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こはる行政書士見習帖 〜 昭和に転生して許認可に振り回されると試験知識が骨身にしみます 〜  作者: 条文小説
〈民法 配点76点/300点〉 債権

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494/610

[民法・債務不履行]法理編 こはるノート

挿絵(By みてみん)

約束を破ったら、損害賠償。


そう聞くと、簡単な話に思えます。


でも。


約束した時間に遅れた場合と。


約束したものを、壊してしまった場合と。


約束した数をそろえたのに、中身が腐っていた場合。


全部、同じ法律の扱いになるのでしょうか。


答えは、違います。


そして。


もっと厄介なことに。


昭和六十三年と令和では、債務不履行に関する条文の書き方も、損害賠償の要件も、法定利率も違うのです。


昭和六十三年。


夕方の片桐行政書士事務所。


私は机に向かって、ノートを開いていました。


表紙には、大きくこう書いてあります。


――こはるノート・民法編。


「……先輩」


「何だ」


「債務不履行って、性格の違う三兄弟みたいですね」


相馬先輩が新聞から顔を上げました。


「いきなり何の話だ」


「履行遅滞、不完全履行、履行不能です」


「ああ」


「長男は時間にルーズ」


「ほう」


「次男は仕事が雑」


「うん」


「三男は、そもそも仕事ができなくなった」


先輩は少し考えてから言いました。


「全員、ろくでもねえな」


「そこじゃありません!」


私は鉛筆を握りました。


「三つとも債務不履行ですけど、何が起きたかによって、法律上の問題が違うんです!」


「だったら、昨日の事件を思い出せ」


昨日の事件。


田辺和代さん。


少年少女合唱団の十周年記念発表会。


百個の弁当。


午後二時に届いた料理。


三十個の腐った弁当。


そして、壊れてしまった特注の記念盾。


大黒屋の主人、黒田繁造は言いました。


――忙しかったんだから仕方ない。


――百個届けたんだから問題ない。


――壊れたものは渡せない。


ところが。


契約書と証拠を整理した内容証明を送ると、黒田の態度は一変しました。


あれほど強気だった男が、自分の責任を認め、金銭の支払いに応じたのです。


「よし」


私はノートの一ページ目を開きました。


「今日は、債務不履行を完全に理解します!」


「昨日もそんなこと言ってなかったか」


「昨日は事件です。今日は試験対策です!」


「相変わらず忙しい頭だな」


そこへ。


奥から片桐所長が声をかけました。


「相馬」


「はい」


「今日は四百十五条からだ」


「……所長まで付き合うんですか」


「こはるが、まだ大事なところを間違えている」


私は固まりました。


「えっ?」


所長は静かに言いました。


「現代の条文を、昭和の事件に使いかけただろう」


「……はい」


「それと、賠償額をすぐ足し算しようとした」


「……はい」


「今日は、その二つを直せ」


私は背筋を伸ばしました。


「分かりました!」


こうして。


片桐行政書士事務所の、少し厳しい民法勉強会が始まったのです。


### 一 債務不履行とは、何を守らなかったことなのか


「まず、基本です」


私はノートに書きました。


――債務不履行。


約束した義務を、その内容に従って果たさないこと。


「先輩、債務って何ですか?」


「人に対して、一定の行為をする義務だな」


「そうです!」


たとえば。


お金を借りたら、返す義務。


商品を売ったら、引き渡す義務。


建物を修理すると約束したら、契約に従って修理する義務。


仕出し屋が弁当を百個届けると約束したら。


ちゃんとした弁当を、指定された時刻と場所に届ける義務。


「つまり、何をする義務なのかは、契約の内容によって決まるんですね」


「そうだ」


片桐所長が頷きました。


「昨日の注文書には、何が書いてあった」


「百個、午前十一時三十分、町民会館一階控室です」


「それだけか」


「……あ」


私は思い出しました。


昼食用の弁当。


それも、子供たちが食べるもの。


百個という数量だけそろえればいいわけではありません。


食べられる品質で届けなければ意味がない。


「数量、品質、時間、場所。全部、約束の内容に関係するんですね」


「そうだ」


所長が言いました。


「どの義務を履行しなかったのか。それが分からなければ、債務不履行を正しく判断できん」


私は頷きました。


ここが、最初の分かれ道。


単に、


「約束を守らなかった!」


と怒るだけでは足りません。


何を約束したのか。


そのうち何が守られなかったのか。


そこから始めるのです。


### 二 履行遅滞――「後でやればいい」の罠


「まず、長男です!」


「誰が長男だ」


「履行遅滞です!」


私はノートに大きく書きました。


――履行遅滞。


履行できるのに、履行すべき時期が来ても履行しないこと。


「昨日の弁当ですね」


「ああ」


「午前十一時半までに届ける約束だったのに、午後二時に届いた」


「そうだ」


「だから、履行遅滞です」


私は大きく丸をつけました。


でも。


相馬先輩が言いました。


「こはる。じゃあ、期限が決まっていない借金は、いつから遅滞になる?」


「え?」


「借用書に『返済日は決めない』と書いてあったらどうする」


私は考えました。


返済期限。


決まっていない。


だから、いつまでも遅滞にならない?


