[債権者代位権]現場編 「借金を返す金なんてない」の嘘。百万円の行方を追え! 債務者が眠らせた売掛金と、昭和の民法四百二十三条
お金がない人間と、お金を取り戻そうとしない人間は、同じではありません。
財布は空っぽ。
銀行口座にも残高がない。
家も土地もない。
だから、借金は返せない。
そう言われたら、普通は諦めるしかないと思います。
でも。
その人が、別の誰かから百万円を受け取れる立場だったら?
しかも。
その百万円を、わざと請求していなかったら?
昭和六十三年。
片桐行政書士事務所。
その日、私は知ることになります。
借金を踏み倒そうとする男が、一番恐れていたのは。
自分の借金を取り立てられることではありませんでした。
自分が誰かに持っている権利を、他人に動かされることだったのです。
その武器の名前は。
――債権者代位権。
民法第四百二十三条。
債務者が動かないなら、債権者がその権利を行使する。
ただし。
そこには、普通の取り立てとはまったく違う落とし穴がありました。
「百万円、返してもらえないんです」
朝九時。
片桐行政書士事務所の扉を開けた女性は、そう言いました。
四十代半ば。
少し疲れた顔。
手には、茶封筒を抱えています。
「百万円ですか?」
私が聞くと、女性は頷きました。
「はい。主人が亡くなる前に、知り合いに貸したお金なんです」
女性の名前は、藤田春江さん。
四十六歳。
駅前で小さな洋裁店を営んでいます。
ご主人が亡くなったのは、昨年の冬。
心臓の病気だったそうです。
「主人は時計の修理職人でした」
「時計ですか」
「ええ。古い時計を直すのが得意で……」
春江さんは少し微笑みました。
「困っている人を見ると、放っておけない人でした」
私は嫌な予感がしました。
その予感は、すぐに当たりました。
「主人の友人に、黒川という時計商がいるんです」
黒川正造。
五十二歳。
中古時計の売買をしている男。
ある日、商売の資金が足りなくなったと言って、藤田さんのご主人に金を借りに来た。
その額。
百万円。
「主人は、老後のために貯めていたお金を貸したんです」
「借用書はありますか?」
「あります」
春江さんが封筒から紙を出しました。
――金銭借用証書。
金額、金壱百萬円也。
借主、黒川正造。
貸主、藤田修一。
返済期限、昭和六十三年三月三十一日。
署名。
押印。
私は日付を見ました。
現在は六月。
もう二か月以上過ぎています。
「返済期限は過ぎていますね」
「はい」
「黒川さんは何と言っているんですか?」
春江さんは唇を噛みました。
「金がない、と」
「……それだけですか?」
「店も閉めた。預金もない。差し押さえるものがあるなら差し押さえろって」
私は思わず眉をひそめました。
差し押さえるものがあるなら差し押さえろ。
随分と開き直った言い方です。
「それで……」
春江さんは声を小さくしました。
「主人の形見の時計も、少しずつ売ったんです」
「え?」
「店の家賃を払わないといけなくて」
その言葉に、胸が痛くなりました。
百万円。
数字だけなら、ただの債権です。
でも。
春江さんにとっては、ご主人が何十年も働いて貯めたお金。
洋裁店を続けるための資金。
そして、亡くなった人が残した生活の支えです。
「……何とかならないでしょうか」
春江さんが言いました。
私は借用書を見つめました。
返済期限は来ている。
貸金債権も存在している。
相手は返済していない。
問題は。
財産がないこと。
……うーん。
お金のない人から、お金を取る。
これは民法でも難しい話です。
ところが。
春江さんは、最後に妙なことを言いました。
「でも、おかしいんです」
「何がですか?」
「黒川さん、百万円で時計を売ったそうなんです」
私は顔を上げました。
「……はい?」
「三か月ほど前に。高級な外国製の腕時計を、駅前の宝飾店に」
「百万円で?」
「はい」
「代金は?」
「まだ受け取っていないそうです」
私は固まりました。
え?
ちょっと待ってください。
黒川さん。
百万円の借金がある。
返済する金がない。
でも。
別の人に百万円で時計を売っている。
そして。
まだ代金を回収していない。
つまり。
黒川さんには、百万円を請求できる権利がある。
私は勢いよく立ち上がりました。
「所長!」
奥で帳簿を読んでいた片桐所長が顔を上げます。
「何だ」
「ありました!」
「何がだ」
「お金です!」
相馬先輩が新聞から顔を上げました。
「どこに」
「黒川さんの財布にはありません!」
「……は?」
「でも、黒川さんが請求できるお金が、別のところにあります!」
先輩はしばらく私を見ました。
そして。
「なるほど」
新聞を畳みました。
「債権者代位権か」
私は大きく頷きました。
「はい!」
来ました。
民法第四百二十三条。
行政書士試験でもおなじみ。
あの、ややこしい制度です!
