[民法・債務不履行]現場編 「約束を破っただけでしょう」の嘘。遅れた百個の弁当、腐った料理、消えた祝いの品。三つの不履行と、悪徳業者を追い詰める内容証明の刃
約束は、守られて初めて意味を持ちます。
たとえば。
お昼に届けると約束した弁当が、夕方に届いたら。
百個届けると約束した弁当のうち、三十個が腐っていたら。
そして。
世界に一つしかない品物を、引き渡す前に壊してしまったら。
それは全部、同じ「約束違反」なのでしょうか。
答えは。
同じようで、違います。
履行遅滞。
不完全履行。
履行不能。
民法が用意した、三つの債務不履行。
その違いを知らなかった私は、この日、危うく依頼人の大切な権利を見落とすところでした。
昭和六十三年。
片桐行政書士事務所。
その日の相談は、涙をこらえた一人の女性から始まったのです。
「……百個、注文したんです」
朝九時。
事務所を訪れた女性は、膝の上でハンカチを握りしめていました。
「百個?」
私は聞き返しました。
「はい。子供たちのお弁当です」
女性の名前は、田辺和代さん。
三十八歳。
町の少年少女合唱団で、保護者会の会長を務めています。
先週の日曜日。
町民会館で、合唱団の創立十周年記念発表会が開かれました。
出演する子供たちは八十人。
指導者とスタッフを含め、百人。
和代さんは、その全員に昼食を用意することになったそうです。
「地元の仕出し屋さんにお願いしたんです」
「どちらのお店ですか?」
「大黒屋というお店です」
大黒屋。
駅前通りにある仕出し料理店。
店主は黒田繁造。
四十代後半。
町内では、強引な商売をすることで少し知られている人物でした。
「一個千二百円で、百個。全部で十二万円です」
「結構な金額ですね」
「子供たちの記念行事だったので、少し奮発したんです」
和代さんは、封筒から一枚の注文書を取り出しました。
私は目を通します。
――創立十周年記念発表会用弁当。
――数量百個。
――単価千二百円。
――合計十二万円。
――納品日時、昭和六十三年六月十二日午前十一時三十分。
――納品場所、町民会館一階控室。
――代金、全額前払い。
さらに。
注文書の下には、赤い印鑑。
大黒屋。
確かに、店の印が押されています。
「……それで、何があったんですか?」
私が尋ねると、和代さんは唇を噛みました。
「お弁当が……来なかったんです」
「来なかった?」
「十一時半を過ぎても、十二時になっても」
時計だけが進んでいく。
子供たちは、午前中のリハーサルを終えて腹をすかせていました。
午後一時から本番。
十二時半には食事を終え、衣装を整えなければなりません。
「何度も電話したんです」
「お店には?」
「はい。でも、忙しいから待ってくれって」
そして。
弁当が届いたのは。
「午後二時でした」
「二時!?」
私は思わず声を上げました。
本番が始まったあとです。
もう食べる時間なんてありません。
「しかも……」
和代さんの声が震えました。
「三十個、腐っていたんです」
「……え?」
「変な臭いがして。ご飯が糸を引いていたものもあって……」
私は言葉を失いました。
届くのが遅れた。
それだけではありません。
届いた料理の一部が、食べられる状態ではなかった。
「子供たちには食べさせませんでした」
和代さんは小さく言いました。
「何かあったら大変ですから」
私は頷きました。
当然です。
でも、その日の出来事は、それだけでは終わりませんでした。
「もう一つ、お願いしていたものがあるんです」
「もう一つ?」
和代さんは写真を取り出しました。
そこに写っていたのは、美しい木製の記念盾でした。
金色の音符。
合唱団の名前。
そして。
――創立十周年 指導者・藤井静江先生へ。
と彫られています。
「先生に、最後にお渡しする予定だったんです」
藤井静江先生。
七十歳。
十年前、子供たちのために無償で合唱団を立ち上げた女性。
今回の発表会を最後に、指導を引退することになっていました。
「大黒屋さんが、記念品の手配も引き受けてくれたんです」
料理店の主人が、知り合いの工芸職人に特注品を発注した。
そういう話だったそうです。
私は別の注文書を見ました。
――特注木製記念盾一個。
――代金三万円。
――六月十二日午前十一時三十分、弁当と同時納品。
――指定の彫刻及び装飾を施した完成品。
「それは届いたんですか?」
和代さんは首を横に振りました。
「……壊れたって」
「壊れた?」
「前の日に、店の倉庫で棚が倒れて、粉々になったそうなんです」
私は写真を見直しました。
木彫りの記念盾。
職人が一か月かけて制作した、一点物。
「作り直してもらえないんですか?」
「職人さんが入院していて、すぐにはできないって……」
私は息を呑みました。
発表会は、もう終わっています。
藤井先生も、その日のうちに遠方の娘さんの家へ引っ越してしまった。
子供たち全員の前で、記念盾を贈る機会は失われました。
「代金は?」
「弁当と合わせて、十五万円。全額支払い済みです」
「返してもらえましたか?」
和代さんは首を振りました。
「黒田さんは、こう言うんです」
そして。
悔しそうに、言葉を絞り出しました。
「『弁当は百個届けた。盾が壊れたのは事故だ。だから返金する理由はない』って」
……。
私は、しばらく黙りました。
約束した時刻に届かない。
届いたものは腐っている。
特注品は壊れて届かない。
それで。
全額返金なし?