「……違いますよね」


「当然だ」


片桐所長が六法を開きました。


「民法四百十二条を見ろ」


私は条文を読みました。


そして、ノートに三つの区別を書きます。


確定期限。


不確定期限。


期限の定めがない場合。


「まず、確定期限です!」


たとえば。


八月三十一日までに百万円を返す。


こういう場合、いつ履行すべきかが明確です。


「原則として、期限が到来した時から履行遅滞になります」


「そうだ」


「八月三十一日までに返すなら、翌九月一日には、もう期限を過ぎている」


相馬先輩が頷きました。


「じゃあ、次」


「不確定期限ですね」


たとえば。


ある人物が亡くなったら返済する。


死亡すること自体は確実でも、いつになるかは分かりません。


「この場合は、債務者が期限の到来を知った時から遅滞の責任を負います」


「そうだ」


「では、期限の定めがない場合!」


私は鉛筆を掲げました。


「履行の請求を受けた時からです!」


「正解」


私は嬉しくなりました。


でも所長が補足します。


「金銭消費貸借の返還時期を定めていない場合には、民法五百九十一条も確認する必要がある」


「……あっ」


そうでした。


借金の返済時期を決めていない場合、貸主は相当の期間を定めて返還を催告するという規定があります。


つまり。


期限の定めがない債務だから、何でも請求した瞬間に同じ結論になる。


そう短絡してはいけないのです。


「個別の契約について、特別な規定がないか確認するんですね」


「そうだ」


私はノートに書きました。


――履行遅滞は、まず期限を確認。契約類型ごとの規定にも注意。


「それにしても」


私は呟きました。


「昨日の黒田さん、二時間半も遅れたのに『少し遅れただけ』って言ってましたね」


「言ってたな」


「でも、時間が本質的に重要な契約だって分かっていたんですよね」


「そうだ」


子供たちの昼食。


午後一時から発表会。


だから午前十一時半の納品が必要だった。


ここで大切なのは。


後から届ければ、すべて解決するわけではないこと。


約束した時刻に届くこと自体に、価値があったのです。


私はノートに赤線を引きました。


――遅れたあとに履行しても、遅延による損害の問題は残る。


### 三 履行不能――「壊れたから責任なし」は通用するのか


「次は、三男です!」


「もう兄弟設定はいい」


「履行不能です!」


私は続けました。


履行不能。


約束した給付を実現することができなくなった状態。


昨日の記念盾。


藤井先生のために作られた、世界に一つの特注品。


それが、引渡し前に粉々になった。


「同じものを渡すことは、できませんね」


「そうだ」


「でも、先輩」


「何だ」


「ここ、私が最初に間違えたところです」


私は六法の四百十二条を指しました。


「現代では、民法四百十二条の二があるんです」


「……また未来か」


「はい!」


現代の民法四百十二条の二。


履行不能を、契約その他の債務の発生原因や取引上の社会通念に照らして判断することを明文化した条文です。


しかし。


昭和六十三年には、その条文は存在しません。


「でも、履行不能という考え方は昔からあるんですよね」


「ああ」


「だから、当時は旧法の条文や判例、解釈から判断する」


片桐所長が頷きました。


「そうだ」


私はノートに書きました。


昭和六十三年。


民法四百十二条の二は存在しない。


ただし、履行不能の法理は存在する。


令和。


民法四百十二条の二に、履行請求ができなくなる場合を明文化。


「ところで、こはる」


相馬先輩が言いました。


「昨日の記念盾を、別の職人が新しく作れたらどうなる?」


「……え?」


「材料もある。時間もかかるが、同じ仕様の盾を作れるとする」


私は考えました。


同じ物。


作り直せる。


だったら。


「必ずしも履行不能とはいえません!」


「そうだ」


重要なのは、契約で何を引き渡す義務を負ったかです。


特定の完成品そのものを渡す約束だったのか。


一定の仕様を満たす品物を渡す約束だったのか。


そこが違えば、結論も変わります。


「昨日の事件では、特定の職人が制作した完成済みの一点物を引き渡す契約でした」


「そうだな」


「だから、その物が修復不能なほど壊れたことが決定的だったんですね」


「そのとおり」


私は頷きました。


同じように。


建物を売る契約を結んだあと、その建物が大地震で倒壊した。


特定の建物そのものを引き渡すことは、もうできません。


でも。


「履行不能なら、必ず損害賠償ってわけではないんですよね」


私は言いました。


片桐所長が頷きました。


「そこが次の問題だ」


私は鉛筆を握り直しました。


### 四 民法四百十五条――損害賠償には、責任の理由がいる


「さて」


相馬先輩が六法を指しました。


「昨日の黒田は、こう言ったな」


先輩は少し声を低くしました。


「事故だよ、事故! 壊れたんだから仕方ねえだろ!」


私は吹き出しました。


「先輩、似てます!」