「整理してみろ」
相馬先輩が白紙を一枚、机に置きました。
「はい!」
私は鉛筆を握りました。
まず。
春江さん側。
黒川さんに百万円を貸している。
つまり、百万円の貸金債権がある。
次。
黒川さん。
時計を宝飾店に百万円で売った。
まだ代金を受け取っていない。
つまり、宝飾店に対して百万円の売買代金債権がある。
そして。
黒川さんは、その代金を請求していない。
「だったら!」
私は言いました。
「春江さんが、黒川さんに代わって宝飾店へ百万円を請求すればいいんです!」
相馬先輩が頷きました。
「考え方は合ってる」
「やった!」
「ただし」
「はい?」
「今すぐ請求できると思うな」
……。
出ました。
昭和の民法。
簡単に勝たせてくれない法律です。
「まず黒川が本当に無資力なのか」
「本人が財産はないと言っています」
「口だけじゃ駄目だ」
「はい」
「時計の代金は、もう支払期限が来てるのか」
「あ」
「黒川が請求していない理由は何だ」
「……分かりません」
「宝飾店には何か言い分があるかもしれねえ」
私は鉛筆を止めました。
そうでした。
債権者代位権は、債権者が好き勝手に債務者の財産を管理できる制度ではありません。
債務者本人の権利に踏み込む。
だから。
必要な条件を一つずつ確認しなければならないのです。
「それに」
片桐所長が口を開きました。
「春江さん」
「はい」
「ご主人が亡くなった際の相続関係も確認させてください」
「相続……ですか?」
「はい。貸金債権は、ご主人の財産でしたから」
所長は静かに言いました。
「誰がその債権を承継しているか、確かめる必要があります」
なるほど。
貸した人が亡くなっている。
だから、春江さんが当然に百万円全部の債権者だと決めつけてはいけない。
春江さんによれば、お子さんはおらず、ご主人の両親も既に亡くなり、兄弟姉妹もいないそうです。
戸籍等で確認する必要はありますが、春江さんが単独相続人である可能性が高い。
「まず、戸籍を揃えましょう」
私は言いました。
「それから、借用書の原本と、返済されていないことの確認ですね」
「そうだ」
所長が頷きました。
「相手の財産状態も、分かる範囲で資料を集める」
私はノートに書きました。
――債権者代位権。
――債権者が、債務者の権利を代わりに行使する制度。
よし。
今回こそ。
現代で覚えた民法が、きれいに使えそうです!
「ちなみに先輩」
「何だ」
「民法四百二十三条の二で、代位行使の範囲は――」
「四百二十三条の、何?」
私は止まりました。
……。
あ。
またやりました。
「よんひゃくにじゅうさんじょうの……」
「の?」
「……何でもありません」
「おい」
相馬先輩が六法を開きました。
第四百二十三条。
そして。
次は第四百二十四条。
「四百二十三条の二なんて、ねえぞ」
「ですよね!」
「何が『ですよね』だ」
私は額を押さえました。
現代の民法では、債権者代位権の制度が詳しく条文化されています。
代位行使の範囲。
債権者への直接の支払。
第三債務者の抗弁。
債務者自身の権限。
でも。
昭和六十三年には、その多くが独立した条文になっていません。
「所長……」
「何だ」
「今の第四百二十三条だけで、そんなにたくさんの問題を処理するんですか?」
「条文だけではない」
「え?」
「判例がある」
相馬先輩がにやりと笑いました。
「そうだ。お前が知らねえうちに、裁判所が積み上げてきた理屈があるんだよ」
……怖い。
令和の受験生。
昭和の判例法理に、完全に包囲されました。
翌日。
相馬先輩と私は、駅前の宝飾店へ向かいました。
――宝飾・時計 大森商会。
ガラスケースには高級腕時計。
金色の文字盤。
銀色のブレスレット。
昭和の景気のよさを、そのままショーケースに詰め込んだようなお店です。
「時計が百万円……」
私は小さく呟きました。
「時計に百万円かける人がいるんですね」
「いるだろ」
「時間を見るだけですよ?」
「お前は高級時計の持ち主に喧嘩を売ってんのか」
「いえ、別に!」
そんな会話をしていると。
店の奥から、恰幅のいい男が現れました。
「いらっしゃいませ」
大森隆一。
五十七歳。
この宝飾店の店主です。
私たちは、春江さんの相談に関係する事実関係を確認するため、店を訪れた事情を伝えました。
もちろん。
依頼人の代理人として、法律紛争の交渉をするためではありません。
相馬先輩が言いました。
