お前ならな」


「ひどい!」


 でも、本当に。


 この違いは、忘れられそうにありません。


 私はノートを閉じかけました。


 すると。


 片桐所長が言いました。


「まだ一つある」


「え?」


「債権者代位権は、必ず裁判で行使するものか」


 私は答えました。


「いいえ!」


 そうです。


 債権者代位権は、裁判外でも行使できます。


 もちろん、相手が応じない場合には訴訟が必要になることがあります。


 でも。


 権利の行使そのものが、必ず裁判所を通じて行われるわけではありません。


「だから今回、内容証明郵便が重要だったんですね」


「そうだ」


 所長が頷きました。


「もっとも、内容証明郵便を送っただけで、裁判所の判決と同じ効力が生まれるわけではない」


「はい」


「相手が争えば、適切な法的手続が必要だ」


「そこは弁護士の仕事ですね」


「そうだ」


 私はノートに書きました。


 ――債権者代位権は、裁判外でも行使可能。


 ――ただし、強制執行には別の手続が必要。


 そして。


 ――行政書士は、紛争の代理交渉や訴訟代理をしない。


 ここも忘れてはいけません。


 私たちの仕事は、依頼人の権利を整理し、事実と法律を正確に書面化すること。


 相手と法律紛争の交渉をすることではありません。


 争いが深まれば、弁護士へ適切に引き継ぐ。


 今回、黒川さんが自ら返済に動いたのは、書面によって法的な危険を理解したからでした。


 法律を知ること。


 証拠を揃えること。


 書面を作ること。


 その三つだけで、裁判前に動き出す問題もある。


 片桐所長が静かに言いました。


「書類は、相手を脅すために作るものではない」


「はい」


「事実と権利を、正しく示すために作る」


 私は頷きました。


 今回の内容証明も、単に『百万円を払え』と怒鳴っただけでは、何も変わらなかったでしょう。


 借用書。


 返済期限。


 相続関係。


 無資力を裏付ける資料。


 売買代金債権の存在。


 それを裏付ける証拠。


 代位行使の法的根拠。


 全部揃えて。


 初めて、相手に現実の法的リスクが見える。


 書面は、声より静かです。


 でも。


 その静かさが、一番怖いこともあるのです。


 窓の外は、もう薄暗くなっていました。


 私はノートを見直しました。


 被保全債権。


 被代位権利。


 無資力。


 履行期。


 一身専属権。


 差押禁止債権。


 直接請求。


 抗弁。


 そして。


 昭和と令和の制度の違い。


「……多いですね」


 私は呟きました。


「何が」


 相馬先輩が聞きました。


「債権者代位権って、覚えることが多すぎません?」


「だから、事件で覚えろって言ってるだろ」


「事件で?」


「あの百万円だよ」


 私は顔を上げました。


「春江さんは、百万円を返してほしかった」


「はい」


「黒川は、百万円を返さなかった」


「はい」


「だが黒川には、大森から百万円を受け取る権利があった」


「はい」


「それなのに請求しなかった」


「はい」


「だから、春江さんがその権利を代わりに行使できるか検討した」


 私はゆっくり頷きました。


 なるほど。


 全部、あの事件に戻ればいい。


 法律を丸暗記する必要はない。


 何を守るための制度なのか。


 どうして他人の権利を行使できるのか。


 どうして無資力が必要なのか。


 どうして一身専属権は使えないのか。


 理由を考えれば、自然に理解できる。


「所長」


「何だ」


「債権者代位権って、ちょっと不思議な制度ですね」


「そうか」


「はい」


 私は言いました。


「本来、権利はその人自身が行使するものですよね」


「そうだ」


「でも、その人が権利を眠らせていることで、別の人が損害を受けることがある」


「うん」


「だから民法は、一定の場合に、債権者が代わりに動くことを認めている」


 所長が頷きました。


「そういうことだ」


 私は、あの春江さんの顔を思い出しました。


 返してもらえなかった百万円。


 亡くなったご主人が残したお金。


 そのために売ってしまった形見の時計。


 春江さんは、最後にこう言っていました。


「主人の時計は戻りませんけど、店は続けられます」


 私は、その言葉を忘れられません。


 債権者代位権。


 冷たい名前です。


 でも。


 その制度が守ったのは、百万円という数字だけではありませんでした。


 誰かの暮らし。


 誰かの約束。


 誰かが、もう一度明日を迎えるためのお金。


 そういうものだったのです。


「よし!」


 私は最後のページを開きました。