「そこを褒めるな」


でも。


黒田の主張には、大きな問題がありました。


確かに、記念盾は壊れています。


履行できない。


しかし。


その原因は何だったのか。


以前からぐらついていた棚。


固定しないまま使用。


そこへ、大切な記念盾を置いた。


「……保管管理に落ち度がありますね」


「そうだ」


私は旧民法四百十五条を読み直しました。


そこには、債務の本旨に従った履行をしない場合の損害賠償と、債務者の責めに帰すべき事由によって履行不能になった場合の損害賠償が定められています。


「昭和の法律では、債務者の責めに帰すべき事由、つまり帰責事由が大切なんですね」


「そうだ」


所長が言いました。


「ただし、契約違反という結果だけを見て、全部同じに考えるな」


私は頷きました。


たとえば。


保管していた記念盾を、店主が不注意で壊した。


これは責任を問われやすい。


一方。


予測も回避もできない大災害によって、適切に保管していた一点物が失われた。


その場合には、損害賠償責任が否定されることもあります。


「つまり、履行不能と、損害賠償責任があるかどうかは別なんですね」


「そのとおりだ」


ここで私は、現代の条文を思い出しました。


令和の民法四百十五条。


債務の本旨に従った履行をしないとき、または履行不能のときは、原則として損害賠償を請求できる。


ただし、その不履行が契約その他の債務の発生原因や取引上の社会通念に照らして、債務者の責めに帰することのできない事由による場合は別。


「昭和と令和で、条文の組み立てが違いますね」


「そうだな」


「現代では、責任を免れるかどうかを、契約内容や社会通念に照らして考えることが明確に書かれている」


私はノートに二つの欄を作りました。


昭和六十三年。


旧四百十五条の文言と判例・解釈を踏まえ、債務不履行と帰責事由を検討する。


令和。


改正四百十五条が、契約その他の債務発生原因と取引上の社会通念を明示している。


「そして、現代では四百十五条二項もあります」


私は続けました。


履行不能。


履行拒絶の意思の明確な表示。


契約解除、または解除権の発生。


こうした場合に、履行に代わる損害賠償を請求できることが整理されています。


相馬先輩が眉をひそめました。


「お前、また随分細かいことを知ってるな」


「行政書士試験の勉強です!」


「何年先の試験だよ」


「……気のせいです!」


危ない。


未来人だとばれるところでした。


私は慌てて話を戻しました。


「でも、考え方の根本は同じですね」


「何がだ」


「約束を守れなかった事情を見ずに、機械的に賠償責任を決めないことです」


所長が頷きました。


「そうだ」


民法は、約束を守ることを大切にします。


でも。


人間に不可能なことまで、無条件に金銭責任を負わせる制度ではありません。


だから、原因を調べる。


責任を考える。


そのうえで、損害賠償を判断するのです。


### 五 不完全履行――「百個届けたから問題ない」の嘘


「さて、次は次男です!」


「まだ続けるのか」


「不完全履行です!」


私はノートの真ん中に書きました。


――不完全履行。


債務を履行したものの、その内容が契約で求められたものとして不十分な場合。


「昨日の弁当ですね」


「ああ」


「大黒屋は、確かに百個届けました」


「そうだな」


「でも、三十個が腐っていた」


「うん」


「つまり、数量が合っていても、債務の本旨に従った履行とはいえなかったんです!」


相馬先輩が頷きました。


百個の弁当。


約束した数量は百個。


実際に届いた数量も百個。


でも。


食べられる弁当は七十個だけ。


「これ、面白いですね」


「何がだ」


「百という数字だけ見ると、契約を守っているように見えるんです」


「そうだな」


「でも、契約の目的から考えると、守っていない」


私は鉛筆で書きました。


――履行したという事実と、正しく履行したという事実は違う。


ところが。


ここで、私はまた現代の知識を持ち出してしまいました。


「これは契約不適合責任でもありますね!」


相馬先輩が顔を上げました。


「……何だ、それ」


「あっ」


「契約不適合?」


「……はい」


「聞いたことねえな」


しまった。


またです。


令和の民法です。


私は慌てて言い直しました。


「ええと、売買なら瑕疵担保責任という言葉も関係します!」


「そうだな」


相馬先輩が頷きました。


「ただし、何でも瑕疵担保責任で片付けるなよ」


「はい?」


「今回のような仕出し弁当の契約について、どんな債務を負っていたのか。そこから考えるんだ」


私は少し考えました。


なるほど。


不完全履行は、売買だけの問題ではありません。


修理を頼んだのに、故障が直っていない。


運送を頼んだのに、荷物を破損させて届けた。


清掃を頼んだのに、肝心な場所が汚れたまま。


こうした場合にも、契約の本旨に従った履行があったかが問題になる。


「不完全履行は、債務不履行の一つの形なんですね」


「そうだ」