「黒川正造さんから仕入れた腕時計について、確認したいことがあります」
大森は眉をひそめました。
「黒川?」
「はい」
「ああ、あの時計屋か」
大森は鼻で笑いました。
「何だ、あいつ。金が欲しくなったのか?」
私は顔を上げました。
「代金はまだ支払っていないんですか?」
「ああ」
「百万円?」
「そうだ」
認めました。
あっさり。
私は少し驚きました。
「では、どうして支払わないんですか?」
大森は肩をすくめました。
「本人が取りに来ないんだから、仕方ないだろ」
「……え?」
「こっちは払うつもりだったんだよ。でも、あいつが『まだいい』って言うんだ」
私は相馬先輩を見ました。
先輩の表情が変わりました。
「黒川さんが、そう言ったんですか」
「ああ」
「いつです?」
「先月だったかな」
「その話をしたとき、代金の支払期限は過ぎていましたか」
「とっくにな」
私は息を呑みました。
支払期限は来ている。
買主も、支払うべき代金があることを認めている。
なのに。
売主が受け取ろうとしない。
「おかしいですね」
私が言うと、大森は笑いました。
「変わった奴だろ。金に困ってるって噂なのにな」
「……」
「まあ、こっちは助かるがね」
大森は腕を組みました。
「金を請求しない奴に、わざわざ払う必要もないだろ」
その瞬間。
私の中で、何かがつながりました。
黒川さん。
藤田さんには、金がないと言う。
しかし、自分には百万円の売掛金がある。
しかも。
その権利を行使していない。
……まさか。
借金を返したくないから、わざと代金を受け取らない?
そうすれば、少なくとも手元に現金は入らない。
差し押さえられる預金も増えない。
ただし、それで債権そのものが消えるわけではありません。
私は小さく息を吸いました。
この事件。
ただの貸金未返済ではない。
他人に対する請求権を眠らせて、借金の返済から逃れようとしている可能性があるのです。
相馬先輩が大森に尋ねました。
「時計の納品書や、売買代金を確認できる資料は残っていますか」
「あるよ」
「それを黒川さんとの間で、後日、書面で確認していただくことはできますか」
「本人が来るならな」
大森は鼻で笑いました。
「ただし、あんたらが何を考えてるのか知らんが、俺は藤田って人とは契約してないぞ」
「そのとおりです」
相馬先輩が言いました。
「ですから、そこを整理する必要があります」
「へえ?」
大森は余裕の表情です。
「契約したのは黒川だ。俺が金を払うとしたら、黒川にだろ」
私は思いました。
普通に考えれば、そのとおりです。
でも。
民法には、普通ではない仕組みがあるのです。
事務所へ戻る途中。
私は我慢できずに聞きました。
「先輩!」
「何だ」
「やっぱり、債権者代位権ですよね!」
「ああ」
「黒川さんが請求しないなら、春江さんが代わりに請求できますよね!」
「条件が揃えばな」
「しかも、大森さんに直接、春江さんへの支払を求めることも!」
「そういう判例法理がある」
やった。
これは大きい。
「じゃあ、百万円を払わせれば解決ですね!」
「……お前な」
「はい?」
「代位権を使ったからって、金が魔法みたいに自分のものになるわけじゃねえぞ」
「え?」
「黒川の持ってる権利を行使するんだ」
「はい」
「春江さん自身が、最初から大森に貸金債権を持ってるわけじゃねえ」
私は立ち止まりました。
……あ。
そうでした。
債権者代位権。
債権者が、債務者に属する権利を自己の名で行使する制度。
債務者の代理人になるわけではない。
そして。
第三債務者から直接支払を受けた場合でも、その金銭が当然に自分の貸金債権の弁済として確定するわけではありません。
「じゃあ……」
私は聞きました。
「黒川さんに対する返還関係とか、相殺の問題もあるんですか?」
「そうだ」
先輩が頷きました。
「その先まで見て、弁護士と手順を詰める必要がある」
なるほど。
私はノートを取り出しました。
――代位行使は、債務者の権利を行使すること。
――第三債務者からの直接受領と、自分の貸金債権の消滅は別問題。
これ、大事です。
ただ百万円を手に入れるだけなら、何だか簡単そう。
でも。
誰の権利を。
誰の名で。
誰に対して行使するのか。
その区別を間違えると、大変なことになります。
「それと、こはる」
「はい」
「昭和の民法は、もう一つ面倒だ」
「まだあります?」
「代位権を行使したことを債務者が知った後の、本人の取立てや処分の問題だ」