「ひどい!」
私は思わず立ち上がりました。
「それ、全部債務不履行じゃないですか!」
和代さんが顔を上げます。
「債務……?」
「契約した義務を果たしていないってことです!」
よし。
民法の出番です。
現代の行政書士試験で勉強しました。
民法四百十五条。
債務不履行による損害賠償。
履行遅滞。
履行不能。
不完全履行。
全部、今回の事件に出てきます。
「大丈夫です!」
私は勢いよく言いました。
「民法四百十二条の二で、履行不能について――」
「待て」
後ろから声がしました。
相馬先輩です。
「はい?」
「今、何条って言った?」
「四百十二条の二です」
「……四百十二条の二?」
先輩が六法を開きました。
ぱらぱら。
そして。
「そんな条文、ねえぞ」
……。
しまった。
やりました。
またです。
また、未来の条文を持ってきてしまいました。
「こはる」
片桐所長が静かに言いました。
「昭和六十三年の民法を開きなさい」
「……はい」
私は慌てて六法を開きました。
民法四百十二条。
履行遅滞。
その次は。
四百十三条。
受領遅滞。
……四百十二条の二。
ありません。
現代では履行不能を明文化した条文ですが、この時代には存在しないのです。
「何だその条文番号は」
相馬先輩が呆れた顔をしました。
「あ、いえ、勉強中に見たような……」
「夢でも見たんじゃねえのか」
「法律の夢です!」
「末期だな」
ひどい。
でも反論できません。
相馬先輩は六法の別のページを開きました。
「履行不能の考え方は昔からある。だが、お前の言った条文はねえ」
「はい……」
「それと」
「はい?」
「債務不履行だから、何でもかんでも賠償してもらえると思うなよ」
私は顔を上げました。
「え?」
「どの義務を、どう破ったのか。損害がどう発生したのか。そこまで調べるんだ」
片桐所長が頷きました。
「まず、相手の主張を確認しよう」
こうして。
私たちは、大黒屋の言い分を確かめることになったのです。
大黒屋は、駅前通りの角にありました。
大きな木製看板。
店先には、仕出し料理の見本写真。
なかなか立派なお店です。
「いらっしゃい!」
中から出てきた男は、腹の出た四十代後半。
油で光る髪を後ろへ撫でつけています。
店主の黒田繁造。
「何だ、役所の人間か?」
「片桐行政書士事務所の相馬です。先日のお届けについて、事実関係を確認させていただけますか」
黒田は鼻で笑いました。
「行政書士?」
「はい」
「弁護士じゃないんだろ?」
「そうです」
「じゃあ、俺から金を取り立てることなんかできねえよな」
……。
うわ。
この人。
見事に悪徳業者の台詞を言いました。
相馬先輩は表情を変えません。
「まず、納品時刻を確認させてください」
「ああ?」
「六月十二日、町民会館へ弁当を届けたのは何時ですか」
「二時くらいだよ」
「注文書では十一時三十分ですね」
「忙しかったんだよ」
「遅れたことは認めるんですね」
「だから何だ」
黒田は腕を組みました。
「ちゃんと届けただろ」
「ただ、約束の時刻には届いていません」
私が言うと、黒田は鼻を鳴らしました。
「少しくらい遅れたからって、いちいち文句を言うな」
「二時間半です!」
「午後には食えたんだからいいじゃねえか」
「子供たちの発表会が始まってたんですよ!」
「そんなの、こっちの知ったことか」
……。
私は思わず言葉を失いました。
でも。
相馬先輩は、落ち着いて尋ねました。
「発表会の予定は、注文時に聞いていましたか」
「……あ?」
「十二時半までに食事を終える必要があると」
「聞いたよ」
「そのうえで十一時半納品と決めたんですね」
「そうだよ」
相馬先輩が小さく頷きました。
「分かりました」
次。
「三十個について、腐敗していたという申出があります」
黒田は顔をしかめました。
「知らねえよ」
「お客さんから苦情があったことは?」
「あったな」
「店では確認しましたか」
「残ってた弁当を見たよ。確かに臭うのがあった」
「では、異常があったことは認めるんですね」
「でもよ!」
黒田は机を叩きました。
「百個届けたんだぞ!」
「はい」
「数は合ってるだろ!」
……。
私は首をかしげました。
百個。
確かに百個届けた。
でも、三十個が腐っていた。
それでも契約を守ったことになるのでしょうか。
なりませんよね。
「食べられないお弁当を届けても、約束を果たしたことにはなりません!」
私は言いました。
黒田は笑いました。
「はっ。細けえこと言うな!」
「細かくありません!」
「じゃあ何だ。たかが弁当で裁判でもするのか?」
むむむ。
腹が立ちます。
そこへ、相馬先輩が尋ねました。
「記念盾の件は?」
黒田の顔が曇りました。
「ああ、あれか」
「壊れたと聞いています」
「棚が倒れたんだよ。仕方ねえだろ」
「どうして棚が倒れたんですか」
「何だっていいだろ」
「保管場所の状況を確認したいだけです」
黒田は舌打ちしました。
「倉庫の古い棚だよ。ぐらぐらしてたけど、まだ使えると思ったんだ」
「その棚に、記念盾を置いていたんですね」
「ああ」
「固定は?」
「してねえよ」
「倒れやすい状態だったことは、知っていたんですね」
「だから何だ!」
黒田は声を荒らげました。
「事故だよ、事故!」
そして、得意げに言いました。
「それに、壊れたものはもう渡せねえ。無理なものは無理だ!」
……。
無理。