片桐所長が言いました。


「現代の契約不適合責任と、昭和の瑕疵担保責任も、完全に同じ制度ではない。そこは混同するな」


「はい!」


私はノートに書きました。


昭和六十三年。


不完全履行は、債務不履行の一類型として問題になる。


売買の瑕疵については、旧法の瑕疵担保責任との関係も検討する。


令和。


売買などでは、契約不適合責任として、契約内容に適合しているかを中心に整理する。


「先輩」


「何だ」


「民法って、用語が変わるだけじゃないんですね」


「ああ」


「何を基準に責任を考えるのか。その仕組みも変わっている」


私は大きく頷きました。


昭和の民法を勉強していると、現代の改正が単なる言葉の置き換えではなかったことが分かります。


法律は、少しずつ整理されてきたのです。


### 六 民法四百十六条――「損した金は全部払え」の落とし穴


「こはる」


相馬先輩が言いました。


「昨日、お前はいくら請求しようとした?」


「……十五万円全部です」


「それだけか?」


「あと、バス代八万円もです」


「合計は?」


「二十三万円です!」


「根拠は?」


「黒田さんが悪いからです!」


「それが駄目なんだよ」


「……はい」


私は肩を落としました。


だって。


あの黒田です。


あれだけ偉そうにして。


約束を破って。


謝罪もしない。


腹が立つじゃありませんか。


でも。


相馬先輩は静かに言いました。


「損害賠償は、罰金じゃねえ」


「はい」


「実際に生じた損害を、法律上どこまで負担させるかという話だ」


片桐所長が六法を開きました。


「四百十六条を見ろ」


私は頷きました。


民法四百十六条。


損害賠償の範囲です。


まず原則。


通常生ずべき損害。


そして例外。


特別の事情によって生じた損害。


「先輩、ここが分かりにくいんですよ」


「何が」


「通常損害と特別損害です」


私はノートを広げました。


「昨日の事件で考えます!」


まず。


食べられなかった三十個の弁当。


代わりに食事を用意する必要が生じた。


これは、弁当を契約どおり届けなかったことから通常発生し得る損害です。


「そうだな」


相馬先輩が言いました。


「ただし、弁当代の返還と代替食の費用を重複して計算しないよう注意しろ」


「はい」


契約上の精算がどうなるか。


実際に何を負担したのか。


その整理が必要です。


では。


藤井先生への後日訪問費用。


八万円。


「これは特別損害の問題ですね!」


「そうだ」


普通、記念盾が届かなかったからといって、必ず貸切バスで遠方を訪問するとは限りません。


でも、今回には特別な事情がありました。


藤井先生が引退する。


発表会が最後の指導日。


翌日には遠方へ引っ越す。


当日渡せなければ、後日訪問する必要が生じる。


「そして、黒田さんは、その事情を知っていました!」


私は発注依頼書の写しを取り出しました。


そこには。


――当日贈呈できない場合、後日の訪問が必要となり、保護者会に相当の交通費負担が生じる。


大黒屋の署名押印。


私は指で叩きました。


「これが決め手だったんですね!」


「そうだな」


「でも、先輩」


「何だ」


「昭和と令和で、四百十六条二項の文言が少し違いますよね」


私は現代の受験生時代を思い出しました。


現代では。


――当事者がその事情を予見すべきであったとき。


という表現です。


一方、昭和六十三年の旧法では。


――当事者がその事情を予見し、又は予見することを得べかりしとき。


という古い文言でした。


「……得べかりし」


私は呟きました。


「先輩、これ、現代語に訳してほしいです」


「昔の法律だ。慣れろ」


「冷たい!」


ただし。


改正前から、特別事情についての予見可能性が重要とされていました。


判例上も、債務者側の予見可能性を中心に考える解釈が示されています。


そして。


現代の改正法では、その考え方を踏まえて文言が整理されました。


「つまり」


私はノートに書きました。


通常損害は、原則として賠償範囲に入る。


特別事情から生じた損害は、その事情についての予見可能性が問題となる。


「でも、特別事情を知っていれば、その費用を何でも全額取れるわけではないんですよね」


「そうだ」


相馬先輩が頷きました。


昨日の訪問費用。


八万円。


保護者三十人が、貸切バスで出かけた。


でも。


記念盾を届けるためだけなら、二人か三人でも済んだかもしれません。


「損害の必要性や相当性も、問題になるんですね」


「そうだ」


「予見可能性は大事。でも、それだけで全額確定するわけではない」


私は赤線を引きました。


民法四百十六条。


難しいです。


でも。


昨日の事件を思い出すと、意味が見えてきます。


黒田が負うべき責任と。


和代さんたちが実際に受けた損害。


その二つを、どこまで法律上結びつけるべきか。


民法は、そこを考えているのです。


### 七 民法四百十七条――なぜ損害賠償は、お金が原則なのか


「所長」