「……あ!」
私は思わず声を上げました。
現代の民法第四百二十三条の五。
代位権が行使されても、債務者は自ら取立てや処分ができる。
そう定めています。
でも。
昭和六十三年の判例法理では、債務者が代位権行使の通知を受けるなどしてその事実を知った後は、代位債権者を害するような権利の処分が制限されると解されていました。
「現代と、違う……」
「何がだ?」
「あ、いえ!」
危ない。
時代錯誤です。
しかも、今回の事件では重大です。
もし黒川さんが、百万円の売掛金を大森さんから取り立てたり、放棄したりしようとしたら。
いつ、誰が、何を知っていたか。
そこが問題になる可能性がある。
「先輩」
「何だ」
「昭和の民法って、条文が少ないぶん、判例が怖いですね」
「条文が少ないから楽だと思ったか?」
「ちょっとだけ」
「甘えんな」
……はい。
民法。
やっぱり奥が深いです。
その日の夕方。
片桐行政書士事務所に、黒川正造が現れました。
五十歳過ぎ。
くたびれた背広。
金色の腕時計。
……あれ?
借金を返す金がないと言っている人にしては、随分と立派な時計です。
「藤田の奥さんが、ここに相談したそうだな」
黒川は椅子に腰を下ろしました。
「百万円の件です」
私が言うと、黒川は鼻で笑いました。
「返せるもんなら返してるよ」
「でも、大森商会に百万円の売掛金がありますよね」
黒川の目が細くなりました。
「……誰に聞いた」
「その点は、既に確認しています」
相馬先輩が言いました。
黒川は腕を組みました。
「それがどうした」
「売掛金を請求するつもりはないんですか」
私の問いに、黒川は笑いました。
「俺の金だろ」
「はい?」
「大森に請求するもしないも、俺の自由だ」
私は黙りました。
「藤田の旦那に金を借りたのは事実だ。借用書もある。だが、ない袖は振れねえ」
「……」
「大森から金を取るかどうかまで、他人に決められる筋合いはないんだよ」
……。
私は、この人が何を考えているのか分かりました。
自分には財産がない。
だから借金を返せない。
でも、別の人から金を請求する権利は持っている。
そして、その権利を使わない。
借金の返済から逃れるために。
「黒川さん」
私は言いました。
「民法第四百二十三条をご存じですか?」
「何だ、それ」
「債権者代位権です」
「……?」
「あなたが権利を行使しない場合、一定の条件のもとで、債権者がその権利を行使できる制度です」
黒川はしばらく黙りました。
それから。
笑いました。
「馬鹿言うな」
「え?」
「俺が大森に請求できるからって、藤田の奥さんが勝手に請求できるわけねえだろ」
「それが、できる場合があるんです」
「ふん」
黒川は立ち上がりました。
「行政書士が何を偉そうに」
……来ました。
この台詞。
最近、よく聞きます。
「裁判でも何でもやってみろよ」
黒川は言いました。
「ただし俺には、差し押さえる財産なんかねえからな」
そして。
扉に手をかけたところで、振り返りました。
「それとな」
「はい?」
「大森には、俺以外の奴に金を払うなと言ってある」
黒川はにやりと笑いました。
「契約したのは俺だ。俺が請求しない限り、あいつは払わねえよ」
……。
随分と自信満々です。
でも。
相馬先輩は、何も言い返しませんでした。
ただ、低い声で言いました。
「こはる」
「はい」
「確認できたな」
「……はい」
黒川が立ち去ると、相馬先輩は帳簿を閉じました。
「所長」
「うん」
「本人が売掛金の存在を認めました」
「ああ」
「請求する意思がないことも」
「そうだな」
片桐所長は短く頷きました。
「書面を整えろ」
私は顔を上げました。
いよいよ。
反撃です。
「まず、事実を並べろ」
片桐所長が言いました。
私は机に資料を広げました。
第一。
藤田修一さんから黒川への百万円の貸付け。
借用書あり。
返済期限到来。
未返済。
第二。
修一さんの死亡。
春江さんの相続関係。
戸籍等で、春江さんが単独相続人であることを確認。
第三。
黒川の財産状態。
本人は預金や不動産がないと説明。
閉店の事実、残る財産の状況などを調査し、売掛金以外に弁済に充てられる資産を確認できない。
第四。
黒川と大森商会の売買。
高級腕時計一個。
売買代金百万円。
商品引渡済み。
代金支払期限到来。
未払い。
第五。
黒川は、代金債権を行使していない。
私は鉛筆を置きました。
「五つ、揃いました」
相馬先輩が頷きました。