確かに、粉々になった一点物を、元どおりに渡すことはできません。
でも。
それで責任までなくなるのでしょうか。
私は口を開きかけました。
その瞬間。
「こはる」
相馬先輩が呼びました。
「はい」
「もういい」
「でも!」
「必要な事実は聞けた」
先輩は黒田を見ました。
「注文書の納品時刻、弁当の状態、記念盾の保管状況について確認できました。ありがとうございました」
「へっ。結局、何もできねえんだろ」
黒田は笑いました。
「こっちは商売やってんだ。法律を知らねえ客の文句に、いちいち付き合ってられねえよ」
相馬先輩は何も言いませんでした。
私たちは店を出ます。
そして。
商店街の角まで来たところで、私は爆発しました。
「先輩!」
「何だ」
「あの人、ひどすぎません!?」
「そうだな」
「絶対、払うつもりないですよ!」
「そうだろうな」
「何であんなに平然としてるんですか!」
先輩は煙草に火をつけました。
「こはる」
「はい!」
「ああいう奴はな」
「はい」
「約束を破ったことと、責任を負うことを、別の話だと思ってやがる」
私は黙りました。
「少し遅れたくらい」
「……はい」
「百個届けたんだからいいだろ」
「はい」
「壊れたものは仕方ない」
「はい」
「全部、都合のいい言い訳だ」
先輩は煙を吐きました。
「だがな。俺たちが代理人として慰謝料だの返金額だのを相手と交渉するわけにはいかねえ」
「……はい」
「俺たちは弁護士じゃねえからな」
「分かってます」
「だったら、次にやるべきことは何だ」
私は少し考えました。
「……依頼人の証拠を集めることです」
「そうだ」
「そして、本人の意思に基づく請求書を作る」
「うん」
「内容証明郵便です!」
相馬先輩が頷きました。
「世の中、声がでかい奴じゃなくて、書面にハンコを押させた奴が勝つんだよ」
また出ました。
先輩の決め台詞。
でも。
今日ばかりは、少し頼もしく聞こえました。
事務所へ戻ると、片桐所長が注文書を机に並べました。
「こはる」
「はい!」
「三つに分けろ」
「三つ?」
「今回、何が起きた」
私は考えました。
弁当が遅れた。
弁当の一部が腐っていた。
記念盾が壊れた。
……あ。
「履行遅滞、不完全履行、履行不能!」
「そうだ」
所長が頷きました。
「まず、弁当の遅れは?」
「履行遅滞です!」
履行できる。
でも期限までに履行しない。
今回、百個の弁当は実際に届けられています。
ただし、約束した十一時半を大きく過ぎた。
「次。腐った弁当は?」
「不完全履行です!」
百個届けた。
でも、そのうち三十個は食べられない。
数量をそろえただけでは、契約した内容どおりの履行とはいえません。
「最後。記念盾は?」
「履行不能です!」
ただし。
私は少し考えました。
「……所長、同じような記念盾を作り直せばいい、とはならないんですか?」
所長がこちらを見ました。
「いい質問だ」
私は驚きました。
褒められた!
「契約内容を確認しろ」
「はい」
注文書には、特定の職人が制作した、一点物の記念盾を納めることが記されていました。
写真による完成品確認も済んでいます。
つまり、何でもいいから木製の盾を一つ渡せばいい、という契約ではありません。
しかも。
その完成品は、壊れてしまった。
「この特定の盾そのものを引き渡すことは、もうできません」
「そうだ」
「でも所長」
「何だ」
「履行不能なら、損害賠償はどうなるんですか?」
所長は私の六法を開きました。
「四百十五条だ」
民法四百十五条。
債務不履行による損害賠償。
「昭和六十三年の条文を読んでみろ」
「はい!」
私は読みました。
――債務者ガ其債務ノ本旨ニ従ヒタル履行ヲ為サザルトキハ債権者ハ其損害ノ賠償ヲ請求スルコトヲ得。
……。
私は一瞬止まりました。
「所長」
「何だ」
「漢字が、古いです」
「民法だからな」
「カタカナも多いです!」
「読め」
「はい……」
うう。
現代の民法に慣れていると、この明治以来の条文はなかなか手ごわい。
でも。
意味は分かります。
債務者が契約どおりに履行しないとき、債権者は損害賠償を請求できる。
そして当時の四百十五条は、続けて履行不能になった場合の責任にも触れています。
「ここで重要なのは」
片桐所長が言いました。
「履行不能だからといって、必ず損害賠償責任を負うわけではないことだ」
「え?」
「債務者の責めに帰すべき事由があるかを考えろ」
私は記念盾の話を思い出しました。
黒田は言いました。
――事故だから仕方ない。
でも。
棚は以前からぐらついていた。
固定もしていなかった。
そこへ、大切な一点物を置いた。
「……防げた可能性がありますね」
「そうだ」
「少なくとも、単に『事故だった』と言えば責任を免れる話ではありません」
所長は頷きました。
「その保管状況を証拠で固めるんだ」
なるほど。
壊れたという結果だけでは足りない。
なぜ壊れたのか。
誰の責任なのか。
そこまで追わなければならない。
「でも、地震で建物ごと倒壊したような場合は、また違うんですね」
「そのとおりだ」
私は頷きました。
履行できなかった。
だから必ず賠償。
そんな単純な仕組みではないのです。
「で、こはる」
相馬先輩が椅子に座りました。
「いくら請求するつもりだ?」
「全部です!」
「……全部?」
「弁当代十二万円、記念盾三万円、合わせて十五万円!」
「根拠は?」
「約束を破ったからです!」