私は言いました。


「ひとつ気になったことがあります」


「何だ」


「藤井先生の記念盾です」


「ああ」


「あれって、お金を返してもらっても、元どおりにはなりませんよね」


所長は頷きました。


「そうだな」


藤井先生への贈り物。


子供たちが選んだ言葉。


特注の彫刻。


そして、最後の発表会。


その日に渡すはずだった記念盾は、もう戻りません。


「でも、民法は原則として金銭で賠償するんですよね」


「そうだ」


民法四百十七条。


損害賠償の方法。


別段の意思表示がないときは、金銭でその額を定めます。


「ここ、昭和でも現代でも基本は共通しているんですね」


「ああ」


私は頷きました。


損害の内容は、いろいろあります。


壊れた物。


失われた売上げ。


余分にかかった交通費。


使えなかった建物。


でも、それらを賠償するためには。


共通の尺度が必要です。


「だから、お金で評価するんですね」


「そうだ」


相馬先輩が言いました。


「壊れた記念盾を、法律が魔法で元に戻せるわけじゃねえからな」


「魔法があったら便利ですけどね」


「行政書士より魔法使いになれ」


「それはそれで資格試験が大変そうです!」


先輩が呆れた顔をしました。


私はノートに書きました。


――損害賠償は原則として金銭。ただし、別段の意思表示があれば、それに従う。


もちろん。


金銭では埋め合わせられない気持ちもあります。


それでも。


金銭で評価できる損害を補填することで、失われた利益を少しでも回復する。


それが民法の基本なのです。


### 八 民法四百十八条――被害者にも落ち度があったら?


「次は、過失相殺です!」


私はノートに書きました。


――過失相殺。


ところが。


相馬先輩は首をかしげました。


「昨日の和代さんに、何か落ち度があったか?」


「いいえ」


「なら、どうして考えた?」


私は答えました。


「損害が発生した経緯と、損害を拡大させた事情を調べる必要があるからです」


先輩が頷きました。


「そうだ」


たとえば。


運送業者が、荷物を破損させて届けた。


そのとき、受取人も危険な荷下ろし方法を指示していた。


あるいは。


修理業者の不完全な修理に気づいたのに、依頼人が危険を知りながら機械を使い続け、損害を大きくした。


こうした場合。


債務者だけに、発生した損害の全部を負担させるのが公平とは限りません。


「だから、債権者側の過失も考慮するんですね」


「そうだ」


私は現代の民法四百十八条を思い出しました。


債務不履行そのものについて。


損害の発生について。


損害の拡大について。


債権者に過失があった場合、裁判所がその事情を考慮して、損害賠償の責任や金額を定めます。


「でも、昭和六十三年の条文は、少し短いですよね」


私は六法を開きました。


旧民法四百十八条では、債務の不履行に関して債権者に過失があったとき、その過失を斟酌して損害賠償の責任及び金額を定めることが規定されていました。


現代のように、損害の発生や拡大について明文で詳しく整理されていたわけではありません。


「でも、判例や解釈では、損害の発生や拡大に関する債権者側の落ち度も問題になっていたんですよね」


「そうだ」


片桐所長が頷きました。


「改正法では、その点が条文上も明確になった」


私はノートに書きました。


昭和六十三年。


旧四百十八条と判例・解釈によって、債権者側の過失を考慮する。


令和。


四百十八条が、債務不履行、損害の発生、損害の拡大に関する債権者の過失を明示。


「では、昨日の和代さんは?」


相馬先輩が尋ねました。


「腐った弁当を子供たちに食べさせず、代わりの食事を確保しました」


「うん」


「損害を拡大させたというより、健康被害を防ぐために合理的な対応をしています」


「そうだな」


「だから、少なくともその行動を不注意だと決めつけることはできません」


所長が頷きました。


「いいだろう」


私は少し嬉しくなりました。


でも。


過失相殺について、一つ大切なことがあります。


被害者にも何かしら落ち度があれば、必ず一律に何割減額。


そういう制度ではありません。


どんな過失があったのか。


それが損害とどう関係するのか。


それぞれの事情を具体的に考慮します。


「民法って、単純に悪者探しをする法律じゃないんですね」


私が言うと、片桐所長が頷きました。


「そうだ。責任の分担を公平に考えるんだ」


私はその言葉に、二重線を引きました。


### 九 民法四百二十条――「二万円と決めたから、それで終わり」なのか


「さて」


相馬先輩が昨日の注文書を取り出しました。


「こはる。これを読め」


私は目を通しました。


――納品期限に遅延した場合、遅延に関する損害賠償額として金二万円を支払うものとする。


「あっ、賠償額の予定です!」


「そうだ」


賠償額の予定。


契約違反があった場合の損害賠償額を、あらかじめ契約で決めておくことです。


「先輩、これって便利ですよね」


「ほう」