「それで、何が言える?」
「春江さんは、返済期限の来た百万円の貸金債権を持っています」
「うん」
「黒川さんは無資力で、しかも大森さんへの代金債権を行使していません」
「うん」
「そして代金債権は、黒川さん本人だけが行使できる一身専属権でも、差押禁止債権でもありません」
所長が頷きました。
「そうだ」
「ですから、債権者代位権による保全が問題になります」
「よし」
私は胸を張りました。
しかし。
所長が、ある部分を指差しました。
「こはる」
「はい」
「大森は、黒川に対して何か抗弁を持っていないか」
「抗弁?」
「たとえば、時計に重大な欠陥があり、契約を解除したと主張しているとか」
「あ……」
「そういう事情があれば、代金を請求できるかどうかも変わる」
私は頷きました。
そうです。
債権者代位権は、もともと黒川が持っている権利を行使する制度。
だから、大森が黒川に対抗できる事情まで消し去れるわけではない。
「そこは確認済みです」
相馬先輩が資料を出しました。
大森商会による取引確認書。
腕時計は納品済み。
代金百万円は未払い。
支払期限は到来済み。
時計の欠陥、代金減額、相殺などについて、現時点で特段の主張はない。
「おお……!」
私は思わず声を上げました。
「先輩、いつの間に!」
「仕事だよ」
相馬先輩が鼻で笑いました。
「相手の言い分を確認せずに、勝手に請求できると思うな」
「はい!」
これで。
かなり固まりました。
でも、もう一つ。
私はノートを見ました。
「所長」
「何だ」
「これは、春江さん本人の名義で通知するんですよね」
「そうだ」
「黒川さんの代理人としてではなく?」
「違う」
所長は言いました。
「債権者が自己の名で、債務者の権利を行使する。それが債権者代位権だ」
なるほど。
ここも重要です。
春江さんが、黒川の代理人になるわけではありません。
黒川が委任状を渡す必要もない。
だって。
黒川自身が、権利を行使しようとしないのですから。
「ただし」
所長が続けました。
「私たちは、春江さんに代わって紛争の交渉を引き受けることはできない」
「はい」
「資料整理と書類作成の範囲を守る。代位権の行使や直接支払の請求が争われる場合は、弁護士に任せる」
そのため、所長は以前から付き合いのある弁護士に、法的手続についての確認を依頼しました。
弁護士は資料を読み、こう説明したそうです。
――この事情なら、債権者代位権の行使を検討できる。
――当時の判例でも、金銭債権について代位債権者自身への直接支払請求が認められている。
――ただし、代位したからといって、当然に貸金債権の弁済が完了するわけではない。
――相手が争う場合には、訴訟等の手続を検討する必要がある。
私は、その説明を読んで頷きました。
そう。
書面は武器。
でも、万能ではありません。
法律上の請求を強制するには、必要なら裁判もある。
その境界を守ることも、行政書士の仕事なのです。
二日後。
机の上には、一通の内容証明郵便の原案が置かれていました。
宛先。
大森隆一。
差出人。
藤田春江。
表題。
――債権者代位権の行使に関する通知書。
私は、内容を読み上げました。
「通知人は、亡藤田修一の相続人として、黒川正造に対する金壱百万円の貸金債権を有する」
相馬先輩が頷きます。
「続けろ」
「同貸金債権の弁済期は昭和六十三年三月三十一日に到来しているが、現在に至るまで弁済されていない」
「うん」
「一方、黒川正造は、貴殿に対し、昭和六十三年三月に締結された腕時計売買契約に基づき、金壱百万円の代金債権を有する」
私は息を吸いました。
「同代金債権の履行期は既に到来しているが、黒川正造はこれを行使していない」
所長が頷きました。
「続けなさい」
「黒川正造には、前記売買代金債権のほか、通知人の債権の弁済に充て得る資産が認められず、通知人の債権を保全する必要がある」
私は少し緊張しました。
ここからが。
核心です。
「よって通知人は、民法第四百二十三条に基づき、自己の債権を保全するため、黒川正造が貴殿に対して有する前記売買代金債権を、金壱百万円の限度で代位行使する旨を通知する」
静かになりました。
そして。
「本件代金債権については、判例上認められる代位債権者への直接支払請求も含め、適切な法的手続を検討している」
私は最後の部分を読みました。
「なお、本通知によって当然に強制執行が可能となるものではないが、任意の解決が得られない場合には、弁護士を通じて代位訴訟その他の法的措置を検討する」