「駄目だ」
「ええっ!?」
相馬先輩が赤鉛筆を取りました。
「気持ちで金額を決めるな」
「でも!」
「現に食べられた弁当は何個だ」
「……七十個は、食べられる状態だったそうです」
「全部、同じ扱いにするのか?」
「それは……」
私は言葉に詰まりました。
確かに。
百個全部が腐っていたわけではありません。
しかも、和代さんたちは一部の弁当をスタッフの夕食として使ったそうです。
「依頼人にも利益が残っているなら、それも見ろ」
片桐所長が言いました。
「損害賠償は、相手を懲らしめるために好きな額を取る制度ではない」
「……はい」
「損害を埋め合わせる制度だ」
私は頷きました。
そうです。
腹が立つから百万円。
ひどい業者だから二百万円。
そんな計算はできません。
「では、具体的な損害を整理しましょう!」
私はノートを開きました。
まず。
食べられなかった三十個。
一個千二百円。
三万六千円。
次に。
弁当が遅れたため、保護者会が急きょ近所のパン屋で購入した軽食。
領収書があります。
二万四千円。
ただし、この費用は本来の弁当が予定どおり使えなかったことによる損害です。
二重に数えてはいけません。
そして。
記念盾の代金。
三万円。
「所長」
「何だ」
「このほかに、和代さんが請求したいと言っているお金があります」
「何だ」
私は一枚の領収書を取り出しました。
――貸切バス追加料金 八万円。
そうです。
藤井先生への記念盾贈呈ができなくなったため、保護者会は別の日に先生を訪ねる計画を立てていました。
そのためのバス代。
八万円。
「これも請求できますよね!」
私は言いました。
「だって、記念盾が壊れたせいで必要になったんですから!」
しかし。
相馬先輩は首を振りました。
「簡単に決めるな」
「え?」
「何でも因果関係があれば取れるってもんじゃねえ」
先輩は六法を開きました。
「四百十六条だ」
民法四百十六条。
損害賠償の範囲。
「普通に生じる損害と、特別な事情で生じる損害を分けるんだ」
私は頷きました。
通常損害。
特別損害。
現代でも重要な論点です。
でも。
先輩は続けました。
「その八万円のバス代。黒田は、そういう特別な事情を知っていたのか?」
「……え?」
「記念盾を届けなければ、後日、遠方まで行く費用が発生する可能性がある。そこまで話してたのか?」
私は和代さんの説明を思い出しました。
注文するとき。
藤井先生が引退すること。
発表会の最後に、全員の前で贈呈すること。
翌日には遠方へ転居すること。
その三つを、黒田に伝えていたそうです。
「伝えていたそうです!」
「証拠は?」
私は止まりました。
……証拠。
そうです。
言った。
聞いた。
それだけでは、争いになれば難しい。
「確認してきます!」
私は立ち上がりました。
相馬先輩が笑いました。
「少しは実務の頭になってきたな」
「褒めました?」
「まだだ」
「何でですか!」
その日の午後。
私は和代さんと一緒に、合唱団の保護者会資料を確認しました。
古い大学ノート。
支出予定表。
注文書の控え。
そして。
一枚の紙を見つけました。
「あっ!」
私は思わず声を上げました。
それは。
大黒屋へ渡した発注依頼書の写しでした。
そこには、こう書かれていました。
――本発表会は、藤井静江先生の最後の指導日となるため、記念盾は六月十二日の発表会終了時に必ず贈呈したい。
――先生は翌日、遠方の家族宅へ転居する予定。
――当日贈呈できない場合、後日の訪問が必要となり、保護者会に相当の交通費負担が生じる。
そして。
書類の下には。
――上記内容、確認済み。
大黒屋。
黒田繁造。
署名と印鑑。
……。
私は、その紙を握りしめました。
「和代さん!」
「は、はい!」
「これです!」
「え?」
「黒田さん、知ってたんです!」
私は指で示しました。
「記念盾が当日届かなければ、後日の訪問費用がかかることを!」
和代さんが目を見開きました。
「これ……役に立つんですか?」
「大事な証拠です!」
私は興奮しました。
通常損害。
特別損害。
契約違反によって発生した損害が、どこまで賠償の対象になるのか。
そこを判断するうえで。
相手が事情を知っていたことは、重要です。
もちろん。
八万円全額が当然に認められるわけではありません。
実際に必要だった費用なのか。
合理的な金額なのか。
もっと負担を減らす方法はなかったのか。
そこまで確認する必要があります。
でも。
「そんな事情は知らなかった」
という逃げ道は。
この書面で、かなり狭くなります。
「和代さん」
「はい」
「この書類、大切に保管してください」
「分かりました」
私は頷きました。
そして、もう一つ気になることを尋ねました。
「ところで、三十個のお弁当は、どうされたんですか?」
「全部、処分しました」
「写真は?」
「……ありません」
私は少し考えました。
昭和六十三年。
スマートフォンはありません。
食べ物の異常を見つけても、気軽に写真を撮る時代ではありません。
でも。
「誰か、確認した人はいますか?」
「はい。保護者会の役員が三人。それから、会館の管理人さんも」
「名前を教えてください!」
こうして。
私は目撃者から事実確認書を作成するための情報を集めました。
何時に届いたのか。
どんな臭いがしたのか。
何個に異常があったのか。
食べた人はいたのか。
残った弁当はどう処分したのか。