「いくら損害が出たか、細かく証明しなくても、予定した額を請求できるんですから」


「そうだな」


もちろん、どの義務違反についての予定なのかは確認する必要があります。


昨日の注文書では。


納品期限に遅れた場合の損害賠償額。


二万円。


つまり、遅延に関する賠償額の予定です。


「だから、納品が二時間半遅れたことを確認できれば、この条項を根拠に二万円を請求できたんですね」


「そうだ」


私は頷きました。


もし賠償額の予定がなければ。


遅れたことによって、どんな損害がいくら発生したのか。


その証明が問題になります。


でも、賠償額をあらかじめ定めておけば。


予定の対象となる債務不履行があったことを示し、約定額を請求することができる。


「ただし!」


私は自分で言いました。


相馬先輩が顔を上げます。


「何だ」


「遅延について二万円と決めているのに、同じ遅延損害をさらに別名目で重複して請求することはできません!」


「よし」


「それから、腐った弁当と壊れた記念盾については、その条項の対象かどうか別に検討する必要があります!」


「そうだ」


私は大きく丸をつけました。


ここで片桐所長が言いました。


「こはる。旧法の四百二十条を確認してみろ」


「はい」


私は六法を開きました。


そして。


「あっ!」


「何だ」


「裁判所は、予定した賠償額を増減できないって書いてあります!」


旧民法四百二十条一項。


賠償額の予定を認めるとともに、裁判所がその額を増減することはできないとする文言がありました。


「現代の条文とは違いますね!」


「そうだ」


令和の民法四百二十条では、この増減禁止を直接定めた文言は削除されています。


ただし。


旧法時代でも、どんな賠償額の予定でも絶対に有効だったわけではありません。


著しく不当な約定などについては、公序良俗などの問題が生じ得ます。


そして現代でも、裁判所が自由に好きな金額へ書き換えてよいわけではありません。


「なるほど……」


私は頷きました。


「賠償額の予定は、当事者が事前にリスクを分担する仕組みなんですね」


「そうだ」


相馬先輩が言いました。


「それと、四百二十条にはもう一つ大事なことがある」


「何でしょう」


「賠償額を予定していても、履行の請求や解除権の行使を妨げないってことだ」


私は目を見開きました。


「つまり?」


「たとえば、納品が遅れた場合の賠償額を決めたからといって、それだけで本来の納品義務が消えるわけじゃねえ」


「なるほど!」


さらに。


違約金は、原則として賠償額の予定と推定されます。


契約書に「違約金」と書いてあるだけで、当然に予定賠償額とは別の制裁金になるわけではありません。


「契約書の名前より、法律上の性質が大事なんですね」


「そのとおり」


私は書きました。


――賠償額の予定は、損害額の立証を軽くする。ただし、対象となる違反と契約内容を必ず確認。


### 十 民法四百十九条――「お金がないから払えない」は、履行不能ではない


「さて、こはる」


相馬先輩が新聞を畳みました。


「昨日の最後の電話、覚えてるか」


「はい!」


貸したお金を返してもらえないという相談です。


百万円。


返済期限は先月末。


ところが相手は。


――工場が火事になって金がなくなった。不可抗力だから払えない。


と主張していました。


「先輩、これは金銭債務の問題ですね」


「そうだ」


私はノートに書きました。


――金銭債務の特則。


民法四百十九条。


ここは重要です。


なぜなら。


お金を支払う債務には、一般の債務とは異なる特別な扱いがあるからです。


「まず、金銭債務は、原則として履行不能にならないんですよね」


「そうだ」


百万円を返す約束をした。


ところが、財布を盗まれた。


家が火事になった。


銀行口座にお金がなくなった。


だから返せません。


……。


「それは、履行できない理由にはなっても、法律上の履行不能にはならないんですね」


「そういうことだ」


お金は、通常、種類によって代替できるものです。


約束した紙幣そのものを渡す必要があるわけではありません。


だから。


手元のお金がなくなっただけでは、金銭債務そのものが履行不能になるわけではない。


「お金がないことと、お金を支払う義務が消えることは別なんですね」


「そうだ」


私は赤線を引きました。


――金銭債務は、資金不足を理由に履行不能とはならない。


「次!」


私は続けました。


「金銭債務の遅延損害金については、債権者が具体的な損害額を証明する必要がありません!」


「そうだ」


たとえば。


百万円の返済が遅れた。


貸主が、そのためにどんな損害を受けたか。


資金繰りに困ったのか。


別の借入れをしたのか。


そういう具体的損害を、一つずつ証明する必要はありません。


金銭債務の遅延損害金については、法定利率や適用される約定利率によって額を算定する仕組みになっています。


「そして!」


私はさらに声を上げました。


「不可抗力をもって抗弁できません!」


「正解」


私は拳を握りました。