読み終えました。
……ふう。
長い。
そして、硬い。
でも。
あの大森商会の店主が言った、
「俺は藤田とは契約していない」
という逃げ道を、この書面は正面から突いています。
直接の契約相手ではない。
その点は認める。
だからこそ。
債権者代位権を問題にするのです。
「所長」
「何だ」
「これなら、相手が契約関係を理由に逃げようとしても……」
「法律上の問題は残る」
「はい」
所長は原案を置きました。
「ただし、最後は本人に判断してもらう」
「春江さんですか?」
「そうだ」
内容を確認し、春江さん自身の意思で通知する。
法律上の紛争対応が必要なら弁護士に引き継ぐ。
私たちが勝手に交渉してはいけません。
そしてもう一つ。
黒川に対しても、代位権行使の事実を明らかにする通知が用意されました。
昭和六十三年の判例法理では、その通知を受けた後の権利処分について、重大な意味が生じ得るからです。
私は封筒を見つめました。
二通の通知。
どちらも、薄い紙です。
でも。
ここには、声を荒らげるよりも強いものが詰まっている。
借用書。
売買契約。
支払期限。
無資力。
権利の不行使。
そして。
民法第四百二十三条。
「……先輩」
「何だ」
「怖いですね」
「何が」
「百万円を隠したつもりの人に、『その請求権、見えていますよ』って伝える書面です」
相馬先輩が笑いました。
「金庫の中だけが財産じゃねえんだよ」
私は頷きました。
そうです。
債権だって財産。
目に見えなくても。
誰かにお金を払ってもらえる権利には、経済的な価値がある。
民法は、その見えない財産まで、ちゃんと捕まえることができるのです。
内容証明郵便が届いてから、三日後。
大森商会から電話がありました。
「片桐さんは、いらっしゃいますか」
私は驚きました。
あの余裕たっぷりだった店主です。
でも。
声が違います。
ずいぶんと弱々しい。
「はい。少々お待ちください」
所長が電話に出ました。
「片桐です」
『あの……藤田さんから届いた書面のことなんですが』
「はい」
『弁護士に見せましてね』
「そうですか」
『民法四百二十三条って、本当にあるんですね……』
……。
私は思わず顔を上げました。
ありますよ。
ちゃんと。
昭和にも。
『あの、黒川が請求してこなくても、別の人が代わりに請求できる場合があると聞きまして』
「そういう制度があります」
『しかも、代金を払わないままでいれば、こちらが訴えられる可能性もあるとか……』
大森の声が震えました。
『私は、百万円を払わないつもりじゃないんです』
「はい」
『ただ、黒川が取りに来ないから……』
所長は静かに言いました。
「具体的な支払方法や法律上の取扱いについては、関係者と弁護士にご確認ください」
『分かりました……』
電話が切れました。
私は所長を見ました。
「大森さん、慌ててましたね」
「ああ」
「でも、まだ終わりじゃないですよね」
「そうだ」
所長が頷きました。
「誰に支払えば、誰に対する債務が消えるのか。そこは慎重に整理する必要がある」
私は頷きました。
黒川への売買代金債務。
春江さんへの貸金債務。
二つは別の債務です。
金額が同じ百万円でも、勝手に同じものとして扱ってはいけない。
その区別をつける。
それも民法です。
ところが。
その日の午後。
今度は黒川本人が事務所へ現れました。
「……藤田の奥さんはいるか」
私は顔を上げました。
黒川です。
先日まで、あんなに偉そうだった男。
しかし今日は。
顔色が悪い。
「いらっしゃいませんが」
「そうか……」
黒川は椅子に座りました。
そして、ぽつりと言いました。
「大森から電話が来た」
「はい」
「何で代金を請求しないんだって、怒鳴られたよ」
私は黙って聞きました。
「弁護士まで出てきやがって……」
黒川は頭を掻きました。
「このままだと、俺が藤田への借金を返していないことも、俺に百万円の売掛金があることも、全部裁判で問題になるんだろ」
相馬先輩は答えません。
黒川はしばらく黙っていました。
そして。
「……分かったよ」
小さく言いました。
「大森の百万円で、藤田の奥さんに返す」
私は目を見開きました。
ついに。
黒川が折れました。
「返済するんですね?」
私が聞くと、黒川は苦い顔をしました。
「返さなきゃ、いつまでも終わらねえんだろ」
その言葉を聞いて。
私は思いました。
そう。