そして。
もう一つ。
「和代さん、子供たちはどうしたんですか?」
「近くのパン屋さんで、急いで軽食を買いました」
「誰が買いました?」
「役員の一人です」
「領収書はありますね」
「はい」
私は頷きました。
ただし。
ここで、片桐所長の言葉が頭に浮かびました。
――損害が拡大したことについて、依頼人側にも原因がないか確認しろ。
過失相殺。
相手に非があっても、被害者側の行動が損害を大きくしたなら、その事情が考慮されることがあります。
たとえば。
腐ったと知りながら、さらに長時間放置して食べた。
明らかに不要な高額費用を重ねた。
そんな場合、損害の全部を当然に相手へ負担させられるとは限りません。
でも今回。
和代さんは異臭のする弁当を配らず、子供たちを守るために代わりの食事を確保しています。
その判断は合理的だったように思えました。
私はノートに書きました。
――損害は、発生した事情だけでなく、拡大を防ぐために何をしたかも確認する。
民法。
本当に細かいです。
でも。
その細かさが、公平というものなのかもしれません。
翌日。
事務所に戻ると、相馬先輩が私の集めた資料を読み込んでいました。
「ほう」
「どうですか?」
「いいじゃねえか」
「本当ですか!」
「特別事情を伝えた証拠まである」
「はい!」
「ただし、まだ請求額を確定するなよ」
「え?」
相馬先輩は、バス会社の領収書を見ました。
「この八万円は、もう払ったのか」
「はい。実際に訪問したそうです」
「何人で?」
「保護者の代表者と子供たち、合わせて三十人です」
「先生一人に記念盾を渡すのに、三十人で行く必要があったのか?」
「……あ」
私は止まりました。
確かに。
後日訪問する必要があったとしても。
三十人全員で行く必要があったのか。
少人数なら、もっと安く済んだのではないか。
そこは考えなければなりません。
「損害賠償ってのはな」
相馬先輩が言いました。
「相手が悪けりゃ、請求した額が全部通るって制度じゃねえ」
「はい……」
「相手の責任も調べる。こっちの事情も調べる。それが公平ってもんだ」
私は頷きました。
「じゃあ、八万円については?」
「請求の根拠と、金額の合理性を分けて整理する」
「なるほど」
「争いが残るなら、弁護士へ渡す」
そうです。
私たちは行政書士。
相手との法律紛争について、代理人として損害額を取り決めることはできません。
だからこそ。
争点を正確に整理する。
証拠をそろえる。
本人が何を請求したいのか確認する。
そして必要なら、弁護士に引き継ぐ。
「さて」
相馬先輩が言いました。
「最後の資料だ」
「何です?」
先輩が取り出したのは、注文書の裏面でした。
「これを見ろ」
私は覗き込みました。
そこには、小さな文字。
――納品期限に遅延した場合、遅延に関する損害賠償額として金二万円を支払うものとする。
「……二万円?」
「そうだ」
「契約に、書いてあったんですか?」
「ああ」
私は思い出しました。
賠償額の予定。
民法四百二十条。
債務不履行があった場合の損害賠償額を、あらかじめ決めておく制度。
「これ!」
私は声を上げました。
「履行遅滞については、損害賠償額を二万円と予定していたんですね!」
「そういうことだ」
「だったら、二万円分の損害を証明しなくても――」
「その前に」
片桐所長が声をかけました。
「その条項が、どの損害を対象にしているか確認しなさい」
私は文章を読み直しました。
――納品期限に遅延した場合。
――遅延に関する損害賠償額。
なるほど。
「腐った弁当や記念盾の損害まで、全部まとめて二万円と決めたわけではありませんね」
「そうだ」
所長が頷きました。
「賠償額の予定があるからといって、あらゆる契約違反について自由に二重取りできるわけでもない」
「はい」
「文言と契約内容をよく見ろ」
私は頷きました。
今回、納品遅延に関する二万円は、比較的明確な請求の根拠になります。
しかし。
遅延によって発生した軽食代まで、それとは別に当然請求できるかは、条項の射程と重複の問題があります。
そして。
腐敗した弁当についての責任。
記念盾の履行不能についての責任。
こちらは、別に整理しなければなりません。
「所長!」
「何だ」
「債務不履行って、三種類に分けるだけじゃ終わらないんですね」
「そうだ」
「どの義務を破ったかによって、損害も変わる」
「うん」
「損害の範囲も、証明すべきことも違う」
「そのとおりだ」
私は少し興奮しました。
法律が、つながり始めています。
履行遅滞。
不完全履行。
履行不能。
損害賠償。
通常損害と特別損害。
過失相殺。
賠償額の予定。
全部、別々に暗記していた言葉です。
でも。
現場では。
一つの事件の中で、全部が関係してくるのです。
「よし。書くぞ」
片桐所長が言いました。
「はい!」
私は原稿用紙を机に置きました。
内容証明郵便。
これが、今回の反撃です。
ただし。
所長は最初に、和代さんの意思を確認しました。
「請求の内容を一緒に確認します」
「はい」
「争いがある部分については、弁護士へ相談することも考えましょう」
「……はい」
「私たちは、あなたの代わりに相手方と紛争の交渉をすることはできません」
「分かりました」
「そのうえで、ご本人の意思による通知書を作成します」
和代さんは深く頷きました。
「お願いします」
こうして。