やった。


今回の事件で、一番覚えたいところです。


ただし。


相馬先輩は言いました。


「期限が来ているか、実際に遅滞になっているかは確認しろよ」


「はい!」


「金銭債務だからといって、まだ支払期限が来ていない金に遅延損害金がつくわけじゃねえ」


「そうですね」


そして。


片桐所長が、静かに言いました。


「もう一つ、時代の違いがあるな」


私は頷きました。


「法定利率です!」


昭和六十三年。


民法上の法定利率は、原則として年五パーセント。


ただし、商事債務については、当時の商法に基づく年六パーセントの商事法定利率が適用される場合もありました。


一方、現代。


二〇二〇年の債権法改正により、民法上の法定利率は年三パーセントから始まる変動制になりました。


一定期間ごとに、見直される仕組みです。


「所長!」


「何だ」


「現代の年三パーセントを、そのまま昭和の借金に使ったら大変ですね!」


「そうだ」


「しかも、商事債務かどうかも考えないといけない!」


「そのとおりだ」


私はノートに大きく書きました。


昭和六十三年。


民事法定利率は年五パーセント。


商事法定利率は原則年六パーセント。


令和。


二〇二〇年の改正により、法定利率は年三パーセントから始まる変動制へ。


ただし、遅延損害金の利率は、約定の有無や適用法令、遅滞責任が発生した時期などを確認する。


「先輩」


「何だ」


「これ、試験で昭和と令和を混ぜたら、完全に間違えますね」


「お前は昭和の試験を受けるのか?」


「……心の中で両方受けています!」


「忙しい奴だな!」


私は笑いました。


でも。


金銭債務の特則は、本当に重要です。


一般の債務なら。


履行不能や帰責事由を細かく考える必要がある。


ところが、お金を支払う債務では。


不可抗力を理由に遅延損害金の責任を免れることはできない。


そこが大きな違いなのです。


### 十一 債務不履行の三種類、最後の確認試験


窓の外が、少しずつ暗くなってきました。


私はノートを見直します。


履行遅滞。


履行不能。


不完全履行。


損害賠償。


通常損害。


特別損害。


金銭賠償。


過失相殺。


賠償額の予定。


金銭債務の特則。


「……多いですね」


私が呟くと、相馬先輩が笑いました。


「まだ覚えられねえか」


「いえ!」


私は顔を上げました。


「昨日の事件を思い出せば、全部つながります!」


「ほう」


「まず、弁当が遅れた!」


「何だ」


「履行遅滞!」


「じゃあ、腐った弁当は?」


「不完全履行!」


「記念盾が粉々になった!」


「履行不能!」


「では、履行不能なら必ず損害賠償か?」


「いいえ! 帰責事由などを検討します!」


「損害賠償は、原則として何で支払う?」


「金銭です!」


「通常損害以外の特別損害は?」


「特別事情についての予見可能性が問題になります!」


「債権者にも過失があったら?」


「過失相殺を検討します!」


「損害賠償額を先に契約で決めていたら?」


「賠償額の予定です!」


「借金の返済が遅れたが、債務者が『火事で金がなくなった』と言ったら?」


「それだけでは、金銭債務の遅延損害金の責任を免れません!」


相馬先輩が頷きました。


「よし」


私は思わず拳を握りました。


「やった!」


しかし。


片桐所長が、最後の問題を出しました。


「こはる」


「はい!」


「では、昭和六十三年の民法四百十二条の二には、何が書いてある?」


「ありません!」


即答です。


「そんな条文は、まだ存在しません!」


所長が頷きました。


「正解」


「現代の履行不能の明文規定は、昭和にはありません!」


「よし」


「そのうえで、昭和の四百十五条と判例・解釈で考えます!」


「それでいい」


私は得意になりました。


ところが。


相馬先輩が、もう一問出しました。


「じゃあ、こはる」


「はい!」


「弁当が百個届いて、百個とも食べられる状態だった。でも、指定の十一時半ではなく午後二時に届いた。何の問題だ?」


「履行遅滞です!」


「その遅延について、賠償額を二万円と予定していたら?」


「原則として、その予定額を請求します!」


「では、三十個腐っていた場合、遅延の二万円と別に、どんな責任が問題になる?」


「不完全履行による責任です!」


「いいだろう」


私はにっこり笑いました。


でも。


相馬先輩は、まだ終わりません。


「じゃあ、記念盾が地震で壊れた場合は?」


「……え?」


「適切に保管していたのに、予測も回避もできない大地震で壊れたら?」


私は少し考えました。


「履行不能にはなり得ますが、それだけで損害賠償責任が確定するわけではありません」


「そうだ」


「帰責事由の有無や、適用される契約上の危険負担のルールなどを確認します」


片桐所長が頷きました。


「よし」


私は息を吐きました。


……危ない。


最後に、また間違えるところでした。


債務不履行。


この言葉を見た瞬間に。


損害賠償!