最初から、返せる道はあった。
ただ。
本人が、その道を使おうとしなかっただけなのです。
それから数日後。
春江さんから、事務所に連絡が入りました。
弁護士の助言を受けながら、春江さん、黒川、大森の三者で、百万円の支払方法を確認したそうです。
黒川は、大森から受け取る売買代金百万円を、春江さんへの借金の返済に充てることに同意。
大森も、黒川の指示に従い、春江さんへ直接送金することを了承しました。
書面には、三者の署名押印。
そして。
大森から春江さんに百万円が支払われたとき、黒川の大森に対する売買代金債権と、春江さんの黒川に対する貸金債権が、それぞれ支払額の限度で消滅することを明確にしていました。
つまり。
今回の最終的な解決は、三者の合意に基づく直接送金です。
代位権を使っただけで、自動的に二つの債権が消滅したわけではありません。
そこを曖昧にしなかったのです。
そして。
百万円の送金が、実際に確認されました。
「……入っていました」
事務所を訪れた春江さんは、預金通帳を両手で握っていました。
「百万円、全部」
私は思わず立ち上がりました。
「本当ですか!」
「はい」
春江さんの声が震えました。
「主人のお金が……戻ってきました」
その目から、涙が落ちました。
私は何も言えませんでした。
百万円。
数字だけなら、借用書に書かれた金額です。
でも。
そこには、何十年も働いて貯めた時間がある。
洋裁店を続けるための希望がある。
そして。
亡くなったご主人が、奥さんに残した生活の支えがある。
「主人は、黒川さんを信じていたんです」
春江さんが言いました。
「だから、借用書を書かせるときも、少し申し訳なさそうにしていました」
私は黙って聞きました。
「でも、ちゃんと書いておいてくれて……よかった」
春江さんは通帳を胸に抱きました。
「これで、店を続けられます」
私は、思わず笑いました。
「本当によかったです」
春江さんは深く頭を下げました。
「ありがとうございました」
その姿を見て。
私は、法律の力を少しだけ理解できた気がしました。
債権者代位権。
難しい名前です。
六法を開けば、要件が並んでいます。
無資力。
被保全債権。
被代位権利。
履行期。
権利の不行使。
……覚えるのは大変です。
でも。
その仕組みが守ったのは。
一人の女性が、亡くなった夫の思いを背負って続けてきた、小さな洋裁店でした。
夕方。
春江さんが帰ったあと。
私は机の上に、三枚の紙を並べました。
一枚目。
藤田春江。
二枚目。
黒川正造。
三枚目。
大森隆一。
「先輩」
「何だ」
「これ、三人が出てくるから難しいんですよね」
「ああ」
「最初、誰が誰に何を請求するのか、頭がこんがらがりました」
「だから整理するんだろ」
私は鉛筆で線を引きました。
春江さんから黒川へ。
百万円の貸金債権。
黒川から大森へ。
百万円の売買代金債権。
そして。
黒川が行使しない代金債権を、春江さんが自己の名で代位行使する。
「なるほど……」
私は頷きました。
「代位権って、他人の財布から勝手にお金を取る制度じゃないんですね」
「そうだ」
「債務者の財産を守るために、債務者が持っている権利を行使する」
「うん」
「そして、今回はその結果、三者の合意で返済までできた」
相馬先輩が頷きました。
「そこを間違えるなよ」
「はい!」
私はノートを開きました。
「でも先輩」
「今度は何だ」
「今回、黒川さんが無資力だったから代位権が使えたんですよね」
「そうだな」
「じゃあ、債権者代位権って、どんな場合でも必ず無資力が必要なんですか?」
相馬先輩は、少しだけ笑いました。
「ほう」
「……何ですか?」
「いい質問じゃねえか」
やった。
褒められました。
珍しい。
「じゃあ次は、不動産の登記を考えてみろ」
「登記?」
「ああ」
先輩は一枚の紙を取り出しました。
「土地を買った人間が、売主に登記を移してもらいたい。だが、その売主自身が、前の所有者から登記を受けていない場合はどうする?」
「え?」
「買主は、売主が持っている登記請求権を代位行使できる場合がある」
私は目を丸くしました。
「それって……お金を取り立てる話じゃありませんよね?」
「そうだ」
「売主が無資力じゃなくても?」
「保全の必要性があれば、無資力を要しない形で代位が認められる場合がある」
……。
待ってください。
ちょっと待ってください。
債権者代位権。
借金の回収だけではない?