私たちは証拠に裏付けられた内容証明の原案を作り始めました。
相馬先輩が、私の文章を読みます。
「第一。注文書により、弁当百個及び特注記念盾一個の納品契約が成立した」
「はい」
「第二。弁当については、六月十二日午前十一時三十分までに納品すべきところ、午後二時に納品された」
「はい」
「第三。右遅延については、契約書記載の賠償額の予定に基づき、金二万円を請求する」
「はい!」
相馬先輩が頷きました。
「続けろ」
「第四。納品された弁当百個のうち三十個には腐敗の徴候があり、食用に供することができない状態だった」
「証拠は?」
「保護者会役員三名と会館管理人の事実確認書です」
「よし」
「第五。これは契約で予定された品質に適合しない不完全な履行であり、当該三十個について生じた損害の賠償を求める」
「金額は?」
「三万六千円を請求額の基礎とします。ただし、実際の損害額については、代替食の費用や重複を考慮して整理します」
「いい」
私は少し嬉しくなりました。
次。
「第六。特注記念盾は、貴店が管理する倉庫において破損し、引渡しが不能となった」
「うん」
「第七。保管棚に以前から転倒の危険があり、固定等の措置が講じられていなかった事情からすれば、貴店に帰責事由が認められる可能性が高い」
「よし」
「第八。よって、特注記念盾の履行不能により生じた損害につき、民法四百十五条に基づく賠償を請求する」
相馬先輩が頷きました。
そして。
「第九。なお、記念盾が当日納品されない場合、指導者への後日訪問に伴う交通費が生じ得ることは、発注時に通知済みである」
私は証拠の写しを指しました。
「大黒屋の署名押印があります!」
「そうだな」
「第十。この事情に基づく損害についても、民法四百十六条に照らし、合理的な範囲で賠償の対象となり得ることを通知する」
私は読み終わりました。
「……どうでしょう」
片桐所長が目を通しました。
そして。
赤鉛筆を取りました。
……。
嫌な予感。
「ここ」
「はい」
「『特別損害八万円全額を当然に支払う義務がある』」
「あっ」
赤線。
「断定するな」
「……はい」
「特別事情を知っていたことは重要だ。だが、支出額がすべて当然に賠償対象となるわけではない」
「はい」
「必要性と相当性が争点になる」
所長は、さらに指摘しました。
「ここも」
「はい」
「『支払わなければ必ず財産を差し押さえる』」
「……駄目ですか」
「駄目だ」
赤線。
「内容証明を送っただけで、差押えができるわけではない」
「そうでした……」
「裁判等の手続が必要になる。俺たちは、その訴訟代理人にはなれない」
「はい」
所長は原案を机に置きました。
「法律で脅すな」
「……はい」
「法律上の結果を、正確に示せ」
私は顔を上げました。
所長は続けます。
「相手を怖がらせるために、できもしないことを書くな。事実と法律だけで十分だ」
……なるほど。
内容証明の怖さは。
脅迫めいた言葉ではない。
正確な事実。
正確な条文。
そして、相手が反論しようとしたとき、自分の説明に矛盾が生じること。
そこにあるのです。
「書き直します!」
私は原稿用紙を引き寄せました。
そして最後に、こう記しました。
――以上の各債務不履行について、通知人は、契約書及び関係証拠に基づき、損害賠償並びに既払代金の精算を求める。
――本書到達後十四日以内に、各請求に対する見解を文書にて回答されたい。
――任意の解決が得られない場合には、弁護士に相談のうえ、訴訟その他の適切な法的措置を検討する。
差出人。
田辺和代。
私は筆を置きました。
「できました!」
相馬先輩が読んで、頷きました。
「いいじゃねえか」
「本当ですか!」
「ああ」
片桐所長も、静かに言いました。
「これなら、相手は三つの不履行について、それぞれ説明しなければならなくなる」
私は書面を見つめました。
遅れた理由。
腐った原因。
壊れた事情。
予定された損害賠償。
特別事情の認識。
それぞれに証拠がある。
もう。
「忙しかった」
「百個届けた」
「事故だった」
それだけでは済みません。
相馬先輩が笑いました。
「こはる」
「はい?」
「これが、書類の仕事だ」
私は大きく頷きました。
内容証明郵便を発送して、五日後。
事務所の電話が鳴りました。
「はい、片桐行政書士事務所です!」
『……黒田だ』
あの声。
大黒屋の店主です。
私は思わず背筋を伸ばしました。
「黒田様ですね」
『片桐さん、いるか』
「少々お待ちください」
私は所長へ受話器を渡しました。
「片桐です」
『あのよ……』
電話の向こう。
黒田の声は、以前とはまるで違っていました。
『あの書面、何なんだよ』
「田辺様ご本人からの通知書です」
『弁護士に見せたんだ』
「そうですか」
『……やべえって言われた』
私は、思わず顔を上げました。
『弁当が遅れた件は、契約書に二万円って書いてあるしよ』
「はい」
『腐ってた三十個も、うちの従業員が状態を確認したって言ってるし……』
黒田は一度、言葉を止めました。
『盾の件も、棚が危ないって前から分かってたのを、従業員が知ってて……』
私は相馬先輩を見ました。
先輩は黙って頷きます。
『しかも、先生が引っ越すから当日渡さないと困るって、俺が署名した紙まで出てきやがった』
……。
出てきやがった。
って。
自分で署名したんでしょう。
『弁護士に言われたよ』
黒田の声が小さくなりました。