と飛びついてはいけない。


まずは。


何が起きたか。


次に。


なぜ起きたか。


そして。


どんな損害が発生したか。


順番に考えなければならないのです。


### 十二 こはるの一行――約束を破った責任は、どう決まるのか


勉強会が終わる頃。


外は、すっかり夕暮れでした。


商店街の向こうから、夕飯の匂いが漂ってきます。


私は窓の外を眺めました。


あの大黒屋も、今頃は仕込みの時間でしょうか。


黒田繁造。


最初は、本当に腹の立つ男でした。


時間を守らない。


品質を守らない。


品物を壊しても謝らない。


そして。


――約束を破っただけでしょう。


そんな態度でした。


でも。


内容証明を受け取ったあと、黒田の態度は変わりました。


なぜか。


それは。


約束を破った事実を、法律と証拠で一つずつ明らかにされたからです。


「所長」


「何だ」


「債務不履行の損害賠償って、約束を破った人への罰じゃないんですね」


「そうだ」


「約束を信じた人に生じた損害を、公平な範囲で埋め合わせるためのものなんですね」


所長が頷きました。


私は続けました。


「だから、損害の発生だけじゃなくて、責任の原因も、賠償の範囲も考えないといけない」


「うん」


「でも逆に、相手が『悪気はなかった』と言うだけで、全部許されるわけでもない」


「そのとおりだ」


私はノートを開きました。


最後の一ページです。


ここに。


今日の一行を書きます。


鉛筆の先を整えて。


ゆっくり。


――債務不履行は「遅れた・不十分・できない」。賠償は「責任・損害・範囲」を確認する。


「……できました!」


私はノートを掲げました。


「どうですか!」


相馬先輩が覗き込みました。


「まあ、覚えやすいんじゃねえか」


「褒めましたね!」


「気のせいだ」


「またそれですか!」


私は笑いました。


でも。


この一行は、きっと忘れません。


あの日。


子供たちのために百個の弁当を注文した和代さん。


最後の発表会で、先生へ感謝を伝えようとしていた保護者会。


そして。


約束が守られなかったことで、失われたもの。


民法は。


時間を戻すことはできません。


腐った弁当を、おいしい弁当に変えることもできません。


壊れた記念盾を、元どおりにすることもできません。


でも。


その損害を、なかったことにはさせない。


約束を破った人に、どこまで責任を負わせるべきか。


冷静に考える仕組みがあるのです。


それが。


債務不履行。


硬い言葉です。


でも。


中身は、とても身近なこと。


約束したら、守る。


守れなかったら、理由を説明する。


そして、責任を負うべき損害があれば、きちんと埋め合わせる。


そういう、当たり前のことなのです。


「ところで、こはる」


相馬先輩が言いました。


「はい?」


「今日の勉強会は、もう終わりか?」


「はい!」


「じゃあ、俺に頼んでおいた仕事を返せ」


「仕事?」


「午前中に渡した、帳簿の整理だ」


……。


私は固まりました。


帳簿。


そうです。


朝、先輩に頼まれていました。


――夕方までに、この帳簿を整理しておけ。


完全に忘れていました。


「……先輩」


「何だ」


「実は、まだ終わっていません」


「ほう」


「でも、今からやります!」


私は慌てて立ち上がりました。


「だから、これは履行遅滞です!」


相馬先輩がにやりと笑いました。


「よく分かってるじゃねえか」


「はい!」


「じゃあ、さっさと履行しろ」


「分かりました!」


私は帳簿を開きました。


ところが。


数分後。


「……先輩」


「今度は何だ」


「帳簿の整理、終わりました」


「早いな」


「はい!」


相馬先輩が受け取りました。


ぱらぱら。


そして。


眉をひそめました。


「こはる」


「はい?」


「三ページ目から、全部数字が一列ずれてるぞ」


……。


私は固まりました。


「えっ?」


「これじゃ帳簿として使えねえ」


「……!」


相馬先輩が、にやりと笑いました。


「さて、これは何だ?」


私は、ゆっくり答えました。


「……不完全履行です」


「正解」


「……やり直します」


「そうしろ」


くっ。


まさか。


自分の仕事で、二種類の債務不履行を実演するとは。


私は、がっくり肩を落としました。


すると。


片桐所長が奥から言いました。


「相馬」


「はい」


「その帳簿は、今日中に必要だったのか」


「いえ。明日の午前中までで大丈夫です」


……。


私は顔を上げました。


「え?」


所長は静かに言いました。


「こはる」


「はい!」


「相馬がお前に頼んだ仕事と、法律上の債務不履行を、何でも同じに考えるな」


「……あっ」


「まず、どんな法律上の義務があったのかを確認する」


「はい」


「それに、期限も確認する必要がある」


私は相馬先輩を見ました。


「先輩!」


「何だ」


「明日の午前中でいいなら、まだ間に合いますよね!」


「所長から見りゃそうだな」


「じゃあ、履行遅滞じゃありません!」


「帳簿が間違ってる事実は変わらねえぞ」


「それは……はい」


私はしょんぼりしました。


片桐所長が、ほんの少し笑いました。


「こはる」


「はい」


「今日の教訓を、もう一度言ってみろ」


私は姿勢を正しました。


「債務不履行を考えるには、まず義務の内容と期限を確認すること!」


「うん」


「そして、遅れたのか、不完全だったのか、履行不能なのかを見極めること!」


「そうだ」


「損害賠償については、責任の原因、損害、賠償の範囲を確認すること!」


「よし」


所長が頷きました。


「それでいい」


私は少し胸を張りました。


すると。


相馬先輩が言いました。


「じゃあ、帳簿を直せ」


「……はい」


私は鉛筆を握り直しました。


窓の外。


町の家々に、ぽつぽつと明かりが灯っていきます。


その一つひとつの家に。


きっと、約束があります。


家賃を払う約束。


借金を返す約束。


商品を届ける約束。


仕事を完成させる約束。


どれも、日常の小さな約束です。


でも。


その小さな約束が守られることで、人々の生活は成り立っています。


民法は、その約束を支える法律なのです。


私はノートの最後の一行を、もう一度読みました。


――債務不履行は「遅れた・不十分・できない」。賠償は「責任・損害・範囲」を確認する。


よし。


今度こそ覚えました。


「こはる!」


相馬先輩の声が飛びました。


「はい!」


「また数字がずれてるぞ!」


「ええっ!?」


「お前、何回不完全履行するつもりだ!」


「違います! 今は修正履行の途中です!」


「口だけ達者になりやがって!」


私は笑いながら消しゴムを手に取りました。


法律の勉強は、まだまだ続きそうです。


ただし。


次からは。


債務不履行を学ぶ前に。


自分の仕事を、ちゃんと完成させようと思います。


……できれば、期限内に。


だって。


民法をどれだけ勉強していても。


帳簿の数字が合っていなければ。


相馬先輩からの厳しい追及を免れることは、できないのです。

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