「まとめます!」


 相馬先輩が顔をしかめました。


「まだやるのか」


「最後です!」


「本当だな?」


「はい!」


 私は鉛筆を持ちました。


 そして、一行だけ書きました。


 ――債権者代位権は、債務者が眠らせた権利を、債権者が自己の名で動かして、自分の債権を守る制度。


「できました!」


 私はノートを掲げました。


「どうですか!」


 相馬先輩が覗き込みました。


「まあ、悪くねえな」


「褒めましたね!」


「気のせいだ」


「またそれですか!」


 私は笑いました。


 でも。


 この一行は、たぶん一生忘れません。


 だって。


 あの百万円の時計があるからです。


 黒川さんが請求しなかった売掛金。


 春江さんが守りたかった貸金。


 そして。


 その間をつなぐ、民法第四百二十三条。


「ところで、こはる」


 相馬先輩が言いました。


「はい?」


「お前、俺に千円貸してたよな」


「……え?」


「先週の昼飯代」


「あっ!」


 私は思い出しました。


 相馬先輩。


 財布を忘れたと言って。


 私から千円借りていました。


「返してください!」


「今、金がねえ」


「ええっ!」


「でも、所長が俺に二千円返す約束をしててな」


 私は顔を上げました。


「……所長が?」


 片桐所長は帳簿を閉じました。


「相馬」


「はい」


「そんな約束はしていない」


「……」


 沈黙。


 私は相馬先輩を見ました。


 相馬先輩は、ゆっくり煙草を灰皿に置きました。


「こはる」


「はい」


「今のは冗談だ」


 私はにっこり笑いました。


「先輩」


「何だ」


「被代位権利が存在しないので、代位権は使えませんね」


「そうだな」


「でも、私の千円の貸金債権は存在します」


「……おう」


「だから、普通に返してください」


「分かったよ!」


 相馬先輩が財布を取り出しました。


 中から千円札を一枚。


 私はそれを受け取りました。


「ありがとうございます!」


「ったく、覚えたての法律をすぐ使いやがって」


「実務学習です!」


「千円の取り立てがか?」


「はい!」


 所長が、小さく笑いました。


「こはる」


「はい」


「債権者代位権を使う必要はなかったな」


「そうですね!」


 私は千円札を財布にしまいました。


「だって、本人に返してもらえば済む話ですから!」


 所長が頷きました。


「それが基本だ」


 私は、もう一度ノートを見ました。


 他人の権利を代わりに行使する。


 それは、普通ではないこと。


 だからこそ。


 必要なときだけ。


 必要な範囲で。


 法律が認める条件に従って使う。


 債権者代位権。


 難しい名前の向こうには、そんな公平の考え方がありました。


 昭和六十三年。


 夕暮れの町。


 駅前の時計店では、今日も古い時計が時を刻んでいるのでしょう。


 そして、春江さんの洋裁店でも。


 ミシンの音が、また響き始めているはずです。


 私はノートを閉じました。


 今日の教訓。


 ――自分の権利を守るために、他人の権利を動かせる。ただし、その人の財産を自由に奪えるわけではない。


「こはる!」


 相馬先輩の声が飛びました。


「はい!」


「千円返したんだから、帰りに煙草買ってこい!」


「先輩!」


「何だ!」


「それは別の法律関係です!」


「何だと!」


「借金を返したことと、私が買い物を引き受ける義務は別問題です!」


「……」


 相馬先輩が黙りました。


 片桐所長は帳簿に目を戻しながら、一言。


「正しい」


「やった!」


「所長まで!」


 私は笑いました。


 債権者代位権。


 ようやく分かった気がします。


 お金を貸した人が、何でもできるわけではない。


 お金を借りた人が、何もしなくていいわけでもない。


 そして。


 その人が持つ権利を眠らせていると、場合によっては別の人が動かすこともできる。


 民法は、財布の中身だけを見ているわけではありません。


 その人が持っている、目に見えない財産。


 つまり。


 誰かに何かを請求できるという権利そのものも、財産なのです。


 それを忘れない限り。


 借金を踏み倒そうとする人間が、


「金なんて持っていない」


 と笑っても。


 私たちは、もう一つ質問できます。


 ――では、あなたが誰かに請求できるお金は、本当にないのですか?


 その一言が。


 眠っていた百万円を、動かすこともあるのです。

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