『このまま争えば、こっちにも相当なリスクがあるって』
片桐所長は静かに聞いていました。
『……裁判なんか、したくねえんだ』
「そうですか」
『金を返すから、何とかならねえかな』
私は受話器を見つめました。
あの黒田が。
返金する、と。
でも。
所長は金額の交渉を始めませんでした。
「返金等のお考えがあるのでしたら、田辺様ご本人へ、その内容を書面でお伝えください」
『あ、ああ』
「当事務所は、紛争の示談交渉を代理する立場にはありません」
『分かったよ……』
「争いが残る場合は、双方それぞれ弁護士に相談されるのが適切でしょう」
『……分かった』
電話が切れました。
私は思わず言いました。
「所長!」
「何だ」
「黒田さん、折れましたね!」
「まだだ」
相馬先輩が言いました。
「え?」
「実際に金が戻って、書面が整ってからだ」
……そうでした。
口で何と言おうと。
現実に履行されなければ、まだ終わりません。
まさに。
債務不履行の事件らしい教訓です。
その後。
黒田から和代さん本人へ、書面が届きました。
大黒屋が、責任を認めた内容でした。
――納品遅延に関する契約上の予定賠償額二万円を支払う。
――食用に供することができなかった弁当三十個分に相当する三万六千円を支払う。
――特注記念盾については、既払代金三万円を返還し、追加の履行不能損害については協議する。
――後日訪問費用については、当店に事情の認識があったことを認め、合理的な費用負担に応じる意思がある。
和代さんは、その書面を持って事務所を訪れました。
「……こんな返事が来ました」
私は目を通しました。
相手は、当初の態度を変えています。
ただし。
後日訪問費用については、まだ金額の問題が残っています。
そこは、本人が紹介を受けた弁護士に相談することになりました。
そして。
弁護士による助言を受けたうえで、和代さんと黒田は直接、最終的な精算内容を確認しました。
大黒屋は、納品遅延と食用不能の弁当に関する五万六千円を支払い、特注記念盾の代金三万円も返還。
後日訪問費用については、必要性や金額について双方が資料を確認し、四万円の支払いで合意したそうです。
合計。
十二万六千円。
もちろん。
法律上、最初からこの金額が自動的に確定していたわけではありません。
当事者が互いに確認し、合意した結果です。
でも。
あれだけ強気だった黒田が。
自分の署名押印した書面を差し出し、実際に支払った。
それは、大きな変化でした。
「所長」
私は言いました。
「勝ちましたね」
片桐所長は静かに答えました。
「少なくとも、責任を曖昧にしたまま終わらせずに済んだ」
「はい!」
相馬先輩が確認書を指で叩きました。
「ほらな」
「何ですか?」
「世の中、声がでかい奴じゃなくて、書面にハンコを押させた奴が勝つ」
「今回も、それですね」
「そういうことだ」
私は笑いました。
でも。
本当にそう思います。
最初、黒田は言いました。
――弁護士じゃないんだろ。
――俺から金を取り立てられないだろ。
確かに。
行政書士は、訴訟代理人にはなれません。
紛争の示談交渉を引き受けることもできません。
でも。
だから、できる仕事がないわけではない。
契約書を確認する。
事実を記録する。
証拠を整理する。
本人の請求内容を正確な書面にする。
そして。
必要なときに、弁護士へ適切に引き継ぐ。
その積み重ねが。
相手に、自分の責任と向き合わせたのです。
一週間後。
和代さんが、子供たちから預かったという小さな包みを持ってきました。
「これ、皆さんに」
「何でしょう?」
開けてみると。
手作りのクッキー。
そして、一枚の色紙。
――ありがとうございました!
子供たちの名前が、たくさん書かれていました。
「実は、先生にもう一度会えたんです」
和代さんが笑いました。
「藤井先生ですか?」
「はい」
後日、保護者会の代表者と子供たちが、先生を訪ねたそうです。
予定していた記念盾は渡せなかった。
でも。
子供たちが新しく作った手紙と、合唱の録音テープをプレゼントした。
「先生、とても喜んでくれました」
和代さんの目が潤みました。
「弁当のことも、記念盾のことも、悔しかったんです」
「……はい」
「でも、あのお店にちゃんと責任を認めてもらえて、少し気持ちが落ち着きました」
私は頷きました。
「本当によかったです」
「お金がすべてじゃないんです」
和代さんは言いました。
「でも、子供たちのために集めたお金を、あんなふうに扱われたままにしたくなかった」
……。
私は、その言葉を胸にしまいました。
十二万六千円。
数字だけ見れば、お金の問題です。
でも。
その中身は違います。
子供たちの昼食。
保護者が集めた会費。
十年間指導してくれた先生への感謝。
失われた時間。
そして。
約束を信じた人たちの気持ち。
民法は、壊れた記念盾を元どおりにはできません。
過ぎ去った発表会を、やり直すこともできません。
でも。
約束を破った責任を曖昧にせず、損害を金銭で埋め合わせる仕組みを用意している。
それが、債務不履行による損害賠償なのです。
夕方。
事務所に戻ると、私はノートを開きました。
そこには、三つの言葉。
履行遅滞。
不完全履行。
履行不能。
「……先輩」
「何だ」
「債務不履行って、最初は簡単だと思ってました」
「ほう」
「契約を守らなかったら、損害賠償」
「うん」
「でも、全然そんな単純じゃないんですね」