登記にも使える?
「先輩!」
「何だ」
「民法四百二十三条、万能すぎません?」
「万能じゃねえよ」
「でも、他人の権利を代わりに行使できるって、すごくないですか!」
「だから条件があるんだろ」
私は頷きました。
そうか。
自分の権利を守るために、他人の権利を動かす。
それは、とても強い力です。
だからこそ。
簡単には認められない。
債務者の自由。
第三債務者の立場。
他の債権者との公平。
いろいろなものを考えなければならない。
私はノートに書きました。
――自分の債権を守るため、債務者が行使しない権利を、一定の条件で代わりに行使する。
これが。
今日の教訓です。
「所長!」
私は奥へ声をかけました。
「何だ」
「債権者代位権、覚えました!」
「そうか」
「借金を返さない人が、別の人にお金を請求できる場合、その請求権も大事な財産なんですね!」
「ああ」
「そして、債務者が動かないなら、債権者が動かせる場合がある!」
所長が頷きました。
「ただし、他人の権利だということを忘れるな」
「はい!」
私はノートを閉じました。
窓の外。
商店街には、夕暮れの明かりが灯り始めています。
どこかで。
春江さんは、洋裁店のミシンを動かしているのでしょう。
取り戻した百万円で、また布を仕入れて。
亡くなったご主人が残してくれた店を、守りながら。
「相馬先輩」
「何だ」
「今日の事件、面白かったですね」
「依頼人は大変だったんだぞ」
「そういう意味じゃありません!」
私は慌てて言いました。
「だって、最初は財産がないって言ってたんですよ」
「ああ」
「なのに、見えないところに百万円があった」
「そうだな」
「現金じゃなくても、債権は財産なんです!」
相馬先輩が笑いました。
「ようやく分かったか」
「はい!」
私は鉛筆を握り直しました。
そして、今日の事件の一番大事な言葉を、ノートの最後に書きました。
――債権者代位権は、債務者が眠らせた権利を、債権者が起こす制度。
……よし。
これなら忘れません。
「こはる」
片桐所長が言いました。
「はい!」
「もう一つ覚えておけ」
「何でしょう」
所長は、机の上に置かれた借用書の写しを指差しました。
「権利は、持っているだけでは生活を守れないことがある」
「……はい」
「だが、権利を行使する道があれば、守れるものもある」
私は静かに頷きました。
借用書。
百万円。
返済期限。
その紙だけでは、春江さんの生活は守れませんでした。
でも。
その権利を確かめて。
相手の財産を探して。
法律の仕組みを使ったことで。
ようやく、百万円は帰ってきた。
民法は。
単に約束を守らせる法律ではありません。
約束を守らない人がいるときに。
どうすれば、約束を守ってきた人を救えるのか。
その方法まで考えているのです。
「よし!」
私は立ち上がりました。
「次は、不動産登記の代位ですね!」
相馬先輩が顔をしかめました。
「お前、まだやる気か」
「もちろんです!」
「その前に、今日の書類を片付けろ」
「ええっ!」
「机が紙だらけだぞ」
私は机を見ました。
借用書。
売買契約書。
取引確認書。
戸籍。
内容証明の控え。
六法。
ノート。
……確かに。
書類が山になっています。
「先輩」
「何だ」
「この片付け、私がやらない場合、先輩が代位して――」
「しねえよ!」
「まだ最後まで言ってません!」
「言わなくても分かる!」
私は笑いました。
残念。
債権者代位権を覚えても。
自分の机の片付けを、先輩に代位してもらうことはできないようです。
昭和六十三年。
片桐行政書士事務所。
今日も、民法の勉強は続いていきます。
ただし。
次に誰かから、
「借金を返す金なんてない」
と言われたら。
私は、もう簡単には諦めません。
預金がない。
土地もない。
家もない。
それだけで、本当に何もないとは限らない。
だって。
その人が、別の誰かにお金を請求できるなら。
そこには、目に見えない財産があるのです。
そして。
その権利を、本人がわざと眠らせているのなら。
民法第四百二十三条が、静かに目を覚ます。
――他人の権利だから、手は出せない。
そんな言い訳だけでは、逃げ切れないことがある。
それが。
債権者代位権なのです。
以下に私の作品へのリンク貼ってます。是非、手に取って頂ければと思います。また、ついでに評価ブックマーク頂ければ幸いです。