相馬先輩が笑いました。
「分かったか」
「はい」
私は指を折りました。
「まず、約束した義務の内容」
「うん」
「それを、どう履行しなかったのか」
「うん」
「責任を負うべき事情があるか」
「そうだ」
「損害は何か」
「うん」
「その損害が、どこまで賠償の範囲に入るか」
「よし」
「それから、依頼人側の過失や、賠償額の予定があるかも確認する」
相馬先輩が頷きました。
「大事なところだな」
片桐所長も、帳簿を閉じました。
「こはる」
「はい」
「今回、一番大切だったことは何だ」
私は少し考えました。
期限までに届ける。
きちんとした品質で届ける。
約束した品物を渡す。
そのどれもが、契約の内容です。
そして。
破られた約束を、ひとまとめにしてはいけない。
「……何を約束して、何が守られなかったのか。その違いを見抜くことです」
所長が頷きました。
「そうだ」
私は続けました。
「約束を破った人にも事情はあります。でも、ただ『仕方なかった』と言えば責任を免れるわけではない」
「うん」
「逆に、約束を破られた側も、好きなだけ賠償を請求できるわけじゃない」
「そのとおりだ」
私はノートに書きました。
――債務不履行は、「遅れた」「不十分だった」「もうできない」を区別し、責任と損害を証拠で結ぶ。
今日の教訓。
これなら忘れません。
「先輩!」
「今度は何だ」
「民法って、本当に面白いですね!」
「またそれか」
「だって、たった一つの事件で、こんなにたくさんの論点が出てくるんですよ!」
「お前は試験問題でも解いてるつもりか」
「半分くらいは!」
「依頼人の人生を試験問題にするな」
「……はい」
私は少し反省しました。
そうです。
これは、ただの勉強ではありません。
人の生活です。
誰かが困っている。
誰かが約束を破った。
誰かが損をした。
そのとき。
法律が何をできるのか。
そこを考えるのが、私たちの仕事なのです。
そのとき。
事務所の電話が鳴りました。
「はい、片桐行政書士事務所です!」
『あのう……』
年配の男性の声でした。
『貸したお金を、返してもらえないんですが……』
私は顔を上げました。
「お金ですか?」
『はい。百万円ほど』
「返済期限は?」
『先月末です』
「……過ぎていますね」
『でも相手が、こう言うんです』
男性は困った声で続けました。
『工場が火事になって、金がなくなった。だから不可抗力だって』
……。
私は止まりました。
不可抗力。
工場が火事。
お金がない。
……あれ?
物を引き渡す約束なら。
目的物が壊れて、履行できなくなる場合があります。
でも。
お金を支払う義務は?
「先輩!」
「何だ!」
「お金がなくなったら、履行不能になるんですか!?」
相馬先輩は、こちらを見ました。
そして。
にやりと笑いました。
「ならねえよ」
「ですよね!」
「金銭債務には、特別なルールがある」
私は受話器を握り直しました。
そうです。
民法四百十九条。
金銭債務の特則。
たとえ不可抗力があっても、金銭債務の遅延による損害賠償責任を、それだけで免れることはできない。
「それと、こはる」
「はい?」
「貸した金の遅延損害金について、まず確認することがある」
「何ですか?」
「利率だ」
「利率……」
「昭和六十三年の民法の法定利率、何パーセントだ?」
私は反射的に答えかけました。
「年三……」
……。
あ。
危ない。
現代の法定利率。
改正民法。
令和の知識です。
でも。
今は昭和六十三年。
旧民法の時代です。
「……年五パーセントです!」
私は言い直しました。
「民事法定利率は年五パーセント!」
相馬先輩が頷きました。
「そうだ。ただし、約定利率や適用法令も確認しろよ」
「はい!」
私は思わず胸を撫で下ろしました。
危なかった。
また未来の法律を持ち込むところでした。
でも。
今回は、間に合いました。
「先輩!」
「何だ!」
「私、少し成長しました!」
「自分で言うな!」
「だって、条文の時代を確認できたんですよ!」
「当たり前だ!」
私は笑いました。
昭和六十三年。
民法は、現代とは少し違う顔をしています。
古い条文。
難しい用語。
改正前の制度。
でも。
その根っこにあるものは、同じです。
約束を守る。
約束を破ったら、その責任を考える。
そして。
損をした人を、できる限り公平に救う。
当たり前のようで。
実は、とても難しいこと。
だからこそ。
私は、法律を学び続けたいのです。
「お電話、ありがとうございます!」
私は受話器に向かって言いました。
「まず、借用書と返済期限、それから相手の説明を詳しく確認させてください!」
相馬先輩が頷きます。
片桐所長は、静かに六法を開きました。
次の事件も。
きっと、一筋縄ではいかないでしょう。
でも。
もう、約束という言葉を軽く見ることはありません。
だって。
たった一つの約束の裏には。
誰かの財産があり。
誰かの生活があり。
誰かの願いがある。
そして。
それを踏みにじる人間に、民法は問いかけるのです。
――あなたは、何を約束しましたか。
――その約束を、どう守りましたか。
その二つに、まともに答えられない相手なら。
内容証明の一枚が。
どんな怒鳴り声よりも、重く響くことがあるのです。
以下に私の作品へのリンク貼ってます。是非、手に取って頂ければと思います。また、ついでに評価ブックマーク頂ければ幸いです。




